後編
室内には、薬缶で湯を沸かす音だけが響いている。倒れたジークはベッドで眠っており、その傍らにはメルシャがついていた。湯が沸いたのを確認し、フォルトゥナは組んでいた腕を解く。それをマグカップへ移し替えて寝室へ向かうと、彼女の気配に気づいたメルシャが不安そうに顔を上げた。
「すまないが、起こしてくれ。薬を飲ませなければ」
「それ、何ですか?」
フォルトゥナの持つ、掌に乗るサイズの布袋に視線を留め、訊く。
「知人が調合してくれた薬だ。専門的な事は分からないが、万能薬だ、と当人は言っていた」
メルシャはジークを優しく揺すってみるが、彼が目を覚ます様子はなかった。
「無理に起こすのも、よくないんじゃないでしょうか」
「とはいえ、このまま寝かせておいても弱る一方だしな……やむをえん」
フォルトゥナは湯冷ましの入ったカップを手に取る。
「無理やり飲ませよう」
スプーンで掬った薬と湯冷ましを自らの口に含み、寝ているジークと唇を重ねた。
「あ……」
思わずといった感じで声を洩らしたメルシャは、ハッとしたように背を向けた。何故か、見たくないと思ったのだ。
「ん……むぅ、ふ……」
なかなか飲みこまないジークに焦れ、彼の鼻をつまむ。反対の手を相手の喉に当てていると、やがてそこが動くのを感じた。
「ふぅ……やっと飲んだか」
唇を離す際、互いの唇同士が擦れて少しくすぐったかった。フォルトゥナは口の端に垂れる液体を指で掬い、舐める。途端に顔をしかめた。苦い。ジークは眠っていて正解だったかも知れない。
「メルシャ。口の周りを拭いてやってくれ――なぜ背中を向けて耳を塞いでいる?」
「え!? は、いえ、何でもないです!」
慌てて振り返ると、ハンカチでジークの口の周りを拭い始めた。フォルトゥナは不思議そうに眉根を寄せると、部屋を出る。
台所の棚に薬を置くと、ちょうど外からクレムが入って来たところだった。
「薪割り終わったっスよ。温かくしてやりましょう」
「ああ。すまないな、怪我人なのに」
「いえいえ、メルシャみたいに腕折れてる訳でもないんで」
そう言って彼は、暖炉に薪をくべ始めた。
そのまま火を見つめているクレムの背を眺め、フォルトゥナは椅子に腰かけ脚を組む。何か話したそうな雰囲気を感じたのだ。そんな彼女の気配に気づいたらしいクレムは、やがてポツポツと話し始める。
「あいつ……ずっと、あんな気持ちを抱えて生きてたんスね」
「誰にだって、秘めたものはあるさ」
「でも……気づいてやれなかった。いちばん近くにいた筈なのに」
「万能ならぬ身だ。あまり悔い過ぎるのも、傲慢というものだろう」
気休めにすらなっていないのを自覚した上で、正論しか吐けない自分に、フォルトゥナは歯痒さを感じた。何処まで行っても、これはクレム自身の問題。どれだけ他人が知った風な事を言ったところで、解決する問題ではないのだ。
納得した訳ではないのだろうが、暫く黙っていたクレムは、気分を変えたいのか、別の話題を振って来た。
「そういや、あの槍どうしたんスか?」
「そこにあるぞ。持ってみるか?」
軽い調子で壁を指差すフォルトゥナに、クレムがギョっとしたような表情で振り返った。その顔が可笑しかったので、彼女は少しだけ微笑う。
「大丈夫だ。お前のような人間は、絶対に、この手の魔具の犠牲にはならない。殆ど対極にいるからな。相性が悪すぎる」
「……ホントっスか?」
それでも不安そうなクレムに、太鼓判を押すように頷いて見せる。
「ああ、断言しよう。他の誰が魅入られようとも、お前だけは絶対に魅入られる事はない。賭けてもいい」
「へぇ……なに賭けるんスか?」
冗談めかしたようなフォルトゥナの物言いに、クレムも便乗するように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうだな……一日、私の身体を自由にしていいぞ?」
「よっしゃ、頑張れ俺! 魅入られろ。今すぐ!」
「馬鹿もの……」
おそらく、暗く沈みそうな気持ちを何とか明るい方向へ向けようという、彼なりの抵抗なのだろう。そう思いながらフォルトゥナは、苦笑して窘めた。
と、不意に家の外が騒がしくなった事に気づき、二人同時に顔を上げた。
「客の多い日だな、朝っぱらから」
嘆息する彼女の言葉を掻き消すように、男性の大声が聞こえて来る。
「出て来い、ドラゴン!!」
僅かに震える声だった。無理もない。
「ふむ、ご指名か」
椅子から立ち上がり、ドアを開けて外へ出る。数人の男性が武器(と農具)を手に、一様に恐怖と怒りを滲ませた表情を向けて来ていた。
「早朝の訪問は許容するとしても、出て来いというのは随分と礼儀正しい事だな」
「……ジークは、どうした」
男達は彼女の言葉になど耳を貸さない。ドラゴンは悪。そう思いこんでいるからこその反応だった。
(……ジークの方が、まだ頭が柔らかかったな)
若さ故だろう、と結論を出し、投げやりに口を開いた。
「ジークなら奥で寝ている。メルシャがついているから安心しろ」
「な……何?」
想像もしていなかった言葉なのだろう。男達は完全に気勢を殺がれ、呆けたような表情になっている。更に追い討ちをかけるように家のドアが開いた。
「村長もみんなも武器下ろせって。村のモン盗んでたのはフォルトゥナ様じゃない。それどころか、俺とメルシャを助けてくれた恩人だ」
「正しくは、恩竜だ」
冗談なのか本気なのか、恐ろしい――筈の――ドラゴンは両手を腰に当てて、うんうん、と頷いている。
