2
荒野を過ぎれば、街道の周辺には緑が増え始める。向かう先には風化し傾いた木製の看板が見えた。といっても、何が書かれている訳でもない。最寄りの町までの距離や時間を大雑把に表すためのものだ。
この国の街道には、何処にも、こういった看板が設置されている。王家の指示なのだそうだ。看板の劣化具合を見るに、ここも遠からず新たな看板に交換されるのだろう。
看板が設置されるのは、最寄りの町まで成人の平均的な歩みで約一刻(二時間)の地点である。それを確認してから、青年は街道脇にあった木蔭へと腰を下ろした。たかが一刻、といって先を急ぐのは、コンディションを崩す事にも繋がる。休む時にはしっかりと休むのが、旅をする上で重要な事なのだ。
荷物の中から水筒を取り出し、口につける。生温い水を喉に流しこみながら視線を動かすと、少し離れたところで金髪のリザードマンも身体を休めていた。日陰に入ればいいのに青年から距離を取りたいのか、陽射しの下で荒い呼吸を整えている。
殴るにせよ蹴るにせよ、内臓にダメージを与えるようなやり方はしていない。彼女の疲労は、ダメージが抜けるのを待たずに無理して動いているせいである。
鞘に納めた剣を杖にして、引きずるような足取りででもついて来るシファを、青年は放置していた。若干の不快感はあるにせよ、害はないのだし。
「……要るか?」
とりあえず声の届く距離だった事もあり、青年はシファに向けて水筒を掲げて見せる。顔を上げた少女は一瞬、表情を明るくしかけるが、すぐに真っ赤になって眉を吊り上げた。
「ふ、ふざけるな! 誰が貴様、の――施しなど受けるか」
音が聞こえそうな勢いでソッポを向く。何か、途中で言おうとした事を無理やり差し替えたようにも見えたが、青年は、それ以上気にしなかった。
「そうか」
水筒をしまい、立ち上がる。土や草を掃って歩き出した。ふっ、と下腹に力を入れるようにして、シファも立ち上がる。
「それで……一体いつまで、ついて来るつもりだ?」
背を向けたまま訊く青年に、シファは僅かに怯んだように身構えた。
「……リザードマンの習性は知っているだろう」
相手が自分を見ている訳でもないのに、赤くなった頬を隠すように顔を背ける。リザードマンは自分より強い男を夫とするのだ。つまり、いつまでついて来るのかと訊かれれば、ずっと、と返さざるをえない。死ぬほど恥ずかしいので、遠まわしな表現になったが。
それでも前を行く青年には伝わったらしく、うんざりしたような溜息が聞こえて来た。
「剣で勝った訳ではないが?」
「それでも……負けは負けだ。私が甘かったのだからな」
大真面目な声音で言うシファに、青年は再び溜息をついた。
「迷惑な話だ」
「そんなに邪険にしなくてもいいだろう。それより、名は何というんだ?」
下手に話しかけてしまったせいだろうか。シファの態度は、これまでに比べると随分と馴れ馴れしいものになっている。
「さあな」
不愉快さを隠さず言うと、少女はムッとしたように眉間にシワを寄せた。
「私は名乗っただろう!」
「一方的に、な。俺は、お前の名になど興味はないし、こちらが名乗る必要性も感じない」
すげなく言い捨てる。
「ふ、不便だろう。呼び名がないと」
「呼ばなければいい」
「くっ――」
ここまで取りつく島のない人間には、シファは会った事がなかった。というか、魔物を含めても初めてだ。何とか一矢報いたい、と必死で思考を巡らせる。
「だったら勝手に呼ぶからな! 名乗らない貴様が悪いんだぞ!」
もはや背後で喚く少女に応える事すら億劫になったのか、青年は完全に無視を決めこむ事にしたようだった。
町に辿り着いた青年は、宿を探して大通りを歩いていた。町の規模に比べると人通りは少ないように見えるが、時間を考えると本格的に人が出て来るのは、もう少ししてからだろう。
