がんばる従者
雷雨、のち、快晴。
ちぎれちぎれの雲の切れ間から清々しい青空がのぞき見えて、水たまりが点々とする大地を照らしている。
昨晩は、なぜか雷を怖がる人形の少女を励ましてるうちに眠りについた。
油断したらなにをおっぱじめるかわからない人形少女ではあったが、マスターが全て、という言葉がラクランの心に妙に引っかかる。
主という立場に甘んじて言い過ぎてしまったかも、とかぼんやり考え込んでいるうちに、ラクランはつい眠りが浅くなってしまっていた。
(日が…高い…)
「…って昼だ!!もう仕事じゃないか!」
ラクランはガバリと飛び起きた。今日は昼頃に町に到着する行商の荷運びだ、遅れたら賃金が減らされてしまう、最悪もう仕事がもらえなくなる。ともすればもう到着しているかもしれない。
「あ、マスター!やっと起きました!」
部屋の片隅から快活な声が聞こえた。昨晩はあんなに雷に怯えてぶるぶる震えてたっていうのに、立ち直りの早いやつだ。
「セリアからはマスターに近寄れませんが、机にお着替えとお荷物まとめておきましたのでどうぞ!!」
見ると机には確かに綺麗に折りたたまれた着替え一式と荷物がまとめてある。
「助かる、じゃあ行ってくる!!」
「マスター、今日は宿の朝食があるはずです、ご主人から受け取るのを忘れないでー!」
「ああ、わかった!」
「いってらっしゃいませ、マスター!」
寝起きの時間というのはどうしてこうも慌ただしく過ぎていくのだろうか、何者かの悪意すら感じるくらいだ。
でもあの人形少女のおかげで助かった、なんとか職場には間に合いそうだ。
あれ、でもと宿の主人から豆や芋を煮た簡素な朝食を受取りふと、出ていく瞬間にちらりと見えた人形少女の顔を思い出す。
(あいつさっき、笑ってなかったか…?)
・
・
・
「マ、マスター……そんなにじっと見つめられると、照れちゃいますから」
「んむむむむ……」
セリアは両手を頬に当て、乙女ポーズで頬をぽっと赤らめて恥じ入る。
ラクランは無事ぎりぎりで仕事に間に合いきっちりこなすと、夕方の日課となったセリアの観察・記録作業をしようとしていた。だがセリアの様子が普段と違うのでそれどころじゃない。
ラクランは不思議でならない、いつもこの人形少女は仏頂面で、なにを言ってもつまらなそうな抑揚のない口調をしていたはずなのに。
「なぁ、お前どうしたんだ? どうしてそんなに、なんというか、表情豊かな感じに…?」
「セリアの顔がどうかしましたか?セリアはいつも通りのつもりですが…」
「いやだって昨日までそういう風に、笑ったりできなかっただろう…」
「もう情けない泣き虫従者はやめたんです、泣いててもマスターのお役には立てませんからね!」
セリアは心配いりませんから、と健気に拳を握りガッツポーズをして見せる。
「そ、そういう問題かあ…?」
狐につままれたような気分だ、声も、表情も今のセリアは朗らかで可憐な年頃の少女そのものだ。
ラクランにとって昨晩までのセリアは鉄壁の無表情で淡々と命令をこなす、どちらかと言うと冷徹な印象だったというのに。
それもそのはずで、昨晩の雷の影響でセリアの主動力が故障し、魔物の魔力中心の予備動力に切り換わった。すると機械関節を直接的に魔力で細かく制御できるようになるため、セリアは表情豊かに、滑らかに動くようになった。ラクランにはまるで知る由もないことだったが。
「…やれやれ、じゃ、寸法測るぞ」
額に手を当ててラクランはため息をつく、この現象については追々考えるとして今は日課をこなすことにしよう。
「はい、マスター!今日は背中からでしたね」
セリアがくるん、と振り返ると、それに伴い分厚い金属スカートがまるで風に舞うかのようにふんわりと翻った。
「……俺は夢でも見ているのか…?」
「………?」
身体を動かすように命じると、今までは駆動音を鳴らしながら関節を曲げ伸ばしていたのにぎこちなさはもはや見る影もなく、滑らかに、可憐に動く。
ごしごし目を擦るが、人形少女は相変わらずにっこりとあどけない笑顔をラクランに向けるだけだ。
「どうぞ、マスター、私はマスターのお役に立ちたいんです!」
・
・
・
「おかえりなさいませマスター、お疲れ様です」
「ああ、ただいま」
人形の少女はラクランが脱いだ衣服を受け取ってテキパキと部屋着を手渡す。黄昏時の金色の日差しが主の帰りをにこにこと喜ぶ従者の白い美貌を照らした。
ラクランとセリアは主従として新しい関係を築きつつあった。
セリアがあまりにも役に立ちたい、と痛切な表情でせがむものだから、最近はラクランの身の回りの世話を任せるようにしたのだ。
セリアからラクランに決して近づいてはならないという命令は、セリアがそのことを話題にすると泣きそうな顔をして謝罪することと、日頃の懸命な奉仕に免じてラクランが目覚めている間に限り撤回した。
「マスター、今日はお茶はいかがです?」
「ああ、頼む」
金策の甲斐あって、貯金をしながら嗜好品を買える程度には経済的に安定してきたところだ。
セリアの学習能力は驚異的で、ラクランが紅茶を淹れる様子を一度見せただけで内容を理解し完璧に習得して見せた。
「マスター、今日も寸法の測定をするんですよね?」
「ああ、ちょっと休んだらな」
「………♪」
セリアはベッドに腰掛けると、小型の卓で紅茶を飲むラクランを楽しげに見つめる。
「……そんなにじっと見られたら落ち着かないんだが」
「……あ、はい、ごめんなさいマスター!」
セリアはラクランから情操教育にと与えられた童話を手に取り、開く。
(……ちらちらこっち見てるな……)
本で視線を隠したつもりで、上目遣いでこちらを見ているようだ、青い瞳が見え隠れしているからバレバレだ。
「…飲み終わったぞ」
言うと、セリアは待ってましたとばかりに立ち上がり、というより浮き上がり、氷上を滑るように接近するとラクランから食器を受け取った。
「あ…あの……セ、セリアはマスターのお役に立てましたか…?」
「ああ」
(やったぁ……!)
