幼い頃の出来事
家出した。
自分の未来について大喧嘩したとか、意見が決定的に食い違って出て行かないといけなくわった訳でもなくて、特別大きな出来事があっただけではない。どちらかといえば毎日に積もり積もったモノがたまたま今日溢れただけ。行儀良く食事を取れだとか、欠かさずに勉強しろとか、遊んでないで手伝いをしろとか、グチグチ言われるのが不満だったのだ。
言いたい事は沢山あった。自分だってやっているのだと言いたかった。けれど、大人達は聞いてくれない。聞いているというが、言ったところで何一つ変わることがないのだからそれは聞いていないのと同じことだ。
ただ、子供が一人出て行くと言っても行く先などそうある訳でもない。街の中に居ても日が暮れてから数刻と経たない内に足がつくだろう。しかし、だからと言って、どこかへ行こうというアテはなかった。
とりあえずこの街に居てはいけないという事は分かっていたし、焦っている気持ちもあって自然と隣街に足が向いた。何度か親に連れられて行った事がある。知り合いも数名居るし、辿り着けばきっと何とかなるだろう。
けれど、それがどれほど甘い考えだったか、その時には全く理解していなかった。
夜道を歩く。
幸い今宵は満月だ。見渡すことはできないが、道を見るくらいの明るさはある。このまま行けば夜明け前には隣街に着けるだろう。朝一に門をくぐり、知り合いに事情を説明して暫く匿ってもらえばいい。後の事はそこから考えれば良いだろう。
獣道を進む歩は力強く迷いが無い、
学校で習う魔術は嫌と言うほど身についている。初歩の結界を少し応用すれば、獣が近づく前に探知できる。初級魔法でも打ち込めば退散するのは容易い。
これで何度目か、また探知圏をうろうろしている獣がいた。
恐らくは狼だろう。
狼は狡猾だというが所詮は獣だ。人にかなう道理はない。
幾度となく鍛錬を行ってきた退屈な作業であり、呼吸をするのと同じぐらい身体に染み込んでいる。一瞬だけ集中。手の平に集まる魔力を確認し、放出する。灼熱の火球が僅かな間だけ周囲を明るく照らし上げ、次の瞬間には彼方へと消え去った。
「ざまぁみろ」
獣が遠ざかっていくのを感じ、少しだけ溜飲が下がる。自警団に居る父は、よく「狼に襲われたら荷物を置いて逃げろ」というが、こんなにも簡単に追い払うことができる。大人たちは分かってないのだ。
分からないから恐がり、やった事がないからという理由で挑戦せず、理解できないからと言って自分が作った型に嵌めこもうとする。
再び歩み始めようとすると、先ほどの獣が舞い戻ってきたようだ。しつこいなぁ、人がわざわざ殺さないように調整しているのに、死にたいのだろうか。殺したら寝覚め悪いだろうな、などと考えつつ手の平に魔力を集める。
反省しないのなら、少し強めに。
ボンという音がして火球が射出される。
相手が増えようが関係ない。相手の数だけ放てばいいだけだ。
立て続けに三発連射。逆方向からも来たので逆側にも二発。
だが
それが合図だったかのように、次の瞬間には襲撃者の数が一気に増えた。全方位から統率の取れた動きで包囲網を狭めてくる。先ほどまで認識圏周辺をうろうろしていたのは様子見だったのだ。
気がついた時にはもう遅い。
必死になって炎弾を乱発する。しかし、それら嘲笑うかのように悉くかわされる。
位置だけが手に取るように分かるからこそ、目に見えぬ迫り来る恐怖が脳に直接叩き込まれる。息が上がり、足が震えて集中できない。
「うわぁあああああ!!!!」
闇から死神が飛び出してきた。月光を鈍く返す爪が肌を切り裂こうとし、血に飢えた牙が喉元を喰らいつかんとする。
