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前編

 両親は仲が良かった。
 感情を噫にも出さない母は四六時中と言っても良い程父にべったりであったし、父はそんな母の甲殻に包まれた体を抱き寄せてニコニコと微笑んでいた。
 私には判らなかった。
 何故、彼等という個体同士が私と言う次の世代を設けておきながら、未だに寄り添い続けるものなのか。
 早々に狩りを憶え、身の丈を超す動物を食餌する事が出来た私は母の血を受け継いでいる。手首から肘に伸びる波状形の鎌の美しい切れ味も、頭に生える触覚の誉れ高き緑沢さも母譲りの物であったし、母も同様に私くらいの年齢から狩りをこなしていたと聞いたから、きっと生きていく為のこの技術も母から受け継いだ物だ。
 だから、母は一人でも生きていける個体である事に間違いは無い。なのに、どうして繁殖期に偶々番った様な、人間のオス個体の傍から片時も離れようとしないのだろう。
 私には“特別視する”という行いに実感が湧かなかった。それは食餌を食餌として見る事ではない事は知っていた。食餌を、食餌以外の目でも見るという事だとは理解していた。それ故、母という個体と父という個体が番である以上の事、其処に他の何かが介在するという話は、私の中では恐ろしく不確実で掴みようのない、得体の無い物であった。
 誤解なきように言うが、私は両親が仲睦まじい事は良い事だと思う。悪い事ではないという意味であって、別に構いもしない事でもあったが。
 別に構わない事なのだから気にしないでいれば良かったのだが、物事の分別が付き始めた頃から妙にそんな事を気掛りに思っていた。
「今日はダーリンが好物の魔界豚の香草スープを作ったぞ」
 歯の浮く様な呼び名を口走りながら、桃色エプロン姿の母がウサギさん模様のミトンを嵌めた手で鍋を運んではテーブルの上に乗せた。それに対しテーブルに着いた父は眼鏡を畳み、手元に置いた。
「うん、良い匂いだ。流石、君の手料理は何時だって絶品だ」
「ダーリン、それは先ず味を見てから言ってくれないか」
 母が木の器にスープを注ぎ、父に突き出す。父は微かに微笑んでから其れを受け取り、そっとスプーンを潜らせ、口元に運んだ。
「うん、君の手料理が美味しくない筈がない。絶品だよ」
「絶品か」
「絶品だね」
 母は相変わらず父と話していても顔に表情を浮かべる事は無い。一方、父は絶やさぬ笑顔で母と向き合っている。
「今回は張り切って作り過ぎてしまった気がしていたが、その分だと丁度良さそうだ」
「はは、凄い量だね。初めて料理を作って貰った次の日を思い出すよ」
「あれと一緒にするな」
 少し驚いた。あの母に、張り切ってしまう瞬間があったとは。
 しかし、張り切るというのも何だか実感が湧かない感覚だ。私自身が無用に気負ったりする事がなかったから、何がどうなってスープを作り過ぎる事があるのか想像が難しい。
「さぁ、娘よ。料理は、温かい内に食べてしまうんだぞ」
 けれど、母の手料理は温かく、森で食べる生の獣肉よりも美味しかった。





――――――――――





 夏の猛烈な暑さもピークが過ぎ、次第に涼しさが感じられる様になった、秋口といった時頃。下腹部の奥が痒かったのが段々とはっきりと感じ取れる様になって来たのが切欠だった。
 母が言うには、到頭私にも繁殖期が遣って来たのだそうだ。
 繁殖期の間に男性を見付け、交尾し、子子孫孫に渡り種を繋げなければならない。





 早速私は父の元へ行き、交尾を求めた。





    気付いた時には、母の磨き抜かれた鎌が首筋に宛がわれていた。
 無表情なまま、淡々と説教を始める母。
 やれ、人のダーリンに手をつけるな。
 やれ、自分の物は自分で探せ。
 何時もの調子と変わらぬまま、しかし、その眼光は間違いなく獲物に安らぎを与えんとする時の鋭さ。
 あの母が、怒っている。そう感じたのはこれが初めてだった。
 そんな母が繰り返し述べていた事。
 私とダーリンは愛で結ばれているだの   愛の前には全てが下らなくなるだの   私をこうして駆り立てるのは全部愛の仕業だの   何だか凄く人前で言う様な台詞じゃないものばかりだった気がする。
 母をこうまで駆り立てるらしい、その、「あい」という物が何なのか。話からは要領を得ない。母は頻りに父との間にあるその得体の知れない物を強調し、私に言い聞かせていたが、当の私にとっては母が世迷言を言っている様で不思議な感覚を憶えた。