愛しの主からほめられ、セリアは心の底から湧き上がる奉仕の喜びを抑えきれずぎゅうと目をつぶる。
「マスター、セリアになんでもおまかせくださいね!」
「あ、ああ」
どんな些細な仕事を任せても、この従者はラクランが役に立った、と言うだけでまるで世界中から祝福を受けたかのように幸せそうだ。
(マスターはセリアの全て……か…)
あの雷鳴轟く晩のセリアの言葉だ、人に奉仕するべくして作られた機械の従者にとって、主人に褒められることは本当に世界の全てなのかもしれない。
「マスター、今日も寸法の測定ですか?」
「ああ、手帳を取ってきてくれないか?」
「んふふ、そう言われると思ってですね…はい!」
「ん、なに…?」
「中、見てください!」
人形少女からセリアの分析用の手帳を受け取ると、パラパラめくって中身を検分する。
「……これ全部…お前がやったのか…?」
「はい、マスターみたいにうまくできましたか…?」
「すごいな、すごいぞこれ…!でもどうやって…」
「鏡を見ながらがんばりました!」
手帳には、ラクランの計画表に従って、パーツの寸法とスケッチがきっちりと書き込まれている。ここ数日の間に何時の間にやら読み書きや算術、作図まで習得してしまうなんて、とんでもない学習能力だ。
流石に予定分全部終わらせているわけでもないようだが、自分でこれだけ進めてくれているのならラクランの手間はめっきり減るだろう。
読み進めていくと、ラクランはおかしなページの存在に気づいた。
ラクラン・カレラス ラクラン・カレラス ラクラン・カレラス ラクラン・カレラス……
ラクランのフルネームの綴りが、ページ見開き一面にびっしりと書かれている。その次のページも、その次のページも…。
「これ、なんだ…?」
「あ!!!」
セリアは見られてはいけないものを見られてしまった、と言わんばかりに口元を覆い、目を泳がせる。
「これは……あのあのあのですね…!…文字の練習をしようと思ったらつい、ですね…」
「俺の名前を使ってか…?」
「…はいぃ…貴重なページを無駄遣いしてごめんなさい…」
「いやいい、よくやってくれたよ」
「………っ!」
「文字の練習がしたいのなら、予備の手帳をやるから使ってくれ」
「〜〜っ!ありがとうございます、マスター…!」
ラクランが無愛想な黒い手帳を手渡すと、セリアは嬉しさのあまり頬ずりした。
(マスターから、はじめての、プレゼント…♪)
でもまだまだ、とセリアは気を引き締めた。簡単に舞い上がってはいけない、マスターの従者なのだから。
「あの…マスター、寸法のお仕事がなくなったのなら、お時間、ありますか…?」
「そうだな、やることがなくなってしまった」
「なら、マスターのお仕事の疲れを癒やすために、ひとつご提案が…」
「話してみてくれ」
「あ、按摩…按摩は、いかがでしょうか…?」
「…なんだと?」
「いえいえ違うんです!そういう、変な意味では、決してなくって…!」
ラクランがほんのり眉を潜めかけたのを見て、手を胸の前でぶんぶん振ってセリアは必死で弁解した。
「按摩は身体の疲れを癒やすことができるんですよ…マスターが嫌なことは決してしません!人形趣味のないマスターにご無理をさせるわけにはいきませんから…!」
「…どこでそんなこと知ったんだ?」
「マスターから頂いた百科事典で…これなら、お役に立てるかもしれないって…」
「………」
ラクランは顎に手をあてると、数秒黙りこくって思案する。
この機械人形の小娘の奉仕の欲求はまるで留まることを知らないようだ、日がな一日ラクランに奉仕することばかり考えている。
この様子なら、きちんと意思疎通さえしていれば勝手に性奉仕をしようだなんて思わないだろう。
人外に劣情するなど、自分だけではない、家族、ひいては祖国の恥だ。だが、機械を自分のために働かせるだけと考えれば、一線を越えなければ問題ない。
「…重い荷物の上げ下ろしが多くてな、肩と腰が痛いんだ」
言うと、不安そうだったセリアの顔にぱぁっと光が指していく。
「そこだけ、頼む」
「ありがとうございます、誠心誠意ご奉仕しますね、マスター!」
・
・
・
熱くも寒くもない、過ごしやすい気温の夜は、虫の声にや木目の壁から吹く隙間風すらも心地いい。
セリアの按摩を受けたラクランは、按摩という技を伝え聞いたことはあったもののこんなに、人生観が変わるほどのものとは聞いてなかった。
人間よりも少し硬い指先が絶妙な力加減で凝りをほぐす感覚は極上の一言。
セリアの「マスター、気持ちいいですかー」という頭がとろけそうなほど優しい問いかけも、すぐに按摩の刺激とともに怒涛のように押し寄せるぬるま湯のような眠気に押しつぶされて聞こえなくなった。
目を覚ましたら枕がラクランのよだれでびしょびしょになっているという有様。
「……はっ!」
「あ、マスター、お気分はいかがですかー…?」
少女の柔らかな口調は再びラクランの瞼を重くするが、なんとか目を開くと傍らに座るセリアが見える。
人形の少女は仕事を終え、ベッドに腰掛けてラクランの様子を見ているようだった。
「…どこでこんな技を?」
ラクランは気だるい心地よさに包まれた身をなんとか起こすと、セリアに向き直り問いかける。肩、腰をぐいぐい回して確かめると、滅茶苦茶に全身が軽い。
「…どこでって言われても、マスターのご様子を見ながらなんとなく…ですかね?」
「なんとなくって…」
セリアの技能には、ラクランに教わった後天的なもののほかに生まれ持った先天的なものがあるらしい。
たぶん性的奉仕や按摩の技術などの主人に直接奉仕する技術は先天的に持っているものだ。
「セリアはマスターのお役に立てましたか?」
「あ、ああ…すごく…良かった、疲れがさっぱり消えた、本当に働いたあとなのかって感じだ」
「光栄です、マスター!…それで、ですね…?」
「なんだ?」
「セリアに…ご褒美を…頂けませんか…?」
セリアは指をつんつんと突き合わせて申し訳なさそうにラクランを見る。
「……ご褒美…?」
この従者が見返りを求めるなんてことは初めてだ。
いや普通の従者ならば見返りを求めて働くのは当たり前だが、食事も必要としない機械人形が欲しがる見返りとは一体なんだろう。
「俺が与えられるものならいいから、言ってみてくれ」
「あの…あの…怒らないで聞いて欲しいんですけど…」
言葉に詰まっている、よっぽど言い出しにくいことなのだろうか。
「マスターのお指を…お指を、舐めさせて欲しいんです」
「………」
ラクランは眉間にシワを寄せた。
舐めると言われて思い出すのは、甘美過ぎて、そして唾棄すべき夜の記憶。人形の少女に寝込みを襲われた夜。
「出会ったときにマスターのお指、舐めさせてもらいました…あのときのこと、なんだか忘れられなくて…マスターに怒られるかもしれないのにまた欲しくなって…ひぐっ……」
言いながらセリアの青い瞳にうるうると涙が溜まっていく、自分は今相当に恐い顔をしているらしい。
「ごめんなさい…わがまま言ってしまって…」
「…この間の俺の寝込みを襲ったことと関係あるのか」
「…はい、ごめんなさい…今は、やっちゃいけないことだってわかります…」
「ああ、いけないことだ」
セリアはびくびくとラクランの逆鱗に触れやしないかと身をすくませている。放っておいたら今にも泣き出しそうだ。
「…なんで俺の味なんかがそんなにいいんだ?」
「わかりません…でも、セリアはマスターのお味を感じるとすごく幸せな気分になるんです…」
「幸せな気持ち…幸せ、ね…」
ラクランはなぜかわからないが祖国の人々を思い出していた。
ラクランの祖国では幸せなど、追い求める以前に国家を統治する教団都合の出自や家柄で全て決まってしまう、決して自分の力では望んだ幸福にたどり着けない。
「やっぱりダメ、ですよね…人形趣味のないマスターに、決してご迷惑をお掛けするわけには…」
「…許可」
「……あはは、ごめんなさい忘れてくださ…へ…!?」
「許可する、お前が俺に人形趣味なんかなくて、指舐めなんかで決して喜んだりしない、これはお前のためだけの行為だって自覚してるなら構わない」
「マスター…!」
「食いちぎったり、しないな?」
「滅相もないですマスター!?」
「はは、じゃあ好きなだけ舐めればいい、俺は本でも読んでるから」
左手を差し出すと、人形の少女は待ちきれなそうに跪き、人差し指を口に含んだ。
「まふたあの味がひまふ…♪」
頬を赤らめて恍惚としながら、少女の青い瞳はとろんと夢見るようにとろけていく。
この人形の少女は、機械のようでもあり、従者のようでもあり、子犬のようでもあり、思春期の少女のようでもあった。
ちゅぱっ ちゅうう ちゅううう
「…ん…くすぐったいぞ」
「ごめんらひゃい…あ、ここ血豆がありまふ」
「ああ、仕事がキツくてな」
「甘噛みはありでふか?」
「…節度を守ればあり」
・
・
・
この町の夕焼けを眺めるのはもう何度目になるだろうか、結構な長期滞在になったがのどかな雰囲気は結構気に入っている。楽しい、宿に戻る足取りが軽い。
ラクランは上機嫌で日の落ちかける道を歩く。
帰ったら、人形少女が待っている、人形といえど「おかえりなさい」と言ってくれる、あどけない笑顔を向けてくれる。
ラクランは生きる希望のようなものを感じていた。もともと一人暮らしの孤独な職人だったラクランにとって、ラクランの従者を名乗るセリアの存在は随分な救いだった。
ラクランのことが全ての彼女に対して、ラクランにも責任感のようなものが芽生え始めていた。
一方で、雑嚢の中にある、ずっしりとした財布の重さがなぜかラクランの気分を沈ませる、中にはこの町で貯めた大量の金銭が入っている。
この町での生活はまだ旅の中間地点に過ぎない、金が貯まれば祖国までの馬車賃が貯まる、祖国に帰ったら、もともと俺はあの人形の少女をどうするつもりだっただろうか?
