洞木(ウツロギ)
「もう、なんど溺れれば気が済むのかしら、この子」
サユリをおぶったシープはやれやれと呟いて夜道を歩き始めた。翼も角も尻尾も、自身を魔物たらしめているものは全て人に化けることで引っ込ませてある。流石に夜道で少女をおぶってどこかへと向かうサキュバスを目撃すれば、それは魔物に対する正しい知識がない者が見れば、弁明の余地もなく確実に誘拐の現場と見間違うだろう。さすがにそんな場面にわざわざ出くわそうとするほど、シープは愚かではなかったし知恵がないわけでもなかった。
しかし――とシープは思案する。再び足を滑らせて川で溺れてしまうあたり、サユリは何か持っているらしい。この場合は、不運な何かを。
面倒見のいい姉が妹をおぶって家まで帰るような、そんな情景を浮かばせる足取りでしかしシープは確実に一歩一歩ウツロギへと向かっていった。
「で、警備隊のところへ行って事情を説明したら、助けてくださってどうもありがとうございますってこんな服までお礼にくれちゃった♪」
「納得いかないわ!!!」
シープの説明に抗議の声を上げるサユリだったが、その意見もどこ吹く風といった様子でしかしシープは勝手にサユリの部屋を物色し始める。
箪笥の中を覗いてみたり、洗面台の用具を見てみたりとやりたい放題だった。
「ちょ、ちょっと!」
「ん?なあに?」
「人の部屋を勝手に漁らないでよ!」
「あら、どういうこと?」
本当に。
本当に何を言っているのかわからないと首を傾げるシープに苛立ちを覚えながら、サユリは丁寧なことにその訳を説明し始めた。馬の耳に念仏、ではないが。サキュバスの耳に小言は届くかどうか。無論、言わずもがな、その結果は前もって明らかにされているようなものなのだが。
だが、その結果はサユリが半ば諦めかけた頭でうっすら思い浮かべていたものよりも、ずっと先へ進んだ結果だった。シープの答えだった。
「いい?ここは私の部屋。荒らすなんてダメ。それにここ、中立国家よ?あなたが居座ってていい場所じゃないの」
「ええ、それで?」
「中立っていうことは、どちらにも属さないってこと。魔物が領地にいたり、まして城壁よりも内側にいるなんてあってはならないことなの。わざわざ中立と名乗っておきながら魔物を招き入れると誤解されても文句は言えないわ。あなたが何を考えてこの領地にいたのかは私はまったく知らないけれど。
た、助けてくれたことには感謝してるけど、でもそれと国の決まりごととはまた話が別なの。それはそれ、これはこれよ。まったくの別物。だから!」
すっとサユリはドアを指差し、毅然とした態度で
「今なら見逃して上げられるから、出て行って」
そう言った。言った刹那。
「いやよ」
「・・・あの、話聞いてた?」
「もちろん」
「いやだったらわかるでしょ!?あなたがいると、魔物に与したと思われちゃうの!もしそうなれば大変なことになるわ。早い話、中立って立場は危うい立ち居地で鳩派、つまり日和見主義みたいなものだから、宗教国家からは煙たがられてるし、親魔物国家からすれば与したなら『交流』をしても問題ないって発想になるでしょ?
