灯
さしたる理由もなく時を過ごす。明日があるという幻想を夢見て過ごす螺旋の様な日々に憂いはなく、また甘美である。だが、人の過ごす時には限りがあり、描く螺旋の軌道はあまりにも余分が多い。
気が付かないが故に骨の髄まで侵され、真綿で首を絞める様に緩慢に死に至らしめる。眠るような死に誰一人その恐怖を理解することはない。日常とは無毒という名の毒だ。
漫然と生きている事に気が付いたのはいつからだろう。
何も為すことはない。初めは気に留めたことさえ忘れるほどの小さなしこり。けれど、形のない漠然とした不安はゆっくりとけれど確実に大きくなっていく。年を重ね、経験を積み、知恵をつけ、その漠然とした不安であったはずの不安を理解してしまった。
何も為さないという事は、自我が「日常」という名の毒の内に消えるという事だと
何も為さないという事は、自分という存在が完全に消失する事であるという事だと
誰がその虚無感に耐えられるだろうか?
僕には耐えられなかった。耐えられる筈が無かった。だって、僕という存在が消えるということは、努力は何も実を結ばず、誰の記憶にも留まらず、居たという証さえ消失するという事だ。自分が無価値に返るという、その壮絶なまでの虚無感への恐怖に誰が耐えられるだろうか。
嫌だ。
今まで、何一つ為さなかった事を悔いた。度し難い焦燥が身の内に宿る。せめて何か一つで良い、一つで良いから残したい。自分がいた証を。ここにいたのだという証を。確かな証明を。
けれど、どうやって?
何かを為そうと走りまわり、寝る間を惜しんで仕事をし、持てる熱意を注ぎ込んだとして、いったい「日常の風景」と何が変わるのだろうか。何一つ変わらない。自分が居なくなれば、その存在証明はあっさりと消失する。社会という歯車は空隙を許さない。自分が居なくなり空いた席には次の誰かが収まり、社会は延々と回り続けるのだ。輝かしい栄光も過去の栄華の一部となって消え失せ、歴史に名を刻んだ偉人でさえ、ただの名前に成り下がる。
僕は……… 一つだけ決意した。
全て無価値に返るというのなら
価値のない僕は「僕」という存在を消す事にしよう。
取るに足らない無価値な物が無くなった世界というのは、今よりも少しだけ軽くて美しいものになっているはずだ。それは僕という無駄な物が無くなったからで、無価値な僕が消したのであれば、その時に「世界が美しくなったのは僕のお陰だ」いえるのではないだろうか。美しい世界は「世界」がある限り延々に続く。それはきっと永遠だ。無価値な僕は無価値な僕を消す事によって初めて無価値ではなくなれるのだ。
まるで夜風を楽しむための散歩に来たかのような格好で鬱蒼と茂る森の入口に立つ。昼間でも十分に日の届かない森は満月の夜には漆黒の闇を湛えている。まるで、巨大な生物がぽっかりと口を開けているかのようだ。調度いい、禍々しい光景に少しだけいびつに頬を歪め、歩を進める。
軽装で来たためか、肌を撫でる空気が冷たい。まるで生きている自分から生気を吸い取ろうとしている亡霊たちの群れの中にいるようだ。思わず笑いそうになる。自らの存在を消しに来た人間から、どうして生気が抜けようか。ここにあるのは人の形を模した、ただの人形だ。
当てなどない。ただ自らに相応しい場所を求めてさまよっている。
ざくざくと草を掻き分けて、けもの道ともいえない道なき道を歩く。静かな森はあらゆる音を虚空へと吸い込むたむ。聞こえるのは自らの足音と呼吸の音だけ。それも、すぐに闇夜に溶ける。見上げれば不気味な木々の声に紛れて闇夜の中に潜む梟の爛々とした双眸が星のようだ。
どれくらい歩いたか。時間の感覚のないまま歩んでいると、ふと、薄ぼんやりとした明かりが見えた。元より日光が届かないほどの森だ、掬い取れそうな程の暗い夜道ではライター程度の明かりでさえひどく目立つ。
近寄るか、近寄るまいか。僅かに思案し、何を迷う必要があるのかと結論付ける。これから消える身が何を躊躇う必要があるというのか。足先をユラユラと揺れる光源へと向ける。たき火の明かりかと思いきや、揺れる炎も揺らめきながらこちらへと寄ってきているようだ。一向に燃え広がる様子がない様子を見ると単純な炎という訳でもないようだ。
「こんばんは。 明かりをご所望ですか?」
明かりの持ち主は目の前までやってくると微笑んだ。
見た目は年端も行かぬ女の子だ。お世辞にも綺麗な身なりとは言えず、顔は僅かに泥で汚れ、身に着けている薄地の半纏も所々破れている。奇妙と言えば確かに身なりも奇妙だが、元より場所が場所である以上身なりに拘らない人間が居てもおかしくない。
しかし、明かりだけは持っている。いや、明かりを持っているという表現はどこかおかしい。なぜなら、持っているのではなく彼女の痩せた腹から、その内に淡い炎を宿したように明かりを発しているからだ。
「君は………誰?」
「あ、すいません。 人に会えたのが嬉しくって、つい。 物を言うなら先に名乗らないと駄目ですよね。 申し遅れました。 私は見ての通り、提灯おばけです」
あはは、と少しだけ恥ずかしそうに笑い、それから、ぺこりと頭を下げて自己紹介をした。その仕草は年相応の疑う事をまだ知らぬ少女の物だ。そのためか、明らかに人間ではないその様子の割にはあまり不気味とは感じなかった。
