6
ずっと起きて待っていたのか、三人が無事に帰ると、宿の主人は時間も考えずに大喜びした。いつ帰って来てもいいように風呂を沸かして待っていたというので、順番に汗を流す。酒も食事も、などと主人は続けたが、眠らせてほしいと三人が言うと、流石に大人しくなった。
そして翌日。
主人の独断で休業日になってしまった宿の一階では、簡単な宴が開かれていた。テーブルの上には料理が溢れ、主人の秘蔵の葡萄酒とやらが店の奥から樽ごと運ばれて来た。
たまたま宿に泊まっていただけの無関係の人間も、何が何だか解らないまま巻きこまれ、店内は収拾のつかない状態になりつつある。
「ずっと待たされたストレスの反動で、とにかく馬鹿騒ぎをしたくなってるだけだと思うのは俺だけか?」
「いや。私も、そう思う」
主賓の筈なのに壁際の席に避難し、グラスを傾ける青年と料理をパクつくシファが、よく似た表情で溜息をついた。
自棄っぱち気味に盛り上がる店内では、椅子の上に立ったリリエが歌を歌い、大喝采を浴びている。透き通った綺麗な声だった。
「意外な才能だな」
「というか多才だな、あの子は」
シファが食べている料理も、実は主人に教わりながらリリエが作った物なのだ。
結局その後、報告に来た兵士二人まで巻きこまれ、宴は日が暮れるまで続いた。不幸な被害者二人は、後日、始末書の山という魔王以上の強敵に挑む事となったらしいが、それは余談である。
そして、更に翌日。
青年は軍の詰め所で正式な報告と、報酬を受け取る手続きを行っていた。
青年が初めに要求した報酬の額は相場よりも安く、応対した兵を戸惑わせた。
「よろしいのですか? 王都からは、上限こそ定められてはいますが、その中でなら言い値で報酬を支払って構わないと言われておりますが……」
「必要な時に必要な額があればいい、が……」
そこで青年は、何かを思いついたように言葉を止める。
「念のため聞いておこう。上限額は幾らだ」
兵士が告げた額に、ふむ、と考えこみ、
「気が変わった。上限額まで、目いっぱい貰うとしよう」
「は?」
とつぜん掌を返した青年に、兵士の目が点になった。
二日後。
この日、ついに青年が町を出る事になった。
混乱を避けるために、出発は朝の早い時間にした。町の外には青年とシファ。リリエと宿の主人、アルバスは見送りだった。他にも数人、ノスリアの悪事に鉄槌を下した二人組を見ようと、町の人間が出て来ている。
「この度は、ご苦労様でした。道中、お気をつけて」
ふだんは穏やかな喋り方をするらしいアルバスに、青年は頷きを返した。
「旦那。簡単なモンだが弁当を作ったから、持ってってくれや。嬢ちゃんも」
「ありがとう。助かる」
礼を言って、シファは差し出された包みを受け取る。
「お姉ちゃん……」
何処か他人行儀な雰囲気を滲ませた声が聞こえて来た。
「リリエ……すまない。私は、こんな中途半端な……」
言葉が見つからないシファに、リリエは穏やかに頭を振る。
「いいんだよ、お姉ちゃん。あたしも、あたしのせいでお姉ちゃんが酷い目に遭うのとか、嫌だから」
本人は必至で自然に笑っているつもりなのだろう。しかし、その瞳は潤み、声は震えていた。
「だ、大丈夫だよ。きっと、また会えるから。ね? お兄さん!」
「そこで俺に振るか」
空気を読まず、青年は煩わしそうな表情を隠さない。
「あのね。あたし、大きくなったら剣士になる! お兄さんみたいに、困ってる人の力になるの」
「結構な事だが、俺みたいになるのはお勧めしない」
何か思うところがあるのか、含みを持たせた青年の言葉に、リリエは訝しそうに眉根を寄せる。だが、訊いていい事ではないと察し、話を戻した。
「じゃあ、お姉ちゃんみたいになる!」
「それは別の理由で、もっとお勧めしない!」
「どういう意味だ、貴様!!」
それまで微笑ましげに青年と少女の遣り取りを眺めていたシファが、ぐりん、と首を振り向かせた。
