「悪」
ソファに腰を掛けてぼんやりとしている。連日のアルバイトを続けた事による肉体的な疲労ではなく、ドロリと胸の内に残るような倦怠感。筋組織が蕩けきってしまったようにその運動能力を失い、空気が粘り気を帯びているかのように動かすのも億劫だ。
「なんか、顔色悪いよ? ちょっと外でも歩いて来たら?」
「いや、良いや・・・」
「休むなら、連絡入れておかないとだめだよ?」
「大丈夫、もう入れた。 シフトも穴は埋まってるよ」
「そう・・・ なら、いいんだけど・・・」
「おい、トト、この馬鹿を気にしたって仕方ねぇよ。 気分が悪いって心配したって、結局、自分で治すしかねぇんだからよ」
「ルビア・・・ そんな言い方は無いと思うよ?」
トトは相変わらず気を配ってくれるし、ルビアはルビアでいつも通り唯我独尊を貫いている。何一つ変わっていないし、何も変わっていないはずだ。むしろ、俺自身は社会復帰に向けて努力してきたという良い変化はあったと思う。
何故か家の中がギスギスしている。一緒に居るのに蚊帳の外に居るような微妙な疎外感を覚える。なに一つ変わっていないのに、根底から変わってしまったかのように感じるのだ。
本当は答えが分かっている。
気がついてしまったのだ。
俺自身が努力しても何の意味がないという事に。才能の無い自分が努力すれば努力するほど、周囲の人間を巻き込み泥沼に巻き込んでいってしまうという事に。自分には才能がない。分かっていたはずなのに、周りに友人が出来て支えてくれたから、調子に乗って社会復帰なんてものを夢見てしまったからこそ気がついてしまった。底辺の人間は底辺で這いずっていれば良い。
才能が無い人間なんて努力しない方が良いのではないか。そう思ってしまう。
「出かける」
「ちょっとぉ!」
バンと机を叩き、ルビアが立ち上がる。上着を羽織ると帽子を被り、引きとめようとするトトの手を振り払い玄関を蹴り開けて出て行ってしまった。残された歪んだ扉がキィと音を立てる。
トトは暫く空中で伸ばしていた手を大きな溜め息と共にダラリと下ろした。
「ねぇ、圭太・・・ どうしたの? 帰ってきてから元気ないけど・・・」
「大丈夫だよ」
せめて心配を掛けまいと精一杯の嘘をつく。けれど、それはトトの不信感を強くしただけだったようだ。隣に歩み寄るとソファに腰を下ろしてコチラの顔を覗き込む。どこか幼さの残る焦げ茶色の瞳が不安げな色に染まっていた。言葉を交わさなくても、視線が「どうしたの」と訊ねてくる。心の底から心配してくれる、けれどその事は今の自分には単なる重りにしかならなかった。
「そんな事言わないでよ。 ねぇ、どうしたの? 本当に元気ないよ?」
視線が痛い、痛くて顔を背ける。
「なんでもない、いつも通りだ」告げる言葉は自分さえも騙せない。惨めにも程がある。
「話してよ・・・ 相談に乗るよ? 力になれるはずだから」
「だぁ!!! もぉ、うっせぇな!!! 放っておいてくれよ!!!」
だから、折角優しく手を伸ばしてくれたトトの手を振り払った。ヤケクソになって振り払い、トトの表情の無くなった顔を見てそこでやっと冷静になった。最低だ。人に当るなんて。唇を噛みしめて、ソファに座りなおす。もう眼を合わせる勇気は無かった。
気まずい沈黙が二人の間に降りる。
謝りたくても、謝ることができない。トトとの友情がピシリと音を立てて罅が入ったようだった。
「・・・」
「・・・」
結局、先に口を開いたのはトトだった。
「やっぱり・・・ 私じゃだめだよね? 圭太の力になんかなれないか・・・」
「・・・違う! そうじゃない!」