 兎も角である。
 私の最初に訪れた繁殖期は母の怒りを買い、結局お流れとなってしまう。

 翌年。私は再び下腹部の奥の痒さを自覚した。
 繁殖期が来た事は直ぐに判った。当然、母の怒りを買う訳にはいかず、父に交尾を求める事もしなかった。
 取り敢えずどうすればいいか母に尋ねて見た。
 母は何事かを決心するかの様に頷き、だが、次の瞬間からは自分が父と出会った時の慣れ染めを長々と語り始めた。
 そんな話の断片から、要点を抽出するに、自らに相応しいオスを探して捕食、もとい、交尾をするのだそうだ。母も一目見た父に襲い掛かり、交尾を成し遂げたらしい。

 ふむ。自らに相応しいオスか。

 …………。

 まぁ、其処等辺に居る男で良いだろう。





 という事は父でも良い訳だ。





 父の寝室に行こうとした所、母の刃が私の米神を掠り抜け、回り込んで来た。
 今宵は私が予約している。寧ろ、毎晩予約済みだ   そんな事を言ってこれまで以上に睨み付けて来る母に、私も少々うんざりして来ていた所だった。母の取る行動の意味が悉く理解の範疇に及ばなかったのだ。
 だから、私は言ったのだ。母は関係ない。父の返答次第だと。
 すると、母は口の端をスッと持ち上げた。   感情の籠らない其れに凄まじい悪寒が走ったのは今でも鮮明に思い出せる。
 その後、私は母子喧嘩をした。双方、寝ている父が物音で起き出さない様に、床を踏み締める音さえ放たず、刃を交わす音さえ響かせず、意地をぶつけ合った。それでも、激しい喧嘩には違いない。椅子は木屑同然に、食器棚は鋭利に切り割られ、父の眠る部屋のドアは切り飛ばされていた。
 それは静かに朝を迎えるまで続いた。半分になった窓から朝日が差す頃、母が急に刃を収めて、ダーリンの朝ご飯を作らなければ、とキッチンに向かって、終結した。
 決着は着かなかった   しかし、冷静に考えれば、母は息切れ一つも起こしてはいない。対して私は肩で息をする程疲労を憶えていた。間違いなく、母は娘である私に本気を出していなかった。私は改めて、私を産み出した母という存在を恐れ、敬わざるを得なかった。
 そのすぐ後、父がベッドから体を起こした直後「お、えぇっ!? ドアが!?」と叫ぶのが聞こえた。ドアは跡形もなく切り刻まれたのはつい先程の事であった。
 朝食を取った後、部屋を見渡し未だに困惑気味な父が私にこう言った。
「聞いたよ。繁殖期が来たんだね」
 母の触覚がぴくんと跳ねる。
「君にはもっと相応しい旦那様がいるよ。身近な男で済ませるなんてしちゃあいけない。君を幸せにしてくれる旦那様を見付けて来てくれる事を僕は願っているよ」
「……相応しい男を態々選ぶと言う意味が判らない。只、子を成すだけだろう」
 私がそう述べると、父は苦しそうに笑った。
「ホント、君は出会った頃のお母さんと瓜二つだなぁ」
「そんな事ないぞ、ダーリン。私は此奴程、可愛げがない娘なんかじゃなかった」
 母はぷくっと、頬を膨らませて見せた後、机の食器を片付けながら言う。
「そうだ、娘よ。貴様も一人立ちしてみたらどうだ」
「一人立ち」
「そう、一人で生きていく事だ。貴様の狩りの腕は私譲りで磨き抜かれている事だし、飢える事も先ずないだろう。問題はない。うん、そうだ。そうしよう。今すぐにそうしよう」
 表情を消したままの母が凄い剣幕で捲し立てる。どうやら、毎度毎度父に交尾を迫る私が我慢ならなかったらしい。

