泥棒と泣く女
――神様なんていやしねぇ。
もしいたとしても、とんでもねぇ捻くれ者だ
ボロボロになった体を地面に投げ出して、俺は神を、神から送られた俺の半生を呪った。
農奴の家の四男だか五男だかに生まれた俺の人生は苦しみしかなかった。そこにあるのは親父からの暴力だった。領主に対してひたすら媚びへつらう俺の親父は、ことあるたびに俺たちを殴った。朝目が覚めれば甕の水が空だと殴り、川から水を汲んでくれば畑仕事が遅れていると殴り、水やりと草刈りを終わらせれば家畜小屋が騒がしいと殴り、家畜の手入れと小屋の掃除を終えれば晩酌の酒が足りぬと殴り、終いには悪い酔いしたからといって殴ってきた。兄貴もお袋も親父の暴力から身を守るのに精いっぱいで助け合うことなんてできなかった。俺がしこたま殴られて伸びたとき、家族は親父の言いつけに従って俺を戸外に放り出した。冷たい夜風に体を振るわせながら俺は家を出ることを決意した。
道なき山を登ること三日、峠の関所はうまくすり抜けることができた。何食わぬ顔で道に戻ると、地平の向こうに見えた街並みに希望を感じていた。だがいざ街に潜り込み、糧を得るべく職を探すと、どこもかしこも俺の願いを断った。町の仕事は町の住民(自由市民)のもの。そのためにも職に就くにはギルド親方の証書が必要だった。逃亡農奴の俺にそんなものはあるわけなかった。
ならばとばかりに俺は大通りに腰を据えると、道中で見つけた木箱を置いて物乞いを始めた。うつむいて、往来する無数の足を眺めるとこしばらく、不意に俺の視界を影が覆った。喜び勇んで顔を上げると飛んできたのは喜捨ではなく拳だった。俺の鼻っ柱を打ちぬいた犯人は大声を張り上げて言った、誰の許可を得ているんだ。そしてボロボロの外套を直すと、さっきまで俺が座っていたところに腰を下ろした。どうやらこの街では乞食ですら親方衆の証書が必要らしい。俺はすごすごと通りを後にした。
山越えした三日間、碌に飯を食ってなかった。腹は限界まで減っていた。着の身着のまま家を出た俺に銭はなければ、それと交換できそうな金品も持っていなかった。路地裏の静寂の中でうずくまった俺は、鳴り響く腹の声にやむなく法を犯すことを決意した。
通りに戻ると辺りを物色する。すぐにパンの露店が見つかった。ちょうどいいことに店主は客との会話に夢中なようで隙だらけだった。俺は何気ない素振りで近寄ると、露店の端に置かれていたパンをつかんだ。そのままパンを懐に入れたところで店主が横目で俺を見ていることに気が付いた。客との会話を打ち切った店主は、怒りで歪んだ顔を俺に向ける。泥棒、と店主が叫ぶより早く、俺は身を翻して逃げ出した。追いすがる店主を後ろに全力で走る。だが空きっ腹では足に力が入らず、すぐに俺は捕まった。店主は俺を衛視に突き出す代わりに拳を振った。倒れ込んだ俺に、店主はさらに足で踏みつけてくる。そこに店主の仲間が現れた。パン泥棒のいきさつを聞いた彼らは店主に加勢して俺を蹴飛ばした。降ってくる靴底に俺は体を丸めて耐えるが、それも長くはもたなかった。横に蹴飛ばされた俺は体制を崩して仰向けに転がった。あらわになった俺の腹に店主が足をたたきつけてきた。液体だけの反吐を吐いて、俺は反射的に上体を浮かべる。そこを新たな靴底が踏みにじった。石畳に頭を押し付けられて、瞼の裏に火花が散った。最早なすすべはなかった。身をかばうことすらできず、俺は彼らの暴力のまま任せるしかなかった。痛みが衝撃が、俺の体中を荒れ狂う。だがそれも意識と一緒に霞んで遠くなっていった。
蹴りの痛みがいよいよもってぼんやりしてきたところで、不意に奇妙な浮遊感が俺を襲った。直後に、体全体に衝撃が走る。重い瞼を開けると、薄暗い路地裏から光が差し込む大通りへ去っていく店主たちの後ろ姿が見えた。どうやら俺をこの路地裏に放り投げたところでようやく店主の気が済んだらしい。制裁が終わったことを悟った俺は、重みに任せて瞼を下ろした。
