序幕 恋の始まりとか
「試作チョコ？」
ある魔王軍の砦の執務室で、総指揮を担当するリリムのミネアは怪訝な声をあげた。
その細い指につままれた茶色い球体のチョコレートを、彼女はまじまじと見つめる。
「うむ、そうじゃ！」
そんな彼女の机の前で、豪奢な衣装には似つかわしくない少女がない胸を張る。
小柄な体躯には不釣合いな禍々しい大鎌を背負い、さらさらと流れるようなこげ茶色の髪には山羊の角。
瑞々しい肢体を惜しげもなく晒すバフォメット――エヴァンジェルは自信満々に答えた。
「ほれ、近々ばれんたいんでぃ……とやらがあるじゃろ？ それの試作品じゃ」
「それは分かるけれど……、そのチョコを何で私に？」
そう言って、唐突に渡された小粒のチョコを改めて見直す。
瓶詰めで渡されたチョコの一粒は、きめ細かく丁寧に作られていた。
配下から差し入れを持ってこられることは少なくないが、手作りのチョコをこの時期に渡されるのは初めてだ。
そんな彼女の疑問に、エヴァは呵呵と笑いながら答える。
「なに、激務に疲れておるじゃろう我が親友のためにの！ 甘いものは疲労に効くと聞いたのじゃ！」
「激務って……、まぁ確かに最近は肩がこって仕方ないけれど……」
実際、エヴァの言う通り激務といえば激務だ。
近隣の反魔物領による進行を事前に食い止めるために警備隊を編成しなおし、
街道から出没するようになった盗賊たちの討伐隊を兵舎に頼み、
城下村の子供たちの教育を担当する人や魔物たちを厳選し、
果てに執務室のこの書類の山である。
眠れないほどとまでは言わないが、仮にも一軍を率いる時に覚悟した者としては足りないほどだ。
「やっぱり疲れておるのじゃ！ たまには休息も取らんといざという時に動けぬぞ！」
「休み……ねぇ。そうね、とりあえずこの案件が終わったらあの娘たちでもからかいに行こうかしら」
その激務に加え、彼女の悪趣味である。
引っ付きそうで引っ付かない者々に、無責任かつ面白半分に干渉してくっつかせるという趣味だ。
自身にはそういった相手がいないくせに、彼女の毒牙にかかりカップルになったものは少なくない。
「ワシは休めと言うとるんじゃ！ 遊べとは言うとらん！」
「えぇー、でも私の唯一の生甲斐なのにぃ……、何ならエヴァも適当なの見繕ってあげるわよ？」
「いらんわ！ お主こそさっさと伴侶を見つけて腰を落ち着けるのじゃー！」
（そんなの簡単に見つかったら苦労しないわよ……）
ムガーッと叫ぶエヴァに肩をすくめ、ミネアは呆れたようにため息を吐いた。
だが恐らく、この軍を率いている間は憩いの相手を見つける余裕など恐らくないだろう。
軍内の兵士は大概がお手つき、もしくは唾をつけられた状態だ。
城下村の男でも多くは既に式を挙げており、彼女もそれに微笑ましく参加させてもらっている。
恋愛感情を抱く前に、大概の男は誰かの得物か恋人になっているのだ。
「まったくお主は……、まぁ良い。そういうわけでそれは餞別じゃ、無茶するでないぞ」
「えぇ、適度に休憩を挟むようにするわ。チョコ、ありがとね」
「構わぬ。この砦を率いるお主の労苦を思えばこの程度、まだまだ礼が足りんのじゃ」
そう言って腰に手を当てて、エヴァはニカッと笑う。
「じゃあの！ 近々また来るのじゃ！」
「えぇ、紅茶でも淹れて待ってるわ」
ブンブンと短い手を振って退室する彼女に、ミネアもにこりと笑った。
同じ釜の飯を食らう仲間に慕われて、彼女も嬉しい限りである。
バタンと閉ざされた扉を少し名残惜しげに見つめて、ミネアは手元のチョコを改めて見直す。
「んー……、あの娘のことだから疲労回復にアルラウネの蜜でも入れてないかしら？」
くんくんと鼻をひくつかせてチョコの匂いを嗅ぐが、癖のある甘い香りはしない。
少しビターな、普通のチョコの匂いだった。
「……そもそも、エヴァってチョコ作れたのね……」
自前のサバトに引きこもって研究に没頭する親友の意外な一面に、軽い驚きを覚える。
その後もチョコを何度も入念に確認するが、どこからどう見ても普通のチョコにしか見えない。
むしろそれが不安ではあるが。
「…………ま、まぁ……、さすがに食べれないものは入ってないと思うし……」
そう覚悟を決めて、彼女はチョコを勢いよく口の中に放り込む。
少し甘く、ビターな口溶けのいい味わいが舌の上に広がり、予想外に美味だった。
「あら、意外と美味しい……」
そう呟いて、彼女は机の傍らに置いた瓶詰めから、もう一口チョコを手に取った。
◆
城外の広場で遊ぶ子どもたちの傍で、それを傍目に見守る少年がいた。
歳も子どもたちとそう離れておらず、片手で小さな魔道書をめくっている。
