ソルフェージュ
きっとこれは別解。
屋上の空気がしんと冷え切っていた。これは錯覚かもしれない。
昨日と違うのは、今が授業中ということくらいか。エスケープなんて死語を実行するアタシだった。
昨日あんなことがありながら、アタシはまたここに来ていた。突然の告白から逃げだされておきながら。あの場に立ち込める雰囲気に圧砕されそうになったアタシは、たまらず塞ぎこんでしまった。
少しだけ、昔話をしよう。
アタシには好きになってしまった男の子がいた。
物静かな子で、常に何かに埋もれていないと落ち着いていない子だった。アタシはそれを見て、やきもきするような思いだった。だってそうじゃないか。埋もれていたってちっとも幸せなことなんてありゃしない。どうして埋もれたがるのか、アタシにはそれが理解できなかった。だから、アタシは一度アイツに話しかけたことがあった。
どうしてそこまで目立たないようにしているのかと。それに対する答えはこうだった。
特別が嫌だから。
アタシにはよくその意味がわからなかった。
でも、なんだかその子が持っている雰囲気は、不思議と好きだった。一緒にいると胸が切なくて苦しくて、それでも決してそれは不快な痛みでなくて。むしろ、微弱な電流を身体に流し続けられているような心地よさがあった。
中々一緒になる機会は無かったけど、それでも私は幼心に、この人と結ばれたいとそう思うようになっていた。おませさんだったのだろう。
そう断言しても、この気持ちが日に日に摩滅していくことはなかった。好きになってしまったら、惚れてしまえばもうその人しか見えないのが、魔物娘の性だ。
いや、無論他の人が素敵じゃないということではないけど。
それでも、あの子がずっと眩しく見えた。
目を細め、目を凝らして見なければ見失ってしまいそうなほど、希薄な子。そんな雰囲気は深窓の令嬢とかが持っているものとばかり思っていたけれど、男の子が持ち合わせていてもちっとも変ではなかった。逆にしっくりきてしまう。
だから、その子が転校した時、アタシは胸に大穴を開けられた気分を味わった。ぽっかりと大きな口を開けたその漆黒の大穴に、何を詰込めばいいのかわからなくて、苦しかった。軟文学をいくら読み漁ろうと、その物語がアタシを癒してくれる事は無い。綴字がいくら物語を構築しようとも、所詮は他人事だった。
突然の出来事にただ立ち竦むしかない私が、何とか蛮勇を燃え上がらせて起こした行動は、その子の後を追うことだった。転校したなら、私も転校を。
が、そもそもあまり話す機会がなかった私には、転校先なんてわからなかった。
やがていつの間にか、傷ついたアタシの心がそうさせるようになったのかは定かではないけれど。
アタシは歌うことが日課になっていた。
それも、魔力の込めていない歌を。
今は未だ無理だけど、いつか。いつか大きくなったら、きっと探しに行こう。そして、私の素敵な夫になって貰おう。
呱々の声のような、駄々っぽい願い事を込めて。願いを込めるなら、それは誰もが目に付く屋上であるべき、そう確証もない直感に身を委ねて。
その願いが通じたのかどうかは、わからない。
わからないけれど、彼を見た瞬間に、私はこれが夢じゃないかと疑った。
「えっと、あんたは確か転校生?」
白々しい言葉が、上擦ってアタシの喉を通過する。まるで凍えた時のように、上手く感情が吐き出せなくなっていた。五彩を全て視界にぶちまけたのか、色彩感覚が機能してくれず、彼の顔がぼやけてしまう。
きっと、夕焼けのせいだ。本当はそうじゃないことなんて、わかりきっていた。でも、今だけは夕焼けが誂え向きの身代わりだった。
しめやかな雨でも、降って欲しい。そうすれば彼の顔がきっとよく見える。縋る思いで願ったけれど、どうもそれは叶わないらしい。
彼の顔は未だぼやけたままだ。
なら、近づかなきゃいけない。
私は彼の距離を詰めようと一歩、踏み込んだ。連動しているのか、彼の足は一歩後ろへと下がってしまう。違う、違う。ただ顔を見たいだけなの。だから逃げないで。
