連載小説
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アリア
突然過ぎるだろう?



 スパイスは、きっと日常に刺激を与えてくれる歓迎されるべきものだ。でも、一瞬でいい。立ち止まって、電車の中でも講義の最中でも、暇を持て余している時にでも考えてほしい。
 確かにスパイスは日常の緩慢な、ルーチンワークが定められた進行に、夢見心地な素敵な気分を与えてくれると思う。
 だが、それは刺激を与えられる側の視点だけで物事を捉えてはいないだろうか?
 たとえば、仮定の話。あるいは家庭の話。
 カテイノハナシ。
 その刺激を与えるという役割を不文律によって定められたスパイスが、もしそんなことを望んでいなかったとしたらどうだろう。自分は凡庸でありたいと。没個性の一つに埋もれていたいと思っていたとしたら。
 自分も恙無い平穏な日々を過ごしたいと思っていたら。
 刺激というのは非日常的であって、ならばこそ否応に目立つものだ。すべからく刺激はその役目を果たすべきだ、なんて押し付けが、当たり前の認識が。スパイスなり得る者を苛むとは、誰も考えはしないのだろうか。いや、そもそも考える考えない以前の問題で、選択肢事態が、雲散霧消しているのかもしれない。
 そんな悩みを抱えていた僕に、彼女は実に当たり前のことを言うように語った。

「アタシ達が刺激を与える?最高じゃないそれ!」

 彼女は溌剌としていた。刺激そのものだった。そして、アタシ達と言った。達。複数。その中には。

「ねぇ、アンタもやってみない?」

 太陽のようなぎらぎらとした輝きを持つ彼女に、僕は場違いにも憧れた。



 転校生。
 学生をしていて、そんな単語は日常にありふれていよう。ドラマ、漫画、小説、映画、アニメ。ありとあらゆるメディアに、媒体によって極彩色に彩られているだろう。だけど、そんな心躍る単語の事象そのものに遭遇することはまずないはずだ。学生生活の中で転校生がやってくるなんてイベントが起きれば、まず人生の中でも忘れてしまうようなことはそうそうない。だからこそ、その立場にいる人間は珍しがられ、退屈で殺されそうな日々を歩いていた凡庸な人の獲物になる。少なくとも僕はそう思う。
「ねえどこから来たの?」「どうして転校してきたの?」「前はどこの学校にいたの?」「何が好きなの?」「趣味は?」「家はどこにあるの?」
顧慮の見受けられない言葉。
数々の質問攻めを受けてしまった時点で、いや、教師に促されて教室に入ってしまった瞬間に、僕の立場は決まってしまう。だから、許されるなら教室に入らずに帰宅してしまいたかった。寓居で空虚であろうと、学校よりは居心地がいい。
そんなこと、できはしないけど。
クラスにいる人たちは、きっと僕を、刺激を逃しはしないだろうから。何度目かの、自分に一斉に視線が注がれるぞっとしない感覚を感じながら、僕は教室に踏み入った。
自己紹介をして、空いている席に座り、隣の子に挨拶をして、休み時間になる。予想を全く裏切ることなく僕は取り囲まれ、質問が浴びせられた。鬱陶しいと同時に、羨ましいとも思う。僕は、そっちに憧れているのに、どうしてもそっちにはいけないのだから。
――暗転。
 放課後。
 親の仕事の都合で幾度となく転校を繰り返していた僕は、いつの間にか一人でいる時間を作ることに長けてしまっていた。いや、もっと正確に言い表せば、言い換えれば一人でいる時間が好きになっていた。転校生という立場は、もう嫌だった。目立つのは、嫌だ。
 閑話休題。
 学校には案外、一人になれる場所がたくさんある。防犯上鍵が掛かっている特別教室などもその一つだ。そんな場所には忍び込めはしないと思うだろうが、何も忍び込む必要はない。鍵が掛けられている場所に入るのに、何も忍び込む必要はない。
あくまでも、

