読切小説
[TOP]
陽に融ける氷
 カオルとゼミの内容について話しながら角を曲がると、廊下の向こうから歩いてくるタカシの姿が目に入った。私は無言で踵を返すが、その前にタカシの目が私をとらえた。日に焼けて岩のように黒くなった彼の顔がたちまち緩んでいく。

「リョーコ! 好きだ! 結婚してくれ!」

 最後にそう絶叫して、タカシは私たちのほうに駆け出してきた。周囲の学生がタカシの声を聞いて顔を向ける。そして引きつった笑みを浮かべながら壁際に退いた。彼らの気持ちは理解できる。身長190cmの大男が叫び声を上げて突進してくるのだ。誰だって道を譲るだろう。もっとも、たとえ進路上に立ちふさがる酔狂者が現れたとしても、タカシはその障害物をたやすくなぎ倒すだろう。スポーツ推薦で入学したタカシは、去年の秩父宮で同じ体格の人間をなぎ倒してトライを決めた。
 隣でヤバいと言ううめき声が聞こえた。視線を向ければカオルが顔を真っ青にしていた。こうなったら仕方ない。私は歩を戻すと肩をすくめてからタカシに向かって駆け出した。駆け寄ってくる私の姿を見て、タカシの瞳が輝きを増す。私を受け入れようと彼の腕が広げられた。露になった彼の胸元は、シャツ越しでも分かるほどに分厚い胸筋に覆われていた。遂にタカシの顔が目の前に迫り、彼が私を抱き止めんと広げた腕を閉じる。その刹那、私は彼との身長差を利用し、腕の下を潜り抜けた。そのまますれ違いざまに彼の顔にカバンを叩きこむ。筋骨隆々の彼の上体がぐらりと揺れた。それもそのはず。カバンの中にはゼミで使ったトルストイが入っているのだ。日夜ラグビー場で男たちと体をぶつけあう彼であっても、ロシアが生んだ大文豪には敵わないようだ。そのままタカシは床に崩れ落ちた。

「廊下でいきなり叫ぶんじゃないわよ。恥ずかしいったらありゃしないわ」

 顔を抑えて床を転がるタカシに向かって吐き捨てる。遅れてやってきたカオルが恐る恐ると言った様子で聞いてきた。

「リョーコ、ここまでする必要なかったんじゃないの? タカシさん大丈夫?」
「いいのよ。魔物娘に惚れてるんだからそんな柔じゃないわ。むしろ一回ぐらい死んで反省すればいいのよ」

 そう言いながら、私はタカシを見下ろした。今でこそロシアの文豪の一撃によってもんどりうっているが、すぐに回復して懲りもせずにまた私にアタックをかけるのだろう。タカシと知り合ったのは小学校に入る前からだ。その生態は辟易するほどに知っていた。
 腐れ縁の始まりは単純に家が近所ということだった。当時のタカシはやんちゃなガキ大将で、一緒に遊ぶのも楽しいものだった。だが、友達同士という関係は思春期に入って変わった。色を覚えたタカシは魔物娘の魔力に魅了され、私に言い寄るようになったのだ。熱いモーションと言えば聞こえはいいが、体躯のわりに全く成長しなかったタカシの知性はそれをセクハラ紛いの好意に変換させ、ただただ私を辟易させるだけだった。何度断っても挑戦してくるタカシの執念は恐ろしく、私が彼の学力では到底かなわないであろう偏差値の大学を選んでもスポーツ推薦で滑り込んできたのだ。かくして大学デビューしてもなお腐れ縁の彼に脅かされる日々を送ることになった。タカシの大学合格の報を聞いても負けた気がして志望を変更しなかったことを今では後悔している。
 眼下でのた打ち回っていたタカシの叫びがぴたりと止まる。顔を覆う手の隙間から私を見上げると、彼はにんまりと笑った。