リザードマンの少女は、相変わらず彼の後について来ていた。時折まわりの人々から視線を向けられているが、それは別に、町中に魔物が入りこんでいるからという訳ではない。いちおう親魔物側に属するこの国では、決して珍しい風景ではないのだ。
ならば何故かといえば、脇目もふらず前を行く男と、不自然な間を空けながらも必死で彼にくっついて行く少女の醸し出す雰囲気が、何処か野次馬的な好奇心を誘うからである。仲のいい友人同士が共通の知り合いである第三者の片想いを知った時のような、という喩えは、喩えになっていないかも知れないが。。
「おい、サンドリヨン」
何故か不思議と見飽きない背中に、シファは呼びかけた。だが青年は全く反応せず、その歩むペースも変わらない。
「おい、無視するな!」
仕方なく足を速め、相手の腕を取る。まるで今、ようやく気づいたかのように青年は振り返った。
「俺の事だったのか」
「他に誰がいる。勝手に呼ぶと言っただろう」
「返事をすると言った憶えはないが」
一拍置き、
「で、何だ? さっきのは」
「私が考えた呼び名だ。お前の髪の色からな」
青年の髪色は一応、銀色に属するものなのだが、確かに灰色寄りではある。
「それで、灰かぶり(サンドリヨン)か」
しばらく静かにしていると思ったら、そんな事を考えていたらしい。
それでも直接的に灰(アッシュ)などと呼ばれるよりはマシかも知れない、などと考えてしまい、青年はゲンナリする。自分は、この少女の存在に慣れて来ているのだろうか。だとしたら、かなり認めたくない事実だった。
というか、何処の言葉だったかは忘れたが、サンドリヨンは女性の名ではなかっただろうか。となると、これは彼女なりの仕返しかも知れない。
「それより、さっきからずっと歩きまわっているが、目的地があるのか?」
「宿だ」
「え? あ、ああ……そうか。そうだよな。町中で野宿なんてしたくないしな」
目の前の背中を追うばかりで、それ以外の事を失念していたらしいシファを捨て置き、青年は歩き出す。慌てて少女も後に続いた。
道行く人に宿の場所を訊いていると、少し離れたところで何やら騒ぎが起こった。ややヒステリックな男の怒鳴り声が聞こえて来る。
「何だ?」
怪訝そうな表情を浮かべ、シファは速足で人垣の方へと向かった。宿の場所を教えてくれた初老の女性に礼を言い、青年も後へ続く。といっても、彼の場合は騒ぎが気になったからではなく、そちらが宿のある方向だったからだが。
近づいて行くと、男の声以外に小さな呻き声のようなものも聞こえて来た。声の高さからすると、女性か子供だろうか。
「どうしたんだ?」
人垣の後ろの方にいた女性にシファが訊く。
「町を見物中の貴族に、子供がぶつかったのよ。あの子たぶん、スラムの子ね。何処かで食べ物を盗んで逃げる途中だったみたい」
さも気の毒そうに頬に手を当て、女性は答えた。そんな彼女への反感を何とか隠し、シファは硬い声で礼を言う。
人垣の中心を見れば、確かに女性の言った通りの光景があった。上等な服に身を包んだ貴族の青年がヒステリックに喚き散らし、それとは対照的に薄汚れた服を着た黒髪の女の子を、パン屋の主人と思しき小太りの男が蹴りつけている。
頭を庇ってひたすら身体を丸める子供を見た瞬間、シファの血が沸騰した。勢いよく足を踏み出したが、不意に背後から声をかけられる。
「捨て置け」
「何だと!?」
信じられないものを見るような目で、振り返った彼女は青年を睨みつけた。
「あれを見て何とも思わんのか!」
「ああ」
即答する彼に、シファは思わず拳を握ってしまう。
「どれほど栄えているように見える場所にも、スラムはあるし孤児もいる。お前は、それら全てを救う気でいるのか?」
