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中編

 その日から、本格的に私と捕獲したオス個体との生活が始まった。
 奴は相変わらず困り顔を浮かべているが、不思議と「帰りたい」とか、そういう事は言わなかった。もし言われたならば、私は取り敢えず森の入口までは案内してやる心積もりだったのだが、此奴にも此奴の事情があるのだろうか。
「うー、今朝も寒いねー」
 時は冬に差し掛かり、夜に限る事なく朝露さえも凍る季節だ。
 奴は呑気に呟きながら、着ているコートをきつく引き寄せる。
「餌だ」
 私は口に干し肉を含んだまま言う。
「……また、それ?」
 頷く。此奴はまた困り顔を浮かべる。私が此奴の腕を掴んで押し倒すと、此奴は諦めた様に微笑んだ。
「判った。判ったよ。……君には敵わない」
 大人しく、口を緩めるオス。私は此奴の唇に自身を重ね合わせ、そして口内の餌粥を吐き出して、食べさせてやる。
「ん、くちゅ、ぺろ、ちゅう……んくっ」
「んっ、ちゅっ、じゅるる……っはぁ……」
 舌に絡まる繊維も余す事無く、喉の奥に送り込んでやる。此奴は、弱い個体だから、其処までしてやらなければ満足に食事も出来ない。
 餌遣りの最中、未だにあの全身を痺れさせる様な感覚は付き纏っていた。それどころか、日増しに強まっていくのを感じていた。何度も何度も、これが一体何なのか考えていたが、結局の所判らず仕舞いだった。
 けれど、仕方ないのだ。此奴の餌遣りはこうしてやらなければならない物なんだと、本能が告げていた。だから、この感覚の正体も其れに準ずるものだと判っていた。私の中の本能と言うのは、長い時間、母から祖母、祖母から曾祖母、曾祖母からまた曾々祖母にまで至り、現在私にまで受け継がれてきた物だ。私と言う種族が子子孫孫にまで種を残して来た証だ。
 だから、仕方ないんだ。
「……」
 餌遣りを終え、口周りを拭う。
 冬の間、私は巣で丸くなり、この死の季節が頭上を通り過ぎるのを待つのみだった。しかし、今回はこのオスが居る。私はこのオスの面倒をある程度見なくてはならない。
「寒ければ毛皮を纏え」
 寒さで死んでもらっては困る。私は獲物から剥いだ皮を数枚纏めて奴に放った。
 すると此奴は、また性懲りもなく困った顔を浮かべるのだ。
「僕なんかより、君の方が寒そうだよ」
 そう言うと、此奴は徐にコートを脱ぎ、私の肩に被せて着たのだった。
 そして、私の手を握って、甲を柔らかく擦った。
「僕は君のくれた毛皮であったかいよ。ケド、君が寒がってちゃ意味がないよ」
「寒くなどない」
 こんな、自然の中で生きていけそうもない軟弱な個体から気を遣われるのは恥だ。思わず逆の事を言い放ったが、私の手は此奴の手に包まれていても、未だ震えていた。
 そんな私に対して、此奴はまた困った顔で微笑むだけだった。


