前編『涙雨降る唐傘の下』
立ち込める霧、しとしとと降る雨。側に流れる川は水位と勢いを増しつつあって、そろそろこの橋の下からどこかへ行かなきゃと私は思った。
身に着けているものと言えば、頭の巨大な、先の割れた舌が付いた笠と濡れて身体にはっつく布みたいな服が一枚、あと一本足の下駄。どうしてこれだけしか身に着けていないのだろう。どうして私はこの橋の下で目が覚めたのだろう。わからない。
それにしても、寒い。吹き込む風が濡れた私の身体を冷やしていく。ここにはいられない。どこか風のしのげるところを探さないと……身体を温められるところ……温もりが欲しい……。
橋の下を出て、土手を上がった矢先。一気に雨足が強くなる。私は頭の笠があるおかげであまり関係ないけど、道行く人間達は道を急いでいる。中には傘を持っておらず頭を抱えて走っていく男もいる。出来れば私の笠に入れてあげたかったけど、声をかける間もなく過ぎていってしまった。
もう通りにはほとんど人はいない。胸をなでおろし、どこか雨宿りにいいところはないかと歩き回る。でもなぜか、他の誰かがいるような所は嫌だった。出来れば誰もいない所。いても私の同類がいい。それに、突然こんな格好の女が来たら迎える方も驚くだろう。
「おいおい、なんだぁこりゃあ? すげえ勢いで降ってんじゃねぇか。まいったな傘がねぇや」
荒っぽい声の方を見れば、無精髭を生やした大柄の男が茶屋から出てきていた。その後ろには……狸? 狸のような人間がいる。
「旦那はん、傘持ってきてへんかったんやね。ウチの使う?」
「ああ、わりぃな。抜いてもらった上に傘まで……次はあの羊の子も」
「かまへんよ。どうぞ今後もごひいきに」
男が蛇の目傘をさしてこっちへ歩いてくるのを見て、私は咄嗟に影へ身を隠した。どうしてかは分からない。でも、身体が勝手に動いてしまった。
「しっかし、こんなに降るとはなぁ。ちょっと破けたくらいで捨てるんじゃなかったか」
男が前を通り過ぎる。私には気づかない。ただ、私は彼の言葉に驚愕していた。まさかと思う。もしかしてあの人――気になって少し顔を出す。あの男がこれから何をするか、知る必要がある。私はそうしなければならない。
「そういや、この辺だったっけかぁ?」
さっきまで私がいた橋に目をやった。間違いない。彼だ。私は彼の傘だった。――ああ、そうだ。私は、彼に捨てられたんだった。
雷に打たれたかのような衝撃。フラフラと吸い寄せられるように彼へと向かう足。そう。私は貴方の傘。この姿になったのは貴方を探すため。
「でもま、おかげでこんな上等な傘貰っちまったんだ。全く運がいいぜ」
ピタッ……と足が止まった。彼の言葉が私の胸を切り刻んでボロボロにして、もう一歩も動けない。私は、完全に捨てられた。小さくなっていく彼の背中。その背中に、私はもやもやとした気持ちを抱かずにはいられなかった。そうして気づく。私は、人間が嫌いだということに。
橋の下に戻ると、もう川の水位は足首まで来ていた。もういい。このまま濁流に呑まれて、どこまでも流れていきたい。そうすればこのもやもやした気持ちも綺麗さっぱり流してくれるかもしれない。あるいはこの身をさらって、激しく、もみくちゃにしてほしい。その結果この命が消えても構わない。もともと私は捨てられた傘。どうなろうと構わない。
しかし、それは叶わなかった。雨の勢いが弱まって、水位はそれ以上増すことはなかった。まるで同情してくれるかのように、一緒に泣いてくれるかのように静かに雨が降りだした。でも、違う。私が望んでるのはそうじゃない。この身を打ち据えるような、暴力のような雨が欲しい。なのに、どうして……。
「あら? どうしたの? こんなところで」
声のする方に目をやると、びしょ濡れの美しい人が微笑んで私を見ていた。白い肌に着物がはっついて透けている。この人は、雨宿りに来たのだろうか?
