何様
ガビーッ ガションッ ガションッ ガションッ
日も暮れて午後八時を回った頃、最新鋭の複合機がメカニカルな音を小気味良く奏でて紙を吐き出している。
貴紀はその前で所在なさ気に立ち尽くしていた。
腕を組んで中空を見つめている。
最近は、なぜか貴紀には沙也加の身の回りの補助的な業務が増えていた。
これも、沙也加に頼まれた会議資料のコピーの業務の一貫というわけである。
貴紀の部署は営業成績を白板に掲示して晒しあげるようなプレッシャーのかけ方はしなかったが、それでも貴紀は焦っていた。
明らかに同期と差をつけられている。
営業成績的にもそうだし、同期は着々と商材の専門知識を身につけ、得意先との関係を築いている。
埋められない差がぐんぐんと広がっていた。
これは貴紀の男のプライドにもジワジワと焦燥感を与えている。
貴紀は、仕事で沙也加を認めさせられたら、沙也加に告白しようとひっそりと腹づもりを決めていたのだ。
(俺は……まだほとんど何もしていないじゃないか……何もっ……!)
そう考えるとなんだか惨めな気分になって、ぎゅうっと拳を握り込む。
こういう時、貴紀はふと前いた部署のことを思い出してしまうのだ。
「社会人として恥ずかしいと思わないのか!!」
「こんな仕事振りじゃクズとかゴミとか呼ばれても仕方ねぇぞ、お前!!」
「我が部署に役立たずはいらない、客前に出せねぇからなぁッ!!」
仕事のミスが原因で元上司からたっぷり二時間程、社会人にとって屈辱的な、思いつく限りの罵倒を浴びせられた。
実際には、貴紀のミスには罵倒した元上司にも大きな原因があったが、その上司は大声で怒鳴り散らして見せしめを行うことでその話題に触れにくくし責任の所在を曖昧にするタイプの小悪党であった。
元上司の思惑通り、意気消沈した貴紀はもうその案件について自分から口に出すことはなくなり、黙々と後始末を行った。
そこから統合、部署再編があり沙也加がいるオフィスに移って今日に至るというわけである。
「役立たず……今の俺ってまさに金だけもらって、役立たずじゃないか……ははっ」
ガチャリ
「貴紀くーん、業務は順調かねー!……あれ?」
ドアを開け、ニコニコしながら沙也加がコピー室に入ってきた。貴紀の様子を見てなにかを感じ取ったようだ。
慌てて貴紀は表情を取り繕う。
「一体どうしたね、貴紀君?」
「……や、なんでもないっす」
「…元気ないぞー?」
「気にしないでください、いつも通りですから」
自分はまともな仕事をしていない癖に、それどころか憧れの女性に気を使われてすらいる。
一層惨めな気持ちになっていると、沙也加は貴紀のぽん、と肩に手を置いた。
「可愛い部下を労うのも上司の仕事サ……今日、これから一杯どう?」
沙也加はグイっとジョッキを傾ける動作をし、歯を見せて豪気に誘う。
「はぁ………あ、」
そんな気分ではない、と一瞬思ってから、貴紀は逆にこれはチャンスだと考えた。
(酒の席で、同期に負けないくらい仕事が欲しいと言ってやればいいじゃないか!)
