読切小説
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悪戯は子供の特権
          ○

 色彩以上に白を強く意識したのは、全身の感覚が薄れていくからだろうか。
 白という色には、無のイメージがある。
 辺りは降り積もった雪で、真っ白に染まっていた。
 冷たい雪の上に沈むように俯せながら、自分の身体が動かなくなっていくのを、守部幸弘は白く染め上げられていくように感じていた。
 自分が何をしていたのかを、彼は覚束ない思考で思い出そうとする。確か、かくれんぼか何かをしていて、絶対に見つからない場所を探していたのだったか。
 それが、いつの間にか何もない雪原へ迷いこんで、今にも力尽きようとしているのだ。
 身体は冷え過ぎて、もはや寒さも感じない。ゆっくりと瞼が下りていく。
 その瞬間、風のない無音の雪原に、サクッと雪を踏む音が聞こえた。
「よかった……」
 女性になりかけの少女といった感じの声が、安堵したように呟く。
 薄目を開け、視線だけをどうにかそちらへ向けた幸弘の目の前に、誰かがしゃがみこんできた。逆光だが、何故か彼女が微笑んでいるのが分かる。
「もう大丈夫よ」
 その言葉を聞きながら、幸弘は意識を失った。

          ○

 その状況に遭遇したのは、コンビニからの帰り道の事だった。
 ダラダラと歩く幸弘の前方から、諍うような声が聞こえてくる。
 視線を上げれば、そこでは二人の男が幼い少女に因縁をつけていた。二十歳前後の、幸弘と同年代の男たちだ。髪を染め、少し前のダラけた印象のストリートファッションに身を包んでいる。
 対するのは、まだ年端もいかない少女だった。せいぜい小学生――十歳程度だろう。
 いい歳して、と幸弘は思った。十歳近く下の子供に、何をしているのか。
 とはいえ、彼は決して善人でもなければ博愛主義者でもない。普段であれば、こんな面倒事は無視して道を変える。
 しかし今日に限ってそうならなかったのは、少女の髪色ゆえだった。
 白――綺麗に色の抜けた老人の白髪以上に曇りのない、雪のような色合いだ。
 それは幸弘に、今朝がた見た懐かしい夢を思い出させた。ついでに、よく出来たカツラだとも思う。
 左手をポケットに入れ、右手にコンビニ袋を提げて近づいて行くと、徐々に男たちの会話内容が聞こえてきた。どうやら彼らは、少女の服装を揶揄しているらしい。
 確かに、少女は変わった扮装をしていた。白い衣に、緋袴――つまりは巫女装束という奴だ。
 そういえば、と幸弘は思い出した。いまいち浸透してはいないが、今日はハロウィンだった。
 おそらく彼女も、何かのイベントに参加するのだろう。或いは、した後か。
 巫女装束だけでなく獣耳に尻尾までつけた扮装は、お化けというより妖怪な気もするが、あるていど衣装のパターンが決まってしまう中で、他の子供との差別化でも図ったのかも知れない。
 やがて、足音に気づいた手前の男が顔を上げた。それに合わせて、幸弘も足を止める。
「そのへんにしとけよ、大人げない」
「ああ?」
「いい歳して小学生にカラんでんじゃねえって言ってんだよ」
「お前にゃ関係ねえだろ」
 まあな、と幸弘は呟く。確かに、少女を助ける義理はない。
「いちおう訊くけど、その子が何かしたのか? だとしても子供のした事なんだし、少しくらい大目に見てやれよ。ハロウィンなんだし、ちょっとくらいの悪戯は子供の特権だろ?」
 そう言って再び歩みを再開する彼に、男は舌打つ。
「何、お前。ナメてんの? 喧嘩売ってる?」
 険悪な目つきで肩を怒らせ、幸弘の方へ近づいて来ながら、