「堂々と」

 僕は手にしていた鍵を使って、堂々と特別教室の一つ、三階にある視聴覚室の鍵を開錠し、入った。忘れ物をしたと言えば、大抵の教師は二つ返事で鍵を貸してくれる。
 ちょうど今日の移動授業で使ったばかりだし、説得力もじゅうぶんだった。
 あまり使われていないのか、かび臭い匂いが嗅覚を刺激する。けどこの匂いは、落ち着くことができて好きだった。内側から鍵を掛ければ、僕はこの教室でやっと一人になれる。
 こうして他人の目を避けていれば、いずれ僕は転校生という立場も薄れ、没個性に埋もれることになる。そうなるまでの、ちょっとした儀式みたいなものだ。目立つなら、目立たなくすればいいだけの話。単純明快だ。
 あとは一人の時間を楽しんで、暫くしてからまた教師に鍵を返しに行けばいいだけ。それまでは桎梏からも逃れられる。
 刻々と有意義な時間が削られるのを、ただ呆然と待っているわけにもいかないので、とりあえず周囲を見渡してみた。しかし、当然だが視聴覚室に目の保養になるような物が散乱しているわけもない。DVDの一つでも持ってきていれば、それを鑑賞することもできたけど(当然だ、視聴覚室だから)、そこまで図太い神経を僕は持ち合わせていなかった。
 むしろ、僕の神経はか細い。そよ風一つで切れてしまいそうなほどに。

「………」

 視聴覚室の窓から、こっそりと外を眺めてみた。ちょうどこの教室はいい位置にあるのか、グラウンドの様子が窺える。部活動に勤しんでいるのだろう。何人かの生徒が蟻のように散らばっていた。いや、一部は本当に蟻か。異形が混じっている。魔物娘という、溶け込んでしまった異形。
 溶け込めてしまっている彼女達が、ちょっぴり妬ましい。
 ここは三階だというのに、顧問の教師の怒号がうっすらと聞こえてくる。それに混じって耳に届く楽器の音は、きっと吹奏楽部のものだろう。
 軍隊よろしく精密な動きを繰り返す蟻の群れを見ていると、なんだか安っぽいドラマのようで、急に見ていることが嫌になった。いつまでも一つことに集中しているのも馬鹿らしいので、視線をどこか別の場所に移そうとして、僕は視界の隅に偶然入った屋上を捉えた。
 そこに、何かがいた。
 目を疑う。
 この学校の屋上は、安全上の理由から封鎖されていたはずだ。誰かがいるはずがない。見間違いかと思ったが、それは見間違いでは説明できない存在感を放っていた。遠めからでもよくわかる、あの羽根。
 鼻腔に一瞬、ツンとした火薬の臭いがして、僕は熱に急かさせるように屋上へと向かった。
 廊下を走ってはいけないという校則を無視してリノリウムの床を蹴り、階段を一段飛ばしで駆け上がる。屋上へ出られる扉には、教師がしていた話が正しければ頑丈な南京錠が掛けられているはずだった。その南京錠は、今、僕の目の前で役目を終えていた。何人たりとも通さないという思惟を感じさせていたのであろうそれは、開けられていた
 扉を開こうとする手が、少し震える。誰の手かと思ったが、僕の手だった。
 あれ、と思う。
 なぜ僕はこんなことをしているのだろう。今まで得体の知れない熱に支配されていた身体が、急速に冷却されていくのがわかった。こんなところを見られたら、怒られる。場違いだが限りなく現実的な思考が脳内を過ぎり、背中からいやな汗が滲み出てきた。
 それでも、ここで立ち止まってしまったら、僕の幼い感応は自分にも届かなくなってしまうんじゃないか。塞ぎこんでしまうのは簡単だ。誰にでもできる。なら、せめてその前に少しだけ、踏み込んでしまってもいいだろう。感じ取った何かに対して。
 大げさな躊躇いと曖昧な直感を踏み躙って、僕は扉を開いた。

「〜♪」

 最初に耳朶をうったのは、歌だった。鼻歌。オーケストラのように荘厳でもなければ、ロックのように揺さぶりかける何かがあるわけでもない。女子高生らしく気分良さ気に歌われる鼻歌。
 どこか柔らかいのに、張りのあるイメージだった。何を根拠にしたわけでもないが。
 夕焼けが丁度真正面で、その陰がオレンジ色のカンバスに映写されているようだった。鳥の羽根に、猛禽類のそれを彷彿とさせる足。ハーピー種には違いない。こちらに背を向けているのか、はたまた夕焼けが濃すぎるせいか、その顔はしっかりと拝むことはできなかった。
 僕は、何を思って今ここにいるのだろう。不確かな確信をついさっきまでぶら下げていたはずの自分が、何をしたかったのかわからない。怖いもの見たさでこの屋上までやって来たのだろうか。いや、違う。あの時感じた熱はそんな黒ずんだものじゃなかった。
 でも、今はそれが何なのかわからない。
 迷路に立ち入った思考が結論を出せないまま、やがて一曲歌い終わったのか、その影が動いた。
 やはり顔が拝めなかったのは、背中を向けていたからだったらしい。こちらを向いた時に、青空を溶かしたような双眸が、影の中でもはっきりとわかった。
 見知らぬ来訪者に、その表情が微かに歪む。