「あー…… 提灯お化けというのは、提灯の付喪神です。名前に神とは付いて偉そうな名前を頂いてはおりますが、平たくいえば長い年月を経て自我を持った提灯です。自我を持って神格化されたとしても、元より提灯の私にできる事と言えば照らす事だけでございます。このボロ提灯、貴方様を驚かせたくてやってきたわけではございません。"暗い"と思われた貴方様のお役に立てたらと思い馳せ参じた次第でございます。無理にとは言いません。けれど、どうか私めを哀れだと思うのでしたら明かりとして使って頂けないでしょうか?」
化け物は正体不明だからこそ恐怖するというのに、自ら名乗り上げる奇妙奇天烈な妖怪に少々面喰っていると、相手も違和感を感じたのご丁寧に更に説明を重ねてきた。
妙に時代がかった口上を述べ再び頭を下げる。顔を上げる様子はなく、ただ頭を下げたままピクリとも動かなかった。どれほどの齢を重ねているか分からないが、見た目はボロを着た少女だ。そんな少女に頭を下げさせるというのは、流石に気が引けた。かと言って、何も言わなければ彼女はそのままだろう。
仕方ない。
「分かった。 短い間だけ頼めるか?」
「本当ですか? ありがとうございます!」
彼女はニコリと提灯の名に相応しい笑みを浮かべ心底嬉しそうに喜んだ。これほど喜んでもらえるのなら確かに嬉しい。
「どんな場所がご所望ですか?」
「そうだね……… ご神木のような、ここらへんで一番古い木がある場所に連れて行ってくれるかな?」
「はい、分かりました。 ご案内させて頂きます」
クルリと舞うように踵を返すと、首だけで振り返って訊ねた。
行先など無かったけれど、先導するというのならやはり行先を告げなくてはなるまい。僅かに思案し答える。深い考えはなかったけれど、そこなら場所として十分だと思ったからだ。
もっとも道中、提灯の癖に早々に黙々と先導するのに飽きたらしく、もっぱらしゃべり続けていた。自分の友人(提灯?)は良い所の御屋敷に貰われて行ったお蔭で歴史の教科書に載ったとか、雷門の提灯は図体ばっかり大きくてどうやって使うのか分からないとか、でも、提灯を作っている人間は中々見どころがあるとか。
その話している様子は付喪神の一種ではなく、実はしゃれこうべの類ではないかと疑ってしまうほどだ。もっとも、物語の商人のように人を殺して埋めて金品を奪うようなこともしていないし、またそこまで人に恨まれるほどの事は心当たりがない。
「む……… 私の事、疑っていますね?」
こちらの様子に気が付いたのか、ジロリと湿り気を帯びた視線を送ってきた。背中に目でもあるのではと思うほどの鋭さに、無意識に目を逸らしてしまったのが余計にまずかった。ぐいっと近づくとむくれたような表情を作り、しばらく若干潤んだ瞳で睨んだ後、やがて諦めた様に溜息をついた。
「まぁ、無理もありませんけどね……… ボロ提灯がいきなり現れて明かりとして使ってください、なんて言ったらおよそ信じてもらえませんからね。 その点でお願いしただけで、深く聞かず私を使う事を引き受けて頂いたのは器の広い大人物だと思いますよ?」
「………」
「………もしかして、今更になって見返りに何を取られるとかビクビク考えていらっしゃる御茶目さんだったりしますか?」
図星といえば図星である。
もとより何もない身であったので何を取られても後悔するとは思えないけれど、人と契約するのならまだしも、未知の物と契約するには些か軽率だったかもしれない。魂というものは信じてはいないけれど、魂を取られるとかだとしたら流石に恐怖心はある。
「……っと言っても、強いて言うのなら私を使っていただけるというのが私にとっての最高の見返りなんですけどね」
「というのは?」
「あはは……… 私は恥ずかしながら魔力の貯蓄が無いんですよ。なので、この人間と対話できる形で存在するためには存在を維持するために別途の方法を用意しなければならないんです。動物で言うのなら生きていくためには栄養が要るのと同じですね。普通は自分の中である程度の栄養を持っているのですけど、私の場合はどこからか供給しなければならない。平たく言えば"必要"と思っていただける方の思いを糧に自分を維持しているんです」
「へぇ……」
「こんなご時世に私みたいな明かりを望んでいただける方というのは貴重ですよー? ですから、使っていただけるという事は私にとっては、これ以上何も頂かなくても十分なぐらいのご褒美なんです」
「そうなんだ」
そうですとも、とコクンと頷き屈託なく笑う。無邪気で屈託のない笑み。
けれど、どうしてそんな笑みが浮かべられるのだろう。そんなのは嘘だ。例え自分が明かりを提供するだけのために生まれたからと言って、誰かのために使われる人生を送りそれだけで良しとできるはずがない。
自我があるのなら自我を捨てることなんてできないし、また自我を与えられた責務だけを全うするだけの道具として割り切ることなんてできやしない。それは自己を自分自身で否定してしまうからだ。
「生まれてからずっと提灯だったんですけど、私もほとんどお役に立てる機会というのはなくて……… っと、どうしました?」
「あ、いや。 なんでもないよ」
「うーん…… そうですか? なら良いんですけど」
不思議そうに見返していた提灯に言葉を返す。提灯お化けはあまり深く考える様子もなく再びザクザクと夜道を歩き始めたので、僕もすぐに後について歩き始める。
ユラユラと目の前で炎を揺らしながら歩く彼女はなんとなく頼りない。確かにおぼろげに周囲は照らせてはいるものの、それも僅かに障害物を避けられる程度で下手に目が明るさに慣れてしまう分、周囲が暗く感じる。
「それにしても、私を使っていただける方が現れたのは本当に久しぶりですね」
