ある港町の新月祭
親魔物領であり交通の要所である、港町ライカ。
往来を仲睦まじげに歩むサキュバスと人間。
何に使うのかよく分からない物を詰め込んだ箱を担ぐ、怪しい微笑の刑部狸。
唐突に開かれるストリートライブの常習犯、セイレーン。
種族を問わず、活気が溢れる大きな町である。
当然、大きな町であればそれだけ問題も多い。
ちょっとした小競り合いは頻繁に発生するうえ、魔物による少し強引すぎるナンパも少なくない。中でも一番困るのが、時折発生する文字通り嵐のような痴話喧嘩である。
あんまりにあんまりな被害報告に目を覆った町長は、町の各地区に駐屯所を設置することにした。
これは、その駐屯所のある兵長の話である……。
――――――――――――――――――――――――――――
「平和だねー……」
白いパラソルの下、往来を眺める一人の青年が呟いた。
迷彩柄のズボンに黒いタンクトップ、ライカの駐屯兵である。首から提げた皮製のドッグタグには、少し大きく『エノク』と刻まれていた。
エノクの言う通り、それはとても平和な光景であった。
人目を憚ることなくイチャつく魔物と人間。
『セイレーン命』と男らしい筆跡のあるハッピを来た男の列。
「おかげ様で堂々とサボれるからありがたいなー……」
行きつけの喫茶店のテラス。
兵長という役職を持つ彼はライカ名物の塩饅頭を一つ摘んで公務員にあるまじき発言をしていた。
そんな彼と同席していた同じ駐屯兵のジンが苦笑する。
「そういう発言は慎んだ方がよろしいかと思いますよ」
とは言いつつもジンもサボっているのはいつものことだ。
「えー? 僕らがこうやって堂々とサボれるのって平和の象徴じゃん? こんな発言が出るくらい平和で嬉しくなんない?」
「そうは言いましても我々は町民の税で働いている身ですよ? 少しはこの町の平和維持に貢献する駐屯兵としての自覚を」
「あーあー、問題発生したらすぐ動くから説教は勘弁―。というか、それ言ったらジンだってサボってるじゃんかー」
「私はサボってなどいません。エノク様の護衛です」
「物は言いようだねー。でも、僕より弱いのによく言うよー」
けらけらと子どものように笑うエノクに、ジンは苦笑する。それはまるで、幼い弟を仕方なく思うような笑みだった。
「ところでさー、ジンは彼女とかいないのー?」
「いきなりですね、どうかなさいました?」
「うんやー? 他所の屯所の中でそういう話が盛り上がってたからさー、ちょっと気になっただけー」
「ははっ、他の地区も平和なようで何よりですね」
そう言って笑うジンに、エノクは誤魔化されないよーと猫のように目を細める。ジンの笑顔が少し堅くなった。
「い、やあ……、私にはそういう浮いた話はありませんねぇ」
「へぇー? じゃあこの間僕が病気で休んだ時に見た、サハギンに押し倒されてるジンはきっと幻だったんだねー」
「てめぇやっぱ仮病だったのか!」
「いやー、五月病だよ五月病―」
思わず素に戻ったジンがエノクに詰め寄るが、エノクは顔色一つ変えずにいつものようにへらへらとした笑いを続ける。
狸め……とジンが恨みがましく呟く。
「やー、だって心配じゃん? 僕の護衛と言う名目でぶらぶらと青春を棒に振ってる部下がいたらさぁー?」
「もう青春っていう歳じゃありませんよ……」
三十代一歩手前のジンに対して、エノクはまだ十八だ。
そんな若者に色事の心配までされるとは情けない話である。
「で、あの娘とは上手くいってるのー?」
「……そ、そりゃあ……まぁ」
赤くなって照れたような反応を返すジン。
青春してんじゃん、と密かに嬉しく思うエノクであった。
でも三十前後のオッサンの反応じゃキモいなー、とも思うが。
「そうだよねー。何だかんだで思いっきりヤってたもんねー。でもせめてもう少し人気のないとこでヤってほしかったなー。橋の上で君らの声聞いたカップルが赤くなってたんだよー?」
「ちょっと待て。お前……、一体どこまで見てたんだ……?」
「強いて言えばジンが巡回始めてから夜のデザートまでー?」
「ほぼ一日中じゃねぇか! お前ストーカーか!? 暇なのか!?」
再び詰め寄るジンを、どうどうと宥めるエノク。
どっちが年上なのかこれでは分からない。
「や、でも幸せそうで何よりだよー。結婚式には呼んでねー?」
「友人代表のスピーチはもうお前に任せるわ……」
ぐったりしたようにそう言い、ジンは少しうな垂れた。
そんな彼に苦笑しつつ、エノクがほんの少し寂しそうに呟く。
「あーあー、ジンに先越されちゃったなー」
「……はぁ、貴方はそういう話はないんですか?」
「うん、全くないねー。だからちょっと羨ましいかもしんないなー」
そう言ってエノクは席を立つ。
それに合わせて立ち上がろうとしたジンをエノクが制止した。
「今日はもう帰っていいよー? ギンちゃんも君のこと待ってるだろうしさー」
「ギンちゃんって誰ですか。彼女の名前はサンテです」
忘れないでくださいよ、そう言ってジンが立ち上がる。
そして、エノクに深々と頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「何のことか僕には分かんないなー? でも感謝するなら伝票も持ってってねー」
とぼけたようにそう言って、エノクはテラスから飛び降りた。
「……ったく、敵わねぇなぁ」
一人残されたジンが呟いて、彼は伝票を手に取った。
――――――――――――――――――――――――――――
「やっぱ平和なもんだねー」
ゴツゴツと重たいブーツを鳴らして、エノクは大通りの真ん中を歩いていた。
まるでお祭のように立ち並ぶ屋台の列に、彼は独りごちる。
「そういや、もうちょっとで新月祭かー」
新月祭。それは言うなればライカの収獲祭のようなものである。新月の晩に行われるから、新月祭である。
今月は大漁だったため少し大規模になるらしく、大通りの奥の大広間に大きな櫓が立っていた。
どうやら、あの周りでダンスパーティーでもするらしい。
「イチャつくには持ってこいだねー」
容易に想像できるダンスパーティーの構図にジンの姿を思い浮かべて、くすくすと穏やかに笑うエノク。
(お祭の時は見回りのシフトからは外しといてあげよっか)
その代わり明日はジンに任せよー、そう呟いて彼は歩を進めようとした。その時だった。
「どこに目ぇつけてんだゴルァ!」
この町には少し似つかわしくない、脅すような怒鳴り声。
エノクが声のした方向を向くと、そこには柄の悪い男が小さな女の子を怒鳴りつけている姿があった。
真っ黒なドレスを着たその少女は、目に涙を溜めている。
「ごっ、ごめんなさい! い、急いでいたので……!」
「急いでたら人にぶつかっても謝らんでいいんかチビ!」
「うわー……、絵に描いたようなチンピラだぁ……」
その光景に半ば呆れるエノク。
が、仕事柄か彼が行動を起こすのは早かった。
「てめぇのせいで俺様の一張羅に汚れちまったろうが!」
「そ、そんな……、どこも汚れてなんて……!」
「あ? 何だぁ、俺様が嘘ついてるって言いてぇのか、あァ!」
「はいはい、少し頭冷やしてくださいストップですー」
ヒートアップする一方的な口論に割り込み、宥めるように男を片手で制すエノク。
突然に現われたエノクに、男は泡を食ったような声を出す。
「な、何だよてめぇ!」
「ただの駐屯兵ですが何かー? とりあえず喧しいので声量を下げてくださいー。ほら、この娘も怯えちゃってますしー」