ほとんど生存本能と言っても良い。無意識の内に魔力をかき集め、なんの統制もしないままに放った。
骨が軋み。肉が裂ける。突き出した腕に爪がめり込んだために血が出たのか、魔力が暴走した反動で血が出たのか分からない。生暖かい液体があたりに飛び散るが、その痛みを感じる余裕はない。
分かったのは、上に乗ってきた狼が驚いて僅かな距離を置いたことだけ。
立ち上がったが、もう右腕は使えない。狼は唸り声を上げてこちらを睨んでいる。
咆哮を上げる。それに向けせめてもの構えをとる。だが、狼は狡猾だった。
目の前に気を取られている隙に背後からは忍び寄ったもう一匹の死神がその凶悪な牙を剥いた。
グシャと音がした瞬間は死んだかと思った。
だから、突如として現れた鬼にただ呆然としていた。
「命が惜しければ、動くな」
軽々と小脇に抱えると修羅のような形相で短く告げた。
飛び掛ってきた若い狼に金棒が振るわれる。ゴスッという鈍い音と共に生命が絶たれて、狼は生き物から肉塊に成り下がった。二匹の犠牲を目前にして、流石の狼も僅かに躊躇したようだ。
戦力を測り、このまま襲うよりも一旦引いて態勢を立て直す得策だと判断したらしく、散り散りになる。
「今のうちだ、逃げるぞ」
・・・
まだ、心臓が動いていると理解したのは洞窟の様な鬼の住処についてからだった。
実際には約一時間ほどだったのだろう。だが、それは永遠にも感じるような時間を鬼に抱かれて走った。ずっと身体に力が入っていたのか、知らぬ間に汗だくとなっており、それに気が付くと立っているのが困難になりそうなほどの疲労感が全身を襲った。
だが、肩で息をしている赤鬼は自分の命の恩人だ。
彼女にキチンと御礼を言わなくてはいけない。
「ありがとうござ・・・」
それ以降の言葉は全て吹き飛んだ。
「この、大馬鹿野朗!!!」
視界が丸ごとひっくり返るような衝撃を受けた。あまりにも衝撃が大きすぎて理解が追いつかず、ただ呆けたように鬼を見上げていた。金棒を易々と振り回すような手で頬を張られたのと、怒鳴り声が洞窟の壁に響くせいで脳味噌がクワンクワンする。
口の中には鉄の味が広がる。
「こんな時刻に危ない所をほっつき歩いて何を考えているんだ!!!」
「ごめん・・・なさい」
「オレに謝っても仕方ないだろ! 死んだらどうするつもりだったんだ! え! 言ってみろ! 死んだら、それでおしまいだろ! 死んでからじゃおせぇんだよ! 後は狼に食われるだけだ! それとも、お前は死にたかったのか! そんなに死にたいのなら狼なんぞに頼らずとも、この金棒で殴り殺してやる!」
胸倉を掴み、顔を引き寄せる。ガン、と爆発したかのような鈍い音がしたので視線をむければ硬い岩盤の地面が抉れていた。片手には先ほどの狼の返り血がついた金棒が握られていた。殺そうと思えば金棒を使う必要もなく、首を握り潰すだけでも十分だろうと思ってしまうほど。
ただ、その恐ろしさも大した問題ではない。本当に恐ろしいのはアカオニの持つ本気の気迫だ。それは、狼が群れを目前として死に直面した時より鋭利な恐怖となって脳を直に揺さぶってくる。
「泣いてどうする! 泣いてもなんの解決にもなりやしねぇんだよ!」
「ごめんなさい」
「だから、ごめんなさいじゃねぇだろ! 馬鹿野朗!」
突き飛ばされる。藁を集めたような布団の上に叩きつけられた。
もう体面も何もかも忘れて、ボロボロと涙を流しながら何度も何度も謝った。そのたびに叱られ、怒鳴られる。恐かった。
涙が枯れるまで謝り、最早何度謝ったかさえ分からない。恐怖のせいで脳が麻痺していた。
「・・・よかったな、命があって」