 そうして、半ば母から追い出される様にして、私は森を住処に一人立ちする事になった。





――――――――――





 私はこれから一人だ。

 食卓を家族と囲む事もない。温かな寝床で語らいながらまどろむ事もない。
 夜になる前に寝床を確保しなければいけない。刈り取った枝と葉っぱを木の上まで運び、組み敷いて何とかそれらしいものを作った。
 特に理由もなく其処で丸くなっていると、遠くに人の気配がある事に気付いた。触覚が、靴で木の葉を踏み締める衝撃を捉える。
 そう言えば、私は繁殖期を迎えていた。早々に子を成し、種を存続させていかなければならない。この下腹部の痒みはその為のサインだ。
 静かに、駆ける。
 木の葉に紛れ、見ると、気配の主は木を切る男性だった。樵と言うのだろう。その樵は顎髭を短く刈り揃え、でっぷりと肥え太った体に熊の毛皮を巻いていた。
 私は手短に種を得ようと、刃を翻した。驚きの色を浮かべる樵の衣服は切り裂かれた。樵の身体を抑え付け、地面に押し倒した。
「ひぃっ、な、なんだってんだぁっ」
「……じー」
「な、なんだってんだよぉっ」
 私は樵を見据える。   この後、どうすれば良いのだろうか。
 母の話は余計な話ばかりだった様に思える。なので、具体的な部分がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。要するにオスの衣服を切り裂き子種を得る事だとは判ったが、ではどうすれば子種という物が得られるのかが判らない。
「じー」
「……ひぃっ!」
 お腹に衝撃を受ける。樵が抵抗して、肥えた腹が私を撥ね飛ばした。私が体勢を崩している間に、樵はあの体で良くもそんなにという速さで逃げ去って行った。
 オスを取り逃がした。それは、獲物を取り逃がしたのと同義だった。しかし、悔しいなどという感情は別段湧いて来なかった。
 私はその時からお腹が空いたので、近場で水を飲みに来ていた野生の魔界豚を狩ってその生の肉で腹を満たした。
 新鮮な血肉の、生温い味。何の感慨も浮かんでは来なかった。


―――――


 一人になってから最初の年の繁殖期は使命を達せずに過ぎ去って行った。

 二年目。淡々と自らの生命を繋ぐ行為を、慣れたと評しても良いものだろうか。朝は巣穴で丸くなり、昼は狩りをして腹を満たし、夕暮れになって巣へ戻り目を瞑る。夜は私の緑冴える甲殻が草色に隠れる事が出来ないから、専ら明るい内に狩りをすべきだ、と悟った上での基本的な一日が其れだった。
 夜になると、私の瞳は闇の色に溶け込む。瞼の向こうには何もない。夜空には掲げられた幾億の星の光が煌めいている。一つくらいは私の手元にあってもいいのではないだろうか。切っ先を持ち上げ、光の一つを引っ掻いて見せる振りをしてみた。
 私は柔らかい枝葉の上で体を抱えて、目を閉じた。

 その年。繁殖期が訪れるのは早かった。まだ暑さがピークに達しようとしている頃だった。
 私は早々にオスを探しに出掛けた。しかし、探せども探せどもオスは見当たらない。普段あれ程、必要としない時に見掛けると言うのに。いざ狩ろうとした時に限り獲物は見付からない。
 そうして漸く見付けたオスに襲い掛かろうとした時、足を止める。
 オスの身体からは、別の魔物の臭いがしていた。つまり、このオスは既に番を作っているという事だ。
 子種を貰うだけなら誰だって構わないとは思いつつ、このオスに手を出せば番となっている魔物は黙ってはいない。それは母の怒り様からも想像が付いた。
 私は即、踵を返し、草むらに飛び込んだ。襲おうとしていたオスは目を見開いて茫然としているが、構わず私はその場から早々に退散した。
 その後見付けたオスも、悉く別の魔物と番を作っていた。態々傍に寄らないでも強い臭いが漂うので、向こうに見付かる前にその場を離れる様にして面倒を回避した。

 結局、この年の繁殖期にも私は番を作る事がなかった。運の問題か、はたまた私の狩りの能力が到らない故か。
 しかし、繁殖期を過ぎ、下腹部の痒みも消え去った今では別段気に留める事でもなかった。