ラクランはくるりと踵を返すと、宿への道とは別方向の、町の中心部に向かって歩いていった。
・
・
・
「ただいま!」
「あ、マスター!おかえりなさい、お待ちしておりました!」
木製のドアを開くと、人形の少女はぱぁっと花が咲くような笑みを浮かべてラクランに抱きついた。ラクランも優しく微笑み返してそれを受け入れる。
ラクランにはセリアに「セリアが幸せな気分になるためだけの」スキンシップなら節度を守っている限りは許可していた、その節度もだんだんと形骸化してきてこの有様となっている。
「マスター…今日は遅かったですね…セリアは心配しました」
人形の少女がわずかに顔を曇らせる。
「ああ、心配させてすまない、今日は市の方に行ってたんだ、ほら」
「あの、これは……?」
「カチューシャってやつだ、都にいる女の子とかがつけてるやつだそうだ、額に装甲がついてるお前でも付けられそうなやつを選んだんだ」
「わぁ!ありがとうございます!」
「お前も人形なんだから、こういう飾りがあるのはいいかもしれないと思ったんだ、他にも、ほら!」
ラクランは膨らんだ雑嚢から様々な品物を取り出す、爽やかな香りが評判の植物油、珍しい紅茶の茶葉、児童むけの学習書籍、新しい百科事典…。
「いつも従者のお前には苦労かけてるからな」
「マスター、これ全部、セリアのために…?」
「ああ、お前が喜びそうだと思ったんだ、従者をねぎらうのは主人の仕事だからな」
セリアはラクランがほんの少し褒めてやるだけで飛び上がりそうなほどに喜ぶ、いきなりで驚くかもしれないが、今日はどんな風に笑ってくれるだろう、ラクランはつい期待に胸を膨らませた。
「でも、マスター…」
しかし、ラクランに満面の笑みを見せてくれるはずの人形の少女の表情は明るくない。
「あれ…なんで…?」
「マスター…お買い物をしたことのないセリアにも、こんなに高そうなものを買ったら、今日のマスターのお給料が失くなってしまうことくらいわかります」
実際は1日分どころか数週間分くらいの蓄えが消し飛ぶような散財だった、ラクランの金銭管理を手伝っていたセリアもそれがわかっていた。
「それにマスター…マスターはどうしてそんなにお辛い顔をしてらっしゃるんですか…?」
ラクランの顔からぽろぽろと涙が溢れた。それを見て人形の少女は心配そうに、人形の指でラクランの涙を拭っていく。
「マスター…マスター泣かないでください、セリアはマスターの従者です、マスターの悲しみはセリアの悲しみです」
「ぐ……クソ、お、俺、なんでこんな、俺はお、お前の、主なのに…!」
「セリアが辛いとき、マスターは私のそばにいてくれましたよね…セリアはずっと、ずっとマスターのおそばにいますから…」
「俺は……俺はなんで…」
人形の少女がラクランの悲しみを慈悲深く包み込めば包み込むほどに、涙はなぜか止まらなくなった。
・
・
・
下弦の三日月が青白く冷たい光で辺境の宿場町を照らす。
月明かり照らされ、美しい機械人形の白い肌と青い瞳は一層神秘的に輝いていた。
セリアは窓の外に光る星を見ながら主人が見せた初めての涙のことをずっと考えていた。ラクランから与えられた本を読んで、人が悲しいときや辛いときに涙することは知っている。
しかし、セリアにはラクランが悲しむ理由も、その癒やし方も見当がつかない。
どうして主人は急にあんなにたくさんの贈り物を買ってきたんだろう。どうしてセリアの顔を見ながら急に泣きじゃくったりしたんだろう。
どれだけ悩んでも主を案ずるひたむきな思いが機械仕掛けの心をきゅうきゅうと締め付けるだけだ。
(ああ…マスター…)
眠りを必要としない機械人形の少女に悩み事は辛い、ひたすらに逃げ場のない思いが堂々巡りをしてしまう。
(大好きなマスター…約束を破ってごめんなさい…)
セリアは浮かび上がると、音もなく主に距離を詰めた。泣き疲れて眠ってしまった、愛しい主の寝顔、ゆったりした寝息。それはさらにセリアの心を焦がしていく。
ちゅっ
人形の少女は、つい禁忌を破りその柔らかな唇を主の寝顔に重ねてしまった。
(今日はこれだけ…これだけ…あんまり欲張ったらお腹が空いてきちゃうから…)
セリアは主と反対側の定位置に戻ると、また思考のループに落ちていく。
(お慕いしていますマスター、マスターの痛みはセリアの痛みです…マスターは人形趣味じゃないからセリアはマスターの痛みを癒せません…どうか…どうか、マスターが救われますように…)
・
・
・
ガララ、と音を立てて街道から馬車がやってくる。
馬車を倉庫のすぐそばにつけ、荷車と御者台を分離すると、御者はぴしゃりと鞭を叩いてそのまま馬を厩舎へと連れて行った。
残された荷車を前にして、ラクランは魂が抜けたようにぼーっと突っ立っている。
「おい!おいそこの若いの!」
「………………」
ラクランを呼ぶ禿げ上がった初老の男はこの荷積み場の親方だ。
親方は、この町に来て以来かれこれ数ヶ月は一緒に仕事をしているラクランの名前を覚えていない、忘れっぽいというか、たぶん覚える気がない。
だいたいの青年を「若いの」呼ばわりするので呼ばれたときには誰のことかニュアンスで理解するしかない。
「呼、ば、れ、た、ら返事をせぇ!」
「痛!」
ラクランは親方からごちん、と頭を拳骨でぶたれた。
「おめぇ、これまでは真面目一辺倒って感じだったのに最近おかしいぞォ…?」
親方はラクランの顔をまじまじと覗き込む。
「さては女だな」
「女じゃない!」
ラクランは弾けるように振り返り否定した。
「ハーッハッハッ!からかって悪かったな若いの!」
バシバシと肩を叩くと、馴れ馴れしくラクランに肩を組んで来た。
「いいさいいさぁ、おめえみたいな堅物でも、女にかまけるとあっちゅうまにこれだっつうんだもんなぁ…!」
「はァ……」
いかにも人生の先輩といった面をして親方はラクランに「いいか、まず、男が先に謝れ」などと見当外れの忠告をくれる。
それを鬱陶しそうに「結構ですから」と振り払うと、ラクランは粛々と荷運びを開始した。
でも単調作業を繰り返しているうちに、気がつけばまた手が止まり物思いに耽ってしまう。
職人の修行で青春らしい青春のなかったラクランにとって、人形の少女との生活は眩しいほどに輝いていた。
最近は仕事をしているときでさえセリアの笑顔が思考を埋め尽くしていたくらいだ。健気な従者に家に迎えられ、労をねぎらう時間がラクランのなによりの楽しみになっていた。
しかし、この一時の生活を長引かせるために散財してしまおうという考えは決してあってはならない。
情にほだされて、人形の少女との日々と祖国の人々とを天秤にかけ、自分の幸せを選ぼうとした自分の弱さがラクランには許せなかった。
大国なれども希望なし――――ラクランの祖国はそんな国だった。ラクランの身近な人物は皆がなにか、大切なものを諦めた顔をして俯いていた。
それはいつまでも下がらない重税のせいか、家柄と見栄ばかり重んじる伝統のせいか、厳格な宗教軍事国家であるせいか。
ラクランはそんな祖国でも愛していた、親、親戚、友人に数え切れないほど世話になった、いつか希望に満ちた豊かな国に変わって欲しい、と願っていた。