「じゃ、じゃあ誰が……?」
「森の中に盗賊どもが潜んでる。俺は、ここへ来る途中で不審な奴らを見つけて、そいつらを調べてたんだ」
結果的に彼らに見つかり、反撃で数人を倒したものの、多勢に無勢で逃走せざるをえなかったところに、フォルトゥナが通りかかったのだ。
「私が村の現状を知ったのは、メルシャを助けた時だな。彼女も盗賊達から逃げていて、ようやく逃げ切ったところだったらしい」
彼女は森の中で、折れた左腕を押さえて木の根元に座りこんでいた。
「ただ、フリオは間に合わなかった。私が彼を見つけた時には、もう虫の息だったからな……」
「じゃあ、他の者達は……」
「自力でここまで来たのは、ジークだけだ」
ドラゴンを倒すために村を旅立ち、帰らなかった者達は皆、盗賊達がドラゴンの仕業に見せかけて殺していたのだ。
「盗難があった後に森に消えてくドラゴンを見たってのも、あいつらの変装だ。窓から覗きこんだだけだけど、それっぽいのが奴らのアジトにあった」
「アジトの場所も判った事だし、今日あたりまとめて潰しておこうかと思っていたが、どうやら生かしたまま、お前達の前に並べるのが筋といった感じだな」
やれやれ、といった感じでフォルトゥナは嘆息した。
「ああ、それとな。お前達の村の神殿にあった槍は、破壊させてもらう。あれは呪いの槍だからな」
「なっ!? 村の宝だぞ」
「けど、その宝のせいでジークが死にかけてる」
真剣なクレムの様子に、大人達は気圧されたように黙りこんだ。
「さて、では片づけて来るか」
そう言ってフォルトゥナは、空へと飛び上がった。盗賊のアジトの場所はクレムから聞いているし、偵察もしてある。
奇襲は夜明け前。ジークに言った言葉を思い出した。既に日は完全に昇っているが、村人達の動きも活発になる時間である。人目の多い時間に盗みに入る訳にもいかないだろう。つまり盗賊達は、全員がアジトにいるという事だ。
アジト上空に到達したフォルトゥナは、そのまま急降下して片づけてしまおうかと思ったが、それは思い留まった。盗まれた物がまだあそこにあったら、みんな駄目になってしまうからだ。回収できるものは回収した方がいい。
やむをえず、ゆっくりと降下して行った。アジトから少し離れた所に着地する。
そして――盗賊達の地獄が始まった。
朝の静かな森に、突然の轟音が響き、アジトのドアが吹き飛ぶ。といって、別段なにか特別な事をした訳ではない。人の頭ほどの石を投げつけただけだ。
それでも砲弾のような勢いで飛んだ石は、施錠されたドアも構わずブチ破り、不幸にも射線上に位置してしまっていたらしい数人を薙ぎ倒した。
巣をつつかれた蟻のように、盗賊達が武器を手に溢れ出て来る。蟻に失礼な事を考えてしまった、と反省しながら、フォルトゥナは表面上は不敵な表情をしていた。
「おはよう、諸君。随分と私の名で稼いだようだな」
「ど、ドラゴン!?」
「何を驚いている。あの山にドラゴンが棲んでいるのは、有名な話だろう。だから貴様らも、ドラゴンのフリをしていたんじゃないのか?」
無論、そんな訳がない。村人達がまことしやかにそんな噂を口にしていたから、利用しようと思っただけである。そもそもドラゴンなど、そう頻繁に見かけるものでもないのだから。
「とはいえ、さんざん濡れ衣を着せられて、流石の私も不愉快だ。少々、灸を据えてやるとしよう」
「くっ――」
好戦的に目を細めるフォルトゥナに、盗賊達は怯えたように身構える。身構える事が出来ただけでも、大したものだった。逆に言うなら、身構えられるだけの暇を与えてやっただけなのだが。
そう――戦おうという意思の上から完膚なきまでに捻じ伏せる事で、これ以上ない程の敗北感を刻みつけてやろうと思ったのだ。
「では、行くぞ?」
次の瞬間、最前にいた男がアジトのガラスを突き破っていた。何が起こったかも解らないまま吹っ飛ばされたのだ。
唖然とする暇もない男達を尻目に、傍らの男を左の裏拳で殴り倒し、逆側にいた男の肝臓に右の肘を打ちこむ。前にいる男の股間を蹴り上げ、苦痛に歪むその顔面を鷲掴みにして、こちらへ迫って来ようとする男達に投げつけた。背後から首を絞めようと腕をまわして来た男がいたが、フォルトゥナは、その腕をわざとゆっくり掴み、左右に広げていく。ドラゴンを相手に力で勝負を挑むなど笑止だった。
腕を掴んだまま、その男の身体を無造作に振りまわす。不用意に接近してしまった別の男は、仲間の、身体全体を使ったまわし蹴りに薙ぎ倒され、白目を剥いた。
「……つまらんな。ジーク一人の方が、よほど手応えがあったぞ」
溜息をつきながら、頭の横に手を上げる。飛来した矢を指で挟み取り、くるり、と手の中でまわしてから投げ返した。矢が刺さった太股を押さえ、男が倒れ伏す。木の上に潜む男がパチンコから放った石を容易く掴み取り、別の男が放った石に投げつけ、それぞれをあらぬ方向へと弾いた。それから地上にいる方の男を薙ぎ倒し、彼が落としたパチンコを拾い上げる。
「ふむ……こんな感じか」
見よう見まねで引き絞り、木から跳び下りて慌てて逃げようとする男を撃ち倒した。ゆっくりと近づき、首筋に手刀。
「こんなところか」
と身を起こす直前のタイミングを狙って、アジトの陰から出て来た男が、フォルトゥナに投網を投げた。
「チッ」
舌打ちしながら網を振り解きにかかる。こんなものはドラゴンの爪なら一瞬で引き裂けるが、その一瞬の隙で何をされるか分かったものではない。こんな田舎の盗賊団が持っているかどうかは判らないが、魔物にも効く毒や媚薬の類を使われるのは避けたかった。