店主たちが投げ捨てた姿そのままに、俺はぼんやりと考える。不思議と痛みは感じなかった。体は水袋か何かのように重くて動かなかった。そして自身の体温が芯から冷えていくのが感じ取れた。今まで感じたことのない感覚だった。親父に殴られて外に放り出された時ですらこんな感覚はなかった。どうやら俺は死ぬのかもしれない。どういうわけか怖くなかった。死を目前にしても不思議と恐怖は感じなかった。ただ、自分の人生が情けなかった。
思えば殴られてばかりの人生だった。家では親父に殴られ戸外に捨てられ、町では住民に殴られ路地裏に捨てられ、ただ殴られて捨てられるだけの人生だった。神父の爺さんは、人生は神様が一人一人に下さった贈り物だと言った。こんなくそったれな人生が贈り物とは到底思えない。神様なんていないと考えた方がよっぽど自然だ。よしんば爺さんの言う通り神様がいるとしたら、俺が苦しんでいる姿を見て喜ぶ捻くれ者だ。そんな奴がくれた人生なんて願い下げだ。お前の望み通り死んでやる。
――かわいそう……
不意に人の声がした。今にも消えて無くなりそうな女の声だった。
――かわいそう……
かすれた声が最後に詰まって、しゃくりあげた。やがて喉を振るわせる泣き声が続いた。
――かわいそう、こんなにボロボロなのに、助けてくれる人が一人もいない。そんなあなたがかわいそう……
どうやら声の主は俺の姿を見て泣いているようだった。乞食にすらなれなかった男を見て泣くとは随分と酔狂な女だ。だが、その声が、こんなクズのために流す涙が今は邪魔だった。ようやくこの碌でもない人生が終わるというのに、声が気になって眠れやしない。そこのお嬢さん、この俺を哀れに思うなら、今すぐここから立ち去ってくれないか。
――かわいそう、何一ついいことなかったのね。そんなあなたがかわいそう……
俺の願いとは裏腹に、女の泣き声は強くなっていく。人の半生を勝手に哀れみ、勝手に涙することに思うことはあった。同情されたところで俺の惨めな過去は変わらない。今の俺が惨めなことも変わらない。ただただ自分が情けなる。これじゃあまるで見世物じゃないか。いいか俺の人生は見世物なんかじゃない。せめて今際の時ぐらい一人にしてくれ。そして逃げ出した先で何にもなれず、盗人に堕ちた屑を惨めなまま殺してくれ。
――かわいそう、自分で自分を否定して。そんなあなたがかわいそう……
俺が強く願っても、女は更に泣くばかり。耳に響く慟哭は消えることがない。だがその嗚咽を聞いていると、どういうわけかこの怒りが引いていった。代わりにお袋の姿を思い出した。
二番目か三番目の兄貴が川遊びで死んだときだ。兄貴の遺体を棺桶に入れて、墓場で最後のお祈りを終えた時のことだった。後は棺桶の蓋を閉じて穴に埋めるだけとなったとき、突然お袋が前に出ると、棺桶の中の兄貴の頬を撫でながら涙を流し始めた。声は上げなかった。ただ静かに涙を流すだけだ。そこに親父が進み出た。碌に働きもしねえまま死んだガキに泣いてやる必要はねえ。そう言いながら親父が引きはがすと、お袋は更に声を上げて泣き始めた。物心ついていなかった俺はその姿をぼんやりと眺めることしかできなかった。
お袋は俺が死んだとき泣くのだろうか。不意に浮かんだ疑問に答えは出ない。なぜならお袋が泣いたのはその時だけだったからだ。その後になって弟や妹が風邪を拗らせて死んでもお袋は泣かなかった。もしかしたら俺と同じようにお袋も俺たちの事を諦めたのかもしれない。
そう考えていると、女の泣き声が温かく感じた。
家族が諦めた人生を惜しんでくれる人がいる。自身ですら投げ出した人生を悔やんでくれる人がいる。そう思うと、空っぽだった心のどこかが満たされていく、そんな気がした。
神様どうかいるならば、この涙を、こんなくそったれのために泣いてくれる女の涙を、どうか止めてくれないか?
