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前編 |
俺の前にずぅっと広がる、藍にも似た澄み切った青を、誰にでもなく見せてやりたい気分になったが、最早俺には共に語らう家族も友もいない。陽射し差し、揺り立つ小波がきらきらと。俺の双眸に映る海の様に広大なこの湖を一面輝かしている、この風情を共に楽しむ者は誰一人としていないのだ。 祖父の語った湖は確かに美しかった。けれど、侘しさは一向に消える気配がない。幾ら、穏やかな水辺に立つ事で戦場(いくさば)の感覚が抜けようと、俺を苛む喪失感は変わらなかった。 だけれど此処の空気を吸い込むだけで、時間が悠久の物であるかの様な錯覚を覚えた。それは肥大化した寂寞感を僅かに紛らわせるのに役立った。何時までも後悔と自責で塗れていた頭の中がすぅっと晴れ渡る、そんな気分を覚えたお陰で、俺に今必要なのは気持ちの整理である事が理解出来た。 この湖を前にして思った事が一つある。それは水面に映る魚影の在り方ではなく、雲海に靡く風の在り方でもない。何と言うべきだろう。此処は、とても神聖な場所なのではないだろうか。 人の心命を清め、正し、そしてあるべき場所へ導いてくれそうな 暫く湖畔を歩いてふと湖を見遣ると、どうやら花鳥風月が其処に広がっている様子であったのでつい息を呑んだ。 「ふむ、絵に興すにもさぞや素晴らしい絶景かな」 絵巻物を縦に広げる様にして、風景をその中に当て嵌める。群れを成し飛来する雁が遠雲に霞む島々に重なる。空の青と水の青が混ざり合う遠景を、是非とも水墨筆の淡い黒の色彩で一覧に供したいもの。 俺はそんな風に想いを焦がしながら水辺を存分に歩き、風を匂い、さざめきを耳に留める。気付けば随分、散策に夢中になっているものだった。 ふと風景に木が混ざる様になる。 湖の周りには木が囲む。その木を山がまた囲んでいた。専(もっぱ)ら人が住むのは森の少し奥ばった所を切り開いた場所だが、此方は人里とは逆の方向である。その所為か足場も悪くあちらこちらに木の根に抱かれた岩が転がっている。 土地勘のない俺が知らぬ森を歩くのは得策ではないし、もうふらふら歩くには過ぎたる時が経っている気もした。ほどほどの所で引き返そうと思っていた所で、向こうに見える木々の隙間に小さな建物が覗くのに気付いた。 よし、最期にあれを目に焼き付けてから戻ろう。村に戻って夕餉支度をしようと決めた所で、俺の足取りは岩々や剥き出した木の根を飛び跳ねる様に軽く動いた。 それは比べてみると俺よりも背の低い、精々猪が収まる程度の大きさである祠であった。 屈んで背丈を合わせ、よく見てみる。祠と言っても、その漆は雨風に曝され剥げ落ち土に還りつつある。木目の隙間を蟻が食い荒らしては木屑が周囲に散り舞い、戸の建て付けは歪んで今にも倒れ落ちようとしているなど、酷い風体をしていた。 随分と古くからあった祠の様だ。今となっては手入れする者もいないと言う事が、この祠が訴えずとも見て取れた。そういえば、此処に至る道筋も随分と不親切であった事を振り返る。 此処にも嘗て神仏の類が奉られていたのだろうか 「ふむ」 祠の劣化具合に反して治められた玉は随分と綺麗だ。まるで今日の朝にでも取り替えられたかの様で、見ていると吸い込まれそうな何かを感じる。 刹那、これを持って帰ろうか、などという考えが湧いてきたが直ぐに消え失せた。万一今此処でこれを盗んだとして、それを金銭や米に変えるまでの苦労を考えるといい事はない。俺は無欲な人間ではないが、それ程罰当たりな事が平気で出来る所まで落ちぶれているつもりもない。これはこのままそっとしておくのがいいだろう。 さて、収穫はこれくらいか。ついつい夢中になってしまっていたが、中々に新鮮な物を目にした。俺の故郷は都にあったから、こういう田舎の風景は不思議と皆面白く感じる。さぁ、帰って夕餉の支度でもしようか。そう思って立ち上がって見えた祠の後ろには木柵が張られており、それを乗り越えた先には岩が積み上がって湖を望める様になっているのが見えた。 あそこに行けば、中々の絶景を拝めるかもしれない。しかし、左に松を掲げる大きな岩壁があるにはあるが、それに身体を預けて伝っていくにしても其処まで至るまでには多少足場が不安気だった。