 冬の間は備蓄しておいた食料で腹を満たす。私の何時もの過ごし方は予め大量に食べておいて季節が過ぎるまで目を瞑るだけだったが、オス個体の餌遣りの為に起き上がる必要が出た。それだけで、何時もの冬とは違う物だった。
 私は此奴がくれたコートに身を包み、此奴は私のやった毛皮で身を包む。此奴のコートは、未だに此奴が来ていた体温が残っていて、温かい。しかし、それもすぐに消え去っていってしまう。
 また手が震えて来た。なんとも口惜しい事だが、生物として当然の反応であるからどうしようもない。
「寒がりなんだね」
 此奴は殊勝な事に、ずっと私の手を揉みほぐして、温めようとしてくれていた。
「僕が君の毛皮を使ってる所為で……」
「関係ない。それを私が使おうが、手は震えるものだ」
「そうかな……そう言ってくれると気が楽だけど……あ、そうだ」
 此奴は何か思い付いた様に、私の羽織るコートの端を広げる。其処へ、自分の身体を捻じ込んで来た上、自分の被っていた毛皮の中に私を包み込んだのだった。
「こうすれば、お互い温かいよね」
 私と、此奴の身体が密着する。温かく、外の寒さを遮るコートと毛皮のドームの中で。私は足りなかった物がこうして揃った様な気分を憶えながら頷く。
 手の震えは止まっていた。此奴が握り締めていたからだ。
「……ねぇ、僕の話を聞いてくれる?」
 此奴は唐突に、そんな事を言い始めた。私は、返事はせず、目を閉じただけだったが、此奴は僅かに拍子を取ると、自然に語り始めた。


   僕はね、こう見えて一応、貴族の産まれなんだ。といっても、田舎貴族だけど」

 此奴は、薬指に嵌められた指輪を翳す。

「つい、この前の事だよ。突然、知り合いと結婚する様に言われてね。それが嫌で、家出したんだ。僕は昔から昆虫が好きで、昆虫図鑑ばかり読んでいたから、折角だと思って森を散策していたんだ。……大好きな虫を眺めた後、帰るつもりだったんだ……。けど、ほら? 時期も冬に入る頃だったでしょ? もう虫なんて居なくて。どうしよっかなーって思っていたら、君を見付けてね」

 其処で、声に弾みが出て来る。

「マンティスって魔物がいるっていうのは、聞いた事あったよ。なんせ此処何年か、森に入って帰って来られた男の人の大半が君と同種の子に服を切り裂かれたって話題になっていたからね。森の切り裂き魔なんて呼ばれているよ。だから、色々と調べてみた事があったんだ、君達の事。……けど、やっぱり聞くのと実際に見るのとでは大違いだね」