「黒!」
「死ね!」

 スカートの中に視線を向けてだらしなく頬を緩ませたタカシの顔に私はサンダルを叩きこんだ。8cmの厚底によって鼻柱を打ち抜かれたタカシがまた悲鳴を上げて転げ回る。これで懲りてくれればいいのだが、頑丈なのが取り柄のタカシはこれでも懲りないのだろう。いっそのこと無視できればいいのだが、一度やってみたところ偏執狂染みた彼の執念により丸一日纏わりつかれるだけだった。今日は大切な用事がある。せめてこの場くらいはビシッと言って断ち切らねば。

「何度も言ってるけどアンタの話に付き合う気はないわ。そもそも今日はこれからコンパがあるの。相手はベンチャー企業の社長さん。私を振り向かせたかったらこれぐらいの男になってから言いなさい。じゃあね」
「ちょっと待てよリョーコ」
「うるさい!」

 私が手を振って踵を返すと、背後でタカシが追いすがった。秩父宮仕込みのタックルが来る前に、私は振り向きざまに指を振った。私の指先が青色の光を帯びて空に軌跡を残す。途端にタカシの身体が凍り付いた。比喩ではなく文字通りタカシの身体が氷の中に閉じ込められる。その姿を見てカオルが目を白黒させた。

「わーっ! タカシさん大丈夫ですか!?」
「大丈夫よ。死にはしないわ。魔物娘の魔法だもの」

 魔法に馴染みが薄いらしいカオルに向けて私は答える。タカシを包む氷は触ると確かに冷たいが、人の命を奪うことはない。身動きこそできないが、それも10分位待てば溶けて解放される。魔物娘だけが持つこの不条理な力は、不条理なほど人間に優しいのだ。
 夏の動物園の動物のデザートのように氷の中に閉じ込められてしまっては、流石のタカシも身動きできないらしい。私は満足して踵を返した。

「じゃあね、タカシ。しばらくそこで反省してなさい」

 後ろ手を振りながら私は歩きだす。これからマンションに戻ってコンパの支度をしなければならないのだ。化粧を直して、服装もそれに見合たものに変更する。これ以上この馬鹿に付き合っていられる時間なんてないのだ。戸惑っていた様子のカオルもやがて駆け足でついてきた。


 サクソフォンが静かに響くバーの一角で、私は二人きりで話を聞いていた。相手はコンパの参加者の一人で、IT会社の社長をしているという。短く刈り上げた黒髪に日に焼けた肌のいでたちの彼は、IT職にも社長職にも程遠いスポーツマンに見える。私が素直にそのことを口にすると、彼は悪戯っぽく笑って答えた。

「よく言われるよ。僕だってそんなに実感が湧いてないからね」

 彼が起業したのはまだ大学在学中に所属していたフットサルサークルのホームページの管理を任されたことが切っ掛けだった。パソコンでしか見ることのできない古いホームページをスマホでも見えるように改装する大事業をサークル仲間でやり遂げた際に、ITのノウハウを会得する。その技術を使って他学のフットサル仲間のホームページ改装の手伝いをしているうちにこれはビジネスになると悟った。最終的にスポーツ仲間のためのSNS立ち上げを機に起業して今に至る。

「人と人をつなげるためにITはあるんだ。僕らが使ってるこのスマホも、難しい計算するために作られたんじゃない。どこか遠くの誰かと話をするために作られたんだ。僕の仕事も同じだよ」

 そう言って笑みを浮かべると、彼はグラスを置いた。氷がカランと音を立てて、サクソフォンの響きと混じり合う。

「……リョーコさんも、そうだよね?」
「私?」
「うん。さっき皆と一緒に飲んでいた時から思ってた。人の話をちゃんと聞く目をしてるなって。これって、僕達の世界じゃすごく大事なんだ。デザインも企画も、結局は誰かの心を見る仕事だから」

 不意に名前を呼ばれて戸惑う私に、彼はくすりと笑ってみせた。
 
「ほら、今の顔。そういう表情は画面越しじゃ絶対にわからない。直接会ってみないと、ね」

 そう言いながら彼はじわじわと距離を詰めてくる。グラスを置いた彼の指先が卓上のコースターをなぞり、そして私の方へと伸びてきた。
 
「君ともっと話しをしたい。君のことを、もっと知りたい」

 そう言って、彼は私をじっと見つめる。その眼差しに私も引き付けられていた。気づけば、彼の顔がすぐそこにあった。そのまま彼が顔を寄せる。彼の掌が私の前髪を掻き分けるように頬を滑っていく。その手は氷の様に冷たかった――。
 バチン、と何かを叩く音が聞こえた。目の前の彼は頬を赤くして呆然としている。振りぬいた私の手から痺れるような痛みが遅れて伝わってきた。自分が何をしたのかを理解する前に私は言っていた。