結論から言えば、その心配は杞憂に終わった。網を斬り裂いたフォルトゥナの前に迫った男は、短剣を彼女に突き刺そうとしていただけだった。刃が濡れているような光沢を放っているが、人間用の毒であろう。ドラゴンには効かない。
突き出された剣を弾き、鳩尾に掌底を入れた。次の瞬間――
トン、と。横から押されるような感覚。
即座に体勢を立て直し、振り返った彼女が見たのは、
「ジーク!?」
こざかしくも網をかけている間に挟み討ちにしようとしていたらしく、フォルトゥナの背後に迫っていた男の剣を呪いの槍で受ける彼の姿だった。彼女を庇うために突き飛ばしたらしい。
「何故ここに」
剣を握る男の腕を押し上げ、空いた鳩尾に石突を打ちこみ、即座に首筋にも一撃。相手が完全に気絶したのを確かめてから、ジークは、よろけるように振り返った。慌ててフォルトゥナは、その身体を支える。
「勘違いと思いこみで、貴女の命を狙ったから……」
「借りを返しに来たというのか。槍の力を使ってまで」
空を飛べる彼女に普通の人間が追いつく方法などない。彼は危険を承知で槍の力を使い、森の獣以上の身体能力を以って駆けつけてくれたのだ。そして、命とまでは言わないが、間違いなくフォルトゥナを助けてくれたのだ。
「……こうでもしなきゃ、自分を許せない」
「村の連中は何をしていたんだ!」
握力も弱っているのか、槍を手放し崩れ落ちるジークを抱きかかえながら憤るフォルトゥナに、少年は力なく微笑って見せる。
「みんなは悪くないよ。僕が、みんなを脅して来たんだ。クレムは、お前が正しいと思う事をやればいい、って頷いてくれたけど」
「悪友だな」
憎まれ口を叩きながらも、心の中では、この少年と彼は確かに親友と呼ぶに相応しい関係なのだろう、と思った。彼なりに答えを見つけたのかも知れない。
「……ごめん」
「ん?」
とつぜん謝るジークに、フォルトゥナは不思議そうな表情になる。
「どうしても謝りたかったんだ。僕は貴女を、自分の劣等感の捌け口として利用した」
悔やむような恥じ入るような表情を見ているうちに、だんだん可笑しくなって来たフォルトゥナは、思わず吹き出してしまった。
「何で笑ってるの……?」
怪訝そうな表情のジークへ答える。
「いや、すまない。責任感が強いと言えば聞こえはいいが……損な性格だな」
「……そうかも」
「意外と激情家なところもな」
「うん……」
欠点を列挙され、叱られているような相手の表情を見つめ、フォルトゥナは本心を吐露する。それは何処か、敗北を認めるような響きがあった。
「私とよく似ている。だから、こんなにも気になるのかも知れんな」
え、と返すより早く、口を塞がれた。ジークの唇の感触を確かめるように、フォルトゥナの唇が、ゆっくりと労るように開閉され、吸われる。ちゅ……ちゅく、と思考がマヒしていくような水気を帯びた音に次いで、驚かせないように、という相手の気遣いが窺えるような丁寧さで、舌が侵入して来た。
「む、ぅ……ふ、んんっ……」
苦しそうなジークの呻き声に気づき、二、三度舌を愛撫してから、口を離した。
「な……に、を……?」
あくまで体調が悪いせいで息が荒いジークを、クスクス笑いながらフォルトゥナは抱きしめた。
「なに……ちょっとした礼だ。嬉しかったからな」
何が、と気配で訊いて来るのへ、更に続けた。
「ドラゴンを守ろうとしてくれる者など、まずいない。それに、対等に接してくれる者もな。村の者達も盗賊達も、何処かで私を恐れていた」
無理もないがな、と自嘲的に微笑う。
「ただ、どういう訳か、お前だけは初めから私と対等にあろうとしただろう。……何故だ?」
「……よく分からない。何となく」
暫く考えても答えが出なかったらしいジークの素直な回答に、フォルトゥナは、なお一層、笑みを深めた。
「そう。それが一番うれしかった。対等に接しようという意識もなく、対等に接してくれる。私は世界の異物などではないんだと実感できた」
「……意外だ」
「言ったろう。よく似ているんだ、私達は」
痛くないように抱きしめる力を強め、フォルトゥナはジークの髪に顔をうずめる。
「ありがとう」
囁く声は、少なくとも耳から聞こえたものではなかった。
気絶した男達は木にでも縛りつけておいて、後で村の者達に引き取りに来させる事になった。かつてのドラゴンの姿にもなれるフォルトゥナならば、全員を乗せていく事も出来る筈なのだが、気絶している人間を落とさずに飛べる自信はない、という現実的な理由の後に、穢されるみたいで嫌だ、という乙女チックな答えが返って来た。
「それに、私に乗っていいのはお前だけだからな。もう決めた」
何やら別の意味合いが籠められている気配を感じ、ジークは赤くなって目を逸らす。それが可笑しいのか好ましいのか、おそらく両方なのだろうが、フォルトゥナはクスクスと笑っていた。
フォルトゥナの家では、まだ全員がジークの帰りを待っていた。フォルトゥナに抱きかかえられたジークをクレムが、姫の凱旋、などとからかい、ムッとしたジークが彼の額のガーゼを狙って小突き、再出血というハプニングもあった。
村長は正式に、村を代表してフォルトゥナに謝罪をし、彼の許可を得てフォルトゥナは槍を砕いた。村人達の誤解を解き、むしろドラゴンによって救われた事実を伝える事も約束したが、フォルトゥナは、そちらに関しては割と、どうでもいいようだった。