 実際は、こんなに   



「……あれ?」

 困った顔。

「寝てる、のかな。……おやすみなさい」





――――――――――





 冬が終わりを告げ、暖かい風が森の中を吹きすさぶ。
 寒空に凍える動物達が待ち遠しかった、春。
 私は番でも無いオス個体と奇妙な生活を営んでいた。


 動物達が目を覚まし、徘徊する様になったので、狩りに出掛ける事が増えた。
 その間、此奴は巣の辺りで私の帰りを待っている。
 今日戻って来た頃には、何処からか見付けて来た薬草を木の根元に集め、自作したらしい器に盛って、擦り棒で擂り潰していた。
「香草を挽いているんだよ」
 私が何も言わない内に奴が言った。
「流石に普段から生肉や干し肉じゃあね。責めて味の変化くらいつけたいかなって」
 見渡すと、何時の間にか私が巣を作った木の傍には木材で編んだだけのテーブルやイスといったものが並べられていた。
「ああ、ごめんね。邪魔だったかな。いろいろ作業するのに必要かなって思って」
 私は獲物である野兎をテーブルに置いた。固く凸凹としていた地面が整えられている所為か、テーブルが良く出来ている所為か、ガタつく事は無かった。
 此処に置いてならば随分と獲物を捌き易くなるだろう、とは見当が付いた。
「あ、ねぇ。これ、舐めてみてよ」
 奴が差し出して来たのは、指だった。其処には草を擂り潰して出来たドロッとした液体が垂れている。
 私は両手で奴の手を抑え、言われた通り其れを舌先で舐め掬ってやる。口の中に運んだ時から、ひりひりとした感触が苦みと一緒に舌全体に広がって行く。刺激物に違いはなかったが、不思議と食欲が湧いて来る味だった。
「これの中に肉を浸して、それから焼くと美味しいんだ」
 此奴はほぐれた表情で語りながら、器に注いだ水を差し出す。私はその水で口の中を漱いだ。
「けど、火がないからなぁ。このまま干し肉にしてもいいけど」
「……火打ち石なら北の岸壁に少々ある。森の中を通るゴブリン共の商隊と肉を交換して得る事も出来るだろう」
「ああ、成程。教えてくれてありがとう」
 感謝される様な事を言った覚えは無い。そう言ってやろうかと思ったが、此奴の顔を見ていると口に出すのも煩わしくなってくる。
「……取引をする時は、ある分から勝手に持って行け」
「うん、判ったよ。何時もありがとう」
「ふん」
 何時もありがとう、か。何時もなんて口走れる程、私は此奴と慣れ合った憶えなどない。だが、言わせておけばいい事だ。
 教えた翌日、丁度ゴブリンの商隊が森の中を抜けて来た。此奴は早速幾つかの獣肉を持って行き、それを幾つかの家財と交換してきた。
「やったぁ。これで干し肉の毎日から脱却だぁ」
 奴は感慨深気に喋りながら、ぎこちないながらに薪を集めて火を起こそうとしていた。
 私は、充分に獲物が備蓄してあったので狩りには出掛けないでいた。何より巣の傍で火なんぞ不用意に扱われて、うっかり巣が焼け落ちてしまうなんていうのは笑えない冗談に違いない。
 案の定此奴は焚き火の周辺の落ち葉を片付けていなかった。周辺に土を撒いて燃え広がらない様にする。
「えーと、これをこうして」
 私の気遣いに気を払う事無くあれこれと作業を始めるオス。鍋を用意し、水を注ぎ、肉を入れて   それは、嘗て母が料理をしていた時と同じ風に見えた。
 暫くして、食欲をそそる香りが立ち込めてくる。此奴は上機嫌に器を取り出し、鍋の中から中身を掬う。
「どうぞ、召し上がってみて下さい」
    それは温かい食事だった。
 何年振りだろうか。確か最後にこういう形式で何かを食べるのは母と喧嘩した翌日までの事だったろうか。