「それは……だが、見て見ぬフリをするのは違うだろう」
「ならば今後、ああいうものを目にする度に手を差し伸べるのか。その子に帰る家がなかったら? 連れて行くのか? どんどん増えていくな。その子供達を、どうやって養う。お前一人では、物理的にも経済的にも不可能だろう」
畳みかけられて、シファは悔しげに唇を噛んだ。相手の言い分は理に適っている。理屈では、それは解る。けれど、感情は理解する事を拒否していた。
「それとも、何処か適当なところで孤児院にでも預けるか? 何処の誰とも知れぬ子供に、まるで自分の子供であるかのように愛情を注ぐ職員によって運営される孤児院が、世界にどれだけあると思う。というか、あると思うか? そんな場所が」
青年の言葉は正しい、のだろう。シファは何ひとつ反論できずに、食い破らんばかりに唇に犬歯を喰いこませるばかりだった。
「いかなる理由であれ途中で放り出すのだから、それは責任放棄の一種だろう。何より、放り出された子供達に、その行為がどれほどの傷を穿つと思う?」
それはトドメだったろう。話の中の子供達にとっても、シファにとっても。
「でも……でもっ」
泣き出さんばかりに瞳を潤ませながら、シファは顔を上げた。
「私は、それでも放っておきたくない!」
勢いよく踵を返し、真っ直ぐ過ぎる性格の少女は人垣に跳びこんで行った。
「何だ貴様は!?」
とつぜん現れ傷だらけの子供を庇うように立ち塞がる少女を、貴族の青年が怒鳴りつけた。
「もう、いいだろう。ここまでする必要が何処にある!」
なまじ整った顔立ちをしているだけに、柳眉を逆立てたシファは異様な迫力がある。初めは威勢のよかった貴族の青年は、あっさりと彼女に圧倒された。腰にある両手剣も、その一助となったかも知れないが。
「そ、その子供がぶつかったせいで、私の服が汚れたのだぞ!? 貴族にとって身だしなみがどれほど重要か知らんのか!」
「汚れが何だ! 服を洗うという概念すらない貴族など、何処の蛮族か!? そんな下らない事で人を傷つけていい訳がないだろう!!」
「ば――蛮族? 下らない事、だと?」
おそらく一度も言われた事がないであろう言葉に、流石の貴族も言葉を失う。シファの言葉がよほど痛快だったのか、周囲からはクスクスと笑い声が聞こえて来た。
「だとしても嬢ちゃん。そのガキが、ウチの商品に手ぇ出したのはどうする?」
戸惑いながらも怒りが収まらない様子のパン屋の主人をジロリと睨み、懐から取り出した財布を投げつける。
「それだけあれば足りるだろう。売買契約は成立だ。さっさと消えろ!」
特に意味もなく剣の柄に手を乗せたのを何か勘違いしたのか、怯えたように彼は走り去って行った。
「立てそうか? 無理なら遠慮なく言え。おぶってやる」
うずくまる女の子の傍らに片膝をつき、汚れた服に怯む事もなくその背に手を当てる。突然の温もりに驚いたのか、女の子は何処か呆然とした表情でシファを見返して来た。上質の黒曜石のような、綺麗な瞳だ。
「お……おい、待て」
震える声で虚勢を張る貴族に、シファは半分だけ顔を振り向かせる。
「何だ。まだいたのか、蛮族」
最後の部分を殊更ゆっくりと言ってやると、貴族は一瞬にして顔を真っ赤にするが、前髪の間から覗くシファの瞳を酷薄な光が掠めたのを見ると、ひっ、と声を洩らして周囲の人垣を押し退けて逃げて行った。
「もう大丈夫だぞ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
そう言って笑う女の子に、シファも何だか嬉しくなって、本当は苦手な筈の笑顔を自然に浮かべていた。
「ほら、おぶってやる」
「……恥ずかしいよ」
「女同士じゃないか。遠慮するな」