今此処に柵があるのは昔あの隘路で滑落した者が居た為だろうか。 何にせよ、今日辺りからもうこれからの生活に見当をつけなければならない身の上であるからして、此処には二度も来るかどうか妖しい所だ。今日今この瞬間少し足を伸ばしたくらいで散歩でなくなるという事はあるまい。 柵を跨ぎ、両足を並べるくらいが精一杯の道幅を慎重に渡る。肝を冷やす思いをしながら、遂に岩場に降り立った。足裏の感触としては尖った岩が多く、随分人にとっては歩きづらい場所だった。 「ほう、これはまた絶景だ」 成程。この岩場から見るとあの霞の表情もまた違ってくるのか。光の当たり具合もまた違った風情を感じる。先程の場所で見た光景よりか、此処の方が幾許か心に染み渡る何かが得られる気がする。 この圧倒的な風景の前でなら自分の気持ちを整理する事も容易そうだ。そんな風に感じた時だった。 ……何かの気配を感じた。 こんな所まで人が来る事があるのだろうか? 俺の様な物好き以外に。 松の木に隠れて見えなかったのだが、岩場は予想以上に規模が大きかった。その中でも高く積み上げられた大小の岩々が松を抱く崖に凭れ掛かり絶妙な均衡を保ったまま聳え立つという奇妙な地形があった。 その、上に。 居たのだ。それは。 翡翠色の尾でとぐろを巻き、余った先をぞんざいに垂らし伸ばすそれは、極上の染め糸で仕立て上げられた着物を身に纏い、結い上げられた紫霞の柳髪を風に靡かせ佇んでいた。湖に臨み、物思いに耽るその横顔は目を奪われる者全てにこの世の物とは思わせぬ神格を垣間見せる程であった。 兎も角 その人の身とは違う者は、今頃俺に気付いたかの様に一瞥した後、ふぅっと溜息を吐いた。 「なんじゃ、妙な気配を感じると思ったら人間か……」 その人外からは絶大な余裕を感じた。事実、俺は腰に佩く刀を握ろうともこの人外から感じる力を前にして打ち倒す自分の姿を一片も思い起こす事が出来ない。ここぞとばかりに冴えた勝算を思い付く事もない。現実的に考えた事といえばこのまま自分にはない尻尾を巻いて逃げ出す事くらいである。 しかし一歩も足を踏み出さない内に人外から発せられたのは素っ頓狂な声だった。 「 急に何か得心したかの様に俺に振り返る人外。刹那、その尻尾をどの様に動かしたのか「ずぞぞぞぞっ」と、岩山の天辺から一気に俺の顔前に詰め寄ってきた。 「おおっ!? 人間じゃっ。生人間じゃ!」 竦む暇も与えられない内に顔面を思い切り両手で捕まえられ、まじまじと観察された挙句目を皿の様にされる。 「お、おうふ……」 一体何がどうなったのか把握しかねる俺の呻きに気付いたのか、その人外は一旦俺を解放し、気拙そうに一つ咳払いをした。 「こ、こほん。すまん、すまん。何分人間と相間見えたのは久方振りでのう。初見、鹿でも迷い込んだのかと思ったわ」 鹿と間違えた云々は別に言わなければどうもなかったと思うが。それより人の顔面に掴みかかって取り乱した件を詫びた物だと思ったが全然違った様である。 「そ、それで妾に何の用じゃっ? 久々じゃのう、妾の下に人間が訪ねてくるとは。ほれ、言ってみよ」 なんだか上機嫌にそんな事を言う目の前の人外に俺は呆けてしまう。 「え? いや、別に貴方に用があって来たのでは……」 「いや待て! 皆まで言うな……そうか、妾に助けて欲しい事があるのじゃな!?」 何やらしみじみと頷く人外は急に拳を振り上げて歓声を上げた。 「妾はまだ捨てたものではなかった! まだ妾を頼る者がおったのじゃ!」 「此方の話を……いや」 なんだか熱中している様であるし、此方の話を聞けと口にする事は諦め、兎も角はこの化生の正体を本人に尋ねる事にした。 「所で、貴方は一体何者なんだ? 見た所、妖しの類である様だが……」 そんな一言を掛けただけでこんなに表情という奴は変わる物なのかとその時思った。人外は、俺にゆっくりと、息絶える寸前の様な顔を向けて力なく声を震わせた。 「え、何者って、御主、えっ、何? 何、御主。妾の事、知らずに此処におるのかや?」 「失礼ながら、存じ上げない。此処に来たのは散歩がてらだ」 「がくーん」 変な人外だ。初見の時のあの様子とは一変して妙に感情豊かだ。 