「ああ、そうだ。このガキが、俺らに悪戯じゃ済まねえような事してくれたんだよ。分かったら、さっさと消えろ!」
「何だ、そうなのか。そりゃ悪かった。許してくれ」
 幸弘は淡く笑むように目を細め、胸ぐらを掴もうとしてくる相手の腕を退がって躱す。
「この通りだ」
 直後、たっぷりと遠心力を乗せた右手の袋で、男の横っ面を殴り倒した。ちなみに中身は、飲み物が数本。
「ぐぉ!」
 男は顔を押さえてアスファルトに転がった。
「手前ぇ!!」
 それを見たもう一人の男が、激昂して突撃してくる。
 あーあ、と幸弘は嘆息した。アホだ、と胸中で思う。せっかく少女を間に挟んでいたというのに、彼女を盾にする事も思いつかなかったのか。
 連れが容赦なく幸弘に殴り倒されるのを見ていながら、ルール無用の路上の喧嘩でなりふり構ってしまうあたり、彼は粋がっているだけの見かけ倒しのようだった。
 立場が逆だったら、自分は、少なくとも一対一では分が悪い事くらいは察せられると幸弘は思う。
「っらあ!」
 突進からの前蹴りという直線的な攻撃も、喧嘩慣れしていない事を示していた。
 もっとも幸弘の方も、決して喧嘩慣れしている訳ではないが。
 それでも、冷静に左へ逸れて蹴りを躱す程度の事は出来た。攻撃後に一瞬動きの止まる隙を狙って踏みこみ、慌てて振るわれる裏拳を掲げた右腕で受ける。その衝撃をそのまま返すように、左のフックを相手の背中の右側へ叩きこんだ。
「ぁぐ!」
 身をよじって殴られた場所を右手で押さえ、男はフラつきながら後退する。
 幸弘はすかさず間合いを詰め、再び買い物袋を振るった。それを防ごうと相手が左腕を顔の前にかざすのを見るなり、今度は自分の番とばかりにガラ空きの腹部へと前蹴りを見舞う。
「ごふっ――」
 息を吐き出して仰向けに倒れる男の鳩尾をトドメを刺すように蹴りつけるが、相手は激しく咳きこんで苦しむばかりだった。
「……上手くいかないもんだな」
 映画やドラマみたいに簡単に気絶してくれれば楽なのにと思いながら、幸弘は数歩退がってから踵を返す。
 勘違いしてはいけないのは、これは別に決着をつけなければならない種類の喧嘩ではないという事だ。
「ずらかるぞ」
 小走りに少女へ駆け寄って促すが、
「――あの人!」
 顔を青ざめさせる彼女の視線を追って振り返ると、最初に殴り倒した男が憤怒の形相で立ち上がっていた。死なれても困ると思って幸弘が手加減したせいで、戦意喪失には至らなかったらしい。
「――の野郎、ナメやがって!」
 よほどプライドが傷ついたのか、やや常軌を逸した表情で男はナイフを抜いた。
 幸弘は再び嘆息。おそらく彼は今、自分が殺されても文句を言えなくなった事を理解してはいないのだろう。
「逃げなきゃ!」
 そう言って、少女は幸弘の上着の裾を引く。
「そうだな……」
 おざなりに同意しつつ、彼は左手に持ち替えたコンビニ袋へ手を入れた。
 中身の飲み物のうち、一つは缶飲料だ。コンビニには売っていなかったので、途中の自販機で買ったものである。
 何処か獣じみた雄叫びと共に突撃してくる相手へ、幸弘はそれを投げつけた。
 男は舌打ちでもしたいような表情で立ち止まり、飛んで来る何かを打ち落とそうとナイフを振りかざす。
「よし、逃げるぞ」
 想像通りの反応に満足げに唇の端を上げながら、幸弘は少女を促した。直後、プシュッという水飛沫のような音と共に、男の呻き声が聞こえてくる。
 ナイフがアルミ缶を斬り裂き、噴き出した炭酸飲料が眼球を直撃したのだ。
「ちょっとだけ我慢しろな」
 小学生な上に草履履きでは走る速度もたかが知れていると思い、幸弘は少女の身体を荷物のように肩に担いで走り出した。