「なーなー、アルも混じらねーか？ 鬼ごっこの人数が少ねーんだよ」
そんな彼にガキ大将風体の子どもが歩み寄ってそう言う。
アルと呼ばれた少年、アルベール・シュトラーゼはその問いにしばらくぼーっとする。
そして本を閉じてまたしばらく黙考した後に、首を傾げた。
「でも、ぼく足おそいよ？」
「そんなのカンケーねぇって。みんなで遊んだほうが楽しーじゃん！」
ニッと歯を剥き出しに笑う彼を、アルは呆けたように見上げる。
再びゆっくりと考えて、アルはにっこりと笑う。
幼いゆえの中性的な顔立ちが微笑むと、どこか少女に近い笑顔になりガキ大将の頬が少し赤くなる。
「ありがと、うん。ぼくも遊びたいな」
「よっしゃ！ おーい、みんなー！ アルも一緒に鬼ごっこするってよー！」
頷いたアルにガッツポーズを取り、ガキ大将は広場の子どもたちに声をかける。
それによろしくー、わーい、がんばろーなどととりとめもない返事をして、子どもたちが集まる。
五人ほどの子どもたちの面々を見て、アルもこくんと頷いた。
「うん、よろしく」
儚げにえへへ……、と照れて笑うアルに応じて子どもたちも笑いあう。
そんな彼らを仕切るようにグッと拳を握り、ガキ大将が声をあげる。
「んじゃ、まずはオレが鬼だぜ！ 一分待つからな、それ逃げろぉ！」
彼が声を張り上げた途端に、子どもたちはわーっと蜘蛛を散らすかの如く駆け出していく。
身軽な子は近くの森へ、女の子は村の方へ、魔物の子達は縦横無尽に走り回っている。
アルはそんな子どもたちに紛れて、魔道書を片手に小走りで砦の方へ向かう。
従兄の勤めるその砦は隠れる場所も多く、彼自身もよく遊びに行くところだからだ。
「えーっと、秘密のうらぐちはー……っと」
ガキ大将の死角に入って小走りをやめ、アルは砦を回りこむように歩き出す。
さすがに砦の中に入るつもりはないが、彼の言う裏口付近に大きなバケツがある。
生まれつき心臓が弱く走るのが苦手な彼は、その中に隠れてやり過ごそうという魂胆である。
かくれんぼ、というツッコミは受け付けない。
「あー、あったあ…………った？」
裏口の鉄製の扉を見つけて歩み寄ると、そこには見知らぬ少女が倒れこんでいた。
ぶかぶかの大人用と思しき黒いドレスに身を包んだ、絹のように綺麗な白髪の少女だ。
頭には黒い角が生えており、背中からは柔らかそうな白い翼が生えている。
同じように白く弾力のありそうな尻尾も伸びており、人間とはかけ離れている。
「すぅ……すぅ……」
「近所にこんな子……いたっけ？」
穏やかな寝息をたてて幸せそうに眠る少女に首を傾げ、アルは黙考にふける。
「一分たったから、探すからなぁ―――！」
が、広場の方から聞こえた大きな声にハッとして、慌てて裏口の傍のバケツに隠れようとする。
アルが忍び歩きでバケツに歩み寄ろうとすると、不意に少女が寝返った。
「むにゃ……くぅ…………」
もともとあられもない格好で眠っていた少女の肢体が更にはだけ、アルはそんな彼女をまじまじと見直す。
色白く細身で、自分と同じく病弱そうなその様に少し考えて、彼はそんな彼女に歩み寄る。
「かぜひくと辛いからね……」
そう呟いて少女にドレスをかけ直し、アルは彼女を背負った。
見た目よりも軽い彼女に少し驚きつつ、彼はそのままバケツの後ろに隠れる。
以前、砦の兵士を勤める従兄から見事隠れおおせた場所で一息つき、彼は少女をゆっくりと下ろす。
そしてその傍らに腰を下ろして、砦に背中を預けるように座り込んで魔道書をパラパラとめくる。
「えー……っと、クリア」
そして魔道書の一節を指で押さえて小さく唱えると、彼の周囲に球状の薄い膜が張られる。
十中八九、ふつうの子どもに見破られることはない隠蓑に成功し、少年はほぅっと息を吐いた。
それから少しぼーっとした後に、思い出したかのように魔道書のしおりを挟んだページを開く。
「…………」
「んん……っんぅ……」
一節一節を丁寧に読み進めていると、傍らに眠る少女がもぞもぞと身をよじる。
またもはだけたドレスに目が行ってしまい、アルは魔道書を開けたままそっと置いた。
そして再び少女にドレスをかけなおそうと手を伸ばした、そのときだった。
「…………んぅ？」
パチッと、少女の目が開く。
緋色の寝惚けたような瞳がぼんやりとアルを覗きこみ、思わず彼も手を止める。
そんな彼に気にも留めずにむくりと起き上がり、ぱさりとドレスが落ちる。
色白の瑞々しい肢体が露わになり、アルは目を丸くする。
「ちょ……」
「ふわ……ぁ」
慌てて声をかけようとするが、不意に大きく欠伸する彼女に声が止まる。
ググッと背伸びをして、平べったい胸が強調されるかのように反る。