「……はい、是非にでも!」
「良かった、じゃあお店は繁華街で適当に探そう、コピーが終わったら一緒に行こうじゃない♪」
ぱしぱしと貴紀の背中を叩いてから、沙也加はコピー室を後にした。
・
・
・
オフィスを出て歩いて十数分。沙也加と貴紀は勤務地付近の繁華街を歩いていた。
夜九時を回っているが、夜の街はこれからが本番とばかりにざわざわと賑わった様子だ。
世は不景気だと言うが、ギラギラと輝くネオンランプたちからはそれを感じさせないような活気を感じとれる。
沙也加にはお目当ての店があるらしく、迷いなくすたすた先を歩いて行く。
やがて繁華街の中心から少し逸れ、落ち着いた雰囲気の和風の店に入った。
「あ、沙也加ちゃんいらっしゃ〜い」
和装の少し垂れ目気味なおっとりした女性が出迎えた。
「連れがいるなんて珍しいじゃない」
「どうもです〜、これから二名いいですか?」
「もちろん、お好きなお席へどうぞ〜」
沙也加はどうやらこの店の常連らしい。親しげな様子で奥へと案内された。
テーブルの周りには、観光地の茶屋のような、赤い敷物がのった長椅子が配置されている。
品がありつつもくつろげて、居心地の良さを感じる内装だ。
「ほらぁ、座りなよぅっ」
と、沙也加は急にむにゅっと尻を揉んできた。
「んのわぁ!」
「いい尻してますなぁ…」
「沙也加さん、エロ親父っぽいっすよ…」
「エロの方は否定しませんけどね…!」
えっへんと胸を張って言った。なぜ自信ありげなのかわからない。
貴紀は、相手が沙也加だからいいものの、セクハラ上司に泣き寝入りする女性の気持ちがちょっぴりわかったような気がした。
確かにこれは、対策のしようがない。
貴紀が長椅子に腰掛けると、続いて沙也加は貴紀の隣にぴたりと肩を寄せて座る。
サラサラと伸びる長い黒髪からは甘い匂いがして、肩越しに伝わる体温が仄かに温かい。
(なんだか今日は距離感が近いなあ……)
貴紀は嬉しかったが、ただ親身にしようとしてくれているだけだろう、とあくまで期待しないようにしていた。
・
・
・
「さあて、貴紀君との初サシ飲みに乾杯!」
「乾杯!」
二人は注文したビールを掲げかちん、と鳴らした。
沙也加はすぐにジョッキを傾けグビグビと喉を鳴らして飲むと、あっという間に泡立つ水面はジョッキの半分ほどになった。
負けじと貴紀も飲む。
「「ふぅ〜〜〜!」」
ゴトリ、とグラスを置くと、沙也加が口を開いた。
「さあ、なんでも話したまえ少年よ、恋の悩みか?」
「違います」
「それじゃあシモの悩みかい?」
沙也加はニヤけながら人差し指と中指の間に親指を握りこむようにサインを作って見せつける。
「んなわけないでしょ!」
「くふふふふふっ♪」
沙也加は一人でケラケラと楽しそうに笑っている。
セクハラ癖は美しくも頼もしくも格好いい上司の、唯一の欠点だ。
貴紀は悩みを切り出すタイミングに迷っていたが、こうしてからかわれてばかりいても埒が明かない。
酒の勢いで言ってしまおうと、貴紀はジョッキを手にして一気に空ける。
そして本題に切り込んだ。
「その、仕事のことなんです!」
「仕事ぉ? 前もそんなこと話してたね」
「俺、もっと仕事ができる男になりたいんです! 俺が情けないのはわかりますけど、もっと仕事を振ってもらえませんか?」
「もう仕事ならやらせてるじゃない、コピーとか、お掃除とか……」
いつも自信ありげな沙也加にしては珍しく、ごにょごにょと歯切れが悪い。
「でも営業とは関係ないですし……ぶっちゃけ誰にでもできる仕事ですよね?」
「それはその、そうだけど……その……君がいい、というか…」
「どうしてもまとまった仕事が欲しいんです、同期に遅れをとりたくない…!」
だがそれは、憧れの上司に認めてもらいたいという下心もあってのことだ。
でも、男として譲れない所だ。
「うーん……お仕事、あげられないわけじゃないんだけどな……」
沙也加は両手の指を交叉させて握り込む。
ぎゅっと目を閉じてなにか考えあぐねていたが、意を決したかのように言った。
「よぅし! お姉さんに任せなさい! 君にとっておきのチャンスをあげよう!」
「あ……ありがとうございます! 精進します!」
貴紀は沙也加の手をとって上下にぶんぶん振り感謝の意思を伝えた。
うまくいく未来が、目に浮かんできていた。
一方の沙也加は、複雑な表情で情熱に燃える貴紀の様子を眺めていた。
・
・
・
(全部順調だ、やればできるじゃん俺……!)