 何れにせよ、この香草の臭いは私の腹を空かせてくれる。スプーンなどは無かったので、早速器を手にし、口元に運んだ。
「……」
「どうですか?」
「不味い」
 口の中に入れた瞬間から香草の臭いがキツ過ぎるのを感じた。そして気付くのは遅く、舌全体がヒリヒリと腫れ上がる。
「あ、あれぇ? ……うががっ!? 苦いっ、ぺっ」
 すぐに懐疑的に眉を上げた此奴でも、一度口に啜ればすぐさま地面に吐き付けた。
「あれ、香草を入れ過ぎたかな……やっぱりウチのコックが作るのを見様見真似じゃあ無理だったか……しかし、君はこれを口にしても無表情なままで居られるんだね。驚いたよ」
 無論、口の中を水で漱ぎたい衝動は収まらないが、じたばたしても仕方ないだろう事は判っていた。
 それよりも、私は鍋に残った残りの苦汁を見詰める。
「あ、ごめんね。これは僕が捨てて置くから……あ」
 此奴が握り締めていた掬いを奪い、苦汁の塊を掻き混ぜる。成程、香草ならばと全部放り込んだのが原因らしい。底にはびっしりと草葉そのままが沈んでいた。私は其れを含め、汁を全て捨ててから、残った肉を鍋の中に戻した。
 汲まれていた水を注ぎ、擦られていた香草の味と香りを確かめる。私は、何時の間にか遠い昔に味わった温かな料理を探し求めていた。静かに手を加える度、何度も何度も味見をする度、確実に私の記憶にあるものに近付いて行く。
 私が何事かするのに、奴は何も言わなかった。一瞥してみると、其処には目を丸くして突っ立っている姿だけがあった。
 やがて出来上がった物は、魔界豚の香草スープだった。嘗て私の父の好物であった物。
 それを、木の器に注ぎ……嘗て、そうして味わった様に、用意をする。
 テーブルを中心として、一つの料理を味わう。食卓を囲むという事だ。
 当然、此奴にも食事は出さなければならない。奴をテーブルに座らせ、木の器には取り分け多く注ぎ込み、目の前に置く。
 腹の虫が何処かで鳴いた。私の飼う虫ではなかった。
 奴は一口、スープを啜った。それだけで、花が咲いた様な顔になるのだった。
「……美味しい。美味しいよ、これ。ウチのコックより美味しいっ。これなら何杯でも食べられそうだ!」
 言葉通り、奴はその後何杯ものスープを飲み干した。余る程作っておいたスープが、この僅かな間で全て空になってしまう。
「うぅ……お腹一杯。凄いよ、君、狩りだけじゃなくて料理も上手いんだね。でも、料理が出来るんだったら、どうして干し肉や生肉ばっかり食べるのさ」
 料理が上手い?
 ……そういえば、父は頻りに母の料理の腕を誉めていた。母の血を受け継ぐ私にも料理の才覚があって然るべきなのは判る。
 しかし、料理というのは……言ってしまえば、生きる上でなくてもよい物ではないか。特に私達は、生きる為の肉さえあれば味など本来構わない定め。所詮、料理なんて言う物は人間の瑣末な拘り物でしかない。
 よく判らなかった。何故、私の血には獲物を狩る以外の力も伝わったのだろう。無用の長物だ。私は、自分が生き抜く力と、子孫を残す力さえあれば生物としての本懐を遂げられるのだから、それ以外の血が伝わる必要性が甚だ理解出来なかった。
「あ、食器は僕が片付けておくよ」
 此奴は木の器を其々重ねて纏めながら「また君の料理が食べたいな」と呟いた。「どれだけでも食べられる」とも言っていた。
 貧弱な個体だからこそ、危機意識というものが芽生えたのだろう。より多く食事を摂る事の必要性を漸く理解したらしい。
(ま、何より君の……アレも、一緒に飲まされちゃうしね。料理を作ってくれる方が恥ずかしくない……)
「明日も作ればいいんだな?」
 此奴には、繁殖期まで健常で居て貰わなければならない。栄養を得ようとしているのならば、其れに合わせて栄養をやるに越した事は無い。