「そんなに?」
「えぇ、良縁には、なかなか恵まれなかったもので…… 貰い手が現れるまで大分倉庫に眠っていましたし、良い貰い手が現れたと思ったら今度は人の良さが祟って騙されてしまいましてね。 結局、私が使われたのは僅かな間でしたよ。 私の事を随分と気に入っていただいて下さったのに、残念でした」
本当に良い方でしたんですけどね………
彼女は立ち止まり、小さく呟やいて光無き夜を眺めている。声を掛けることもできずに、僕はただ提灯を見つめていた。
「提灯なのに暗くて湿っぽい話しちゃいましたね。 暗いのは夜道だけで十分! 照らすのは私の役目。 さ、行きましょう。 そろそろですから」
気持ちを切り替えるように彼女は笑みを浮かべ、それから再び歩み始めた。星明りさえ届かぬ無明の闇を彼女は臆せずに進む。それこそ、この世界が彼女と自分を置き去りにして無くなってしまったかのようにさえ思える。なんて孤独。
彼女はこんなところに一人ぼっちでいたのだろうか。あまりにも虚無過ぎて、今にも泣きだしてしまいそうだ。けれど、前を歩き楽しげに話す。
道なき道を進むと少し開けた場所に出た。
そこに一本だけ木が生えている。ぼんやりとした明かりでは、その高さを窺いしることはできず、両手を広げても半分も届かない。威風堂々たる姿であると同時に、全てを受け入れるような不思議な優しさが同居している。
その老木の傍らにひっそりとボロの切れ端が立てられている。提灯おばけは、トテトテと近寄ると膝を着いて手を合わせた。どうやらそれは………
「主様、仰る通りでしたよ。 貴方が私を使って下さらなかった分も確かに使って頂きました。 もう自分を責める必要も、私を労わる必要もありません。 どうぞ、ゆっくりとお休みになって下さいませ」
彼女は心底満足そうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと振り返る。真っ直ぐにこちらを見つめ、それから頭を深々と垂れた。
「どうもすみません。 私の主がまだ迷っていたようなので、これできっと迷う事もないでしょう。 ここが、貴方のご所望の場所です。 どうですか? 気に入っていただけたでしょうか?」
「そうだね………」
………これ以上、道案内は要らないよ、とは言えなかった。
言ってしまえば、彼女は再び一人になる。例え一時の縁であったとしても、この少女をこんなに光の無い絶望に再び落とす事なんてできやしない。偽善であるのでは分かっていても、ここは別れの言葉を言うべきではないのだろう。
「本当に…… 迷う事もないのですね?」
僅かに待っていたものの彼女は悲しそうな笑みを浮かべ、それから頭を下げてから背を向けた。
遠ざかる灯火。ボロの背中だ。今にも崩れそうな程に頼りない。それでも、真っ直ぐに歩こうとする。
「必要とされなければ、存在できないんだろう?」
だから、思わず背中合わせに声を掛けてしまった。
足音が止まる。
「はい。魔力の貯蔵の無い私には"想い"が無ければ存在を維持できません」
あっさりと彼女は答えた。
「僕が必要としなくなったら、君は一体どうなるんだ?」
「ただのボロ提灯に戻り、また"必要"とされる人が現れるのを待つでしょう」
「今の時代、こんな場所では"明かり"を必要とする人も多くはない」
「そうですね。今の時代は昔に比べて随分と便利になりましたから」
「なら、君は次はいつ化けて出られるんだ?」
「分かりません。一年後か、十年後か ……それとも、朽ちるのが先か」
「………辛くはないのか?」
「はい、とても辛いです」
「なら、ならどうして………」
重なる問いに彼女は淡々と答える。
だなぜ迷う事なく答えを口にできるのか。
彼女はこんなにも孤独なのに。誰にも知られず、無価値に消えるのはあんなにもおぞましいのに。ここに居たのだという証拠さえ失われてしまうのはあんなにも恐ろしいことなのに。辛いのなら、なんで逃げようとさえ思わないのか。なぜその絶対の否定を前にして尚、怯える事なく言葉を紡ぐ事ができるのか。
振り返って……… 後悔した
振り返らなければ僕はこんなにも自分が醜くもがいている姿を直視する必要はなかっただろう。こんな苦しみを延々と抱いて彷徨う事もなかっただろう。そうか、とたった一言述べて彼女と別れればよかっただけだった。そうすれば、甘い夢の中で眠りにつく事ができたのに。
彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。淡く儚げな微笑、その瞳の奥には凛とした確固たる強さを持つ。迷いはない。初めから迷いが無かった訳ではない。多くの悩みを経て、幾多の苦しみと挫折を乗り越えて、やっと導き出した解答を持つが故の迷いなき意思が宿る。
「だって、貴方が居たじゃないですか」
静かにけれど確かに、息をするような自然さで、何の気負いもなく告げた。
それで十分、という言葉にどれほどの重みがあったか。悩む事から逃げた僕は知らない。
道を照らす。ただそれだけが彼女の役目。今の時代、それがどれほど役に立つだろう。夜でさえ明るい街で誰がそんなことを望んでくれるというのか。ただ朽ちていく身体を抱え、ひたすらに求める人間を待つ。
その結果、残るのは………数える程の出会った人間の記憶のみだ。偉業など一つもない。そんなに頼りない物を自らの生きた証として決めたのは、迷わぬように照らし、微笑んで送り出すと決めた彼女の生き方そのものだ。