「隣、いいかしら?」
私の姿に驚くこともなくスススと隣に来るその人は、なんだかやけに透き通って見える。足首辺りまで水は溢れているというのに、彼女はものともせず座って肩を寄せてくる。
「冷たっ」
「あぁ、ごめんなさいね。この身体、温まるのに時間がかかるの」
優しい語り口。この人は他の人間にはないものがある。いや、他の人間にあるものがない? どっちにしても、この人は一体――
「私は“ぬれおなご”のキウ。あなたは?」
そうか。このヒトは同類。人ならざる者なんだ。違和感の正体がわかり、私はキウさんを拒む理由はない。大きな舌で彼女の肩を抱き寄せて口を開く。
「私は傘。名前……名前はないの」
「そうなの?」
頷くとキウさんは何か悟ってくれたようで、優しい笑みのまま柔らかい腕を私の身体に回してくれた。冷たいはずなのに、何故だかとっても温かい。落ち着く。零れる涙が彼女の太ももへと落ち沁み込んでいく。この涙と同じように、キウさんは私を受け止めてくれるんだ。そう思うと、もう抑えられない。私はゆっくりと笠を閉じ、キウさんをその内側へと招き入れた。
「あら、こんなことができるなんて、すごいのね」
すごい。キウさんの身体、柔らかい。この笠の中は誰にも邪魔できない空間。初めて使う力だけど、用途はすんなり頭の中に入ってきた。それよりも全身に密着するキウさんの身体が心地くて、身体がピリピリと痺れるのを感じる。
「キウさん、私っ」
涙交じりの声が口で塞がれ、入ってくる舌に口の中をかき乱される。蕩けてしまいそうな快感に包まれて、口同士離れた時、私は言葉の続きを忘れてしまっていた。水の中で傘は意味をなさない。ただ流れにもみくちゃにされるだけ。私は今、キウさんに溺れようとしている。
「よぉしよし。雨が止むまで、一緒にいてあげる」
さらなる口付け。今度は私の頬から後ろへと手を回し、ぎゅうっと抱きしめてくれる。触れられるって、こんなに気持ちいいんだ。こんなに暖かくて、嬉しいんだ。私もキウさんに大きな舌を絡ませ、ぎゅうっと締め付ける。なんだかふわっと甘くて、おいしい。
「そうだ。手、かして?」
言われるがまま、手をキウさんに差し出すと、彼女は片方を白い太ももへ、もう片方を胸へと添えるようにあてがった。
「もっちもちで、やわらかいでしょう? ほら、もっと触って?」
すごい。胸も太もももプルンプルン。鷲掴みすると心地いい弾力が押し返し、さわさわと撫でるとその質感のおかげでするすると滑るようになって面白い。しばらく夢中になって二本の腕と一枚の舌を使ってキウさんの身体を撫でたり揉んだり。するとキウさんの口からなんだか甘い声が漏れだしてきた。
「キウさん、大丈夫?」
「っはぁ、ええ。大丈夫。きもちい」
キウさんの反応に私までなんだか気持ちよくなってくる。これは、嬉しい……? キウさんが悦んでくれて、私で感じてくれて、嬉しい……嬉しい! もっと、もっと感じて!
キウさんが私の手を股の間へと導いていく。ドキドキが止まらない。やがて薄い着物の下から股の間の割れ目へとあてがわれ、私達の身体はビクンと跳ねた。
「んっ! あはっ、その調子♪」
くちゅくちゅと水音が傘の内側に響き渡って、頭の中まで揺らしてく。キウさんの唇。んむっ、んんっ……んんっ!? 突き抜けるような快感が私の股から脳へと走ってっ、足ががくがくしちゃうっ。
「ね、気持ちいいでしょ?」
キウさんの指が、私の中、入って、んぅ、内側すりすりって、声、声出ちゃう、止まらないっ! やぁ、イっ!? なに? 何なにナニ!?
「このくらいの太さでいいかしら……便利でしょう? この身体」
キウさんの指、私の中でっ、おっきくなっ、あっ、やっ、イイ、だめっ! 私が、わらひが、キウさんを気持ちよくするのに、これじゃっ。
「キウさっ、うごか、さないで」
「動かしてないよぉ? 私はね」
えっ、うそっ。あ、ああっ、動いちゃってる。私が動いちゃってる。腰、イイ、や、私が、キウさんを、気持ちよくするのにぃ、止まらない。腰も声も、止まらない!