          ○

 二人を見失ったのか、苦しむ仲間を置き去りに出来なかったのか、或いは頭が冷えて少しは冷静さを取り戻したのか――何にせよ、男たちは追っては来なかった。
 そろそろ大丈夫かと思って速度を落としたところで、下ろして欲しいと懇願され、幸弘は少女を路上へと下ろす。
 少女はフラつく足取りで、近くのバス停のベンチへ座りこんだ。自分で走っていた訳でもないのに、何故か肩で息をしている。
 よほど怖かったんだろうかと幸弘は思ったが、彼女がお腹の辺りを押さえているのを見て、少しだけ気まずくなった。どうやら走っている間中、肩に押しつけられた腹部へ断続的に振動が伝わり、若干気持ち悪くなっているらしい。
「……悪ぃ。誰かを担いで走る経験なんてなかったからな」
 少女は青い顔を少し上げ、ゆっくりと首を振った。
 幸弘は袋に手を入れ、スポーツドリンクのペットボトルを取り出す。
「飲むか?」
「……ありがとう」
 弱々しい声で礼を言い、少女は蓋を開けたスポーツドリンクを、チビチビと舐めるように少しずつ飲み始めた。
 やがて彼女が落ち着くのを待って、幸弘は口を開く。
「んで、何があったんだ? ハロウィンで巫女はねえよとでも言われたか?」
 少女はフルフルと首を振り、
「ハロウィンじゃなくて、おうちのお手伝い。お遣い、行って来たの」
「へえ……、偉いな」
 少女を褒めながら幸弘が何気なくその頭に手を置くと、はにかんだように彼女は俯いた。しかし頭を撫でる彼の手が、そっと獣耳をつまんだ瞬間――
「ひゃぅ!?」
 妙な声と共に、少女は跳び退く。
 何するのとでも言いたげな涙目から、幸弘は再び気まずい思いで目を逸らした。
「あー、っと……ナマモノだったのか」
「ナマモノって言わないで」
 少し傷ついたように、少女は頬を膨らませる。
 彼女の獣耳はアクセサリの類ではなく、完全に頭から生えたものだった。人間離れした色合いだからカツラだと思いこんだ頭髪も、人間ではないのなら、珍しくはあってもおかしくはない。ましてや、パタパタと生物的な動きで左右に揺れるボリュームのある尻尾が、作り物であるはずもなかった。
 というか、家の手伝いで巫女装束を着ていると聞かされた時点で気づくべきだった。この辺りに神社は一つしかない。
 何となく嫌な予感を覚えながら、幸弘は訊いてみた。
「お前さ……もしかして、いのりと修司って名前、知ってたりする?」
「……ママとパパの事、知ってるの?」
 やっぱりか、と彼は項垂れる。
「お前の両親には、ガキの頃よく遊んでもらった」
「そうなの!?」
 流石に驚いたのか、幸弘の言葉に少女も目を丸くした。

          ○

 流石に知り合いの娘を放置する訳にもいかず、幸弘は少女を家まで送っていく事にした。
 道中で自己紹介も済ませる。彼女は香澄というらしい。
 辿り着いたのは、街の外れにある神社だった。鷹森神社――それほど大きくはないが、鎌倉時代まで遡れる古い神社だ。
 実は人懐こい性格なのか、すっかり懐いた香澄に手を引かれながら、幸弘は鳥居をくぐり長い石段を登る。周囲の風景は子供の頃とは変わっていたが、それでも、そこここに記憶の中の面影が見て取れた。
 よく遊んだ境内を眺めながら、拝殿へ向かう道を逸れ住居へ向かう。
 昔は幸弘も毎日のように来ていたが、いちど親の仕事の都合で引っ越してからは足が遠のいていた。大学へ通うためにこの街へ戻ってきてからも、何かと忙しく、せいぜい初詣に訪れる程度だった。
 玄関へ駆け寄った香澄が、扉を勢いよくスライドさせる。
「ただいまー!」
「お帰りなさい……あら?」
 たおやかに笑みながら娘を出迎えに来た狐耳の女性が、幸弘の顔を見て驚いたように頬に手を当てた。それから緩く尻尾を振り、懐かしそうに笑みを深める。
「久しぶりね、ユキちゃん。大きくなったわね」
「親戚のオバサンみたいなこと言うな。ユキちゃんて呼ぶな」
 苦い表情で、幸弘は呻いた。初対面で自己紹介をして以降、彼女は何度言ってもその呼び方をやめない。
 鷹森こころの外見的な印象は、最後に会ったときからあまり変わっていなかった。もともと老けていたという事ではなく、三十も過ぎた現在でも年齢不相応の若々しさを保っているのだ。
 まあ稲荷だしな、と幸弘は思う。
「それで、どうしてユキちゃんが香澄と一緒に……?」
「ああ、それは――」
 彼が答えようとしたところで、横から香澄が割りこんできた。
「助けてくれたの」
「助けた?」
「お遣いの帰りに変な人にカラまれてたら、そのへんにしとけよ、ってユキちゃんが――」
「お前もユキちゃんて呼ぶのかよ」
 軽く眉間にシワを寄せて、幸弘は彼女の小さな頭を鷲掴みにする。
「痛い痛い痛い!」
 香澄は何とか手を外そうともがくが、直後――
「死ねええええ!!」
 怒号と共に何者かが背後から幸弘にドロップキックを見舞い、ぐあっ、と呻きながら彼が家の中へと吹っ飛んだ。
「何処の馬の骨か知らんが、俺の娘に手を出す奴は神でも殺す!」
「神主にあるまじき発言を、胸張ってのたまってんじゃねえよ……」
 背中をさすりながら幸弘が身体を起こすと、玄関先では三十代前半ほどの男性が左手を腰に当て、前へと伸ばされた右手はビシッと立てた親指を下に向けていた。
「何て事するの、パパ!?」
「ん? いや、しかし、お前の悲鳴が聞こえたから……」
「あんなの本気で痛がってる訳ないでしょ! 大丈夫? ユキちゃん」
「……ユキちゃん?」
 膝立ちで戻ってくる幸弘の方へ視線を向ける娘の視線を追って、彼女の父たる鷹森修司もそちらを見遣る。
「おお、幸弘か! 久しぶりだなぁ……、元気だったか?」
「再会を喜ぶ前に、まず、その軽い頭を下げろ」
 まだ背中が痛む幸弘は、怒りの滲む微笑で下から修司を睨め上げた。