しゃがれ声にもならないのか、喉からはただ空気だけが洩れていく。そして、アタシが口にしていた言葉は言いたいこととは全く違うものだった。まるで大根役者の口上のように。ソルフェージュのように、耳にしても意味がない言葉の羅列だった。
見繕うことが出来ない自分が、恨めしい。俄作りよりも拙い言葉しか出てこない。
「いったい、何しに屋上へ来たの?」
違う。アタシが言いたいことはこんなことじゃ、ない。
香具師のように意地の悪い笑みを浮かべているアタシがいる。出て行けと声を荒げても、そいつはニタニタと笑っていた。憎たらしい。消えてしまえ。そう吐き捨てたい。
次の日、彼は屋上に来てくれていた。それだけでも、飛び上がるほど嬉しかった。今度は一緒にいてくれる。そんな勘違いをしちゃったりなんかして。浮かれすぎていた。
浮かれすぎて、碌な事になったことがないのに。
昨日とは打って変わって、今度はアタシの口からはただ願望が零れ出ていた。
こうして会話したかった。くだらないと一笑されようと。乾坤一擲の大勝負、なんて程ではないにせよ。アタシにとって、この時間がとても幸せに満ちていたことに変わりはなかった。だからこそ、だったのか。
血漿が沸騰したように落ち着かないアタシは、止まれなかった。今までの足りなかった寂しさを埋めるように距離を詰めようとしていた。芥子人形程の理性も、残っていなかったと思う。ただ、彼を所有したい。愛したい。好きになってほしい。
きっと純粋な独占欲が、アタシを満たしてしまった。自分で勝手に焦らされていたとは、重々承知の上で。わかってはいても、それを止める術なんて私の手に無かった。
「アンタのために、歌いたいなって」
気付いた時には、青臭い衝動が吐き出されていた。
何を。
アタシは何を口走っているのだろう?
わけもわからず、身体と言葉だけが意思を宿されたかのように、身勝手に動き回った。違う。また、違うとアタシは内心叫んで。叫べども、身体どころか心魂すら従ってはくれない。天邪鬼が自分の全てを乗っ取っているんじゃないか。そんな妄想が心情を捉えた。あしらうことも出来ないその妄想すら、アタシを苛んで。気がつけばアタシは屋上で一人ぼっちになっていた。
「あ〜あ〜」
項垂れたアタシの口からは、なよなよとした女々しい嗚咽が漏れるだけだった。
これからどうしよう。自分の事なのにどこか他人事のような実感が後から湧いてくる。それも滔々と止まることを知らずに。なぜあそこまで逸る気持ちを抑えることが出来なかったのか。今になって悔やまれる。自嘲的な笑いの一つでも零したかったけど、それすら億劫に感じて、アタシはコンクリートの上に横になった。
まだ僅かに、匂いが残っている。人ならわからないだろうけど、アタシにとってはとてもわかる匂い。どんな香水よりも心を和ませてくれる。
その残滓に縋るように、アタシはコンクリートの表面を撫でた。さらさらとしながらも、有機的な要素が一切排除されたその硬い感触。自己嫌悪の波が今更のようにアタシを飲み込み始めているのが、わかった。
わかったところで、どうしようもない。
今は少し、この波に飲まれることがアタシにとっては必要なことに思えてしまう。
それは、あんなことをしでかした後だから、尚更一層強く思う。
「どうしてかなあ」
「何が?」
「うん?そりゃ、いきなり告白なんて馬鹿なことしてさ……」
「ああ、驚いたなあ。出会って突然だったし。でも、逃げたのは、その…悪いと思ってるよ」
「別にアンタが謝ることじゃ……へ?」
アタシは誰と喋っているのだろう。恋焦がれすぎて幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか。
いや、違う。
アタシは慌てて身を起こした。
「あ、アンタなんでここに!?」
「いや、昼休みになったからだよ。よっぽど好きなんだな、ここ」
「あ、あぁ、そうだね……」
突然の出来事に、上手く思考が働かない。理路整然と物事が繋がらなくなってしまった。なぜ、彼がまたここに来たのか、その理由がわからない。わからないことは、怖かった。未知への恐怖というものか。だとしたら、アタシはこんな怖いことはもう二度と御免だった。
告白の返事でも、しに来たのだろうか?