へらへらとした態度で、しかし少女を庇うように男の正面に立って肩をすくめるエノク。
そんなエノクに、男は更に声を荒げた。
「あァ、被害者はこっちだぞオイッ!」
「やー、どっちが被害者とかはいいんでトーン落としてくださいよー。他の人も吃驚しますからー、ねー?」
女の子に同意を求めるように首を傾げるエノクに、彼女はこくこくと怯えたように頷く。
その態度に苛立ったように、男が手を振り上げた。
「このっ、クソガキがぁ!!」
「……っ、危ない!」
「公務執行妨害、現行犯ですー」
とぼけたようにそう言ったかと思うと、エノクは男が振り上げた手を背後から掴み取る。
一瞬で男の背後に回ったエノクに目を丸くする少女に、彼はにこりと微笑んでそのまま男の腕を捩じ上げた。
そして、空いている手でポケットから携帯電話を取り出す。
ピ、ポ、パ、と親指で番号を打ち、耳元にあてがう。
「あだだだだッ!?」
「もしもしー、ジンー? いま屯所ー? じゃあ手が空いてる人を大広場までー、あ、一人で充分だからお願いねー」
それだけ言ってエノクは通話を切った。
通話時間、約十秒である。
あぁそう言えば、と呟き、エノクが女の子に顔を向ける。
そしてそのまま男の肩を外した。
「ぎぁッ!?」
「ごめんねー、あとで嵌めたげるからー」
酷い(※作者コメント
それはともかくエノクは少女に礼を言った。
「ありがとねー、おかげで無駄に怪我しないで済んだよー」
「ひ、ひえ……、ど、どうひたしまして……」
放心したように応じる女の子の顔は、少し赤かった。
かわいいなー、と思いはしても口にはしないエノク。
「んー、キミこの辺じゃ見ない顔だねー? 何て名前なのー?」
「い、イチカです……、えと、お兄ちゃんは……?」
「僕ー? 僕はエノクだよー、よろしくねーイチカちゃん」
にこにこと人懐っこい笑みを浮かべるエノクの表情は、先ほど無慈悲に男の肩を外した人のそれではなかった。
イチカは、おっかなびっくりといった体でエノクに聞く。
「え、エノクお兄ちゃんはここのちゅーとん兵なの……?」
「そだよー、しかもそれなりに偉い人なんだよー?」
そうは見えないよねー、とけらけら笑うエノクに、イチカは少し吹き出した。
その反応にエノクがえー、とぶうたれる。
「お世辞でも見えるって言ってよー」
「いっ、いえ……、ご、ごめんなさ……あは、あはは」
「ひどいなー、まったくー」
大して気にした様子もなくそう言って、エノクは立ち上がる。
ちょうど、向こうから彼の部下がこちらに向かって走ってきていた。
「さて、お兄ちゃんは仕事に戻るよー。じゃあねイチカちゃん」
そう言ってエノクは彼女の頭を優しく撫でた。
彼はそのままこちらに走ってきた部下に一言二言何かを伝え、チンピラ風の男の外れた腕を引っ張り上げる。
「あ、ぐぁ……ッ!!」
「あ、そういや嵌めてなかったねー、ごめんごめん」
ごりゅッ
「あああぁぁああぁ!?」
「るっさいよー」
そう言って男の首に手刀を入れるエノク。
男の体がだらしなく崩れて、エノクはそのまま部下に巡回を任せて男を屯所に引き摺っていった。
「エノク……お兄ちゃん……」
残された少女は、熱っぽく彼の名を口の中で反芻した。
――――――――――――――――――――――――――――
翌日。
駐屯所の兵舎のボロいドアを荒々しく叩く音に、エノクは目を覚ました。
「何だよー、僕今日はオフだぞー……?」
ジンとの交渉が上手くいって本日はオフになったエノクは、ごろごろとベッドを転がりながら不機嫌そうに唸る。
それでも止まることのないノックの音に苛立って、彼は仕方なく起き上がった。そして乱暴にドアを開ける。
「何だよー、モーニングサービスはいらないよー?」
エノクは寝惚け眼を擦りながらドアの向こう側に立っていた人物に視線を向ける。そこには、何やら興奮した様子のジンが立っていた。
「おはようございますエノク様! お客様が来てますよ!」
「え、客? 何でー?」
エノクはよく分からないジンの言葉に思わず聞き返したが、ジンはその言葉を無視して声を小さくして言った。
「おいおい、一体誰なんだよあのべっぴんさん! お前も何だかんだで立派なコレがいるじゃねぇか!」
そう言って肩に組みかかり小指を立てるジン。
何を言っているのかさっぱり分からないエノクに疑問符があがる。
「いきなり何―? 自分の嫁自慢なら今度にしてよー……」
「何言ってるんだよ、このこの!」
鬱陶しいテンションでつついてくるジンを適当にあしらうが、結局寝巻きのまま兵舎の玄関まで連れていかれた。
瞼に突き刺さるような眩しい朝日に目を伏せて、エノクは自分の髪をガリガリと掻き乱す。
「あ、連れてきましたよ! 彼で間違いありませんか?」
エノクのお客様と言った人物に喜々として確認を取るジン。
エノクは奥さんにチクってやろうかと思った。
やがて眩しさに目が慣れて、エノクの目の焦点が合ってくる。
「はいはいどちらさんでー? 僕まだ眠いから手短、に……?」
エノクは、言葉を失った。
腰まで伸びたブロンドの髪。端整な顔立ちに、白いワンピース。
エノクは、彼女に一度だけ会ったことがあった。
「変わってないね、エノク」
「せ、セツナ……なの?」
エノクは、三年ぶりに会った家出少女に度肝を抜かれた。
――――――――――――――――――――――――――――
「汚いとこだけど……、まぁ入ってよ」
ところ変わってエノクの部屋。
ジンに適当な説明をして、このことを他の人に話したら奥さんにさっき鼻の下が伸びてたことを報告すると脅しつけて三分。
エノクは、狭い上に本や空缶が散乱した部屋に彼女を入れた。
未だに混乱の収まらないエノクに、セツナと呼ばれた少女はくすくすと笑う。
「ベッドの下とか探ってもいいかな?」
「構わないよ、特に何もないけどね」
セツナの冗談に、エノクは呆れたように答える。
そして、口元を綻ばせた。
「久しぶりだね、セツナ……」
「うん、こっちこそだよ」
三年前、エノクは隣国のストリートチルドレンだった。
物心ついたときからずっとそうだったため、どうしてそうなったのかは知らない。ただ、そうだっただけだ。
対してセツナは一般家庭の娘だったが、親と喧嘩して家出を図ったらしい。そして、そのときに彼らは出会った。
「あの時は正直この人バカなの? って思ったなぁ……」
「あははっ、あたしも今はそう思うよ。いやー、お恥ずかしい」
あの時は若かったなぁ、としみじみ呟くセツナ。
その後も彼らは昔話を続けた。
家出したはいいが行く当てがなくてエノクに泣きついたこと。
そんな彼女を見かねて仕方なく寝床を貸してやったこと。
エノクと一緒に靴磨きや物乞いをしてお金を稼いだこと。
セツナに夕食を任せたら二人でお腹を壊したこと。
そして、となりの教国が攻め入ってきた時のこと。
「……逃げ切れたんだね、セツナ」
「……そっちこそ、ね」
無差別に殺されていく人たちの悲鳴を聞きながら、スラムを走り回った記憶は未だにエノクから離れてくれない。
それは、セツナも同様らしかった。
「心配……してたんだから」
「こっちだって、心配したもん……」
その逃げる途中で、セツナはエノクとはぐれてしまった。
そのままこの国に逃げ込んで早三年。何の連絡手段もなく探す手立てもなく、エノクは彼女が死んだものだと思っていた。
「……そっ、そういえばさ!」
