5
「遅かったじゃないか」
その呟きが聞こえたのは、青年の傍にいた二人だけだった。男達はノスリアも含め、剣や鎧の鳴る音のせいで聞き逃していたのだ。
青年の呟きも、自分達とは別の鎧の鳴る音も。
「そこまでだ!!」
低く落ち着いた声が夜闇に響く。
「全員武器を捨てて、地面に俯せになれ! こちらは駐留軍指令、アルバス=オローデである」
アルバスと名乗った壮年の騎士が腕を振ると、正規兵の鎧に身を包んだ集団が敷地内に雪崩こんで来た。
「抵抗すれば容赦なく斬り捨てる。神妙に縛につけぃ!」
駐留軍の登場に、ノスリア家の私兵達は戸惑ったような顔を見せる。剣を下ろそうとする彼らの様子に、ノスリアが慌てて叫んだ。
「何をしている、貴様ら! 奴らを殺せ!!」
錯乱気味に唾を飛ばしつつ、アルバスを振り返る。
「駐留軍ごときが我が屋敷に何用か!?」
それに応えて壮年の騎士は口を開いた。
「ノスリア卿。卿を誘拐、および監禁の容疑で拘束させていただきます」
「拘束だと? たかが田舎町の駐留軍指令が、何の権限があって私を拘束すると言うのか!」
完全に相手を見下した態度の彼に、アルバスは一枚の書状を取り出して見せた。薄暗いせいで文面までは確認できないが、その書状に描かれた紋章は――
「国王陛下よりノスリア卿の拘束命令、および、その私兵全員に関する生殺与奪の権限を与えられております」
「な……何だと!?」
想像もしていなかった答えに、ノスリアは絶句する。背後から、幾つか呻き声が聞こえて来た。
「お前は、やり過ぎたのさ」
思いのほか近いところから、青年の声。慌てて振り返れば、いつの間にか彼と二人の少女が近づいて来ていた。
「お前が反魔物側と通じている事に気づかない程、この国や町の連中も馬鹿じゃない。とはいえ大っぴらに動けば、反魔物側へ逃亡される恐れもあった」
この街は、かろうじて親魔物側にあるが、勢力図で考えれば殆ど両者の境界線上なのだ。そして、戦略的に重要な場所という訳でもない。
反魔物側から逃げて来るには格好の立地なのだ。
「お前は、そんな連中を捕まえて反魔物側に送り返す事で報酬を得ていた。しかも、それだけでは飽き足らず、孤児を攫って奴隷として売り払っていた」
「何故……それを」
自分と反魔物側の人間を除けば、私兵達すら知らない筈の事実を暴露され、ノスリアは狼狽える。逆に私兵達は戸惑うように、青年と自らの主へ交互に視線を向けていた。
「ま、待て、サンドリヨン! じゃあ、お前は初めから、王都の騎士団から受けた依頼に基づいて動いていたのか!?」
「ああ」
この国の貴族が反魔物側に加担していた事実が露見すれば、同じ親魔物国家である周辺国との関係にも問題が生じてしまう。だから極秘に問題を処理すべく、王都の人員ではなくフリーの傭兵である青年に書状を持たせ、駐留軍と共同でノスリア卿の捕縛を依頼したのだ。余談ではあるが、最悪の場合は殺害も辞さない、とも書かれている。
「多少、予定は変わったけどな」
多少、という部分から妙な迫力を感じ取り、シファは気まずげに視線を逸らした。その言葉にだけは反論できない。
「しっかし、まあ……俺は挟撃のつもりだったのに、完全包囲とは恐れ入った」
「いやいや、お主が粘ってくれたおかげだ」
裏口を破ったらしく、屋敷の裏手からも現れる正規兵達に視線を遣り、青年がアルバスに笑って見せると、アルバスの方も不敵な笑みを返して来た。
「しかし、お主は一匹狼だと聞いていたが、いつの間に相棒が出来たのだ?」
背後にいるシファへ視線を向けながら訊く。
「ただの荷物だ」
「な、何だと!?」
うんざりしたような声音に、リザードマンの少女がいきり立つ。彼女が青年に詰め寄った事で、リリエとの距離が開いた。それを千載一遇の好機と見たのだろう。
「どっ、どけぇ!!」
ノスリアが周囲の兵を突き飛ばし、リリエの首筋に短剣の刃を当てる。
「貴様っ――」
すぐに気づいたシファは剣を抜くが、
「来るんじゃねえ!!」