「はっはっは! それじゃあ、嬢ちゃん。剣士の修業を始めるまでは、おっちゃんの店で手伝いをしねえか?」
それまで黙って聞いていた宿の主人が、ポン、とリリエの頭に手を乗せる。
「前に手伝ってもらった時、ずいぶん助かったからなぁ。それに、剣士になってあちこち旅すんなら、ちっとくらい商人の勉強もしといた方が役に立つだろ」
急な申し出に思考が止まってしまったらしい少女は、助けを求めるように青年の方を窺った。
「知っておいて損はないだろう」
彼女の人生に口出しするおこがましさを感じながらも、最低限のアドバイスとして青年は言う。リリエは主人へ向き直ると、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生!」
「ははは……先生は違う気がするが、悪い気はしねえなぁ」
頬を掻きながら主人は、照れ隠しのように少女の頭をポンポンと叩く。それを眺めながら青年は、ふ、と小さく息を洩らした。
「リリエ」
「は、はい!」
もしかして初めて名前を呼ばれたのでは、と思いながら背筋を伸ばす。青年はポケットから一枚の紙を取り出すと、それを彼女に差し出した。
「これを、お前に預けておく」
受け取ったリリエは、その紙に書かれている事――より正確には、書かれている額面に凍りついた。一生見る事もないような数字である。
「ぁ、あ……の、これ……」
「別に、お前にやる訳じゃない」
そう言ってから、アルバスに視線を向ける。
「馬鹿の屋敷がカラになっているだろう。あそこを孤児院にでもすればいい。必要な家具類は揃っているだろうし、余計な物は売り払え。その売り上げと小切手を合わせれば、なかなかの額になる筈だ。それを使って、子供達に生きる術を教えろ。食べ物や衣類を買い与えるだけじゃなく、な。必要な人材は、王都からでも呼び寄せればいい。暇な人間がゴロゴロしてるからな、あそこは」
そして今度は、宿の主人に視線を移す。
「それまでは、お前が責任を持って管理しろ。商人の誇りにかけてな」
「ああ、勿論だ。任せてくれ」
主人は力強く頷いた。
やる事はやった、と青年はアッサリ背を向けた。シファもリリエと最後の別れを交わす。
「それじゃあな、リリエ」
「元気でね、お姉ちゃん」
抱き合い、互いの背中に腕をまわす。
「必ず、また会おう」
「うん。絶対に会いに行くよ」
コツン、と額同士をくっつけながら、約束を交わした。
「気をつけてね、お姉ちゃん」
おなじない、と言って、リリエがシファの額に口づける。
「ありがとう」
お返しに彼女の頬に唇を触れさせ、シファは踵を返した。青年は意外にも、少し先で待っていてくれた。
「おねえちゃん!」
声が届くギリギリのところで、リリエに呼び止められた。
「何だ?」
振り返る。
「早く、お兄さんと結婚できるといいね!!」
響き渡る禁咒。爽やかな朝の空気が凍りついたような気がした。気のせいか、鳥の声がしなくなっている。
背後には確かに青年の気配があるが、怖くて振り返れない。宿の主人やアルバスまでもが青い顔で目を逸らしている事から推して知るべし、といったところなのだろうが、脳が全力で拒否していた。
ずっと無言で歩き続けていた。村の姿は、もう見えない。それでも耳の奥に残った声は消えなかった。
「……泣いてたな」
やっと、といった感じでシファは声を絞り出す。ずっと頑張って笑っていたリリエは、しかし二人の姿が見えなくなるかどうかといったところで限界を迎えた。宿の主人に縋りついて大声で泣く彼女の声は、二人のところまで聞こえて来た。
「泣くほど慕ってもらえた事を誇りに思え」
前を行く青年は、振り返る事もなく応えた。
「なあ……サンドリヨン」
何処か遠慮がちに、けれど何気なさを装って声をかける。
「やっぱり、ちゃんと教えてくれないか。お前の本当の名前」