「かわい……ほら、接吻、しましょ?」
する。接吻、んむっ。あぁ、カラダの奥ジンジンするっ。やっ、キウさん、今動かしたらだめっ、飛んじゃう! トんじゃう! あっ――
「んっ、んんんーー!!!」
あぁ、力が、はいんない……え? なんか、どくんって、中に……。
「えへ、私もイっちゃった♪」
あ、じゃあキウさんが、私の中に。私で気持ちよくなって、中に、来てくれた。あは、はぁ。しああせ。
「どお? 気持ちよかった?」
抱き着いたまま頷くと、よしよしって頭を撫でてくれた。ひんやりしていたはずのキウさんの身体が、いまはとっても温かい。包まれてホッとする。
「そっか。私も、気持ちよかったよ」
その言葉だけで、私はこの身体になれてよかったと思った。この身体、いろんなことができるんだ。たくさん喜んでもらえるし、私も気持ちよくなれる。相手が感じてる気持ちよさを共有できるんだ。この喜びを教えてくれたキウさんには勿論、この身体を与えてくれただれかにも、ありがとうの気持ちでいっぱいだ。
「ねぇ、一つ聞いていい? 話したくなかったら話さなくてもいいんだけれど」
キウさんが何を聞こうとしているのか、なんとなくわかった。どうしてこんなところで泣いてたのか。本当ならあまり話したくはないことだけど、キウさんならいい。キウさんなら、全部受け止めてくれる。だから、私について知ってることを全部話した。ある男の人の傘だったこと。起きたらここにいたこと。どうやら持ち主に捨てられたらしいこと。話してる内にまた涙が溢れてきて、大きな舌で拭うとしょっぱくて、それがまた悲しみを刺激する。
「辛かったね」
「うん、うん、うぅぅ」
キウさんの胸を借りて、大粒の涙が身体に溶け込んでいくそれに安心して更に涙が溢れてくる。傘の内側なのに雨のようでおかしくて、つい笑ってしまった。
「今のあなたなら、振り向いてくれるんじゃないかしら」
ふっと顔を上げて、慈しむような顔で言うキウさん。確かにこの身体があれば、あの人は私をまた拾ってくれるかもしれない。傘だった頃の記憶はないけど、あの手で握ってもらえたらどんなに嬉しいだろう。喜んでくれたら、どんなに素敵だろう。
「でも、もし拒絶されたら」
「大丈夫。独り身の男の人は絶対に私達を拒めない。絶対にね」
上品に笑うキウさんはどこか鬼気迫るものがあった。私がよくしてもらった分説得力があるのかもしれない。そうだ。あれくらい気持ちよくできれば、あの人だって二度と私を手放そうなんて考えないはずだ。捨てたことを泣いて謝る羽目になる。そして私はそれを許す。ふふっ、考えるだけで楽しみになってきたっ。
「元気出てきたみたいね」
「……うん。ありがと。キウさん」
笠を開くと既に雨は上がっていて、雲間から日の光が差し込んでいた。“私も旦那を探してくる”というキウさんを見送って、私は一人妄想に耽る。土砂降りの雨の日、傘を忘れたあの人が、雨宿りにこの橋の下にやってくる。そこで私を見つけて、驚く彼の冷えた体を温めてあげるんだ。この笠の中で二人っきりで、たくさん私を使ってもらう。そして満足させられたら、持って帰ってくれる。そこでずっとあの人のお世話をするんだ。見た感じだらしなさそうだったし、誰かが付いてあげないと。そしてその誰かは私しかいない。
想像すると身震いしてきた。今すぐにでもあの人に会いたい。んっ、興奮して、こんなふうに……胸を鷲掴みされてぇ……んっ、あっ、強い。でもそれがいい。イイ。もっと激しく、あっ、そんな両方、イイよ。もっと触ってぇ。
そうだ、このおっきい舌、あの人に見立てて、カラダ擦り付けてぇ……先っ、割れた舌先がっ、あっ、ああっ、股に、擦れるっと、きもちいっ。ヌルヌルして、キモチい……ふぇっ? あっ、割れた舌の先が、片方が私の中に入ろうとしてる? こんなの入るわけないのに、カラダが欲しがっちゃってるっ!
ああっ!? もう片っぽ、片っぽがお尻、お尻の穴に当たって、変な感じするぅ……。あの人、お尻の穴も使えたら、っはぁ、悦んで、くれるかな? それとも、舐めてあげた方が、悦ぶのかな? どっちにしても、あの人が悦んでくれるように、練習、しなきゃね。
舌の先がほんの少し、両方の穴に入った。もうこれ以上は入らない。太すぎて裂けちゃう。でも、もしあの人のおちんちんがこれくらいおっきかったらどうしよう。私のカラダ、使い物にならなくなっちゃう。でもそれでもいい。壊れるくらい私を激しく使って、壊れても私を手放そうとしない。そう、私はあの人のモノ。あの人は私の持ち主。どんな扱いをされても、その事実が濃くなるだけ。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。嫌いなんて思って、ごめんなさい。本当は、好きなの私っ。一回捨てられてもっ、それでも私、あの人の事――。
ぷしゃっ、と。またから何かが噴き出した。カラダががくがく震えて、目の前がぼやけていく。そこに、あの人の姿を見たような気がした。