アカオニも声が掠れ、肩で息をしながら、ボソリと呟いた。
本当に実感の篭った言葉だった。命があったことに対する心からの祝福と、自分が命を守れたという事への安堵。何よりも重たい言葉だった。
「命さえあれば反省もできるし、これからどうすれば良いのかも考えられる。 大切なのは未来だ。 助かったなら、その経験を踏まえて、これからのことを真剣に考えなくちゃならねぇ」
「・・・はい。 ごめんなさい」
「馬鹿、謝るのは本当に悪いと思ったときだけにしておけ」
再び「ごめんなさい」と言いかけて、また怒られそうだったので慌てて口をつぐんだ。
その様子を見て、アカオニは僅かに口を歪めて牙を見せた。それは彼女が始めて見せる敵意の無い、包み込むような不器用な笑みだった。
ぐしゃ、と頭の上に無骨な手が置かれる。
「腹減ったろ。 大したものは用意できねぇが、腹一杯にするぐらいなら出来る。 準備している間、洞窟の奥に湧き水があるから、そこで身体を清めて来い」
「はい・・・ ありがとう、ございます」
「おぅ、気にすんな」
・・・
戻ってきたときに切り株をそのまま持って来たような机の上には、丼に山盛りの米が二杯と巨大な魚の塩焼きが数匹ほど乗っていてホカホカと湯気を立てていた。
「頂きます」
鬼は手を合わせ、食べ始める。
本気を出せば大の大人が何人掛かりでも数秒と抑えつける事は適わず、一度暴れ始めれば何が起ころうともその怒りを納めることはない。外見こそ似ているが人と鬼は似ているが、その真の姿は人知を超えた存在だ。だから、鬼は畏怖し崇めなければならない。
そう、教えられた。
「食えよ。 冷めるぞ」
「・・・はい」
だが、どうだろう。
いっそ優雅さを感じさせるほどに器用に箸を繰り、魚の身の一片、米の一粒まで残さない。まるで糧となった生き物に対する最大限の敬意を表しているようだ。こちらの食事が終わるまで、ただ黙って酒を飲んでいた。
「お前の布団はそこだ。 何かあったら言え」
「あの・・・」
ようやく、自分から口を開くことができた。
何か? とでも言いたげな瞳がこちらを見つめる。その瞳に僅かに気圧され、言葉が喉から出てこなくなりそうになってしまったが一度だけ深呼吸をして真っ直ぐに見据える。恐ろしいけれど、やはり幾つか訊いておかないといけないことはある。
「どうして、助けてくれたんですか?」
アカオニに知り合いは居ない。つまり、このアカオニは名前も知らない子供のために命を張ったのだ。それだけではない。身も知らない初めて会った自分のために食事や風呂、そして、寝床まで用意してくれたのだ。
御礼をできるようなものはなにもないし、そもそも御礼を要求するような姿は想像できなかった。どうしてこんなにしてくれるのか、せめて理由だけでも訊いておきたかった。
途端、アカオニは面倒くさそうにバリバリと頭を掻き始めた。
「馬鹿な餓鬼を見守るのは、大人の義務だろうが」
溜め息と共に「馬鹿な事を聞くな」と背中を見せた。
何の説明にもならず、行動の理由にすらならない。けれど、それは同時に何の気負いもない、本心からの答えだった。
そこで、初めて己の矮小さに気がついた。
強いというのは腕の事ではなく、賢いというのは頭の事ではない。
「泣くな。 足りないことに気が付くのは恥じることじゃないんだからよ」
鬼は豪快な笑い声を上げる。なんて厳しいのだろう。
間違いを見つけたら、それを正すまで許す気はないのだから。
釣られ、笑う。頬を熱い物が伝った。
「とっとと寝ろ」
「はい。 ・・・おやすみなさい」
「おぅ、おやすみ」
横になり、目を閉じる。
鬼は静かに部屋の外へと出て行った。