自らの身を挺して人を導き、自らの思いを人に託す。おぼろげで頼りないことこの上ない。けれど
けれど、それは彼女の主が彼女に伝えた確かな灯
誰が彼らの生きた証を踏みにじれるだろうか。
彼女がボロ提灯で良かった。
今は、きっと情けない顔になっているに違いない。
どれほど、僕はそうしていただろう。彼女は笑う事も慰めることもせず、ただ待っていてくれた。顔を上げると優しい微笑みを向けてくれた。あぁ、この子は本当にいい子だ。
「悪いけど………もう一度、明かり頼む事ってできるかい?」
「もとよりこの身は照らすための物。 喜んで引き受けさせて頂きます」
今は迷いだらけ、これから挫折も苦しい事もああるだろう。けれど、全部吹っ切れた。何もないのなら、それはありのままの自分だ。悩みも苦しみも痛みも全部自分自身の大切な自分の経験になるはずだ。
何かを為すというのは歴史に名を残す事ではないし、人よりも優れた業績を残す事でもない。歴史は常に過去の栄光であり、優れた業績は新たな業績によって朽ち果てる。迷っても躓いても間違っても良い、必要なのは自分自身で「歩んだ」と胸を張って言える事だ。そして、誰か一人でも記憶に留めて「伝えたい」と思ってくれることこそが、これ以上の賞賛であり、また比類なき偉業はないのではないだろうか。
二人は無言で歩いていく。来るときに歩んだ道は、まだ新しい靴跡が残っていた。僕は迷い、寄り道をしながらも確かに歩んでいる。
森を抜けた先に、東の空は僅かに白んでいて朝日を迎えようとしていた。
「朝日が昇って来てしまいましたか。名残惜しいけどお別れですね………」
森の入口で彼女は足を止めた。僕は道路の脇に立って振り返る。まだ僅かに残る闇にその身を浸し、最後まで自らの責務を全うするかのようだった。
「君はどこに行くんだい?」
「どこにも行きません」
「君は消えるのかい?」
「私は消えません。ただ"ある"だけです」
「もう一緒に居られないのか?」
「昼間の提灯は昼行灯ですから」
帰路の間は無言だった空白を埋めるように問答を繰り返す。しかし永劫に続ける事はできない。彼女の提灯は道を照らす物であって、眺めるものではないから。そっか、と呟くと。そうです、と静かに返した。
「……また、会えるかい?」
「……明かりを望んでいただければ」
困ったような笑みを残して問答は終わる。語り合うには短く、日の出を迎えるには長すぎた。お化けは太陽の下では生きられない。彼女の姿は溶けるように薄くなっていく。
「ありがとう」
「いいえ、とんでもない」
日が昇る。残る闇も消えてゆく。最後まで彼女は僕を見送り、微笑む彼女を僕は見送った。後に残るのは朽ちかけた提灯だけ。
僕は、そっとそれを優しく撫で帰路へと着いた。
振り返る必要も、迷う必要ももうない。
明かりは、確かにこの胸に宿っているから。
…………
あの寄り道から結構な年月が経った。
僕は今なお螺旋という日常の中を生きている。
いつか自分はこの螺旋の内に消える。自分が消えるというのは、まだ怖い。一生かけても拭えないと思うし、経験と知識を蓄積すればするほど恐怖は強くなるだろう。
けれど、それは乗り越えられる自信がある。
自分は消えるかもしれないけれど、自分が歩んだという事実は消えない。その歩んだという事実を見て、それを引き継いでまた歩んでくれる誰かがいてくれるのなら確かに僕は残っている。僕は螺旋の一部になり、螺旋は更に高みへと続いていくから。
「明莉」
「なに?」
妻の名前を呼ぶと、彼女はひょっこりと隣の部屋から顔を出した。ちょんと髪をてっぺんで縛り、所々繕ってある半纏を着ているという奇妙な出で立ちをしている。新しい服を買ったらと勧めても「直した方が味が出るでしょ?」などと言う独特の美的センスには思わず苦笑してしまう。
「なんでもないよ。 顔が見たくなっただけ」
「まーたー…… 忙しいんだから、用も無いのに呼ばないでよ」
「でよー」「でよー」
後から来た二人の娘たちは明莉の口調の真似をする。
少し呆れつつも、彼女はクスクスとどこか幸せそうに笑いながら子供達と共に奥へと引っ込んでいった。僕は彼女達の後ろ姿を眺めて、読みかけの本に栞を挟み席を立つ。軽く伸びをすると盛大に骨がなった。
さて、明日の休暇はどこに行こうか。
遊園地や博物館なんていうのも良いけれど、当てもなく出かけるのも良いかもしれない。少し遠出をして、緑のあるところなんてどうだろう。老木はもうないけれど、朽ちた倒木からは新しい命が息吹いているはずだ。
きっと今は分からないだろうさ。
とりとめのない計画を立てながら、一人で静かに笑う。
決まったら早く準備しないと。
あの時、君が僕の灯になってくれたように
今度は、僕もまた誰かの灯になれるように
気が付かないが故に骨の髄まで侵され、真綿で首を絞める様に緩慢に死に至らしめる。眠るような死に誰一人その恐怖を理解することはない。日常とは無毒という名の毒だ。
漫然と生きている事に気が付いたのはいつからだろう。
何も為すことはない。初めは気に留めたことさえ忘れるほどの小さなしこり。けれど、形のない漠然とした不安はゆっくりとけれど確実に大きくなっていく。年を重ね、経験を積み、知恵をつけ、その漠然とした不安であったはずの不安を理解してしまった。
何も為さないという事は、自我が「日常」という名の毒の内に消えるという事だと
何も為さないという事は、自分という存在が完全に消失する事であるという事だと
誰がその虚無感に耐えられるだろうか?