否定するが、トトは微笑んで首を横に振った。困ったような微笑を浮かべて、少しだけ泣きそうな瞳をこちらに向けていた。まるで、テレビの向こう側から心配しているような瞳だった。「助けたい」「力になりたい」どんなにそう思っても、絶対に向こう側に届かないと理解してしまったような瞳だ。
そんな視線で見られては、俺の薄い言葉は意味をなさなかった。
「じゃあ頼ってよ。 求めてよ。 信頼してよ」
力強く、トトは言う。
「私はね・・・ 昔、嫌われ者だったの・・・ だから」
ほら、ゴキブリってそうでしょ? 居るだけで疎まれる そう言いながら、儚げに微笑む。無垢な、こげ茶色の瞳を見て、チクリと胸が痛んだ。トト自身には何の非はない、けれど、ただ居るというだけで疎まれてしまう。そういう存在だったのだ。
「その時は、誰も好きになったことがなかった・・・ けど、今は違う」
沢山の友達が居るから。
「迷惑掛けても良いんだよ。 友達なんだからさ・・・」
・・・
大した目的もないまま家を飛び出してきたルビアは、暗い夜道を歩いていた。まばらに立っている街灯だけが、ルビアの歩く道をボンヤリと照らしていた。僅かに視線を上げれば光に誘われた虫達が何度もプラスチックのカバーにぶつかっている。
「クソッ・・・」
誰に言うでもなく一人呟く。
ムシャクシャしてどうしようもない。
ここまで理不尽な怒りを覚えたのは久しぶりだし、自分がこれほどまでに凶暴性を秘めていたなど今の今まで忘れていた。
アイツが立ち直れない理由、それはオレも分かっている。努力した結果、それが他人に奪われれば心が折れる。当たり前だ。自分の存在が否定されたようなものだからだ。
「おい、そこのお譲ちゃん」
「あぁ?」
「一人で歩いていると危ないぜ?」
振り返る。一目でその手の人間と分かるような男が三人。そのうちの一人がオレの顔を見て機嫌良さそうに小さく口笛を吹いた。今日はなんて日だ。最高に最悪じゃないか。
短く息を吐き、前に向き直る。今はそういう気分じゃない。無視して歩き出すと、一人の男が前を遮った。髪を奇妙に染め、唇やら鼻やらにやたらとピアスを付けている男だ。僅かに横に逸れて歩き出そうとしたが、残りの二人がそれを妨害するように立っていた。
「善意で声を掛けたっていうのに、無視はひでぇんじゃねぇの?」
愉快気に背後の二人も笑い始める。あまりにも品の無い笑い方に虫唾が走った。不愉快極まりない。
「ここ、結構危ない連中が居るんだよね」
「あぁ、そうそう。 恐い男達が居るらしいぜ?」
「だからさ、俺達のところに来ない?」
たっぷりもてなしてやるぜ? リーダー的な男が言い放つと、再び下卑た笑い声を上げた。
「邪魔だ、下衆。 失せろ」
言い放つとピタリと笑い声が止んだ。耳障りな音がしない僅かな時間がたまらなく心地良い。表情が抜け落ちたような顔をして、男達はその不出来な顔を見合わせる。それから、耳から入った音の波が、中身の無い脳味噌でようやく処理され理解されたらしい。
「てっめぇ!!!」
熟しすぎてグズグズになった腐ったトマトみたいな顔をして叫ぶ。
なんて、下らない。
悪いものは悪い。ルビア自身そう確信している。けれど、ルビアは別に神様とやらが定めた正義を振りかざし、それを従わない者を罰するべきだとは微塵も思っていない。それどころか、「悪」という存在を完全に消滅させようという神の存在そのものを憎んでさえいた。ルビアにとって悪い事自体は「悪」だとは思っていないからだ。
繰り出された拳を軽く身体を逸らして避け、背後からのナイフは振り向きざまに一回転する。動きを封じようとする男は身をかがめるだけで十分だ。両手をポケットに入れたまま。それだけで三人が無様に転んだ。
強く唇を噛みしめ、拳を握る。
