3
少し立てつけの悪くなった木製のドアが、キイ、と軋んだ。カウンターの奥で新聞を読んでいた中年の男性は、その音でいつも来客を知る。一種のドアベル代わりだった。
「いらっしゃい、旦那。ご宿泊で? 酒と食事は陽が落ちてからなんで、もしそうなら何処かで時間潰して来てくんな」
来客に対する決まり文句を口にしながら、宿の主人は新聞を畳み、顔を上げる。
「宿泊だ」
青年は答え、カウンターに歩み寄った。
「左様で」
主人はそう言って宿帳を取り出し、そこで気づく。
「あのー、旦那。あちらのお嬢さん方は、旦那のお連れで?」
「不本意ながらな」
入口付近に立つ二人の少女を見やる主人に答える青年は、口調こそ平坦だが、その声音には異様な迫力を感じた。
正直な話、青年も何故こんな状況になっているのか、よく解っていなかった。どういう流れで二人の宿泊費を自分が持つ事になったのか、全く憶えていないのだ。おそらく心を守るために、脳が理解する事を拒んでいるのだろう。
「それじゃ、お部屋は三部屋で?」
「ああ、いや……二部屋でいい。私達は一緒に寝るから、枕だけ一つ貸してくれ」
いちおう申し訳なく思っているのか、慌ててシファが訂正した。
それぞれに宿帳にサインをし、鍵をもらって階段を上がる。青年はまだ聞いていなかったので、シファが拾った少女の名はサインを見て初めて知った。リリエ、というらしい。
用事がある、と言って荷物だけ置いて出て行った青年を見送り、シファはリリエを促し部屋に入った。室内は特に広い訳ではなかったが、身体の小さなリリエとなら二人でも問題ないだろう。意外、というのも失礼だが、しっかりと掃除された部屋は好感が持てた。
剣帯から剣を鞘ごと抜き、壁に立てかける。外した剣帯は、備えつけのテーブルの上に置いた。それから振り返り、所在なさげに立っているリリエを手招き、椅子に腰かけさせた。
「さて……まずは怪我の手当てか」
椅子の後ろ緒からリリエの肩に手を置いていたシファは、薄汚れた少女の様子に何かを思いついたような表情を見せる。
「ちょっと待っていろ」
ポンポン、と優しく頭を叩き、部屋を出て行った。
しばらくして戻って来たシファは、両手で大きめの洗面器を抱えていた。それをテーブルの空いたスペースに置き、リリエを振り返る。
「手当てをするにしても、まずは汚れを落とさないとな」
宿の主人に頼んで沸かしてもらったらしい湯にタオルを浸し、脱げ、と言う。リリエは絶句して、シファの顔を見返した。悪意ゼロ。何てタチの悪い。
「……やだ。恥ずかしい」
「またか。照れ屋だな、リリエは」
微笑ましいものでも見るように言う。
「女同士なんだから、恥ずかしがる事はないだろう」
同性でも恥ずかしい事はある、という事には思い至らないアホの子だった。
「しょうがない奴だな」
シファは自分の荷物から、綺麗に洗濯された大きめのタオルを取り出す。
「これで前を隠していろ」
殆ど押しつけるようにして、少女の服に手をかけた。
「ぁ……ゃ――」
僅かに抵抗するリリエを一顧だにせず、あちこちが破けた服を剥ぎ取る。真っ赤になっている少女には気づかぬまま、やや熱めの湯で絞ったタオルを広げた。
「まずは背中からだな」
驚かせないように断ってから、優しく擦ってやる。
「痛くないか?」
「んぅ……平気」
次は彼女の手を取り、肩から腕へとゆっくりと汚れを拭った。それから首、胸元へと手を動かすと、慌ててリリエがその手を押さえた。
「まっ、前は自分でやるから……」
「そうか。じゃあ、足だな」