自分の未来について大喧嘩したとか、意見が決定的に食い違って出て行かないといけなくわった訳でもなくて、特別大きな出来事があっただけではない。どちらかといえば毎日に積もり積もったモノがたまたま今日溢れただけ。行儀良く食事を取れだとか、欠かさずに勉強しろとか、遊んでないで手伝いをしろとか、グチグチ言われるのが不満だったのだ。
言いたい事は沢山あった。自分だってやっているのだと言いたかった。けれど、大人達は聞いてくれない。聞いているというが、言ったところで何一つ変わることがないのだからそれは聞いていないのと同じことだ。
ただ、子供が一人出て行くと言っても行く先などそうある訳でもない。街の中に居ても日が暮れてから数刻と経たない内に足がつくだろう。しかし、だからと言って、どこかへ行こうというアテはなかった。
とりあえずこの街に居てはいけないという事は分かっていたし、焦っている気持ちもあって自然と隣街に足が向いた。何度か親に連れられて行った事がある。知り合いも数名居るし、辿り着けばきっと何とかなるだろう。
けれど、それがどれほど甘い考えだったか、その時には全く理解していなかった。
夜道を歩く。
幸い今宵は満月だ。見渡すことはできないが、道を見るくらいの明るさはある。このまま行けば夜明け前には隣街に着けるだろう。朝一に門をくぐり、知り合いに事情を説明して暫く匿ってもらえばいい。後の事はそこから考えれば良いだろう。
獣道を進む歩は力強く迷いが無い、
学校で習う魔術は嫌と言うほど身についている。初歩の結界を少し応用すれば、獣が近づく前に探知できる。初級魔法でも打ち込めば退散するのは容易い。
これで何度目か、また探知圏をうろうろしている獣がいた。
恐らくは狼だろう。
狼は狡猾だというが所詮は獣だ。人にかなう道理はない。
幾度となく鍛錬を行ってきた退屈な作業であり、呼吸をするのと同じぐらい身体に染み込んでいる。一瞬だけ集中。手の平に集まる魔力を確認し、放出する。灼熱の火球が僅かな間だけ周囲を明るく照らし上げ、次の瞬間には彼方へと消え去った。
「ざまぁみろ」
獣が遠ざかっていくのを感じ、少しだけ溜飲が下がる。自警団に居る父は、よく「狼に襲われたら荷物を置いて逃げろ」というが、こんなにも簡単に追い払うことができる。大人たちは分かってないのだ。
分からないから恐がり、やった事がないからという理由で挑戦せず、理解できないからと言って自分が作った型に嵌めこもうとする。
再び歩み始めようとすると、先ほどの獣が舞い戻ってきたようだ。しつこいなぁ、人がわざわざ殺さないように調整しているのに、死にたいのだろうか。殺したら寝覚め悪いだろうな、などと考えつつ手の平に魔力を集める。
反省しないのなら、少し強めに。
ボンという音がして火球が射出される。
相手が増えようが関係ない。相手の数だけ放てばいいだけだ。
立て続けに三発連射。逆方向からも来たので逆側にも二発。
だが
それが合図だったかのように、次の瞬間には襲撃者の数が一気に増えた。全方位から統率の取れた動きで包囲網を狭めてくる。先ほどまで認識圏周辺をうろうろしていたのは様子見だったのだ。
気がついた時にはもう遅い。
必死になって炎弾を乱発する。しかし、それら嘲笑うかのように悉くかわされる。
位置だけが手に取るように分かるからこそ、目に見えぬ迫り来る恐怖が脳に直接叩き込まれる。息が上がり、足が震えて集中できない。
「うわぁあああああ!!!!」
闇から死神が飛び出してきた。月光を鈍く返す爪が肌を切り裂こうとし、血に飢えた牙が喉元を喰らいつかんとする。
