第二章 試用期間
かくしてルーを泊める羽目になった俺は、彼女の寝台を調達すべく外に向かった。実際はその前にルーの部屋である物置部屋の掃除があった。倉庫代わりにしていただけに、荷物の中には薬瓶を詰め込んだ木箱だの、袋いっぱいに詰め込まれた粉末剤だのと言った重量物が中に転がっている。ルーが寝起きできる程度に片づけることですら相当な力仕事だろう。そう思って荷物を前に気合を入れていると、続いて部屋に入ってきたルーがその重い荷物を軽々と持ち上げたのだった。驚愕した俺が問うと、トリスさんから伝授された魔法の力だと事も無げに答えた。超常の力をいとも容易く使いこなすルーの姿は確かに大悪魔の眷属らしい。だが少女然とする小柄な彼女が重い木箱をひょいひょいと動かしていく様を見ると、気合を入れていた俺の男気というものが、自覚できる速度でしぼんでいった。最終的に部屋の片づけをルーに任せると、俺は家主という立場をよりどころに、金銭が絡んだ仕事を為しに街へと繰り出したのだった。
商店街で俺の話を聞いた皆は一様にルーに同情していた。家具屋のビクトルさんは寝台を負けてくれたばかりか、俺の家まで届けてくれると約束してくれた。仕立て屋のマルグリットさんに至っては、どう見ても売り物の綿布のシーツを端切れと言ってただで譲ってくれた。おかげで俺の懐もだいぶ痛まずに済んだ。最後に配送の手はずを整えて店に戻ってもまだ日は傾いていなかった。話が順調に進んだため、外に出てからさほど時間は経っていない。流石にまだ片付いていないだろう。掃除の進捗を考えながら居住スペースに続く階段を上っていると、不意に爽やかな香りが鼻をくすぐった。はて、我が家はこんな香りがしただろうか? 思い返してみても出てくるのは独り身の男部屋らしい据えた臭いばかりだった。辟易して幾度も掃除を試みたが、この臭いは終ぞ消えることはなかった。なぜその臭いとは関係ない爽やかな香りがしているのか? 首を傾げながら階段を登りきると、煌く光が目を刺した。
階段の突き当り、記憶にある炊事場の光景は、水垢がこびり付いた流し台に、煤まみれのキッチンストーブ、そして何より長年使い古した結果、すっかり色のくすんだ食卓があったはずだった。だが、目の前の流し台はタイルの一つ一つがはめ込まれたばかりのように艶めき、キッチンストーブも一度も火を焚いたことがないとばかりに表面を輝かせ、食卓に至ってはニスを塗りなおしたかのような光沢を取り戻していた。
「おかえりなさいませ、ガストンさん」
様変わりした自宅の光景に呆然としていると、背後から声をかけられた。慌てて振り返ると、階段脇のトイレからルーが顔をのぞかせていた。
「これ、全部お前がやったのか?」
「はい、手が空きましたので一緒に片づけてしまおうと思いまして。ちょっと待ってください。こっちもあと少しで終わりますから」
そう言ってルーはトイレに引っ込んだ。手持無沙汰な俺は改めて炊事場を見渡した。水回り、キッチンストーブ、食卓から床に至るまで、新品同様の輝きを放つそれは何かのついでにできるような仕事ではない。これもトリスさんから授かった魔法の力なのだろうか。俺が感嘆の息をついたところで、ふと窓にぶら下がる影に気が付いた。可愛らしい小さなリボンがあしらわれた巾着状のそれは、窓から吹き込む風を受けて、爽やかな芳香を振りまいていた。ポプリの類だろう。折からの香りはこれから漂っているようだった。
背後から、おりゃー、というルーの掛け声が聞こえた。同時にトイレから水音が響く。流れる音が終わると、精々とした顔のルーがトイレから出てきた。
「こちらも終わりました。流石に疲れましたのでちょっと休憩です」
そう言うと、ルーは食卓に突っ伏した。大儀そうに机に顔をくっつけるルーの脇をすり抜けて、俺はトイレの様子を伺った。扉を開けて感じたことは、この炊事場と同じく爽やかな香りがすることだった。息をするのも覚悟が必要だったはずのトイレはすっかり安心できる匂いで包まれている。こびり付いて洗い落とすことを投げ出していた便器の汚れも綺麗に消え失せていた。そして片隅の小窓では、炊事場で見たものと同じ小袋が風に揺られていた。