悪い事はするなとは言うつもりはない。悪い事をするのならそれなりの覚悟と誇りを持て。目を逸らさず自身を見つめ、いかなる代償を払う覚悟を持って、社会に反抗しろ。それができないのなら悪など名乗るな。その覚悟もなしに「悪」を語るなど、偽りの正義を語るよりも吐き気がする。
無様な三人の男達は地に手をついて立ち上がり、コチラの存在に確認すると再び襲い掛かってきた。自らの辱めを他人のせいにし、自らの痴態を他人に恥辱の限りを尽くすことで優越に変えようとするかの如く。
愚図ども。
こんな愚図どもが居るから努力するものはいつまでも報われることがない。
本当に社会から抹殺すべきなのは、何事にも無気力になってしまった奴ではない。何の覚悟も無く益を得て、その代償を払う覚悟もない者達だ。
体中の毛が立ち上がるのを感じる。目の前が真っ赤になり、まるで血液が逆流してくるかのようだ。怒りが頂点を超えたせいで、リミッターが壊れ全ての感覚が失われる。あまりに力を込めたせいで、関節は白く浮き出て限界まで引き伸ばされた皮膚は今にも張り裂けそう。そして、剥き出しとなった怒りと化した拳を唸らせ振るう・・・
ドン、という音が低く響き渡り大気を揺らす。
パラパラと血液の付いたコンクリートの破片が散らばり、冷たい道路の上に赤い斑点を散らした。ペタンと力なく、もっとも近くに居た男が尻餅をついた。残りの二人は瞳を見開き、暫くルビアを見ていたが化け物でも見たかのように奇声を上げて逃げ出した。
砕け散った破片を踏み潰して、一歩、無様な醜態を晒す男に近づく。
それで我に返ったのか、最後の一人もようやく尻尾を巻いて逃げ出した。
「・・・オレは、何をやっているんだ・・・」
無骨な鉄心が露になった電柱を見て呟く。
これじゃ、オレもあいつらと変わらないじゃないか。アイツが立ち直れるとか期待して、出来なくてイラだって、挙句の果てに公共物を破壊する。いや、電柱は電力会社の持ち物だったはずだから、器物損壊罪か建造物損壊罪か?
どっちだって良いや。
八つ当たりした事には変わりないのだから。
溜め息をついて、壊した電柱の横に座り込む。幸い、電線が切れることだけは避けられたらしく、残った鉄心だけで辛うじて上の部分を支えているようだ。明日には誰かが気がついて修理の連絡をするだろう。
もう止めようか、こんな事。
「貴女らしくないわね。 まるで抜け殻みたいよ?」
全部、無気力になって歩道の縁石に腰を掛けていると上から声が降ってきた。心底ウザイ声に、顔を上げる気も起きない。
「なんだよ」
面倒くさい奴だ。蜘蛛の情報収集能力をオレが知らないはずないだろう。多分、全部知って言っているのだ。その上で、オレの口から言わせないと気がすまないらしい。陰険極まりない。
「あら、分かってたの」
「ったりめぇだろ」
「じゃあ、なら言うわね」
「好きにしやがれ」
す、と芦高が空気を吸う。
「アンタこそこんな所でグダグダやっている暇あるの? それとも、アンタが悩む事で誰かが救われるの? アンタ、そういう頭使うのが苦手でしょ? 馬鹿みたいに相手の事殴って、蹴って、引っぱたいて立ち上がらせて走らせる方が得意なんでしょ」
馬鹿言ってんじゃねぇよ。小さく、胸中呟く。
女神兼悪魔のオレ様に激励を飛ばすとは中々良い度胸じゃないか。不遜極まりないアラクネの胸倉を掴んで、頭突きをかます。顔を顰めた芦高を突き飛ばした。二、三歩よろめく。
「なにすんのよ」
「目、覚めた・・・」
「はぁ?」
「そこ、直しておいてくれ」
強引に芦高の手の中に万札を数枚捻りこむと、そのまま家に向かう。
やってやろうじゃねぇか。
アイツには地獄を見せてやるよ。地べたに這い蹲る方が苦痛な程にな。忘れてた、オレは悪魔だから、手を差し伸べんのは苦手なんだ。