残ったのは、ジークの余命の問題だけだった。
二人がいない間に話を聞いていたのか、村長達は一様に暗い表情をしていた。とはいえ、こればかりはどれほど頭を悩ませたところで解決策など出て来る訳がなかった。
と、思われたのだが。
「……予定調和のようで少々気に入らんが、マーメイドに知り合いがいる。血を分けてくれるよう、頼んでもいい」
気が進まない様子のフォルトゥナの言葉に、村人たちは湧き立った。マーメイドの血は長寿をもたらす事で有名だった。
「だが」
フォルトゥナは、彼らの喜びに水を差す。
「そうなれば、ジークは人間としての時間を失う事になる。どうする?」
最後に本人の方を向いて、問うた。今いる世代はいい。だが代が替われば、年を取らない彼を人々は排斥するだろう。
「お前がどう答えても、私はそれを支持しよう」
私と共に生きるか、という言葉は飲みこんだ。それは、あまりに卑怯な気がした。何も強制する事はしない。ジークを人の枠から外してしまう事。或いは、死に逝く彼を見ているしか出来ない事。それらは、どちらも辛い事ではあったが、同時に瑣末な事でもあった。
「僕は……」
考える。どんな答えでも支持する、と言ってくれたのだ。なら自分は、その信頼に恥じない本心を答える義務がある。誰のものでもない、自分自身の想いを。
思い出す。村での生活。クレムとのやり取り。メルシャが主催してくれた誕生会。子供達と過ごした学校。友人達と笑い合った日々を。
「僕は……死にたくない」
弱々しい声だった。けれど、間違いなく自分の意志だ。
いつ死んでもいいと思っていて、でも何か意味のある死に方をしたくて、なのに、こんなにも生きたいと願っている。
「死にたく、ない……」
感極まったように、メルシャが両手で口元を覆う。クレムが無言でジークと肩を組み、その頭をポンポンと叩いた。自分、というものを勇気を以って認めた彼を称えるように。
「分かった」
優しい光を湛えた瞳で微笑み、フォルトゥナは頷いた。
善は急げ、という事で、旅立ちは二日後に決まった。あまりに急な旅立ちに村人達は不満そうだったが、ジークの身体のため、と納得したようだった。
お別れ会を開きたい、とメルシャは言ったが、辛くなるから、とジークは断った。身体も治って元気になるのに、もう二度と会えない。子供達にはまだ、それは理解できないだろう。
そう。ジークは、もうここに留まるつもりはなかった。今いる世代はいい、とフォルトゥナは言ったが、事情を知っていても、歳を取らないジークは不気味だろう。自分を直視する事で人の弱さを認めたジークは、いずれ村人達もそうなる事を半ば確信していた。何より、大好きな人達を相手に疑心暗鬼になりたくはない。
ジークの決意が変わらない事を悟ったのか、最終的には村人達も、それを認めてくれた。
そして、旅立ちの日。
村の広場には、大人も子供も、沢山の人々が集まっていた。入れ替わり立ち替わり、ジークと別れの挨拶を交わす。その輪から少し外れたところで、フォルトゥナは彼らを眺めていた。
実際のドラゴンがイメージと違っていた事は、村人達に重いのか軽いのかはともかく、ショックを与えたらしい。青くてキラキラしている綺麗なお姉ちゃんの周りに、子供達が集まっていた。ジークが一言、怖くないよ、と言ったら、このザマである。
「じゃあな、ジーク。お前が何処にいても、お前の幸せを願ってる」
「ありがとう、クレム。僕もクレムの幸せを願ってるよ」
肩を並べてフォルトゥナの方へ歩みながら、親友同士が言葉を交わす。それを横目に、メルシャは真剣な表情でフォルトゥナの前に立った。
「ジークの事……よろしくお願いします」
「ああ」
強い視線を正面から受け止めて、フォルトゥナも頷いた。それが最低限の礼儀だろう。
(卑怯な不戦勝だな……)
自嘲的な笑みは身の内に隠し、隣を見やる。
(罪な男だ)
少年達は女達の内心など知る由もなく、呑気に握手など交わして、男の友情を確かめ合っていた。
やがて旅立ちの時が来る。
「晴れの門出だ。派手に行こう」
人々を下がらせ、フォルトゥナはかつての姿へと変化する。全身を青空色の宝石のように輝かせる巨体を、人間達は神を見るような目で見上げた。
背に乗るジークに、しっかり掴まっているように言ってから、フォルトゥナは何度か羽ばたき、
「ではな、人間達。短い付き合いだったが、悪くはなかったぞ」
一条の閃光のように、大空へと飛び去って行った。
それから暫くの時が流れた。
それまで反魔物側だった、村が属する国家ではクーデターが起こり、親魔物国家へと生まれ変わった。
村では山裾の森の中に温泉が見つかり、少しずつではあるが湯治客が訪れるようになった。経済的に発展した村では宿泊施設や土産物屋が増えたが、その中心には、建て替えられたとはいえ、相変わらず神殿が建っている。かつて槍が祭られていた台座には、今は、とある石像が鎮座していた。それは神などというあやふやなものではなく、現実に村を救ってくれた存在を伝えていくためのものだ。
「……恥ずかしいな」
「うん……」
魔物が往来を行き交う事も珍しくなくなった今では、石像の前でそんな会話を交わす二人連れが見咎められる事もない。
神殿を出た二人は、森へと向かって歩いて行く。
「何なら一緒に入るか? 背中を流してやるぞ?」
悪戯っぽく笑う女性に、隣を歩く少年は苦笑を浮かべた。
「混浴じゃないよ、ここ」