まだ性に疎い年頃のアルは、しばしポカーンと彼女を見ていた。
そんな彼にようやく気付いたのか、うっすらと涙の浮かんだ赤い瞳が彼を捉える。
「あら、貴方……どこの子？」
見た目の割に大人びた喋り方の少女に戸惑いを覚えつつ、アルは正直に答える。
「えと……あっちの」
そう言って大雑把に指差し、アルはそっと目を逸らした。
正面から剥き出しの体を見せられたのに照れたのか、その頬を少しだけ赤い。
そんな彼の様子と、肌寒さに気付いたのか少女は自分の体を見下ろす。
（早くふく着ないかなぁ……）
ぼんやりとそう思い、アルが魔道書を読もうと手を伸ばしたときだった。
「何じゃこりゃあ――――――!?」
先ほどのどこか優雅な言葉遣いとは程遠い、素っ頓狂な悲鳴が耳に響く。
アルが慌てて振り向いてみると、目を剥いて一糸纏わぬ自分の姿を見下ろす彼女の姿があった。
大したこともなさそうな彼女にホッと息を吐いて、彼は尋ねる。
「……どうしたの？」
「どうしたもこうしたもっ、何よこれ!? どっ、どうなってるの!?」
自分の体を信じられないかのようにペタペタと触り、少女は愕然としていた。
状況がよく飲み込めずに疑問符を浮かべるアルを置いてきぼりに、慌てたように立ち上がる。
壁に背中を預けるアルは見上げる形となり、桜色の秘部がちょうど目の前にある。
「あ、あのぉ……」
「わ、私の体……よね!? ゆめ、夢なの!? 何なのこれぇ!?」
細い胴を捻りながら自分の体を見下ろす少女。
聞く耳持ちそうにない彼女に諦めて、アルはそっと彼女の正面からずれる。
そして手元の魔道書に視線を落とし、のんびりと開く。
幸いにも彼がかけた魔法には防音機能もあるため、この程度ならバレたりはしないだろう。
「ちょちょ、そこの貴方!? ここっ、これはどうゆうことなの!?」
マイペースに本を読み進めるアルにようやく注意が向いたのか、少女は彼の肩を掴んでガクガクと揺する。
されるがままに頭を振りながら、彼は冷静に彼女の体を指差す。
「とりあえず、ふく着たらいいと思うけど……」
少し困ったように笑う幼い少年に、彼女は改めて自分の姿を見直した。
そしてみるみる内に真っ赤になり、慌てて足元のドレスで平たい胸元を抱えるように覆う。
「キミ、誰かな？ ぼく、あんまり外にでないから知らないんだけど……」
ようやくまともに恥らう様子を見せた少女の方に向き直り、アルは彼女に尋ねる。
儚げに微笑む少年に少しドキリとして、少女はじーっと穴が開きそうなほどに彼の顔を見つめる。
そんな彼女にアルが困ったように首を傾げた頃に、少女は高飛車に答える。
「……淑女に名前を聞くときは、まず自分から名乗るものよ」
「あ、ごめんね。ぼくはアルベール。アルでいいよ」
そんな彼女に気を悪くした様子もなく、アルはにっこりと答える。
笑顔を絶やすことなく自分を見つめる少年に調子を狂わせながら、彼女は深々とため息を吐く。
そして恥ずかしそうに頬を染めたままぷいっと視線を逸らして答える。
「み、ミネアよ……」
「へぇ、ミネアちゃんって言うんだ」
「ちゃん!?」
またしても毅然とした態度からは程遠い、仰天したような声。
それもそのはず、三十路を迎える数年前になってちゃん付けされるとは思わなかったミネアだ。
目を丸くして自分を凝視する彼女に首を傾げ、アルはポンと手を叩く。
「ぼくもよくアルちゃんって呼ばれるんだよ、男の子なのにね」
えへへ……、と照れたように頭を掻く少年。
そんな些細なことに嬉しそうに頬を緩ませるアルに毒気を抜かれ、ミネアは目の前の少年をまじまじと見つめる。
色の抜けた髪に、銀灰色の瞳はどこか儚げな雰囲気を滲ませている。
柔らかそうな頬はうっすらと赤く、確かに女性と見間違うほどの顔立ちである。
「あの、アルベール？ ちょっと聞きたいのだけれど……」
「アルでいいってば。あ、でもアルちゃんはいやだからね？」
そう言って人差し指を立てる無垢な笑顔の少年に、ミネアは気圧される。
渋々といった体で彼に従い、彼女は不本意ながらアルの名を呼ぶ。
「じゃ、じゃあアル？ ちょっと聞きたいのだけど……っ」
そう問おうとしたときに、ふと眩暈がした。
くらっと歪む視界に違和感を覚えるよりも先に、体から力が抜ける。
「ちょ、ミネアちゃん？」
いきなり目の前で膝をつく少女に、アルは少し慌てたように声をかける。
が、そんな彼の言葉がちゃんと耳に届くこともなく、ミネアの意識は闇に呑まれた。
◆
「失礼します――って、あれ？」
執務室に入った兵士の青年が、椅子に座って書類を捌いている少女の姿に目を丸くした。