「凄いじゃないか。ここまで綺麗にできるなんて、これも荷物を運んだのと同じ魔法の力か?」
「こっちはそうでもないです。ただ、家事はトリス様のところでずっとやってきましたから。ほら、ルーは言いましたよ。お掃除はばっちりだ、って」
伏せていた頭を上げて、ルーはにんまりと笑った。
「えへへ。ほら褒めてください。ルーは有能なんです」
笑顔で称賛を求めるルーは憎らしほどに可愛らしい。しかし、実際に言葉通りの成果を出している以上冗談で茶化すことはできなかった。能なし魔だの穀潰し魔だのさんざん罵った過去は改めねばならない。
「もっとひどいこと言ってますよガストンさん!」
「だからその宣言を撤回するといってるだろ。ところで、確認してなかったが部屋はもう片付いたんだろうな?」
普段通りに茶化せないのはどうも具合が悪い。話題を切り替えながら俺は空き部屋の戸を開けた。
「はい。薬草はまとめて部屋の隅に、空き箱は裏口に、薬液の瓶もルーのほうで一階に下ろしておきました」
背後から聞こえる報告通り、空き部屋はすっかり片付いていた。乱雑に転がっていた商品の木箱は部屋の隅に整然と積み上げられていた。ご丁寧に可愛らしい丸文字のラベルまで張られている。一緒に空き部屋に突っ込んでいた掃除用具だの冬用の木炭ストーブだのといった雑貨の類もその脇にまとめられていた。埃塗れだった床が光沢を取り戻しているところを見ると、わざわざ雑巾がけまでしたらしい。外に出て帰ってくるまでの時間を考えると、どうやったのか疑問に思うくらいだ。
記憶とは様変わりした部屋の印象に感心していると、部屋の中央に積み上げられた物体が目に入った。よくよく見れば、それは紙束や書籍の山のようだった。その正体を悟ったとき、俺の心臓が音を立てた。
「ただ、いくつか判断がつかなかったものがありましたので、それは部屋の真ん中に――あっ!」
背後のルーも見せようとしたものを思い出したのか言葉をつまらせる。
男の一人暮らしにある種の物は欠かせない。ルーに掃除させるにあたって、俺も普段使うもの、目ぼしいものは先んじて私室のほうに退避しておいた。だが、普段使わないがために忘れ呆けていたものがあった。例えば、追っかけの作者であるがゆえに買ったはいいが、自分の嗜癖と違って使いあぐねている書物の類だ。
「あの、ルーは魔物ですから、そういうのもは変だと思わないというか、致し方ないというかですね、あの、むしろ魔物冥利に尽きると思ったりとかですね――」
俺は積み上げられた冊子の山を恐る恐る覗いた。頂に置かれていたのは文豪ウラジミールの「愛しのドロレス」。表紙を飾るのはルーの様な年端のいかない少女が肌を晒す姿だった。ドロレスという少女に魅入られた男が、彼女と旅をしながら訪れる先々で愛欲の限りを尽くす話だ。同じ著者が書いたチェスの話に感銘して手にしたはいいが、内容が肌に合わず倉庫に放りっぱなしにしていた。ひたすら幼い少女の魅力を語る倒錯したその書物は、ルーに見られたくない類の冊子の中でも、一際どぎつい物である。それが一番上に載せられるという事実に、動機が更に加速していった。
背後でルーが俺を精一杯擁護しようと声を上げる。
「だからですね、恥ずかしがらなくていいんですよ。あの、ルーも、ルーみたいな子でもちゃんとそういう目で見てくれるって安心したんですから」
違んだ。そうじゃないんだ。ただウラジミール先生の別作品に感動したから一緒に買ったんだ。弁解の言葉が浮かんでくる。だが、もやはルーに通じることはないだろう。ルーの誤解を解く術が思いつかず、俺はひざを折ることしかできなかった。
自分の嗜癖について重大な誤解を抱かせたままルーとの生活は始まった。見つかった蒐集物は私室に隠し、話題にはあげなかった。対するルーもそれを話題にすることもなく、俺に命じられた家事に勤しんだ。だが、それでもしばらくは気まずくてろくに会話できなかった。