エノクは重たい雰囲気を拭うかのようにわざと大きな声を出した。
「もうちょっとでさ、ここでお祭やるんだ! 良かったらセツナも参加しない? 絶対楽しいからさ!」
落ち込んでいるセツナが見てられなくて、エノクは場を盛り上げるように明るい声を出す。
その言葉に、セツナは真正面からエノクを見据えた。
「な、何かな……?」
「エノクってさ、昔からそうだよね」
懐かしそうにそう呟く彼女の表情に、エノクの心臓が不意に高鳴る。
そのことに違和感を覚えつつ、エノクはしどろもどろに応じる。
「そ、そうって……何が?」
「あたしが落ち込んでるとき、頑張って励まそうとしてくれる」
そう言って、スッとエノクに近寄るセツナ。
吐息がかかりそうなほどの近さに慌ててエノクが飛びのく。
「いっ、いきなり何!?」
「あと、ニブいのも昔からだね」
「う、わっ!?」
再び肉薄するセツナに飛びのこうとしたとき、背後にあったベッドに気付かず仰向けに倒れるエノク。
セツナは、そんな彼に覆い被さるようにベッドに乗りかかる。
支給された安っぽいベッドが、ぎしぎしと軋んだ。
「わ、ちょ、えっ!?」
「あたしさ、ずっと前からエノクのこと好きだったんだよ?」
「はっ、はいぃぃ!?」
いきなりの告白にエノクが素っ頓狂な声をあげる。
そんな彼の唇を、セツナの唇が唐突に塞いだ。
「んむっ!?」
「ん……む…ちゅばっ……、ぢゅる………」
舌と舌、唾液と唾液が絡まりあう。
あまりに急速な展開に固まるエノクに対して、セツナの舌は活発だった。
「んぢゅ……ぴちゃ…んふぅ、ぢゅるる………」
ごくん、とセツナの喉が動いた。
唇の隙間から漏れる彼女の淫らな声に、エノクが赤面する。
三年前は、こんなことになるとは思ってなかったのだ。
それから二分ぐらいたって、二人の唇がようやく離れる。
「ぷはぁ……、エノクは、あたしのこと嫌い?」
「………えっ、や……っ、その……」
唐突にそう問われて、エノクは放心状態から引き戻される。
気の利いた文句は思い浮かばないが、これだけは確かだった。
「……好きだったし、好きに決まってるじゃん。でもいきなりすぎるって」
「三年も待ったんだから……、全然いきなりじゃないもん」
頬を膨らませてそう言うセツナに、エノクは少し笑った。
「じゃあ合意の上ってことで問題ないわね」
「え、それってどういうこんむぅぅ!?」
そうして、エノクとしてはとても不本意な形で彼はセツナと交わったのだった。
――――――――――――――――――――――――――――
それから、二人が付き合い始めて三日を経た。
新月祭、当日である。
「それじゃ、巡回があるから行ってくるね?」
申し訳なさそうに、エノクが頭を掻きながら言う。
すでに日が傾きかかっていて、エノクは祭りが終わるまでの間、巡回をしなければいけなかった。
エノクはそのことにセツナが寂しがると思ったが、彼女はあまり気にしていないように笑顔で彼を見送る。
「その……ホント、ごめんね?」
「いーよいーよ、仕事なら仕方ないもん」
そんな彼女に内心感謝しつつ、エノクは行ってきますと言った。そんな彼に、セツナも行ってらっしゃいと返す。
そして、エノクは兵舎の玄関から町の方へ走っていった。
「あ、危なかったぁ……」
しゅるしゅると、彼女から影のような黒いものが剥がれる。どうやら、月が出る時間帯になってしまったようだ。
セツナは、ドッペルゲンガーのイチカだった。
「ごめんね、エノクお兄ちゃん……」
胸をチクチクと刺すような罪悪感に謝罪の言葉を漏らしつつ、イチカは部屋を出る。
そして、イチカはこっそりと彼の後を追い始めるのであった。
ところかわって大広間。中心に立った櫓を囲むように屋台が立ち並び、そこかしこから香ばしい匂いがする。
「……セツナと一緒に来たかったかもなー」
屋台の前で微笑ましくはしゃぐ子どもたちを見て、エノクがそんな事を呟いた。
(っと、ダメダメ。今は仕事だ。部下に示しがつかないよ)
そんな自分を心の中で叱咤して、再び争い事がないか巡回を始めるエノク。しかし、それは無駄なことであった。
金魚掬いに苦戦する小さい女の子と男の子。
偶然耳に入った、恋人たちの甘い語らい。
屋台のおっちゃんたちの威勢のいい客寄せの声。
どこをどう見ても、平和そのものだった。
そんな中、エノクはサハギンの娘と仲睦まじげに歩いているジンの姿を見つけた。
「あ、ジンだー」
「ん? あ、お疲れ様です、エノク様」
「あー、そう固くなんなくていいってばー。今はプライベートタイムなんでしょー?」
エノクがちらりとサハギンの娘に視線を送る。その無表情から少し不機嫌さを感じられたらしい。
「……ジン、この人誰?」
「お? あぁ、こいつはエノク。駐屯兵長なんだ」
「どもどもー、ジンの直属の上司ですー」
おどけたように言っては見せるが、内心ハラハラのエノク。
こっちを見る、もしくは睨むサハギンの目が厳しい。
「……こんなかわいい娘が、上司なんだ?」
「へ? かわいい娘?」
素敵な勘違いに素っ頓狂な声をあげるジン。
「いや、エノクは確かに童顔だが男で」
「そだよー、キミがサンテさん? よろしくねー」
身の危険を感じていち早く懐柔に走るエノク。
さっきのサンテの瞳には、間違いなく殺意が混じっていた。
「ジンのノロケ話でよく聞いてますー、笑うとかわいいってー」
「……そうなの?」
満更でもなさそうな顔(無表情だが)でジンの方を向くサンテ。
それに戸惑うジンを、頷けとジェスチャーするエノク。
「あ、あぁ。ってか、それをこんなとこで言うなよエノク!」
慌てて少し照れて怒ったようなフリをするジン。
エノクはグッジョブと親指を立てた。
「仕事中にノロケ話ばっかするからだよー、でも本当にいい奥さん見つけたねー、ジンは」
「……奥さん、そう見えるの?」
「やー、滲み出るラブラブオーラが半端ないですからねー。結婚式には是非僕も呼んでくださいねー?」
「……うん。ふふふ」
奥さんと呼んでいるのに結婚式には呼んで、そんな矛盾した発言に気付いてぎくりとするエノク。
だが柔和に微笑むサンテにほっとしつつ、エノクはじゃあと手を上げた。
「僕はまだ巡回の仕事があるからー」
「え? もうちょっとゆっくりしてってもいいじゃねぇか」
「バカだなー、気ぃ遣ってあげてんだよー」
それだけ言って、エノクは巡回を再開した。
「……仕事熱心な、上司だね」
「いや、そうでもないさ」
そんな二人の会話が遠くからエノクの耳に入る。
そこはそうだねって言えよ、と苦笑するエノク。
(見せつけられたなー……)
特にサンテさんの愛がヤバいなー、ともエノクは思う。
浮気が発覚しようものなら血を見ることになりそうだった。
「うーん……、ま、今は仕事だねー」
セツナの笑顔が脳裏に浮ぶが、それを振り切るエノク。
仕方ないと割り切ってはいても、やはり少し残念らしい。
「あ、エノク兵長! お疲れ様です!」
そこに、部下の一人が駆け寄ってくる。
「あ、お疲れー。なんか異常あったりするー?」
「いえ、特にはありません。それとそろそろ交代の時間です」
「交代? あれ、今日のシフトって僕は一晩中じゃ……?」
「ジン先輩の頼みで『あいつに彼女ができたから新月祭くらい遊ばせてやれ』だそうでして……」
「あのバカ……」
エノクが振り向くがジンの姿は既にない。
あれだけ言うなと脅しつけたのに。
近々血を見ることになりそうだなとも思うエノクであった。