そうすると、宗教国家にとっては悪い芽は早いうちに摘みたいし、親魔物国家からすれば早く取り入れたい。立ち居地が危ういどころじゃないわよ。戦地の真っ只中においていかれるようなものなんだから、わかった?」
「でもねえ。悪いけど離れるわけにはいかないのよねえ」
「こっちはそれで困るのよ!」
「でも貴女が言ったのよ?」
「へ?」
「××に××たいって」「おーいサユリ、溺れたって本当?お見舞いにきたよー」
シープの声を掻き消すようにドアが開かれ、同時に一人の少年が部屋に入ってくる。色素が少し抜けたような茶髪に、華奢な体つき、そして中性的な顔立ち。しかしうっすらと見える筋肉は確かな鍛錬を積んだと窺えるものだった。腰にはシープが携帯していたものと同じダガー。
しかしサユリはお見舞いに来てくれた少年よりも真っ先にシープの正体を見られたのではないかと肝を冷やした。魔物と一緒にいるところを見られて、間者とでも思われたらたまったものではない。
が、その心配は杞憂に終わっていた。いつの間にやら、シープは人の姿になっていた。角も翼も尻尾も、元々そんなものなど無かったかのように消えていた。そして、残っているのは露出が少ない服に身を包んだシープだけだ。人間に見える魔物なだけだ。
「あ、ありがとう。クヌギ」
「どういたしまして。あ・・・えっと確か」
「シープよ」
「シープさん、本当にサユリを助けてくれてありがとうございます」
丁寧な言葉遣いに柔和な物腰。その態度を崩さずに頭を下げられ、シープもそれにつられてお礼には及びませんと言いながら頭を下げた。
なんで上から目線なんだとシープに毒づきたい気持ちが首をもたげたが、それをしっかりと理性で抑えながら、サユリは冷静な風を装うのに必死だった。
クヌギと呼ばれた少年はひたすら頭を下げ、何度目かのお辞儀の応酬を繰り広げてから、サユリと向き合った。
「もう大丈夫?みんな心配してたけど」
「ええ、平気よ。なんならすぐに酒場に繰り出したいくらい」
「だめだよ、安静にしてなきゃ」
「わかってるわよ・・・・・」
「よかった、大丈夫そうだね。・・・それじゃあ、僕、訓練があるし、いくね」
「あっ」
そそくさと部屋を後にしたクヌギを追うように手を伸ばしたが、既にクヌギは部屋を出た後だった。サユリの右手が、虚しく空をかいた。
その様子を見たシープはにやぁと嫌な笑みを浮かべ、何事かを察した様子だった。そして、新しい玩具を見つけた子供のように浮き足立ってサユリの傍へと寄ってくる。実際には、寄ってくるだけではなくサユリのベッドに腰掛けるところまでいったのだが。
「ねぇねぇ、サユリ」
「・・・・・・・・・・・何よ」
「ひょっとして、夜に行ってたアプローチかけてる子って、あの子?」
サユリは何も答えなかったが、この場合は無言が肯定の意味となった。そう、サユリはクヌギのことが好きだった。奥手で弱気な態度、柔和な物腰と、どこか守りたくなるような、構わずにはいられないようなそんな雰囲気を持ったクヌギのことが。
畢竟母性を擽られるような所に惹き付けられていた。
一応クヌギ自身はしっかりと自立できる、言わばだらしないような性格とは真逆の性格で、しっかりと自分の世話は自分で出来る少年だったのだが。
その容姿と性格――表面上のみで捉えられ易いもの――のせいで、そんなイメージを見る者に少なからず抱かせていた。それは当然、サユリも例外ではなく、そんな部分に彼女は恋をした。いや、好きになったのはその部分だけではなく、クヌギという人物もしっかりと好きになっていたのだが・・・。
よくカップルが話すような、自分のどこが好きなのかという話題と少しずれたような、それでいて似通っているような名状しがたい感覚に似ていると言えば似ているのだろう。クヌギを好きになった切っ掛けがその性格や雰囲気というだけで、それがつまりイコール本人丸々最初から好きになったことではない。好きになる理由なんて、サユリの年頃であれば後から、それこそ対象の一面を知るたびに次々と出てくるだろう。
だから、あくまでサユリが抱いている恋心は年頃が抱くような相応のもので、誰にも否定できるものではないのだろう。まして、茶化すことも。
閑話休題。
「ふぅん。サユリってああいう子が好きなのねえ」
「アンタには関係ないでしょ。さっさとこの国から出て行って」
「出て行くのは出て行くけれど、約束を果たしてからねえ」
「約束・・・?」
「あら、お互いのことをよく知る前だったとは言え、夜に語り合ったじゃない」
それ自体は紛れも無い事実だったため、サユリも否定することはできなかった。確かにあの夜の出来事(川に落ちたことなど、自分の失態を除けば、の話だが)はサユリにとって、中々に充実していた時間だった。