しかし、どんなに実力ある勇者に恵まれていても、まるで鉄鎖でがんじがらめに縛られたかのように、祖国を覆う閉塞感はちっとも晴れそうになかった。
ラクランの祖国には、時代を変革するような、何もかもを塗りつぶすような圧倒的な力が必要だった。
だからラクランは旅に出た、手がかりを掴んでしまった未知の古代文明のオーパーツ、それが祖国の窮状を打破する可能性に財産と命を賭けた。
果たしてラクランは付け焼き刃の冒険者としては相当に優秀だったと言える、幸運にもそのオーパーツをまんまと手中に収めることに成功したのだから。
だからこそ。
(俺は、こんなところで、つまづくわけにはいかない…!)
ラクランはぎゅうと血が出そうなほどに拳を強く握りしめた。
結局、どんなに寸法を測り、機能を発見し、挙動を観察したところで肝心なセリアの動力源や動作原理はラクラン一人じゃ複雑過ぎてわからずじまいだ。
だから次になすべきことは簡単だ、最初からわかっていたことだ、人形の少女を祖国に持ち帰り、分解し、パーツ1個1個の機能を大人数で分析して動作を解明する。
ラクランはセリアに対して芽生えかけていた感情が二度と開かないよう鍵を掛けた。
ラクランは、機械のような心が欲しかった。
・
・
・
「ま、マスターおかえりなさい…」
「……………」
ラクランはセリアの出迎えに返事を返さなかった。
俯いたまま部屋に入り、セリアが存在しないかのように一瞥もくれず備え付けの机に腰掛け、一言も発しない。
セリアはそんなラクランの様子を見て、所在なさげについてまわる。
「どうしたんですか、マスター?お身体の調子でも…」
「…お前には、感謝してる」
「え……」
唐突な感謝の言葉。セリアには主人の意図がわからず途方に暮れるしかない。
「でも………俺以外に拾われた方が良かったのかもな」
「そんなことありません!」
ラクランの目にはいつもの優しい光がない、それがセリアの心を言い知れぬ不安で満たしていく。
「悪かったな、俺、最初は機械のお前に感情なんてないと思ってたんだ」
「でも、マスターは出会った頃からお優しかったです…!」
「ああ、気まぐれでな」
「気まぐれでも、セリアは幸せでした」
「幸せ…ああそうか、幸せか…じゃあ、俺がお前をいずれ分解するために手元に置いてただけだと言ったらどうする?」
ラクランの瞳は、セリアを捉えているようでいて、捉えていない。
「セリアのことを記録するのはマスターのお国のため…って言ってましたよね?」
「ああそうだ」
「…マスター、セリアは例えマスターに分解されてばらばらになっても、それでマスターのお役に立てるのなら構いません」
人形の少女は心配いらない、とばかりに笑ってみせた。
セリアはラクランの役に立つためであれば字面通りなんだってする、根っからの従者だった。ラクランが分解すると言えば素直に身を差し出してしまうことだろう。そんな彼女があまりにも健気だから、つい心打たれてしまう、主として報いたくなってしまう、ずっと手元に置きたくなってしまう。
(でも、それでどうなる?故郷に置いてきた家族は?友人は?祖国の人々を差し置いて、俺だけ人形従者の世話しながらのうのうと暮らそうってのか…?)
ラクランの決意は固い、ラクランの高潔な精神は、弱い自分を決して許さない。
「そう言ってくれて助かる…じゃあ、これからお前を封印する」
「封印…?」
「麻袋に入って、俺の故郷に到着するまで出てこないと約束して欲しい」
「……っ!どうして…マスターのためならなんでもします、どうしてもマスターのおそばに居させてもらえませんか…?」
「悪いけど命令なんだよ…!…お前といると、俺、ダメになるから…!」
ラクランは苛立たしそうにドン、と机を叩いた、それはセリアではなくラクラン自身へ向けた苛立たしさだった。
「セリアでは、お役に立てないのですね…わかりました、ご命令に従います、マスター」
でも、とセリアは必死に笑顔を取り繕って付け加えた。
「マスターの痛みはセリアの痛みです、マスターの心が折れそうなときはどうか、どうかセリアをお呼び下さいね」
・
・
・
田舎の街道は往来が少ないためか小石が多く、よく車輪が石を踏みつけて馬車が不規則にゴトゴトと揺れる。
ラクランは足腰が痛くなりそうなほど窮屈な馬車の中で、生きているか死んでいるかもわからない表情でただ長旅の終わりを待っていた。
この馬車は相乗りではない、ラクラン専用にチャーターしたものだ、厳格な反魔物領で人形の少女の存在をちらりとでも人に見られるわけにはいかなかった。
あれからラクランは、自ら従者との束の間の幸せな日々に終止符を打った。与えたプレゼント、カチューシャや植物油、事典などは全て古物商に売り払った。
最低限必要な会話以外は誰とも口を利かず、がらんどうで妙に広く感じるボロ宿と荷積み場を往復する毎日。
長距離の馬車賃が払えるほどに金が溜まった頃には、ラクランの目元にはアンデッドも真っ青の深いクマができていて、御者にぎょっとされたものだった。
「……………」
ラクランの傍らには機械人形が入った麻袋がある、でも決して中を覗き見ることはない。この中にあるのはラクランが決別すべき日々そのものだ。
もう主従であることをやめてしまった機械工と機械人形を運んでひたすらに馬車は進む。
ラクランの祖国、レスカティエ教国へと―――――――――――――。
ちぎれちぎれの雲の切れ間から清々しい青空がのぞき見えて、水たまりが点々とする大地を照らしている。
昨晩は、なぜか雷を怖がる人形の少女を励ましてるうちに眠りについた。
油断したらなにをおっぱじめるかわからない人形少女ではあったが、マスターが全て、という言葉がラクランの心に妙に引っかかる。
主という立場に甘んじて言い過ぎてしまったかも、とかぼんやり考え込んでいるうちに、ラクランはつい眠りが浅くなってしまっていた。
(日が…高い…)
「…って昼だ!!もう仕事じゃないか!」
ラクランはガバリと飛び起きた。今日は昼頃に町に到着する行商の荷運びだ、遅れたら賃金が減らされてしまう、最悪もう仕事がもらえなくなる。ともすればもう到着しているかもしれない。
「あ、マスター!やっと起きました!」
部屋の片隅から快活な声が聞こえた。昨晩はあんなに雷に怯えてぶるぶる震えてたっていうのに、立ち直りの早いやつだ。
「セリアからはマスターに近寄れませんが、机にお着替えとお荷物まとめておきましたのでどうぞ!!」
見ると机には確かに綺麗に折りたたまれた着替え一式と荷物がまとめてある。
「助かる、じゃあ行ってくる!!」
「マスター、今日は宿の朝食があるはずです、ご主人から受け取るのを忘れないでー!」
「ああ、わかった!」
「いってらっしゃいませ、マスター!」
寝起きの時間というのはどうしてこうも慌ただしく過ぎていくのだろうか、何者かの悪意すら感じるくらいだ。
でもあの人形少女のおかげで助かった、なんとか職場には間に合いそうだ。
あれ、でもと宿の主人から豆や芋を煮た簡素な朝食を受取りふと、出ていく瞬間にちらりと見えた人形少女の顔を思い出す。
(あいつさっき、笑ってなかったか…?)