「魔物娘だからって舐めないで! 私はそんなに安い女じゃないわ!」

 衝動の赴くままに私は席を立つ。背後で彼が続いて席を立ったので、私は振り向きざまに指を振った。青い光が輝くや否や、彼の両脚が凍り付いた。氷によって床に固定さて、伸ばした手だけが空を切る。それでも私を引き戻そうと情けない声を上げる彼をおいて、私はバーを後にした。


 気が付いたら私は公園でブランコを漕いでいた。道中の記憶は曖昧だ。ただ、繁華街の喧騒を離れて静かなところへ、人のいないところへ進んでいたことだけは覚えている。夜の闇に包まれた公園に人の気配はない。しんと耳を刺すような静寂の中で、私が漕いでいるブランコの軋み声だけが響いていた。
 一人きりなれた私はブランコを揺らしながら考えていた。それはかつて母が何度も語ってきた言葉。私の体に流れる血に込められた呪いの言葉。

――リョーコ、手が冷たい男の人には注意しなさい

 ベッドの上で親子川の字になったとき、母はおとぎ話の合間にいつも言った。

――私たちは人間じゃないの。私たちはグラキエス、人の心を凍えさせる氷の魔物なの。私たちの魔力にあてられた人は悪い考えを持つようになるの。そういう人は心と同じぐらい手が冷たくなっているから、注意しなさい。

 私はいつもその話を半信半疑で聞いていた。語りながら私の頬を撫でる母の掌は暖かかった。隣で眠る父の手を握っても暖かかった。冷たい手をしている人の存在が信じられず、私はいつもそんな人がいるものかと母に尋ねた。

――ママの身体があったかいのは、リョーコのことが大好きだからよ。パパもリョーコのことが大好きだからあったかいの。リョーコのことを本当に大好きな人は、私たちの魔力に負けないくらい熱い心を持っているわ。だからね、リョーコも手が暖かい人を見つけなさい。炎の様に熱い人を。大丈夫、そういう人には必ず巡り合うわ。ママがパパと出会えたようにね。

 大切な、されど遠い感じのする母の言葉に実感が湧いたのはそれから何年もあとのことだった。思春期になり、友達との話題もアニメからアイドルに切り替わった頃だろうか。いつの間にか男子から投げかけられる視線が他の女子と異なるようになっていた。男子たちは席替えで私の席の隣になるかどうかで一喜一憂し、日直が一緒になるかで悲喜交々させ、最後には運動会のマイムマイムで私と手をつなぐべく殺到するようになった。魔物娘として一早く二次性徴が始まった私は、いつの間にか男子を振り向かせる存在になっていたのだ。マイムマイムで殺到するライバルを押しのけ、私の手を握った男子の顔は法悦至極と言った風に顔を緩ませる。だが、そんな彼らの手はいつだって冷たかった。彼らが手を握る力を込めれば込める程に、その氷の様な冷気が私の手に伝わってきた。この時になって私はようやく母の言葉の意味と、自身にかけられた呪いを悟った。私は男を惑わす魔物であること。
 男たちの好意は私の魔力によって惑わされた結果だ。愚直な愛の叫びも、修辞を凝らした愛の詩も、全ては私が周囲に漏らす魔力に捧げられたものだ。私に、私という人格に向けられたものじゃない。私自身は魔物娘が持つ魔力の添え物であり、決して愛されることはないのだ。
 私の魔力に負けない男は必ず見つかると母は言っていた。それを信じて私は多くの男と出会いを重ねてきた。だけど私に触れる彼らの手はいつだって氷のように冷たかった。誰もが私が漏らす魔力に屈してただ空疎な愛の言葉を繰り返すだけだった。魔物娘であることを抜きにして、私個人を愛してくれる人は決していないのだ。母や父のように、私を熱く抱きしめてくれる人は決して現れないのだ。これからずっと、これまでそうだったようにずっと。