久々にする同性との年頃なら、興味を持っていて当然の会話。恋愛。誰が好きだとか、想い人への愚痴とか、失恋だとか。相手が――知らなかったとはいえ――魔物だったからかもしれないが、親身になって聞き手にまわり、時に意見をしてくれるシープとの会話は、サユリにとっては言い方が悪いが、ウツロギの警邏よりはとてもとても楽しめる時間だった。警邏より楽しむ、という例えは不適切であることは承知の上で、だ。
だが、サユリはそんな時間を振り返ってみても、約束というものに心当たりがまったくなかった。確かに会話に花が咲き、普段よりも喋っていたという自覚もあるが、それでも約束事は、口約束もしていなければまさか契約書のようなものを渡された覚えも当然のごとくない。
だから、純粋に、純粋な意味でサユリにはシープが口にする約束というものがわからなかった。いや、まさか自分以外の他人との約束かとも思ったが、だが夜のことを持ち出している以上、それはないのだろう。
「私、あなたと約束した覚えなんて、ないんだけど・・・?」
「まあ約束というより、・・・願望ね」
「願望?」
「そう、願望」
「願望って・・・いよいよ意味がわからないわよ。私魔物に目をつけられるような願望を吐露した覚えなんてないわよ?」
「覚えてなくて当然よ、うわ言で言ってたことだもの」
「うわ言・・・?」
うわ言。
意識していない間に、言った言葉。
無意識下で、いったかもしれない言葉。
「あなた言ってたじゃない。『毎回酒に誘ってるのに向こうからはなんのアプローチもないのよ!?少しは向こうから誘ってくれたっていいのに!なんなのかしら、無言になってるってことは僕は貴女には興味がないんですごめんなさいって言ってるようなものじゃない』って」
少し嘲るような口調で、シープは言う。
「今、その話は関係ないでしょ」
「クヌギ君からなんの反応もないのが不安だとか言ってたじゃない。・・・あの時は個人名まではわからなかったけど」
「・・・・・・・」
それもまた否定できない事実だった。確かにあの夜、サユリは愚痴を吐いた。振り向いてもらえないことに対する愚痴を。自分の努力が報われない愚痴を。時々何をやっているのかと自己嫌悪に陥るという愚痴を。反応を返さないクヌギに対する愚痴を。
ぶちまけていた。
吐き出していた。
「寂しくなったんでしょ?」
「うるさい」
ほぼ言葉を遮るように口にするが、それもどこか震えているようで、どこか脆いようで。
「あなたに何がわかるの」
「夜通し語り合ったのよ?わからない方がおかしいわ。それに、忘れてるかもしれないけど一応魔物よ?」
馬鹿にしないでちょうだいとシープ。
「それに、関係あるのよねえ。私もあなたの願望を聞いちゃった以上、叶えて上げたいもの。不安になったんでしょ?女として見られてないんじゃないかって。焦ってたんでしょ?自分の嫌な仮定が当たっていたらどうしようって。迷ってたんでしょ?もしかしたらクヌギ君に想い人が別にいるんじゃないかって。苛まれてたんでしょ?それすら聞く事ができない自分に。隠してたんでしょ?女の子らしい自分はらしくないんじゃないかって。怒ってたんでしょ?言葉で伝えてくれないクヌギ君をどうして好きになったんだって。わからなかったんでしょ?それでも好きでいちゃうのはどうしてなんだって」
「ッッッッッツ!!!!!!」
ずけずけと。どかどかと。自分の思っていたはずのことをあらかた口に出され、サユリは言葉を失った。出来たことと言えば、精々息を詰まらせるくらいだ。
どうして。たった一夜の少しの間だけ語り合っただけなのにどうしてここまで自分のことを把握されているのか。推測が混じっているにしても、的確すぎる。明瞭になるはずもない感情をサユリは抱かずにはいられなかった。
だが、言ってしまえばシープに、サキュバスにとって、その一夜の少しの間の時間だけで、十分だったのだ。
相手の気持ちを察してあげるには。相手の心情を見透かすには。そこから推測を立てるには。それだけで。
サユリが誤解していた点をここで更に上げるなら、魔物が好きなのは男性だけではないということだ。無論、夫を選び仲睦まじく過ごすという意味で、一生を共にするパートナー、最愛の人物は男性、揺るぐはずも無い位置にいるのは夫だが。
魔物は人が好きなのだ。
その点を、サユリは誤解していた。
価値観の違いはあれど、好きだから察して、理解して、歩み寄って、自分なりに個人なりに。生きる。
だから、男心を握るだけではなく。
同性の心も、よくわかる。その点を、サユリは誤解していた。
「あなたの願い事、うわ言を叶えてあげる」
「・・・頼んだ覚えはないわ」
「そうねえ、でもこんな性格なの。聞いちゃったし、何より、なんだか苦しそうにしてる人を見るとほっとけないのよね」
放置できない。
それもきっと、人が好きだからこそ。
サユリは、声を振り絞るようにして言った。
「じゃあ、・・・私のうわ言って何よ。願望って、何」
懇願・・・とは少し違う。その声にどんな感情を乗せたのか、サユリ本人にすらわかっていなかった。本心を見透かされ、覗かれてしまって。あらゆる色彩を混ぜたように統一性がなくなってしまった感情の渦を消す方法を、サユリは知らなかった。