血走った目が彼女に向けられた。
「お前も! お前も! お前もだぁ!! 来るんじゃねえぞ……道開けろぉ!」
正規兵も私兵も構わず威嚇し、後退る。
「何と卑劣な。ノスリア! 貴様それでも貴族の端くれか!!」
「煩え!!」
義憤にかられるアルバスに、彼は狂気すら感じさせる表情で怒鳴り返した。そのまま剣を振りまわし、周囲の人間を退かせる。
「裏口も固められている状態で、何処へ逃げるつもりだ?」
「黙れ! 喋るな!!」
口角泡を飛ばす相手に、素朴な疑問を投げかけた青年は、つまらなそうに肩を竦めた。
「おい、サンドリヨン」
「何だ? あれは、お前の拾いものだろう」
「解っている。誰も手を出すな、と言いたいんだ」
いやに静かな声でシファが言う。そのままゆっくりと、剣を構える事もなく右手にぶら下げたまま、歩き出した。
「周りの者達もだ。絶対に手を出すな。あれは――私の獲物だ!」
静かな怒りを全身に満たし歩む彼女の行く手を、周りの者達は自然に空けた。視認できそうな程の殺意が、逆らう事を許さなかったのだ。
「待っていろ、リリエ。必ず助けてやるからな」
二度も同じ失敗を繰り返してたまるか、と彼女の表情は語っていた。そして何より、もう二度とリリエに、弱点である事の罪悪感を刻みこむような真似はしない。そう硬く誓っていた。
ゆらり、と剣を構える。ビクッと肩を震わせたノスリアは、思わず剣をシファに向けた。
「く、来るな。このガキ殺すぞ!!」
「貴様は黙って死んでいろ」
脅し文句に揺らぐ事はない。リリエが傷つけられる不安がない訳ではなかったが、他ならぬ彼女が向けて来る視線に籠められた信頼が、それを消していた。
ならば、その信頼。応えて見せよう。
「参る!」
シファが地面を蹴ると同時に、自分から注意が逸れている事を察したリリエが、自分を拘束する手に噛みつく。たまらず手を離した青年の隙を見逃さず、彼女は安全圏まで逃げた。
「はああっ!」
シファの初太刀を、ノスリアはかろうじて短剣で受け流す。だが、それだけで彼の右手はビリビリと痺れた。恥も外聞もなく、そのまま背を向けて逃げ出す。
「逃がすか!」
ノスリアは自分の私兵達の方へ向かって行くが、今や誰も彼を助けようとはしない。金で雇われていただけの彼らに、主人への忠義などないのだ。ましてや、このまま共犯として捕まるくらいなら、何も知らないまま騙されていた人間として捕まって、刑期を終えた後やり直す方が余程マシだ。
ノスリアは時折振り返っては無闇に剣をふりまわすが、間合いが開きすぎて全く届いていなかった。貧弱な貴族とは比べるべくもない脚力で追いついたシファは、これ以上の逃走を防ぐ意味もあり、相手の足を狙って剣を振るう。が――
「このっ」
気づいたノスリアが、近くにいた、かつての部下の身体をシファに向かって突き飛ばす。
「チッ」
舌打ちと共に、力ずくで無理やり剣の軌道を逸らした。何とか突き飛ばされた男を斬らずに済んだが、体勢が崩れる。
「はっ! 敵を庇って死ぬかよ、馬鹿が!」
勝ちを確信し、ノスリアは素早くシファの背後を取った。
(くっ――)
相手は軽量で小まわりの利く短剣。こちらは両手用長剣。今からでは、どんな攻撃も後手にまわる。
殺られる、と思った直後、閃いた。シファは剣を地面に突き立て、それを強く押す反動で鋭い鉤爪のある足を後方へ突き出した。全く想定していなかった攻撃に、ノスリアは驚愕に目を見開く。直撃を避けるために上体を捻り、急停止。胸元の布地が裂けるに留まった。
止まれたという事は、それなりに鍛えていたのかも知れないが、それは同時に、完全に無防備な状態を敵に晒すという事である。それを見逃すシファではない。
身を沈め、硬く握った左拳を腰だめに構え、閃光のような速さでノスリアの懐へ入りこむ。
「ぉおおおおお!!」
突進の勢いを上乗せし、渾身の力で相手の腹部に拳を叩きこんだ。それは奇しくも、初めて青年と戦った際に、勝手に勝ちを確信した彼女が受けた攻撃とよく似ていた。
