真っ白い程に無垢
入社式の数日後に配属先が決まり、社内研修も無事に終わった5月の半ば。とある日の昼休み。食事にしようと決めた直後、部署の女性の上司に呼び出されて机を挟んで向かい合っていた。
研修の時からその手際のよさに舌を巻き、容姿も良さから密かな憧れを抱き少しでも近づきたいと目標にもしていた人。後から聞かされた同僚の話によるとこの会社の創業者の血縁にあたることからその手際のよさも頷けた。
向かい合っている理由、それは‥書類の細かいところにミスがあり、それについて叱られるのだろうか？僕の心の中は萎縮しきり、でも‥不思議と険しさが感じられないそんな表情。
「今まで忙しくて、話す機会も無かったから呼んだの。叱るつもりで呼んだ訳じゃないから、そんなに固くならなくていいのよ」
安心の溜め息と共に胸を撫で下ろした。その仕草を見ていたのかにこやかな表情浮かべて僕を見ていた。
「人伝に聞いたのだけど‥独り暮らしをしているのね。食生活は大丈夫？バランスの良い食事はしっかりと摂っているの？」
もし‥ここで「摂っていません」と答えてその結果、僕の家で食事を作ってくれるのだろうか？期待とその仄かな思いが心に沁み広がっていくの感じながらも‥
「そうね……独り暮らしといえば何よりも寂しさよね。紛らわすためにも何か動物を飼うことを勧めるわ」
話が別の方向に進んでいく事が分かっても、僕には止めることが出来なかった。
「イヌやネコは一般的でつまらないと思うの。だからそうね……」
顎に人差し指を当てて視点は上へ‥瞳は僕から天井を映している。
「そうね‥今日の仕事が終わったら、一緒にペットショップに行きましょう。そこで私が一匹プレゼントするわ」
予想を遥か上に行った答え。悪いと思う気持ちが口を動かそうとした、その刹那。
「期待の新人なんだから遠慮しないでいいの。それで少しでも励みになって、これから頑張ってくれれば、プレゼントした甲斐があるの」
人差し指で唇を押し当てられ、ドキリとする気持ちと共に、出すはずだった言葉は頭から真っ白に消えて二度三度の頷きで返事をかえした。笑顔と共に指は離されて、裏返った声のお札と感謝の言葉が口から紡いだ。
そして、仕事が終わり夕暮れの道を二人で歩き、この恋人同士のような感覚に僕の心臓は破裂寸前まで激しく動き、今のこの時間のためにと仕事中に探していた話題も頭の中から真っ白に消え去っていた。
彼女の方から話に僕は乗り、歩き続けた。そして…
「ここが私の知り合いが開いているお店よ」
こじんまりとした小さな店。入り口で立ち止まり店の名前を確認しようと上を見上げていた最中、背中を押される感覚を受けてそのまま店の中に入った。
店主の挨拶、そして‥
店に並んでいる動物は犬や猫といった一般的な動物は一切おらず、興味と物珍しさが僕の視線をさまよわせていった。
いくつかの動物を見ては、また別の動物を見ていき……
愛くるしい仕草に惹かれて一匹のタヌキのような生き物に視線を移し……見た目の印象はこのタヌキ(？)はタヌキと人を足して割ったような感じで今ではあまり見掛ける事が少なくなった和の趣のある服を着ている。そのタヌキも気付いたのか僕に視線を合わせた。つぶらな瞳が僕を映し、僕もタヌキを映している。
「決まったみたいね」
彼女の声が届かない程に僕はタヌキに魅入られていた。
徐に彼女の姿が視界に入りタヌキを優しく抱き上げて‥
「貴方が今日からこの子の面倒を見るのよ」
腕を目一杯伸ばし、僕の身体に向かって差し出した。僕は狸を抱きかかえるように受け取り、彼女の目をしっかりと見て力強い返事でかえして、その表情は満面な笑みへと変わっていった。
会社のすぐ近くの交差点。戻ってきた時には陽は沈みきって、信号の光が闇を払っている。
「私はこの道だから」
彼女の笑顔が見れたのも束の間、踵を返して次第に背中も見えなくなっていき、声をかけられなかった事に小さな溜め息を吐き出して、抱きかかえてるタヌキに視線を落として家路に着いた。
誰もいない真っ暗な家。明かりをつけてタヌキを床に置いたその途端、ゆっくりと立ち上がって、人と同じように二足で床を確かめていくように歩いて‥躓いてお腹と顎を床にぶつけた。僕は慌てて駆け寄りその目にはうっすらと涙を溜めて、僕は思わず抱きかかえて、頭を撫でていた。