          ○

 このままでは収拾がつかないと思ったらしいこころの提案で、幸弘は鷹森家の居間へと招かれた。
 こころはお茶の用意のために台所へ向かい、香澄も手伝いのために席を外しているため、部屋には彼ひとりだった。ちなみに修司は香澄に叱られ、廊下の汚れを掃除させられている。
 やがて戻ってきたこころが机の上に人数分の湯呑みを置き、香澄が菓子皿を中央へ置いた。
 少し遅れて修司もやってきたが、
「わたし、ユキちゃんの隣に座る〜」
 そう言って香澄が幸弘の隣に腰を下ろすと、クルリとUターンする。
「よーし表に出ろ、幸弘」
「何でだよ……」
 死ぬほど鬱陶しげに、幸弘は顔をしかめた。
 まさか修司が、ここまでウザさを極めた親馬鹿になるとは思わなかった。幼少時、少しだけ彼に憧れていた身としては、かなり複雑である。
「もしかして、普段からこうなのか?」
 彼がうんざりとこころへ視線を向けると、彼女は上品に苦笑。
「普段は子供思いの、いい父親なんだけどね……。たまに暴走するというか」
「たまに、ね」
 つまるところ、全ての男親が罹る不治の病を、最大限にこじらせているという事か。
 香澄がカラまれている現場に修司がいなくて、本当によかったと幸弘は思った。
「将来が大変だな」
 彼が隣を一瞥すると、
「そうねぇ。香澄が嫁き遅れたら、どうしようかしら」
 冗談めかして、こころが頬に手を当てる。
 すると想像通りというか、修司が一人で勝手に色めき立った。
「香澄は嫁にはやらん!」
「後継ぎのこと考えりゃ、婿を取る事になるんじゃないのか?」
「婿も要らん!」
「鎌倉からの伝統、潰す気満々かよ……」
 十数年後に香澄と交際している相手がここを訪れ、娘さんをくださいなどと頭を下げたら、介錯つかまつるとばかりに相手の首に日本刀を振り下ろしそうな勢いである。
 呆れた口調で言いながら幸弘が湯呑みに手を伸ばすと、両手で湯呑みを抱えていた香澄が小さく溜息をついた。
「もう、パパは黙っててよ」
「ぐふ……」
 思った以上にダメージを受けたのか、修司は机に突っ伏し、それきり静かになる。
「それじゃあ改めて、何があったのか聞きましょうか」
 そして何事もなかったようにこころも話を始めるあたり、流石は夫婦と言うべきか。
「別に、何があったって訳でもねえんだけどな……」
「そんな事ないよ。ユキちゃん、すっごくカッコよかった」
 少し顔を赤らめて香澄が言うと、
「ゆーきーひーろー……!」
「寝てろ」
 復活しようとする自称神殺しの頭の上へ、幸弘は嘆息しながら、菓子皿から取った茶菓子の包みを置く。
「とにかく通りかかったのは偶然で、助ける形になったのも成り行きなんだから、それでいいだろ」
 さっさと話を終わらせようとする彼に、こころはクスクスと笑いを零した。
「相変わらず、感謝されるのが苦手なのね。そういうところが、昔から可愛いのよ」
「幸弘、貴様……娘だけでは飽き足らず妻にまで」
 個包装の饅頭の封印を破る昼ドラ思考のアホ魔人へ、幸弘は無言で飲んでいた湯呑みの中身をぶちまける。
「熱っちいいいいい!!」
 既に慣れたもので、のたうちまわる修司へは誰も目を向けなかった。
「そういえばママって、いつからユキちゃんと知り合いなの?」
「もう随分前よ。ユキちゃんが小学校に入る前だったかしら?」
 忘れた、と幸弘は顔を背ける。
「確か寒い雪の日に、その雪の中で倒れてたのよね」
「間抜けな奴め」
 ハンカチで顔を拭きながら笑う修司に、幸弘のこめかみが引きつる。
「つうか、そもそも、あれはかくれんぼの最中に、あんたが絶対に見つからない場所があるって言って、俺をあの場所へ行かせたんだろうが!」
「何の事やら」
 とぼける相手に、彼の頭の中で何かがキレた。
「思い出すまで眼球に煮え滾る醤油を注ぎ続けてやろうか……」
 本気で死を覚悟した思い出は、いくら過去の事とはいえ容易く笑い話に出来るものでもない。
 その隣で香澄は幸弘を見上げ、
「……ユキちゃんって、けっこう過激」
「娘よ、何故、ちょっといいかも、みたいに尻尾を振っているんだ!?」
 愕然とする修司の隣で、こころは楽しげに笑っていた。