 嘘をついた。私は一人だけ、暖かな手を知っている。それも炎のように熱い手を。それは遥か昔の話。私が夜毎母の言葉を聞いていた幼いころの話だ。
 小学校に入る前の私が公園に出かけた時だった。その頃は魔物娘がこの世界に表れて間もなく、私たちに対する偏見もまだ残っていた。流石に人食いなどと罵られることはなかったが、公園にいた大人達は私を見つけると自身の子供を呼び戻して私から距離をとっていた。こんな状況で友達なんてできるはずもなく、私はいつも一人で遊んでいた。その日も同じように一人でブランコを漕いでいると突然声をかけられた。まったく意もしない出来事に言葉の意味を理解できず、私は驚いてブランコを止めて声の主を見た。真正面の安全柵の向こうで少年が一人身を乗り出してこっちを見つめていた。

「遊ぼうよ」

 視線が合うと、少年はもう一度、そう言った。初めての出来事に私は即答できず少年を見つめ返す。歳は私と同じくらいだろうか。外で遊ぶのが好きなのかその肌はよく日に焼けている。服装もここに来るまでに彼がどれほど楽しんでいたのか分かるほど砂埃にまみれていた。子供らしい好奇に満ちた少年の笑顔。その向こうで刺すように私たちを見つめる大人たちの目があった。

「いいの? 私、魔物娘だよ? 私と遊ぶとお母さんに叱られちゃうよ」

 ようやく私は答えた。当時の私でも自分が特別な存在であることは理解していた。公園に遊びに来るたびに大人たちが自分の子供を呼び寄せて、私と遊ばないように言い含める声も聞いてきた。私と一緒に遊ぶことは彼にとってきっと良くないに違いない。そう思って私は言葉を返すと、彼はニッと笑った。

「まものむすめ? よくわからないけど、母さんに言わなければいいんでしょ。内緒にするから一緒に遊ぼうよ」

 そう言って彼は手を差し出した。服と同じ位砂にまみれたその指先には、戦隊ヒーローの絆創膏が二枚、同じく砂まみれになりながら巻かれている。私はもう一度少年の後ろで私たちを監視している大人達の様子を伺った。彼らは私を監視しながら、何やら話し合っている。止めに入る大人がいないことから、この場に彼の親はいないらしい。それでも決して私たちから視線を外さないことから、私がなにかしようものならすぐに止めに出てくるだろうことは予想できた。私は彼の申し出を断ることを決めた。でも――

「じゃあ何して遊ぶ? かくれんぼにする? それとも鬼ごっこ?」

 ――私が答えるのを待ちきれなかったのだろう。いつの間にか柵を乗り越えていた彼は、返事をする前に私の手を取った。そして矢継ぎ早に問いかけながら私を引っ張っていく。その手は熱かった。夏の日差しの様に熱かった。
 
 あの日と同じように一人でブランコに揺られながら、あの少年の掌の温もりを思い出す。それは炎のように熱かった。あの温もりをもう一度と願ってこれまで多くの男たちと逢瀬を重ねてきた。だが、私と手を交わす男たちの手はどれも冷たかった。あの時の少年の様な熱い言葉を語る者もいたが、手の冷たさはほかの男達と変わらなかった。あの熱い手が握り返してくれる日は二度とこないのだ。これこそが、私の血に流れる呪い。男を魅了し、私へ愛の言葉を捧げる氷人形に変えるグラキエスの呪い。同じ女性の友人からは散々羨ましがられた私の生まれは、これほどまでに業が深いのだ。
 私は思わず顔を落とした。遠くの街頭によってぼんやりと照らされる地面を見つめながらブランコを鳴らす。
 
 ふと彼方から足音がした。調子よく刻んていたその足音が私の正面で不意に止まる。私が顔を上げると、街灯の下で男が立っていた。ジャージに反射ベストを重ねた身長190cmはあろうかという大男。頭上の街灯に照らされる岩の様な日焼け顔には見覚えがあった。