そして、中断させるように鳴いた腹の虫。そのまま冷蔵庫を開けて食材を並べてから、タヌキをイスの上に置いて1人で調理を始めようとして……ふと思えばこの部屋のイスは1脚。今から買いに行くのは遅いから、数日後の日曜にタヌキのためにイスを買う事やデザインや色を考えながら調理をしていった。
料理が出来て、机の上に並べて……タヌキのご飯を作っていない事に気付いたのも束の間。何を食べるの？と疑問が胸を突いた。でも‥タヌキは料理よりも僕の方を見詰め、その場にあるもの使って向かい合わせになるように即席のイスを作って座り、一瞬タヌキの顔から笑みが零れ、頭をちょこんと下げた後に箸を握り器に盛っているご飯を器用に掬い上げて、食べている事に僕は心底驚いた。
僕を見詰め、箸を止めて首を傾げるタヌキ。僕は慌てるように食事の挨拶をして、料理に箸をつけていった。
顔を見合わせて、視線を交えて食後の挨拶を交わして僕はタヌキの頭を軽く撫でてから、席をゆっくりと立ち濡らしたタオルでソースや食べこぼしが付いた口の回りを拭いていった。タヌキも目を閉じて気持ち良さそうな表情を見せて‥僕の手が止まったのも束の間。つぶらな瞳は僕の顔を映している。そして、お辞儀をしようと思ったのか首が僅かに動いて………
タヌキの額と僕の鼻の頭がぶつかり、タヌキはすぐに泣きそうな顔に変わり僕を見ている。頭を二、三度軽く振った後にその額を撫でから手を伸ばし持ち上げて同じ目の高さで見詰め合い‥そして、唇に何か柔らかいものが押し当てられて……
視界に映るのは近い距離のタヌキの頭。一瞬、何が起きたか理解出来なかった。
離れていった頭のその表情を無意識に捉え‥視線が交わったと思えばすぐに移り、目は忙しなく動き、表情も年頃の女の子を連想させた。
見詰め合い、そして‥引き裂くようになったアラーム。反射的に時計を見て慌てて布団を敷いた。隣同士でおやすみの挨拶の後タヌキは深く頷き、同時に目を閉じていった。
朝。慌ただしく鳴るアラームを手の感覚だけで止めて、眠い目を擦って目を開ければ目の前にタヌキがちょこんと座って僕の頭を撫でている。
朝の少ない時間中でいつもより少し多い食事を作り、夜と同じように向かい合って食べて……
出勤寸前、家にタヌキを独りに置いたままにする事に強い抵抗があった。でも……
タヌキは僕の顔をじっと見詰めたまま首を軽く振り‥僕は思わずタヌキをだきしめて、そのまま頭を撫でて床に降ろした。タヌキは表情を笑顔に変えて手を振って、僕は家を後にして会社に向かった‥。
普段と同じいつも通りの仕事。でも‥頭の中はタヌキの事でいっぱいになっている。今は何をしているのか？
お腹は空かせていないのか？
独りで寂しくないか？
過るのは全て不安ばかり。
少しの時間が空いてすぐに携帯を取り出した。掛ける先は………でも家には自宅用の電話を置いていない。
少し節約したつもりがこんなに後悔するとは思わなかった。気ばかりが焦り、ようやく鳴った昼を知らせるチャイムの音。それと同時に飛び出るように外へ‥近くの携帯が売っている店まで全力で走った。
機種、プランと共に無関係に契約して、仕事終わりに引き取りに行ってそのまま家路に着いた。
家のドアを開けて、僕の顔を見てすぐにタヌキは笑顔で応えた。安心と同時に襲ってくる罪悪感。僕は思わずタヌキを抱きしめた。
長く、長く温もりを感じ伝えた頃。その辺に置いた袋。携帯を取り出して使い方の説明をしていった。タヌキは頷くばかりで反応がいまいち分からない。試しにその携帯に電話をすれば‥説明した通りに携帯に出た。声は一言も出さないものの、たとえ遠く離れていても心と想いの距離は縮まったように感じて‥電話を床に置いた後、タヌキの頭をゆっくりと撫でた。
仕事中、幾度となく連絡を取り日にちは過ぎて‥家具を買いに行くと決めていた日曜日。目覚ましの音よりも早く家の呼び鈴の音で起こされて‥寝ぼけたまま玄関を開けて、そこに立っていたのはスーツを着た男の二人組。紙を一枚取り出して僕に向かって何かを話している。眠いままの頭の回転がほぼ止まっている僕はただひたすらに頷いて返した。そして、話が終わったと同時に腕に手錠が掛けられてそのまま車に乗せられて……