          ○

 少々のハプニングこそあったものの、一通りの説明を終え、ようやく場は少し落ち着いた。
 もっとも香澄が、これでもかと尾ヒレをつけてくれたため、正確に伝わったという自信は幸弘にはない。否定したところで謙遜だと受け取るような人物が相手では、ヒレの数など問題ではないのかも知れないが。
 こちらも一応は落ち着いたらしい修司は、腕組みをして話を聞きながら、幾度も頷いた。
「よくやった、幸弘。褒めて遣わす」
「何処の、お屋形さまだ」
 幸弘が再び湯呑みを手に取ると、
「よせ、馬鹿! 注ぎたてはシャレにならない!」
 慌てて修司は、お盆を盾にする。
「もう……、恥ずかしいなぁ……」
 身内の恥に、香澄は顔を赤くして俯いた。
「でもユキちゃんみたいな人が香澄を守ってくれると、親としては安心できるわ」
「二度とごめんだ」
 その度に修司の相手をする事を思えば、幸弘としては積極的に遠慮したいところだ。
「……守ってくれないの?」
「そもそも、そういう状況にならないように気をつけろよ。今日は服装の事もあるからしょうがないにしても、他のときは、せめて逃げるか大声を出せ」
 しょんぼり項垂れる香澄の髪を彼が少し乱暴に掻き回すと、彼女はくすぐったそうに耳をピコピコ動かした。
「やはり、俺がついて行くべきだったんだ」
「でも、過保護はよくないわ」
 教育方針で意見を戦わせる夫婦を眺めながら、幸弘はお茶を啜る。
「間を取って、少し離れて内緒でついて行けばいいんじゃねえの?」
「それだ!」
「まあ一歩間違えると、あんたが不審者として捕まるけど」
「この役立たず!」
 勝手な事を喚く修司に、彼は溜息をついた。
「いっその事、ユキちゃんがうちにお婿さんに来てくれればいいんじゃないかしら」
 論理飛躍も甚だしいこころの意見に、素早く立ち上がった修司は勢いよく障子を開け放つ。
「こんなヒネクレて可愛くない息子は嫌だあああああ!!」
 近所迷惑も考えず魂の咆吼を上げる修司に、幸弘は、そんなに嫌かと渋い表情になった。しかし、考えてみれば彼も変質者一歩手前な義父は絶対に嫌なので、お互い様なのだろう。