寒風吹き抜ける夕方、貴紀は取引先から自社に向け肩で風を切るように大股でずんずん歩く。
沙也加が貴紀に与えた仕事は、他の部下と遜色ないどころか、期待のプロジェクトの現場担当者という大抜擢といっても過言ではないものだった。
ほぼオフィスから一歩も出られない状態から、外出・出張も増えたし、他の部署との打ち合わせも増えた。
貴紀は酒の席の頼みで重要な仕事を振ってもらうのはほんのり心苦しかったが、沙也加の信用を裏切るまいと腕を鳴らし俄然張り切っていた。
(今日も沙也加さんに褒めてもらえるかな……?)
本日の上々とも言える成果を沙也加に報告するのを、貴紀は心待ちにしていた。
・
・
・
「はぁぁあぁ〜〜……」
肺から全ての空気を吐き出してしまいそうな長いため息が、紅い夕陽に染まるオフィスに溶ける。
沙也加は、勤務時間内にも関わらず、頬杖をついて小一時間程窓の外を眺めていた。
「あのー、御門さん? み、か、ど、さぁーん」
ショートカットの快活そうな女性社員が沙也加の前でひらひらと手を振る。
それに気づくと、沙也加は「ああ、」とのっそり顔を上げた。
「あの、お昼にお渡しした報告書、見てもらえました……?」
「ああ、あれ……、あれか、あれねぇ、うん」
「……なんのことだかわかってます?」
「………?」
「もぉ、明日までに見てもらえなかったら勝手に進めちゃいますからね!」
女性社員は呆れた様子で肩をすくめて立ち去った。
再び沙也加は窓の外を見やる。
人混みの中でも規則正しく歩く人間達が、沙也加には働き蟻のように見えた。
(ああ、貴紀君、早く帰ってこないかなぁ……)
沙也加が貴紀のことを考えてぼんやりとしている間、沙也加のデスクには手付かずの書類がどっさりと山のように貯まっていた。
その姿はまさしくポンコツ上司、といった有様であった。
貴紀に新規プロジェクト担当者の任を与えて、もう三週間が経とうとしていた。
信頼に応え、貴紀はよく働いてくれていた。
貴紀はそもそも頭はキレる方だったし、最優秀というわけはないが沙也加の部下の平均値より仕事の覚えは早かった。
この様子だと、与えた仕事もなんとか成し遂げ、大きく成長してくれることだろう。
だが、沙也加が貴紀に期待していたのはそんなことではなかった。
(貴紀君がいない職場でお仕事頑張って、何の意味があるの……?)
自問する。
(どうしてもって言うからお仕事あげたのに、私を放っておくなんてひどいじゃない…?)