「何だ、つまらん」
代替わりした村では、そんな仲睦まじい会話を交わす二人の正体に気づく者はいなかった。
「すまないが、起こしてくれ。薬を飲ませなければ」
「それ、何ですか?」
フォルトゥナの持つ、掌に乗るサイズの布袋に視線を留め、訊く。
「知人が調合してくれた薬だ。専門的な事は分からないが、万能薬だ、と当人は言っていた」
メルシャはジークを優しく揺すってみるが、彼が目を覚ます様子はなかった。
「無理に起こすのも、よくないんじゃないでしょうか」
「とはいえ、このまま寝かせておいても弱る一方だしな……やむをえん」
フォルトゥナは湯冷ましの入ったカップを手に取る。
「無理やり飲ませよう」
スプーンで掬った薬と湯冷ましを自らの口に含み、寝ているジークと唇を重ねた。
「あ……」
思わずといった感じで声を洩らしたメルシャは、ハッとしたように背を向けた。何故か、見たくないと思ったのだ。
「ん……むぅ、ふ……」
なかなか飲みこまないジークに焦れ、彼の鼻をつまむ。反対の手を相手の喉に当てていると、やがてそこが動くのを感じた。
「ふぅ……やっと飲んだか」
唇を離す際、互いの唇同士が擦れて少しくすぐったかった。フォルトゥナは口の端に垂れる液体を指で掬い、舐める。途端に顔をしかめた。苦い。ジークは眠っていて正解だったかも知れない。
「メルシャ。口の周りを拭いてやってくれ――なぜ背中を向けて耳を塞いでいる?」
「え!? は、いえ、何でもないです!」
慌てて振り返ると、ハンカチでジークの口の周りを拭い始めた。フォルトゥナは不思議そうに眉根を寄せると、部屋を出る。
台所の棚に薬を置くと、ちょうど外からクレムが入って来たところだった。
「薪割り終わったっスよ。温かくしてやりましょう」
「ああ。すまないな、怪我人なのに」
「いえいえ、メルシャみたいに腕折れてる訳でもないんで」
そう言って彼は、暖炉に薪をくべ始めた。
そのまま火を見つめているクレムの背を眺め、フォルトゥナは椅子に腰かけ脚を組む。何か話したそうな雰囲気を感じたのだ。そんな彼女の気配に気づいたらしいクレムは、やがてポツポツと話し始める。
「あいつ……ずっと、あんな気持ちを抱えて生きてたんスね」
「誰にだって、秘めたものはあるさ」
「でも……気づいてやれなかった。いちばん近くにいた筈なのに」
「万能ならぬ身だ。あまり悔い過ぎるのも、傲慢というものだろう」
気休めにすらなっていないのを自覚した上で、正論しか吐けない自分に、フォルトゥナは歯痒さを感じた。何処まで行っても、これはクレム自身の問題。どれだけ他人が知った風な事を言ったところで、解決する問題ではないのだ。
納得した訳ではないのだろうが、暫く黙っていたクレムは、気分を変えたいのか、別の話題を振って来た。
「そういや、あの槍どうしたんスか?」
「そこにあるぞ。持ってみるか?」
軽い調子で壁を指差すフォルトゥナに、クレムがギョっとしたような表情で振り返った。その顔が可笑しかったので、彼女は少しだけ微笑う。
「大丈夫だ。お前のような人間は、絶対に、この手の魔具の犠牲にはならない。殆ど対極にいるからな。相性が悪すぎる」
「……ホントっスか?」
それでも不安そうなクレムに、太鼓判を押すように頷いて見せる。
「ああ、断言しよう。他の誰が魅入られようとも、お前だけは絶対に魅入られる事はない。賭けてもいい」
「へぇ……なに賭けるんスか?」
冗談めかしたようなフォルトゥナの物言いに、クレムも便乗するように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうだな……一日、私の身体を自由にしていいぞ?」
「よっしゃ、頑張れ俺! 魅入られろ。今すぐ!」
「馬鹿もの……」
おそらく、暗く沈みそうな気持ちを何とか明るい方向へ向けようという、彼なりの抵抗なのだろう。そう思いながらフォルトゥナは、苦笑して窘めた。
と、不意に家の外が騒がしくなった事に気づき、二人同時に顔を上げた。
「客の多い日だな、朝っぱらから」
嘆息する彼女の言葉を掻き消すように、男性の大声が聞こえて来る。
「出て来い、ドラゴン!!」
僅かに震える声だった。無理もない。
「ふむ、ご指名か」
椅子から立ち上がり、ドアを開けて外へ出る。数人の男性が武器(と農具)を手に、一様に恐怖と怒りを滲ませた表情を向けて来ていた。
「早朝の訪問は許容するとしても、出て来いというのは随分と礼儀正しい事だな」
「……ジークは、どうした」
男達は彼女の言葉になど耳を貸さない。ドラゴンは悪。そう思いこんでいるからこその反応だった。
(……ジークの方が、まだ頭が柔らかかったな)
若さ故だろう、と結論を出し、投げやりに口を開いた。
「ジークなら奥で寝ている。メルシャがついているから安心しろ」
「な……何?」
想像もしていなかった言葉なのだろう。男達は完全に気勢を殺がれ、呆けたような表情になっている。更に追い討ちをかけるように家のドアが開いた。
「村長もみんなも武器下ろせって。村のモン盗んでたのはフォルトゥナ様じゃない。それどころか、俺とメルシャを助けてくれた恩人だ」
「正しくは、恩竜だ」
冗談なのか本気なのか、恐ろしい――筈の――ドラゴンは両手を腰に当てて、うんうん、と頷いている。
「じゃ、じゃあ誰が……?」
「森の中に盗賊どもが潜んでる。俺は、ここへ来る途中で不審な奴らを見つけて、そいつらを調べてたんだ」