・
・
・
「マ、マスター……そんなにじっと見つめられると、照れちゃいますから」
「んむむむむ……」
セリアは両手を頬に当て、乙女ポーズで頬をぽっと赤らめて恥じ入る。
ラクランは無事ぎりぎりで仕事に間に合いきっちりこなすと、夕方の日課となったセリアの観察・記録作業をしようとしていた。だがセリアの様子が普段と違うのでそれどころじゃない。
ラクランは不思議でならない、いつもこの人形少女は仏頂面で、なにを言ってもつまらなそうな抑揚のない口調をしていたはずなのに。
「なぁ、お前どうしたんだ? どうしてそんなに、なんというか、表情豊かな感じに…?」
「セリアの顔がどうかしましたか?セリアはいつも通りのつもりですが…」
「いやだって昨日までそういう風に、笑ったりできなかっただろう…」
「もう情けない泣き虫従者はやめたんです、泣いててもマスターのお役には立てませんからね!」
セリアは心配いりませんから、と健気に拳を握りガッツポーズをして見せる。
「そ、そういう問題かあ…?」
狐につままれたような気分だ、声も、表情も今のセリアは朗らかで可憐な年頃の少女そのものだ。
ラクランにとって昨晩までのセリアは鉄壁の無表情で淡々と命令をこなす、どちらかと言うと冷徹な印象だったというのに。
それもそのはずで、昨晩の雷の影響でセリアの主動力が故障し、魔物の魔力中心の予備動力に切り換わった。すると機械関節を直接的に魔力で細かく制御できるようになるため、セリアは表情豊かに、滑らかに動くようになった。ラクランにはまるで知る由もないことだったが。
「…やれやれ、じゃ、寸法測るぞ」
額に手を当ててラクランはため息をつく、この現象については追々考えるとして今は日課をこなすことにしよう。
「はい、マスター!今日は背中からでしたね」
セリアがくるん、と振り返ると、それに伴い分厚い金属スカートがまるで風に舞うかのようにふんわりと翻った。
「……俺は夢でも見ているのか…?」
「………?」
身体を動かすように命じると、今までは駆動音を鳴らしながら関節を曲げ伸ばしていたのにぎこちなさはもはや見る影もなく、滑らかに、可憐に動く。
ごしごし目を擦るが、人形少女は相変わらずにっこりとあどけない笑顔をラクランに向けるだけだ。
「どうぞ、マスター、私はマスターのお役に立ちたいんです!」
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・
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「おかえりなさいませマスター、お疲れ様です」
「ああ、ただいま」
人形の少女はラクランが脱いだ衣服を受け取ってテキパキと部屋着を手渡す。黄昏時の金色の日差しが主の帰りをにこにこと喜ぶ従者の白い美貌を照らした。
ラクランとセリアは主従として新しい関係を築きつつあった。
セリアがあまりにも役に立ちたい、と痛切な表情でせがむものだから、最近はラクランの身の回りの世話を任せるようにしたのだ。
セリアからラクランに決して近づいてはならないという命令は、セリアがそのことを話題にすると泣きそうな顔をして謝罪することと、日頃の懸命な奉仕に免じてラクランが目覚めている間に限り撤回した。
「マスター、今日はお茶はいかがです?」
「ああ、頼む」
金策の甲斐あって、貯金をしながら嗜好品を買える程度には経済的に安定してきたところだ。
セリアの学習能力は驚異的で、ラクランが紅茶を淹れる様子を一度見せただけで内容を理解し完璧に習得して見せた。
「マスター、今日も寸法の測定をするんですよね?」
「ああ、ちょっと休んだらな」
「………♪」
セリアはベッドに腰掛けると、小型の卓で紅茶を飲むラクランを楽しげに見つめる。
「……そんなにじっと見られたら落ち着かないんだが」
「……あ、はい、ごめんなさいマスター!」
セリアはラクランから情操教育にと与えられた童話を手に取り、開く。
(……ちらちらこっち見てるな……)
本で視線を隠したつもりで、上目遣いでこちらを見ているようだ、青い瞳が見え隠れしているからバレバレだ。
「…飲み終わったぞ」
言うと、セリアは待ってましたとばかりに立ち上がり、というより浮き上がり、氷上を滑るように接近するとラクランから食器を受け取った。
「あ…あの……セ、セリアはマスターのお役に立てましたか…?」
「ああ」
(やったぁ……!)