遠慮しているのではなく、嫌がっているのではないか。そう思う者もいたかも知れないが、女の子の表情を見るに、言葉通りなのだろう。
いつの間にか周囲の人垣はなくなっていた。まだ残っていた数人が、カッコ良かった、だの、スッキリした、だのと無責任な賛辞を贈る。それらを聞き流しながら進んだ先に、青年の姿があった。
「待っていてくれたのか」
僅かに嬉しそうな表情を浮かべるシファに対し、青年は不快げに目を細める。
「呆れていただけだ。市井を知らぬ貴族と、貴族を知らぬ部外者が、よく飽きずに不毛な議論を続けるものだと思ってな」
本来であれば平行線以外の結論などないのだが、今回はシファが力技で相手を退かせた。だからといって、彼女の勝ちという訳でもない。
「それで、その子供はどうするつもりだ」
「ああ、そうだった」
思い出したようにシファは、肩越しに話しかけた。
「お前は、帰る家はあるのか?」
「ううん」
「では、一緒に暮らしている者は?」
「……いないよ。先月死んじゃったから」
女の子の沈んだ声に慌てて謝る。
「すまない」
「大丈夫だよ」
存外、芯のある声で女の子は答えた。もっとも、それが部外者には痛々しく映るのだが。
「で? どうするんだ」
「うん……」
青年の問いに気まずげに俯いてから、覚悟を決めたようにシファは顔を上げる。
「その……サンドリヨン。お前の言い分は解ってる、つもりだ。でも、やっぱり、今この子を放り出す事は出来ない。ずっとは無理でも、暫くは……駄目か?」
「なぜ俺に許可を求める。それは、お前が拾ったものだろう。幸い、この辺りの気候は温暖だ。野宿をしても、凍える事はない筈だ」
言うだけ言って踵を返す青年を追おうとして、ふとシファは眉根を寄せた。
(野宿?)
「格好をつけるのは勝手だが、もう少し後先を考えて行動した方がいい」
青年の背中から、呆れを隠さない声が聞こえて来た。
この国の街道には、何処にも、こういった看板が設置されている。王家の指示なのだそうだ。看板の劣化具合を見るに、ここも遠からず新たな看板に交換されるのだろう。
看板が設置されるのは、最寄りの町まで成人の平均的な歩みで約一刻(二時間)の地点である。それを確認してから、青年は街道脇にあった木蔭へと腰を下ろした。たかが一刻、といって先を急ぐのは、コンディションを崩す事にも繋がる。休む時にはしっかりと休むのが、旅をする上で重要な事なのだ。
荷物の中から水筒を取り出し、口につける。生温い水を喉に流しこみながら視線を動かすと、少し離れたところで金髪のリザードマンも身体を休めていた。日陰に入ればいいのに青年から距離を取りたいのか、陽射しの下で荒い呼吸を整えている。
殴るにせよ蹴るにせよ、内臓にダメージを与えるようなやり方はしていない。彼女の疲労は、ダメージが抜けるのを待たずに無理して動いているせいである。
鞘に納めた剣を杖にして、引きずるような足取りででもついて来るシファを、青年は放置していた。若干の不快感はあるにせよ、害はないのだし。
「……要るか?」
とりあえず声の届く距離だった事もあり、青年はシファに向けて水筒を掲げて見せる。顔を上げた少女は一瞬、表情を明るくしかけるが、すぐに真っ赤になって眉を吊り上げた。
「ふ、ふざけるな! 誰が貴様、の――施しなど受けるか」
音が聞こえそうな勢いでソッポを向く。何か、途中で言おうとした事を無理やり差し替えたようにも見えたが、青年は、それ以上気にしなかった。
「そうか」
水筒をしまい、立ち上がる。土や草を掃って歩き出した。ふっ、と下腹に力を入れるようにして、シファも立ち上がる。
「それで……一体いつまで、ついて来るつもりだ?」
背を向けたまま訊く青年に、シファは僅かに怯んだように身構えた。