そうして私は毎日のようにこの橋の下であの人を思って自慰をした。夢の中に出てきたあの人に使われた日の朝は恍惚な気持ちで、思い出すだけでイキそうになった。こんなスケベな傘、もしかして嫌われるだろうか? でも、もし嫌われても満足させられる自信がある。そのためのこの身体なんだもの。
そして一週間が経った。久しぶり、カンカン照りの後の喜雨。元々傘だったこともあって、私の体も疼いてくる。今日はきっと、あの人に会える。この雨が連れてきてくれる。そんな予感がしていた。だから私は通りに出て、あの人が来るのを待つことにした。
強い雨のおかげで、人はそうそう通らない。これなら彼が通った時すぐに気が付くことができる。ふふっ、今日、ずっと焦がれてきたあの人に会えるんだ。ふふっ。
「あら、今日は通りに出てるのね」
声に顔を上げると、キウさんが私に微笑みかけていた。側には知らない男の人。どうやら旦那さんを見つけたらしい。そしてその後ろには、キウさんによく似た小さな子もいる。
「キウさん! あれ、旦那さん、と」
「うちの子よ。メグミっていうの。ほらメグミ。ご挨拶なさい」
「こんにちわー!」
素敵な家族の姿。少し話してキウさんたちを見送りながら、私とあの人もいつかあんな幸せな家庭を築けるかなと考える。子供何人欲しいかな。名前は何にしようかな。でも、子供ができても私が一番使ってもらうんだ。
お昼が過ぎて、この間あの人が出てきた建物から、狸のお姉さんが出てきた。その後ろにもう一人。一瞬あの人かと思ったけど、体つきは女性のモノだ。ぴっちりとした黒い胸当てと履物に、白いモフモフの羽織を着てる。傘をさしてるから顔はよく見えなかったけど、きっとあのヒトも私の同類なのだろう。
「ねぇミエ。いつになったら即効性の毛生え薬作ってくれるの?」
「まったく欲しがり屋さんなんやから。そないに急かさんといて」
「本当に作れるんでしょうね……」
狸の方はすごい量の荷物を背負っている。二人で旅をしてるのだろうか? 背中を見送りながら、旅も悪くないかもしれないと考える。あの人と二人で、この国中を旅して回るんだ。いろんな景色を見て、いろんなもの食べて、いろんなところで愛し合う。どんな危機が迫っても、私の笠を閉じてしまえば安全なんだ。恐れることなんて何もない。
そうだ! 旅をしよう! そしてあの人と私がいつまでも幸せに暮らせる場所を探そう! どこがいいかな? やっぱり雨の多いところの方がたくさん使ってくれるかな? あっ、きれいな海が見える所も素敵……でも、あの人がいる所なら、地獄でだってかまわない。どんな酷いところでだって、私があの人を守る。あの人が私を使う。それは変わらないもの。うふふ、あはは、ああ、もうすぐそんな幸せな日々を送れるんだ。あっ、もう。想像しただけで、ちょっと興奮してきちゃった。
その時、遠くに大きな影を見つけた。直感でわかる。あの人だ。私の持ち主、運命の人。ああ、胸がドキドキしてはちきれそう。今すぐ駆け寄って飛びつきたい。なのに緊張しすぎて一歩も動けない。でも、それでいい。あの人が迎えに来てくれるって考えたら、その方が素敵だもの。
……あれ? 傘をさしてる? ああそうか。この前あの狸に貰った傘、まだ使ってたんだ。でもそれも今日で最後。私がいれば他の傘なんて――え? 何あれ? 私? その姿がぼんやり見えるようになって、私は凍り付く。あの人が、私の持ち主が私みたいな子を、まるで娘や彼女を抱きかかえる時のような横抱きにしている。そしてその子の方も落ちないように彼にぴったりとくっついて、彼を濡らさない傘になってる……。
「ねーえ。今日はありがと。私のわがままに付き合ってもらっちゃって」
「なあに、構わねぇさ。そういや、お前と会った一週間前もこんな大雨だったなぁ」
「えへ。そうだったね。きゃっ! んもう、スケベなんだから♪」
一歩も動けない。嘘だよ……こんなの。悪い夢。絶対そう。だって、そうじゃないと私、わたし……。わたしはずっと、貴方を待ってたのに。なのに、こんな仕打ち……。
「ねぇ、私もう、我慢できなくなっちゃった♪ ここで……シよ?」
「えぇ? 今朝もやったってのに、仕方ねぇ奴だ。ほら、傘閉じてくんな」
二人の後ろ姿が、一本のたたまれた傘に変わりその場に落ちた。なんてこと……今二人は密着して愛し合っているんだろう。二人っきりの世界で。そこでようやく私は、自分の体を動かせるようになった。ふらふらと吸い寄せられるようにその傘へ向かって拾い上げ、橋の下へと持ち帰る。
「どうして」
二人の入った傘を振り上げ、そばの岩に叩き付ける。
「どうして! どうして! どうして!」
中の二人には叫びも痛みも届かないのだろう。それでも私はこうするしかない。こうしかできない。目の前まで来ていた幸せが、私たちの楽園が、ただの幻想だった? そんなの、納得できるわけない!