相手の前にまわりこんで跪き、足首の辺りを取って熱いタオルを滑らせる。何故か内腿の辺りを擦っているとソワソワし始めるリリエに小首を傾げながら、タオルを絞りなおした。
「それじゃあ、前は自分でやれ。終わったら髪を洗うからな」
タオルを渡すと、リリエはシファの方をチラチラと窺いながら、自分の身体を隠すようにして、前を拭く。
「終わったか? じゃあ、その大きなタオルを身体に巻いて、床に寝そべれ」
「え? でもタオル……」
汚れてしまう事を気にしているらしい少女に、安心させるような笑みを向けて見せた。
「洗えばいいし、この部屋はよく掃除されているから大丈夫だ」
遠慮がちに横になったリリエとは垂直になるように足を伸ばして座り、彼女の頭を持ち上げると、シファはそれを自分の太腿に乗せる。太腿の間に洗面器を置いて、手で掬ったお湯を少女の髪に浸みこませていった。
髪を傷めないように優しく撫で、指の腹で地肌をマッサージ。髪の間に入りこんだ砂を、少しずつ揉み出した。
「よし。まあ、こんなもんだろう」
硬く絞ってあった小さいタオルでリリエの髪を拭き、身体を起こしてやる。
「……気持ちよかった」
「そうか」
控えめに感想を言う少女に、シファは嬉しそうに微笑んだ。
再びリリエを椅子に座らせ髪の水気を取り、取り出した櫛で髪を梳いてやる。少女は撫でられる子猫のように目を細めており、その微笑ましい様子に、自然と頬が弛んだ。
髪が早く乾くように日なたに椅子を移動させてから、シファは荷物を漁る。目的の物を見つけてから口を開いた。
「なあ、リリエ。お前の服だが、私のお下がりでよければ着るか?」
「……いいの?」
「ああ。もう小さくて着れなくなってしまった奴だからな。まあ、それでも、お前には大きいかも知れないが」
「ううん、ありがとう」
そんな事は大した問題ではないとばかりに、少女は勢いよく首を振る。実際、彼女の境遇では新しい服――をタダでくれる――という時点で、文句などあろう筈もない。サイズが合わないなど、ワガママにも程があった。
リリエをベッドサイドに呼び寄せ、取り出したシャツを着せてみる。
「このままでも、ウェストを絞ればワンピースになりそうだな」
「え……でも、短いよ……」
「動きやすいじゃないか」
「でも……あたし今、穿いてないし……」
短い裾を気にして赤くなる少女に、流石のシファも気まずそうに頬を掻いた。彼女の下着は洗って干しているところで、流石に下着までお下がりという訳にはいかないらしかった。双方ともに。
(後でサンドリヨンに頼んでみるか)
そのデリカシーの足りない行動の結果、金だけ渡され「勝手に買いに行け」と怒られる事になるのだが、それはともかく。
針と糸と鋏を取り出したシファは一旦リリエの服を脱がせ、器用に彼女の身体に合わせてリメイクを始める。余計な生地を切り落として丈を合わせ、ウェストを絞る。ズボンの方も一度穿いてもらい、裾上げをした。
「……凄いね、お姉ちゃん。上手」
「ん? そうか? 実は結構、手先は器用なんだ」
褒められて気をよくしながら、出来あがった服をリリエに渡す。
「ズボンはベルトを締めれば大丈夫だろう」
「ありがとう、お姉ちゃん」
少女は嬉しそうに、しかしカーテンの裏に隠れて着替えを始めた。
深夜。月は明るく、辺りに音はない。町全体が寝静まっている中で、息を殺して動く者達がいた。
目的地の裏口を叩き、常識知らずな来客に苛立ちを隠さず現れた人物にナイフを突きつける。ひっ、と身体を強張らせる相手に先導をさせ、階段を上った。