「あの…告白さ。もうちょっと待ってくれないかな。その、お互いまだ知らないことだらけでさ。その……もっとよく知り合ってからでもいいと思うんだ」
知ってるよ。アタシは全部知ってる。話す機会はないけれど、見ていた時間はきっと長いから。そう答えられるはずもなく、胸中でそう訂正するだけに留めたアタシは、ただ、うんと返事をするだけだった。
彼は、ごめんとだけ呟いて、そこから私の隣に座った。距離が近いというのは、それだけでドキドキする。昨日、一昨日とあれだけ迫っておきながら言える物言いでは、ないかもしれないけれど。彼は、今でも目立ちたくないと思っているのだろうか。
だとしたら、アタシは少しだけ、それを変えてあげたい。
アタシが協力できることなんて、微々たるものかもしれないけれど、それでもだ。未だに周囲の目から怯えているなんて、アタシにとってはそれはつまらなくて、退屈なことだ。
どうせなら、一緒に輝いてみたい。
「あのさ、屋上って、結構目立たない?」
と、彼がこちらの心を見透かしたように、そう問いかけてきた。いや、これはひょっとすると、彼なりの相談なのかもしれない。そう思うだけで、胸の中が温かくなった。世話女房のような気持ちかもしれない。それくらいにお節介かもしれない。
しれない、と何度も仮定の言葉を繰り返しながら、私はそれに必死に答えた。
「目立つよ?」
「あのさ、だったらなんでこんな場所で歌うの?恥ずかしくはない?」
もう半ば歌っていることの目的が達成されているとは、さすがに言えず、アタシははにかむ。それを言ってしまえば、全て台無しになってしまう。そんな無粋な真似はしたくなかった。
書簡にそっと認めるように、見せなくていい物もある。
なんだか、これから良い事が起こりそう。
訳も無く、そう思えた。
如雨露から注がれる水が、きらきらと光るように、少しだけ晴れやかな気持ちになる。焦る必要は無いんだなと、そう思った。練習曲だって相手に響くものがあると感じさせるためには、膨大な年月を掛けてしまうのだから、アタシがどれ程時間を掛けようが、それを身勝手と罵られることはない。ただそれだけの単純なことを、見失っていた気がした。
自分の気持ちを察するのにも随分時間を費やしてしまった。なら、彼と結ばれるまでに、あとどれ程の時間を必要とするのだろう?