「なんか、顔色悪いよ? ちょっと外でも歩いて来たら?」
「いや、良いや・・・」
「休むなら、連絡入れておかないとだめだよ?」
「大丈夫、もう入れた。 シフトも穴は埋まってるよ」
「そう・・・ なら、いいんだけど・・・」
「おい、トト、この馬鹿を気にしたって仕方ねぇよ。 気分が悪いって心配したって、結局、自分で治すしかねぇんだからよ」
「ルビア・・・ そんな言い方は無いと思うよ?」
トトは相変わらず気を配ってくれるし、ルビアはルビアでいつも通り唯我独尊を貫いている。何一つ変わっていないし、何も変わっていないはずだ。むしろ、俺自身は社会復帰に向けて努力してきたという良い変化はあったと思う。
何故か家の中がギスギスしている。一緒に居るのに蚊帳の外に居るような微妙な疎外感を覚える。なに一つ変わっていないのに、根底から変わってしまったかのように感じるのだ。
本当は答えが分かっている。
気がついてしまったのだ。
俺自身が努力しても何の意味がないという事に。才能の無い自分が努力すれば努力するほど、周囲の人間を巻き込み泥沼に巻き込んでいってしまうという事に。自分には才能がない。分かっていたはずなのに、周りに友人が出来て支えてくれたから、調子に乗って社会復帰なんてものを夢見てしまったからこそ気がついてしまった。底辺の人間は底辺で這いずっていれば良い。
才能が無い人間なんて努力しない方が良いのではないか。そう思ってしまう。
「出かける」
「ちょっとぉ!」
バンと机を叩き、ルビアが立ち上がる。上着を羽織ると帽子を被り、引きとめようとするトトの手を振り払い玄関を蹴り開けて出て行ってしまった。残された歪んだ扉がキィと音を立てる。
トトは暫く空中で伸ばしていた手を大きな溜め息と共にダラリと下ろした。
「ねぇ、圭太・・・ どうしたの? 帰ってきてから元気ないけど・・・」
「大丈夫だよ」
せめて心配を掛けまいと精一杯の嘘をつく。けれど、それはトトの不信感を強くしただけだったようだ。隣に歩み寄るとソファに腰を下ろしてコチラの顔を覗き込む。どこか幼さの残る焦げ茶色の瞳が不安げな色に染まっていた。言葉を交わさなくても、視線が「どうしたの」と訊ねてくる。心の底から心配してくれる、けれどその事は今の自分には単なる重りにしかならなかった。
「そんな事言わないでよ。 ねぇ、どうしたの? 本当に元気ないよ?」
視線が痛い、痛くて顔を背ける。
「なんでもない、いつも通りだ」告げる言葉は自分さえも騙せない。惨めにも程がある。
「話してよ・・・ 相談に乗るよ? 力になれるはずだから」
「だぁ!!! もぉ、うっせぇな!!! 放っておいてくれよ!!!」
だから、折角優しく手を伸ばしてくれたトトの手を振り払った。ヤケクソになって振り払い、トトの表情の無くなった顔を見てそこでやっと冷静になった。最低だ。人に当るなんて。唇を噛みしめて、ソファに座りなおす。もう眼を合わせる勇気は無かった。
気まずい沈黙が二人の間に降りる。
謝りたくても、謝ることができない。トトとの友情がピシリと音を立てて罅が入ったようだった。
「・・・」
「・・・」
結局、先に口を開いたのはトトだった。
「やっぱり・・・ 私じゃだめだよね? 圭太の力になんかなれないか・・・」
「・・・違う! そうじゃない!」
否定するが、トトは微笑んで首を横に振った。困ったような微笑を浮かべて、少しだけ泣きそうな瞳をこちらに向けていた。まるで、テレビの向こう側から心配しているような瞳だった。「助けたい」「力になりたい」どんなにそう思っても、絶対に向こう側に届かないと理解してしまったような瞳だ。