普段は工房にこもり研究を重ねている最強の魔法使い――エヴァがそこで雑務をこなしていたのだ。
部屋に入ってきた青年に気付いたエヴァは、彼の姿に破顔した。
「おぉ、ネスではないか。どうじゃ、元気にしておったか？」
「え、はぁ……まぁ、元気ッスけど……エヴァ様もお変わりないようで」
「カカッ！ ワシもまだまだ現役じゃからの！」
同じ砦で暮らしていても、魔法を担当する工房と兵士は会う機会が少ない。
未だにエヴァとの出会いに状況をつかめないネスは、目を白黒させていた。
「あ、あの……ミネア様は？」
「うむ、あやつなら強制休暇じゃ。今ごろ外でびっくりしとるはずじゃわい」
きょろきょろと周囲を探しながら問うネスに、エヴァは悪戯を楽しむ子どものようにクックッと笑う。
その姿に妙な不穏さを感じ取り、ネスは背中から冷や汗が流れるのを感じ取った。
と、そこで彼女の机に見慣れないものが置いてあるのに気付いた。
小粒のチョコレートがたくさん入った瓶。
差し入れだろうかと瓶を見つめる彼の視線に気付いたのか、エヴァは愉快そうに笑う。
「食わぬほうが良いぞ。それはワシ特製の薬入りじゃ」
「く、薬ッスか？」
「うむ、サバト印の年齢詐称薬がたっぷりと入っておる」
年齢詐称薬――聞こえはいいが、サバト印とつけばネスも顔をしかめる。
要するに子どもまで強制的に若返る薬なのだろう。
「何故にそんな物体がミネア様の机に……？」
「ワシからの餞別じゃ。幼くあれば執務に戻ろうにも戻れまい」
しれっとした顔でそう言い、エヴァは手元の大判で書類を押す。
「その代替でワシがここにおるわけじゃ。して、何用じゃ？」
積まれていた書類の最後の一枚を終えたのか、エヴァはググッと背伸びしている。
感心したように頷いて、ネスは一枚の書類を机の上に置いた。
その書類には『隣接街道に出没する盗賊退治』と書かれていた。
「行商の方からの依頼で、我々で対処しようかと申請に来たッス」
「うむ、任せようかの」
軽い調子で頷き、エヴァはその書類に判を押す。
◆
「………♪ ……………〜♪」
耳に心地よい声が響く。
うっすらと覚醒した意識にミネアは薄目を開くと、日の光が差し込んでとても眩しかった。
柔らかい感触が後頭部にあり、ぬくぬくと温かい。
「……〜♪ ………♪ ………〜♪」
ゆっくりとしたリズムの声に、ミネアの意識はまたも沈みそうになる。
幼い頃に彼女が聞いた、子守唄のようだ。
スローテンポで間が抜けているものの、優しい声に思わずまどろみそうだ。
ウトウトとしながらも光に目が慣れて、徐々に彼女の視界がクリアになる。
「……………〜♪」
そこには、瞳を閉じながら自分を見下ろすアルの姿があった。
鼻歌交じりに子守唄を小さな声で歌うその姿は、どこか神々しさすら感じる。
そして、自分の頭の高さと、彼を見上げるような自身の体勢に彼女は気付く。
（ひざまくら？ 何で？）
そこでようやく、糸が切れたように意識が途切れた先ほどの顛末を思い出した。
過労による魔力量の減少により、そのまま失神してしまったらしい。
「………〜♪ ………………♪」
それを恐らくは、アルが見守ってくれたのだろう。
自分よりもはるかに幼い少年に頭を預けながら、ぼんやりとミネアはそう思った。
こうして無防備に誰かに身を預けるのは、彼女の知る限り生まれて初めてだ。
そして、それを悪くないと思う自分がいる。
（……伴侶、ね）
今朝方にエヴァが言っていた言葉を、ふっと思い出す。
目の前の少年をそういう風に見てよいものか迷う。
自分が同い年に見えるから優しいのではないか、本当は大人と知ったら落ち込まれないだろうか。
そんな不安がざわざわと胸の奥からせり上がる。
（もう少し、休もう……。まだ、甘えたいわ……）
不安を紛らわせるように寝返りを打ち、ミネアは彼から顔を逸らして瞳を閉じる。
精神まで幼くなってしまったのか、そんな小さな不安に彼女の心臓は早鐘のようである。
ぎゅっと身を縮めて、固く瞼を閉じる彼女に、ふっと歌声が止まる。
そして、不安に怯えるミネアの頭を温かい手が撫でた。
「こわくないよ。だから、ゆっくりお休み」
囁くような声と、優しい手つきに強張った体からゆっくりと力が抜ける。
顔を逸らして良かった、彼女はそう思った。
辛うじて耳までは赤くならなかったが、彼女は自分の頬に異様な熱さを感じていた。
顔を見られていたら、起きているとバレていただろう。
（………………ありがとう）
髪を整えるように優しく撫でる温かい手に、ミネアは瞳を閉じて心の中で感謝した。
優しい子どもに甘えて、彼女は穏やかに寝息をたてた。
ある魔王軍の砦の執務室で、総指揮を担当するリリムのミネアは怪訝な声をあげた。