「……リザードマンの習性は知っているだろう」
相手が自分を見ている訳でもないのに、赤くなった頬を隠すように顔を背ける。リザードマンは自分より強い男を夫とするのだ。つまり、いつまでついて来るのかと訊かれれば、ずっと、と返さざるをえない。死ぬほど恥ずかしいので、遠まわしな表現になったが。
それでも前を行く青年には伝わったらしく、うんざりしたような溜息が聞こえて来た。
「剣で勝った訳ではないが?」
「それでも……負けは負けだ。私が甘かったのだからな」
大真面目な声音で言うシファに、青年は再び溜息をついた。
「迷惑な話だ」
「そんなに邪険にしなくてもいいだろう。それより、名は何というんだ?」
下手に話しかけてしまったせいだろうか。シファの態度は、これまでに比べると随分と馴れ馴れしいものになっている。
「さあな」
不愉快さを隠さず言うと、少女はムッとしたように眉間にシワを寄せた。
「私は名乗っただろう!」
「一方的に、な。俺は、お前の名になど興味はないし、こちらが名乗る必要性も感じない」
すげなく言い捨てる。
「ふ、不便だろう。呼び名がないと」
「呼ばなければいい」
「くっ――」
ここまで取りつく島のない人間には、シファは会った事がなかった。というか、魔物を含めても初めてだ。何とか一矢報いたい、と必死で思考を巡らせる。
「だったら勝手に呼ぶからな! 名乗らない貴様が悪いんだぞ!」
もはや背後で喚く少女に応える事すら億劫になったのか、青年は完全に無視を決めこむ事にしたようだった。
町に辿り着いた青年は、宿を探して大通りを歩いていた。町の規模に比べると人通りは少ないように見えるが、時間を考えると本格的に人が出て来るのは、もう少ししてからだろう。
リザードマンの少女は、相変わらず彼の後について来ていた。時折まわりの人々から視線を向けられているが、それは別に、町中に魔物が入りこんでいるからという訳ではない。いちおう親魔物側に属するこの国では、決して珍しい風景ではないのだ。
ならば何故かといえば、脇目もふらず前を行く男と、不自然な間を空けながらも必死で彼にくっついて行く少女の醸し出す雰囲気が、何処か野次馬的な好奇心を誘うからである。仲のいい友人同士が共通の知り合いである第三者の片想いを知った時のような、という喩えは、喩えになっていないかも知れないが。。
「おい、サンドリヨン」
何故か不思議と見飽きない背中に、シファは呼びかけた。だが青年は全く反応せず、その歩むペースも変わらない。
「おい、無視するな!」
仕方なく足を速め、相手の腕を取る。まるで今、ようやく気づいたかのように青年は振り返った。
「俺の事だったのか」
「他に誰がいる。勝手に呼ぶと言っただろう」
「返事をすると言った憶えはないが」
一拍置き、
「で、何だ? さっきのは」
「私が考えた呼び名だ。お前の髪の色からな」
青年の髪色は一応、銀色に属するものなのだが、確かに灰色寄りではある。
「それで、灰かぶり(サンドリヨン)か」
しばらく静かにしていると思ったら、そんな事を考えていたらしい。
それでも直接的に灰(アッシュ)などと呼ばれるよりはマシかも知れない、などと考えてしまい、青年はゲンナリする。自分は、この少女の存在に慣れて来ているのだろうか。だとしたら、かなり認めたくない事実だった。
というか、何処の言葉だったかは忘れたが、サンドリヨンは女性の名ではなかっただろうか。となると、これは彼女なりの仕返しかも知れない。
「それより、さっきからずっと歩きまわっているが、目的地があるのか?」
「宿だ」
「え? あ、ああ……そうか。そうだよな。町中で野宿なんてしたくないしな」
目の前の背中を追うばかりで、それ以外の事を失念していたらしいシファを捨て置き、青年は歩き出す。慌てて少女も後に続いた。