そんな視線で見られては、俺の薄い言葉は意味をなさなかった。
「じゃあ頼ってよ。 求めてよ。 信頼してよ」
力強く、トトは言う。
「私はね・・・ 昔、嫌われ者だったの・・・ だから」
ほら、ゴキブリってそうでしょ? 居るだけで疎まれる そう言いながら、儚げに微笑む。無垢な、こげ茶色の瞳を見て、チクリと胸が痛んだ。トト自身には何の非はない、けれど、ただ居るというだけで疎まれてしまう。そういう存在だったのだ。
「その時は、誰も好きになったことがなかった・・・ けど、今は違う」
沢山の友達が居るから。
「迷惑掛けても良いんだよ。 友達なんだからさ・・・」
・・・
大した目的もないまま家を飛び出してきたルビアは、暗い夜道を歩いていた。まばらに立っている街灯だけが、ルビアの歩く道をボンヤリと照らしていた。僅かに視線を上げれば光に誘われた虫達が何度もプラスチックのカバーにぶつかっている。
「クソッ・・・」
誰に言うでもなく一人呟く。
ムシャクシャしてどうしようもない。
ここまで理不尽な怒りを覚えたのは久しぶりだし、自分がこれほどまでに凶暴性を秘めていたなど今の今まで忘れていた。
アイツが立ち直れない理由、それはオレも分かっている。努力した結果、それが他人に奪われれば心が折れる。当たり前だ。自分の存在が否定されたようなものだからだ。
「おい、そこのお譲ちゃん」
「あぁ?」
「一人で歩いていると危ないぜ?」
振り返る。一目でその手の人間と分かるような男が三人。そのうちの一人がオレの顔を見て機嫌良さそうに小さく口笛を吹いた。今日はなんて日だ。最高に最悪じゃないか。
短く息を吐き、前に向き直る。今はそういう気分じゃない。無視して歩き出すと、一人の男が前を遮った。髪を奇妙に染め、唇やら鼻やらにやたらとピアスを付けている男だ。僅かに横に逸れて歩き出そうとしたが、残りの二人がそれを妨害するように立っていた。
「善意で声を掛けたっていうのに、無視はひでぇんじゃねぇの?」
愉快気に背後の二人も笑い始める。あまりにも品の無い笑い方に虫唾が走った。不愉快極まりない。
「ここ、結構危ない連中が居るんだよね」
「あぁ、そうそう。 恐い男達が居るらしいぜ?」
「だからさ、俺達のところに来ない?」
たっぷりもてなしてやるぜ? リーダー的な男が言い放つと、再び下卑た笑い声を上げた。
「邪魔だ、下衆。 失せろ」
言い放つとピタリと笑い声が止んだ。耳障りな音がしない僅かな時間がたまらなく心地良い。表情が抜け落ちたような顔をして、男達はその不出来な顔を見合わせる。それから、耳から入った音の波が、中身の無い脳味噌でようやく処理され理解されたらしい。
「てっめぇ!!!」
熟しすぎてグズグズになった腐ったトマトみたいな顔をして叫ぶ。
なんて、下らない。
悪いものは悪い。ルビア自身そう確信している。けれど、ルビアは別に神様とやらが定めた正義を振りかざし、それを従わない者を罰するべきだとは微塵も思っていない。それどころか、「悪」という存在を完全に消滅させようという神の存在そのものを憎んでさえいた。ルビアにとって悪い事自体は「悪」だとは思っていないからだ。
繰り出された拳を軽く身体を逸らして避け、背後からのナイフは振り向きざまに一回転する。動きを封じようとする男は身をかがめるだけで十分だ。両手をポケットに入れたまま。それだけで三人が無様に転んだ。
強く唇を噛みしめ、拳を握る。
悪い事はするなとは言うつもりはない。悪い事をするのならそれなりの覚悟と誇りを持て。目を逸らさず自身を見つめ、いかなる代償を払う覚悟を持って、社会に反抗しろ。それができないのなら悪など名乗るな。その覚悟もなしに「悪」を語るなど、偽りの正義を語るよりも吐き気がする。