その細い指につままれた茶色い球体のチョコレートを、彼女はまじまじと見つめる。
「うむ、そうじゃ！」
そんな彼女の机の前で、豪奢な衣装には似つかわしくない少女がない胸を張る。
小柄な体躯には不釣合いな禍々しい大鎌を背負い、さらさらと流れるようなこげ茶色の髪には山羊の角。
瑞々しい肢体を惜しげもなく晒すバフォメット――エヴァンジェルは自信満々に答えた。
「ほれ、近々ばれんたいんでぃ……とやらがあるじゃろ？ それの試作品じゃ」
「それは分かるけれど……、そのチョコを何で私に？」
そう言って、唐突に渡された小粒のチョコを改めて見直す。
瓶詰めで渡されたチョコの一粒は、きめ細かく丁寧に作られていた。
配下から差し入れを持ってこられることは少なくないが、手作りのチョコをこの時期に渡されるのは初めてだ。
そんな彼女の疑問に、エヴァは呵呵と笑いながら答える。
「なに、激務に疲れておるじゃろう我が親友のためにの！ 甘いものは疲労に効くと聞いたのじゃ！」
「激務って……、まぁ確かに最近は肩がこって仕方ないけれど……」
実際、エヴァの言う通り激務といえば激務だ。
近隣の反魔物領による進行を事前に食い止めるために警備隊を編成しなおし、
街道から出没するようになった盗賊たちの討伐隊を兵舎に頼み、
城下村の子供たちの教育を担当する人や魔物たちを厳選し、
果てに執務室のこの書類の山である。
眠れないほどとまでは言わないが、仮にも一軍を率いる時に覚悟した者としては足りないほどだ。
「やっぱり疲れておるのじゃ！ たまには休息も取らんといざという時に動けぬぞ！」
「休み……ねぇ。そうね、とりあえずこの案件が終わったらあの娘たちでもからかいに行こうかしら」
その激務に加え、彼女の悪趣味である。
引っ付きそうで引っ付かない者々に、無責任かつ面白半分に干渉してくっつかせるという趣味だ。
自身にはそういった相手がいないくせに、彼女の毒牙にかかりカップルになったものは少なくない。
「ワシは休めと言うとるんじゃ！ 遊べとは言うとらん！」
「えぇー、でも私の唯一の生甲斐なのにぃ……、何ならエヴァも適当なの見繕ってあげるわよ？」
「いらんわ！ お主こそさっさと伴侶を見つけて腰を落ち着けるのじゃー！」
（そんなの簡単に見つかったら苦労しないわよ……）
ムガーッと叫ぶエヴァに肩をすくめ、ミネアは呆れたようにため息を吐いた。
だが恐らく、この軍を率いている間は憩いの相手を見つける余裕など恐らくないだろう。
軍内の兵士は大概がお手つき、もしくは唾をつけられた状態だ。
城下村の男でも多くは既に式を挙げており、彼女もそれに微笑ましく参加させてもらっている。
恋愛感情を抱く前に、大概の男は誰かの得物か恋人になっているのだ。
「まったくお主は……、まぁ良い。そういうわけでそれは餞別じゃ、無茶するでないぞ」
「えぇ、適度に休憩を挟むようにするわ。チョコ、ありがとね」
「構わぬ。この砦を率いるお主の労苦を思えばこの程度、まだまだ礼が足りんのじゃ」
そう言って腰に手を当てて、エヴァはニカッと笑う。
「じゃあの！ 近々また来るのじゃ！」
「えぇ、紅茶でも淹れて待ってるわ」
ブンブンと短い手を振って退室する彼女に、ミネアもにこりと笑った。
同じ釜の飯を食らう仲間に慕われて、彼女も嬉しい限りである。
バタンと閉ざされた扉を少し名残惜しげに見つめて、ミネアは手元のチョコを改めて見直す。
「んー……、あの娘のことだから疲労回復にアルラウネの蜜でも入れてないかしら？」
くんくんと鼻をひくつかせてチョコの匂いを嗅ぐが、癖のある甘い香りはしない。
少しビターな、普通のチョコの匂いだった。
「……そもそも、エヴァってチョコ作れたのね……」
自前のサバトに引きこもって研究に没頭する親友の意外な一面に、軽い驚きを覚える。
その後もチョコを何度も入念に確認するが、どこからどう見ても普通のチョコにしか見えない。
むしろそれが不安ではあるが。
「…………ま、まぁ……、さすがに食べれないものは入ってないと思うし……」
そう覚悟を決めて、彼女はチョコを勢いよく口の中に放り込む。
少し甘く、ビターな口溶けのいい味わいが舌の上に広がり、予想外に美味だった。
「あら、意外と美味しい……」
そう呟いて、彼女は机の傍らに置いた瓶詰めから、もう一口チョコを手に取った。
◆
城外の広場で遊ぶ子どもたちの傍で、それを傍目に見守る少年がいた。
歳も子どもたちとそう離れておらず、片手で小さな魔道書をめくっている。
「なーなー、アルも混じらねーか？ 鬼ごっこの人数が少ねーんだよ」
そんな彼にガキ大将風体の子どもが歩み寄ってそう言う。