……そんなことをいちいち気にしていても、埒が明かないので、アタシはやめることにした。
まずは、彼と一緒になるところから始めようと思う。
思い立ったが吉日、アタシは元気よく立ち上がると、彼に向かっていってのけた。
その一つ一つに彼は目を丸くしていたけれど、関係ない。うじうじと茹だってしまうような日々を送っていた小さい頃の私とは違うのだ。
どんどん引っ張って、たとえ消えようとも引越し先にまで強引にお邪魔してやるから覚悟しろ。そう心の中で宣戦布告をして。
「アタシ達が刺激を与える?最高じゃないそれ!」
口上が終わる。でも、それは案外二人で一緒に、新しい何かを始められる機会でもあるんじゃないか。そう思って。
「ねぇ、アンタもやってみない?」
とりあえず私の青春は、まず二人の時間を作るところから始まった。ソルフェージュだって響かせてやる。そうこっそりと誓って。
屋上の空気がしんと冷え切っていた。これは錯覚かもしれない。
昨日と違うのは、今が授業中ということくらいか。エスケープなんて死語を実行するアタシだった。
昨日あんなことがありながら、アタシはまたここに来ていた。突然の告白から逃げだされておきながら。あの場に立ち込める雰囲気に圧砕されそうになったアタシは、たまらず塞ぎこんでしまった。
少しだけ、昔話をしよう。
アタシには好きになってしまった男の子がいた。
物静かな子で、常に何かに埋もれていないと落ち着いていない子だった。アタシはそれを見て、やきもきするような思いだった。だってそうじゃないか。埋もれていたってちっとも幸せなことなんてありゃしない。どうして埋もれたがるのか、アタシにはそれが理解できなかった。だから、アタシは一度アイツに話しかけたことがあった。
どうしてそこまで目立たないようにしているのかと。それに対する答えはこうだった。
特別が嫌だから。
アタシにはよくその意味がわからなかった。
でも、なんだかその子が持っている雰囲気は、不思議と好きだった。一緒にいると胸が切なくて苦しくて、それでも決してそれは不快な痛みでなくて。むしろ、微弱な電流を身体に流し続けられているような心地よさがあった。
中々一緒になる機会は無かったけど、それでも私は幼心に、この人と結ばれたいとそう思うようになっていた。おませさんだったのだろう。
そう断言しても、この気持ちが日に日に摩滅していくことはなかった。好きになってしまったら、惚れてしまえばもうその人しか見えないのが、魔物娘の性だ。
いや、無論他の人が素敵じゃないということではないけど。
それでも、あの子がずっと眩しく見えた。
目を細め、目を凝らして見なければ見失ってしまいそうなほど、希薄な子。そんな雰囲気は深窓の令嬢とかが持っているものとばかり思っていたけれど、男の子が持ち合わせていてもちっとも変ではなかった。逆にしっくりきてしまう。
だから、その子が転校した時、アタシは胸に大穴を開けられた気分を味わった。ぽっかりと大きな口を開けたその漆黒の大穴に、何を詰込めばいいのかわからなくて、苦しかった。軟文学をいくら読み漁ろうと、その物語がアタシを癒してくれる事は無い。綴字がいくら物語を構築しようとも、所詮は他人事だった。
突然の出来事にただ立ち竦むしかない私が、何とか蛮勇を燃え上がらせて起こした行動は、その子の後を追うことだった。転校したなら、私も転校を。
が、そもそもあまり話す機会がなかった私には、転校先なんてわからなかった。
やがていつの間にか、傷ついたアタシの心がそうさせるようになったのかは定かではないけれど。
アタシは歌うことが日課になっていた。
それも、魔力の込めていない歌を。
今は未だ無理だけど、いつか。いつか大きくなったら、きっと探しに行こう。そして、私の素敵な夫になって貰おう。
呱々の声のような、駄々っぽい願い事を込めて。願いを込めるなら、それは誰もが目に付く屋上であるべき、そう確証もない直感に身を委ねて。
その願いが通じたのかどうかは、わからない。
わからないけれど、彼を見た瞬間に、私はこれが夢じゃないかと疑った。
「えっと、あんたは確か転校生?」
白々しい言葉が、上擦ってアタシの喉を通過する。まるで凍えた時のように、上手く感情が吐き出せなくなっていた。五彩を全て視界にぶちまけたのか、色彩感覚が機能してくれず、彼の顔がぼやけてしまう。
きっと、夕焼けのせいだ。本当はそうじゃないことなんて、わかりきっていた。でも、今だけは夕焼けが誂え向きの身代わりだった。
しめやかな雨でも、降って欲しい。そうすれば彼の顔がきっとよく見える。縋る思いで願ったけれど、どうもそれは叶わないらしい。