「えっと、あんたは確か転校生?」
「あ、うん」
「ここは封鎖されているのに、来ちゃっていいの?」

 どこか悪戯した子供をたしなめるような口調だったが、

「その台詞は……お互い様じゃないかな」

 この子は誰なのだろう。こんな屋上で暢気に鼻歌なんか歌って。僕のことを知っているということは、同じクラスだっただろうか。だが、一日でそんなに人の顔を覚えられるはずもない。不出来な頭の中を何とか覗いてみても、クラスメートの顔には皆モザイクがかかっていた。人ではなく彼女は魔物娘だが、魔物娘だって今では人と同じくらいにいる。

「あの…こんなところで何してるの?えっと」
「アタシ諏訪。セイレーンの足羽諏訪」
「あすわ………すわ?」
「そ。語呂がいいでしょ?」

 言葉で返事をすることがなぜかできずに、僕は黙って首肯した。それを見、満足そうに彼女はこちらに歩いてくる。一歩、また一歩と距離が縮まる毎に、カツカツと鋭い爪が固いコンクリートとぶつかり、不協和音を奏でる。彼女はそんなことこれっぽっちも気にしないで、どんどんこちらに歩み寄ってきた。その迫力に、鷹が獲物を狩る時の殺気に近いものを感じた僕は、思わず半歩後ずさった。

「なんで逃げるのさ」

 ずん。

「逃げてるんじゃない。避けてるんだ」

 ずん。

「逃げてるよりそれよっぽど傷つくよ?」

 轟足が止まることはない。気圧された僕はいつの間にか扉を背に密着させていた。逃げ場がない。いや、そもそも僕は何から逃げようとしているのだろう。猛進からだろうか。妄信からだろうか。

「魔物もやっぱり傷つくんだね」
「そうさね猿人類」
「旧石器時代じゃなくて僕は人類だよ」
「アンタみたいな弟知らないよ」
「それは親類」
「ごちゃごちゃ言うんじゃないよ」

 とうとう彼女とキスが出来そうな距離にまで追い詰められた。お互いの呼吸がお互いの頬を撫で、背筋がくすぐったくなる。だがそれよりも、近くで見ると思ったよりもずっと女の子らしいその顔を直視できなくなり、僕はそっぽを向いた。が、それでも彼女は僕の視界に入ってくる。当然だろう、物理的な距離が近すぎる。

「ねえ、あんた」

 彼女の声が、鼓膜を震わせた。問いかける言葉なのに、妙な色気が含まれている声音に、脈拍が上がるのがわかった。

「いったい、何しに屋上へ来たの?」

 そう問われたところで、輪郭を失い、僕自身も気付かないうちに瓦解してしまったその正体を知るわけがなかった。勿論、彼女も。
 だから、どんなに籠絡誘惑困惑ありとあらゆる困難が僕にそれを問いかけてきたとしても、今は僕はこう答えるしかなかった。小学校でよく言われるように、わからないものにはきちんと、

「わからない」



「アンタってさあ」

 放課後。
 夕焼け。

「ん?」

 僕たち二人は屋上にいた。
 顔見知りになったのがつい昨日のことなのが信じられない。あの後、彼女はこの屋上を去ろうとした。なんでも、歌の練習を聞かれるのは恥ずかしいからだそうだ。お気に入りだったのにと、寂しそうな声を洩らして立ち去る彼女を、気付けば僕は呼び止めていた。こめかみを突如疼痛が襲い、なぜか僕はわけのわからないことを口走っていた。自分でも理解できないような言語。いやそもそもそれは果たして言語の形を成していたのかどうかわからない。だけど、屋上から見える景色が好きだからなんとかということは、言語にできていたと思う。言語か否かという点では、自家撞着だが。
 それでも、あながち嘘ではなかった。あの太陽が街に溶けていく光景が、あそこまで心奪われそうになるものだとは思ってもいなかったから。

「変わってるよね」
「うん」

 否定はできなかった。
 挙句の果て、僕は歌声を聞きはしないと言って、彼女をこの屋上に留めたのだから。あまりに慌てふためく僕が可笑しかったのか、彼女は思わず噴出してしばらく笑っていた。途端に僕は自分の言っていることが相当おかしいことに気付き、顔が熱くなった。景色云々と言っておきながら、彼女をここに留めようとしているのだから。
 臆病者の発想だった。