目の前には何の変哲もない木製のドア。奪い取った鍵を差しこみ、音を立てないよう慎重にまわす。カチリという音は小さく、家鳴りと大差なかった筈だ。
周囲を見まわし、仲間達と視線を合わせる。行くぞ、と囁くように告げた。
そして――
けたたましいノックの音がした。ノックなのかドアをぶち破ろうとしているのか、判別しがたいような音だ。煩わしそうな表情で青年は、ゆっくりとドアを開ける。
「たた、大変だ、旦那ぁ! 旦那の連れの嬢ちゃん達が連れて行かれちまった!」
「ああ」
「済まねえ、旦那。俺ぁナイフ突きつけられて脅されて……ついビビッちまって……」
「気にするな。それが正常な反応だ」
動転する宿の主人とは対照的に、青年は落ち着いて話す。
「連れて行ったのが誰か判るか?」
「チンピラみてえな服装で顔も隠してたが、ありゃあ間違いねえ。ノスリアの私兵だ」
「ノスリア?」
「この町で幅きかせてる貴族だ。いけ好かねえ野郎でな……嬢ちゃん達を連れてった奴らも、権力を笠に着て偉ぶってる奴に特有の雰囲気があったぜ」
昼間のヒステリー男を思い出しながら、ふむ、と青年は頷いた。
「証言できるか?」
「へ?」
急な言葉の意味を把握できず、主人は呆けたような声を洩らす。
「兵の取り調べに対し、同じように証言できるか?」
もし違っていた場合、お前の立場は著しく悪くなる。宿の評判も落ちるだろうし、何より、貴族にあらぬ疑いをかけたのだから、その場で死罪となっても文句は言えない。それでも同じように証言できるのか。それだけの覚悟はあるのか。
青年は、そう問うていた。
暫く自分に問いかけるように俯いていた主人は、やがて決然と顔を上げる。その目に宿る強い感情は、誇り、だろうか。
「俺ぁ小心者で、すぐブルっちまう駄目な男だが、それでも客に対しては誠実でいたいと思ってる……。このまま嬢ちゃん達に詫び一つ入れねえなんて、自分を許せねえ。ケジメつけさせてくれ、旦那」
「……そうか」
それだけ言うと青年はベッドサイドへ歩いて行き、サイドテーブルの上にあるメモ帳にサラサラとペンを走らせた。その紙を二つ折りにし、主人に差し出す。
「これを持って軍の詰め所へ行け」
「え…? いや、でも――」
こんな時間に一般人が、それも貴族を告発したところで正規兵が動く訳がない。表情で語る主人に、青年はもう一度頷いて見せた。
「大丈夫だ。必ず動く」
「……解った。旦那はどうするんで?」
「一足先に行っている」
そう言って青年は主人の横をすり抜けて行った。
宿を飛び出した主人は、懸命に走っていた。周囲に人通りはなく、聞こえるのは自分の呼吸と地面を蹴る音だけだ。
月が明るいのは幸いだった。ランプなどの明かりの類を持たなくて済むのは、かなりありがたい。今は足を動かす以外の事に気を割く余裕はないのだから。
宿から詰め所までは、それほど離れてはいない。青年の言葉を信じるなら、すぐに出動し、彼と合流するだろう。
と。
宿が見えなくなるかどうかといったところで、不意に主人の足が止まった。後方を振り返る。ふと疑問を感じたのだ。
あの青年は何故、ああも落ち着いていたのだろう。二人の少女が攫われた、と伝えた時の反応を思い出す。承知している、とでもいうような反応を。
まさか、と思う。彼がグルである可能性に気づいたのだ。すぐ隣の部屋で人が攫われたのに、気づかないなどという事は、ありえない。しかも彼は、ノスリア家の屋敷が何処にあるのか訊かなかったのだ。
(……そんな訳ねえ!)