当時の彼女と違い鎧を纏っていないノスリアは、打ちこまれた衝撃にマトモに貫かれ、為す術もなく吹っ飛んだ。背中から叩きつけられ、激しく咳きこむ。利き腕ではない左では、意識を刈り取る程のダメージは与えられなかったらしい。
シファは地面から剣を抜き放ち、ノスリアに歩み寄る。その胸を足で踏みつけ、逆手に握った剣を振り上げた。
「ひ、あ……た、たす……」
もはや喋る事もままならず、無様に涙と鼻水を垂れ流す豚に、シファは掲げた剣を突き下ろした。
砂、土、石、そして剣が擦れるような音が辺りに響く。剣は地面に突き刺さっていた。ノスリアは傷つけず、しかし、その頸動脈ギリギリの位置に。
声も出せず震えるばかりのノスリアの瞳を、酷薄な光を宿すシファの視線が射抜いた。
「殺してやりたいのは山々だがな……私も私の剣も、貴様のような奴のふざけた血で汚されてやるほど安くはないんだ」
剣を引き抜き足をどける。軽く振るって刀身から土を落とし、鞘に納めた。
「確保!」
アルバスの号令で、正規兵達がノスリアに縄をかける。もはや抵抗の気力はないようだった。
その様子を眺めながらシファは、ふと気づいた。場違いだとは思うが、剣士というものがどういうものなのか、少し解った気がする。
剣士とは、数多ある戦い方の中から、己の意思で最も合うものとして剣を手にした者の名であって、決して、剣しか扱う事の出来ない無能が名乗っていい名ではないのだ。
『驕る事なく大いに悩み、沢山まわり道をしなさいね』
小さな頃から母に言い聞かされて来た言葉を思い出す。
(こういう事だったのですね、母様)
自分は、まだまだ未熟だ。悟ったような穏やかな表情で、シファは顔を上げる。そんな彼女の様子に青年は僅かに唇の端を上げたが、誰もそれに気づく事はなかった。おそらく、青年自身ですらも。
「お姉ちゃん!」
嬉しそうな声で、リリエが駆け寄って行く。飛びついて来る彼女を、シファは優しく抱きとめた。
その呟きが聞こえたのは、青年の傍にいた二人だけだった。男達はノスリアも含め、剣や鎧の鳴る音のせいで聞き逃していたのだ。
青年の呟きも、自分達とは別の鎧の鳴る音も。
「そこまでだ!!」
低く落ち着いた声が夜闇に響く。
「全員武器を捨てて、地面に俯せになれ! こちらは駐留軍指令、アルバス=オローデである」
アルバスと名乗った壮年の騎士が腕を振ると、正規兵の鎧に身を包んだ集団が敷地内に雪崩こんで来た。
「抵抗すれば容赦なく斬り捨てる。神妙に縛につけぃ!」
駐留軍の登場に、ノスリア家の私兵達は戸惑ったような顔を見せる。剣を下ろそうとする彼らの様子に、ノスリアが慌てて叫んだ。
「何をしている、貴様ら! 奴らを殺せ!!」
錯乱気味に唾を飛ばしつつ、アルバスを振り返る。
「駐留軍ごときが我が屋敷に何用か!?」
それに応えて壮年の騎士は口を開いた。
「ノスリア卿。卿を誘拐、および監禁の容疑で拘束させていただきます」
「拘束だと? たかが田舎町の駐留軍指令が、何の権限があって私を拘束すると言うのか!」
完全に相手を見下した態度の彼に、アルバスは一枚の書状を取り出して見せた。薄暗いせいで文面までは確認できないが、その書状に描かれた紋章は――
「国王陛下よりノスリア卿の拘束命令、および、その私兵全員に関する生殺与奪の権限を与えられております」
「な……何だと!?」
想像もしていなかった答えに、ノスリアは絶句する。背後から、幾つか呻き声が聞こえて来た。
「お前は、やり過ぎたのさ」
思いのほか近いところから、青年の声。慌てて振り返れば、いつの間にか彼と二人の少女が近づいて来ていた。
「お前が反魔物側と通じている事に気づかない程、この国や町の連中も馬鹿じゃない。とはいえ大っぴらに動けば、反魔物側へ逃亡される恐れもあった」
この街は、かろうじて親魔物側にあるが、勢力図で考えれば殆ど両者の境界線上なのだ。そして、戦略的に重要な場所という訳でもない。
反魔物側から逃げて来るには格好の立地なのだ。