車中。僕の声が聞こえていないかのような無反応ままの男達、降りた先は警察署。そのまま連れられて一つの部屋に入れられた。
そして‥そこで会ったのは上司の女性だった……。
タヌキを身体に抱き寄せて、その沈んだ表情で僕を見ている。
「この方が私の子供を拐って……」
訳が分からなかった。でも‥溢れるように流れる大粒の涙が僕の視線を外させることもなく、次第に悲しみが広がっていったその刹那‥回りにいた男達によって別の部屋に連れていかれた。
身に覚えのない誘拐の尋問。嘘偽りなく話しても信用される事もなく‥
この部屋に入れられてから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。突如として部屋を後にしていく男たち。その状況を目だけが追い‥誰も居なくなった部屋に僕は独り俯いて………
更にどれだけの時間が流れたのか知ることも出来ないままに、小さくドアの開く音。入ってきたのは僕の上司ただ1人。
「気分はどうかしら？」
先とはうって変わっていつもと同じ声。
「その歳で顔写真付きで実名報道はされたくないわよね‥？」
僕は思わず顔を見てしまい、そこには普段と違う姿‥あのタヌキと同じ姿をしていて、表情の黒さに思わず恐怖を抱いた。
「そうね……前にも言ったと思うけど‥うちの娘の事を将来まで約束してくれればね……」
声は明るい。でも‥その顔からは笑みの一つもこぼしていない。そして、拒んだ場合‥僕の身に何が起こるのか容易に想像が出来た。
熟考する時間さえない。いや違う‥最初から選択の余地さえない。そして……
「わかりました」
絞り出すように出した声。それを待っていたように黒かった顔はすぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「でもね‥うちの娘を泣かす事があったら……」
先よりも一段と黒い表情。声を出すのも忘れ、思わず首を小刻みに横に揺らした。
「娘の事をこれからもよろしくね」
笑顔のまま一言だけいって立ち去った後、それからすぐに責任者と思える男の人が来て‥謝罪の後にタヌキの子供と一緒に僕は家まで車で送られて……
家のすぐ前。タヌキと僕はお互いに手を取って見詰め合い、家の玄関を開けた。
研修の時からその手際のよさに舌を巻き、容姿も良さから密かな憧れを抱き少しでも近づきたいと目標にもしていた人。後から聞かされた同僚の話によるとこの会社の創業者の血縁にあたることからその手際のよさも頷けた。
向かい合っている理由、それは‥書類の細かいところにミスがあり、それについて叱られるのだろうか？僕の心の中は萎縮しきり、でも‥不思議と険しさが感じられないそんな表情。
「今まで忙しくて、話す機会も無かったから呼んだの。叱るつもりで呼んだ訳じゃないから、そんなに固くならなくていいのよ」
安心の溜め息と共に胸を撫で下ろした。その仕草を見ていたのかにこやかな表情浮かべて僕を見ていた。
「人伝に聞いたのだけど‥独り暮らしをしているのね。食生活は大丈夫？バランスの良い食事はしっかりと摂っているの？」
もし‥ここで「摂っていません」と答えてその結果、僕の家で食事を作ってくれるのだろうか？期待とその仄かな思いが心に沁み広がっていくの感じながらも‥
「そうね……独り暮らしといえば何よりも寂しさよね。紛らわすためにも何か動物を飼うことを勧めるわ」
話が別の方向に進んでいく事が分かっても、僕には止めることが出来なかった。
「イヌやネコは一般的でつまらないと思うの。だからそうね……」
顎に人差し指を当てて視点は上へ‥瞳は僕から天井を映している。
「そうね‥今日の仕事が終わったら、一緒にペットショップに行きましょう。そこで私が一匹プレゼントするわ」
予想を遥か上に行った答え。悪いと思う気持ちが口を動かそうとした、その刹那。
「期待の新人なんだから遠慮しないでいいの。それで少しでも励みになって、これから頑張ってくれれば、プレゼントした甲斐があるの」
人差し指で唇を押し当てられ、ドキリとする気持ちと共に、出すはずだった言葉は頭から真っ白に消えて二度三度の頷きで返事をかえした。笑顔と共に指は離されて、裏返った声のお札と感謝の言葉が口から紡いだ。