ほとんど生存本能と言っても良い。無意識の内に魔力をかき集め、なんの統制もしないままに放った。
骨が軋み。肉が裂ける。突き出した腕に爪がめり込んだために血が出たのか、魔力が暴走した反動で血が出たのか分からない。生暖かい液体があたりに飛び散るが、その痛みを感じる余裕はない。
分かったのは、上に乗ってきた狼が驚いて僅かな距離を置いたことだけ。
立ち上がったが、もう右腕は使えない。狼は唸り声を上げてこちらを睨んでいる。
咆哮を上げる。それに向けせめてもの構えをとる。だが、狼は狡猾だった。
目の前に気を取られている隙に背後からは忍び寄ったもう一匹の死神がその凶悪な牙を剥いた。
グシャと音がした瞬間は死んだかと思った。
だから、突如として現れた鬼にただ呆然としていた。
「命が惜しければ、動くな」
軽々と小脇に抱えると修羅のような形相で短く告げた。
飛び掛ってきた若い狼に金棒が振るわれる。ゴスッという鈍い音と共に生命が絶たれて、狼は生き物から肉塊に成り下がった。二匹の犠牲を目前にして、流石の狼も僅かに躊躇したようだ。
戦力を測り、このまま襲うよりも一旦引いて態勢を立て直す得策だと判断したらしく、散り散りになる。
「今のうちだ、逃げるぞ」
・・・
まだ、心臓が動いていると理解したのは洞窟の様な鬼の住処についてからだった。
実際には約一時間ほどだったのだろう。だが、それは永遠にも感じるような時間を鬼に抱かれて走った。ずっと身体に力が入っていたのか、知らぬ間に汗だくとなっており、それに気が付くと立っているのが困難になりそうなほどの疲労感が全身を襲った。
だが、肩で息をしている赤鬼は自分の命の恩人だ。
彼女にキチンと御礼を言わなくてはいけない。
「ありがとうござ・・・」
それ以降の言葉は全て吹き飛んだ。
「この、大馬鹿野朗!!!」
視界が丸ごとひっくり返るような衝撃を受けた。あまりにも衝撃が大きすぎて理解が追いつかず、ただ呆けたように鬼を見上げていた。金棒を易々と振り回すような手で頬を張られたのと、怒鳴り声が洞窟の壁に響くせいで脳味噌がクワンクワンする。
口の中には鉄の味が広がる。
「こんな時刻に危ない所をほっつき歩いて何を考えているんだ!!!」
「ごめん・・・なさい」
「オレに謝っても仕方ないだろ! 死んだらどうするつもりだったんだ! え! 言ってみろ! 死んだら、それでおしまいだろ! 死んでからじゃおせぇんだよ! 後は狼に食われるだけだ! それとも、お前は死にたかったのか! そんなに死にたいのなら狼なんぞに頼らずとも、この金棒で殴り殺してやる!」
胸倉を掴み、顔を引き寄せる。ガン、と爆発したかのような鈍い音がしたので視線をむければ硬い岩盤の地面が抉れていた。片手には先ほどの狼の返り血がついた金棒が握られていた。殺そうと思えば金棒を使う必要もなく、首を握り潰すだけでも十分だろうと思ってしまうほど。
ただ、その恐ろしさも大した問題ではない。本当に恐ろしいのはアカオニの持つ本気の気迫だ。それは、狼が群れを目前として死に直面した時より鋭利な恐怖となって脳を直に揺さぶってくる。
「泣いてどうする! 泣いてもなんの解決にもなりやしねぇんだよ!」
「ごめんなさい」
「だから、ごめんなさいじゃねぇだろ! 馬鹿野朗!」
突き飛ばされる。藁を集めたような布団の上に叩きつけられた。
もう体面も何もかも忘れて、ボロボロと涙を流しながら何度も何度も謝った。そのたびに叱られ、怒鳴られる。恐かった。
涙が枯れるまで謝り、最早何度謝ったかさえ分からない。恐怖のせいで脳が麻痺していた。
「・・・よかったな、命があって」
アカオニも声が掠れ、肩で息をしながら、ボソリと呟いた。