愛しの主からほめられ、セリアは心の底から湧き上がる奉仕の喜びを抑えきれずぎゅうと目をつぶる。
「マスター、セリアになんでもおまかせくださいね!」
「あ、ああ」
どんな些細な仕事を任せても、この従者はラクランが役に立った、と言うだけでまるで世界中から祝福を受けたかのように幸せそうだ。
(マスターはセリアの全て……か…)
あの雷鳴轟く晩のセリアの言葉だ、人に奉仕するべくして作られた機械の従者にとって、主人に褒められることは本当に世界の全てなのかもしれない。
「マスター、今日も寸法の測定ですか?」
「ああ、手帳を取ってきてくれないか?」
「んふふ、そう言われると思ってですね…はい!」
「ん、なに…?」
「中、見てください!」
人形少女からセリアの分析用の手帳を受け取ると、パラパラめくって中身を検分する。
「……これ全部…お前がやったのか…?」
「はい、マスターみたいにうまくできましたか…?」
「すごいな、すごいぞこれ…!でもどうやって…」
「鏡を見ながらがんばりました!」
手帳には、ラクランの計画表に従って、パーツの寸法とスケッチがきっちりと書き込まれている。ここ数日の間に何時の間にやら読み書きや算術、作図まで習得してしまうなんて、とんでもない学習能力だ。
流石に予定分全部終わらせているわけでもないようだが、自分でこれだけ進めてくれているのならラクランの手間はめっきり減るだろう。
読み進めていくと、ラクランはおかしなページの存在に気づいた。
ラクラン・カレラス ラクラン・カレラス ラクラン・カレラス ラクラン・カレラス……
ラクランのフルネームの綴りが、ページ見開き一面にびっしりと書かれている。その次のページも、その次のページも…。
「これ、なんだ…?」
「あ!!!」
セリアは見られてはいけないものを見られてしまった、と言わんばかりに口元を覆い、目を泳がせる。
「これは……あのあのあのですね…!…文字の練習をしようと思ったらつい、ですね…」
「俺の名前を使ってか…?」
「…はいぃ…貴重なページを無駄遣いしてごめんなさい…」
「いやいい、よくやってくれたよ」
「………っ!」
「文字の練習がしたいのなら、予備の手帳をやるから使ってくれ」
「〜〜っ!ありがとうございます、マスター…!」
ラクランが無愛想な黒い手帳を手渡すと、セリアは嬉しさのあまり頬ずりした。
(マスターから、はじめての、プレゼント…♪)
でもまだまだ、とセリアは気を引き締めた。簡単に舞い上がってはいけない、マスターの従者なのだから。
「あの…マスター、寸法のお仕事がなくなったのなら、お時間、ありますか…?」
「そうだな、やることがなくなってしまった」
「なら、マスターのお仕事の疲れを癒やすために、ひとつご提案が…」
「話してみてくれ」
「あ、按摩…按摩は、いかがでしょうか…?」
「…なんだと?」
「いえいえ違うんです!そういう、変な意味では、決してなくって…!」
ラクランがほんのり眉を潜めかけたのを見て、手を胸の前でぶんぶん振ってセリアは必死で弁解した。
「按摩は身体の疲れを癒やすことができるんですよ…マスターが嫌なことは決してしません!人形趣味のないマスターにご無理をさせるわけにはいきませんから…!」
「…どこでそんなこと知ったんだ?」
「マスターから頂いた百科事典で…これなら、お役に立てるかもしれないって…」
「………」
ラクランは顎に手をあてると、数秒黙りこくって思案する。
この機械人形の小娘の奉仕の欲求はまるで留まることを知らないようだ、日がな一日ラクランに奉仕することばかり考えている。
この様子なら、きちんと意思疎通さえしていれば勝手に性奉仕をしようだなんて思わないだろう。
人外に劣情するなど、自分だけではない、家族、ひいては祖国の恥だ。だが、機械を自分のために働かせるだけと考えれば、一線を越えなければ問題ない。
「…重い荷物の上げ下ろしが多くてな、肩と腰が痛いんだ」
言うと、不安そうだったセリアの顔にぱぁっと光が指していく。
「そこだけ、頼む」
「ありがとうございます、誠心誠意ご奉仕しますね、マスター!」
・
・
・
熱くも寒くもない、過ごしやすい気温の夜は、虫の声にや木目の壁から吹く隙間風すらも心地いい。
セリアの按摩を受けたラクランは、按摩という技を伝え聞いたことはあったもののこんなに、人生観が変わるほどのものとは聞いてなかった。
人間よりも少し硬い指先が絶妙な力加減で凝りをほぐす感覚は極上の一言。
セリアの「マスター、気持ちいいですかー」という頭がとろけそうなほど優しい問いかけも、すぐに按摩の刺激とともに怒涛のように押し寄せるぬるま湯のような眠気に押しつぶされて聞こえなくなった。
目を覚ましたら枕がラクランのよだれでびしょびしょになっているという有様。
「……はっ!」
「あ、マスター、お気分はいかがですかー…?」
少女の柔らかな口調は再びラクランの瞼を重くするが、なんとか目を開くと傍らに座るセリアが見える。
人形の少女は仕事を終え、ベッドに腰掛けてラクランの様子を見ているようだった。
「…どこでこんな技を?」
ラクランは気だるい心地よさに包まれた身をなんとか起こすと、セリアに向き直り問いかける。肩、腰をぐいぐい回して確かめると、滅茶苦茶に全身が軽い。
「…どこでって言われても、マスターのご様子を見ながらなんとなく…ですかね?」
「なんとなくって…」
セリアの技能には、ラクランに教わった後天的なもののほかに生まれ持った先天的なものがあるらしい。
たぶん性的奉仕や按摩の技術などの主人に直接奉仕する技術は先天的に持っているものだ。
「セリアはマスターのお役に立てましたか?」
「あ、ああ…すごく…良かった、疲れがさっぱり消えた、本当に働いたあとなのかって感じだ」
「光栄です、マスター!…それで、ですね…?」
「なんだ?」
「セリアに…ご褒美を…頂けませんか…?」
セリアは指をつんつんと突き合わせて申し訳なさそうにラクランを見る。
「……ご褒美…?」
この従者が見返りを求めるなんてことは初めてだ。
いや普通の従者ならば見返りを求めて働くのは当たり前だが、食事も必要としない機械人形が欲しがる見返りとは一体なんだろう。
「俺が与えられるものならいいから、言ってみてくれ」
「あの…あの…怒らないで聞いて欲しいんですけど…」
言葉に詰まっている、よっぽど言い出しにくいことなのだろうか。
「マスターのお指を…お指を、舐めさせて欲しいんです」
「………」
ラクランは眉間にシワを寄せた。
舐めると言われて思い出すのは、甘美過ぎて、そして唾棄すべき夜の記憶。人形の少女に寝込みを襲われた夜。
「出会ったときにマスターのお指、舐めさせてもらいました…あのときのこと、なんだか忘れられなくて…マスターに怒られるかもしれないのにまた欲しくなって…ひぐっ……」
言いながらセリアの青い瞳にうるうると涙が溜まっていく、自分は今相当に恐い顔をしているらしい。
「ごめんなさい…わがまま言ってしまって…」
「…この間の俺の寝込みを襲ったことと関係あるのか」
「…はい、ごめんなさい…今は、やっちゃいけないことだってわかります…」
「ああ、いけないことだ」
セリアはびくびくとラクランの逆鱗に触れやしないかと身をすくませている。放っておいたら今にも泣き出しそうだ。
「…なんで俺の味なんかがそんなにいいんだ?」
「わかりません…でも、セリアはマスターのお味を感じるとすごく幸せな気分になるんです…」
「幸せな気持ち…幸せ、ね…」
ラクランはなぜかわからないが祖国の人々を思い出していた。
ラクランの祖国では幸せなど、追い求める以前に国家を統治する教団都合の出自や家柄で全て決まってしまう、決して自分の力では望んだ幸福にたどり着けない。
「やっぱりダメ、ですよね…人形趣味のないマスターに、決してご迷惑をお掛けするわけには…」
「…許可」
「……あはは、ごめんなさい忘れてくださ…へ…!?」
「許可する、お前が俺に人形趣味なんかなくて、指舐めなんかで決して喜んだりしない、これはお前のためだけの行為だって自覚してるなら構わない」
「マスター…!」
「食いちぎったり、しないな?」
「滅相もないですマスター!?」
「はは、じゃあ好きなだけ舐めればいい、俺は本でも読んでるから」
左手を差し出すと、人形の少女は待ちきれなそうに跪き、人差し指を口に含んだ。
「まふたあの味がひまふ…♪」
頬を赤らめて恍惚としながら、少女の青い瞳はとろんと夢見るようにとろけていく。
この人形の少女は、機械のようでもあり、従者のようでもあり、子犬のようでもあり、思春期の少女のようでもあった。
ちゅぱっ ちゅうう ちゅううう
「…ん…くすぐったいぞ」
「ごめんらひゃい…あ、ここ血豆がありまふ」
「ああ、仕事がキツくてな」
「甘噛みはありでふか?」
「…節度を守ればあり」
・
・
・
この町の夕焼けを眺めるのはもう何度目になるだろうか、結構な長期滞在になったがのどかな雰囲気は結構気に入っている。楽しい、宿に戻る足取りが軽い。
ラクランは上機嫌で日の落ちかける道を歩く。
帰ったら、人形少女が待っている、人形といえど「おかえりなさい」と言ってくれる、あどけない笑顔を向けてくれる。
ラクランは生きる希望のようなものを感じていた。もともと一人暮らしの孤独な職人だったラクランにとって、ラクランの従者を名乗るセリアの存在は随分な救いだった。
ラクランのことが全ての彼女に対して、ラクランにも責任感のようなものが芽生え始めていた。
一方で、雑嚢の中にある、ずっしりとした財布の重さがなぜかラクランの気分を沈ませる、中にはこの町で貯めた大量の金銭が入っている。
この町での生活はまだ旅の中間地点に過ぎない、金が貯まれば祖国までの馬車賃が貯まる、祖国に帰ったら、もともと俺はあの人形の少女をどうするつもりだっただろうか?