 次の日、朝早くから料理をした。備蓄してあった全ての肉と近隣にあった香草を全て掻き集め、鍋から何から全ての器に盛って此奴に突き出した。
 此奴は青い顔になって悦びながらスープを啜っていたが、あろう事か大半を残そうとした。仕方が無く、残りは口移しで遣る事になった。
 全く、面倒を掛けさせてくる奴だ。私は、何故依りに寄ってこんな貧弱な個体を選び、繁殖期まで持ち堪えさせようと躍起になっているのか。自分でも不思議だった。





――――――――――





 もうすぐ繁殖期が来る。陽射しが肌を焼き、肉を腐らせる季節。
 オスが熱病を出した。
 掌から感じるその額は焼けた鉄板を思わせた。私は何度も湖まで行き、責めて温めない内に布を水に浸し、此奴の頭を冷やした。
 元々人里で暮らしている人間だ。森の中の病気に対して抵抗力が弱かったのだろう。冬に何事も無かったのだけは幸いだったが、此奴は今苦しんでいる。
 何とかしなければいけない。
 まさか命が失われる事はあるまい。
 しかし……万が一という事もある……。
 此奴の紅潮した顔、聞き心地の悪い呼吸音、苦しく呻く喉の動き。どれをとっても、私の脳裏には脆弱な個体が淘汰される自然を思い浮かばせる。それも又、巡り合わせなのかもしれないが   
「あは、は。心配させて、ごめんね。僕は、大丈夫だから」
 私の頬にそっと手を添えて、困った様に微笑んだ。
 まただ。また、その顔をするのか。
 表情と言う奴は判らない。どういう時にどう動くものか。   特に此奴のは皆目見当もつかない。
 どうして辛い時に辛いと言わない。どうしてそんな困った顔をする。まるでその顔は、自分の辛苦よりも私に不安を与えた事へ申し訳なく思うかの様ではないか。
 今までだって、どうだったろう。詳しくは覚えていないけれど。此奴の困った顔は、どちらかと言えば、自分の感情を出すと言うよりも、隠すという物だったんじゃないだろうか。相手の様子を窺って、媚びる様な、諂う様な。
「大丈夫だから。君の看病で、昨日より楽になったよ。ありがとう。ありがとう」
 何度も感謝の言葉を述べる此奴の容体は、昨日より悪化している。どんな子供も騙されはしないだろう稚拙な嘘だ。赤い顔から度々すぅっと血の気が引き、青褪めた死者の様な色になる。それを見るのが不愉快で堪らない。
   恨まないのか」
「うん? 恨むって、何を……? ごめん、判んないや……」
 ぜぇぜぇと吐く息の隙間に、聞き取れたのはそんな言葉だった。
「私が貴様をこんな場所に留めなければ、貴様はこんな目には遭わなかった筈だ。其れが判別出来ない訳ではないだろう?」
 すると、此奴は取り分け、嬉しそうに笑った。
「はは、は。君から、そんなに話し掛けて来てくれたの、初めてかも。病気するのも悪くないね〜……」
「誤魔化すな。答えろ」
 刃を返し、喉元に突き立てる。
 ……私は、どうしてしまったのだろうか。こんな弱った相手に、脅しをする必要なんてないだろうに。何を焦っているんだ、私は……?
 只、此奴の理解出来ない行動が不愉快で、不愉快で。
 腹の奥がむずむずする。胸の奥がじくじくする。
 此奴は低く唸った後、ぽつりぽつりとこう語った。
「恨むなんて、お門違いだよ……僕は君に救われたに等しいんだから」
「救った覚えなどない」
「うん……でも……僕はね、救われたんだ……」
 熱に浮かされ、譫言の様に繰り返す此奴の姿は見ている気にはなれない。
 暫くして静かになったと思うと、此奴は何時の間にか、柔らかい寝息を立てていた。
「……すー……」
 安らいだ寝顔だ。この時ばかりは、此奴の顔から血の気が引いて行く心配もなさそうだ。
 ……心配。
 そう、繁殖期の相手だから、な。
 ……うん。
 けれど、認めなければいけない事もある。


    この人間のオスの事を、もっと知りたい。


 ……私が、心の何処かでそう思う様になった、という事だけは。
 全く、此奴が脆弱なばかりに手間ばかり掛けさせてくれる。こんな手間のかかる奴とは、繁殖期が終わったらさっさと放してしまおう。
 きっと、清々する筈。
 ……。
 うん。
 ……。


   君から、そんなに話し掛けて来てくれたの、初めてかも』


 ……私がもっと此奴と話をすれば、此奴の事がもっと判るのだろうか。
 此奴は、もっと私に自分の事を放してくれるだろうか。
 理解出来ない。でも、そうする事で、私は此奴を理解出来る様になるのだろうか。


「……早く良くなれ」


 そう口にして良くなるものか。一瞬、此奴が笑った気がしてムカっ腹が立ちそうになったが、よくよく観察してみると、確かに眠っている事が判る。偶然の様だ。


 ……。


 ……身が千切れる程悔しいが、頼らざるを得ない、か。





――――――――――





「すっかり具合も良くなったな」
 見た目にも熱が引き、咳も止まった此奴の姿を見て呟く。
「ありがとう。君がくれた薬のお陰だよ」
 此奴は手に薬瓶を持って微笑む。
「でも、この薬って、何処から……?」
「……似た病に罹った父に、母が飲ませていたのを思い出しただけだ」
「え? 御両親が居るの?」
 それを知って、何やら考え込む此奴。