しか、ぎこちない関係はその日の夜には解消された。夕食でいざ顔を突き合わせた時、視線も合わせられない不味い空気を、美味しい香りが打ち消したのだ。香りの主はレンズ豆と玉ねぎ、ニンジン、リーキを煮込んだ野菜スープ。材料に特別なものは入っていないのに、ルーの手で作られたそれはこれまでにないほど食欲をそそる芳香を漂わせていた。
「美味い!」
「本当ですか、頑張った甲斐がありました」
スープを口に含んで思わず漏らした呟きに、ルーは安堵したように微笑んだ。その笑顔を見たとき、俺は先ほどまで感じた気恥ずかしさがなくなっていることに気が付いたのだった。
今なら恥じることもなくルーを見据えることができる。ならば遠慮せずにこれも言えるだろう。
「おかわり!」
「わかりました。いっぱいありますからいくらでも食べてください」
かくして憂いも取り払われたルーとの生活は順調に過ぎていった。朝はルーの声で目を覚ますと、アイロンがよくかかった服に着替えて商いに向かう。店番や御用聞きといった昼の商いの合間には、ルーお手製の弁当や茶菓子で一息入れる。店を閉じて帳簿も締めた夜は、毎度絶品の夕餉を食べた後、太陽の香りがする寝台に入って終わる。繰り返す日々は単身時代とは比べられないほど豊かになり、いつしかルーの存在が欠かすことのできない状態になっていった。対するルーも宿代では説明できないほどよく働いた。家事は十分だというのに、それでもことある度に、なにか手伝えることはないかと聞かれるに至って、部屋賃代わりに家事をするという一線を越えてしまった。御用聞きと配送で店を空ける間の店番や、薬の棚卸など、店の手伝いまでしてもらうようになったのだ。
「ガストンさん、これはどうすればいいですか?」
かくして俺が帳簿にペンを走らせているときにルーが話しかけてくるのも日常になっていた。目を上げると、ルーは開封された木箱を抱えている。その箱に書かれた文字は、ちょうど帳簿に記した薬品と同じだった。問屋から仕入れたばかりの新しい飲み薬だ。
「棚に陳列しましたけど、まだこんなに残ってます」
「じゃあ木箱ごとそこの棚の上に置いておいてくれ」
「かしこまりました」
握ったままの羽ペンで俺は脇の薬棚を示すと、ルーはすぐさま脚立の用意にかかった。その姿を横目に見ながら俺は帳簿に戻る。受領書と突き合わせながら商品名と数量を記載した。これだけだと何の薬か思い出せないので、効用も付記する。主な薬効は解熱と沈痛。いわゆる風邪薬である。白い粒状に成型された丸薬の一種で、表面に砂糖が塗されている点が最大の特徴だ。これなら子供に苦いと吐き出されることもないだろう。
新商品の売れ行きを想像し、ほくそ笑みながら俺は帳簿を書き終える。そのまま顔を上げると、目を向けた先でルーの尻が揺れていた。魔法の力なのか軽々と木箱を抱えて脚立に上ったルーはちょうど在庫を棚の上に積むところらしい。普段は見降ろしてばかりだったルーの姿を、こうして見上げて眺めるのは新鮮だった。キュロットスカートに包まれたルーの臀部はやはりというか大人の女性のような迫力がない。腰回りもくびれておらず、メリハリもあったものじゃない。普段なら見向きしないだろう光景なのに、どういうわけか目が奪われている自分がいた。肉のついていない小さな尻が左右に揺れるたびに瞳が追従し、キュロットスカートと太ももの間のわずかな隙間の奥を見出さんと注視する自分は我ながらあさましい。まるで箸が転んでも女性を連想した若かりし時分のようだ。視線の高さが丁度一致するからでは説明できない。これもルーと同居するようになった結果、欲求を発散できなくなったからだろう。一枚壁を隔てた先に異性がいるだけでなく、その異性に掃除の世話もさせているとあっては、やすやすと欲求を開放することができないのだ。溜まりきったわだかまりが、こうして普段は気にも留めることのなかったルーの小さな尻に目を向けさせているのだ。正気に戻るべく頭を振るが、結局視線は俺の目の高さで揺れるルーの臀部に向かってしまう。言いようのない敗北感を覚えながら、俺はルーを視姦つづけた。