頭を振って、嫌な考えを追い払う。グルなら、そもそも兵の詰め所へ行けなどと言う訳がない。余計な事を考えている暇などないのだ。
いま自分がやるべき事、やれる事、それは一つなのだから。
主人は再び走り始めた。運動不足ぎみの身体で懸命に。途中で脱げた靴の片方を振り返る事もなく。
「いらっしゃい、旦那。ご宿泊で? 酒と食事は陽が落ちてからなんで、もしそうなら何処かで時間潰して来てくんな」
来客に対する決まり文句を口にしながら、宿の主人は新聞を畳み、顔を上げる。
「宿泊だ」
青年は答え、カウンターに歩み寄った。
「左様で」
主人はそう言って宿帳を取り出し、そこで気づく。
「あのー、旦那。あちらのお嬢さん方は、旦那のお連れで?」
「不本意ながらな」
入口付近に立つ二人の少女を見やる主人に答える青年は、口調こそ平坦だが、その声音には異様な迫力を感じた。
正直な話、青年も何故こんな状況になっているのか、よく解っていなかった。どういう流れで二人の宿泊費を自分が持つ事になったのか、全く憶えていないのだ。おそらく心を守るために、脳が理解する事を拒んでいるのだろう。
「それじゃ、お部屋は三部屋で?」
「ああ、いや……二部屋でいい。私達は一緒に寝るから、枕だけ一つ貸してくれ」
いちおう申し訳なく思っているのか、慌ててシファが訂正した。
それぞれに宿帳にサインをし、鍵をもらって階段を上がる。青年はまだ聞いていなかったので、シファが拾った少女の名はサインを見て初めて知った。リリエ、というらしい。
用事がある、と言って荷物だけ置いて出て行った青年を見送り、シファはリリエを促し部屋に入った。室内は特に広い訳ではなかったが、身体の小さなリリエとなら二人でも問題ないだろう。意外、というのも失礼だが、しっかりと掃除された部屋は好感が持てた。
剣帯から剣を鞘ごと抜き、壁に立てかける。外した剣帯は、備えつけのテーブルの上に置いた。それから振り返り、所在なさげに立っているリリエを手招き、椅子に腰かけさせた。
「さて……まずは怪我の手当てか」
椅子の後ろ緒からリリエの肩に手を置いていたシファは、薄汚れた少女の様子に何かを思いついたような表情を見せる。
「ちょっと待っていろ」
ポンポン、と優しく頭を叩き、部屋を出て行った。
しばらくして戻って来たシファは、両手で大きめの洗面器を抱えていた。それをテーブルの空いたスペースに置き、リリエを振り返る。
「手当てをするにしても、まずは汚れを落とさないとな」
宿の主人に頼んで沸かしてもらったらしい湯にタオルを浸し、脱げ、と言う。リリエは絶句して、シファの顔を見返した。悪意ゼロ。何てタチの悪い。
「……やだ。恥ずかしい」
「またか。照れ屋だな、リリエは」
微笑ましいものでも見るように言う。
「女同士なんだから、恥ずかしがる事はないだろう」
同性でも恥ずかしい事はある、という事には思い至らないアホの子だった。
「しょうがない奴だな」
シファは自分の荷物から、綺麗に洗濯された大きめのタオルを取り出す。
「これで前を隠していろ」
殆ど押しつけるようにして、少女の服に手をかけた。
「ぁ……ゃ――」
僅かに抵抗するリリエを一顧だにせず、あちこちが破けた服を剥ぎ取る。真っ赤になっている少女には気づかぬまま、やや熱めの湯で絞ったタオルを広げた。
「まずは背中からだな」
驚かせないように断ってから、優しく擦ってやる。
「痛くないか?」
「んぅ……平気」
次は彼女の手を取り、肩から腕へとゆっくりと汚れを拭った。それから首、胸元へと手を動かすと、慌ててリリエがその手を押さえた。
「まっ、前は自分でやるから……」
「そうか。じゃあ、足だな」