ひとりでに瞳にじわりと涙が浮かぶ。
貴紀のあまりの切実な様子についやりがいある仕事を与えてしまったが、沙也加は内心後悔していた。
沙也加は、「デーモン」という種族の魔物である。つまり悪魔の一種で、人間を堕落へ誘うことを業とする。
だが悪魔とはいえ、淫魔の性質を受け継いでおり、人間の夫を作り子を成す。
「Raccoon Holdings」の営利事業も、魔物達が人間社会に溶け込むための一貫であった。
沙也加は、貴紀のことを夫候補として見初めていた。
沙也加がなにより好んだのは、貴紀が沙也加に向ける羨望の眼差しである。
沙也加が持ち前の圧倒的な優秀さで仕事をこなすと、貴紀はキラキラと子供のように目を輝かせ沙也加を見てくる。
宝石のように純粋な尊敬、憧憬、それはまさに崇拝といっても過言ではなかった。
そんな貴紀の視線を、意識を支配していることは悪魔である沙也加にこの上ない愉悦を与えていたのだ。
たまらなかった、可愛くて可愛くて仕方なかった。
それこそ、食べてしまいたくなるほどに。
だから職権濫用してまで、敢えて貴紀を目の届く場所においていたのだ。
貴紀になかなか仕事が与えられなかったのは貴紀が無能だったのではなく、これまでの沙也加が不公平だったのである。
その辺の価値観は悪魔らしいといえば悪魔らしい。
今はほとんど貴紀がいないため、なにかと理由をつけてお茶くみにも呼び出せない。
手伝いを口実にセクハラできない。
当の貴紀はほとんど取引先に外出しているか、デスクに鞄だけ置いて他部署に打ち合わせに行ってしまっている。
このままいけば、貴紀は仕事のやり方を身につけ、どんどんと前に進んでしまう。
沙也加は想像する。
成長し、昇進する貴紀。沙也加の庇護を必要としなくなり、自立していく。
仕事に充実を覚え、たくさんの人に頼りにされている。
「沙也加さん、今までありがとうございました」
そう言って自信をつけて沙也加の元を羽ばたいていく。
最悪の想像だった。仕事なんか手に付くはずがない。
(……貴紀君は私の物でしょう? 私より仕事にかまけるなんて、何様だよ……?)
(…なんで私が我慢しなきゃいけないんだ、上司の私が、なんで、なんのために…?)
(そうだ、貴紀君が悪いんだ、だから支配されたってしょうがないんだ…)
(…私がいなきゃダメだもんねぇ、貴紀君は……)
仄暗い瞳にめらめらと情欲の炎を灯らせると、ようやく沙也加は山積みの書類に手を出した。
沙也加の悪魔としての本性が、姿を現そうとしていた。
日も暮れて午後八時を回った頃、最新鋭の複合機がメカニカルな音を小気味良く奏でて紙を吐き出している。
貴紀はその前で所在なさ気に立ち尽くしていた。
腕を組んで中空を見つめている。
最近は、なぜか貴紀には沙也加の身の回りの補助的な業務が増えていた。
これも、沙也加に頼まれた会議資料のコピーの業務の一貫というわけである。
貴紀の部署は営業成績を白板に掲示して晒しあげるようなプレッシャーのかけ方はしなかったが、それでも貴紀は焦っていた。
明らかに同期と差をつけられている。
営業成績的にもそうだし、同期は着々と商材の専門知識を身につけ、得意先との関係を築いている。
埋められない差がぐんぐんと広がっていた。
これは貴紀の男のプライドにもジワジワと焦燥感を与えている。
貴紀は、仕事で沙也加を認めさせられたら、沙也加に告白しようとひっそりと腹づもりを決めていたのだ。
(俺は……まだほとんど何もしていないじゃないか……何もっ……!)