 私は密かに思い返していた。
 実家に帰った私が先ず見た物は、人目も憚らず父の膝に腰掛け、首に腕を回し口付けする母。私が帰って来たと気付いた瞬間、澄ました顔で母は慌てふためき床に転げ落ちていた。
 私はすっかり帰省の理由を言う気も失せて、さっさと目的の薬瓶を持ち出す。父から折角だから食事でもと誘われたが、その間苦しむ此奴の事もあって早く帰りたい気持ちで一杯であり、断った。
 すると、何時の間にか背後に立っていた母が私を体に手を這わせ、首筋にキスをしたのだ。背筋に冷たく蟻が走った様だった。
「良いオスに巡り合った様だな。まぁ私はダーリン以外のオスなど興味はないのだが」
「お母様。何を勘違いされているのか判りませんが、これは……」
「私の血を分けた貴様がそんな熱病に罹る物か。使う相手はダーリンの様なオスくらいの筈だろう。何を隠す事がある」
 母は表情を変えずにいたが、その本心は見え透いていた。
 私を最大限からかう気である。
「からかわないで下さい。私は急ぎますので」
「何を急ぐ。貴様が出て行ってもう何年にもなるんだ。まぁ、ダーリンが居るから寂しい訳はなかったがな。寧ろ居なくなってくれて今まで以上に人目を気にせずダーリンとイチャイチャ出来る様になったから感謝しているぞ」
 何故だか私が一人でやりくりしている間随分と二人の生活を謳歌している様で物凄く腹が立ったが、ふと母の下腹部を見ると、スラリとしていた筈の胴体部がぽっこりと盛り上がっているのが見えた。
 母も私の視線に気付き、お腹を愛おしそうに撫でて見せる。
「ああ、去年ダーリンから子種を注いで貰った時に上手く孕んだ様でな。喜べ、妹が出来るぞ」
 ……私が何度も繁殖期を無為に過ごしている内に母が一足先に子を成したという事実に膝から崩れ落ちそうになるが、なんとか精神力で持ち堪える。
 そんな時、ニコニコと終始微笑みを絶やさないでいた父が口を開く。
「その辺にしておきなさい。彼女も彼の元へすぐにでも駆け付けたいんだよ」
「ですから、そんなんじゃ」
「判っているぞ、ダーリン♥ 娘をからかうのは母として掛け替えのない楽しみだ。久々に帰って来た貴様の無事を祝っているのだぞ? それも、オスと暮らしている様で何より」
 首筋に鼻を当て、母は終始嘲笑う様に言葉を並べる。
「無論、両親に顔合わせするんだろうな? 私はどうせダーリンの顔しか覚えられる気がしないが。似ているんならまぁ歓迎だ」
 母が急に腕を放し、家の外へ私を解放する。母と父は揃って玄関まで見送り、温かく手を振ってくれていた。
「早く孫の顔を見せてくれよ」
 そう言った父に、母が頬を膨らませる。
「私の子だけじゃ不十分だと言うのか、ダーリン」
「そんな事ないよ。愛する娘も大事だけど、僕が一番愛しているのは……」
    不意に、父が母の唇を奪った。
 母は無表情を崩さぬまま、顔を赤くし、頭から蒸気を立ち上げていた。
 馬鹿馬鹿しいと立ち去ろうとして、振り向く。父はのんびりと私に手を振っていたが、遂には母が冷静さを取り戻す所を見る事は適わなかった。
 ……馬鹿馬鹿しい。
 けれど。私が家族と言えばあの夫婦以外に思い付かない。
 母の血を受け継いだ私もまた、ああなる以外の未来が見付からない。
    嫌だった。恥ずかしかった。
 あの家で暮らしている内、夫婦の不必要な仲の良さが目に障った。だから、母から一人立ちする様に言われる以前から、家を出てやろうという気持ちを抱いていた。
 ああはなりたくない。ああはなりたくないと。その一心だけで、今まで一人で居た。