「それは――」
「それは・・・?」
「魔物になりたい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「確かにそういったわよ。二回目の溺れたとき、私におんぶされながら、確かにあなたは呟いたわ。魔物になりたいって。なら、叶えられるのは私しかいないじゃない?人同士で叶えるのって中々難しいものだしねえ。やっぱりお節介だろうけど、ここは私の出番でしょ」
膝から下がなくなってしまったかのような、そんな浮遊感にサユリは眩暈を覚えた。何を言ってるんだ?この魔物は。自分が魔物になりたい?そんな、馬鹿馬鹿しい。そんなことをすれば、当然のようにウツロギから出ていかなくちゃならないのに。そんな不都合なことをしてどうするのか。別に、魔物になったからって何かが劇的な変化を遂げるわけじゃあるまいし、むしろこの国にとってはマイナスのことばかり。捏造、改竄もいいところだ。きっと自分は何か別のことを言っていたに違いない。それをこのシープとか言うサキュバスは自分が覚えていないことを良い事に、自分を誑かそうと、唆そうとしているに違いない。
サユリはそう考えた。
それと同時に。
男を誘惑するためだけにあるような肢体。嫌でも惹き付けられてしまう魅力を備えた魔物になれれば。
自分は恋を叶えることができるのだろうかと考えた。
それが偽薬からくるような錯覚のようなものであったとしても。
自分が追い込まれた末に選んだ逃げ道のようなものであったとしても。
むしろ、逃げ出せれなかったあのときに、美しさを実感しているからこそ。
自分はそんなうわ言をいったのかもしれない。そう思った。
「安心して♪怖くなんてないわ。あっという間に素敵な姿にしてあげる♪」
サユリとシープの表情は、あまりにも対照的だった。
サユリをおぶったシープはやれやれと呟いて夜道を歩き始めた。翼も角も尻尾も、自身を魔物たらしめているものは全て人に化けることで引っ込ませてある。流石に夜道で少女をおぶってどこかへと向かうサキュバスを目撃すれば、それは魔物に対する正しい知識がない者が見れば、弁明の余地もなく確実に誘拐の現場と見間違うだろう。さすがにそんな場面にわざわざ出くわそうとするほど、シープは愚かではなかったし知恵がないわけでもなかった。
しかし――とシープは思案する。再び足を滑らせて川で溺れてしまうあたり、サユリは何か持っているらしい。この場合は、不運な何かを。
面倒見のいい姉が妹をおぶって家まで帰るような、そんな情景を浮かばせる足取りでしかしシープは確実に一歩一歩ウツロギへと向かっていった。
「で、警備隊のところへ行って事情を説明したら、助けてくださってどうもありがとうございますってこんな服までお礼にくれちゃった♪」
「納得いかないわ!!!」
シープの説明に抗議の声を上げるサユリだったが、その意見もどこ吹く風といった様子でしかしシープは勝手にサユリの部屋を物色し始める。
箪笥の中を覗いてみたり、洗面台の用具を見てみたりとやりたい放題だった。
「ちょ、ちょっと!」
「ん?なあに?」
「人の部屋を勝手に漁らないでよ!」
「あら、どういうこと?」
本当に。
本当に何を言っているのかわからないと首を傾げるシープに苛立ちを覚えながら、サユリは丁寧なことにその訳を説明し始めた。馬の耳に念仏、ではないが。サキュバスの耳に小言は届くかどうか。無論、言わずもがな、その結果は前もって明らかにされているようなものなのだが。
だが、その結果はサユリが半ば諦めかけた頭でうっすら思い浮かべていたものよりも、ずっと先へ進んだ結果だった。シープの答えだった。
「いい?ここは私の部屋。荒らすなんてダメ。それにここ、中立国家よ?あなたが居座ってていい場所じゃないの」
「ええ、それで?」
「中立っていうことは、どちらにも属さないってこと。魔物が領地にいたり、まして城壁よりも内側にいるなんてあってはならないことなの。わざわざ中立と名乗っておきながら魔物を招き入れると誤解されても文句は言えないわ。あなたが何を考えてこの領地にいたのかは私はまったく知らないけれど。
た、助けてくれたことには感謝してるけど、でもそれと国の決まりごととはまた話が別なの。それはそれ、これはこれよ。まったくの別物。だから!」
すっとサユリはドアを指差し、毅然とした態度で
「今なら見逃して上げられるから、出て行って」
そう言った。言った刹那。
「いやよ」
「・・・あの、話聞いてた?」
「もちろん」
「いやだったらわかるでしょ!?あなたがいると、魔物に与したと思われちゃうの!もしそうなれば大変なことになるわ。早い話、中立って立場は危うい立ち居地で鳩派、つまり日和見主義みたいなものだから、宗教国家からは煙たがられてるし、親魔物国家からすれば与したなら『交流』をしても問題ないって発想になるでしょ?