「タカシ、なんであんたがいるのよ」
「いや……ランニングしてて……」

 私の目の前にタカシがいた。切ろうとしても切れない縁を腐れ縁というのならば、会いたくないときに限って出会ってしまうタカシのとの関係はまさしくそれだ。タカシも意外そうなことが救いだ。いつもなら出会い頭に愛の言葉を叫ぶところを、今回は戸惑いながら言葉尻を濁らせていた。

「あっそ、こんな遅くまでトレーニングご苦労様。邪魔しないからさっさと行きなさいな」

 気まずさを押し隠して、私はタカシに向けて手を払う。しかし、タカシは依然として私をじっと見ていた。

「お前、コンパに行くって言ってなかったか?」
「あんたには関係ないでしょ!」

 思わず声を張り上げる。タカシの巨体がびくんと跳ねた。

「いいからどっか行きなさいよ。放っておいてちょうだい」

 あたりに響く自分の声にハッとして私は声を落とした。街灯の下の巨体がたじろぐ様に揺れる。そのまま去ってくれと願ったが、程なくしてタカシは前に一歩踏み出した。

「いや、放ってはおけないよ。だって俺はお前のことが――」
「――好きだから?」

 私が先回りして答えると、タカシは呻いて歩みを止めた。どうして、そう言いたげタカシは口を開く。私はその前に畳みかけた。

「みんな言っていたわ。好き、大好き、愛してる。私に言い寄ってくる男たちはみんなそう言ったわ」

 魔物娘の私はこれまで沢山の男と出会ってきた。彼らは千差万別、学年一の秀才がいたと思えば、お馬鹿キャラでクラスを和ませるひょうきん物もいた。会社社長として人々を率いていた人がいたと思えば、図書館の陽だまりで独り読書を嗜む文学青年もいた。はじめこそ彼れらはそれぞれ違った方法で私に話しかけてきたが、最後は異口同音に愛の言葉で締めくくった。ましてや、幼少のみぎりから前に進むことにしか能のないタカシの言葉など、簡単に予測できた。
 
「でもね、全部嘘! 歯の浮くような台詞も、馬鹿正直な熱い言葉も、全部私に言わされてるだけ」

 彼らが揃って口にする愛の言葉。修辞を凝らし、感情を込めた愛の言葉。だからこそ、そこに意思はない。冬の北風が体を震わせるように、冬の冷気が暖を求めさせるように、彼らの愛の言葉は私の魔力に言わされているのだ。

「いいこと、タカシ。私は男を魅了する魔物娘。近づくだけで心を凍えさせて人恋しくさせるグラキエスなの。愛してるなんて上っ面だけ。心の底では私の身体で暖を取りたいだけ。私の力で冷えた心を温めようとしているだけなの」

 私の魔力には誰も抗うことができない。僧侶のような生活をしていた苦学生すら、私が姿を見せると、視線を向けずにはいられなかった。ましてはタカシが抗うことが出来るだろうか。むしろ腐れ縁として長く私といっしょにいたからひときわ強く影響を受けているはずだ。幼い頃、色も恋も知らない頃からずっと公園で一緒に遊んでいたのだから。

「だからね、アンタも私の力にあてられてるだけ」

 私の言葉にタカシは何かを言おうとして口を開く。だが、何も出てこないようで、かすかに顎を動かした後、口を閉じた。珍しく言葉を考えているようだ。だが、タカシの小さな脳みそで意味のある言葉が出てくるかは疑わしい。そもそも返答を待つつもりもなかった私は、そのままブランコから立とうと地面を蹴る。靴が地面を踏みしめる音に反応したのか、ようやくタカシが声を上げた。