道行く人に宿の場所を訊いていると、少し離れたところで何やら騒ぎが起こった。ややヒステリックな男の怒鳴り声が聞こえて来る。
「何だ?」
怪訝そうな表情を浮かべ、シファは速足で人垣の方へと向かった。宿の場所を教えてくれた初老の女性に礼を言い、青年も後へ続く。といっても、彼の場合は騒ぎが気になったからではなく、そちらが宿のある方向だったからだが。
近づいて行くと、男の声以外に小さな呻き声のようなものも聞こえて来た。声の高さからすると、女性か子供だろうか。
「どうしたんだ?」
人垣の後ろの方にいた女性にシファが訊く。
「町を見物中の貴族に、子供がぶつかったのよ。あの子たぶん、スラムの子ね。何処かで食べ物を盗んで逃げる途中だったみたい」
さも気の毒そうに頬に手を当て、女性は答えた。そんな彼女への反感を何とか隠し、シファは硬い声で礼を言う。
人垣の中心を見れば、確かに女性の言った通りの光景があった。上等な服に身を包んだ貴族の青年がヒステリックに喚き散らし、それとは対照的に薄汚れた服を着た黒髪の女の子を、パン屋の主人と思しき小太りの男が蹴りつけている。
頭を庇ってひたすら身体を丸める子供を見た瞬間、シファの血が沸騰した。勢いよく足を踏み出したが、不意に背後から声をかけられる。
「捨て置け」
「何だと!?」
信じられないものを見るような目で、振り返った彼女は青年を睨みつけた。
「あれを見て何とも思わんのか!」
「ああ」
即答する彼に、シファは思わず拳を握ってしまう。
「どれほど栄えているように見える場所にも、スラムはあるし孤児もいる。お前は、それら全てを救う気でいるのか?」
「それは……だが、見て見ぬフリをするのは違うだろう」
「ならば今後、ああいうものを目にする度に手を差し伸べるのか。その子に帰る家がなかったら? 連れて行くのか? どんどん増えていくな。その子供達を、どうやって養う。お前一人では、物理的にも経済的にも不可能だろう」
畳みかけられて、シファは悔しげに唇を噛んだ。相手の言い分は理に適っている。理屈では、それは解る。けれど、感情は理解する事を拒否していた。
「それとも、何処か適当なところで孤児院にでも預けるか? 何処の誰とも知れぬ子供に、まるで自分の子供であるかのように愛情を注ぐ職員によって運営される孤児院が、世界にどれだけあると思う。というか、あると思うか? そんな場所が」
青年の言葉は正しい、のだろう。シファは何ひとつ反論できずに、食い破らんばかりに唇に犬歯を喰いこませるばかりだった。
「いかなる理由であれ途中で放り出すのだから、それは責任放棄の一種だろう。何より、放り出された子供達に、その行為がどれほどの傷を穿つと思う?」
それはトドメだったろう。話の中の子供達にとっても、シファにとっても。
「でも……でもっ」
泣き出さんばかりに瞳を潤ませながら、シファは顔を上げた。
「私は、それでも放っておきたくない!」
勢いよく踵を返し、真っ直ぐ過ぎる性格の少女は人垣に跳びこんで行った。
「何だ貴様は!?」
とつぜん現れ傷だらけの子供を庇うように立ち塞がる少女を、貴族の青年が怒鳴りつけた。
「もう、いいだろう。ここまでする必要が何処にある!」
なまじ整った顔立ちをしているだけに、柳眉を逆立てたシファは異様な迫力がある。初めは威勢のよかった貴族の青年は、あっさりと彼女に圧倒された。腰にある両手剣も、その一助となったかも知れないが。
「そ、その子供がぶつかったせいで、私の服が汚れたのだぞ!? 貴族にとって身だしなみがどれほど重要か知らんのか!」
「汚れが何だ! 服を洗うという概念すらない貴族など、何処の蛮族か!? そんな下らない事で人を傷つけていい訳がないだろう!!」