ふと、ルーの尻が大きく揺れた。俺が大きく身を乗り出すと同時にルーが大きくのけぞった。バランスを崩した。そう思うが早いか、俺は椅子から飛び出していた。大きく傾いたルーの背に俺の伸ばした手が届く。絶えず目を向けていたおかげだろう、ルーが脚立から足を踏み外す前に俺はルーを抱きとめることができた。胸元にぶつかったルーの衝撃はとても軽い。その意外さを味わう前に、頭上から衝撃が襲ってきた。ルーの手から離れた木箱が頭上に振ってきたのだ。つむじから脊椎を垂直に貫く衝撃に俺は情けない声を上げる。救いがあるならば、それでも俺はルーを支え切ったことだろう。
「わーっ、ごめんなさい! 大丈夫ですかガストンさん?」
「あ……ああ、大丈夫だ、それよりこいつをどうにかせんとな」
目を丸くしたルーが叫ぶ。俺はずきずきする痛みを押し殺して、床に目をやった。木箱に収められていた白い丸薬があたりに飛び散っていた。
「箱は俺が棚に上げておく。ルーは床に散らばってるのを箒で片づけておいてくれ」
指示を出しながら俺は抱きとめていたルーを離した。ルーは脚立から降りると箒を取りに店の奥に向かう。その背中を見送ってから俺は息をついた。ルーは俺が何をしていたのか気づいていないようだったし、ルーに間抜けな姿をさらしたわけでもない。少なくとも俺は自分の尊厳を守り抜けたようだ。
依然として痛む頭頂部にうめき声をあげたかったが、安堵した思考はそれよりもルーの体を抱きとめた時の感触を思い出させた。受け止めた小さな背中は見た目相応に軽かった。両手で支えた彼女の肩は少女らしく柔らかかった。そして胸元と両手から伝わってきた彼女のぬくもりは今でも感じれるほどに温かかった。これも欲求不満のせいだろうか。未だぬくもりが残る両手を見つめながら俺はぼんやりと考える。もう一度、今度は深呼吸するように息を吐いてから、俺は頭を切り替えて床に転がった木箱に手を伸ばした。ちょうどその時、店の入り口から声が上がった。
「なにやら賑やかじゃのう」
目を向けた先の声の主は、鷹揚な口ぶりとは裏腹にあどけない少女の姿をしていた。頭から生えた山羊のような角が、彼女が人ならざるものであることを示している。丁度かがんでいた俺を見下ろす彼女の瞳の奥で、並の人間では覗い知れない深淵が見つめ返していた。
箒を取って戻ってきたところなのだろう。俺の背後でルーの当惑した声が聞こえた
「トリス様」
「久しいのう、ルー。達者でおったか?」
馴染みの従者の姿を見つけてこの大悪魔は微笑んだ。頬だけを緩めた形だけの笑い。ルーに移したその瞳からは何を考えているのか掴めなかった。
商店街で俺の話を聞いた皆は一様にルーに同情していた。家具屋のビクトルさんは寝台を負けてくれたばかりか、俺の家まで届けてくれると約束してくれた。仕立て屋のマルグリットさんに至っては、どう見ても売り物の綿布のシーツを端切れと言ってただで譲ってくれた。おかげで俺の懐もだいぶ痛まずに済んだ。最後に配送の手はずを整えて店に戻ってもまだ日は傾いていなかった。話が順調に進んだため、外に出てからさほど時間は経っていない。流石にまだ片付いていないだろう。掃除の進捗を考えながら居住スペースに続く階段を上っていると、不意に爽やかな香りが鼻をくすぐった。はて、我が家はこんな香りがしただろうか? 思い返してみても出てくるのは独り身の男部屋らしい据えた臭いばかりだった。辟易して幾度も掃除を試みたが、この臭いは終ぞ消えることはなかった。なぜその臭いとは関係ない爽やかな香りがしているのか? 首を傾げながら階段を登りきると、煌く光が目を刺した。
階段の突き当り、記憶にある炊事場の光景は、水垢がこびり付いた流し台に、煤まみれのキッチンストーブ、そして何より長年使い古した結果、すっかり色のくすんだ食卓があったはずだった。だが、目の前の流し台はタイルの一つ一つがはめ込まれたばかりのように艶めき、キッチンストーブも一度も火を焚いたことがないとばかりに表面を輝かせ、食卓に至ってはニスを塗りなおしたかのような光沢を取り戻していた。
「おかえりなさいませ、ガストンさん」