そして、仕事が終わり夕暮れの道を二人で歩き、この恋人同士のような感覚に僕の心臓は破裂寸前まで激しく動き、今のこの時間のためにと仕事中に探していた話題も頭の中から真っ白に消え去っていた。
彼女の方から話に僕は乗り、歩き続けた。そして…
「ここが私の知り合いが開いているお店よ」
こじんまりとした小さな店。入り口で立ち止まり店の名前を確認しようと上を見上げていた最中、背中を押される感覚を受けてそのまま店の中に入った。
店主の挨拶、そして‥
店に並んでいる動物は犬や猫といった一般的な動物は一切おらず、興味と物珍しさが僕の視線をさまよわせていった。
いくつかの動物を見ては、また別の動物を見ていき……
愛くるしい仕草に惹かれて一匹のタヌキのような生き物に視線を移し……見た目の印象はこのタヌキ(？)はタヌキと人を足して割ったような感じで今ではあまり見掛ける事が少なくなった和の趣のある服を着ている。そのタヌキも気付いたのか僕に視線を合わせた。つぶらな瞳が僕を映し、僕もタヌキを映している。
「決まったみたいね」
彼女の声が届かない程に僕はタヌキに魅入られていた。
徐に彼女の姿が視界に入りタヌキを優しく抱き上げて‥
「貴方が今日からこの子の面倒を見るのよ」
腕を目一杯伸ばし、僕の身体に向かって差し出した。僕は狸を抱きかかえるように受け取り、彼女の目をしっかりと見て力強い返事でかえして、その表情は満面な笑みへと変わっていった。
会社のすぐ近くの交差点。戻ってきた時には陽は沈みきって、信号の光が闇を払っている。
「私はこの道だから」
彼女の笑顔が見れたのも束の間、踵を返して次第に背中も見えなくなっていき、声をかけられなかった事に小さな溜め息を吐き出して、抱きかかえてるタヌキに視線を落として家路に着いた。
誰もいない真っ暗な家。明かりをつけてタヌキを床に置いたその途端、ゆっくりと立ち上がって、人と同じように二足で床を確かめていくように歩いて‥躓いてお腹と顎を床にぶつけた。僕は慌てて駆け寄りその目にはうっすらと涙を溜めて、僕は思わず抱きかかえて、頭を撫でていた。
そして、中断させるように鳴いた腹の虫。そのまま冷蔵庫を開けて食材を並べてから、タヌキをイスの上に置いて1人で調理を始めようとして……ふと思えばこの部屋のイスは1脚。今から買いに行くのは遅いから、数日後の日曜にタヌキのためにイスを買う事やデザインや色を考えながら調理をしていった。
料理が出来て、机の上に並べて……タヌキのご飯を作っていない事に気付いたのも束の間。何を食べるの？と疑問が胸を突いた。でも‥タヌキは料理よりも僕の方を見詰め、その場にあるもの使って向かい合わせになるように即席のイスを作って座り、一瞬タヌキの顔から笑みが零れ、頭をちょこんと下げた後に箸を握り器に盛っているご飯を器用に掬い上げて、食べている事に僕は心底驚いた。
僕を見詰め、箸を止めて首を傾げるタヌキ。僕は慌てるように食事の挨拶をして、料理に箸をつけていった。
顔を見合わせて、視線を交えて食後の挨拶を交わして僕はタヌキの頭を軽く撫でてから、席をゆっくりと立ち濡らしたタオルでソースや食べこぼしが付いた口の回りを拭いていった。タヌキも目を閉じて気持ち良さそうな表情を見せて‥僕の手が止まったのも束の間。つぶらな瞳は僕の顔を映している。そして、お辞儀をしようと思ったのか首が僅かに動いて………
タヌキの額と僕の鼻の頭がぶつかり、タヌキはすぐに泣きそうな顔に変わり僕を見ている。頭を二、三度軽く振った後にその額を撫でから手を伸ばし持ち上げて同じ目の高さで見詰め合い‥そして、唇に何か柔らかいものが押し当てられて……
視界に映るのは近い距離のタヌキの頭。一瞬、何が起きたか理解出来なかった。
離れていった頭のその表情を無意識に捉え‥視線が交わったと思えばすぐに移り、目は忙しなく動き、表情も年頃の女の子を連想させた。
見詰め合い、そして‥引き裂くようになったアラーム。反射的に時計を見て慌てて布団を敷いた。隣同士でおやすみの挨拶の後タヌキは深く頷き、同時に目を閉じていった。
朝。慌ただしく鳴るアラームを手の感覚だけで止めて、眠い目を擦って目を開ければ目の前にタヌキがちょこんと座って僕の頭を撫でている。
朝の少ない時間中でいつもより少し多い食事を作り、夜と同じように向かい合って食べて……