そう考えるとなんだか惨めな気分になって、ぎゅうっと拳を握り込む。
こういう時、貴紀はふと前いた部署のことを思い出してしまうのだ。
「社会人として恥ずかしいと思わないのか!!」
「こんな仕事振りじゃクズとかゴミとか呼ばれても仕方ねぇぞ、お前!!」
「我が部署に役立たずはいらない、客前に出せねぇからなぁッ!!」
仕事のミスが原因で元上司からたっぷり二時間程、社会人にとって屈辱的な、思いつく限りの罵倒を浴びせられた。
実際には、貴紀のミスには罵倒した元上司にも大きな原因があったが、その上司は大声で怒鳴り散らして見せしめを行うことでその話題に触れにくくし責任の所在を曖昧にするタイプの小悪党であった。
元上司の思惑通り、意気消沈した貴紀はもうその案件について自分から口に出すことはなくなり、黙々と後始末を行った。
そこから統合、部署再編があり沙也加がいるオフィスに移って今日に至るというわけである。
「役立たず……今の俺ってまさに金だけもらって、役立たずじゃないか……ははっ」
ガチャリ
「貴紀くーん、業務は順調かねー!……あれ?」
ドアを開け、ニコニコしながら沙也加がコピー室に入ってきた。貴紀の様子を見てなにかを感じ取ったようだ。
慌てて貴紀は表情を取り繕う。
「一体どうしたね、貴紀君?」
「……や、なんでもないっす」
「…元気ないぞー?」
「気にしないでください、いつも通りですから」
自分はまともな仕事をしていない癖に、それどころか憧れの女性に気を使われてすらいる。
一層惨めな気持ちになっていると、沙也加は貴紀のぽん、と肩に手を置いた。
「可愛い部下を労うのも上司の仕事サ……今日、これから一杯どう?」
沙也加はグイっとジョッキを傾ける動作をし、歯を見せて豪気に誘う。
「はぁ………あ、」
そんな気分ではない、と一瞬思ってから、貴紀は逆にこれはチャンスだと考えた。
(酒の席で、同期に負けないくらい仕事が欲しいと言ってやればいいじゃないか!)
「……はい、是非にでも!」
「良かった、じゃあお店は繁華街で適当に探そう、コピーが終わったら一緒に行こうじゃない♪」
ぱしぱしと貴紀の背中を叩いてから、沙也加はコピー室を後にした。
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オフィスを出て歩いて十数分。沙也加と貴紀は勤務地付近の繁華街を歩いていた。
夜九時を回っているが、夜の街はこれからが本番とばかりにざわざわと賑わった様子だ。
世は不景気だと言うが、ギラギラと輝くネオンランプたちからはそれを感じさせないような活気を感じとれる。
沙也加にはお目当ての店があるらしく、迷いなくすたすた先を歩いて行く。
やがて繁華街の中心から少し逸れ、落ち着いた雰囲気の和風の店に入った。
「あ、沙也加ちゃんいらっしゃ〜い」
和装の少し垂れ目気味なおっとりした女性が出迎えた。
「連れがいるなんて珍しいじゃない」
「どうもです〜、これから二名いいですか?」
「もちろん、お好きなお席へどうぞ〜」
沙也加はどうやらこの店の常連らしい。親しげな様子で奥へと案内された。
テーブルの周りには、観光地の茶屋のような、赤い敷物がのった長椅子が配置されている。
品がありつつもくつろげて、居心地の良さを感じる内装だ。
「ほらぁ、座りなよぅっ」
と、沙也加は急にむにゅっと尻を揉んできた。
「んのわぁ!」
「いい尻してますなぁ…」
「沙也加さん、エロ親父っぽいっすよ…」
「エロの方は否定しませんけどね…!」
えっへんと胸を張って言った。なぜ自信ありげなのかわからない。