「ねぇ! 何とか言ってよ! 私アナタに使われたくって、この身体になって、ずっと想ってきたのに! 出てきてよ! 出てきなさいよ! ねぇ! ねぇったら! ……おねがい……おねがいよ……出てきて……」
私だけがあなたの傘だったのに。貴方は私の持ち主だったのに。
……そっか。そうだったね。持ち主“だった”。貴方は、私を捨てたんだったね。新しい傘と出会って、私は本当に必要なくなったんだね。そっか……そっかぁ……。
もう文句を言う気力も、叩き付けるだけの怒りも別の何かに変わって、その場から逃げるように駆けだした私はやがて膝から崩れ落ちた。笠を被ってるはずなのに、私の頬は濡れていた。そして忘れかけていたもやもやとした気持ちがよみがえる。
遠くに煌く稲光。遅れて響くその音と共に、私は空へと慟哭した。
続く
身に着けているものと言えば、頭の巨大な、先の割れた舌が付いた笠と濡れて身体にはっつく布みたいな服が一枚、あと一本足の下駄。どうしてこれだけしか身に着けていないのだろう。どうして私はこの橋の下で目が覚めたのだろう。わからない。
それにしても、寒い。吹き込む風が濡れた私の身体を冷やしていく。ここにはいられない。どこか風のしのげるところを探さないと……身体を温められるところ……温もりが欲しい……。
橋の下を出て、土手を上がった矢先。一気に雨足が強くなる。私は頭の笠があるおかげであまり関係ないけど、道行く人間達は道を急いでいる。中には傘を持っておらず頭を抱えて走っていく男もいる。出来れば私の笠に入れてあげたかったけど、声をかける間もなく過ぎていってしまった。
もう通りにはほとんど人はいない。胸をなでおろし、どこか雨宿りにいいところはないかと歩き回る。でもなぜか、他の誰かがいるような所は嫌だった。出来れば誰もいない所。いても私の同類がいい。それに、突然こんな格好の女が来たら迎える方も驚くだろう。
「おいおい、なんだぁこりゃあ? すげえ勢いで降ってんじゃねぇか。まいったな傘がねぇや」
荒っぽい声の方を見れば、無精髭を生やした大柄の男が茶屋から出てきていた。その後ろには……狸? 狸のような人間がいる。
「旦那はん、傘持ってきてへんかったんやね。ウチの使う?」
「ああ、わりぃな。抜いてもらった上に傘まで……次はあの羊の子も」
「かまへんよ。どうぞ今後もごひいきに」
男が蛇の目傘をさしてこっちへ歩いてくるのを見て、私は咄嗟に影へ身を隠した。どうしてかは分からない。でも、身体が勝手に動いてしまった。
「しっかし、こんなに降るとはなぁ。ちょっと破けたくらいで捨てるんじゃなかったか」
男が前を通り過ぎる。私には気づかない。ただ、私は彼の言葉に驚愕していた。まさかと思う。もしかしてあの人――気になって少し顔を出す。あの男がこれから何をするか、知る必要がある。私はそうしなければならない。
「そういや、この辺だったっけかぁ?」
さっきまで私がいた橋に目をやった。間違いない。彼だ。私は彼の傘だった。――ああ、そうだ。私は、彼に捨てられたんだった。
雷に打たれたかのような衝撃。フラフラと吸い寄せられるように彼へと向かう足。そう。私は貴方の傘。この姿になったのは貴方を探すため。
「でもま、おかげでこんな上等な傘貰っちまったんだ。全く運がいいぜ」
ピタッ……と足が止まった。彼の言葉が私の胸を切り刻んでボロボロにして、もう一歩も動けない。私は、完全に捨てられた。小さくなっていく彼の背中。その背中に、私はもやもやとした気持ちを抱かずにはいられなかった。そうして気づく。私は、人間が嫌いだということに。
橋の下に戻ると、もう川の水位は足首まで来ていた。もういい。このまま濁流に呑まれて、どこまでも流れていきたい。そうすればこのもやもやした気持ちも綺麗さっぱり流してくれるかもしれない。あるいはこの身をさらって、激しく、もみくちゃにしてほしい。その結果この命が消えても構わない。もともと私は捨てられた傘。どうなろうと構わない。
しかし、それは叶わなかった。雨の勢いが弱まって、水位はそれ以上増すことはなかった。まるで同情してくれるかのように、一緒に泣いてくれるかのように静かに雨が降りだした。でも、違う。私が望んでるのはそうじゃない。この身を打ち据えるような、暴力のような雨が欲しい。なのに、どうして……。
「あら? どうしたの? こんなところで」
声のする方に目をやると、びしょ濡れの美しい人が微笑んで私を見ていた。白い肌に着物がはっついて透けている。この人は、雨宿りに来たのだろうか?