そうすると、宗教国家にとっては悪い芽は早いうちに摘みたいし、親魔物国家からすれば早く取り入れたい。立ち居地が危ういどころじゃないわよ。戦地の真っ只中においていかれるようなものなんだから、わかった?」
「でもねえ。悪いけど離れるわけにはいかないのよねえ」
「こっちはそれで困るのよ!」
「でも貴女が言ったのよ?」
「へ?」
「××に××たいって」「おーいサユリ、溺れたって本当?お見舞いにきたよー」
シープの声を掻き消すようにドアが開かれ、同時に一人の少年が部屋に入ってくる。色素が少し抜けたような茶髪に、華奢な体つき、そして中性的な顔立ち。しかしうっすらと見える筋肉は確かな鍛錬を積んだと窺えるものだった。腰にはシープが携帯していたものと同じダガー。
しかしサユリはお見舞いに来てくれた少年よりも真っ先にシープの正体を見られたのではないかと肝を冷やした。魔物と一緒にいるところを見られて、間者とでも思われたらたまったものではない。
が、その心配は杞憂に終わっていた。いつの間にやら、シープは人の姿になっていた。角も翼も尻尾も、元々そんなものなど無かったかのように消えていた。そして、残っているのは露出が少ない服に身を包んだシープだけだ。人間に見える魔物なだけだ。
「あ、ありがとう。クヌギ」
「どういたしまして。あ・・・えっと確か」
「シープよ」
「シープさん、本当にサユリを助けてくれてありがとうございます」
丁寧な言葉遣いに柔和な物腰。その態度を崩さずに頭を下げられ、シープもそれにつられてお礼には及びませんと言いながら頭を下げた。
なんで上から目線なんだとシープに毒づきたい気持ちが首をもたげたが、それをしっかりと理性で抑えながら、サユリは冷静な風を装うのに必死だった。
クヌギと呼ばれた少年はひたすら頭を下げ、何度目かのお辞儀の応酬を繰り広げてから、サユリと向き合った。
「もう大丈夫?みんな心配してたけど」
「ええ、平気よ。なんならすぐに酒場に繰り出したいくらい」
「だめだよ、安静にしてなきゃ」
「わかってるわよ・・・・・」
「よかった、大丈夫そうだね。・・・それじゃあ、僕、訓練があるし、いくね」
「あっ」
そそくさと部屋を後にしたクヌギを追うように手を伸ばしたが、既にクヌギは部屋を出た後だった。サユリの右手が、虚しく空をかいた。
その様子を見たシープはにやぁと嫌な笑みを浮かべ、何事かを察した様子だった。そして、新しい玩具を見つけた子供のように浮き足立ってサユリの傍へと寄ってくる。実際には、寄ってくるだけではなくサユリのベッドに腰掛けるところまでいったのだが。
「ねぇねぇ、サユリ」
「・・・・・・・・・・・何よ」
「ひょっとして、夜に行ってたアプローチかけてる子って、あの子?」
サユリは何も答えなかったが、この場合は無言が肯定の意味となった。そう、サユリはクヌギのことが好きだった。奥手で弱気な態度、柔和な物腰と、どこか守りたくなるような、構わずにはいられないようなそんな雰囲気を持ったクヌギのことが。
畢竟母性を擽られるような所に惹き付けられていた。
一応クヌギ自身はしっかりと自立できる、言わばだらしないような性格とは真逆の性格で、しっかりと自分の世話は自分で出来る少年だったのだが。
その容姿と性格――表面上のみで捉えられ易いもの――のせいで、そんなイメージを見る者に少なからず抱かせていた。それは当然、サユリも例外ではなく、そんな部分に彼女は恋をした。いや、好きになったのはその部分だけではなく、クヌギという人物もしっかりと好きになっていたのだが・・・。
よくカップルが話すような、自分のどこが好きなのかという話題と少しずれたような、それでいて似通っているような名状しがたい感覚に似ていると言えば似ているのだろう。クヌギを好きになった切っ掛けがその性格や雰囲気というだけで、それがつまりイコール本人丸々最初から好きになったことではない。好きになる理由なんて、サユリの年頃であれば後から、それこそ対象の一面を知るたびに次々と出てくるだろう。