 けれど。
 一人は寂しい。
 一人は孤独だ。


 おかしな同居人の温もりで冬を過ごして、最早自分だけの体温で次の冬を越せる気がしないのだ。
 私は、弱くなってしまった。
 狩りも上手く、生きる知恵も充分身に付け、油断なく、驕りなく、生きる為の効率を突き詰めて来た。
 私は、一人で生きていける筈だ。それだけの要件が揃っているし、現に今まで生きて来たじゃないか?
    なのに、次の冬を越せる気が全くしないのだ。
 寒さに凍えて、私は   自分の手を、彼奴が握っていてくれないと、凍死してしまう気がして仕方ない。
 動揺していた。
 私はどうしてこんなに弱くなってしまったのだろう。
 弱くなって、それじゃあ、繁殖期が終わって彼奴を手放す事になったらどうすればいいのだろう   


 気付いた時には、私は此奴に薬を飲ませていた。此奴の苦しむ顔を見るがとんでもなく不愉快だった。それだけの理由だ。それ以上はない。
 そして、只傍に居て、手を握ってやった。そうした方が楽だろうと思った。それだって此奴をこれ以上弱らせない様にする為。
    それだけ、なんだから。





――――――――――





「お願いがあるんだけど」
 もう何時繁殖期に入ってもおかしくない頃だった。熱病が治ったばかりの此奴が、神妙な面持ちで私にそう切り出して来た。
 私が何も答えないでいても話し始める癖に。そう思って黙って野兎を捌いて、何時もの様に調理していたが、此奴は中々話し始めない。
 返事を待っている。それに気付いたのは切り出されてから大分経ってからだった。こんな事は今まで一度たりともなかったので、此奴の目をじっと覗き込む。其処には何らかの決意がある事が読み取れた。
「……なんだ」
 私が漸く返すと、此奴は一先ずホッとした様で、だがすぐに凛々しく眉を上げ直した。
「あの」
「……」
「えーと、その」
 見詰めていると何故だか勢いが尻すぼみになっていく。何を話したいのかさっぱり判らぬまま、遂には黙り込んでしまった。
「……冷める」
 私は、野兎のバター焼きを刃で刺し、口に運ぶ。此奴もぼちぼちと料理を口に運び、小難しい顔のまま舌鼓を打っている様だった。
「……一回……帰っても、いい、かな?」
 機嫌を窺う様に、それは言い放たれた。
 動揺など、していない。今しがた肉に刃を通す代わりにテーブルを突き貫いたのは、只刃に付いた油が不愉快で拭いたかったからだ。
「あの、さ。だから、出来れば森の出口まで案内して欲しいんだ……一人で帰ると、途中で君以外の魔物に襲われちゃうからさ……」
 私は最早此奴の話を聞いていなかった。
 もう正直に自覚すべきだろう。私は混乱していた。
 何で? どうしてだ? 今更逃げ出すのなら、ずっと前に言えば良かったじゃないか。今はもう、何時繁殖期に入ってもおかしくない時期だぞ? なのに、どうして今になって言う。
 ああ、此奴は私の顔色を伺っていたんだ、ずっと。そして、ある程度まで慣れ合ったと判断して、解放を要求した。成程、脆弱な個体は狡賢い。私を上手く利用して、餌を得ていたのだ。
    介抱までさせて……っ、私を……弄んだ……っ!
「ね、ねぇ……? 大丈夫   うわぁっ!?」
 揺さぶられる心に命じられ、私は刃を振い、この狡賢い個体の服を引っ掛けテーブルに張り付けた。
 私は、溢れ出る何かに見て見ぬ振りをして、この個体に言い放つ。
「……っ、帰りたければ帰るがいい。明日の朝に、出口まで送ってやる」
「あ、ありがとう……?」
「その代わり、私に二度と顔を見せるな」
「へ?」此奴の呆気に取られる間抜けな顔。
「その顔を見る度に腸が煮え返る気分だ。次に私の縄張りをうろつく様な事があれば……ッ」
 殺す、という脅しを口にし掛けて、止める。流石に、其れを行わぬ慈悲が私には持ち合わされている。
 私は此奴を張り付ける衣服から刃を取り下げ、背を向ける。
「……兎も角、貴様は其処で寝ろ。私は上で寝る」
「あ、ねぇ! あのさ」
 もう沢山だ   私は巣まで飛び上がり、その中でぎゅっと丸くなる。
 下で何事か、彼奴が喚いている。五月蠅い、五月蠅い。
 耳を抑えて、私は縫い付いてしまう程に目を閉じた。