貴紀は、相手が沙也加だからいいものの、セクハラ上司に泣き寝入りする女性の気持ちがちょっぴりわかったような気がした。
確かにこれは、対策のしようがない。
貴紀が長椅子に腰掛けると、続いて沙也加は貴紀の隣にぴたりと肩を寄せて座る。
サラサラと伸びる長い黒髪からは甘い匂いがして、肩越しに伝わる体温が仄かに温かい。
(なんだか今日は距離感が近いなあ……)
貴紀は嬉しかったが、ただ親身にしようとしてくれているだけだろう、とあくまで期待しないようにしていた。
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「さあて、貴紀君との初サシ飲みに乾杯!」
「乾杯!」
二人は注文したビールを掲げかちん、と鳴らした。
沙也加はすぐにジョッキを傾けグビグビと喉を鳴らして飲むと、あっという間に泡立つ水面はジョッキの半分ほどになった。
負けじと貴紀も飲む。
「「ふぅ〜〜〜!」」
ゴトリ、とグラスを置くと、沙也加が口を開いた。
「さあ、なんでも話したまえ少年よ、恋の悩みか?」
「違います」
「それじゃあシモの悩みかい?」
沙也加はニヤけながら人差し指と中指の間に親指を握りこむようにサインを作って見せつける。
「んなわけないでしょ!」
「くふふふふふっ♪」
沙也加は一人でケラケラと楽しそうに笑っている。
セクハラ癖は美しくも頼もしくも格好いい上司の、唯一の欠点だ。
貴紀は悩みを切り出すタイミングに迷っていたが、こうしてからかわれてばかりいても埒が明かない。
酒の勢いで言ってしまおうと、貴紀はジョッキを手にして一気に空ける。
そして本題に切り込んだ。
「その、仕事のことなんです!」
「仕事ぉ? 前もそんなこと話してたね」
「俺、もっと仕事ができる男になりたいんです! 俺が情けないのはわかりますけど、もっと仕事を振ってもらえませんか?」
「もう仕事ならやらせてるじゃない、コピーとか、お掃除とか……」
いつも自信ありげな沙也加にしては珍しく、ごにょごにょと歯切れが悪い。
「でも営業とは関係ないですし……ぶっちゃけ誰にでもできる仕事ですよね?」
「それはその、そうだけど……その……君がいい、というか…」
「どうしてもまとまった仕事が欲しいんです、同期に遅れをとりたくない…!」
だがそれは、憧れの上司に認めてもらいたいという下心もあってのことだ。
でも、男として譲れない所だ。
「うーん……お仕事、あげられないわけじゃないんだけどな……」
沙也加は両手の指を交叉させて握り込む。
ぎゅっと目を閉じてなにか考えあぐねていたが、意を決したかのように言った。
「よぅし! お姉さんに任せなさい! 君にとっておきのチャンスをあげよう!」
「あ……ありがとうございます! 精進します!」
貴紀は沙也加の手をとって上下にぶんぶん振り感謝の意思を伝えた。
うまくいく未来が、目に浮かんできていた。
一方の沙也加は、複雑な表情で情熱に燃える貴紀の様子を眺めていた。
・
・
・
(全部順調だ、やればできるじゃん俺……!)
寒風吹き抜ける夕方、貴紀は取引先から自社に向け肩で風を切るように大股でずんずん歩く。
沙也加が貴紀に与えた仕事は、他の部下と遜色ないどころか、期待のプロジェクトの現場担当者という大抜擢といっても過言ではないものだった。
ほぼオフィスから一歩も出られない状態から、外出・出張も増えたし、他の部署との打ち合わせも増えた。
貴紀は酒の席の頼みで重要な仕事を振ってもらうのはほんのり心苦しかったが、沙也加の信用を裏切るまいと腕を鳴らし俄然張り切っていた。
(今日も沙也加さんに褒めてもらえるかな……?)