「んー、厚意はありがたいけどパス。キミらこそいい歳なんだし彼女と遊んできなさいよー」
「我々は生憎そういったものと縁がないようでして……」
「……われ、われ? 何、複数人いるの?」
「はい、なので安心して彼女と遊んできてください!」
威勢良くそう言う部下の一人に涙が出そうなエノク。
先輩からの頼みとは言え、上司が彼女と遊ぶから働けなんて理不尽なことを彼らが引き受けた理由に居た堪れなくなったらしい。
「ごめんね、今度ジンに何か奢らせるよ、BBQでいい?」
「はい! できれば牛肉が食べたいです!」
「おっけー、皆にもリクエスト聞いといてねー」
元気な後輩にひらひらと手を振り、申し訳なく思うエノク。
頑張ってくださいねー、と尾を引くような声に赤面する。
(ま、借りにしといてあげるよ……)
ジンの厚意に少し感謝して携帯電話を取り出す。
一昨日登録した、セツナの番号が液晶に映る。
「きっと吃驚するだろなー、くくっ」
頬が緩むのを押えきれず、エノクが噛み殺すように笑う。
そして、コールした。
「わひゃっ!?」
それと同時に、背後から素っ頓狂な声があがる。
チャルメラの着信音は、セツナの携帯の音だった。
「ありゃ、意外と近くにいたんだねー」
エノクがそう呟いて振り向くと、そこにセツナはいなかった。
代わりに、セツナの携帯を片手に固まるイチカがいた。
「はぇ?」
「ひ、ひぅっ!」
エノクの思考が、一瞬フリーズした。
その隙に、イチカが逃げるように走り出した。
「あ、ちょっと待って!」
「ま、待たないですぅ〜〜〜〜〜!!」
雑踏の中に潜りこむように駆け出す小柄なイチカ。
そんな彼女を見失わないように、混乱しながらもエノクは走り出した。
「ちょっと待てってば! 別に取って食ったりしないから!」
「ひぃ! い、イチカは食べられちゃうのですかぁ!?」
「食わない食わない! だから止まってって!」
結局、普段から鍛えているエノクから逃げ切れるわけも無く、イチカは捕まってしまった。
尚も逃げようと暴れるイチカの襟首をエノクが摘み上げる。
「で、割と何がどうなってるか分かんないんだけど、説明してくんない?」
「あ、あぅ……あぅぅ」
少女説明中。
「……へぇー、ドッペルゲンガーだったんだ」
「ごめんなさいぃ、騙すつもりはなかったのですがぁ……」
「あー泣かないでって。怒るつもりないから、ね?」
子どもをあやすように言うエノクに、ぐすぐすと目元を擦るイチカ。
彼女は、恐る恐る尋ねる。
「お、怒らないですか……?」
「うん、夢でも見てたと思えばそう残念でもないしね」
そう言って苦笑するエノク。
実際、エノクは彼女に出会ってもセツナが生きていることをありえないと思っていた。理由は単純、セツナに三年も一人で生活できるだけの能力が無い。だから、少し疑っていたのだ。
エノクは苦笑したままイチカに軽く頭を下げる。
その動きに、イチカは少し動揺したようだった。
「むしろありがとね。久しぶりに夢見が良かったよ」
「ほぇ……夢見、ですか?」
「誰かと一緒に寝たの、久しぶりだったから」
エノクがそう言うや否や、イチカの顔が真っ赤になった。
「あ、別にエロい意味じゃないからね? 添い寝添い寝」
「わわっ、分かってます!」
愛いのう、とか冗談っぽく呟くエノク。
その言葉が聞こえたのか、イチカが更に赤くなる。
「い、イチカも……その、た、楽しかったです」
照れたように呟いたその言葉は、しっかりとエノクにも聞き取れた。
しかし、イチカは俯いて沈んだ声で続ける。
「でも…………、もぉ、終わり……ですよね」
「………………」
そんな彼女に、エノクは黙って祭の様子を眺める。
もう少しで、ダンスパーティーが始まるようだった。
「イチカは……、セツナさんじゃありませんし、こんな地味な娘ですから……、その、本当にすみませんでした」
目に涙を溜めて、イチカは詰まらないように続ける。
エノクはそれを黙って聞いていた。
「少し、寂しかったんです……。イチカが泣いても誰も振り向いてくれないし……、イチカは独りぼっちなのかな、って」
「……………」
「だから、この数日はとても楽しかったです……」
ひくっ、とイチカが嗚咽を漏らす。
「でも、これでまた独りぼっちですね……!」
そう言って押し殺すように泣き始めるイチカ。
エノクは、そんな彼女の頭を優しく撫でた。
「エノク……お兄ちゃん……?」
「……誰も振り向いてくれない寂しさを、僕は知ってるよ」
少し遠い目で祭りを眺めながら、エノクは続ける。
「僕は元々ストリートチルドレンだ。死にそうになったって、誰も助けちゃくれなかった。すっごい寂しかったの、覚えてる」
「……………」
「あの時はセツナがいてくれたからそうでもなくなったけど、今は違う。セツナは多分死んじゃったろうしね」
「そっ、そんな……きっ、きっと生きてるハズです……!」
どうだろうね、エノクが穏やかな口調で応じる。
イチカは、申し訳なさそうに俯く。
「とにかく、僕だって独りぼっちだった。だからさ、これだけは言わせてほしい」
「………………?」
そう言って、エノクはイチカの正面に向き直った。
そして、エノクはイチカの小柄な体をそっと抱きしめた。
「へ、へぅ!?」
「僕がとなりにいるのに、キミは独りぼっちなのかい?」
急に抱きしめられて慌て出すイチカに、エノクは苦笑いして続ける。
「意外とさ、独りぼっちにはなれないもんだよ?」
「で、でもっ、い、イチカは……!」
「僕を騙してた、って? でもさ、キミが僕を好きな気持ちはちゃんと伝わったから僕も返事するべきじゃん」
そう言って、エノクは彼女の手を引いて立ち上がる。
「僕はイチカちゃんのこと、好きだよ?」
エノクが微笑んで言う。
イチカは目に涙を溜めて、嗚咽を噛み殺す。
「い、イチカは……、とっても地味な娘ですよ……っ?」
「かわいいと思う」
「そ、それに……、し、嫉妬とかして、暗い娘ですよ……っ?」
「僕だってキミが他の男の人と歩いてたら嫉妬するし」
笑顔で応じるエノクに、イチカは堪えきれず泣き出した。
「ぅ、わぁぁぁああああああん!!」
「うおっ!? あ、あれ、僕何かマズった!?」
堰を切ったように泣き出すイチカに、慌て出すエノク。
エノクはポケットからわたわたとハンカチを取り出す。
「あー、ほら、泣き止んで、ね?」
「ひくっ、ぐずっ……、は、はぃぃ、す、すいません」
それでもまだ嗚咽するイチカ。
エノクは、ぽりぽりと困ったように頬を掻いた。
「んー、これじゃ部下に申し訳が立たないや」
そう呟くや否や、エノクはイチカを抱き上げた。
俗に言う、お姫様抱っこというヤツである。
「う、ひゃあ!?」
「あは、キミ軽いねぇ」
けらけらといつも通り笑うエノクに対して、イチカは真っ赤になる。
「は、恥ずかしいです! お、降ろしてください!」
「えぇー、お姫様抱っこは男のロマンだよー?」
「そんなの女の子だって同じです!」
ややヤケ気味にそう叫ぶイチカ。
それを適当にかわしてエノクは大広場へ歩き出す。
「ま、それはともかく、さ」
少し照れたように頬を染めて、エノクは続けた。
「一緒に踊ってくださりませんか、お嬢さん?」
かしこまったようにそう言うエノク。
イチカは、そんなエノクがおかしくて少し笑ってしまった。
「あはは……、その、よ、喜んで♪」
そう言ってはにかんだイチカの顔は、まるで花が咲いたようだった。