アルと呼ばれた少年、アルベール・シュトラーゼはその問いにしばらくぼーっとする。
そして本を閉じてまたしばらく黙考した後に、首を傾げた。
「でも、ぼく足おそいよ？」
「そんなのカンケーねぇって。みんなで遊んだほうが楽しーじゃん！」
ニッと歯を剥き出しに笑う彼を、アルは呆けたように見上げる。
再びゆっくりと考えて、アルはにっこりと笑う。
幼いゆえの中性的な顔立ちが微笑むと、どこか少女に近い笑顔になりガキ大将の頬が少し赤くなる。
「ありがと、うん。ぼくも遊びたいな」
「よっしゃ！ おーい、みんなー！ アルも一緒に鬼ごっこするってよー！」
頷いたアルにガッツポーズを取り、ガキ大将は広場の子どもたちに声をかける。
それによろしくー、わーい、がんばろーなどととりとめもない返事をして、子どもたちが集まる。
五人ほどの子どもたちの面々を見て、アルもこくんと頷いた。
「うん、よろしく」
儚げにえへへ……、と照れて笑うアルに応じて子どもたちも笑いあう。
そんな彼らを仕切るようにグッと拳を握り、ガキ大将が声をあげる。
「んじゃ、まずはオレが鬼だぜ！ 一分待つからな、それ逃げろぉ！」
彼が声を張り上げた途端に、子どもたちはわーっと蜘蛛を散らすかの如く駆け出していく。
身軽な子は近くの森へ、女の子は村の方へ、魔物の子達は縦横無尽に走り回っている。
アルはそんな子どもたちに紛れて、魔道書を片手に小走りで砦の方へ向かう。
従兄の勤めるその砦は隠れる場所も多く、彼自身もよく遊びに行くところだからだ。
「えーっと、秘密のうらぐちはー……っと」
ガキ大将の死角に入って小走りをやめ、アルは砦を回りこむように歩き出す。
さすがに砦の中に入るつもりはないが、彼の言う裏口付近に大きなバケツがある。
生まれつき心臓が弱く走るのが苦手な彼は、その中に隠れてやり過ごそうという魂胆である。
かくれんぼ、というツッコミは受け付けない。
「あー、あったあ…………った？」
裏口の鉄製の扉を見つけて歩み寄ると、そこには見知らぬ少女が倒れこんでいた。
ぶかぶかの大人用と思しき黒いドレスに身を包んだ、絹のように綺麗な白髪の少女だ。
頭には黒い角が生えており、背中からは柔らかそうな白い翼が生えている。
同じように白く弾力のありそうな尻尾も伸びており、人間とはかけ離れている。
「すぅ……すぅ……」
「近所にこんな子……いたっけ？」
穏やかな寝息をたてて幸せそうに眠る少女に首を傾げ、アルは黙考にふける。
「一分たったから、探すからなぁ―――！」
が、広場の方から聞こえた大きな声にハッとして、慌てて裏口の傍のバケツに隠れようとする。
アルが忍び歩きでバケツに歩み寄ろうとすると、不意に少女が寝返った。
「むにゃ……くぅ…………」
もともとあられもない格好で眠っていた少女の肢体が更にはだけ、アルはそんな彼女をまじまじと見直す。
色白く細身で、自分と同じく病弱そうなその様に少し考えて、彼はそんな彼女に歩み寄る。
「かぜひくと辛いからね……」
そう呟いて少女にドレスをかけ直し、アルは彼女を背負った。
見た目よりも軽い彼女に少し驚きつつ、彼はそのままバケツの後ろに隠れる。
以前、砦の兵士を勤める従兄から見事隠れおおせた場所で一息つき、彼は少女をゆっくりと下ろす。
そしてその傍らに腰を下ろして、砦に背中を預けるように座り込んで魔道書をパラパラとめくる。
「えー……っと、クリア」
そして魔道書の一節を指で押さえて小さく唱えると、彼の周囲に球状の薄い膜が張られる。
十中八九、ふつうの子どもに見破られることはない隠蓑に成功し、少年はほぅっと息を吐いた。
それから少しぼーっとした後に、思い出したかのように魔道書のしおりを挟んだページを開く。
「…………」
「んん……っんぅ……」
一節一節を丁寧に読み進めていると、傍らに眠る少女がもぞもぞと身をよじる。
またもはだけたドレスに目が行ってしまい、アルは魔道書を開けたままそっと置いた。
そして再び少女にドレスをかけなおそうと手を伸ばした、そのときだった。
「…………んぅ？」
パチッと、少女の目が開く。
緋色の寝惚けたような瞳がぼんやりとアルを覗きこみ、思わず彼も手を止める。
そんな彼に気にも留めずにむくりと起き上がり、ぱさりとドレスが落ちる。
色白の瑞々しい肢体が露わになり、アルは目を丸くする。
「ちょ……」
「ふわ……ぁ」
慌てて声をかけようとするが、不意に大きく欠伸する彼女に声が止まる。
ググッと背伸びをして、平べったい胸が強調されるかのように反る。
まだ性に疎い年頃のアルは、しばしポカーンと彼女を見ていた。