「変わってはいるだろうけど、目立つのは嫌なんだ」
「ふぅん?」

 彼女の声が、身体に浸透していく。
 目立つのは嫌だった。できることなら、足下にある石ころのようになってみたい。いや、ように、ではなく、そのものに。ドラえもんの石ころ帽子なんて、僕にとっては理想のアイテムだった。ドラえもんに出てくる秘密道具には欠点があるものが多いが。
 誰にも気にされることなく、没個性に埋もれていたい。そう思うようになったのは、いつからだっただろうか。ある日突然、という突発的なものではなかった気がする。じわりじわりと、いつの間にか緩やかに首を絞められていた。真綿よりも柔らかな奇麗事での首くくりを、知らぬ間に自分でしていたのかもしれない。

「あ、そろそろ私歌いたいから、いい?」
「うん、わかってる」

 僕は学生服かのポケットからイヤホンを取り出すと、それを携帯と己が両耳にぶっさした。あとは音楽を適当に流して、音量を最大にすれば、彼女が何を言っているか、何を歌っているかはわからない。まあ単純なことだ。音は耳を塞げば聞こえない。
 僕は周囲から聴覚だけを隔離した。これからちょっと間、頼りになるのは視覚と触覚だけになる。嗅覚?犬じゃあるまいし。

「……」

 僕が黙って頷くと、彼女はそれを合図に歌い出した――のだろう。実際は聞こえないのでどうだかわからないが、彼女はちょうどオペラ歌手がそうするように、祈るポーズをとった。祈る?何を?
 それはきっと彼女の中にあるのだろう。
 彼女の種族、セイレーンは歌に魔力を込めることで男性を誘惑するそうだから、きっと歌に込められているものはそういった願いだろうか。と考えた瞬間に、急に彼女が練習している(であろう)歌が俗っぽいものに思えてきた。それって、カラオケでラブソングを歌って女子を口説こうとする男子と、大差ない気がする。
 偏見で凝り固まった想像が臓腑に沁み込むのを感知した僕は、慌ててその失礼極まりない妄想を振り払った。
 屋上にこうして居させてもらっているのに(正確には屋上は彼女のものではないのだが、そこは言うだけ野暮だろう)なんと図々しいことか。
 が、果たしてどんな歌を歌っているのか、興味が湧いたのも事実だった。男を誘惑する魔力を帯びた歌声。その歌はいったい、どんな音色を奏でているのか。
 その好奇心に、先ほどまでの自制心はまるで紙片のように宙を舞ってしまった。
 緊張しながら、ちょっとずつかけている音楽のボリュームを下げていく。鼓膜を震わせる振動の波が、次第に小さくなり、そして彼女の声が聴覚を支配していく。聞こえてきたその歌は、驚くことに、輪郭を持っていなかった。いや、歌としての形を成していなかった。歌詞らしい歌詞を、彼女は口にしていなかったのだ。聞こえてくるのは単一の文字ばかりで、どう好意的に解釈しようともそれはメッセージだとか、込められた祈りだとか、そんなものがあるとは到底思えなかった。

「…」

 口にはせずとも、その怪訝さに僅かだが、眉間に皺が寄る。

「〜♪〜〜〜♪〜〜♪」

 やがて、夕日がその顔を半分ほど地平線に埋めた頃、彼女の歌の練習は終わった。

「ねえアンタ、って、聞こえないのか」

 本当は聞こえているけれど、それをバラしてしまうほど僕は愚かではなかった。

「いや、こっそり聞いてたんだから、わかるよね?」

 バラしてしまうほど愚かではないけれど、バレてしまうくらいに間抜けではあった。いや、決め付けるにはまだ早い。ハッタリかもしれない。暫く無視を決め込もうと思った矢先、強引にイヤホンの片方を奪われ、僕の思惑はあっさりと崩壊した。
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべる彼女を、誰か止めてほしい。頭蓋骨の内側が、じりりと焦げる。内側でいやな音が乱反射しているのは、気のせいではないだろう。