彼の顔は未だぼやけたままだ。
なら、近づかなきゃいけない。
私は彼の距離を詰めようと一歩、踏み込んだ。連動しているのか、彼の足は一歩後ろへと下がってしまう。違う、違う。ただ顔を見たいだけなの。だから逃げないで。
しゃがれ声にもならないのか、喉からはただ空気だけが洩れていく。そして、アタシが口にしていた言葉は言いたいこととは全く違うものだった。まるで大根役者の口上のように。ソルフェージュのように、耳にしても意味がない言葉の羅列だった。
見繕うことが出来ない自分が、恨めしい。俄作りよりも拙い言葉しか出てこない。
「いったい、何しに屋上へ来たの?」
違う。アタシが言いたいことはこんなことじゃ、ない。
香具師のように意地の悪い笑みを浮かべているアタシがいる。出て行けと声を荒げても、そいつはニタニタと笑っていた。憎たらしい。消えてしまえ。そう吐き捨てたい。
次の日、彼は屋上に来てくれていた。それだけでも、飛び上がるほど嬉しかった。今度は一緒にいてくれる。そんな勘違いをしちゃったりなんかして。浮かれすぎていた。
浮かれすぎて、碌な事になったことがないのに。
昨日とは打って変わって、今度はアタシの口からはただ願望が零れ出ていた。
こうして会話したかった。くだらないと一笑されようと。乾坤一擲の大勝負、なんて程ではないにせよ。アタシにとって、この時間がとても幸せに満ちていたことに変わりはなかった。だからこそ、だったのか。
血漿が沸騰したように落ち着かないアタシは、止まれなかった。今までの足りなかった寂しさを埋めるように距離を詰めようとしていた。芥子人形程の理性も、残っていなかったと思う。ただ、彼を所有したい。愛したい。好きになってほしい。
きっと純粋な独占欲が、アタシを満たしてしまった。自分で勝手に焦らされていたとは、重々承知の上で。わかってはいても、それを止める術なんて私の手に無かった。
「アンタのために、歌いたいなって」
気付いた時には、青臭い衝動が吐き出されていた。
何を。
アタシは何を口走っているのだろう?
わけもわからず、身体と言葉だけが意思を宿されたかのように、身勝手に動き回った。違う。また、違うとアタシは内心叫んで。叫べども、身体どころか心魂すら従ってはくれない。天邪鬼が自分の全てを乗っ取っているんじゃないか。そんな妄想が心情を捉えた。あしらうことも出来ないその妄想すら、アタシを苛んで。気がつけばアタシは屋上で一人ぼっちになっていた。
「あ〜あ〜」
項垂れたアタシの口からは、なよなよとした女々しい嗚咽が漏れるだけだった。
これからどうしよう。自分の事なのにどこか他人事のような実感が後から湧いてくる。それも滔々と止まることを知らずに。なぜあそこまで逸る気持ちを抑えることが出来なかったのか。今になって悔やまれる。自嘲的な笑いの一つでも零したかったけど、それすら億劫に感じて、アタシはコンクリートの上に横になった。
まだ僅かに、匂いが残っている。人ならわからないだろうけど、アタシにとってはとてもわかる匂い。どんな香水よりも心を和ませてくれる。
その残滓に縋るように、アタシはコンクリートの表面を撫でた。さらさらとしながらも、有機的な要素が一切排除されたその硬い感触。自己嫌悪の波が今更のようにアタシを飲み込み始めているのが、わかった。
わかったところで、どうしようもない。
今は少し、この波に飲まれることがアタシにとっては必要なことに思えてしまう。
それは、あんなことをしでかした後だから、尚更一層強く思う。
「どうしてかなあ」
「何が?」
「うん?そりゃ、いきなり告白なんて馬鹿なことしてさ……」
「ああ、驚いたなあ。出会って突然だったし。でも、逃げたのは、その…悪いと思ってるよ」
「別にアンタが謝ることじゃ……へ?」
アタシは誰と喋っているのだろう。恋焦がれすぎて幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか。
いや、違う。
アタシは慌てて身を起こした。
「あ、アンタなんでここに!?」
「いや、昼休みになったからだよ。よっぽど好きなんだな、ここ」
「あ、あぁ、そうだね……」
突然の出来事に、上手く思考が働かない。理路整然と物事が繋がらなくなってしまった。なぜ、彼がまたここに来たのか、その理由がわからない。わからないことは、怖かった。未知への恐怖というものか。だとしたら、アタシはこんな怖いことはもう二度と御免だった。
告白の返事でも、しに来たのだろうか?