「お前は、そんな連中を捕まえて反魔物側に送り返す事で報酬を得ていた。しかも、それだけでは飽き足らず、孤児を攫って奴隷として売り払っていた」
「何故……それを」
自分と反魔物側の人間を除けば、私兵達すら知らない筈の事実を暴露され、ノスリアは狼狽える。逆に私兵達は戸惑うように、青年と自らの主へ交互に視線を向けていた。
「ま、待て、サンドリヨン! じゃあ、お前は初めから、王都の騎士団から受けた依頼に基づいて動いていたのか!?」
「ああ」
この国の貴族が反魔物側に加担していた事実が露見すれば、同じ親魔物国家である周辺国との関係にも問題が生じてしまう。だから極秘に問題を処理すべく、王都の人員ではなくフリーの傭兵である青年に書状を持たせ、駐留軍と共同でノスリア卿の捕縛を依頼したのだ。余談ではあるが、最悪の場合は殺害も辞さない、とも書かれている。
「多少、予定は変わったけどな」
多少、という部分から妙な迫力を感じ取り、シファは気まずげに視線を逸らした。その言葉にだけは反論できない。
「しっかし、まあ……俺は挟撃のつもりだったのに、完全包囲とは恐れ入った」
「いやいや、お主が粘ってくれたおかげだ」
裏口を破ったらしく、屋敷の裏手からも現れる正規兵達に視線を遣り、青年がアルバスに笑って見せると、アルバスの方も不敵な笑みを返して来た。
「しかし、お主は一匹狼だと聞いていたが、いつの間に相棒が出来たのだ?」
背後にいるシファへ視線を向けながら訊く。
「ただの荷物だ」
「な、何だと!?」
うんざりしたような声音に、リザードマンの少女がいきり立つ。彼女が青年に詰め寄った事で、リリエとの距離が開いた。それを千載一遇の好機と見たのだろう。
「どっ、どけぇ!!」
ノスリアが周囲の兵を突き飛ばし、リリエの首筋に短剣の刃を当てる。
「貴様っ――」
すぐに気づいたシファは剣を抜くが、
「来るんじゃねえ!!」
血走った目が彼女に向けられた。
「お前も! お前も! お前もだぁ!! 来るんじゃねえぞ……道開けろぉ!」
正規兵も私兵も構わず威嚇し、後退る。
「何と卑劣な。ノスリア! 貴様それでも貴族の端くれか!!」
「煩え!!」
義憤にかられるアルバスに、彼は狂気すら感じさせる表情で怒鳴り返した。そのまま剣を振りまわし、周囲の人間を退かせる。
「裏口も固められている状態で、何処へ逃げるつもりだ?」
「黙れ! 喋るな!!」
口角泡を飛ばす相手に、素朴な疑問を投げかけた青年は、つまらなそうに肩を竦めた。
「おい、サンドリヨン」
「何だ? あれは、お前の拾いものだろう」
「解っている。誰も手を出すな、と言いたいんだ」
いやに静かな声でシファが言う。そのままゆっくりと、剣を構える事もなく右手にぶら下げたまま、歩き出した。
「周りの者達もだ。絶対に手を出すな。あれは――私の獲物だ!」
静かな怒りを全身に満たし歩む彼女の行く手を、周りの者達は自然に空けた。視認できそうな程の殺意が、逆らう事を許さなかったのだ。
「待っていろ、リリエ。必ず助けてやるからな」
二度も同じ失敗を繰り返してたまるか、と彼女の表情は語っていた。そして何より、もう二度とリリエに、弱点である事の罪悪感を刻みこむような真似はしない。そう硬く誓っていた。
ゆらり、と剣を構える。ビクッと肩を震わせたノスリアは、思わず剣をシファに向けた。
「く、来るな。このガキ殺すぞ!!」
「貴様は黙って死んでいろ」
脅し文句に揺らぐ事はない。リリエが傷つけられる不安がない訳ではなかったが、他ならぬ彼女が向けて来る視線に籠められた信頼が、それを消していた。
ならば、その信頼。応えて見せよう。
「参る!」
シファが地面を蹴ると同時に、自分から注意が逸れている事を察したリリエが、自分を拘束する手に噛みつく。たまらず手を離した青年の隙を見逃さず、彼女は安全圏まで逃げた。
「はああっ!」
シファの初太刀を、ノスリアはかろうじて短剣で受け流す。だが、それだけで彼の右手はビリビリと痺れた。恥も外聞もなく、そのまま背を向けて逃げ出す。