「確かに、俺はリョーコの魔力にあてられているかもしれない」

 ようやく出てきたタカシの言葉はあろうことか降伏宣言だった。あまりの情けなさに私は鼻を鳴らす。それでもタカシは続けた。

「でも、でも、俺はずっとリョーコのことが好きだったんだ。ずっとずっとリョーコのことが好きだったんだ」

 タカシは顔を上げて、何度も何度も好きだと叫ぶ。でもそんな言葉は何回も聞いた。私の前を通り過ぎていく冷たい手をした男達から。そして、タカシからも子供の頃から。

「だから、今のリョーコは放っておけないんだ。寂しそうで、悲しそうで、そんな表情をリョーコにしてほしくないんだ」

 幾度となく聞いた愛の言葉。ありきたりな愛の言葉。タカシの言葉が熱を帯びる程に、私の心は冷えていくのを実感した。

「だから俺は、あの時も声をかけたんだ。初めてリョーコと出会ったときに、一人で寂しそうにブランコを漕いでいたリョーコに」

 そう言ってタカシは私を見据える。その顔立ちに、幼いタカシの姿を思い出した。

――遊ぼうよ。

 その言葉と共に差し出された少年の頃のタカシの手。砂にまみれて、ところどころ絆創膏が巻かれていたタカシの手。躊躇する私の手を掴んだその手は太陽のように暖かった。

「だから、俺はリョーコを放っておけなくて、それで……ちくしょう、なんて言えばいいか分からねえ」

 言葉を並べては押し黙るを繰り返すタカシをよそに、私は改めてブランコを蹴って立ち上がった。

「全部嘘! あんたの言葉は全部私の魔力に言わされてるだけ!」

 私の大声に、タカシは怯んだ様に言葉を止める。私はタカシの目をしっかり見据えて続けた。

「私がそれを証明してあげる!」

 そう言って、私はタカシの元まで歩いた。後ずさるタカシを逃がさず距離を詰め、その顔を睨み上げる。

「手を出しなさい」
「それ、どういう……」
「いいからさっさと出しなさい!」

 私が強く言うと、タカシはおずおずと手を差し出した。街灯の薄明りにその手が照らされる。それは幾重もの修練を重ねたスポーツマンの手だ。ごつごつと岩のようなその手は、日に焼けて黒に染まっている。絆創膏がまかれたあどけない少年の面影は残っていない。
 
「いい? 私、グラキエスの魔力は人の心を凍えさせて人のぬくもりを求めさせるの。だから、私の魔力にあてられた人は、心と同じくらい身体も冷えてしまってるわ。私が手を握ってアンタの手が冷たかったら、私の魔力にあてられてる証拠になるわ」
 
 視線を上げて、タカシの目を見据える。
 
「アンタからしたら、私の手が暖かかったら、私の魔力にあてられてる証拠よ。その時は私のことはきっぱり諦めて別の女を探しなさい。私みたいな魔物娘じゃなくて、ちゃんとした人間の女の子をね」
 
 そうタカシに言い含めると、私は改めてタカシの手に視線を落とした。自分の手も持ち上げる。深呼吸を一度する。タカシも緊張しているらしい。夜の公園でごくりと唾を飲む音が響いた。
 
「じゃあ、握るわね」
 
 そう言って私はタカシの手を握った。その感触は見た目通り岩のように硬い。部活に励み、パスボールを受け止め、追いすがる相手に引き倒され、幾度となくグラウンドを掻いた者だけが持てる鍛え抜いた感触。その手は――

「リョーコ……これはどうなんだ?」

 夜の静かな公園にタカシの声が木霊する。黙ってタカシの手を握る私の沈黙に耐えれなかったらしい。当惑するタカシを無視して、私は確認を続けた。一度、二度、と握り返す。ついには両手を使ってタカシの手を包むように握って確かめる。信じがたいそれを確かめるようにしっかりと握り直す。ようやく私がそれを受け入れた頃、タカシがまた声を上げた。

「なあ、俺にはリョーコの手の方が冷たく感じるんだが、これはどういうことなんだ?」
 
 ――その手は暖かかった。幼い頃、私の手を掴んで遊びに誘った少年のタカシのように、いやそれ以上に暖かった。それこそ、太陽どころか、炎に直接手をかざした様な熱を感じた。その熱を求めて、私はタカシの手を胸元に引き寄せる。
 