彼女が俺にしてくれたように、俺も彼女になにかをしてやりたかった。だが今まさに果てようとしている体では何もできやしない。できることと言ったら、崩れ落ちそうなこの意識で、願いを一つ思うこと。だから俺は否定したばかりの神様に祈った。この心優しい女が、これ以上悲しまないようにと。途端に頭の奥で声が響いた。
――その願い、しかと聞き届けた
突然、瞼の奥で閃光が走った。次の瞬間俺は目を見開いていた。
見えたのは泣きじゃくる女の顔だった。空を背景に俺を覗き込むその女は、艶やかな黒髪を垂らした陰鬱な、されどまぎれもなく絶世の美女だった。白い指をせわしなく動かして瞼に溜まる涙を掻いていた彼女に見惚れていると、不意に目が合った。泣きはらした目を見開いた彼女は俺に縋りついた。
「復活したのね。よかった。本当によかった。もう辛いことはないわ。世界には楽しいことで満ちてるって教えてあげる。全部私が教えてあげる。だから、だから……」
そこまで言って、感極まったらしい彼女の肩を、おれは自然と抱いていた。ひんやりとした彼女の感触を伝える俺の肌には、蹴られた時の痣がなくなっていた。それどころかさっきまで体の奥底で渦巻いでいた鈍痛も消え去っていた。どうやら彼女の言う通り俺は一度死んで、それから復活したらしい。復活の瞬間に聞こえた声を思うと、これは神様の奇蹟なのかもしれない。神様が俺を死の淵から救ってくれたのだ。そればかりかこんな美女と結び付けてくれたのだ。神様は本当にいたんだ。
でもやっぱり神様は捻くれ者だ。俺は彼女の涙を止めろとお願いした。なのに、俺に縋りつくこの女は、この俺のために涙を流してくれたこの女は、未だに俺の胸の中で泣いている。
もしいたとしても、とんでもねぇ捻くれ者だ
ボロボロになった体を地面に投げ出して、俺は神を、神から送られた俺の半生を呪った。
農奴の家の四男だか五男だかに生まれた俺の人生は苦しみしかなかった。そこにあるのは親父からの暴力だった。領主に対してひたすら媚びへつらう俺の親父は、ことあるたびに俺たちを殴った。朝目が覚めれば甕の水が空だと殴り、川から水を汲んでくれば畑仕事が遅れていると殴り、水やりと草刈りを終わらせれば家畜小屋が騒がしいと殴り、家畜の手入れと小屋の掃除を終えれば晩酌の酒が足りぬと殴り、終いには悪い酔いしたからといって殴ってきた。兄貴もお袋も親父の暴力から身を守るのに精いっぱいで助け合うことなんてできなかった。俺がしこたま殴られて伸びたとき、家族は親父の言いつけに従って俺を戸外に放り出した。冷たい夜風に体を振るわせながら俺は家を出ることを決意した。
道なき山を登ること三日、峠の関所はうまくすり抜けることができた。何食わぬ顔で道に戻ると、地平の向こうに見えた街並みに希望を感じていた。だがいざ街に潜り込み、糧を得るべく職を探すと、どこもかしこも俺の願いを断った。町の仕事は町の住民(自由市民)のもの。そのためにも職に就くにはギルド親方の証書が必要だった。逃亡農奴の俺にそんなものはあるわけなかった。
ならばとばかりに俺は大通りに腰を据えると、道中で見つけた木箱を置いて物乞いを始めた。うつむいて、往来する無数の足を眺めるとこしばらく、不意に俺の視界を影が覆った。喜び勇んで顔を上げると飛んできたのは喜捨ではなく拳だった。俺の鼻っ柱を打ちぬいた犯人は大声を張り上げて言った、誰の許可を得ているんだ。そしてボロボロの外套を直すと、さっきまで俺が座っていたところに腰を下ろした。どうやらこの街では乞食ですら親方衆の証書が必要らしい。俺はすごすごと通りを後にした。
山越えした三日間、碌に飯を食ってなかった。腹は限界まで減っていた。着の身着のまま家を出た俺に銭はなければ、それと交換できそうな金品も持っていなかった。路地裏の静寂の中でうずくまった俺は、鳴り響く腹の声にやむなく法を犯すことを決意した。