「逃がすか!」
ノスリアは自分の私兵達の方へ向かって行くが、今や誰も彼を助けようとはしない。金で雇われていただけの彼らに、主人への忠義などないのだ。ましてや、このまま共犯として捕まるくらいなら、何も知らないまま騙されていた人間として捕まって、刑期を終えた後やり直す方が余程マシだ。
ノスリアは時折振り返っては無闇に剣をふりまわすが、間合いが開きすぎて全く届いていなかった。貧弱な貴族とは比べるべくもない脚力で追いついたシファは、これ以上の逃走を防ぐ意味もあり、相手の足を狙って剣を振るう。が――
「このっ」
気づいたノスリアが、近くにいた、かつての部下の身体をシファに向かって突き飛ばす。
「チッ」
舌打ちと共に、力ずくで無理やり剣の軌道を逸らした。何とか突き飛ばされた男を斬らずに済んだが、体勢が崩れる。
「はっ! 敵を庇って死ぬかよ、馬鹿が!」
勝ちを確信し、ノスリアは素早くシファの背後を取った。
(くっ――)
相手は軽量で小まわりの利く短剣。こちらは両手用長剣。今からでは、どんな攻撃も後手にまわる。
殺られる、と思った直後、閃いた。シファは剣を地面に突き立て、それを強く押す反動で鋭い鉤爪のある足を後方へ突き出した。全く想定していなかった攻撃に、ノスリアは驚愕に目を見開く。直撃を避けるために上体を捻り、急停止。胸元の布地が裂けるに留まった。
止まれたという事は、それなりに鍛えていたのかも知れないが、それは同時に、完全に無防備な状態を敵に晒すという事である。それを見逃すシファではない。
身を沈め、硬く握った左拳を腰だめに構え、閃光のような速さでノスリアの懐へ入りこむ。
「ぉおおおおお!!」
突進の勢いを上乗せし、渾身の力で相手の腹部に拳を叩きこんだ。それは奇しくも、初めて青年と戦った際に、勝手に勝ちを確信した彼女が受けた攻撃とよく似ていた。
当時の彼女と違い鎧を纏っていないノスリアは、打ちこまれた衝撃にマトモに貫かれ、為す術もなく吹っ飛んだ。背中から叩きつけられ、激しく咳きこむ。利き腕ではない左では、意識を刈り取る程のダメージは与えられなかったらしい。
シファは地面から剣を抜き放ち、ノスリアに歩み寄る。その胸を足で踏みつけ、逆手に握った剣を振り上げた。
「ひ、あ……た、たす……」
もはや喋る事もままならず、無様に涙と鼻水を垂れ流す豚に、シファは掲げた剣を突き下ろした。
砂、土、石、そして剣が擦れるような音が辺りに響く。剣は地面に突き刺さっていた。ノスリアは傷つけず、しかし、その頸動脈ギリギリの位置に。
声も出せず震えるばかりのノスリアの瞳を、酷薄な光を宿すシファの視線が射抜いた。
「殺してやりたいのは山々だがな……私も私の剣も、貴様のような奴のふざけた血で汚されてやるほど安くはないんだ」
剣を引き抜き足をどける。軽く振るって刀身から土を落とし、鞘に納めた。
「確保!」
アルバスの号令で、正規兵達がノスリアに縄をかける。もはや抵抗の気力はないようだった。
その様子を眺めながらシファは、ふと気づいた。場違いだとは思うが、剣士というものがどういうものなのか、少し解った気がする。
剣士とは、数多ある戦い方の中から、己の意思で最も合うものとして剣を手にした者の名であって、決して、剣しか扱う事の出来ない無能が名乗っていい名ではないのだ。
『驕る事なく大いに悩み、沢山まわり道をしなさいね』
小さな頃から母に言い聞かされて来た言葉を思い出す。
(こういう事だったのですね、母様)
自分は、まだまだ未熟だ。悟ったような穏やかな表情で、シファは顔を上げる。そんな彼女の様子に青年は僅かに唇の端を上げたが、誰もそれに気づく事はなかった。おそらく、青年自身ですらも。
「お姉ちゃん!」
嬉しそうな声で、リリエが駆け寄って行く。飛びついて来る彼女を、シファは優しく抱きとめた。
11/01/04 17:50更新 / azure
戻る
次へ