僕には耐えられなかった。耐えられる筈が無かった。だって、僕という存在が消えるということは、努力は何も実を結ばず、誰の記憶にも留まらず、居たという証さえ消失するという事だ。自分が無価値に返るという、その壮絶なまでの虚無感への恐怖に誰が耐えられるだろうか。
嫌だ。
今まで、何一つ為さなかった事を悔いた。度し難い焦燥が身の内に宿る。せめて何か一つで良い、一つで良いから残したい。自分がいた証を。ここにいたのだという証を。確かな証明を。
けれど、どうやって?
何かを為そうと走りまわり、寝る間を惜しんで仕事をし、持てる熱意を注ぎ込んだとして、いったい「日常の風景」と何が変わるのだろうか。何一つ変わらない。自分が居なくなれば、その存在証明はあっさりと消失する。社会という歯車は空隙を許さない。自分が居なくなり空いた席には次の誰かが収まり、社会は延々と回り続けるのだ。輝かしい栄光も過去の栄華の一部となって消え失せ、歴史に名を刻んだ偉人でさえ、ただの名前に成り下がる。
僕は……… 一つだけ決意した。
全て無価値に返るというのなら
価値のない僕は「僕」という存在を消す事にしよう。
取るに足らない無価値な物が無くなった世界というのは、今よりも少しだけ軽くて美しいものになっているはずだ。それは僕という無駄な物が無くなったからで、無価値な僕が消したのであれば、その時に「世界が美しくなったのは僕のお陰だ」いえるのではないだろうか。美しい世界は「世界」がある限り延々に続く。それはきっと永遠だ。無価値な僕は無価値な僕を消す事によって初めて無価値ではなくなれるのだ。
まるで夜風を楽しむための散歩に来たかのような格好で鬱蒼と茂る森の入口に立つ。昼間でも十分に日の届かない森は満月の夜には漆黒の闇を湛えている。まるで、巨大な生物がぽっかりと口を開けているかのようだ。調度いい、禍々しい光景に少しだけいびつに頬を歪め、歩を進める。
軽装で来たためか、肌を撫でる空気が冷たい。まるで生きている自分から生気を吸い取ろうとしている亡霊たちの群れの中にいるようだ。思わず笑いそうになる。自らの存在を消しに来た人間から、どうして生気が抜けようか。ここにあるのは人の形を模した、ただの人形だ。
当てなどない。ただ自らに相応しい場所を求めてさまよっている。
ざくざくと草を掻き分けて、けもの道ともいえない道なき道を歩く。静かな森はあらゆる音を虚空へと吸い込むたむ。聞こえるのは自らの足音と呼吸の音だけ。それも、すぐに闇夜に溶ける。見上げれば不気味な木々の声に紛れて闇夜の中に潜む梟の爛々とした双眸が星のようだ。
どれくらい歩いたか。時間の感覚のないまま歩んでいると、ふと、薄ぼんやりとした明かりが見えた。元より日光が届かないほどの森だ、掬い取れそうな程の暗い夜道ではライター程度の明かりでさえひどく目立つ。
近寄るか、近寄るまいか。僅かに思案し、何を迷う必要があるのかと結論付ける。これから消える身が何を躊躇う必要があるというのか。足先をユラユラと揺れる光源へと向ける。たき火の明かりかと思いきや、揺れる炎も揺らめきながらこちらへと寄ってきているようだ。一向に燃え広がる様子がない様子を見ると単純な炎という訳でもないようだ。
「こんばんは。 明かりをご所望ですか?」
明かりの持ち主は目の前までやってくると微笑んだ。
見た目は年端も行かぬ女の子だ。お世辞にも綺麗な身なりとは言えず、顔は僅かに泥で汚れ、身に着けている薄地の半纏も所々破れている。奇妙と言えば確かに身なりも奇妙だが、元より場所が場所である以上身なりに拘らない人間が居てもおかしくない。
しかし、明かりだけは持っている。いや、明かりを持っているという表現はどこかおかしい。なぜなら、持っているのではなく彼女の痩せた腹から、その内に淡い炎を宿したように明かりを発しているからだ。
「君は………誰?」
「あ、すいません。 人に会えたのが嬉しくって、つい。 物を言うなら先に名乗らないと駄目ですよね。 申し遅れました。 私は見ての通り、提灯おばけです」
あはは、と少しだけ恥ずかしそうに笑い、それから、ぺこりと頭を下げて自己紹介をした。その仕草は年相応の疑う事をまだ知らぬ少女の物だ。そのためか、明らかに人間ではないその様子の割にはあまり不気味とは感じなかった。
「あー…… 提灯お化けというのは、提灯の付喪神です。名前に神とは付いて偉そうな名前を頂いてはおりますが、平たくいえば長い年月を経て自我を持った提灯です。自我を持って神格化されたとしても、元より提灯の私にできる事と言えば照らす事だけでございます。このボロ提灯、貴方様を驚かせたくてやってきたわけではございません。"暗い"と思われた貴方様のお役に立てたらと思い馳せ参じた次第でございます。無理にとは言いません。けれど、どうか私めを哀れだと思うのでしたら明かりとして使って頂けないでしょうか?」
化け物は正体不明だからこそ恐怖するというのに、自ら名乗り上げる奇妙奇天烈な妖怪に少々面喰っていると、相手も違和感を感じたのご丁寧に更に説明を重ねてきた。