通りに戻ると辺りを物色する。すぐにパンの露店が見つかった。ちょうどいいことに店主は客との会話に夢中なようで隙だらけだった。俺は何気ない素振りで近寄ると、露店の端に置かれていたパンをつかんだ。そのままパンを懐に入れたところで店主が横目で俺を見ていることに気が付いた。客との会話を打ち切った店主は、怒りで歪んだ顔を俺に向ける。泥棒、と店主が叫ぶより早く、俺は身を翻して逃げ出した。追いすがる店主を後ろに全力で走る。だが空きっ腹では足に力が入らず、すぐに俺は捕まった。店主は俺を衛視に突き出す代わりに拳を振った。倒れ込んだ俺に、店主はさらに足で踏みつけてくる。そこに店主の仲間が現れた。パン泥棒のいきさつを聞いた彼らは店主に加勢して俺を蹴飛ばした。降ってくる靴底に俺は体を丸めて耐えるが、それも長くはもたなかった。横に蹴飛ばされた俺は体制を崩して仰向けに転がった。あらわになった俺の腹に店主が足をたたきつけてきた。液体だけの反吐を吐いて、俺は反射的に上体を浮かべる。そこを新たな靴底が踏みにじった。石畳に頭を押し付けられて、瞼の裏に火花が散った。最早なすすべはなかった。身をかばうことすらできず、俺は彼らの暴力のまま任せるしかなかった。痛みが衝撃が、俺の体中を荒れ狂う。だがそれも意識と一緒に霞んで遠くなっていった。
蹴りの痛みがいよいよもってぼんやりしてきたところで、不意に奇妙な浮遊感が俺を襲った。直後に、体全体に衝撃が走る。重い瞼を開けると、薄暗い路地裏から光が差し込む大通りへ去っていく店主たちの後ろ姿が見えた。どうやら俺をこの路地裏に放り投げたところでようやく店主の気が済んだらしい。制裁が終わったことを悟った俺は、重みに任せて瞼を下ろした。
店主たちが投げ捨てた姿そのままに、俺はぼんやりと考える。不思議と痛みは感じなかった。体は水袋か何かのように重くて動かなかった。そして自身の体温が芯から冷えていくのが感じ取れた。今まで感じたことのない感覚だった。親父に殴られて外に放り出された時ですらこんな感覚はなかった。どうやら俺は死ぬのかもしれない。どういうわけか怖くなかった。死を目前にしても不思議と恐怖は感じなかった。ただ、自分の人生が情けなかった。
思えば殴られてばかりの人生だった。家では親父に殴られ戸外に捨てられ、町では住民に殴られ路地裏に捨てられ、ただ殴られて捨てられるだけの人生だった。神父の爺さんは、人生は神様が一人一人に下さった贈り物だと言った。こんなくそったれな人生が贈り物とは到底思えない。神様なんていないと考えた方がよっぽど自然だ。よしんば爺さんの言う通り神様がいるとしたら、俺が苦しんでいる姿を見て喜ぶ捻くれ者だ。そんな奴がくれた人生なんて願い下げだ。お前の望み通り死んでやる。
――かわいそう……
不意に人の声がした。今にも消えて無くなりそうな女の声だった。
――かわいそう……
かすれた声が最後に詰まって、しゃくりあげた。やがて喉を振るわせる泣き声が続いた。
――かわいそう、こんなにボロボロなのに、助けてくれる人が一人もいない。そんなあなたがかわいそう……
どうやら声の主は俺の姿を見て泣いているようだった。乞食にすらなれなかった男を見て泣くとは随分と酔狂な女だ。だが、その声が、こんなクズのために流す涙が今は邪魔だった。ようやくこの碌でもない人生が終わるというのに、声が気になって眠れやしない。そこのお嬢さん、この俺を哀れに思うなら、今すぐここから立ち去ってくれないか。
――かわいそう、何一ついいことなかったのね。そんなあなたがかわいそう……