そんな彼にようやく気付いたのか、うっすらと涙の浮かんだ赤い瞳が彼を捉える。
「あら、貴方……どこの子？」
見た目の割に大人びた喋り方の少女に戸惑いを覚えつつ、アルは正直に答える。
「えと……あっちの」
そう言って大雑把に指差し、アルはそっと目を逸らした。
正面から剥き出しの体を見せられたのに照れたのか、その頬を少しだけ赤い。
そんな彼の様子と、肌寒さに気付いたのか少女は自分の体を見下ろす。
（早くふく着ないかなぁ……）
ぼんやりとそう思い、アルが魔道書を読もうと手を伸ばしたときだった。
「何じゃこりゃあ――――――!?」
先ほどのどこか優雅な言葉遣いとは程遠い、素っ頓狂な悲鳴が耳に響く。
アルが慌てて振り向いてみると、目を剥いて一糸纏わぬ自分の姿を見下ろす彼女の姿があった。
大したこともなさそうな彼女にホッと息を吐いて、彼は尋ねる。
「……どうしたの？」
「どうしたもこうしたもっ、何よこれ!? どっ、どうなってるの!?」
自分の体を信じられないかのようにペタペタと触り、少女は愕然としていた。
状況がよく飲み込めずに疑問符を浮かべるアルを置いてきぼりに、慌てたように立ち上がる。
壁に背中を預けるアルは見上げる形となり、桜色の秘部がちょうど目の前にある。
「あ、あのぉ……」
「わ、私の体……よね!? ゆめ、夢なの!? 何なのこれぇ!?」
細い胴を捻りながら自分の体を見下ろす少女。
聞く耳持ちそうにない彼女に諦めて、アルはそっと彼女の正面からずれる。
そして手元の魔道書に視線を落とし、のんびりと開く。
幸いにも彼がかけた魔法には防音機能もあるため、この程度ならバレたりはしないだろう。
「ちょちょ、そこの貴方!? ここっ、これはどうゆうことなの!?」
マイペースに本を読み進めるアルにようやく注意が向いたのか、少女は彼の肩を掴んでガクガクと揺する。
されるがままに頭を振りながら、彼は冷静に彼女の体を指差す。
「とりあえず、ふく着たらいいと思うけど……」
少し困ったように笑う幼い少年に、彼女は改めて自分の姿を見直した。
そしてみるみる内に真っ赤になり、慌てて足元のドレスで平たい胸元を抱えるように覆う。
「キミ、誰かな？ ぼく、あんまり外にでないから知らないんだけど……」
ようやくまともに恥らう様子を見せた少女の方に向き直り、アルは彼女に尋ねる。
儚げに微笑む少年に少しドキリとして、少女はじーっと穴が開きそうなほどに彼の顔を見つめる。
そんな彼女にアルが困ったように首を傾げた頃に、少女は高飛車に答える。
「……淑女に名前を聞くときは、まず自分から名乗るものよ」
「あ、ごめんね。ぼくはアルベール。アルでいいよ」
そんな彼女に気を悪くした様子もなく、アルはにっこりと答える。
笑顔を絶やすことなく自分を見つめる少年に調子を狂わせながら、彼女は深々とため息を吐く。
そして恥ずかしそうに頬を染めたままぷいっと視線を逸らして答える。
「み、ミネアよ……」
「へぇ、ミネアちゃんって言うんだ」
「ちゃん!?」
またしても毅然とした態度からは程遠い、仰天したような声。
それもそのはず、三十路を迎える数年前になってちゃん付けされるとは思わなかったミネアだ。
目を丸くして自分を凝視する彼女に首を傾げ、アルはポンと手を叩く。
「ぼくもよくアルちゃんって呼ばれるんだよ、男の子なのにね」
えへへ……、と照れたように頭を掻く少年。
そんな些細なことに嬉しそうに頬を緩ませるアルに毒気を抜かれ、ミネアは目の前の少年をまじまじと見つめる。
色の抜けた髪に、銀灰色の瞳はどこか儚げな雰囲気を滲ませている。
柔らかそうな頬はうっすらと赤く、確かに女性と見間違うほどの顔立ちである。
「あの、アルベール？ ちょっと聞きたいのだけれど……」
「アルでいいってば。あ、でもアルちゃんはいやだからね？」
そう言って人差し指を立てる無垢な笑顔の少年に、ミネアは気圧される。
渋々といった体で彼に従い、彼女は不本意ながらアルの名を呼ぶ。
「じゃ、じゃあアル？ ちょっと聞きたいのだけど……っ」
そう問おうとしたときに、ふと眩暈がした。
くらっと歪む視界に違和感を覚えるよりも先に、体から力が抜ける。
「ちょ、ミネアちゃん？」
いきなり目の前で膝をつく少女に、アルは少し慌てたように声をかける。
が、そんな彼の言葉がちゃんと耳に届くこともなく、ミネアの意識は闇に呑まれた。
◆
「失礼します――って、あれ？」
執務室に入った兵士の青年が、椅子に座って書類を捌いている少女の姿に目を丸くした。
普段は工房にこもり研究を重ねている最強の魔法使い――エヴァがそこで雑務をこなしていたのだ。
部屋に入ってきた青年に気付いたエヴァは、彼の姿に破顔した。