―――――


 丸くなっている。
 寒い季節は、巣の枝葉に獣の毛皮を重ねて団子の様にして過ごした。
 刺す様な風だった。凍る様な空気だった。今年は特にそんな寒さの厳しい冬がやってきていた。
 この季節が来るまでに、食料は多く備蓄しておいた。今でも腹には生肉を裂けそうな程詰め込んである。口に運ぶまでは凍っているかの様だった獣肉が、私の腹の中でじわりと生温かくなっていくのが判る。
 後は暖かな春に新芽が芽吹くのを、目を閉じて待つだけであった。
 草木が萌え盛り、青々と隆盛を誇り、そして衰退の気を見せる頃。
 又、私に繁殖期が訪れる。


 年月は繰り返される。何者も止める事は出来ない。追い付けなかった者の事など、光陰が顧みる事などない。


 私は、未だ番を作れてはいなかった。繁殖期ではない冬の間、静かに目を閉じ、闇に溶けた瞳の奥で、何故か、と問い掛ける。
 何故か。何故か。
 私は思い返す。今まで獲物を捉えた事は幾度あった。けれど、その後、子種を頂戴するには至らなかった。番い方が判らない私には、獲物を捉えてもどうする事も出来なかったのだ。
 人間のオスなど食える気もしない。私は何時も獲物の衣服を切り裂いただけで逃がしていた。全く持って、無益な行いだと自覚した。
 母はどうしていたのだろう   そう思案する度に、母の無駄話を良く聞いておくべきだったと後悔する。しかし、過ぎた話だった。


 草花の種が芽を吹き、成長し、また新たな種を落として枯れ落ちてゆく。


 もうすぐ死の季節がやって来る。繁殖期を逃した私は又何時もと同じ、獣を狩り、肉を集めていた。
 この時期になると、既に肌寒い。甲殻で身を包み、責めてつい先程まで生きて熱を持っていた獣肉に食らい付いていた。
 背後から、枯れ葉を踏み砕く音がした。
 振り向く必要なんてなかった。二本足だという事は音で判っていた。近場の魔物か人間である。余程の事が無い限り、彼等が私の獲物を奪う事なんてない。そのまま背後を見せ続けていても危険は無いに等しかった。
 しかし、居心地が悪くなる。気配だけで食事の邪魔だ。
 私は狩った獲物を手に立ち去る際、原因を見遣る。
   わっ、マンティスだ」
 ……人間のオスか。しかも、他のメスの臭いがしない。繁殖期に見掛けていれば襲っても良かっただろう。しかし、生憎と今はそれどころではなく、死の冬に向けて命綱を結っている所である。
「吃驚したぁ。繁殖期以外じゃ襲って来ないんだったっけ」
 人間が独り言を言った様だが、それは幾分か私に向けられたものにも聞こえる部分があった。それで、もう一度その人間の方に目を遣った。
「冬に向けて食べ物を集めている所かな? ごめんね、お邪魔だったね」
 銀縁眼鏡を掛けた、学者風の男だった。其奴は何かを私に謝って、その場を立ち去ろうとしていた。

 ……私はふと、考えた。

 繁殖期の間、都合良くオスが見付かるとは限らない。見付けてもどうすれば良いか判らない今では意味がないかもしれないが、此処で一匹、オスを確保していれば、何れか繁殖期で子種を得る事が容易になるのではないだろうか   


―――――


「うわっ!? な、何を」
 人間が喚く。私が此奴の首筋に刃を宛て、足を止めさせたからだ。
 耳元で囁く。「大人しくしろ」
 素早く人間の首に手刀を当てた。人間の目がぐるんと上に向き、その場で崩れ落ちる前に、肩に担ぐ。
 繁殖期でもない時期に、人間のオス個体を巣に連れ帰る。考えてみれば邪魔で仕方がない。どうせすぐに逃げ出すだろう、と深くは考えない事にした。
 次の繁殖期までまだ一年はある。その間、この人間の個体を健常に保存しなければならない。冬は此奴分の食料も備蓄しておかなければならないが、それは大した手間ではなかった。