俺の願いとは裏腹に、女の泣き声は強くなっていく。人の半生を勝手に哀れみ、勝手に涙することに思うことはあった。同情されたところで俺の惨めな過去は変わらない。今の俺が惨めなことも変わらない。ただただ自分が情けなる。これじゃあまるで見世物じゃないか。いいか俺の人生は見世物なんかじゃない。せめて今際の時ぐらい一人にしてくれ。そして逃げ出した先で何にもなれず、盗人に堕ちた屑を惨めなまま殺してくれ。
――かわいそう、自分で自分を否定して。そんなあなたがかわいそう……
俺が強く願っても、女は更に泣くばかり。耳に響く慟哭は消えることがない。だがその嗚咽を聞いていると、どういうわけかこの怒りが引いていった。代わりにお袋の姿を思い出した。
二番目か三番目の兄貴が川遊びで死んだときだ。兄貴の遺体を棺桶に入れて、墓場で最後のお祈りを終えた時のことだった。後は棺桶の蓋を閉じて穴に埋めるだけとなったとき、突然お袋が前に出ると、棺桶の中の兄貴の頬を撫でながら涙を流し始めた。声は上げなかった。ただ静かに涙を流すだけだ。そこに親父が進み出た。碌に働きもしねえまま死んだガキに泣いてやる必要はねえ。そう言いながら親父が引きはがすと、お袋は更に声を上げて泣き始めた。物心ついていなかった俺はその姿をぼんやりと眺めることしかできなかった。
お袋は俺が死んだとき泣くのだろうか。不意に浮かんだ疑問に答えは出ない。なぜならお袋が泣いたのはその時だけだったからだ。その後になって弟や妹が風邪を拗らせて死んでもお袋は泣かなかった。もしかしたら俺と同じようにお袋も俺たちの事を諦めたのかもしれない。
そう考えていると、女の泣き声が温かく感じた。
家族が諦めた人生を惜しんでくれる人がいる。自身ですら投げ出した人生を悔やんでくれる人がいる。そう思うと、空っぽだった心のどこかが満たされていく、そんな気がした。
神様どうかいるならば、この涙を、こんなくそったれのために泣いてくれる女の涙を、どうか止めてくれないか?
彼女が俺にしてくれたように、俺も彼女になにかをしてやりたかった。だが今まさに果てようとしている体では何もできやしない。できることと言ったら、崩れ落ちそうなこの意識で、願いを一つ思うこと。だから俺は否定したばかりの神様に祈った。この心優しい女が、これ以上悲しまないようにと。途端に頭の奥で声が響いた。
――その願い、しかと聞き届けた
突然、瞼の奥で閃光が走った。次の瞬間俺は目を見開いていた。
見えたのは泣きじゃくる女の顔だった。空を背景に俺を覗き込むその女は、艶やかな黒髪を垂らした陰鬱な、されどまぎれもなく絶世の美女だった。白い指をせわしなく動かして瞼に溜まる涙を掻いていた彼女に見惚れていると、不意に目が合った。泣きはらした目を見開いた彼女は俺に縋りついた。
「復活したのね。よかった。本当によかった。もう辛いことはないわ。世界には楽しいことで満ちてるって教えてあげる。全部私が教えてあげる。だから、だから……」
そこまで言って、感極まったらしい彼女の肩を、おれは自然と抱いていた。ひんやりとした彼女の感触を伝える俺の肌には、蹴られた時の痣がなくなっていた。それどころかさっきまで体の奥底で渦巻いでいた鈍痛も消え去っていた。どうやら彼女の言う通り俺は一度死んで、それから復活したらしい。復活の瞬間に聞こえた声を思うと、これは神様の奇蹟なのかもしれない。神様が俺を死の淵から救ってくれたのだ。そればかりかこんな美女と結び付けてくれたのだ。神様は本当にいたんだ。
でもやっぱり神様は捻くれ者だ。俺は彼女の涙を止めろとお願いした。なのに、俺に縋りつくこの女は、この俺のために涙を流してくれたこの女は、未だに俺の胸の中で泣いている。
19/02/02 15:06更新 / ハチ丸