「あの…告白さ。もうちょっと待ってくれないかな。その、お互いまだ知らないことだらけでさ。その……もっとよく知り合ってからでもいいと思うんだ」
知ってるよ。アタシは全部知ってる。話す機会はないけれど、見ていた時間はきっと長いから。そう答えられるはずもなく、胸中でそう訂正するだけに留めたアタシは、ただ、うんと返事をするだけだった。
彼は、ごめんとだけ呟いて、そこから私の隣に座った。距離が近いというのは、それだけでドキドキする。昨日、一昨日とあれだけ迫っておきながら言える物言いでは、ないかもしれないけれど。彼は、今でも目立ちたくないと思っているのだろうか。
だとしたら、アタシは少しだけ、それを変えてあげたい。
アタシが協力できることなんて、微々たるものかもしれないけれど、それでもだ。未だに周囲の目から怯えているなんて、アタシにとってはそれはつまらなくて、退屈なことだ。
どうせなら、一緒に輝いてみたい。
「あのさ、屋上って、結構目立たない?」
と、彼がこちらの心を見透かしたように、そう問いかけてきた。いや、これはひょっとすると、彼なりの相談なのかもしれない。そう思うだけで、胸の中が温かくなった。世話女房のような気持ちかもしれない。それくらいにお節介かもしれない。
しれない、と何度も仮定の言葉を繰り返しながら、私はそれに必死に答えた。
「目立つよ?」
「あのさ、だったらなんでこんな場所で歌うの?恥ずかしくはない?」
もう半ば歌っていることの目的が達成されているとは、さすがに言えず、アタシははにかむ。それを言ってしまえば、全て台無しになってしまう。そんな無粋な真似はしたくなかった。
書簡にそっと認めるように、見せなくていい物もある。
なんだか、これから良い事が起こりそう。
訳も無く、そう思えた。
如雨露から注がれる水が、きらきらと光るように、少しだけ晴れやかな気持ちになる。焦る必要は無いんだなと、そう思った。練習曲だって相手に響くものがあると感じさせるためには、膨大な年月を掛けてしまうのだから、アタシがどれ程時間を掛けようが、それを身勝手と罵られることはない。ただそれだけの単純なことを、見失っていた気がした。
自分の気持ちを察するのにも随分時間を費やしてしまった。なら、彼と結ばれるまでに、あとどれ程の時間を必要とするのだろう?
……そんなことをいちいち気にしていても、埒が明かないので、アタシはやめることにした。
まずは、彼と一緒になるところから始めようと思う。
思い立ったが吉日、アタシは元気よく立ち上がると、彼に向かっていってのけた。
その一つ一つに彼は目を丸くしていたけれど、関係ない。うじうじと茹だってしまうような日々を送っていた小さい頃の私とは違うのだ。
どんどん引っ張って、たとえ消えようとも引越し先にまで強引にお邪魔してやるから覚悟しろ。そう心の中で宣戦布告をして。
「アタシ達が刺激を与える?最高じゃないそれ!」
口上が終わる。でも、それは案外二人で一緒に、新しい何かを始められる機会でもあるんじゃないか。そう思って。
「ねぇ、アンタもやってみない?」
とりあえず私の青春は、まず二人の時間を作るところから始まった。ソルフェージュだって響かせてやる。そうこっそりと誓って。
14/02/26 22:27更新 / 綴
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