妙に時代がかった口上を述べ再び頭を下げる。顔を上げる様子はなく、ただ頭を下げたままピクリとも動かなかった。どれほどの齢を重ねているか分からないが、見た目はボロを着た少女だ。そんな少女に頭を下げさせるというのは、流石に気が引けた。かと言って、何も言わなければ彼女はそのままだろう。
仕方ない。
「分かった。 短い間だけ頼めるか?」
「本当ですか? ありがとうございます!」
彼女はニコリと提灯の名に相応しい笑みを浮かべ心底嬉しそうに喜んだ。これほど喜んでもらえるのなら確かに嬉しい。
「どんな場所がご所望ですか?」
「そうだね……… ご神木のような、ここらへんで一番古い木がある場所に連れて行ってくれるかな?」
「はい、分かりました。 ご案内させて頂きます」
クルリと舞うように踵を返すと、首だけで振り返って訊ねた。
行先など無かったけれど、先導するというのならやはり行先を告げなくてはなるまい。僅かに思案し答える。深い考えはなかったけれど、そこなら場所として十分だと思ったからだ。
もっとも道中、提灯の癖に早々に黙々と先導するのに飽きたらしく、もっぱらしゃべり続けていた。自分の友人(提灯?)は良い所の御屋敷に貰われて行ったお蔭で歴史の教科書に載ったとか、雷門の提灯は図体ばっかり大きくてどうやって使うのか分からないとか、でも、提灯を作っている人間は中々見どころがあるとか。
その話している様子は付喪神の一種ではなく、実はしゃれこうべの類ではないかと疑ってしまうほどだ。もっとも、物語の商人のように人を殺して埋めて金品を奪うようなこともしていないし、またそこまで人に恨まれるほどの事は心当たりがない。
「む……… 私の事、疑っていますね?」
こちらの様子に気が付いたのか、ジロリと湿り気を帯びた視線を送ってきた。背中に目でもあるのではと思うほどの鋭さに、無意識に目を逸らしてしまったのが余計にまずかった。ぐいっと近づくとむくれたような表情を作り、しばらく若干潤んだ瞳で睨んだ後、やがて諦めた様に溜息をついた。
「まぁ、無理もありませんけどね……… ボロ提灯がいきなり現れて明かりとして使ってください、なんて言ったらおよそ信じてもらえませんからね。 その点でお願いしただけで、深く聞かず私を使う事を引き受けて頂いたのは器の広い大人物だと思いますよ?」
「………」
「………もしかして、今更になって見返りに何を取られるとかビクビク考えていらっしゃる御茶目さんだったりしますか?」
図星といえば図星である。
もとより何もない身であったので何を取られても後悔するとは思えないけれど、人と契約するのならまだしも、未知の物と契約するには些か軽率だったかもしれない。魂というものは信じてはいないけれど、魂を取られるとかだとしたら流石に恐怖心はある。
「……っと言っても、強いて言うのなら私を使っていただけるというのが私にとっての最高の見返りなんですけどね」
「というのは?」
「あはは……… 私は恥ずかしながら魔力の貯蓄が無いんですよ。なので、この人間と対話できる形で存在するためには存在を維持するために別途の方法を用意しなければならないんです。動物で言うのなら生きていくためには栄養が要るのと同じですね。普通は自分の中である程度の栄養を持っているのですけど、私の場合はどこからか供給しなければならない。平たく言えば"必要"と思っていただける方の思いを糧に自分を維持しているんです」
「へぇ……」
「こんなご時世に私みたいな明かりを望んでいただける方というのは貴重ですよー? ですから、使っていただけるという事は私にとっては、これ以上何も頂かなくても十分なぐらいのご褒美なんです」
「そうなんだ」
そうですとも、とコクンと頷き屈託なく笑う。無邪気で屈託のない笑み。
けれど、どうしてそんな笑みが浮かべられるのだろう。そんなのは嘘だ。例え自分が明かりを提供するだけのために生まれたからと言って、誰かのために使われる人生を送りそれだけで良しとできるはずがない。
自我があるのなら自我を捨てることなんてできないし、また自我を与えられた責務だけを全うするだけの道具として割り切ることなんてできやしない。それは自己を自分自身で否定してしまうからだ。
「生まれてからずっと提灯だったんですけど、私もほとんどお役に立てる機会というのはなくて……… っと、どうしました?」
「あ、いや。 なんでもないよ」
「うーん…… そうですか? なら良いんですけど」
不思議そうに見返していた提灯に言葉を返す。提灯お化けはあまり深く考える様子もなく再びザクザクと夜道を歩き始めたので、僕もすぐに後について歩き始める。
ユラユラと目の前で炎を揺らしながら歩く彼女はなんとなく頼りない。確かにおぼろげに周囲は照らせてはいるものの、それも僅かに障害物を避けられる程度で下手に目が明るさに慣れてしまう分、周囲が暗く感じる。
「それにしても、私を使っていただける方が現れたのは本当に久しぶりですね」
「そんなに?」