結局この数日、彼は一度も名乗らなかった。それは、自分には名乗るだけの価値がないからだとシファは考えていた。けれど、今回の件で、自分は少しだけ変われたような気もするのだ。その少しが一体どの程度のものなのか、再び彼に名を訊く事で確かめてみたい。
「宿帳に書いただろう」
「お前、普通にサンドリヨンって書いてたじゃないか」
「書いた名前と普段の呼び名が違ったら、怪しまれるだろう」
「それはそうだが……」
やはり教えてもらえないのか、とシファが拗ねていると、ポツリと青年が呟いた。
「ハインド=ネイアー」
「え……?」
危うく聞き逃しそうになった。ギリギリ耳に届くくらいの声量だった。
「ハインド……」
教えてもらえた。少しは認められたという事だろうか。噛みしめるように小さく口にしてみた。何だか、くすぐったい。
いつの間にか立ち止まってしまっていた彼女に気づき、先に行っていたハインドが振り返った。
「何をしている、シファ。置いて行くぞ」
その瞬間、ピクンとシファの身体が震えた。聞き間違えかと思った。今、彼は何と言っただろう。
『シファ』
名前を呼んでくれた。
『置いて行くぞ』
共に行く事を認めてくれた。
信じられない、とばかりに目を見開くが、実感はジワジワと湧き上がって来る。震える身体を抑えるように抱きしめた。踊り出したい程の喜びというのは、こういう事なのかも知れない。
「ぅ……」
嗚咽のような声が洩れそうになって、慌てて手で口元を押さえる。泣きたいのにニヤけそうになるなど、生まれて初めての経験だった。母から初めて一本を取った時でも、ここまでではなかった。
「……本当に置いて行くぞ」
最後通告と共に、彼は歩き出す。
「あっ――ま、待て、ハインド!」
慌ててシファは、その背を追った。いつか必ず追いついて見せよう、という決意と共に。そして、剣士として彼と肩を並べられた時には、改めて告げるのだ。この胸の想いを。
リザードマンの習性など関係ない。シファ=エリオという一人の、ただの女が、貴方に恋をしたのだと。
空は青く澄み渡り、雲は何処までも無垢な白。
今日も一日、また暑くなりそうだった。
そして翌日。
主人の独断で休業日になってしまった宿の一階では、簡単な宴が開かれていた。テーブルの上には料理が溢れ、主人の秘蔵の葡萄酒とやらが店の奥から樽ごと運ばれて来た。
たまたま宿に泊まっていただけの無関係の人間も、何が何だか解らないまま巻きこまれ、店内は収拾のつかない状態になりつつある。
「ずっと待たされたストレスの反動で、とにかく馬鹿騒ぎをしたくなってるだけだと思うのは俺だけか?」
「いや。私も、そう思う」
主賓の筈なのに壁際の席に避難し、グラスを傾ける青年と料理をパクつくシファが、よく似た表情で溜息をついた。
自棄っぱち気味に盛り上がる店内では、椅子の上に立ったリリエが歌を歌い、大喝采を浴びている。透き通った綺麗な声だった。
「意外な才能だな」
「というか多才だな、あの子は」
シファが食べている料理も、実は主人に教わりながらリリエが作った物なのだ。
結局その後、報告に来た兵士二人まで巻きこまれ、宴は日が暮れるまで続いた。不幸な被害者二人は、後日、始末書の山という魔王以上の強敵に挑む事となったらしいが、それは余談である。
そして、更に翌日。
青年は軍の詰め所で正式な報告と、報酬を受け取る手続きを行っていた。
青年が初めに要求した報酬の額は相場よりも安く、応対した兵を戸惑わせた。
「よろしいのですか? 王都からは、上限こそ定められてはいますが、その中でなら言い値で報酬を支払って構わないと言われておりますが……」
「必要な時に必要な額があればいい、が……」
そこで青年は、何かを思いついたように言葉を止める。
「念のため聞いておこう。上限額は幾らだ」
兵士が告げた額に、ふむ、と考えこみ、
「気が変わった。上限額まで、目いっぱい貰うとしよう」
「は?」
とつぜん掌を返した青年に、兵士の目が点になった。
二日後。
この日、ついに青年が町を出る事になった。