          ○

 あまり長居するのも失礼だからという建前で、修司の相手が面倒になった幸弘は、そろそろお暇する事にする。
 いちおう近況として、大学へ通うためにこの街へ戻ってきた事だけは伝えておいた。
 娘を連れこむつもりだな、などと妄言を吐く修司は無視し、こころにだけお茶のお礼を言う。
 彼が席を立つと、お見送りする〜、と言って香澄がついてきた。
「別に招かれて来た訳じゃないんだから、いらねえよ」
「いいの。ユキちゃん、迷子になるかも知れないし」
 なるかっ、と幸弘は胸中でツッコむ。
 香澄に手を引かれて玄関まで辿り着き、靴を履いていると、
「そういえば、今日ってハロウィンなんだよね」
「らしいな」
「じゃあ、ユキちゃんにもお菓子あげる」
「そんな歳じゃねえよ」
 妙に楽しそうな彼女に、幸弘は苦笑する。
「でも、お菓子あげないと悪戯されちゃうかも知れないしー……」
「……ちゃんと父親の血、引いてんだなぁ」
 うわあ、とでも言いたげに嫌そうな顔で彼が外へ出ると、香澄もサンダルを引っかけて出てきた。
「ちょっとだけ、むこう向いてて」
 そう言って彼女は、幸弘の身体を押して後ろを向かせる。
 もう少しだけ付き合ってやるかと思いながら彼が嘆息していると、背後からパリパリという何かの包みを剥がすような音が聞こえた。
「サプライズだから、目ぇ閉じてて」
「はいはい」
 投げやりに答えて従うと、数秒して、とつぜん首にずっしりと重みがかかる。
 回りこんだ香澄が腕を回し、体重をかけているのだと気づいた直後――
「ん……」
 唇に柔らかな感触が押し当てられた。
 驚いて幸弘が目を開けると、眼前には目を閉じた香澄の顔があった。
 キスされていると気づいて慌てて身体を離そうとするが、彼女は意外な力でそれを拒み、唇を重ね続ける。しかも、そのうえ舌まで差し入れてきた。
「ん……っ!?」
 舌先に感じる柔らかく濡れた感触に幸弘が硬直していると、コロリと口内に丸いものが押しこまれてくる。人工的な甘酸っぱさ――オレンジか何かのキャンディだ。
 唇を離した香澄は真っ赤な顔で笑い、まだ銀糸の繋がった舌をチロリと出す。
「トリックアンドトリート、なんちゃって」
 いたずら大成功、といった感じだった。
 暫し放心していた幸弘は、脳が再起動するなり勢いよく彼女の頭を掴む。
「何の真似だ、手前ぇ!」
「痛ぁーい! あたま掴むのやめて! しかも両側からグリグリしないで!」
「自業自得だろうが、ナチュラルボーン痴女!」
「だって悪戯は子供の特権って言ったじゃない!」
「あれはフォローではあっても、お前の悪戯を助長する発言じゃねえよ!」
「耳ー! 耳はやめてー!」
 流石に香澄が本気でジタバタし始めたので、彼は力を弛めた。
「とにかく、そういうのは好きな相手にしろよ」
「好き」
「はあ?」
「ユキちゃん、好き。助けてくれたし、カッコよかったし、優しいし、一緒にいると楽しいよ」
 俺は楽しくねえ、と胸中で呟き、幸弘は開けっ放しの玄関に呼びかける。
「修司ー。お前んとこの男を見る目が塵ほどもない娘が、悪い虫に引っかかりそうになってるぞー」
「悪い子はいねがああああああ!!」
 ガタガタという奥から響く音を聞きながら、幸弘は香澄の髪をくしゃくしゃにして歩き出した。
「悪いけど、子供に興味はねえよ」
「う〜……なら、十年待って。絶対、ユキちゃん好みの美人になるから」
「簡単に言うな。つーか、そこは諦めろよ、お前……」
「やだ!」
 満面の笑みで答える香澄を肩越しに見遣り、幸弘は舌打ちする。
 大きく両手を振る彼女におざなりに手を挙げ、当分ここへは来ないようにしようと決心し、彼は苛立ち紛れに口の中のキャンディを噛み砕いた。
12/11/01 01:02更新 / azure

■作者メッセージ
「ユキちゃんが来ないなら、わたしが遊びに行けばいいんだよね」なんて声が聞こえてくるようです。人助けなんて、するもんじゃありませんね(おい)。
 なお本作はチャットで行われた『ロリっ娘にトリックオアトリート! ハロリン大会!!』の話を聞いて思いついたものです。時間的に参加は出来ず、削ってもなお規定文字数以内に収まらなかったので普通に投稿する事にしました。
 思いつき一発ネタが見切り発車したため、稲荷SSというより親父SSになっている感もあります。反省します。

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