結果的に彼らに見つかり、反撃で数人を倒したものの、多勢に無勢で逃走せざるをえなかったところに、フォルトゥナが通りかかったのだ。
「私が村の現状を知ったのは、メルシャを助けた時だな。彼女も盗賊達から逃げていて、ようやく逃げ切ったところだったらしい」
彼女は森の中で、折れた左腕を押さえて木の根元に座りこんでいた。
「ただ、フリオは間に合わなかった。私が彼を見つけた時には、もう虫の息だったからな……」
「じゃあ、他の者達は……」
「自力でここまで来たのは、ジークだけだ」
ドラゴンを倒すために村を旅立ち、帰らなかった者達は皆、盗賊達がドラゴンの仕業に見せかけて殺していたのだ。
「盗難があった後に森に消えてくドラゴンを見たってのも、あいつらの変装だ。窓から覗きこんだだけだけど、それっぽいのが奴らのアジトにあった」
「アジトの場所も判った事だし、今日あたりまとめて潰しておこうかと思っていたが、どうやら生かしたまま、お前達の前に並べるのが筋といった感じだな」
やれやれ、といった感じでフォルトゥナは嘆息した。
「ああ、それとな。お前達の村の神殿にあった槍は、破壊させてもらう。あれは呪いの槍だからな」
「なっ!? 村の宝だぞ」
「けど、その宝のせいでジークが死にかけてる」
真剣なクレムの様子に、大人達は気圧されたように黙りこんだ。
「さて、では片づけて来るか」
そう言ってフォルトゥナは、空へと飛び上がった。盗賊のアジトの場所はクレムから聞いているし、偵察もしてある。
奇襲は夜明け前。ジークに言った言葉を思い出した。既に日は完全に昇っているが、村人達の動きも活発になる時間である。人目の多い時間に盗みに入る訳にもいかないだろう。つまり盗賊達は、全員がアジトにいるという事だ。
アジト上空に到達したフォルトゥナは、そのまま急降下して片づけてしまおうかと思ったが、それは思い留まった。盗まれた物がまだあそこにあったら、みんな駄目になってしまうからだ。回収できるものは回収した方がいい。
やむをえず、ゆっくりと降下して行った。アジトから少し離れた所に着地する。
そして――盗賊達の地獄が始まった。
朝の静かな森に、突然の轟音が響き、アジトのドアが吹き飛ぶ。といって、別段なにか特別な事をした訳ではない。人の頭ほどの石を投げつけただけだ。
それでも砲弾のような勢いで飛んだ石は、施錠されたドアも構わずブチ破り、不幸にも射線上に位置してしまっていたらしい数人を薙ぎ倒した。
巣をつつかれた蟻のように、盗賊達が武器を手に溢れ出て来る。蟻に失礼な事を考えてしまった、と反省しながら、フォルトゥナは表面上は不敵な表情をしていた。
「おはよう、諸君。随分と私の名で稼いだようだな」
「ど、ドラゴン!?」
「何を驚いている。あの山にドラゴンが棲んでいるのは、有名な話だろう。だから貴様らも、ドラゴンのフリをしていたんじゃないのか?」
無論、そんな訳がない。村人達がまことしやかにそんな噂を口にしていたから、利用しようと思っただけである。そもそもドラゴンなど、そう頻繁に見かけるものでもないのだから。
「とはいえ、さんざん濡れ衣を着せられて、流石の私も不愉快だ。少々、灸を据えてやるとしよう」
「くっ――」
好戦的に目を細めるフォルトゥナに、盗賊達は怯えたように身構える。身構える事が出来ただけでも、大したものだった。逆に言うなら、身構えられるだけの暇を与えてやっただけなのだが。
そう――戦おうという意思の上から完膚なきまでに捻じ伏せる事で、これ以上ない程の敗北感を刻みつけてやろうと思ったのだ。
「では、行くぞ?」
次の瞬間、最前にいた男がアジトのガラスを突き破っていた。何が起こったかも解らないまま吹っ飛ばされたのだ。
唖然とする暇もない男達を尻目に、傍らの男を左の裏拳で殴り倒し、逆側にいた男の肝臓に右の肘を打ちこむ。前にいる男の股間を蹴り上げ、苦痛に歪むその顔面を鷲掴みにして、こちらへ迫って来ようとする男達に投げつけた。背後から首を絞めようと腕をまわして来た男がいたが、フォルトゥナは、その腕をわざとゆっくり掴み、左右に広げていく。ドラゴンを相手に力で勝負を挑むなど笑止だった。
腕を掴んだまま、その男の身体を無造作に振りまわす。不用意に接近してしまった別の男は、仲間の、身体全体を使ったまわし蹴りに薙ぎ倒され、白目を剥いた。
「……つまらんな。ジーク一人の方が、よほど手応えがあったぞ」
溜息をつきながら、頭の横に手を上げる。飛来した矢を指で挟み取り、くるり、と手の中でまわしてから投げ返した。矢が刺さった太股を押さえ、男が倒れ伏す。木の上に潜む男がパチンコから放った石を容易く掴み取り、別の男が放った石に投げつけ、それぞれをあらぬ方向へと弾いた。それから地上にいる方の男を薙ぎ倒し、彼が落としたパチンコを拾い上げる。
「ふむ……こんな感じか」
見よう見まねで引き絞り、木から跳び下りて慌てて逃げようとする男を撃ち倒した。ゆっくりと近づき、首筋に手刀。
「こんなところか」
と身を起こす直前のタイミングを狙って、アジトの陰から出て来た男が、フォルトゥナに投網を投げた。
「チッ」
舌打ちしながら網を振り解きにかかる。こんなものはドラゴンの爪なら一瞬で引き裂けるが、その一瞬の隙で何をされるか分かったものではない。こんな田舎の盗賊団が持っているかどうかは判らないが、魔物にも効く毒や媚薬の類を使われるのは避けたかった。