――――――――――





 私の巣は木の上に作っている分、狭い。連れて来たこの個体を置いておくにはスペースが足りなくなる。だから、必然、此処で眠る時はこのオスに抱き付く形でいなければならない。
 昏睡する個体は、私の腕の中で無防備な姿を曝け出している。落ち付いた呼吸でもって、瞼を僅かに震わせる。私にとって、オスなんてどれも同じ見た目だ。だから、個体を識別する事なんて出来そうもなかったが、此奴は父と同じく眼鏡を掛けているから、まだ見分けが付きそうだ。
 その内、オスの体がくっと強張った。瞬間、眼鏡の向こうで、瞼がすぅっと開かれる。
 私はそんなオスに当て身を打って、もう一度気絶させる。騒がれても面倒だ。もう辺りは暗く、私もいい加減疲労を憶えていたから、休みたかった。
 このまま目が覚める度に当て身を食らわせて、繁殖期まで過すというのも面倒がなくていいな、という考えが過ぎる。それは流石に非道の極みか。それに、いざという時生殖能力がなくなっていては困る。止めておこう。
 冬に差し掛かる頃にしては、今夜は随分冷え込んでいた。毛皮と枝葉を何層にも被る。こんな日は何時も以上に丸くなって眠るのだが、生憎それは適わない。
 責めて暖を取ろうとオス個体に体を密着させ、刃が立たない様細心の注意を払いながら、目を閉じた。





 ……。



 ……あったかい   





 自分の柔らかい部分と、此奴の柔らかい部分が触れ合うと、じんわりと温度が伝わって来る。瞼の裏に、温かさが其処にあるという掴み様のある確かなイメージが浮かぶ。
 普段丸まって眠るのは、自らの体温を逃がさない為だ。


 ……こうして、他から体温を分けて貰うと言うのも、悪い気はしない。


―――――


 瞼の向こう側に光を感じた。瞳を開くと、朝の柔らかな木漏れ日が私の目元を照らしていた。
「おはよう」
 トスン。
 思わず当て身を食らわせてしまった。
 私は昨日、オスを巣にまで攫って来た。なのに、何時もの目覚めとは少し違うだろうという事をすっかり失念してしまっていた。
 しかし、このオスにも責はある。何せ行き成り声を掛けて来たのだ。場合によっては首を劈かれていたかもしれない、迂闊な行動だ。それも、まるで気安そうに「おはよう」などと、挨拶の様な物を投げ掛けて来た。
 オスは物の見事に気絶していた。反射とはいえほぼ的確に人体の急所を強過ぎない力で圧迫したので、この位なら命に別条はないだろう。
 私は傍に干してある肉切れを一つ手に取り、噛み千切る。水分が抜けて乾燥した肉は、生の状態に比べて固いものだ。奥歯でしっかりすり潰し、飲み下した。
 充分腹を満たした私は、続けてもう一切れを手に取り、噛みほぐす。干した肉は繊維状になっており、しがんでいくとささくれの様になる。其処へ自分の唾液を含ませると、それ程噛まなくても飲み下せる程度には柔らかくなるものだ。




 オスの顎を掴み、自然に開いた口へ、口元を寄せる。



    口と口が触れた瞬間、心臓の鼓動が一拍子、跳ね上がったのを感じた。



 咄嗟に、唇を離した。   何だ、今のは。初めての感覚だ。
 悪い病気か何かだろうか。その割には何処も痛くは無いし、心地悪い訳でも無い。よく判らないが、私は口移しで餌を与えようとした所、何らかの動揺を憶えたらしい。
 私には母の血が流れている。冷静沈着で、滅多な事で気を揺らす事はない。あったとしても、余程の理由があるものだ。けれど、今の動揺には、それが見当たらない。
 もう一度。口移しに挑戦する。先程の感覚が、また、襲ってくるのではないかと考えて動きを止めた。その時は、具体的に何故この様な事になるのかを改めて考証してみるのが良いだろうと決心し、再び唇を落とした。

    ゾクゾク♥

 そう、口で言えばぞくぞくっとした感覚だ。何だろう、これは。私は餌を与えているだけである。なんて事はない行為だ。なのに、体が勝手に、何事か反応するのだから、ほとほと不思議だった。
 オスの口の中に、たっぷりと唾液を含ませた干し肉を吐き出す。上手く入らない部分は、舌を此奴の中にまで突き入れ、押し込んだ。肉を遣り終わり、頭を上げた後、水分が足りないだろうと思い、溜めた唾液を改めて口の中に送り込んだ。
 オスはごくごくと喉を鳴らし、肉と一緒に私の唾液を飲み干していく。私は何処か満足した心持になり、暫くこのオスの顔を眺めた後、今日は大きな獲物を狩る事にしよう、と出掛けた。