「おぉ、ネスではないか。どうじゃ、元気にしておったか？」
「え、はぁ……まぁ、元気ッスけど……エヴァ様もお変わりないようで」
「カカッ！ ワシもまだまだ現役じゃからの！」
同じ砦で暮らしていても、魔法を担当する工房と兵士は会う機会が少ない。
未だにエヴァとの出会いに状況をつかめないネスは、目を白黒させていた。
「あ、あの……ミネア様は？」
「うむ、あやつなら強制休暇じゃ。今ごろ外でびっくりしとるはずじゃわい」
きょろきょろと周囲を探しながら問うネスに、エヴァは悪戯を楽しむ子どものようにクックッと笑う。
その姿に妙な不穏さを感じ取り、ネスは背中から冷や汗が流れるのを感じ取った。
と、そこで彼女の机に見慣れないものが置いてあるのに気付いた。
小粒のチョコレートがたくさん入った瓶。
差し入れだろうかと瓶を見つめる彼の視線に気付いたのか、エヴァは愉快そうに笑う。
「食わぬほうが良いぞ。それはワシ特製の薬入りじゃ」
「く、薬ッスか？」
「うむ、サバト印の年齢詐称薬がたっぷりと入っておる」
年齢詐称薬――聞こえはいいが、サバト印とつけばネスも顔をしかめる。
要するに子どもまで強制的に若返る薬なのだろう。
「何故にそんな物体がミネア様の机に……？」
「ワシからの餞別じゃ。幼くあれば執務に戻ろうにも戻れまい」
しれっとした顔でそう言い、エヴァは手元の大判で書類を押す。
「その代替でワシがここにおるわけじゃ。して、何用じゃ？」
積まれていた書類の最後の一枚を終えたのか、エヴァはググッと背伸びしている。
感心したように頷いて、ネスは一枚の書類を机の上に置いた。
その書類には『隣接街道に出没する盗賊退治』と書かれていた。
「行商の方からの依頼で、我々で対処しようかと申請に来たッス」
「うむ、任せようかの」
軽い調子で頷き、エヴァはその書類に判を押す。
◆
「………♪ ……………〜♪」
耳に心地よい声が響く。
うっすらと覚醒した意識にミネアは薄目を開くと、日の光が差し込んでとても眩しかった。
柔らかい感触が後頭部にあり、ぬくぬくと温かい。
「……〜♪ ………♪ ………〜♪」
ゆっくりとしたリズムの声に、ミネアの意識はまたも沈みそうになる。
幼い頃に彼女が聞いた、子守唄のようだ。
スローテンポで間が抜けているものの、優しい声に思わずまどろみそうだ。
ウトウトとしながらも光に目が慣れて、徐々に彼女の視界がクリアになる。
「……………〜♪」
そこには、瞳を閉じながら自分を見下ろすアルの姿があった。
鼻歌交じりに子守唄を小さな声で歌うその姿は、どこか神々しさすら感じる。
そして、自分の頭の高さと、彼を見上げるような自身の体勢に彼女は気付く。
（ひざまくら？ 何で？）
そこでようやく、糸が切れたように意識が途切れた先ほどの顛末を思い出した。
過労による魔力量の減少により、そのまま失神してしまったらしい。
「………〜♪ ………………♪」
それを恐らくは、アルが見守ってくれたのだろう。
自分よりもはるかに幼い少年に頭を預けながら、ぼんやりとミネアはそう思った。
こうして無防備に誰かに身を預けるのは、彼女の知る限り生まれて初めてだ。
そして、それを悪くないと思う自分がいる。
（……伴侶、ね）
今朝方にエヴァが言っていた言葉を、ふっと思い出す。
目の前の少年をそういう風に見てよいものか迷う。
自分が同い年に見えるから優しいのではないか、本当は大人と知ったら落ち込まれないだろうか。
そんな不安がざわざわと胸の奥からせり上がる。
（もう少し、休もう……。まだ、甘えたいわ……）
不安を紛らわせるように寝返りを打ち、ミネアは彼から顔を逸らして瞳を閉じる。
精神まで幼くなってしまったのか、そんな小さな不安に彼女の心臓は早鐘のようである。
ぎゅっと身を縮めて、固く瞼を閉じる彼女に、ふっと歌声が止まる。
そして、不安に怯えるミネアの頭を温かい手が撫でた。
「こわくないよ。だから、ゆっくりお休み」
囁くような声と、優しい手つきに強張った体からゆっくりと力が抜ける。
顔を逸らして良かった、彼女はそう思った。
辛うじて耳までは赤くならなかったが、彼女は自分の頬に異様な熱さを感じていた。
顔を見られていたら、起きているとバレていただろう。
（………………ありがとう）
髪を整えるように優しく撫でる温かい手に、ミネアは瞳を閉じて心の中で感謝した。
優しい子どもに甘えて、彼女は穏やかに寝息をたてた。
13/01/16 23:46更新 / みかん右大臣
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