ラクランはくるりと踵を返すと、宿への道とは別方向の、町の中心部に向かって歩いていった。
・
・
・
「ただいま!」
「あ、マスター!おかえりなさい、お待ちしておりました!」
木製のドアを開くと、人形の少女はぱぁっと花が咲くような笑みを浮かべてラクランに抱きついた。ラクランも優しく微笑み返してそれを受け入れる。
ラクランにはセリアに「セリアが幸せな気分になるためだけの」スキンシップなら節度を守っている限りは許可していた、その節度もだんだんと形骸化してきてこの有様となっている。
「マスター…今日は遅かったですね…セリアは心配しました」
人形の少女がわずかに顔を曇らせる。
「ああ、心配させてすまない、今日は市の方に行ってたんだ、ほら」
「あの、これは……?」
「カチューシャってやつだ、都にいる女の子とかがつけてるやつだそうだ、額に装甲がついてるお前でも付けられそうなやつを選んだんだ」
「わぁ!ありがとうございます!」
「お前も人形なんだから、こういう飾りがあるのはいいかもしれないと思ったんだ、他にも、ほら!」
ラクランは膨らんだ雑嚢から様々な品物を取り出す、爽やかな香りが評判の植物油、珍しい紅茶の茶葉、児童むけの学習書籍、新しい百科事典…。
「いつも従者のお前には苦労かけてるからな」
「マスター、これ全部、セリアのために…?」
「ああ、お前が喜びそうだと思ったんだ、従者をねぎらうのは主人の仕事だからな」
セリアはラクランがほんの少し褒めてやるだけで飛び上がりそうなほどに喜ぶ、いきなりで驚くかもしれないが、今日はどんな風に笑ってくれるだろう、ラクランはつい期待に胸を膨らませた。
「でも、マスター…」
しかし、ラクランに満面の笑みを見せてくれるはずの人形の少女の表情は明るくない。
「あれ…なんで…?」
「マスター…お買い物をしたことのないセリアにも、こんなに高そうなものを買ったら、今日のマスターのお給料が失くなってしまうことくらいわかります」
実際は1日分どころか数週間分くらいの蓄えが消し飛ぶような散財だった、ラクランの金銭管理を手伝っていたセリアもそれがわかっていた。
「それにマスター…マスターはどうしてそんなにお辛い顔をしてらっしゃるんですか…?」
ラクランの顔からぽろぽろと涙が溢れた。それを見て人形の少女は心配そうに、人形の指でラクランの涙を拭っていく。
「マスター…マスター泣かないでください、セリアはマスターの従者です、マスターの悲しみはセリアの悲しみです」
「ぐ……クソ、お、俺、なんでこんな、俺はお、お前の、主なのに…!」
「セリアが辛いとき、マスターは私のそばにいてくれましたよね…セリアはずっと、ずっとマスターのおそばにいますから…」
「俺は……俺はなんで…」
人形の少女がラクランの悲しみを慈悲深く包み込めば包み込むほどに、涙はなぜか止まらなくなった。
・
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下弦の三日月が青白く冷たい光で辺境の宿場町を照らす。
月明かり照らされ、美しい機械人形の白い肌と青い瞳は一層神秘的に輝いていた。
セリアは窓の外に光る星を見ながら主人が見せた初めての涙のことをずっと考えていた。ラクランから与えられた本を読んで、人が悲しいときや辛いときに涙することは知っている。
しかし、セリアにはラクランが悲しむ理由も、その癒やし方も見当がつかない。
どうして主人は急にあんなにたくさんの贈り物を買ってきたんだろう。どうしてセリアの顔を見ながら急に泣きじゃくったりしたんだろう。
どれだけ悩んでも主を案ずるひたむきな思いが機械仕掛けの心をきゅうきゅうと締め付けるだけだ。
(ああ…マスター…)
眠りを必要としない機械人形の少女に悩み事は辛い、ひたすらに逃げ場のない思いが堂々巡りをしてしまう。
(大好きなマスター…約束を破ってごめんなさい…)
セリアは浮かび上がると、音もなく主に距離を詰めた。泣き疲れて眠ってしまった、愛しい主の寝顔、ゆったりした寝息。それはさらにセリアの心を焦がしていく。
ちゅっ
人形の少女は、つい禁忌を破りその柔らかな唇を主の寝顔に重ねてしまった。
(今日はこれだけ…これだけ…あんまり欲張ったらお腹が空いてきちゃうから…)
セリアは主と反対側の定位置に戻ると、また思考のループに落ちていく。
(お慕いしていますマスター、マスターの痛みはセリアの痛みです…マスターは人形趣味じゃないからセリアはマスターの痛みを癒せません…どうか…どうか、マスターが救われますように…)
・
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ガララ、と音を立てて街道から馬車がやってくる。
馬車を倉庫のすぐそばにつけ、荷車と御者台を分離すると、御者はぴしゃりと鞭を叩いてそのまま馬を厩舎へと連れて行った。
残された荷車を前にして、ラクランは魂が抜けたようにぼーっと突っ立っている。
「おい!おいそこの若いの!」
「………………」
ラクランを呼ぶ禿げ上がった初老の男はこの荷積み場の親方だ。
親方は、この町に来て以来かれこれ数ヶ月は一緒に仕事をしているラクランの名前を覚えていない、忘れっぽいというか、たぶん覚える気がない。
だいたいの青年を「若いの」呼ばわりするので呼ばれたときには誰のことかニュアンスで理解するしかない。
「呼、ば、れ、た、ら返事をせぇ!」
「痛!」
ラクランは親方からごちん、と頭を拳骨でぶたれた。
「おめぇ、これまでは真面目一辺倒って感じだったのに最近おかしいぞォ…?」
親方はラクランの顔をまじまじと覗き込む。
「さては女だな」
「女じゃない!」
ラクランは弾けるように振り返り否定した。
「ハーッハッハッ!からかって悪かったな若いの!」
バシバシと肩を叩くと、馴れ馴れしくラクランに肩を組んで来た。
「いいさいいさぁ、おめえみたいな堅物でも、女にかまけるとあっちゅうまにこれだっつうんだもんなぁ…!」
「はァ……」
いかにも人生の先輩といった面をして親方はラクランに「いいか、まず、男が先に謝れ」などと見当外れの忠告をくれる。
それを鬱陶しそうに「結構ですから」と振り払うと、ラクランは粛々と荷運びを開始した。
でも単調作業を繰り返しているうちに、気がつけばまた手が止まり物思いに耽ってしまう。
職人の修行で青春らしい青春のなかったラクランにとって、人形の少女との生活は眩しいほどに輝いていた。