様変わりした自宅の光景に呆然としていると、背後から声をかけられた。慌てて振り返ると、階段脇のトイレからルーが顔をのぞかせていた。
「これ、全部お前がやったのか?」
「はい、手が空きましたので一緒に片づけてしまおうと思いまして。ちょっと待ってください。こっちもあと少しで終わりますから」
そう言ってルーはトイレに引っ込んだ。手持無沙汰な俺は改めて炊事場を見渡した。水回り、キッチンストーブ、食卓から床に至るまで、新品同様の輝きを放つそれは何かのついでにできるような仕事ではない。これもトリスさんから授かった魔法の力なのだろうか。俺が感嘆の息をついたところで、ふと窓にぶら下がる影に気が付いた。可愛らしい小さなリボンがあしらわれた巾着状のそれは、窓から吹き込む風を受けて、爽やかな芳香を振りまいていた。ポプリの類だろう。折からの香りはこれから漂っているようだった。
背後から、おりゃー、というルーの掛け声が聞こえた。同時にトイレから水音が響く。流れる音が終わると、精々とした顔のルーがトイレから出てきた。
「こちらも終わりました。流石に疲れましたのでちょっと休憩です」
そう言うと、ルーは食卓に突っ伏した。大儀そうに机に顔をくっつけるルーの脇をすり抜けて、俺はトイレの様子を伺った。扉を開けて感じたことは、この炊事場と同じく爽やかな香りがすることだった。息をするのも覚悟が必要だったはずのトイレはすっかり安心できる匂いで包まれている。こびり付いて洗い落とすことを投げ出していた便器の汚れも綺麗に消え失せていた。そして片隅の小窓では、炊事場で見たものと同じ小袋が風に揺られていた。
「凄いじゃないか。ここまで綺麗にできるなんて、これも荷物を運んだのと同じ魔法の力か?」
「こっちはそうでもないです。ただ、家事はトリス様のところでずっとやってきましたから。ほら、ルーは言いましたよ。お掃除はばっちりだ、って」
伏せていた頭を上げて、ルーはにんまりと笑った。
「えへへ。ほら褒めてください。ルーは有能なんです」
笑顔で称賛を求めるルーは憎らしほどに可愛らしい。しかし、実際に言葉通りの成果を出している以上冗談で茶化すことはできなかった。能なし魔だの穀潰し魔だのさんざん罵った過去は改めねばならない。
「もっとひどいこと言ってますよガストンさん!」
「だからその宣言を撤回するといってるだろ。ところで、確認してなかったが部屋はもう片付いたんだろうな?」
普段通りに茶化せないのはどうも具合が悪い。話題を切り替えながら俺は空き部屋の戸を開けた。
「はい。薬草はまとめて部屋の隅に、空き箱は裏口に、薬液の瓶もルーのほうで一階に下ろしておきました」
背後から聞こえる報告通り、空き部屋はすっかり片付いていた。乱雑に転がっていた商品の木箱は部屋の隅に整然と積み上げられていた。ご丁寧に可愛らしい丸文字のラベルまで張られている。一緒に空き部屋に突っ込んでいた掃除用具だの冬用の木炭ストーブだのといった雑貨の類もその脇にまとめられていた。埃塗れだった床が光沢を取り戻しているところを見ると、わざわざ雑巾がけまでしたらしい。外に出て帰ってくるまでの時間を考えると、どうやったのか疑問に思うくらいだ。
記憶とは様変わりした部屋の印象に感心していると、部屋の中央に積み上げられた物体が目に入った。よくよく見れば、それは紙束や書籍の山のようだった。その正体を悟ったとき、俺の心臓が音を立てた。
「ただ、いくつか判断がつかなかったものがありましたので、それは部屋の真ん中に――あっ!」
背後のルーも見せようとしたものを思い出したのか言葉をつまらせる。
男の一人暮らしにある種の物は欠かせない。ルーに掃除させるにあたって、俺も普段使うもの、目ぼしいものは先んじて私室のほうに退避しておいた。だが、普段使わないがために忘れ呆けていたものがあった。例えば、追っかけの作者であるがゆえに買ったはいいが、自分の嗜癖と違って使いあぐねている書物の類だ。
「あの、ルーは魔物ですから、そういうのもは変だと思わないというか、致し方ないというかですね、あの、むしろ魔物冥利に尽きると思ったりとかですね――」