「やっぱり、ほとんど音してないじゃん。こっそり盗み聞きって、趣味悪いねえ?」
「いや、その…」
「その?」
「……ごめん、聞いてみたくて」

 詫びる僕に、彼女はシニカルな笑みを浮かべるが、だがそれだけだった。それ以上の追求をするつもりはないらしい。が、僕にとってそれは下手に弾劾されるよりもよっぽど堪えるものがあった。いっそああだこうだと出会う度に責められた方が、清々しい。
 そんな僕の胸中を無視して、彼女は唐突に聞いてきた。

「ねえ、どうだった?」
「え?」
「だ!か!ら!アタシの歌」
「い、いや、どうって言われても……」

 僕が耳にしたのは、歌と呼べないような歌だ。それに感想を求められるのは、無理難題だった。なにせ、歌であって歌じゃない。僕は散々悩んだ挙句に、

「わ、わかんないよ。歌詞が意味不明だったし」

 素直に感想になっていない感想を述べることにした。

「……へ?アンタひょっとして、ソルフェージュの時を聞いてたの?」
「ソルフェージュ?」
「音階、音名だけを口にする、練習のための曲のことよ」
「練習のための……曲」

 道理で。
 道理で響かないはずだ。
 音階に、音名に意味も祈りも込められたもんじゃない。たとえ六面を操れていたとしてもそれは不可能だ。でも、そういった練習なら家ではできないのだろうか。別に他人の家庭事情に興味があるわけではないけれど、そこだけは気になった。なにも人に聞かせるためじゃない歌を、ここで歌う必要が見当たらない。人に聞かせたいけど聞かせられない葛藤を抱えているからこそ、屋上という人目につかない場所で歌うんじゃないのか。
 少なくとも僕はそう思うのだが、彼女はただ子供っぽい表情を浮かべているだけだった。存外に、その顔に愛嬌があって、思わず目を瞑る。その顔をずっと見ていたら、吸い込まれてしまう気がした。
 まあ、それは気のせいだから僕は再び彼女を見ていたのだけれど。
 彼女は背伸びをしながら、一人語り始めた。
 夕焼けは、昨日のように彼女を影絵にしていた。

「アタシさ、団体様のために歌うってより、誰か一人のために歌いたいんだよね。昔は船乗りを誘惑するためにアタシの種族ってこの声を使っていたみたいだけれど、今アタシがいるのって地上じゃん。もう海なんて見当たらない、現代のコンクリートジャングルだよ。だったらさ、団体様を誘惑するよりも、一人のために歌った方がよっぽどいいと思ったんだ」
「一人のため」
「うん。屋上でずっとこうしてさ。見つけてくれる誰かがいたらいいなって」

 そう語る彼女の顔が曇ったような気がして、僕は思わず口にしていた。

「見つかるといいね」
「何いってんのさ。もう見つかったよ」
「え?」

 視線が僕を射抜く。心臓がわけもなく騒ぎ始めた。
 また、ずんずんと近づいてくる彼女。

「あの、どういうこと?」
「つまりね」

 が、今度はそこまで近くにはこなかった。精々、お互いの手を伸ばしてやっと触れ合う距離だ。そんな距離にまで近づいてきた彼女は、そこで言葉を区切ってしまった。温度のしない風が吹いて、僕の表層を愛撫する。なぜだろう、特に何も起こるはずもないのに。
 逃げられない。
 そんな単語が身体の内部から突き刺さって、皮膚を突き破りそうだった。そんなこと有り得るはずもないのに。

「アンタのために、歌いたいなって」

 ないのに。
 びゅうっと風が吹く。似気ない。逃げない。鋭い鉤爪が、心臓を抉り出した気がした。さながら水彩画のような夕焼けに晒された、心像。彼女は僕しか見ていない。ただ見つめられている。だが当の本人である僕は、黙っているしかなかった。怜悧ではないにせよ、そこそこのスペックがあった僕の回路は、ショート寸前になっている。
 街の騒音がやけにはっきりと聞こえた。僕の声すら埋もれてしまいそうな音が飛び交う中で、彼女の言葉は、眼前でかしこまっていた。立て膝をするでもなく、あぐらをかくでもなく。ただ、見つめられていた。

「え〜っと、一応アタシとしては今の告白だったんだけど」

 らしくなく、照れ臭そうにはにかむ彼女に、僕は何を言えばいいのだろう。戸惑ったものを吐き出しても、進む道が変わってしまいそうで。

「ねぇ、告白だよ?」

 不安そうな声を出す彼女に、

「そうだね」

 僕は、

「酷薄だ」

 下手な皮肉を込めるのが精一杯だった。
14/02/25 21:45更新 /
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■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
あと一話か二話で終わります。

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