無様な三人の男達は地に手をついて立ち上がり、コチラの存在に確認すると再び襲い掛かってきた。自らの辱めを他人のせいにし、自らの痴態を他人に恥辱の限りを尽くすことで優越に変えようとするかの如く。
愚図ども。
こんな愚図どもが居るから努力するものはいつまでも報われることがない。
本当に社会から抹殺すべきなのは、何事にも無気力になってしまった奴ではない。何の覚悟も無く益を得て、その代償を払う覚悟もない者達だ。
体中の毛が立ち上がるのを感じる。目の前が真っ赤になり、まるで血液が逆流してくるかのようだ。怒りが頂点を超えたせいで、リミッターが壊れ全ての感覚が失われる。あまりに力を込めたせいで、関節は白く浮き出て限界まで引き伸ばされた皮膚は今にも張り裂けそう。そして、剥き出しとなった怒りと化した拳を唸らせ振るう・・・
ドン、という音が低く響き渡り大気を揺らす。
パラパラと血液の付いたコンクリートの破片が散らばり、冷たい道路の上に赤い斑点を散らした。ペタンと力なく、もっとも近くに居た男が尻餅をついた。残りの二人は瞳を見開き、暫くルビアを見ていたが化け物でも見たかのように奇声を上げて逃げ出した。
砕け散った破片を踏み潰して、一歩、無様な醜態を晒す男に近づく。
それで我に返ったのか、最後の一人もようやく尻尾を巻いて逃げ出した。
「・・・オレは、何をやっているんだ・・・」
無骨な鉄心が露になった電柱を見て呟く。
これじゃ、オレもあいつらと変わらないじゃないか。アイツが立ち直れるとか期待して、出来なくてイラだって、挙句の果てに公共物を破壊する。いや、電柱は電力会社の持ち物だったはずだから、器物損壊罪か建造物損壊罪か?
どっちだって良いや。
八つ当たりした事には変わりないのだから。
溜め息をついて、壊した電柱の横に座り込む。幸い、電線が切れることだけは避けられたらしく、残った鉄心だけで辛うじて上の部分を支えているようだ。明日には誰かが気がついて修理の連絡をするだろう。
もう止めようか、こんな事。
「貴女らしくないわね。 まるで抜け殻みたいよ?」
全部、無気力になって歩道の縁石に腰を掛けていると上から声が降ってきた。心底ウザイ声に、顔を上げる気も起きない。
「なんだよ」
面倒くさい奴だ。蜘蛛の情報収集能力をオレが知らないはずないだろう。多分、全部知って言っているのだ。その上で、オレの口から言わせないと気がすまないらしい。陰険極まりない。
「あら、分かってたの」
「ったりめぇだろ」
「じゃあ、なら言うわね」
「好きにしやがれ」
す、と芦高が空気を吸う。
「アンタこそこんな所でグダグダやっている暇あるの? それとも、アンタが悩む事で誰かが救われるの? アンタ、そういう頭使うのが苦手でしょ? 馬鹿みたいに相手の事殴って、蹴って、引っぱたいて立ち上がらせて走らせる方が得意なんでしょ」
馬鹿言ってんじゃねぇよ。小さく、胸中呟く。
女神兼悪魔のオレ様に激励を飛ばすとは中々良い度胸じゃないか。不遜極まりないアラクネの胸倉を掴んで、頭突きをかます。顔を顰めた芦高を突き飛ばした。二、三歩よろめく。
「なにすんのよ」
「目、覚めた・・・」
「はぁ?」
「そこ、直しておいてくれ」
強引に芦高の手の中に万札を数枚捻りこむと、そのまま家に向かう。
やってやろうじゃねぇか。
アイツには地獄を見せてやるよ。地べたに這い蹲る方が苦痛な程にな。忘れてた、オレは悪魔だから、手を差し伸べんのは苦手なんだ。
11/02/22 00:12更新 / 佐藤 敏夫
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