結論から言えば、その心配は杞憂に終わった。網を斬り裂いたフォルトゥナの前に迫った男は、短剣を彼女に突き刺そうとしていただけだった。刃が濡れているような光沢を放っているが、人間用の毒であろう。ドラゴンには効かない。
突き出された剣を弾き、鳩尾に掌底を入れた。次の瞬間――
トン、と。横から押されるような感覚。
即座に体勢を立て直し、振り返った彼女が見たのは、
「ジーク!?」
こざかしくも網をかけている間に挟み討ちにしようとしていたらしく、フォルトゥナの背後に迫っていた男の剣を呪いの槍で受ける彼の姿だった。彼女を庇うために突き飛ばしたらしい。
「何故ここに」
剣を握る男の腕を押し上げ、空いた鳩尾に石突を打ちこみ、即座に首筋にも一撃。相手が完全に気絶したのを確かめてから、ジークは、よろけるように振り返った。慌ててフォルトゥナは、その身体を支える。
「勘違いと思いこみで、貴女の命を狙ったから……」
「借りを返しに来たというのか。槍の力を使ってまで」
空を飛べる彼女に普通の人間が追いつく方法などない。彼は危険を承知で槍の力を使い、森の獣以上の身体能力を以って駆けつけてくれたのだ。そして、命とまでは言わないが、間違いなくフォルトゥナを助けてくれたのだ。
「……こうでもしなきゃ、自分を許せない」
「村の連中は何をしていたんだ!」
握力も弱っているのか、槍を手放し崩れ落ちるジークを抱きかかえながら憤るフォルトゥナに、少年は力なく微笑って見せる。
「みんなは悪くないよ。僕が、みんなを脅して来たんだ。クレムは、お前が正しいと思う事をやればいい、って頷いてくれたけど」
「悪友だな」
憎まれ口を叩きながらも、心の中では、この少年と彼は確かに親友と呼ぶに相応しい関係なのだろう、と思った。彼なりに答えを見つけたのかも知れない。
「……ごめん」
「ん?」
とつぜん謝るジークに、フォルトゥナは不思議そうな表情になる。
「どうしても謝りたかったんだ。僕は貴女を、自分の劣等感の捌け口として利用した」
悔やむような恥じ入るような表情を見ているうちに、だんだん可笑しくなって来たフォルトゥナは、思わず吹き出してしまった。
「何で笑ってるの……?」
怪訝そうな表情のジークへ答える。
「いや、すまない。責任感が強いと言えば聞こえはいいが……損な性格だな」
「……そうかも」
「意外と激情家なところもな」
「うん……」
欠点を列挙され、叱られているような相手の表情を見つめ、フォルトゥナは本心を吐露する。それは何処か、敗北を認めるような響きがあった。
「私とよく似ている。だから、こんなにも気になるのかも知れんな」
え、と返すより早く、口を塞がれた。ジークの唇の感触を確かめるように、フォルトゥナの唇が、ゆっくりと労るように開閉され、吸われる。ちゅ……ちゅく、と思考がマヒしていくような水気を帯びた音に次いで、驚かせないように、という相手の気遣いが窺えるような丁寧さで、舌が侵入して来た。
「む、ぅ……ふ、んんっ……」
苦しそうなジークの呻き声に気づき、二、三度舌を愛撫してから、口を離した。
「な……に、を……?」
あくまで体調が悪いせいで息が荒いジークを、クスクス笑いながらフォルトゥナは抱きしめた。
「なに……ちょっとした礼だ。嬉しかったからな」
何が、と気配で訊いて来るのへ、更に続けた。
「ドラゴンを守ろうとしてくれる者など、まずいない。それに、対等に接してくれる者もな。村の者達も盗賊達も、何処かで私を恐れていた」
無理もないがな、と自嘲的に微笑う。
「ただ、どういう訳か、お前だけは初めから私と対等にあろうとしただろう。……何故だ?」
「……よく分からない。何となく」
暫く考えても答えが出なかったらしいジークの素直な回答に、フォルトゥナは、なお一層、笑みを深めた。
「そう。それが一番うれしかった。対等に接しようという意識もなく、対等に接してくれる。私は世界の異物などではないんだと実感できた」
「……意外だ」
「言ったろう。よく似ているんだ、私達は」
痛くないように抱きしめる力を強め、フォルトゥナはジークの髪に顔をうずめる。
「ありがとう」
囁く声は、少なくとも耳から聞こえたものではなかった。
気絶した男達は木にでも縛りつけておいて、後で村の者達に引き取りに来させる事になった。かつてのドラゴンの姿にもなれるフォルトゥナならば、全員を乗せていく事も出来る筈なのだが、気絶している人間を落とさずに飛べる自信はない、という現実的な理由の後に、穢されるみたいで嫌だ、という乙女チックな答えが返って来た。
「それに、私に乗っていいのはお前だけだからな。もう決めた」
何やら別の意味合いが籠められている気配を感じ、ジークは赤くなって目を逸らす。それが可笑しいのか好ましいのか、おそらく両方なのだろうが、フォルトゥナはクスクスと笑っていた。
フォルトゥナの家では、まだ全員がジークの帰りを待っていた。フォルトゥナに抱きかかえられたジークをクレムが、姫の凱旋、などとからかい、ムッとしたジークが彼の額のガーゼを狙って小突き、再出血というハプニングもあった。
村長は正式に、村を代表してフォルトゥナに謝罪をし、彼の許可を得てフォルトゥナは槍を砕いた。村人達の誤解を解き、むしろドラゴンによって救われた事実を伝える事も約束したが、フォルトゥナは、そちらに関しては割と、どうでもいいようだった。
残ったのは、ジークの余命の問題だけだった。