最近は仕事をしているときでさえセリアの笑顔が思考を埋め尽くしていたくらいだ。健気な従者に家に迎えられ、労をねぎらう時間がラクランのなによりの楽しみになっていた。
しかし、この一時の生活を長引かせるために散財してしまおうという考えは決してあってはならない。
情にほだされて、人形の少女との日々と祖国の人々とを天秤にかけ、自分の幸せを選ぼうとした自分の弱さがラクランには許せなかった。
大国なれども希望なし――――ラクランの祖国はそんな国だった。ラクランの身近な人物は皆がなにか、大切なものを諦めた顔をして俯いていた。
それはいつまでも下がらない重税のせいか、家柄と見栄ばかり重んじる伝統のせいか、厳格な宗教軍事国家であるせいか。
ラクランはそんな祖国でも愛していた、親、親戚、友人に数え切れないほど世話になった、いつか希望に満ちた豊かな国に変わって欲しい、と願っていた。
しかし、どんなに実力ある勇者に恵まれていても、まるで鉄鎖でがんじがらめに縛られたかのように、祖国を覆う閉塞感はちっとも晴れそうになかった。
ラクランの祖国には、時代を変革するような、何もかもを塗りつぶすような圧倒的な力が必要だった。
だからラクランは旅に出た、手がかりを掴んでしまった未知の古代文明のオーパーツ、それが祖国の窮状を打破する可能性に財産と命を賭けた。
果たしてラクランは付け焼き刃の冒険者としては相当に優秀だったと言える、幸運にもそのオーパーツをまんまと手中に収めることに成功したのだから。
だからこそ。
(俺は、こんなところで、つまづくわけにはいかない…!)
ラクランはぎゅうと血が出そうなほどに拳を強く握りしめた。
結局、どんなに寸法を測り、機能を発見し、挙動を観察したところで肝心なセリアの動力源や動作原理はラクラン一人じゃ複雑過ぎてわからずじまいだ。
だから次になすべきことは簡単だ、最初からわかっていたことだ、人形の少女を祖国に持ち帰り、分解し、パーツ1個1個の機能を大人数で分析して動作を解明する。
ラクランはセリアに対して芽生えかけていた感情が二度と開かないよう鍵を掛けた。
ラクランは、機械のような心が欲しかった。
・
・
・
「ま、マスターおかえりなさい…」
「……………」
ラクランはセリアの出迎えに返事を返さなかった。
俯いたまま部屋に入り、セリアが存在しないかのように一瞥もくれず備え付けの机に腰掛け、一言も発しない。
セリアはそんなラクランの様子を見て、所在なさげについてまわる。
「どうしたんですか、マスター?お身体の調子でも…」
「…お前には、感謝してる」
「え……」
唐突な感謝の言葉。セリアには主人の意図がわからず途方に暮れるしかない。
「でも………俺以外に拾われた方が良かったのかもな」
「そんなことありません!」
ラクランの目にはいつもの優しい光がない、それがセリアの心を言い知れぬ不安で満たしていく。
「悪かったな、俺、最初は機械のお前に感情なんてないと思ってたんだ」
「でも、マスターは出会った頃からお優しかったです…!」
「ああ、気まぐれでな」
「気まぐれでも、セリアは幸せでした」
「幸せ…ああそうか、幸せか…じゃあ、俺がお前をいずれ分解するために手元に置いてただけだと言ったらどうする?」
ラクランの瞳は、セリアを捉えているようでいて、捉えていない。
「セリアのことを記録するのはマスターのお国のため…って言ってましたよね?」
「ああそうだ」
「…マスター、セリアは例えマスターに分解されてばらばらになっても、それでマスターのお役に立てるのなら構いません」
人形の少女は心配いらない、とばかりに笑ってみせた。
セリアはラクランの役に立つためであれば字面通りなんだってする、根っからの従者だった。ラクランが分解すると言えば素直に身を差し出してしまうことだろう。そんな彼女があまりにも健気だから、つい心打たれてしまう、主として報いたくなってしまう、ずっと手元に置きたくなってしまう。
(でも、それでどうなる?故郷に置いてきた家族は?友人は?祖国の人々を差し置いて、俺だけ人形従者の世話しながらのうのうと暮らそうってのか…?)
ラクランの決意は固い、ラクランの高潔な精神は、弱い自分を決して許さない。
「そう言ってくれて助かる…じゃあ、これからお前を封印する」
「封印…?」
「麻袋に入って、俺の故郷に到着するまで出てこないと約束して欲しい」
「……っ!どうして…マスターのためならなんでもします、どうしてもマスターのおそばに居させてもらえませんか…?」
「悪いけど命令なんだよ…!…お前といると、俺、ダメになるから…!」
ラクランは苛立たしそうにドン、と机を叩いた、それはセリアではなくラクラン自身へ向けた苛立たしさだった。
「セリアでは、お役に立てないのですね…わかりました、ご命令に従います、マスター」
でも、とセリアは必死に笑顔を取り繕って付け加えた。
「マスターの痛みはセリアの痛みです、マスターの心が折れそうなときはどうか、どうかセリアをお呼び下さいね」
・
・
・
田舎の街道は往来が少ないためか小石が多く、よく車輪が石を踏みつけて馬車が不規則にゴトゴトと揺れる。
ラクランは足腰が痛くなりそうなほど窮屈な馬車の中で、生きているか死んでいるかもわからない表情でただ長旅の終わりを待っていた。
この馬車は相乗りではない、ラクラン専用にチャーターしたものだ、厳格な反魔物領で人形の少女の存在をちらりとでも人に見られるわけにはいかなかった。
あれからラクランは、自ら従者との束の間の幸せな日々に終止符を打った。与えたプレゼント、カチューシャや植物油、事典などは全て古物商に売り払った。
最低限必要な会話以外は誰とも口を利かず、がらんどうで妙に広く感じるボロ宿と荷積み場を往復する毎日。
長距離の馬車賃が払えるほどに金が溜まった頃には、ラクランの目元にはアンデッドも真っ青の深いクマができていて、御者にぎょっとされたものだった。
「……………」
ラクランの傍らには機械人形が入った麻袋がある、でも決して中を覗き見ることはない。この中にあるのはラクランが決別すべき日々そのものだ。
もう主従であることをやめてしまった機械工と機械人形を運んでひたすらに馬車は進む。
ラクランの祖国、レスカティエ教国へと―――――――――――――。
17/08/19 21:55更新 / 些細
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