「ば――蛮族? 下らない事、だと?」
おそらく一度も言われた事がないであろう言葉に、流石の貴族も言葉を失う。シファの言葉がよほど痛快だったのか、周囲からはクスクスと笑い声が聞こえて来た。
「だとしても嬢ちゃん。そのガキが、ウチの商品に手ぇ出したのはどうする?」
戸惑いながらも怒りが収まらない様子のパン屋の主人をジロリと睨み、懐から取り出した財布を投げつける。
「それだけあれば足りるだろう。売買契約は成立だ。さっさと消えろ!」
特に意味もなく剣の柄に手を乗せたのを何か勘違いしたのか、怯えたように彼は走り去って行った。
「立てそうか? 無理なら遠慮なく言え。おぶってやる」
うずくまる女の子の傍らに片膝をつき、汚れた服に怯む事もなくその背に手を当てる。突然の温もりに驚いたのか、女の子は何処か呆然とした表情でシファを見返して来た。上質の黒曜石のような、綺麗な瞳だ。
「お……おい、待て」
震える声で虚勢を張る貴族に、シファは半分だけ顔を振り向かせる。
「何だ。まだいたのか、蛮族」
最後の部分を殊更ゆっくりと言ってやると、貴族は一瞬にして顔を真っ赤にするが、前髪の間から覗くシファの瞳を酷薄な光が掠めたのを見ると、ひっ、と声を洩らして周囲の人垣を押し退けて逃げて行った。
「もう大丈夫だぞ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
そう言って笑う女の子に、シファも何だか嬉しくなって、本当は苦手な筈の笑顔を自然に浮かべていた。
「ほら、おぶってやる」
「……恥ずかしいよ」
「女同士じゃないか。遠慮するな」
遠慮しているのではなく、嫌がっているのではないか。そう思う者もいたかも知れないが、女の子の表情を見るに、言葉通りなのだろう。
いつの間にか周囲の人垣はなくなっていた。まだ残っていた数人が、カッコ良かった、だの、スッキリした、だのと無責任な賛辞を贈る。それらを聞き流しながら進んだ先に、青年の姿があった。
「待っていてくれたのか」
僅かに嬉しそうな表情を浮かべるシファに対し、青年は不快げに目を細める。
「呆れていただけだ。市井を知らぬ貴族と、貴族を知らぬ部外者が、よく飽きずに不毛な議論を続けるものだと思ってな」
本来であれば平行線以外の結論などないのだが、今回はシファが力技で相手を退かせた。だからといって、彼女の勝ちという訳でもない。
「それで、その子供はどうするつもりだ」
「ああ、そうだった」
思い出したようにシファは、肩越しに話しかけた。
「お前は、帰る家はあるのか?」
「ううん」
「では、一緒に暮らしている者は?」
「……いないよ。先月死んじゃったから」
女の子の沈んだ声に慌てて謝る。
「すまない」
「大丈夫だよ」
存外、芯のある声で女の子は答えた。もっとも、それが部外者には痛々しく映るのだが。
「で? どうするんだ」
「うん……」
青年の問いに気まずげに俯いてから、覚悟を決めたようにシファは顔を上げる。
「その……サンドリヨン。お前の言い分は解ってる、つもりだ。でも、やっぱり、今この子を放り出す事は出来ない。ずっとは無理でも、暫くは……駄目か?」
「なぜ俺に許可を求める。それは、お前が拾ったものだろう。幸い、この辺りの気候は温暖だ。野宿をしても、凍える事はない筈だ」
言うだけ言って踵を返す青年を追おうとして、ふとシファは眉根を寄せた。
(野宿?)
「格好をつけるのは勝手だが、もう少し後先を考えて行動した方がいい」
青年の背中から、呆れを隠さない声が聞こえて来た。
10/11/01 19:12更新 / azure
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