往来を仲睦まじげに歩むサキュバスと人間。
何に使うのかよく分からない物を詰め込んだ箱を担ぐ、怪しい微笑の刑部狸。
唐突に開かれるストリートライブの常習犯、セイレーン。
種族を問わず、活気が溢れる大きな町である。
当然、大きな町であればそれだけ問題も多い。
ちょっとした小競り合いは頻繁に発生するうえ、魔物による少し強引すぎるナンパも少なくない。中でも一番困るのが、時折発生する文字通り嵐のような痴話喧嘩である。
あんまりにあんまりな被害報告に目を覆った町長は、町の各地区に駐屯所を設置することにした。
これは、その駐屯所のある兵長の話である……。
――――――――――――――――――――――――――――
「平和だねー……」
白いパラソルの下、往来を眺める一人の青年が呟いた。
迷彩柄のズボンに黒いタンクトップ、ライカの駐屯兵である。首から提げた皮製のドッグタグには、少し大きく『エノク』と刻まれていた。
エノクの言う通り、それはとても平和な光景であった。
人目を憚ることなくイチャつく魔物と人間。
『セイレーン命』と男らしい筆跡のあるハッピを来た男の列。
「おかげ様で堂々とサボれるからありがたいなー……」
行きつけの喫茶店のテラス。
兵長という役職を持つ彼はライカ名物の塩饅頭を一つ摘んで公務員にあるまじき発言をしていた。
そんな彼と同席していた同じ駐屯兵のジンが苦笑する。
「そういう発言は慎んだ方がよろしいかと思いますよ」
とは言いつつもジンもサボっているのはいつものことだ。
「えー? 僕らがこうやって堂々とサボれるのって平和の象徴じゃん? こんな発言が出るくらい平和で嬉しくなんない?」
「そうは言いましても我々は町民の税で働いている身ですよ? 少しはこの町の平和維持に貢献する駐屯兵としての自覚を」
「あーあー、問題発生したらすぐ動くから説教は勘弁―。というか、それ言ったらジンだってサボってるじゃんかー」
「私はサボってなどいません。エノク様の護衛です」
「物は言いようだねー。でも、僕より弱いのによく言うよー」
けらけらと子どものように笑うエノクに、ジンは苦笑する。それはまるで、幼い弟を仕方なく思うような笑みだった。
「ところでさー、ジンは彼女とかいないのー?」
「いきなりですね、どうかなさいました?」
「うんやー? 他所の屯所の中でそういう話が盛り上がってたからさー、ちょっと気になっただけー」
「ははっ、他の地区も平和なようで何よりですね」
そう言って笑うジンに、エノクは誤魔化されないよーと猫のように目を細める。ジンの笑顔が少し堅くなった。
「い、やあ……、私にはそういう浮いた話はありませんねぇ」
「へぇー? じゃあこの間僕が病気で休んだ時に見た、サハギンに押し倒されてるジンはきっと幻だったんだねー」
「てめぇやっぱ仮病だったのか!」
「いやー、五月病だよ五月病―」
思わず素に戻ったジンがエノクに詰め寄るが、エノクは顔色一つ変えずにいつものようにへらへらとした笑いを続ける。
狸め……とジンが恨みがましく呟く。
「やー、だって心配じゃん? 僕の護衛と言う名目でぶらぶらと青春を棒に振ってる部下がいたらさぁー?」
「もう青春っていう歳じゃありませんよ……」
三十代一歩手前のジンに対して、エノクはまだ十八だ。
そんな若者に色事の心配までされるとは情けない話である。
「で、あの娘とは上手くいってるのー?」
「……そ、そりゃあ……まぁ」
赤くなって照れたような反応を返すジン。
青春してんじゃん、と密かに嬉しく思うエノクであった。
でも三十前後のオッサンの反応じゃキモいなー、とも思うが。
「そうだよねー。何だかんだで思いっきりヤってたもんねー。でもせめてもう少し人気のないとこでヤってほしかったなー。橋の上で君らの声聞いたカップルが赤くなってたんだよー?」
「ちょっと待て。お前……、一体どこまで見てたんだ……?」
「強いて言えばジンが巡回始めてから夜のデザートまでー?」
「ほぼ一日中じゃねぇか! お前ストーカーか!? 暇なのか!?」
再び詰め寄るジンを、どうどうと宥めるエノク。
どっちが年上なのかこれでは分からない。
「や、でも幸せそうで何よりだよー。結婚式には呼んでねー?」
「友人代表のスピーチはもうお前に任せるわ……」
ぐったりしたようにそう言い、ジンは少しうな垂れた。
そんな彼に苦笑しつつ、エノクがほんの少し寂しそうに呟く。
「あーあー、ジンに先越されちゃったなー」
「……はぁ、貴方はそういう話はないんですか?」
「うん、全くないねー。だからちょっと羨ましいかもしんないなー」
そう言ってエノクは席を立つ。
それに合わせて立ち上がろうとしたジンをエノクが制止した。
「今日はもう帰っていいよー? ギンちゃんも君のこと待ってるだろうしさー」
「ギンちゃんって誰ですか。彼女の名前はサンテです」
忘れないでくださいよ、そう言ってジンが立ち上がる。
そして、エノクに深々と頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「何のことか僕には分かんないなー? でも感謝するなら伝票も持ってってねー」
とぼけたようにそう言って、エノクはテラスから飛び降りた。
「……ったく、敵わねぇなぁ」
一人残されたジンが呟いて、彼は伝票を手に取った。
――――――――――――――――――――――――――――
「やっぱ平和なもんだねー」
ゴツゴツと重たいブーツを鳴らして、エノクは大通りの真ん中を歩いていた。
まるでお祭のように立ち並ぶ屋台の列に、彼は独りごちる。
「そういや、もうちょっとで新月祭かー」
新月祭。それは言うなればライカの収獲祭のようなものである。新月の晩に行われるから、新月祭である。
今月は大漁だったため少し大規模になるらしく、大通りの奥の大広間に大きな櫓が立っていた。
どうやら、あの周りでダンスパーティーでもするらしい。
「イチャつくには持ってこいだねー」
容易に想像できるダンスパーティーの構図にジンの姿を思い浮かべて、くすくすと穏やかに笑うエノク。
(お祭の時は見回りのシフトからは外しといてあげよっか)
その代わり明日はジンに任せよー、そう呟いて彼は歩を進めようとした。その時だった。
「どこに目ぇつけてんだゴルァ!」
この町には少し似つかわしくない、脅すような怒鳴り声。
エノクが声のした方向を向くと、そこには柄の悪い男が小さな女の子を怒鳴りつけている姿があった。
真っ黒なドレスを着たその少女は、目に涙を溜めている。
「ごっ、ごめんなさい! い、急いでいたので……!」
「急いでたら人にぶつかっても謝らんでいいんかチビ!」
「うわー……、絵に描いたようなチンピラだぁ……」
その光景に半ば呆れるエノク。
が、仕事柄か彼が行動を起こすのは早かった。
「てめぇのせいで俺様の一張羅に汚れちまったろうが!」
「そ、そんな……、どこも汚れてなんて……!」
「あ? 何だぁ、俺様が嘘ついてるって言いてぇのか、あァ!」
「はいはい、少し頭冷やしてくださいストップですー」
ヒートアップする一方的な口論に割り込み、宥めるように男を片手で制すエノク。
突然に現われたエノクに、男は泡を食ったような声を出す。
「な、何だよてめぇ!」
「ただの駐屯兵ですが何かー? とりあえず喧しいので声量を下げてくださいー。ほら、この娘も怯えちゃってますしー」