相手の前にまわりこんで跪き、足首の辺りを取って熱いタオルを滑らせる。何故か内腿の辺りを擦っているとソワソワし始めるリリエに小首を傾げながら、タオルを絞りなおした。
「それじゃあ、前は自分でやれ。終わったら髪を洗うからな」
タオルを渡すと、リリエはシファの方をチラチラと窺いながら、自分の身体を隠すようにして、前を拭く。
「終わったか? じゃあ、その大きなタオルを身体に巻いて、床に寝そべれ」
「え? でもタオル……」
汚れてしまう事を気にしているらしい少女に、安心させるような笑みを向けて見せた。
「洗えばいいし、この部屋はよく掃除されているから大丈夫だ」
遠慮がちに横になったリリエとは垂直になるように足を伸ばして座り、彼女の頭を持ち上げると、シファはそれを自分の太腿に乗せる。太腿の間に洗面器を置いて、手で掬ったお湯を少女の髪に浸みこませていった。
髪を傷めないように優しく撫で、指の腹で地肌をマッサージ。髪の間に入りこんだ砂を、少しずつ揉み出した。
「よし。まあ、こんなもんだろう」
硬く絞ってあった小さいタオルでリリエの髪を拭き、身体を起こしてやる。
「……気持ちよかった」
「そうか」
控えめに感想を言う少女に、シファは嬉しそうに微笑んだ。
再びリリエを椅子に座らせ髪の水気を取り、取り出した櫛で髪を梳いてやる。少女は撫でられる子猫のように目を細めており、その微笑ましい様子に、自然と頬が弛んだ。
髪が早く乾くように日なたに椅子を移動させてから、シファは荷物を漁る。目的の物を見つけてから口を開いた。
「なあ、リリエ。お前の服だが、私のお下がりでよければ着るか?」
「……いいの?」
「ああ。もう小さくて着れなくなってしまった奴だからな。まあ、それでも、お前には大きいかも知れないが」
「ううん、ありがとう」
そんな事は大した問題ではないとばかりに、少女は勢いよく首を振る。実際、彼女の境遇では新しい服――をタダでくれる――という時点で、文句などあろう筈もない。サイズが合わないなど、ワガママにも程があった。
リリエをベッドサイドに呼び寄せ、取り出したシャツを着せてみる。
「このままでも、ウェストを絞ればワンピースになりそうだな」
「え……でも、短いよ……」
「動きやすいじゃないか」
「でも……あたし今、穿いてないし……」
短い裾を気にして赤くなる少女に、流石のシファも気まずそうに頬を掻いた。彼女の下着は洗って干しているところで、流石に下着までお下がりという訳にはいかないらしかった。双方ともに。
(後でサンドリヨンに頼んでみるか)
そのデリカシーの足りない行動の結果、金だけ渡され「勝手に買いに行け」と怒られる事になるのだが、それはともかく。
針と糸と鋏を取り出したシファは一旦リリエの服を脱がせ、器用に彼女の身体に合わせてリメイクを始める。余計な生地を切り落として丈を合わせ、ウェストを絞る。ズボンの方も一度穿いてもらい、裾上げをした。
「……凄いね、お姉ちゃん。上手」
「ん? そうか? 実は結構、手先は器用なんだ」
褒められて気をよくしながら、出来あがった服をリリエに渡す。
「ズボンはベルトを締めれば大丈夫だろう」
「ありがとう、お姉ちゃん」
少女は嬉しそうに、しかしカーテンの裏に隠れて着替えを始めた。
深夜。月は明るく、辺りに音はない。町全体が寝静まっている中で、息を殺して動く者達がいた。
目的地の裏口を叩き、常識知らずな来客に苛立ちを隠さず現れた人物にナイフを突きつける。ひっ、と身体を強張らせる相手に先導をさせ、階段を上った。
目の前には何の変哲もない木製のドア。奪い取った鍵を差しこみ、音を立てないよう慎重にまわす。カチリという音は小さく、家鳴りと大差なかった筈だ。
周囲を見まわし、仲間達と視線を合わせる。行くぞ、と囁くように告げた。
そして――