だから、あくまでサユリが抱いている恋心は年頃が抱くような相応のもので、誰にも否定できるものではないのだろう。まして、茶化すことも。
閑話休題。
「ふぅん。サユリってああいう子が好きなのねえ」
「アンタには関係ないでしょ。さっさとこの国から出て行って」
「出て行くのは出て行くけれど、約束を果たしてからねえ」
「約束・・・?」
「あら、お互いのことをよく知る前だったとは言え、夜に語り合ったじゃない」
それ自体は紛れも無い事実だったため、サユリも否定することはできなかった。確かにあの夜の出来事(川に落ちたことなど、自分の失態を除けば、の話だが)はサユリにとって、中々に充実していた時間だった。
久々にする同性との年頃なら、興味を持っていて当然の会話。恋愛。誰が好きだとか、想い人への愚痴とか、失恋だとか。相手が――知らなかったとはいえ――魔物だったからかもしれないが、親身になって聞き手にまわり、時に意見をしてくれるシープとの会話は、サユリにとっては言い方が悪いが、ウツロギの警邏よりはとてもとても楽しめる時間だった。警邏より楽しむ、という例えは不適切であることは承知の上で、だ。
だが、サユリはそんな時間を振り返ってみても、約束というものに心当たりがまったくなかった。確かに会話に花が咲き、普段よりも喋っていたという自覚もあるが、それでも約束事は、口約束もしていなければまさか契約書のようなものを渡された覚えも当然のごとくない。
だから、純粋に、純粋な意味でサユリにはシープが口にする約束というものがわからなかった。いや、まさか自分以外の他人との約束かとも思ったが、だが夜のことを持ち出している以上、それはないのだろう。
「私、あなたと約束した覚えなんて、ないんだけど・・・?」
「まあ約束というより、・・・願望ね」
「願望?」
「そう、願望」
「願望って・・・いよいよ意味がわからないわよ。私魔物に目をつけられるような願望を吐露した覚えなんてないわよ?」
「覚えてなくて当然よ、うわ言で言ってたことだもの」
「うわ言・・・?」
うわ言。
意識していない間に、言った言葉。
無意識下で、いったかもしれない言葉。
「あなた言ってたじゃない。『毎回酒に誘ってるのに向こうからはなんのアプローチもないのよ!?少しは向こうから誘ってくれたっていいのに!なんなのかしら、無言になってるってことは僕は貴女には興味がないんですごめんなさいって言ってるようなものじゃない』って」
少し嘲るような口調で、シープは言う。
「今、その話は関係ないでしょ」
「クヌギ君からなんの反応もないのが不安だとか言ってたじゃない。・・・あの時は個人名まではわからなかったけど」
「・・・・・・・」
それもまた否定できない事実だった。確かにあの夜、サユリは愚痴を吐いた。振り向いてもらえないことに対する愚痴を。自分の努力が報われない愚痴を。時々何をやっているのかと自己嫌悪に陥るという愚痴を。反応を返さないクヌギに対する愚痴を。
ぶちまけていた。
吐き出していた。
「寂しくなったんでしょ?」
「うるさい」
ほぼ言葉を遮るように口にするが、それもどこか震えているようで、どこか脆いようで。
「あなたに何がわかるの」
「夜通し語り合ったのよ?わからない方がおかしいわ。それに、忘れてるかもしれないけど一応魔物よ?」
馬鹿にしないでちょうだいとシープ。
「それに、関係あるのよねえ。私もあなたの願望を聞いちゃった以上、叶えて上げたいもの。不安になったんでしょ?女として見られてないんじゃないかって。焦ってたんでしょ?自分の嫌な仮定が当たっていたらどうしようって。迷ってたんでしょ?もしかしたらクヌギ君に想い人が別にいるんじゃないかって。苛まれてたんでしょ?それすら聞く事ができない自分に。隠してたんでしょ?女の子らしい自分はらしくないんじゃないかって。怒ってたんでしょ?言葉で伝えてくれないクヌギ君をどうして好きになったんだって。わからなかったんでしょ?それでも好きでいちゃうのはどうしてなんだって」