へらへらとした態度で、しかし少女を庇うように男の正面に立って肩をすくめるエノク。
そんなエノクに、男は更に声を荒げた。
「あァ、被害者はこっちだぞオイッ!」
「やー、どっちが被害者とかはいいんでトーン落としてくださいよー。他の人も吃驚しますからー、ねー?」
女の子に同意を求めるように首を傾げるエノクに、彼女はこくこくと怯えたように頷く。
その態度に苛立ったように、男が手を振り上げた。
「このっ、クソガキがぁ!!」
「……っ、危ない!」
「公務執行妨害、現行犯ですー」
とぼけたようにそう言ったかと思うと、エノクは男が振り上げた手を背後から掴み取る。
一瞬で男の背後に回ったエノクに目を丸くする少女に、彼はにこりと微笑んでそのまま男の腕を捩じ上げた。
そして、空いている手でポケットから携帯電話を取り出す。
ピ、ポ、パ、と親指で番号を打ち、耳元にあてがう。
「あだだだだッ!?」
「もしもしー、ジンー? いま屯所ー? じゃあ手が空いてる人を大広場までー、あ、一人で充分だからお願いねー」
それだけ言ってエノクは通話を切った。
通話時間、約十秒である。
あぁそう言えば、と呟き、エノクが女の子に顔を向ける。
そしてそのまま男の肩を外した。
「ぎぁッ!?」
「ごめんねー、あとで嵌めたげるからー」
酷い(※作者コメント
それはともかくエノクは少女に礼を言った。
「ありがとねー、おかげで無駄に怪我しないで済んだよー」
「ひ、ひえ……、ど、どうひたしまして……」
放心したように応じる女の子の顔は、少し赤かった。
かわいいなー、と思いはしても口にはしないエノク。
「んー、キミこの辺じゃ見ない顔だねー? 何て名前なのー?」
「い、イチカです……、えと、お兄ちゃんは……?」
「僕ー? 僕はエノクだよー、よろしくねーイチカちゃん」
にこにこと人懐っこい笑みを浮かべるエノクの表情は、先ほど無慈悲に男の肩を外した人のそれではなかった。
イチカは、おっかなびっくりといった体でエノクに聞く。
「え、エノクお兄ちゃんはここのちゅーとん兵なの……?」
「そだよー、しかもそれなりに偉い人なんだよー?」
そうは見えないよねー、とけらけら笑うエノクに、イチカは少し吹き出した。
その反応にエノクがえー、とぶうたれる。
「お世辞でも見えるって言ってよー」
「いっ、いえ……、ご、ごめんなさ……あは、あはは」
「ひどいなー、まったくー」
大して気にした様子もなくそう言って、エノクは立ち上がる。
ちょうど、向こうから彼の部下がこちらに向かって走ってきていた。
「さて、お兄ちゃんは仕事に戻るよー。じゃあねイチカちゃん」
そう言ってエノクは彼女の頭を優しく撫でた。
彼はそのままこちらに走ってきた部下に一言二言何かを伝え、チンピラ風の男の外れた腕を引っ張り上げる。
「あ、ぐぁ……ッ!!」
「あ、そういや嵌めてなかったねー、ごめんごめん」
ごりゅッ
「あああぁぁああぁ!?」
「るっさいよー」
そう言って男の首に手刀を入れるエノク。
男の体がだらしなく崩れて、エノクはそのまま部下に巡回を任せて男を屯所に引き摺っていった。
「エノク……お兄ちゃん……」
残された少女は、熱っぽく彼の名を口の中で反芻した。
――――――――――――――――――――――――――――
翌日。
駐屯所の兵舎のボロいドアを荒々しく叩く音に、エノクは目を覚ました。
「何だよー、僕今日はオフだぞー……?」
ジンとの交渉が上手くいって本日はオフになったエノクは、ごろごろとベッドを転がりながら不機嫌そうに唸る。
それでも止まることのないノックの音に苛立って、彼は仕方なく起き上がった。そして乱暴にドアを開ける。
「何だよー、モーニングサービスはいらないよー?」
エノクは寝惚け眼を擦りながらドアの向こう側に立っていた人物に視線を向ける。そこには、何やら興奮した様子のジンが立っていた。
「おはようございますエノク様! お客様が来てますよ!」
「え、客? 何でー?」
エノクはよく分からないジンの言葉に思わず聞き返したが、ジンはその言葉を無視して声を小さくして言った。
「おいおい、一体誰なんだよあのべっぴんさん! お前も何だかんだで立派なコレがいるじゃねぇか!」
そう言って肩に組みかかり小指を立てるジン。
何を言っているのかさっぱり分からないエノクに疑問符があがる。
「いきなり何―? 自分の嫁自慢なら今度にしてよー……」
「何言ってるんだよ、このこの!」
鬱陶しいテンションでつついてくるジンを適当にあしらうが、結局寝巻きのまま兵舎の玄関まで連れていかれた。
瞼に突き刺さるような眩しい朝日に目を伏せて、エノクは自分の髪をガリガリと掻き乱す。
「あ、連れてきましたよ! 彼で間違いありませんか?」
エノクのお客様と言った人物に喜々として確認を取るジン。
エノクは奥さんにチクってやろうかと思った。
やがて眩しさに目が慣れて、エノクの目の焦点が合ってくる。
「はいはいどちらさんでー? 僕まだ眠いから手短、に……?」
エノクは、言葉を失った。
腰まで伸びたブロンドの髪。端整な顔立ちに、白いワンピース。
エノクは、彼女に一度だけ会ったことがあった。
「変わってないね、エノク」
「せ、セツナ……なの?」
エノクは、三年ぶりに会った家出少女に度肝を抜かれた。
――――――――――――――――――――――――――――
「汚いとこだけど……、まぁ入ってよ」
ところ変わってエノクの部屋。
ジンに適当な説明をして、このことを他の人に話したら奥さんにさっき鼻の下が伸びてたことを報告すると脅しつけて三分。
エノクは、狭い上に本や空缶が散乱した部屋に彼女を入れた。
未だに混乱の収まらないエノクに、セツナと呼ばれた少女はくすくすと笑う。
「ベッドの下とか探ってもいいかな?」
「構わないよ、特に何もないけどね」
セツナの冗談に、エノクは呆れたように答える。
そして、口元を綻ばせた。
「久しぶりだね、セツナ……」
「うん、こっちこそだよ」
三年前、エノクは隣国のストリートチルドレンだった。
物心ついたときからずっとそうだったため、どうしてそうなったのかは知らない。ただ、そうだっただけだ。
対してセツナは一般家庭の娘だったが、親と喧嘩して家出を図ったらしい。そして、そのときに彼らは出会った。
「あの時は正直この人バカなの? って思ったなぁ……」
「あははっ、あたしも今はそう思うよ。いやー、お恥ずかしい」
あの時は若かったなぁ、としみじみ呟くセツナ。
その後も彼らは昔話を続けた。
家出したはいいが行く当てがなくてエノクに泣きついたこと。
そんな彼女を見かねて仕方なく寝床を貸してやったこと。
エノクと一緒に靴磨きや物乞いをしてお金を稼いだこと。
セツナに夕食を任せたら二人でお腹を壊したこと。
そして、となりの教国が攻め入ってきた時のこと。
「……逃げ切れたんだね、セツナ」
「……そっちこそ、ね」
無差別に殺されていく人たちの悲鳴を聞きながら、スラムを走り回った記憶は未だにエノクから離れてくれない。
それは、セツナも同様らしかった。
「心配……してたんだから」
「こっちだって、心配したもん……」
その逃げる途中で、セツナはエノクとはぐれてしまった。
そのままこの国に逃げ込んで早三年。何の連絡手段もなく探す手立てもなく、エノクは彼女が死んだものだと思っていた。
「……そっ、そういえばさ!」
エノクは重たい雰囲気を拭うかのようにわざと大きな声を出した。