出勤寸前、家にタヌキを独りに置いたままにする事に強い抵抗があった。でも……
タヌキは僕の顔をじっと見詰めたまま首を軽く振り‥僕は思わずタヌキをだきしめて、そのまま頭を撫でて床に降ろした。タヌキは表情を笑顔に変えて手を振って、僕は家を後にして会社に向かった‥。
普段と同じいつも通りの仕事。でも‥頭の中はタヌキの事でいっぱいになっている。今は何をしているのか？
お腹は空かせていないのか？
独りで寂しくないか？
過るのは全て不安ばかり。
少しの時間が空いてすぐに携帯を取り出した。掛ける先は………でも家には自宅用の電話を置いていない。
少し節約したつもりがこんなに後悔するとは思わなかった。気ばかりが焦り、ようやく鳴った昼を知らせるチャイムの音。それと同時に飛び出るように外へ‥近くの携帯が売っている店まで全力で走った。
機種、プランと共に無関係に契約して、仕事終わりに引き取りに行ってそのまま家路に着いた。
家のドアを開けて、僕の顔を見てすぐにタヌキは笑顔で応えた。安心と同時に襲ってくる罪悪感。僕は思わずタヌキを抱きしめた。
長く、長く温もりを感じ伝えた頃。その辺に置いた袋。携帯を取り出して使い方の説明をしていった。タヌキは頷くばかりで反応がいまいち分からない。試しにその携帯に電話をすれば‥説明した通りに携帯に出た。声は一言も出さないものの、たとえ遠く離れていても心と想いの距離は縮まったように感じて‥電話を床に置いた後、タヌキの頭をゆっくりと撫でた。
仕事中、幾度となく連絡を取り日にちは過ぎて‥家具を買いに行くと決めていた日曜日。目覚ましの音よりも早く家の呼び鈴の音で起こされて‥寝ぼけたまま玄関を開けて、そこに立っていたのはスーツを着た男の二人組。紙を一枚取り出して僕に向かって何かを話している。眠いままの頭の回転がほぼ止まっている僕はただひたすらに頷いて返した。そして、話が終わったと同時に腕に手錠が掛けられてそのまま車に乗せられて……
車中。僕の声が聞こえていないかのような無反応ままの男達、降りた先は警察署。そのまま連れられて一つの部屋に入れられた。
そして‥そこで会ったのは上司の女性だった……。
タヌキを身体に抱き寄せて、その沈んだ表情で僕を見ている。
「この方が私の子供を拐って……」
訳が分からなかった。でも‥溢れるように流れる大粒の涙が僕の視線を外させることもなく、次第に悲しみが広がっていったその刹那‥回りにいた男達によって別の部屋に連れていかれた。
身に覚えのない誘拐の尋問。嘘偽りなく話しても信用される事もなく‥
この部屋に入れられてから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。突如として部屋を後にしていく男たち。その状況を目だけが追い‥誰も居なくなった部屋に僕は独り俯いて………
更にどれだけの時間が流れたのか知ることも出来ないままに、小さくドアの開く音。入ってきたのは僕の上司ただ1人。
「気分はどうかしら？」
先とはうって変わっていつもと同じ声。
「その歳で顔写真付きで実名報道はされたくないわよね‥？」
僕は思わず顔を見てしまい、そこには普段と違う姿‥あのタヌキと同じ姿をしていて、表情の黒さに思わず恐怖を抱いた。
「そうね……前にも言ったと思うけど‥うちの娘の事を将来まで約束してくれればね……」
声は明るい。でも‥その顔からは笑みの一つもこぼしていない。そして、拒んだ場合‥僕の身に何が起こるのか容易に想像が出来た。
熟考する時間さえない。いや違う‥最初から選択の余地さえない。そして……
「わかりました」
絞り出すように出した声。それを待っていたように黒かった顔はすぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「でもね‥うちの娘を泣かす事があったら……」
先よりも一段と黒い表情。声を出すのも忘れ、思わず首を小刻みに横に揺らした。
「娘の事をこれからもよろしくね」
笑顔のまま一言だけいって立ち去った後、それからすぐに責任者と思える男の人が来て‥謝罪の後にタヌキの子供と一緒に僕は家まで車で送られて……
家のすぐ前。タヌキと僕はお互いに手を取って見詰め合い、家の玄関を開けた。
13/05/31 20:33更新 / ジョワイユーズ