――――――――――





 森の出口まで送り届けた後、彼奴は何度も森の方を振り返って申し訳なさそうに眉を下げているのを、私は隠れて見ていた。
 私は森から出た事はない。この先にある人里に何があるかなんて興味を持った事もない。そんな所へ、彼奴は帰って行く。
 清々する。これで御守をする必要もなくなった。今まで面倒を背負い込まされていた分が軽くなる。よくぞ帰ると申し出てくれたものだ。今になってはもう顔も思い出せないが、きっとこれ以上傍に居ると鬱陶し過ぎて髪が抜け落ちて来る頃合いだっただろう。全く、清々した。
 ……ふん。
 巣に帰る間に野兎を一匹仕留める。その亡骸をテーブルに置く。
 何も考えられなくなっている。何も考えず、気付けば私は獲物の肉を、何時もの様に丁寧に臭みを抜いて焼き、二人分の食器に盛り付けていた。
 それに気付いた時、私はどうしようもなくイラついた。此処に誰かがいたという痕跡が私の中に残されているのが堪らなく悔しかったのだ。
 私は一人だ。最初から一人。誰の手も借りずに生きて来たし、生きていける。
 余分な料理に手を掛け、投げ飛ばしたい衝動に駆られるが、寸での所で押し留める。折角頂く命を粗末にする事はならなかった。
 巫山戯た話だ。私は幻想を見ていた。次の冬を一人では越せないのではないかと。飛んだ馬鹿話だ。今まで一人で何度も乗り越えて来たのに、どうして一人では無理なのかという道理が通じると思えたのか。
 私は一人だ。一人で生きていけるのだから、私は誰よりも孤高でいるんだ。
 私は二人分の料理を掻き込む。香草の風味が良く効いている。温かい食事が喉を通って、腹を満たしてくれる。
 食事が終わり、一息吐いて。さぁ、今日の昼食はどうしようか。夕食はどうしようか。自然に考え始める頭を振り回し、以前の自分を思い出そうとする。けれど、この温かい食事を摂り出す前の事などすっぽり思い出せない。それ程までに、自分が記憶に薄い食事ばかりをしていた事に気付く。
 何より代わりに思い出すのが、オス個体が私の調理した食材を美味そうに平らげる様子   


 ……突然脇を掠めた斬撃に、偶然目の前を通り過がったワーラビットが青い顔をして飛び去る。めきめきと音を立てて、地面に叩き付けられた木は、ばらばらと薪になって崩れる。
 私とした事が、八つ当たりだなんて。私に動揺する事などない。私の心を掻き乱すものなんてないのだ。
 まだ昼だが、何だか酷く、疲れた。
 今日はもう眠ろう。
 目を瞑って、開けば。また私は以前の私に戻れる筈   そうに違いない。そうでなければならない。
 信じられるのは自分だけ。そう確信する度、自分は何かに追い込まれている気分がした。この時ばかりは、祈る様な気持ちで目を閉じて、意識を暗い水底に沈めていく他はなかった。

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【メモ-その他】
“干し肉”

現代では酒のつまみとして、ファンタジーなどでも保存食として知られている干し肉。ジャーキーという奴である。
結構気軽に作れるのかと思いきや割とそうでもないので、まさか只肉を干して干し肉は出来ない所が現実の厳しさを物語っている。

12/09/26 08:59 Vutur

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