「隣、いいかしら?」
私の姿に驚くこともなくスススと隣に来るその人は、なんだかやけに透き通って見える。足首辺りまで水は溢れているというのに、彼女はものともせず座って肩を寄せてくる。
「冷たっ」
「あぁ、ごめんなさいね。この身体、温まるのに時間がかかるの」
優しい語り口。この人は他の人間にはないものがある。いや、他の人間にあるものがない? どっちにしても、この人は一体――
「私は“ぬれおなご”のキウ。あなたは?」
そうか。このヒトは同類。人ならざる者なんだ。違和感の正体がわかり、私はキウさんを拒む理由はない。大きな舌で彼女の肩を抱き寄せて口を開く。
「私は傘。名前……名前はないの」
「そうなの?」
頷くとキウさんは何か悟ってくれたようで、優しい笑みのまま柔らかい腕を私の身体に回してくれた。冷たいはずなのに、何故だかとっても温かい。落ち着く。零れる涙が彼女の太ももへと落ち沁み込んでいく。この涙と同じように、キウさんは私を受け止めてくれるんだ。そう思うと、もう抑えられない。私はゆっくりと笠を閉じ、キウさんをその内側へと招き入れた。
「あら、こんなことができるなんて、すごいのね」
すごい。キウさんの身体、柔らかい。この笠の中は誰にも邪魔できない空間。初めて使う力だけど、用途はすんなり頭の中に入ってきた。それよりも全身に密着するキウさんの身体が心地くて、身体がピリピリと痺れるのを感じる。
「キウさん、私っ」
涙交じりの声が口で塞がれ、入ってくる舌に口の中をかき乱される。蕩けてしまいそうな快感に包まれて、口同士離れた時、私は言葉の続きを忘れてしまっていた。水の中で傘は意味をなさない。ただ流れにもみくちゃにされるだけ。私は今、キウさんに溺れようとしている。
「よぉしよし。雨が止むまで、一緒にいてあげる」
さらなる口付け。今度は私の頬から後ろへと手を回し、ぎゅうっと抱きしめてくれる。触れられるって、こんなに気持ちいいんだ。こんなに暖かくて、嬉しいんだ。私もキウさんに大きな舌を絡ませ、ぎゅうっと締め付ける。なんだかふわっと甘くて、おいしい。
「そうだ。手、かして?」
言われるがまま、手をキウさんに差し出すと、彼女は片方を白い太ももへ、もう片方を胸へと添えるようにあてがった。
「もっちもちで、やわらかいでしょう? ほら、もっと触って?」
すごい。胸も太もももプルンプルン。鷲掴みすると心地いい弾力が押し返し、さわさわと撫でるとその質感のおかげでするすると滑るようになって面白い。しばらく夢中になって二本の腕と一枚の舌を使ってキウさんの身体を撫でたり揉んだり。するとキウさんの口からなんだか甘い声が漏れだしてきた。
「キウさん、大丈夫?」
「っはぁ、ええ。大丈夫。きもちい」
キウさんの反応に私までなんだか気持ちよくなってくる。これは、嬉しい……? キウさんが悦んでくれて、私で感じてくれて、嬉しい……嬉しい! もっと、もっと感じて!
キウさんが私の手を股の間へと導いていく。ドキドキが止まらない。やがて薄い着物の下から股の間の割れ目へとあてがわれ、私達の身体はビクンと跳ねた。
「んっ! あはっ、その調子♪」
くちゅくちゅと水音が傘の内側に響き渡って、頭の中まで揺らしてく。キウさんの唇。んむっ、んんっ……んんっ!? 突き抜けるような快感が私の股から脳へと走ってっ、足ががくがくしちゃうっ。
「ね、気持ちいいでしょ?」
キウさんの指が、私の中、入って、んぅ、内側すりすりって、声、声出ちゃう、止まらないっ! やぁ、イっ!? なに? 何なにナニ!?
「このくらいの太さでいいかしら……便利でしょう? この身体」
キウさんの指、私の中でっ、おっきくなっ、あっ、やっ、イイ、だめっ! 私が、わらひが、キウさんを気持ちよくするのに、これじゃっ。
「キウさっ、うごか、さないで」
「動かしてないよぉ? 私はね」
えっ、うそっ。あ、ああっ、動いちゃってる。私が動いちゃってる。腰、イイ、や、私が、キウさんを、気持ちよくするのにぃ、止まらない。腰も声も、止まらない!
「かわい……ほら、接吻、しましょ?」
する。接吻、んむっ。あぁ、カラダの奥ジンジンするっ。やっ、キウさん、今動かしたらだめっ、飛んじゃう! トんじゃう! あっ――
「んっ、んんんーー!!!」
あぁ、力が、はいんない……え? なんか、どくんって、中に……。
「えへ、私もイっちゃった♪」
あ、じゃあキウさんが、私の中に。私で気持ちよくなって、中に、来てくれた。あは、はぁ。しああせ。
「どお? 気持ちよかった?」
抱き着いたまま頷くと、よしよしって頭を撫でてくれた。ひんやりしていたはずのキウさんの身体が、いまはとっても温かい。包まれてホッとする。
「そっか。私も、気持ちよかったよ」
その言葉だけで、私はこの身体になれてよかったと思った。この身体、いろんなことができるんだ。たくさん喜んでもらえるし、私も気持ちよくなれる。相手が感じてる気持ちよさを共有できるんだ。この喜びを教えてくれたキウさんには勿論、この身体を与えてくれただれかにも、ありがとうの気持ちでいっぱいだ。