けたたましいノックの音がした。ノックなのかドアをぶち破ろうとしているのか、判別しがたいような音だ。煩わしそうな表情で青年は、ゆっくりとドアを開ける。
「たた、大変だ、旦那ぁ! 旦那の連れの嬢ちゃん達が連れて行かれちまった!」
「ああ」
「済まねえ、旦那。俺ぁナイフ突きつけられて脅されて……ついビビッちまって……」
「気にするな。それが正常な反応だ」
動転する宿の主人とは対照的に、青年は落ち着いて話す。
「連れて行ったのが誰か判るか?」
「チンピラみてえな服装で顔も隠してたが、ありゃあ間違いねえ。ノスリアの私兵だ」
「ノスリア?」
「この町で幅きかせてる貴族だ。いけ好かねえ野郎でな……嬢ちゃん達を連れてった奴らも、権力を笠に着て偉ぶってる奴に特有の雰囲気があったぜ」
昼間のヒステリー男を思い出しながら、ふむ、と青年は頷いた。
「証言できるか?」
「へ?」
急な言葉の意味を把握できず、主人は呆けたような声を洩らす。
「兵の取り調べに対し、同じように証言できるか?」
もし違っていた場合、お前の立場は著しく悪くなる。宿の評判も落ちるだろうし、何より、貴族にあらぬ疑いをかけたのだから、その場で死罪となっても文句は言えない。それでも同じように証言できるのか。それだけの覚悟はあるのか。
青年は、そう問うていた。
暫く自分に問いかけるように俯いていた主人は、やがて決然と顔を上げる。その目に宿る強い感情は、誇り、だろうか。
「俺ぁ小心者で、すぐブルっちまう駄目な男だが、それでも客に対しては誠実でいたいと思ってる……。このまま嬢ちゃん達に詫び一つ入れねえなんて、自分を許せねえ。ケジメつけさせてくれ、旦那」
「……そうか」
それだけ言うと青年はベッドサイドへ歩いて行き、サイドテーブルの上にあるメモ帳にサラサラとペンを走らせた。その紙を二つ折りにし、主人に差し出す。
「これを持って軍の詰め所へ行け」
「え…? いや、でも――」
こんな時間に一般人が、それも貴族を告発したところで正規兵が動く訳がない。表情で語る主人に、青年はもう一度頷いて見せた。
「大丈夫だ。必ず動く」
「……解った。旦那はどうするんで?」
「一足先に行っている」
そう言って青年は主人の横をすり抜けて行った。
宿を飛び出した主人は、懸命に走っていた。周囲に人通りはなく、聞こえるのは自分の呼吸と地面を蹴る音だけだ。
月が明るいのは幸いだった。ランプなどの明かりの類を持たなくて済むのは、かなりありがたい。今は足を動かす以外の事に気を割く余裕はないのだから。
宿から詰め所までは、それほど離れてはいない。青年の言葉を信じるなら、すぐに出動し、彼と合流するだろう。
と。
宿が見えなくなるかどうかといったところで、不意に主人の足が止まった。後方を振り返る。ふと疑問を感じたのだ。
あの青年は何故、ああも落ち着いていたのだろう。二人の少女が攫われた、と伝えた時の反応を思い出す。承知している、とでもいうような反応を。
まさか、と思う。彼がグルである可能性に気づいたのだ。すぐ隣の部屋で人が攫われたのに、気づかないなどという事は、ありえない。しかも彼は、ノスリア家の屋敷が何処にあるのか訊かなかったのだ。
(……そんな訳ねえ!)
頭を振って、嫌な考えを追い払う。グルなら、そもそも兵の詰め所へ行けなどと言う訳がない。余計な事を考えている暇などないのだ。
いま自分がやるべき事、やれる事、それは一つなのだから。
主人は再び走り始めた。運動不足ぎみの身体で懸命に。途中で脱げた靴の片方を振り返る事もなく。
10/11/01 19:21更新 / azure
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