「なんで、暖かいのよ……」
 
 そこまで言って、急に目頭が熱くなった。タカシの掌の熱さにあてられたのか、熱い涙があふれてくる。視界を涙に覆われて私はようやくその理由を知った。私は、怖かったのだ。タカシの手が冷たくなることを。無邪気に私を誘ったその手から、温もりが失われることを。
 私はグラキエス。魔力によって人の心を凍えさせる魔物。多くの人が他人の温もりを求めるよう、その心を凍えさせてきた。自分自身にすら制御できないこの力は、きっとタカシの心まで凍えさせてしまう。色も恋も知らぬ少年の想いを、ただの下心に変質させてしまう。そう思っていたから、私はタカシから遠ざかろうとしていたのだ。遠ざかるためにも、タカシから嫌われようとしていたのだ。それほど私は――
 
「好き!」
 
 そう言って、私はタカシの胸に飛び込んだ。鍛え抜いた分厚い筋肉が私の身体を受け止める。それもまた熱かった。炎のように。太陽のように。
 
「私だって、子供のころからタカシの事が好きだった! 一人で遊んでいた私を引っ張ってくれたタカシのことが好きだった!」
 
 ――タカシの事が好き。一度口に出してしまうと、途端に言葉が止まらなくなった。
 
「ずっと、ずっとタカシの事が好きだった。でも、私は魔物娘だから、人を誑かす悪い女だから、だから、私はタカシに相応しくないって思ってた。でも、でもやっぱりタカシのことが好き」
 
 ずっとしまい込んでいた想いを吐き出しながら、タカシの身体にしがみつく。その熱さを全身で感じるように背中に手を回して抱きしめる。
 
「リョーコ……俺は……俺は……」
 
 戸惑うタカシに私はただ彼に這わせる手に力を込めた。タカシの思っていることは言わなくても分かってる、そういう気持ちも込めて、強く力を込める。やがてタカシはおずおずと私の背中に手を回した。最初はおっかなびっくりと言ったつもりで弱く、優しく、でもすぐに力を込めて強く抱きしめた。そして、
 
「!!!!!!!!」
 
 言葉にできない雄たけびをタカシは上げた。その声はあまりにも大きすぎて、植木で眠っていた鳥が鳴き声を上げる。近所迷惑な行動に、いつもならそれを咎めて頭に一発ぶち込んでいたかもしれない。でも今はどうでもよかった。タカシの身体の熱を感じられたから。タカシの想いを、やっと受け入れることができたのだから。
 
 
「昨日の人、二人きりで話してみたら全然だめ。結局一人で帰っちゃった。リョーコの方はどうだった」
「私の方も同じよ、下心見え見えだったから、引っ叩いてやったわ」
 
 カオルと昨日のコンパの話をしていると、廊下の向こうから歩いてくるタカシを見つけた。私と目があったタカシは日に焼けて黒くなった岩のような顔を緩めて満面の笑みを浮かべる。
 
「リョーコ! 好きだ! 結婚してくれ!」

 最後にそう絶叫して、タカシは私たちの方に駆け出してきた。廊下を歩く他の学生たちは関わりたくないと言わんばかりに道を開ける。隣のカオルも顔を青くしてヤバいと漏らした。私は肩をすくめるとタカシに向かって駆け出した。駆け寄ってくる私の姿を見てタカシの瞳が輝きを増す。私を受け入れようと彼の腕が広げられた。嬉々とした表情でかけてくるタカシは私のすぐ目の前に到達すると何かに備えるように顔を険しくする。だがそれもすぐに当惑の表情に変わった。私はそのままタカシの胸に飛び込んだ。
 
「おい、リョーコ、これはどういうことだ!」
「リョーコ、どうしちゃったの?」
 
 タカシとカオルがそろって声を上げる。私はタカシの顔を見上げて答えた。
 
「その顔は何? アンタが始めたんじゃない。男なら覚悟を決めなさい」
 
 驚きの表情を浮かべるタカシにそう言って、私は背中に手を回して抱きしめる。
 
「私もアンタのこと好きよ。結婚してあげる」
 
 周囲の学生たちはどよめきの声を上げ、カオルはもとよりタカシすら呆然と立ちすくむ。それでも私は構わずタカシの胸に顔を埋めた。そして、タカシの身体の温もりを全身で感じていた。それはお日様のように暖かかった。
25/08/16 23:51更新 / ハチ丸

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33