俺は積み上げられた冊子の山を恐る恐る覗いた。頂に置かれていたのは文豪ウラジミールの「愛しのドロレス」。表紙を飾るのはルーの様な年端のいかない少女が肌を晒す姿だった。ドロレスという少女に魅入られた男が、彼女と旅をしながら訪れる先々で愛欲の限りを尽くす話だ。同じ著者が書いたチェスの話に感銘して手にしたはいいが、内容が肌に合わず倉庫に放りっぱなしにしていた。ひたすら幼い少女の魅力を語る倒錯したその書物は、ルーに見られたくない類の冊子の中でも、一際どぎつい物である。それが一番上に載せられるという事実に、動機が更に加速していった。
背後でルーが俺を精一杯擁護しようと声を上げる。
「だからですね、恥ずかしがらなくていいんですよ。あの、ルーも、ルーみたいな子でもちゃんとそういう目で見てくれるって安心したんですから」
違んだ。そうじゃないんだ。ただウラジミール先生の別作品に感動したから一緒に買ったんだ。弁解の言葉が浮かんでくる。だが、もやはルーに通じることはないだろう。ルーの誤解を解く術が思いつかず、俺はひざを折ることしかできなかった。
自分の嗜癖について重大な誤解を抱かせたままルーとの生活は始まった。見つかった蒐集物は私室に隠し、話題にはあげなかった。対するルーもそれを話題にすることもなく、俺に命じられた家事に勤しんだ。だが、それでもしばらくは気まずくてろくに会話できなかった。
しか、ぎこちない関係はその日の夜には解消された。夕食でいざ顔を突き合わせた時、視線も合わせられない不味い空気を、美味しい香りが打ち消したのだ。香りの主はレンズ豆と玉ねぎ、ニンジン、リーキを煮込んだ野菜スープ。材料に特別なものは入っていないのに、ルーの手で作られたそれはこれまでにないほど食欲をそそる芳香を漂わせていた。
「美味い!」
「本当ですか、頑張った甲斐がありました」
スープを口に含んで思わず漏らした呟きに、ルーは安堵したように微笑んだ。その笑顔を見たとき、俺は先ほどまで感じた気恥ずかしさがなくなっていることに気が付いたのだった。
今なら恥じることもなくルーを見据えることができる。ならば遠慮せずにこれも言えるだろう。
「おかわり!」
「わかりました。いっぱいありますからいくらでも食べてください」
かくして憂いも取り払われたルーとの生活は順調に過ぎていった。朝はルーの声で目を覚ますと、アイロンがよくかかった服に着替えて商いに向かう。店番や御用聞きといった昼の商いの合間には、ルーお手製の弁当や茶菓子で一息入れる。店を閉じて帳簿も締めた夜は、毎度絶品の夕餉を食べた後、太陽の香りがする寝台に入って終わる。繰り返す日々は単身時代とは比べられないほど豊かになり、いつしかルーの存在が欠かすことのできない状態になっていった。対するルーも宿代では説明できないほどよく働いた。家事は十分だというのに、それでもことある度に、なにか手伝えることはないかと聞かれるに至って、部屋賃代わりに家事をするという一線を越えてしまった。御用聞きと配送で店を空ける間の店番や、薬の棚卸など、店の手伝いまでしてもらうようになったのだ。
「ガストンさん、これはどうすればいいですか?」
かくして俺が帳簿にペンを走らせているときにルーが話しかけてくるのも日常になっていた。目を上げると、ルーは開封された木箱を抱えている。その箱に書かれた文字は、ちょうど帳簿に記した薬品と同じだった。問屋から仕入れたばかりの新しい飲み薬だ。
「棚に陳列しましたけど、まだこんなに残ってます」
「じゃあ木箱ごとそこの棚の上に置いておいてくれ」
「かしこまりました」
握ったままの羽ペンで俺は脇の薬棚を示すと、ルーはすぐさま脚立の用意にかかった。その姿を横目に見ながら俺は帳簿に戻る。受領書と突き合わせながら商品名と数量を記載した。これだけだと何の薬か思い出せないので、効用も付記する。主な薬効は解熱と沈痛。いわゆる風邪薬である。白い粒状に成型された丸薬の一種で、表面に砂糖が塗されている点が最大の特徴だ。これなら子供に苦いと吐き出されることもないだろう。