「もうちょっとでさ、ここでお祭やるんだ! 良かったらセツナも参加しない? 絶対楽しいからさ!」
落ち込んでいるセツナが見てられなくて、エノクは場を盛り上げるように明るい声を出す。
その言葉に、セツナは真正面からエノクを見据えた。
「な、何かな……?」
「エノクってさ、昔からそうだよね」
懐かしそうにそう呟く彼女の表情に、エノクの心臓が不意に高鳴る。
そのことに違和感を覚えつつ、エノクはしどろもどろに応じる。
「そ、そうって……何が?」
「あたしが落ち込んでるとき、頑張って励まそうとしてくれる」
そう言って、スッとエノクに近寄るセツナ。
吐息がかかりそうなほどの近さに慌ててエノクが飛びのく。
「いっ、いきなり何!?」
「あと、ニブいのも昔からだね」
「う、わっ!?」
再び肉薄するセツナに飛びのこうとしたとき、背後にあったベッドに気付かず仰向けに倒れるエノク。
セツナは、そんな彼に覆い被さるようにベッドに乗りかかる。
支給された安っぽいベッドが、ぎしぎしと軋んだ。
「わ、ちょ、えっ!?」
「あたしさ、ずっと前からエノクのこと好きだったんだよ?」
「はっ、はいぃぃ!?」
いきなりの告白にエノクが素っ頓狂な声をあげる。
そんな彼の唇を、セツナの唇が唐突に塞いだ。
「んむっ!?」
「ん……む…ちゅばっ……、ぢゅる………」
舌と舌、唾液と唾液が絡まりあう。
あまりに急速な展開に固まるエノクに対して、セツナの舌は活発だった。
「んぢゅ……ぴちゃ…んふぅ、ぢゅるる………」
ごくん、とセツナの喉が動いた。
唇の隙間から漏れる彼女の淫らな声に、エノクが赤面する。
三年前は、こんなことになるとは思ってなかったのだ。
それから二分ぐらいたって、二人の唇がようやく離れる。
「ぷはぁ……、エノクは、あたしのこと嫌い?」
「………えっ、や……っ、その……」
唐突にそう問われて、エノクは放心状態から引き戻される。
気の利いた文句は思い浮かばないが、これだけは確かだった。
「……好きだったし、好きに決まってるじゃん。でもいきなりすぎるって」
「三年も待ったんだから……、全然いきなりじゃないもん」
頬を膨らませてそう言うセツナに、エノクは少し笑った。
「じゃあ合意の上ってことで問題ないわね」
「え、それってどういうこんむぅぅ!?」
そうして、エノクとしてはとても不本意な形で彼はセツナと交わったのだった。
――――――――――――――――――――――――――――
それから、二人が付き合い始めて三日を経た。
新月祭、当日である。
「それじゃ、巡回があるから行ってくるね?」
申し訳なさそうに、エノクが頭を掻きながら言う。
すでに日が傾きかかっていて、エノクは祭りが終わるまでの間、巡回をしなければいけなかった。
エノクはそのことにセツナが寂しがると思ったが、彼女はあまり気にしていないように笑顔で彼を見送る。
「その……ホント、ごめんね?」
「いーよいーよ、仕事なら仕方ないもん」
そんな彼女に内心感謝しつつ、エノクは行ってきますと言った。そんな彼に、セツナも行ってらっしゃいと返す。
そして、エノクは兵舎の玄関から町の方へ走っていった。
「あ、危なかったぁ……」
しゅるしゅると、彼女から影のような黒いものが剥がれる。どうやら、月が出る時間帯になってしまったようだ。
セツナは、ドッペルゲンガーのイチカだった。
「ごめんね、エノクお兄ちゃん……」
胸をチクチクと刺すような罪悪感に謝罪の言葉を漏らしつつ、イチカは部屋を出る。
そして、イチカはこっそりと彼の後を追い始めるのであった。
ところかわって大広間。中心に立った櫓を囲むように屋台が立ち並び、そこかしこから香ばしい匂いがする。
「……セツナと一緒に来たかったかもなー」
屋台の前で微笑ましくはしゃぐ子どもたちを見て、エノクがそんな事を呟いた。
(っと、ダメダメ。今は仕事だ。部下に示しがつかないよ)
そんな自分を心の中で叱咤して、再び争い事がないか巡回を始めるエノク。しかし、それは無駄なことであった。
金魚掬いに苦戦する小さい女の子と男の子。
偶然耳に入った、恋人たちの甘い語らい。
屋台のおっちゃんたちの威勢のいい客寄せの声。
どこをどう見ても、平和そのものだった。
そんな中、エノクはサハギンの娘と仲睦まじげに歩いているジンの姿を見つけた。
「あ、ジンだー」
「ん? あ、お疲れ様です、エノク様」
「あー、そう固くなんなくていいってばー。今はプライベートタイムなんでしょー?」
エノクがちらりとサハギンの娘に視線を送る。その無表情から少し不機嫌さを感じられたらしい。
「……ジン、この人誰?」
「お? あぁ、こいつはエノク。駐屯兵長なんだ」
「どもどもー、ジンの直属の上司ですー」
おどけたように言っては見せるが、内心ハラハラのエノク。
こっちを見る、もしくは睨むサハギンの目が厳しい。
「……こんなかわいい娘が、上司なんだ?」
「へ? かわいい娘?」
素敵な勘違いに素っ頓狂な声をあげるジン。
「いや、エノクは確かに童顔だが男で」
「そだよー、キミがサンテさん? よろしくねー」
身の危険を感じていち早く懐柔に走るエノク。
さっきのサンテの瞳には、間違いなく殺意が混じっていた。
「ジンのノロケ話でよく聞いてますー、笑うとかわいいってー」
「……そうなの?」
満更でもなさそうな顔(無表情だが)でジンの方を向くサンテ。
それに戸惑うジンを、頷けとジェスチャーするエノク。
「あ、あぁ。ってか、それをこんなとこで言うなよエノク!」
慌てて少し照れて怒ったようなフリをするジン。
エノクはグッジョブと親指を立てた。
「仕事中にノロケ話ばっかするからだよー、でも本当にいい奥さん見つけたねー、ジンは」
「……奥さん、そう見えるの?」
「やー、滲み出るラブラブオーラが半端ないですからねー。結婚式には是非僕も呼んでくださいねー?」
「……うん。ふふふ」
奥さんと呼んでいるのに結婚式には呼んで、そんな矛盾した発言に気付いてぎくりとするエノク。
だが柔和に微笑むサンテにほっとしつつ、エノクはじゃあと手を上げた。
「僕はまだ巡回の仕事があるからー」
「え? もうちょっとゆっくりしてってもいいじゃねぇか」
「バカだなー、気ぃ遣ってあげてんだよー」
それだけ言って、エノクは巡回を再開した。
「……仕事熱心な、上司だね」
「いや、そうでもないさ」
そんな二人の会話が遠くからエノクの耳に入る。
そこはそうだねって言えよ、と苦笑するエノク。
(見せつけられたなー……)
特にサンテさんの愛がヤバいなー、ともエノクは思う。
浮気が発覚しようものなら血を見ることになりそうだった。
「うーん……、ま、今は仕事だねー」
セツナの笑顔が脳裏に浮ぶが、それを振り切るエノク。
仕方ないと割り切ってはいても、やはり少し残念らしい。
「あ、エノク兵長! お疲れ様です!」
そこに、部下の一人が駆け寄ってくる。
「あ、お疲れー。なんか異常あったりするー?」
「いえ、特にはありません。それとそろそろ交代の時間です」
「交代? あれ、今日のシフトって僕は一晩中じゃ……?」
「ジン先輩の頼みで『あいつに彼女ができたから新月祭くらい遊ばせてやれ』だそうでして……」
「あのバカ……」
エノクが振り向くがジンの姿は既にない。
あれだけ言うなと脅しつけたのに。
近々血を見ることになりそうだなとも思うエノクであった。
「んー、厚意はありがたいけどパス。キミらこそいい歳なんだし彼女と遊んできなさいよー」