本日の上々とも言える成果を沙也加に報告するのを、貴紀は心待ちにしていた。
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「はぁぁあぁ〜〜……」
肺から全ての空気を吐き出してしまいそうな長いため息が、紅い夕陽に染まるオフィスに溶ける。
沙也加は、勤務時間内にも関わらず、頬杖をついて小一時間程窓の外を眺めていた。
「あのー、御門さん? み、か、ど、さぁーん」
ショートカットの快活そうな女性社員が沙也加の前でひらひらと手を振る。
それに気づくと、沙也加は「ああ、」とのっそり顔を上げた。
「あの、お昼にお渡しした報告書、見てもらえました……?」
「ああ、あれ……、あれか、あれねぇ、うん」
「……なんのことだかわかってます?」
「………?」
「もぉ、明日までに見てもらえなかったら勝手に進めちゃいますからね!」
女性社員は呆れた様子で肩をすくめて立ち去った。
再び沙也加は窓の外を見やる。
人混みの中でも規則正しく歩く人間達が、沙也加には働き蟻のように見えた。
(ああ、貴紀君、早く帰ってこないかなぁ……)
沙也加が貴紀のことを考えてぼんやりとしている間、沙也加のデスクには手付かずの書類がどっさりと山のように貯まっていた。
その姿はまさしくポンコツ上司、といった有様であった。
貴紀に新規プロジェクト担当者の任を与えて、もう三週間が経とうとしていた。
信頼に応え、貴紀はよく働いてくれていた。
貴紀はそもそも頭はキレる方だったし、最優秀というわけはないが沙也加の部下の平均値より仕事の覚えは早かった。
この様子だと、与えた仕事もなんとか成し遂げ、大きく成長してくれることだろう。
だが、沙也加が貴紀に期待していたのはそんなことではなかった。
(貴紀君がいない職場でお仕事頑張って、何の意味があるの……?)
自問する。
(どうしてもって言うからお仕事あげたのに、私を放っておくなんてひどいじゃない…?)
ひとりでに瞳にじわりと涙が浮かぶ。
貴紀のあまりの切実な様子についやりがいある仕事を与えてしまったが、沙也加は内心後悔していた。
沙也加は、「デーモン」という種族の魔物である。つまり悪魔の一種で、人間を堕落へ誘うことを業とする。
だが悪魔とはいえ、淫魔の性質を受け継いでおり、人間の夫を作り子を成す。
「Raccoon Holdings」の営利事業も、魔物達が人間社会に溶け込むための一貫であった。
沙也加は、貴紀のことを夫候補として見初めていた。
沙也加がなにより好んだのは、貴紀が沙也加に向ける羨望の眼差しである。
沙也加が持ち前の圧倒的な優秀さで仕事をこなすと、貴紀はキラキラと子供のように目を輝かせ沙也加を見てくる。
宝石のように純粋な尊敬、憧憬、それはまさに崇拝といっても過言ではなかった。
そんな貴紀の視線を、意識を支配していることは悪魔である沙也加にこの上ない愉悦を与えていたのだ。
たまらなかった、可愛くて可愛くて仕方なかった。
それこそ、食べてしまいたくなるほどに。
だから職権濫用してまで、敢えて貴紀を目の届く場所においていたのだ。
貴紀になかなか仕事が与えられなかったのは貴紀が無能だったのではなく、これまでの沙也加が不公平だったのである。
その辺の価値観は悪魔らしいといえば悪魔らしい。
今はほとんど貴紀がいないため、なにかと理由をつけてお茶くみにも呼び出せない。
手伝いを口実にセクハラできない。
当の貴紀はほとんど取引先に外出しているか、デスクに鞄だけ置いて他部署に打ち合わせに行ってしまっている。
このままいけば、貴紀は仕事のやり方を身につけ、どんどんと前に進んでしまう。
沙也加は想像する。
成長し、昇進する貴紀。沙也加の庇護を必要としなくなり、自立していく。
仕事に充実を覚え、たくさんの人に頼りにされている。
「沙也加さん、今までありがとうございました」
そう言って自信をつけて沙也加の元を羽ばたいていく。
最悪の想像だった。仕事なんか手に付くはずがない。
(……貴紀君は私の物でしょう? 私より仕事にかまけるなんて、何様だよ……?)
(…なんで私が我慢しなきゃいけないんだ、上司の私が、なんで、なんのために…?)
(そうだ、貴紀君が悪いんだ、だから支配されたってしょうがないんだ…)
(…私がいなきゃダメだもんねぇ、貴紀君は……)
仄暗い瞳にめらめらと情欲の炎を灯らせると、ようやく沙也加は山積みの書類に手を出した。
沙也加の悪魔としての本性が、姿を現そうとしていた。
15/12/28 10:45更新 / 些細
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