「ッッッッッツ!!!!!!」
ずけずけと。どかどかと。自分の思っていたはずのことをあらかた口に出され、サユリは言葉を失った。出来たことと言えば、精々息を詰まらせるくらいだ。
どうして。たった一夜の少しの間だけ語り合っただけなのにどうしてここまで自分のことを把握されているのか。推測が混じっているにしても、的確すぎる。明瞭になるはずもない感情をサユリは抱かずにはいられなかった。
だが、言ってしまえばシープに、サキュバスにとって、その一夜の少しの間の時間だけで、十分だったのだ。
相手の気持ちを察してあげるには。相手の心情を見透かすには。そこから推測を立てるには。それだけで。
サユリが誤解していた点をここで更に上げるなら、魔物が好きなのは男性だけではないということだ。無論、夫を選び仲睦まじく過ごすという意味で、一生を共にするパートナー、最愛の人物は男性、揺るぐはずも無い位置にいるのは夫だが。
魔物は人が好きなのだ。
その点を、サユリは誤解していた。
価値観の違いはあれど、好きだから察して、理解して、歩み寄って、自分なりに個人なりに。生きる。
だから、男心を握るだけではなく。
同性の心も、よくわかる。その点を、サユリは誤解していた。
「あなたの願い事、うわ言を叶えてあげる」
「・・・頼んだ覚えはないわ」
「そうねえ、でもこんな性格なの。聞いちゃったし、何より、なんだか苦しそうにしてる人を見るとほっとけないのよね」
放置できない。
それもきっと、人が好きだからこそ。
サユリは、声を振り絞るようにして言った。
「じゃあ、・・・私のうわ言って何よ。願望って、何」
懇願・・・とは少し違う。その声にどんな感情を乗せたのか、サユリ本人にすらわかっていなかった。本心を見透かされ、覗かれてしまって。あらゆる色彩を混ぜたように統一性がなくなってしまった感情の渦を消す方法を、サユリは知らなかった。
「それは――」
「それは・・・?」
「魔物になりたい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「確かにそういったわよ。二回目の溺れたとき、私におんぶされながら、確かにあなたは呟いたわ。魔物になりたいって。なら、叶えられるのは私しかいないじゃない?人同士で叶えるのって中々難しいものだしねえ。やっぱりお節介だろうけど、ここは私の出番でしょ」
膝から下がなくなってしまったかのような、そんな浮遊感にサユリは眩暈を覚えた。何を言ってるんだ?この魔物は。自分が魔物になりたい?そんな、馬鹿馬鹿しい。そんなことをすれば、当然のようにウツロギから出ていかなくちゃならないのに。そんな不都合なことをしてどうするのか。別に、魔物になったからって何かが劇的な変化を遂げるわけじゃあるまいし、むしろこの国にとってはマイナスのことばかり。捏造、改竄もいいところだ。きっと自分は何か別のことを言っていたに違いない。それをこのシープとか言うサキュバスは自分が覚えていないことを良い事に、自分を誑かそうと、唆そうとしているに違いない。
サユリはそう考えた。
それと同時に。
男を誘惑するためだけにあるような肢体。嫌でも惹き付けられてしまう魅力を備えた魔物になれれば。
自分は恋を叶えることができるのだろうかと考えた。
それが偽薬からくるような錯覚のようなものであったとしても。
自分が追い込まれた末に選んだ逃げ道のようなものであったとしても。
むしろ、逃げ出せれなかったあのときに、美しさを実感しているからこそ。
自分はそんなうわ言をいったのかもしれない。そう思った。
「安心して♪怖くなんてないわ。あっという間に素敵な姿にしてあげる♪」
サユリとシープの表情は、あまりにも対照的だった。
13/08/24 01:32更新 / 綴
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