二人がいない間に話を聞いていたのか、村長達は一様に暗い表情をしていた。とはいえ、こればかりはどれほど頭を悩ませたところで解決策など出て来る訳がなかった。
と、思われたのだが。
「……予定調和のようで少々気に入らんが、マーメイドに知り合いがいる。血を分けてくれるよう、頼んでもいい」
気が進まない様子のフォルトゥナの言葉に、村人たちは湧き立った。マーメイドの血は長寿をもたらす事で有名だった。
「だが」
フォルトゥナは、彼らの喜びに水を差す。
「そうなれば、ジークは人間としての時間を失う事になる。どうする?」
最後に本人の方を向いて、問うた。今いる世代はいい。だが代が替われば、年を取らない彼を人々は排斥するだろう。
「お前がどう答えても、私はそれを支持しよう」
私と共に生きるか、という言葉は飲みこんだ。それは、あまりに卑怯な気がした。何も強制する事はしない。ジークを人の枠から外してしまう事。或いは、死に逝く彼を見ているしか出来ない事。それらは、どちらも辛い事ではあったが、同時に瑣末な事でもあった。
「僕は……」
考える。どんな答えでも支持する、と言ってくれたのだ。なら自分は、その信頼に恥じない本心を答える義務がある。誰のものでもない、自分自身の想いを。
思い出す。村での生活。クレムとのやり取り。メルシャが主催してくれた誕生会。子供達と過ごした学校。友人達と笑い合った日々を。
「僕は……死にたくない」
弱々しい声だった。けれど、間違いなく自分の意志だ。
いつ死んでもいいと思っていて、でも何か意味のある死に方をしたくて、なのに、こんなにも生きたいと願っている。
「死にたく、ない……」
感極まったように、メルシャが両手で口元を覆う。クレムが無言でジークと肩を組み、その頭をポンポンと叩いた。自分、というものを勇気を以って認めた彼を称えるように。
「分かった」
優しい光を湛えた瞳で微笑み、フォルトゥナは頷いた。
善は急げ、という事で、旅立ちは二日後に決まった。あまりに急な旅立ちに村人達は不満そうだったが、ジークの身体のため、と納得したようだった。
お別れ会を開きたい、とメルシャは言ったが、辛くなるから、とジークは断った。身体も治って元気になるのに、もう二度と会えない。子供達にはまだ、それは理解できないだろう。
そう。ジークは、もうここに留まるつもりはなかった。今いる世代はいい、とフォルトゥナは言ったが、事情を知っていても、歳を取らないジークは不気味だろう。自分を直視する事で人の弱さを認めたジークは、いずれ村人達もそうなる事を半ば確信していた。何より、大好きな人達を相手に疑心暗鬼になりたくはない。
ジークの決意が変わらない事を悟ったのか、最終的には村人達も、それを認めてくれた。
そして、旅立ちの日。
村の広場には、大人も子供も、沢山の人々が集まっていた。入れ替わり立ち替わり、ジークと別れの挨拶を交わす。その輪から少し外れたところで、フォルトゥナは彼らを眺めていた。
実際のドラゴンがイメージと違っていた事は、村人達に重いのか軽いのかはともかく、ショックを与えたらしい。青くてキラキラしている綺麗なお姉ちゃんの周りに、子供達が集まっていた。ジークが一言、怖くないよ、と言ったら、このザマである。
「じゃあな、ジーク。お前が何処にいても、お前の幸せを願ってる」
「ありがとう、クレム。僕もクレムの幸せを願ってるよ」
肩を並べてフォルトゥナの方へ歩みながら、親友同士が言葉を交わす。それを横目に、メルシャは真剣な表情でフォルトゥナの前に立った。
「ジークの事……よろしくお願いします」
「ああ」
強い視線を正面から受け止めて、フォルトゥナも頷いた。それが最低限の礼儀だろう。
(卑怯な不戦勝だな……)
自嘲的な笑みは身の内に隠し、隣を見やる。
(罪な男だ)
少年達は女達の内心など知る由もなく、呑気に握手など交わして、男の友情を確かめ合っていた。
やがて旅立ちの時が来る。
「晴れの門出だ。派手に行こう」
人々を下がらせ、フォルトゥナはかつての姿へと変化する。全身を青空色の宝石のように輝かせる巨体を、人間達は神を見るような目で見上げた。
背に乗るジークに、しっかり掴まっているように言ってから、フォルトゥナは何度か羽ばたき、
「ではな、人間達。短い付き合いだったが、悪くはなかったぞ」
一条の閃光のように、大空へと飛び去って行った。
それから暫くの時が流れた。
それまで反魔物側だった、村が属する国家ではクーデターが起こり、親魔物国家へと生まれ変わった。
村では山裾の森の中に温泉が見つかり、少しずつではあるが湯治客が訪れるようになった。経済的に発展した村では宿泊施設や土産物屋が増えたが、その中心には、建て替えられたとはいえ、相変わらず神殿が建っている。かつて槍が祭られていた台座には、今は、とある石像が鎮座していた。それは神などというあやふやなものではなく、現実に村を救ってくれた存在を伝えていくためのものだ。
「……恥ずかしいな」
「うん……」
魔物が往来を行き交う事も珍しくなくなった今では、石像の前でそんな会話を交わす二人連れが見咎められる事もない。
神殿を出た二人は、森へと向かって歩いて行く。
「何なら一緒に入るか? 背中を流してやるぞ?」
悪戯っぽく笑う女性に、隣を歩く少年は苦笑を浮かべた。
「混浴じゃないよ、ここ」
「何だ、つまらん」
代替わりした村では、そんな仲睦まじい会話を交わす二人の正体に気づく者はいなかった。
10/11/25 19:24更新 / azure
戻る
次へ