混乱を避けるために、出発は朝の早い時間にした。町の外には青年とシファ。リリエと宿の主人、アルバスは見送りだった。他にも数人、ノスリアの悪事に鉄槌を下した二人組を見ようと、町の人間が出て来ている。
「この度は、ご苦労様でした。道中、お気をつけて」
ふだんは穏やかな喋り方をするらしいアルバスに、青年は頷きを返した。
「旦那。簡単なモンだが弁当を作ったから、持ってってくれや。嬢ちゃんも」
「ありがとう。助かる」
礼を言って、シファは差し出された包みを受け取る。
「お姉ちゃん……」
何処か他人行儀な雰囲気を滲ませた声が聞こえて来た。
「リリエ……すまない。私は、こんな中途半端な……」
言葉が見つからないシファに、リリエは穏やかに頭を振る。
「いいんだよ、お姉ちゃん。あたしも、あたしのせいでお姉ちゃんが酷い目に遭うのとか、嫌だから」
本人は必至で自然に笑っているつもりなのだろう。しかし、その瞳は潤み、声は震えていた。
「だ、大丈夫だよ。きっと、また会えるから。ね? お兄さん!」
「そこで俺に振るか」
空気を読まず、青年は煩わしそうな表情を隠さない。
「あのね。あたし、大きくなったら剣士になる! お兄さんみたいに、困ってる人の力になるの」
「結構な事だが、俺みたいになるのはお勧めしない」
何か思うところがあるのか、含みを持たせた青年の言葉に、リリエは訝しそうに眉根を寄せる。だが、訊いていい事ではないと察し、話を戻した。
「じゃあ、お姉ちゃんみたいになる!」
「それは別の理由で、もっとお勧めしない!」
「どういう意味だ、貴様!!」
それまで微笑ましげに青年と少女の遣り取りを眺めていたシファが、ぐりん、と首を振り向かせた。
「はっはっは! それじゃあ、嬢ちゃん。剣士の修業を始めるまでは、おっちゃんの店で手伝いをしねえか?」
それまで黙って聞いていた宿の主人が、ポン、とリリエの頭に手を乗せる。
「前に手伝ってもらった時、ずいぶん助かったからなぁ。それに、剣士になってあちこち旅すんなら、ちっとくらい商人の勉強もしといた方が役に立つだろ」
急な申し出に思考が止まってしまったらしい少女は、助けを求めるように青年の方を窺った。
「知っておいて損はないだろう」
彼女の人生に口出しするおこがましさを感じながらも、最低限のアドバイスとして青年は言う。リリエは主人へ向き直ると、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生!」
「ははは……先生は違う気がするが、悪い気はしねえなぁ」
頬を掻きながら主人は、照れ隠しのように少女の頭をポンポンと叩く。それを眺めながら青年は、ふ、と小さく息を洩らした。
「リリエ」
「は、はい!」
もしかして初めて名前を呼ばれたのでは、と思いながら背筋を伸ばす。青年はポケットから一枚の紙を取り出すと、それを彼女に差し出した。
「これを、お前に預けておく」
受け取ったリリエは、その紙に書かれている事――より正確には、書かれている額面に凍りついた。一生見る事もないような数字である。
「ぁ、あ……の、これ……」
「別に、お前にやる訳じゃない」
そう言ってから、アルバスに視線を向ける。
「馬鹿の屋敷がカラになっているだろう。あそこを孤児院にでもすればいい。必要な家具類は揃っているだろうし、余計な物は売り払え。その売り上げと小切手を合わせれば、なかなかの額になる筈だ。それを使って、子供達に生きる術を教えろ。食べ物や衣類を買い与えるだけじゃなく、な。必要な人材は、王都からでも呼び寄せればいい。暇な人間がゴロゴロしてるからな、あそこは」
そして今度は、宿の主人に視線を移す。
「それまでは、お前が責任を持って管理しろ。商人の誇りにかけてな」
「ああ、勿論だ。任せてくれ」
主人は力強く頷いた。
やる事はやった、と青年はアッサリ背を向けた。シファもリリエと最後の別れを交わす。
「それじゃあな、リリエ」