「えぇ、良縁には、なかなか恵まれなかったもので…… 貰い手が現れるまで大分倉庫に眠っていましたし、良い貰い手が現れたと思ったら今度は人の良さが祟って騙されてしまいましてね。 結局、私が使われたのは僅かな間でしたよ。 私の事を随分と気に入っていただいて下さったのに、残念でした」
本当に良い方でしたんですけどね………
彼女は立ち止まり、小さく呟やいて光無き夜を眺めている。声を掛けることもできずに、僕はただ提灯を見つめていた。
「提灯なのに暗くて湿っぽい話しちゃいましたね。 暗いのは夜道だけで十分! 照らすのは私の役目。 さ、行きましょう。 そろそろですから」
気持ちを切り替えるように彼女は笑みを浮かべ、それから再び歩み始めた。星明りさえ届かぬ無明の闇を彼女は臆せずに進む。それこそ、この世界が彼女と自分を置き去りにして無くなってしまったかのようにさえ思える。なんて孤独。
彼女はこんなところに一人ぼっちでいたのだろうか。あまりにも虚無過ぎて、今にも泣きだしてしまいそうだ。けれど、前を歩き楽しげに話す。
道なき道を進むと少し開けた場所に出た。
そこに一本だけ木が生えている。ぼんやりとした明かりでは、その高さを窺いしることはできず、両手を広げても半分も届かない。威風堂々たる姿であると同時に、全てを受け入れるような不思議な優しさが同居している。
その老木の傍らにひっそりとボロの切れ端が立てられている。提灯おばけは、トテトテと近寄ると膝を着いて手を合わせた。どうやらそれは………
「主様、仰る通りでしたよ。 貴方が私を使って下さらなかった分も確かに使って頂きました。 もう自分を責める必要も、私を労わる必要もありません。 どうぞ、ゆっくりとお休みになって下さいませ」
彼女は心底満足そうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと振り返る。真っ直ぐにこちらを見つめ、それから頭を深々と垂れた。
「どうもすみません。 私の主がまだ迷っていたようなので、これできっと迷う事もないでしょう。 ここが、貴方のご所望の場所です。 どうですか? 気に入っていただけたでしょうか?」
「そうだね………」
………これ以上、道案内は要らないよ、とは言えなかった。
言ってしまえば、彼女は再び一人になる。例え一時の縁であったとしても、この少女をこんなに光の無い絶望に再び落とす事なんてできやしない。偽善であるのでは分かっていても、ここは別れの言葉を言うべきではないのだろう。
「本当に…… 迷う事もないのですね?」
僅かに待っていたものの彼女は悲しそうな笑みを浮かべ、それから頭を下げてから背を向けた。
遠ざかる灯火。ボロの背中だ。今にも崩れそうな程に頼りない。それでも、真っ直ぐに歩こうとする。
「必要とされなければ、存在できないんだろう?」
だから、思わず背中合わせに声を掛けてしまった。
足音が止まる。
「はい。魔力の貯蔵の無い私には"想い"が無ければ存在を維持できません」
あっさりと彼女は答えた。
「僕が必要としなくなったら、君は一体どうなるんだ?」
「ただのボロ提灯に戻り、また"必要"とされる人が現れるのを待つでしょう」
「今の時代、こんな場所では"明かり"を必要とする人も多くはない」
「そうですね。今の時代は昔に比べて随分と便利になりましたから」
「なら、君は次はいつ化けて出られるんだ?」
「分かりません。一年後か、十年後か ……それとも、朽ちるのが先か」
「………辛くはないのか?」
「はい、とても辛いです」
「なら、ならどうして………」
重なる問いに彼女は淡々と答える。
だなぜ迷う事なく答えを口にできるのか。
彼女はこんなにも孤独なのに。誰にも知られず、無価値に消えるのはあんなにもおぞましいのに。ここに居たのだという証拠さえ失われてしまうのはあんなにも恐ろしいことなのに。辛いのなら、なんで逃げようとさえ思わないのか。なぜその絶対の否定を前にして尚、怯える事なく言葉を紡ぐ事ができるのか。
振り返って……… 後悔した
振り返らなければ僕はこんなにも自分が醜くもがいている姿を直視する必要はなかっただろう。こんな苦しみを延々と抱いて彷徨う事もなかっただろう。そうか、とたった一言述べて彼女と別れればよかっただけだった。そうすれば、甘い夢の中で眠りにつく事ができたのに。
彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。淡く儚げな微笑、その瞳の奥には凛とした確固たる強さを持つ。迷いはない。初めから迷いが無かった訳ではない。多くの悩みを経て、幾多の苦しみと挫折を乗り越えて、やっと導き出した解答を持つが故の迷いなき意思が宿る。
「だって、貴方が居たじゃないですか」
静かにけれど確かに、息をするような自然さで、何の気負いもなく告げた。
それで十分、という言葉にどれほどの重みがあったか。悩む事から逃げた僕は知らない。
道を照らす。ただそれだけが彼女の役目。今の時代、それがどれほど役に立つだろう。夜でさえ明るい街で誰がそんなことを望んでくれるというのか。ただ朽ちていく身体を抱え、ひたすらに求める人間を待つ。