新商品の売れ行きを想像し、ほくそ笑みながら俺は帳簿を書き終える。そのまま顔を上げると、目を向けた先でルーの尻が揺れていた。魔法の力なのか軽々と木箱を抱えて脚立に上ったルーはちょうど在庫を棚の上に積むところらしい。普段は見降ろしてばかりだったルーの姿を、こうして見上げて眺めるのは新鮮だった。キュロットスカートに包まれたルーの臀部はやはりというか大人の女性のような迫力がない。腰回りもくびれておらず、メリハリもあったものじゃない。普段なら見向きしないだろう光景なのに、どういうわけか目が奪われている自分がいた。肉のついていない小さな尻が左右に揺れるたびに瞳が追従し、キュロットスカートと太ももの間のわずかな隙間の奥を見出さんと注視する自分は我ながらあさましい。まるで箸が転んでも女性を連想した若かりし時分のようだ。視線の高さが丁度一致するからでは説明できない。これもルーと同居するようになった結果、欲求を発散できなくなったからだろう。一枚壁を隔てた先に異性がいるだけでなく、その異性に掃除の世話もさせているとあっては、やすやすと欲求を開放することができないのだ。溜まりきったわだかまりが、こうして普段は気にも留めることのなかったルーの小さな尻に目を向けさせているのだ。正気に戻るべく頭を振るが、結局視線は俺の目の高さで揺れるルーの臀部に向かってしまう。言いようのない敗北感を覚えながら、俺はルーを視姦つづけた。
ふと、ルーの尻が大きく揺れた。俺が大きく身を乗り出すと同時にルーが大きくのけぞった。バランスを崩した。そう思うが早いか、俺は椅子から飛び出していた。大きく傾いたルーの背に俺の伸ばした手が届く。絶えず目を向けていたおかげだろう、ルーが脚立から足を踏み外す前に俺はルーを抱きとめることができた。胸元にぶつかったルーの衝撃はとても軽い。その意外さを味わう前に、頭上から衝撃が襲ってきた。ルーの手から離れた木箱が頭上に振ってきたのだ。つむじから脊椎を垂直に貫く衝撃に俺は情けない声を上げる。救いがあるならば、それでも俺はルーを支え切ったことだろう。
「わーっ、ごめんなさい! 大丈夫ですかガストンさん?」
「あ……ああ、大丈夫だ、それよりこいつをどうにかせんとな」
目を丸くしたルーが叫ぶ。俺はずきずきする痛みを押し殺して、床に目をやった。木箱に収められていた白い丸薬があたりに飛び散っていた。
「箱は俺が棚に上げておく。ルーは床に散らばってるのを箒で片づけておいてくれ」
指示を出しながら俺は抱きとめていたルーを離した。ルーは脚立から降りると箒を取りに店の奥に向かう。その背中を見送ってから俺は息をついた。ルーは俺が何をしていたのか気づいていないようだったし、ルーに間抜けな姿をさらしたわけでもない。少なくとも俺は自分の尊厳を守り抜けたようだ。
依然として痛む頭頂部にうめき声をあげたかったが、安堵した思考はそれよりもルーの体を抱きとめた時の感触を思い出させた。受け止めた小さな背中は見た目相応に軽かった。両手で支えた彼女の肩は少女らしく柔らかかった。そして胸元と両手から伝わってきた彼女のぬくもりは今でも感じれるほどに温かかった。これも欲求不満のせいだろうか。未だぬくもりが残る両手を見つめながら俺はぼんやりと考える。もう一度、今度は深呼吸するように息を吐いてから、俺は頭を切り替えて床に転がった木箱に手を伸ばした。ちょうどその時、店の入り口から声が上がった。
「なにやら賑やかじゃのう」
目を向けた先の声の主は、鷹揚な口ぶりとは裏腹にあどけない少女の姿をしていた。頭から生えた山羊のような角が、彼女が人ならざるものであることを示している。丁度かがんでいた俺を見下ろす彼女の瞳の奥で、並の人間では覗い知れない深淵が見つめ返していた。
箒を取って戻ってきたところなのだろう。俺の背後でルーの当惑した声が聞こえた
「トリス様」
「久しいのう、ルー。達者でおったか?」
馴染みの従者の姿を見つけてこの大悪魔は微笑んだ。頬だけを緩めた形だけの笑い。ルーに移したその瞳からは何を考えているのか掴めなかった。
18/03/24 20:47更新 / ハチ丸
戻る
次へ