「ねぇ、一つ聞いていい? 話したくなかったら話さなくてもいいんだけれど」
キウさんが何を聞こうとしているのか、なんとなくわかった。どうしてこんなところで泣いてたのか。本当ならあまり話したくはないことだけど、キウさんならいい。キウさんなら、全部受け止めてくれる。だから、私について知ってることを全部話した。ある男の人の傘だったこと。起きたらここにいたこと。どうやら持ち主に捨てられたらしいこと。話してる内にまた涙が溢れてきて、大きな舌で拭うとしょっぱくて、それがまた悲しみを刺激する。
「辛かったね」
「うん、うん、うぅぅ」
キウさんの胸を借りて、大粒の涙が身体に溶け込んでいくそれに安心して更に涙が溢れてくる。傘の内側なのに雨のようでおかしくて、つい笑ってしまった。
「今のあなたなら、振り向いてくれるんじゃないかしら」
ふっと顔を上げて、慈しむような顔で言うキウさん。確かにこの身体があれば、あの人は私をまた拾ってくれるかもしれない。傘だった頃の記憶はないけど、あの手で握ってもらえたらどんなに嬉しいだろう。喜んでくれたら、どんなに素敵だろう。
「でも、もし拒絶されたら」
「大丈夫。独り身の男の人は絶対に私達を拒めない。絶対にね」
上品に笑うキウさんはどこか鬼気迫るものがあった。私がよくしてもらった分説得力があるのかもしれない。そうだ。あれくらい気持ちよくできれば、あの人だって二度と私を手放そうなんて考えないはずだ。捨てたことを泣いて謝る羽目になる。そして私はそれを許す。ふふっ、考えるだけで楽しみになってきたっ。
「元気出てきたみたいね」
「……うん。ありがと。キウさん」
笠を開くと既に雨は上がっていて、雲間から日の光が差し込んでいた。“私も旦那を探してくる”というキウさんを見送って、私は一人妄想に耽る。土砂降りの雨の日、傘を忘れたあの人が、雨宿りにこの橋の下にやってくる。そこで私を見つけて、驚く彼の冷えた体を温めてあげるんだ。この笠の中で二人っきりで、たくさん私を使ってもらう。そして満足させられたら、持って帰ってくれる。そこでずっとあの人のお世話をするんだ。見た感じだらしなさそうだったし、誰かが付いてあげないと。そしてその誰かは私しかいない。
想像すると身震いしてきた。今すぐにでもあの人に会いたい。んっ、興奮して、こんなふうに……胸を鷲掴みされてぇ……んっ、あっ、強い。でもそれがいい。イイ。もっと激しく、あっ、そんな両方、イイよ。もっと触ってぇ。
そうだ、このおっきい舌、あの人に見立てて、カラダ擦り付けてぇ……先っ、割れた舌先がっ、あっ、ああっ、股に、擦れるっと、きもちいっ。ヌルヌルして、キモチい……ふぇっ? あっ、割れた舌の先が、片方が私の中に入ろうとしてる? こんなの入るわけないのに、カラダが欲しがっちゃってるっ!
ああっ!? もう片っぽ、片っぽがお尻、お尻の穴に当たって、変な感じするぅ……。あの人、お尻の穴も使えたら、っはぁ、悦んで、くれるかな? それとも、舐めてあげた方が、悦ぶのかな? どっちにしても、あの人が悦んでくれるように、練習、しなきゃね。
舌の先がほんの少し、両方の穴に入った。もうこれ以上は入らない。太すぎて裂けちゃう。でも、もしあの人のおちんちんがこれくらいおっきかったらどうしよう。私のカラダ、使い物にならなくなっちゃう。でもそれでもいい。壊れるくらい私を激しく使って、壊れても私を手放そうとしない。そう、私はあの人のモノ。あの人は私の持ち主。どんな扱いをされても、その事実が濃くなるだけ。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。嫌いなんて思って、ごめんなさい。本当は、好きなの私っ。一回捨てられてもっ、それでも私、あの人の事――。
ぷしゃっ、と。またから何かが噴き出した。カラダががくがく震えて、目の前がぼやけていく。そこに、あの人の姿を見たような気がした。
そうして私は毎日のようにこの橋の下であの人を思って自慰をした。夢の中に出てきたあの人に使われた日の朝は恍惚な気持ちで、思い出すだけでイキそうになった。こんなスケベな傘、もしかして嫌われるだろうか? でも、もし嫌われても満足させられる自信がある。そのためのこの身体なんだもの。
そして一週間が経った。久しぶり、カンカン照りの後の喜雨。元々傘だったこともあって、私の体も疼いてくる。今日はきっと、あの人に会える。この雨が連れてきてくれる。そんな予感がしていた。だから私は通りに出て、あの人が来るのを待つことにした。
強い雨のおかげで、人はそうそう通らない。これなら彼が通った時すぐに気が付くことができる。ふふっ、今日、ずっと焦がれてきたあの人に会えるんだ。ふふっ。
「あら、今日は通りに出てるのね」