「元気でね、お姉ちゃん」
抱き合い、互いの背中に腕をまわす。
「必ず、また会おう」
「うん。絶対に会いに行くよ」
コツン、と額同士をくっつけながら、約束を交わした。
「気をつけてね、お姉ちゃん」
おなじない、と言って、リリエがシファの額に口づける。
「ありがとう」
お返しに彼女の頬に唇を触れさせ、シファは踵を返した。青年は意外にも、少し先で待っていてくれた。
「おねえちゃん!」
声が届くギリギリのところで、リリエに呼び止められた。
「何だ?」
振り返る。
「早く、お兄さんと結婚できるといいね!!」
響き渡る禁咒。爽やかな朝の空気が凍りついたような気がした。気のせいか、鳥の声がしなくなっている。
背後には確かに青年の気配があるが、怖くて振り返れない。宿の主人やアルバスまでもが青い顔で目を逸らしている事から推して知るべし、といったところなのだろうが、脳が全力で拒否していた。
ずっと無言で歩き続けていた。村の姿は、もう見えない。それでも耳の奥に残った声は消えなかった。
「……泣いてたな」
やっと、といった感じでシファは声を絞り出す。ずっと頑張って笑っていたリリエは、しかし二人の姿が見えなくなるかどうかといったところで限界を迎えた。宿の主人に縋りついて大声で泣く彼女の声は、二人のところまで聞こえて来た。
「泣くほど慕ってもらえた事を誇りに思え」
前を行く青年は、振り返る事もなく応えた。
「なあ……サンドリヨン」
何処か遠慮がちに、けれど何気なさを装って声をかける。
「やっぱり、ちゃんと教えてくれないか。お前の本当の名前」
結局この数日、彼は一度も名乗らなかった。それは、自分には名乗るだけの価値がないからだとシファは考えていた。けれど、今回の件で、自分は少しだけ変われたような気もするのだ。その少しが一体どの程度のものなのか、再び彼に名を訊く事で確かめてみたい。
「宿帳に書いただろう」
「お前、普通にサンドリヨンって書いてたじゃないか」
「書いた名前と普段の呼び名が違ったら、怪しまれるだろう」
「それはそうだが……」
やはり教えてもらえないのか、とシファが拗ねていると、ポツリと青年が呟いた。
「ハインド=ネイアー」
「え……?」
危うく聞き逃しそうになった。ギリギリ耳に届くくらいの声量だった。
「ハインド……」
教えてもらえた。少しは認められたという事だろうか。噛みしめるように小さく口にしてみた。何だか、くすぐったい。
いつの間にか立ち止まってしまっていた彼女に気づき、先に行っていたハインドが振り返った。
「何をしている、シファ。置いて行くぞ」
その瞬間、ピクンとシファの身体が震えた。聞き間違えかと思った。今、彼は何と言っただろう。
『シファ』
名前を呼んでくれた。
『置いて行くぞ』
共に行く事を認めてくれた。
信じられない、とばかりに目を見開くが、実感はジワジワと湧き上がって来る。震える身体を抑えるように抱きしめた。踊り出したい程の喜びというのは、こういう事なのかも知れない。
「ぅ……」
嗚咽のような声が洩れそうになって、慌てて手で口元を押さえる。泣きたいのにニヤけそうになるなど、生まれて初めての経験だった。母から初めて一本を取った時でも、ここまでではなかった。
「……本当に置いて行くぞ」
最後通告と共に、彼は歩き出す。
「あっ――ま、待て、ハインド!」
慌ててシファは、その背を追った。いつか必ず追いついて見せよう、という決意と共に。そして、剣士として彼と肩を並べられた時には、改めて告げるのだ。この胸の想いを。
リザードマンの習性など関係ない。シファ=エリオという一人の、ただの女が、貴方に恋をしたのだと。
空は青く澄み渡り、雲は何処までも無垢な白。
今日も一日、また暑くなりそうだった。
10/11/10 18:48更新 / azure
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