本当に実感の篭った言葉だった。命があったことに対する心からの祝福と、自分が命を守れたという事への安堵。何よりも重たい言葉だった。
「命さえあれば反省もできるし、これからどうすれば良いのかも考えられる。 大切なのは未来だ。 助かったなら、その経験を踏まえて、これからのことを真剣に考えなくちゃならねぇ」
「・・・はい。 ごめんなさい」
「馬鹿、謝るのは本当に悪いと思ったときだけにしておけ」
再び「ごめんなさい」と言いかけて、また怒られそうだったので慌てて口をつぐんだ。
その様子を見て、アカオニは僅かに口を歪めて牙を見せた。それは彼女が始めて見せる敵意の無い、包み込むような不器用な笑みだった。
ぐしゃ、と頭の上に無骨な手が置かれる。
「腹減ったろ。 大したものは用意できねぇが、腹一杯にするぐらいなら出来る。 準備している間、洞窟の奥に湧き水があるから、そこで身体を清めて来い」
「はい・・・ ありがとう、ございます」
「おぅ、気にすんな」
・・・
戻ってきたときに切り株をそのまま持って来たような机の上には、丼に山盛りの米が二杯と巨大な魚の塩焼きが数匹ほど乗っていてホカホカと湯気を立てていた。
「頂きます」
鬼は手を合わせ、食べ始める。
本気を出せば大の大人が何人掛かりでも数秒と抑えつける事は適わず、一度暴れ始めれば何が起ころうともその怒りを納めることはない。外見こそ似ているが人と鬼は似ているが、その真の姿は人知を超えた存在だ。だから、鬼は畏怖し崇めなければならない。
そう、教えられた。
「食えよ。 冷めるぞ」
「・・・はい」
だが、どうだろう。
いっそ優雅さを感じさせるほどに器用に箸を繰り、魚の身の一片、米の一粒まで残さない。まるで糧となった生き物に対する最大限の敬意を表しているようだ。こちらの食事が終わるまで、ただ黙って酒を飲んでいた。
「お前の布団はそこだ。 何かあったら言え」
「あの・・・」
ようやく、自分から口を開くことができた。
何か? とでも言いたげな瞳がこちらを見つめる。その瞳に僅かに気圧され、言葉が喉から出てこなくなりそうになってしまったが一度だけ深呼吸をして真っ直ぐに見据える。恐ろしいけれど、やはり幾つか訊いておかないといけないことはある。
「どうして、助けてくれたんですか?」
アカオニに知り合いは居ない。つまり、このアカオニは名前も知らない子供のために命を張ったのだ。それだけではない。身も知らない初めて会った自分のために食事や風呂、そして、寝床まで用意してくれたのだ。
御礼をできるようなものはなにもないし、そもそも御礼を要求するような姿は想像できなかった。どうしてこんなにしてくれるのか、せめて理由だけでも訊いておきたかった。
途端、アカオニは面倒くさそうにバリバリと頭を掻き始めた。
「馬鹿な餓鬼を見守るのは、大人の義務だろうが」
溜め息と共に「馬鹿な事を聞くな」と背中を見せた。
何の説明にもならず、行動の理由にすらならない。けれど、それは同時に何の気負いもない、本心からの答えだった。
そこで、初めて己の矮小さに気がついた。
強いというのは腕の事ではなく、賢いというのは頭の事ではない。
「泣くな。 足りないことに気が付くのは恥じることじゃないんだからよ」
鬼は豪快な笑い声を上げる。なんて厳しいのだろう。
間違いを見つけたら、それを正すまで許す気はないのだから。
釣られ、笑う。頬を熱い物が伝った。
「とっとと寝ろ」
「はい。 ・・・おやすみなさい」
「おぅ、おやすみ」
横になり、目を閉じる。
鬼は静かに部屋の外へと出て行った。
11/05/22 00:19更新 / 佐藤 敏夫