声に顔を上げると、キウさんが私に微笑みかけていた。側には知らない男の人。どうやら旦那さんを見つけたらしい。そしてその後ろには、キウさんによく似た小さな子もいる。
「キウさん! あれ、旦那さん、と」
「うちの子よ。メグミっていうの。ほらメグミ。ご挨拶なさい」
「こんにちわー!」
素敵な家族の姿。少し話してキウさんたちを見送りながら、私とあの人もいつかあんな幸せな家庭を築けるかなと考える。子供何人欲しいかな。名前は何にしようかな。でも、子供ができても私が一番使ってもらうんだ。
お昼が過ぎて、この間あの人が出てきた建物から、狸のお姉さんが出てきた。その後ろにもう一人。一瞬あの人かと思ったけど、体つきは女性のモノだ。ぴっちりとした黒い胸当てと履物に、白いモフモフの羽織を着てる。傘をさしてるから顔はよく見えなかったけど、きっとあのヒトも私の同類なのだろう。
「ねぇミエ。いつになったら即効性の毛生え薬作ってくれるの?」
「まったく欲しがり屋さんなんやから。そないに急かさんといて」
「本当に作れるんでしょうね……」
狸の方はすごい量の荷物を背負っている。二人で旅をしてるのだろうか? 背中を見送りながら、旅も悪くないかもしれないと考える。あの人と二人で、この国中を旅して回るんだ。いろんな景色を見て、いろんなもの食べて、いろんなところで愛し合う。どんな危機が迫っても、私の笠を閉じてしまえば安全なんだ。恐れることなんて何もない。
そうだ! 旅をしよう! そしてあの人と私がいつまでも幸せに暮らせる場所を探そう! どこがいいかな? やっぱり雨の多いところの方がたくさん使ってくれるかな? あっ、きれいな海が見える所も素敵……でも、あの人がいる所なら、地獄でだってかまわない。どんな酷いところでだって、私があの人を守る。あの人が私を使う。それは変わらないもの。うふふ、あはは、ああ、もうすぐそんな幸せな日々を送れるんだ。あっ、もう。想像しただけで、ちょっと興奮してきちゃった。
その時、遠くに大きな影を見つけた。直感でわかる。あの人だ。私の持ち主、運命の人。ああ、胸がドキドキしてはちきれそう。今すぐ駆け寄って飛びつきたい。なのに緊張しすぎて一歩も動けない。でも、それでいい。あの人が迎えに来てくれるって考えたら、その方が素敵だもの。
……あれ? 傘をさしてる? ああそうか。この前あの狸に貰った傘、まだ使ってたんだ。でもそれも今日で最後。私がいれば他の傘なんて――え? 何あれ? 私? その姿がぼんやり見えるようになって、私は凍り付く。あの人が、私の持ち主が私みたいな子を、まるで娘や彼女を抱きかかえる時のような横抱きにしている。そしてその子の方も落ちないように彼にぴったりとくっついて、彼を濡らさない傘になってる……。
「ねーえ。今日はありがと。私のわがままに付き合ってもらっちゃって」
「なあに、構わねぇさ。そういや、お前と会った一週間前もこんな大雨だったなぁ」
「えへ。そうだったね。きゃっ! んもう、スケベなんだから♪」
一歩も動けない。嘘だよ……こんなの。悪い夢。絶対そう。だって、そうじゃないと私、わたし……。わたしはずっと、貴方を待ってたのに。なのに、こんな仕打ち……。
「ねぇ、私もう、我慢できなくなっちゃった♪ ここで……シよ?」
「えぇ? 今朝もやったってのに、仕方ねぇ奴だ。ほら、傘閉じてくんな」
二人の後ろ姿が、一本のたたまれた傘に変わりその場に落ちた。なんてこと……今二人は密着して愛し合っているんだろう。二人っきりの世界で。そこでようやく私は、自分の体を動かせるようになった。ふらふらと吸い寄せられるようにその傘へ向かって拾い上げ、橋の下へと持ち帰る。
「どうして」
二人の入った傘を振り上げ、そばの岩に叩き付ける。
「どうして! どうして! どうして!」
中の二人には叫びも痛みも届かないのだろう。それでも私はこうするしかない。こうしかできない。目の前まで来ていた幸せが、私たちの楽園が、ただの幻想だった? そんなの、納得できるわけない!
「ねぇ! 何とか言ってよ! 私アナタに使われたくって、この身体になって、ずっと想ってきたのに! 出てきてよ! 出てきなさいよ! ねぇ! ねぇったら! ……おねがい……おねがいよ……出てきて……」
私だけがあなたの傘だったのに。貴方は私の持ち主だったのに。
……そっか。そうだったね。持ち主“だった”。貴方は、私を捨てたんだったね。新しい傘と出会って、私は本当に必要なくなったんだね。そっか……そっかぁ……。
もう文句を言う気力も、叩き付けるだけの怒りも別の何かに変わって、その場から逃げるように駆けだした私はやがて膝から崩れ落ちた。笠を被ってるはずなのに、私の頬は濡れていた。そして忘れかけていたもやもやとした気持ちがよみがえる。
遠くに煌く稲光。遅れて響くその音と共に、私は空へと慟哭した。
続く
17/12/31 12:02更新 / 小浦すてぃ
戻る
次へ