「我々は生憎そういったものと縁がないようでして……」
「……われ、われ? 何、複数人いるの?」
「はい、なので安心して彼女と遊んできてください!」
威勢良くそう言う部下の一人に涙が出そうなエノク。
先輩からの頼みとは言え、上司が彼女と遊ぶから働けなんて理不尽なことを彼らが引き受けた理由に居た堪れなくなったらしい。
「ごめんね、今度ジンに何か奢らせるよ、BBQでいい?」
「はい! できれば牛肉が食べたいです!」
「おっけー、皆にもリクエスト聞いといてねー」
元気な後輩にひらひらと手を振り、申し訳なく思うエノク。
頑張ってくださいねー、と尾を引くような声に赤面する。
(ま、借りにしといてあげるよ……)
ジンの厚意に少し感謝して携帯電話を取り出す。
一昨日登録した、セツナの番号が液晶に映る。
「きっと吃驚するだろなー、くくっ」
頬が緩むのを押えきれず、エノクが噛み殺すように笑う。
そして、コールした。
「わひゃっ!?」
それと同時に、背後から素っ頓狂な声があがる。
チャルメラの着信音は、セツナの携帯の音だった。
「ありゃ、意外と近くにいたんだねー」
エノクがそう呟いて振り向くと、そこにセツナはいなかった。
代わりに、セツナの携帯を片手に固まるイチカがいた。
「はぇ?」
「ひ、ひぅっ!」
エノクの思考が、一瞬フリーズした。
その隙に、イチカが逃げるように走り出した。
「あ、ちょっと待って!」
「ま、待たないですぅ〜〜〜〜〜!!」
雑踏の中に潜りこむように駆け出す小柄なイチカ。
そんな彼女を見失わないように、混乱しながらもエノクは走り出した。
「ちょっと待てってば! 別に取って食ったりしないから!」
「ひぃ! い、イチカは食べられちゃうのですかぁ!?」
「食わない食わない! だから止まってって!」
結局、普段から鍛えているエノクから逃げ切れるわけも無く、イチカは捕まってしまった。
尚も逃げようと暴れるイチカの襟首をエノクが摘み上げる。
「で、割と何がどうなってるか分かんないんだけど、説明してくんない?」
「あ、あぅ……あぅぅ」
少女説明中。
「……へぇー、ドッペルゲンガーだったんだ」
「ごめんなさいぃ、騙すつもりはなかったのですがぁ……」
「あー泣かないでって。怒るつもりないから、ね?」
子どもをあやすように言うエノクに、ぐすぐすと目元を擦るイチカ。
彼女は、恐る恐る尋ねる。
「お、怒らないですか……?」
「うん、夢でも見てたと思えばそう残念でもないしね」
そう言って苦笑するエノク。
実際、エノクは彼女に出会ってもセツナが生きていることをありえないと思っていた。理由は単純、セツナに三年も一人で生活できるだけの能力が無い。だから、少し疑っていたのだ。
エノクは苦笑したままイチカに軽く頭を下げる。
その動きに、イチカは少し動揺したようだった。
「むしろありがとね。久しぶりに夢見が良かったよ」
「ほぇ……夢見、ですか?」
「誰かと一緒に寝たの、久しぶりだったから」
エノクがそう言うや否や、イチカの顔が真っ赤になった。
「あ、別にエロい意味じゃないからね? 添い寝添い寝」
「わわっ、分かってます!」
愛いのう、とか冗談っぽく呟くエノク。
その言葉が聞こえたのか、イチカが更に赤くなる。
「い、イチカも……その、た、楽しかったです」
照れたように呟いたその言葉は、しっかりとエノクにも聞き取れた。
しかし、イチカは俯いて沈んだ声で続ける。
「でも…………、もぉ、終わり……ですよね」
「………………」
そんな彼女に、エノクは黙って祭の様子を眺める。
もう少しで、ダンスパーティーが始まるようだった。
「イチカは……、セツナさんじゃありませんし、こんな地味な娘ですから……、その、本当にすみませんでした」
目に涙を溜めて、イチカは詰まらないように続ける。
エノクはそれを黙って聞いていた。
「少し、寂しかったんです……。イチカが泣いても誰も振り向いてくれないし……、イチカは独りぼっちなのかな、って」
「……………」
「だから、この数日はとても楽しかったです……」
ひくっ、とイチカが嗚咽を漏らす。
「でも、これでまた独りぼっちですね……!」
そう言って押し殺すように泣き始めるイチカ。
エノクは、そんな彼女の頭を優しく撫でた。
「エノク……お兄ちゃん……?」
「……誰も振り向いてくれない寂しさを、僕は知ってるよ」
少し遠い目で祭りを眺めながら、エノクは続ける。
「僕は元々ストリートチルドレンだ。死にそうになったって、誰も助けちゃくれなかった。すっごい寂しかったの、覚えてる」
「……………」
「あの時はセツナがいてくれたからそうでもなくなったけど、今は違う。セツナは多分死んじゃったろうしね」
「そっ、そんな……きっ、きっと生きてるハズです……!」
どうだろうね、エノクが穏やかな口調で応じる。
イチカは、申し訳なさそうに俯く。
「とにかく、僕だって独りぼっちだった。だからさ、これだけは言わせてほしい」
「………………?」
そう言って、エノクはイチカの正面に向き直った。
そして、エノクはイチカの小柄な体をそっと抱きしめた。
「へ、へぅ!?」
「僕がとなりにいるのに、キミは独りぼっちなのかい?」
急に抱きしめられて慌て出すイチカに、エノクは苦笑いして続ける。
「意外とさ、独りぼっちにはなれないもんだよ?」
「で、でもっ、い、イチカは……!」
「僕を騙してた、って? でもさ、キミが僕を好きな気持ちはちゃんと伝わったから僕も返事するべきじゃん」
そう言って、エノクは彼女の手を引いて立ち上がる。
「僕はイチカちゃんのこと、好きだよ?」
エノクが微笑んで言う。
イチカは目に涙を溜めて、嗚咽を噛み殺す。
「い、イチカは……、とっても地味な娘ですよ……っ?」
「かわいいと思う」
「そ、それに……、し、嫉妬とかして、暗い娘ですよ……っ?」
「僕だってキミが他の男の人と歩いてたら嫉妬するし」
笑顔で応じるエノクに、イチカは堪えきれず泣き出した。
「ぅ、わぁぁぁああああああん!!」
「うおっ!? あ、あれ、僕何かマズった!?」
堰を切ったように泣き出すイチカに、慌て出すエノク。
エノクはポケットからわたわたとハンカチを取り出す。
「あー、ほら、泣き止んで、ね?」
「ひくっ、ぐずっ……、は、はぃぃ、す、すいません」
それでもまだ嗚咽するイチカ。
エノクは、ぽりぽりと困ったように頬を掻いた。
「んー、これじゃ部下に申し訳が立たないや」
そう呟くや否や、エノクはイチカを抱き上げた。
俗に言う、お姫様抱っこというヤツである。
「う、ひゃあ!?」
「あは、キミ軽いねぇ」
けらけらといつも通り笑うエノクに対して、イチカは真っ赤になる。
「は、恥ずかしいです! お、降ろしてください!」
「えぇー、お姫様抱っこは男のロマンだよー?」
「そんなの女の子だって同じです!」
ややヤケ気味にそう叫ぶイチカ。
それを適当にかわしてエノクは大広場へ歩き出す。
「ま、それはともかく、さ」
少し照れたように頬を染めて、エノクは続けた。
「一緒に踊ってくださりませんか、お嬢さん?」
かしこまったようにそう言うエノク。
イチカは、そんなエノクがおかしくて少し笑ってしまった。
「あはは……、その、よ、喜んで♪」
そう言ってはにかんだイチカの顔は、まるで花が咲いたようだった。
12/05/19 10:44更新 / みかん右大臣