その結果、残るのは………数える程の出会った人間の記憶のみだ。偉業など一つもない。そんなに頼りない物を自らの生きた証として決めたのは、迷わぬように照らし、微笑んで送り出すと決めた彼女の生き方そのものだ。
自らの身を挺して人を導き、自らの思いを人に託す。おぼろげで頼りないことこの上ない。けれど
けれど、それは彼女の主が彼女に伝えた確かな灯
誰が彼らの生きた証を踏みにじれるだろうか。
彼女がボロ提灯で良かった。
今は、きっと情けない顔になっているに違いない。
どれほど、僕はそうしていただろう。彼女は笑う事も慰めることもせず、ただ待っていてくれた。顔を上げると優しい微笑みを向けてくれた。あぁ、この子は本当にいい子だ。
「悪いけど………もう一度、明かり頼む事ってできるかい?」
「もとよりこの身は照らすための物。 喜んで引き受けさせて頂きます」
今は迷いだらけ、これから挫折も苦しい事もああるだろう。けれど、全部吹っ切れた。何もないのなら、それはありのままの自分だ。悩みも苦しみも痛みも全部自分自身の大切な自分の経験になるはずだ。
何かを為すというのは歴史に名を残す事ではないし、人よりも優れた業績を残す事でもない。歴史は常に過去の栄光であり、優れた業績は新たな業績によって朽ち果てる。迷っても躓いても間違っても良い、必要なのは自分自身で「歩んだ」と胸を張って言える事だ。そして、誰か一人でも記憶に留めて「伝えたい」と思ってくれることこそが、これ以上の賞賛であり、また比類なき偉業はないのではないだろうか。
二人は無言で歩いていく。来るときに歩んだ道は、まだ新しい靴跡が残っていた。僕は迷い、寄り道をしながらも確かに歩んでいる。
森を抜けた先に、東の空は僅かに白んでいて朝日を迎えようとしていた。
「朝日が昇って来てしまいましたか。名残惜しいけどお別れですね………」
森の入口で彼女は足を止めた。僕は道路の脇に立って振り返る。まだ僅かに残る闇にその身を浸し、最後まで自らの責務を全うするかのようだった。
「君はどこに行くんだい?」
「どこにも行きません」
「君は消えるのかい?」
「私は消えません。ただ"ある"だけです」
「もう一緒に居られないのか?」
「昼間の提灯は昼行灯ですから」
帰路の間は無言だった空白を埋めるように問答を繰り返す。しかし永劫に続ける事はできない。彼女の提灯は道を照らす物であって、眺めるものではないから。そっか、と呟くと。そうです、と静かに返した。
「……また、会えるかい?」
「……明かりを望んでいただければ」
困ったような笑みを残して問答は終わる。語り合うには短く、日の出を迎えるには長すぎた。お化けは太陽の下では生きられない。彼女の姿は溶けるように薄くなっていく。
「ありがとう」
「いいえ、とんでもない」
日が昇る。残る闇も消えてゆく。最後まで彼女は僕を見送り、微笑む彼女を僕は見送った。後に残るのは朽ちかけた提灯だけ。
僕は、そっとそれを優しく撫で帰路へと着いた。
振り返る必要も、迷う必要ももうない。
明かりは、確かにこの胸に宿っているから。
…………
あの寄り道から結構な年月が経った。
僕は今なお螺旋という日常の中を生きている。
いつか自分はこの螺旋の内に消える。自分が消えるというのは、まだ怖い。一生かけても拭えないと思うし、経験と知識を蓄積すればするほど恐怖は強くなるだろう。
けれど、それは乗り越えられる自信がある。
自分は消えるかもしれないけれど、自分が歩んだという事実は消えない。その歩んだという事実を見て、それを引き継いでまた歩んでくれる誰かがいてくれるのなら確かに僕は残っている。僕は螺旋の一部になり、螺旋は更に高みへと続いていくから。
「明莉」
「なに?」
妻の名前を呼ぶと、彼女はひょっこりと隣の部屋から顔を出した。ちょんと髪をてっぺんで縛り、所々繕ってある半纏を着ているという奇妙な出で立ちをしている。新しい服を買ったらと勧めても「直した方が味が出るでしょ?」などと言う独特の美的センスには思わず苦笑してしまう。
「なんでもないよ。 顔が見たくなっただけ」
「まーたー…… 忙しいんだから、用も無いのに呼ばないでよ」
「でよー」「でよー」
後から来た二人の娘たちは明莉の口調の真似をする。
少し呆れつつも、彼女はクスクスとどこか幸せそうに笑いながら子供達と共に奥へと引っ込んでいった。僕は彼女達の後ろ姿を眺めて、読みかけの本に栞を挟み席を立つ。軽く伸びをすると盛大に骨がなった。
さて、明日の休暇はどこに行こうか。
遊園地や博物館なんていうのも良いけれど、当てもなく出かけるのも良いかもしれない。少し遠出をして、緑のあるところなんてどうだろう。老木はもうないけれど、朽ちた倒木からは新しい命が息吹いているはずだ。
きっと今は分からないだろうさ。
とりとめのない計画を立てながら、一人で静かに笑う。
決まったら早く準備しないと。
あの時、君が僕の灯になってくれたように
今度は、僕もまた誰かの灯になれるように
11/10/29 01:46更新 / 佐藤 敏夫