 日が暮れて、空が赤く染まっていた。
 今日は大きな獲物を狩るまで帰らないと決めていた。なので、中々帰る切欠が掴めなかった。辛抱強く森の中を探して、やっと見付けた獲物は身の丈を遥かに超す魔界豚だった。
 これを狩らない手はない。そう思い、刃を構えたのはまだ昼下がりの頃だったのではないだろうか。しかし、いざ狩ってから持ち帰るまでが一苦労だった。矢張り長い年月を生き抜き、命を蓄えて来た獣の重量たるは凄まじい。
 どうにか巣の下まで持ち運んだ頃には、辺りには闇の帳が下りていた。
 切り分けた肉の一部を巣に持ち上がる。
 ……。
 居ない。
 捕まえていた奴は疾うに逃げ出していたらしく、其処には僅かな体温すらも残されてはいなかった。
「ふん」
 奴が居ないのであれば、態々大物を仕留めて余分に食料を得る必要はなかった。今日も冷え込みが厳しい。これで奴が逃げ出さないでいれば、温かく眠れただろうに。
 私は自分でも憮然としているのを感じながら、切り分けた肉に食らいつきながら干す。分ける相手も居ない以上、自分が冬を越す為の備蓄は充分過ぎる程にあった。下に置き去りにしている残りの肉は、誰かの腹を満たせる様に水辺の近くに処分しておこう。
 巣から飛び降りる。魔界豚の死体を担ぎ、水辺に移ろうかとした所で、目の前の茂みががさがさと揺れる。
   やぁ、帰っていたんだね」
 身構え様とした所で、そんな声と一緒に現れたのは、人間のオス個体だった。
「酷いじゃないか。突然誘拐したと思いきや、目が覚めた途端にまた気絶させたよね? お陰でなんだか体のあちこちが上手く動かないよ」
 自棄に慣れ慣れしく喋る個体だ、と観察していると、そのオスは突如として怪訝な表情を浮かべた。
「……若しかして、誰か判っていない?」
 見覚えの無い顔に、まるでつい最近にでも遭った事があるかの様な疑問を呈された。
「誘拐しておいて、そりゃないよ……」
 頭を抱えて何事か憂鬱気に呟くオスが、ズレた眼鏡の位置を直す。
「……ああ」
 その眼鏡。このオス個体は、私が連れ去った奴か、と合点が行った。
「な、何で僕と認識されたのか判らないケド、取り敢えず気付けて貰えて良かったよ」
 奴は力無く笑いながら、髪に絡み付いた葉を取り払った。
「逃げたんじゃないのか」
「うん? ああ、そりゃ一応……でもね、此処が何処だか判らなくて。しかも此処からちょっと離れるだけでそりゃあもうすぐに魔物に襲われて、帰るに帰れなくて、さ。戻って来ちゃったよ」
 まぁ、理由はどうあれ獲物が向こうから戻って来たのだから、悪い事ではないだろう。と、すると、この獣肉も必要になるかもしれない。その場で手早く切り分けて巣の上に持ち運ぶ。
「あ、あの……何もなかった風にさっさと作業されちゃうと、困っちゃうかな〜って」
 何事か困惑している奴の脇に自らの腕を挿し込む。
「えっ」
 そして   そのまま巣の上まで飛び上がった。
「ほわー!?」
 木の上の巣まではざっと私が6人分程の高さだ。巣の中で降ろされると、急にへたり込む奴。
「ちょ……出来れば、事前に言って貰えないかな……心臓に悪いよ」
「心臓が悪いのか?」
「いや、そういう意味じゃ……ははは」
 何故か乾いた笑い声を上げるオス。変な奴だ。どうやら不健康な上変わった個体に目を付けてしまった様だ。繁殖期までに衰弱してしまわないか不安だ。
「……今日は此処で休めって事かな?」
 衰弱されては困る。そうなったら人里まで運んでやらなければならないが、生憎私は人里まで行った事は無い。生まれも育ちもこの深い森の中だから、その辺りの面倒は見切れない部分がある。
 そうだ、たっぷりと肉を食わせてやろう。肉を食っていれば健康にもなるだろう。
 けれど、人間は生肉を食わない。父は何時も調理された肉を食べていたから、その辺りは把握している。なので、私は巣の奥から干し肉を取り出し、しがみ、唾液を存分に含ませる。
「お食事? あの、ちょっと何か僕と話してから……んぷっ!?」

    ゾクゾクッ♥

 また、あの感じだ。餌を遣るだけの行為に、身体が謎の反応を示す。

(ん……!? な、何か入って来る……っ)
 口移しを始めた時、奴は何故か抵抗を示した。しかし、私が舌を突き入れ強引に押し込めると、一転諦めた様に抽送を受け入れる。こくん、こくん、と飲み込んでいく振動が伝わる。続けて、唾液を送り付けると、これも大人しく奴は飲み干した。
「ぷはぁっ……と、突然何を……っ」
「餌遣りだ」
「や、やっと答えてくれた……って、餌遣りって……」
 また何か困惑している様子の奴の事など今更構っては居られない。続けて、干し肉を噛みほぐす。
「あ、ちょっと待って! 僕にくれるっていうんなら、ちゃんと自分で食べられるからっ、だから、その……口移しは」
 顔を真っ赤に尻込んで、奴はそう言った。しかしこんな軟弱な個体、自然の中ではすぐに淘汰されてしまう事だろう。然るに、干し肉程の固い物を摂食出来るのか甚だ疑わしい。万が一、歯を折ってしまう事があればいけない。
 私は続けて、奴の口に餌を流し込んでやる。生意気にも抵抗しようとした奴だったが、腕を抑え込んで、無理矢理にでも餌を遣る。
「んぷっ!? ……ちゅぅ、ごくっ、ごくっ」
 流動食の様になった肉が舌に絡まる。奴の舌と絡めて削ぎ落とし、唾液で溶かしつけ、また喉の奥へと流し込む。
 こうしていると、身体が芯の方から温まる。けれどぞくぞくが止まらない。それは寒気とは違った感覚だった。私は、餌遣りという名分よりも、暖を取る為とこのぞくぞくをもっと味わおうとして、何度も何度も口移しを決行した。
 もう数える気にもならなくなった頃、奴は青い顔になり、再度口移ししようと近付いた私の顔を、今度こそ押し留めた。
「も、もういいよ。干し肉と、その、君の……で、お腹一杯だよ……っ」
「そうか」
 私は、口の中に溜めた肉の繊維を一飲みする。
「では眠ろう」
 奴の胸に腕を回し、巣に横たわって、葉枝と毛皮を被る。奴の顔がすぐ目の前にあったが、また何事かとばかりに目を見開いて慌てふためいている。
「……さっきから何だ。何をあたふたと驚いている」
「だ、だって……君、何で僕を攫ったのかとか、何も言ってくれないから……突然あんな事やこんな事されると、困っちゃうよ」
「見れば判るだろう」
「判んないよ。君達の発情期って、時期が決まっているんでしょ? 男を襲うのは今の時期じゃないと思うんだけど」
「そうだ。お前は私の発情期に交尾する相手として捕獲した。発情期にいちいち男を探す手間を省く為にな」
 それを聞いて愕然とした様子の奴。
「え、なんで、若しかして僕、君の発情期が来るまでこのまま?」
「話は以上だ。では、寝ろ。私は眠い」
「いや、待ってよ。これははっきりさせとかなくちゃ僕の生活はあぐばぁっ!?」
 ごたごた五月蠅い奴だ。私は苛立ちに載せた拳を奴の水月に叩き込む。
 奴はポカンとした表情のままぐったりと唖黙った。

 私も寝よう。
 今夜もまた、此奴を抱いて。





 ……次の繁殖期までが、待ち遠しい。

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【メモ-用語】
“輪舞曲―ロンド―”

破滅への輪舞曲―ロンド―とは、一打目のスマッシュで相手のラケットを弾き、返ってきた二打目で確実にスマッシュを決める技である。―出典、ニコニコ百科
「俺様の美技に酔いな」


輪舞曲、又は回旋曲。
ある旋律を異なる旋律に挟み、決まった間隔で繰り返す様式美を取り入れた曲の形式。

13/09/10 19:38 Vutur

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33