地面に両手を付いて落ち込む姿を眺める。下半身は捨て置いて、上半身はまるっきり女性の姿だ。先程から妙な高揚に任せるばかりで綺麗な着物が僅かに肌蹴ているが、其処から乳白色のたわわな双丘が覗いている。傷一つなく日の光に艶を放つそれは随分と肉の付き方が淫靡であった。 咄嗟に視線を外す。人外とはいえ女性の胸元を凝視するのは卑怯に思えたのだ。 「……なんだかよく判らんが、俺は帰らせてもらう。夕餉の準備をせねばならんからな」 取り敢えずなんだか忙しそうなので早く立ち去る事にしよう。そう思って踵を返した所で、足を思い切り掴まれた。 「待たんか」 「!? へぶぁっ」 しかも掴むだけではなく物凄い力で手元に引かれたので体勢を崩し、前に進む力をそのままに顔面が地面に叩きつけられる。 「妾の姿を見ておいて、只で帰られると思われては困るのう……」 硬く不揃いな岩場が骨にまで響いた痛みに耐えながら足元を振り返ると、其処には目を光らせる人外の不敵な笑みが垣間見る。 「あ、貴方は人を食うのか」 そう問い掛けた刹那、人外の表情が険しく変わった。 「人間を食らう様な化生の類と妾を同じに見るとは不届き者めっ。矢張りそれ相応の報いを受けてもらうぞ」 「ひぃっ」 咄嗟に地面の岩を掻き毟る勢いで腕を振るうが一向に体が浮く気配がない。人外は不穏な気配を纏ったまま上体を浮かび上がらせると、そのまま俺の身体を引き上げる。長い尾がしなやかに振るわれ、しゅるると俺の身体に巻きつくと、その自由の一切を奪ったのだった。 尾の力は尋常ではなかった。俺は男の中でも大柄な方ではないが、それでも武士として鍛錬を続けてきた自負がある。そう易々と持ち上げられる体付きであると夢にも思っていなかった。それがこうして足の裏が地から離れ、尾の締め付けだけで宙に支えられている。 眼下に人外の頭頂部が見える。きっとこのまま少し尾を強く締め上げるだけで俺の芯は簡単に砕け散るだろう。 しかし、それをしないのはどうした事だろう。 俺が疑問に思い始めた所で、人外は指を絡めて気後れし始めた。 「……お、御主に拒否する権利などないのじゃからなっ!」 まるで確認を取るかの様な言葉を紡いだ後、人外は俺の眼前に人差し指を鋭く差し向けた。 「 「……はい?」 随分と予想外な台詞が懇願と共に耳に飛び込んで来た気がした。人外は、必死と言った形相で俺の胸倉を掴み、一際迫った所で同じ様な台詞を繰り返した。 「お願いじゃ! 妾に何か願い事を言ってくれっ。御主、此処では見ぬ顔じゃ。色々困った事があるじゃろうっ? さぁ、遠慮なく言うのじゃ! さもなくば天罰を下すっ」 「ええっ!?」 そんな脅しがこの世の中にあるのか。願いを叶えさせなければ天罰を下すなど。 兎も角、俺が目下困っている事をそのまま口に出してみる。 「……ま、先ず離してくれ……その、尻尾」 「嫌じゃ。折角捕まえた人間じゃ! 逃がしはせんぞっ」 「逃げん。約束する」 人外は俺の要求に暫く唸った後、そっと尻尾を退かせた。 足が地に着かないというのは落ち着かない気分だった事もあり、一先ず安堵する。 「さぁ、早く願いを……って、こらぁっ!?」 脱兎の如く逃走を試みた俺を人外の尾は見逃さず、あっという間に巻き絡められてしまった。 「ほう……いい度胸じゃ……妾を謀るとは、のう? 人間……?」 「ま、魔が差したのだ……許してくれ」 人外の額に青筋が浮かんでいるのが間近で判る。 「ほら、いい加減に願いを言わんか。何でも叶えてやるぞ〜?」 怖い。逃げ出した事に対して怒りを隠していないにも関わらず願いを叶えてやると口に出すその様が何だか凄く怖い。 「じゃ、じゃあ……」 願いを口に出すと対価として命を奪われる等という展開が脳裏を過ぎるが、どっちみちこの様子では口にしなくても殺されかねない。正直、人にそんな事を望んでいたと知られたくない事柄であったが、内に秘めた願いを口に出す。 「その……俺の、両親や妹を」 「ふむ? 御主の両親や妹を……どうして欲しいのじゃ?」 「……蘇らせては、くれないか?」 確かにそれは不幸な事だったし、なかった事にしたいのは事実だ。 けれど、今更こんな事を願うなど卑劣な事だと俺は考えていた。あの戦火で俺よりも多くの物を失くした者達は大勢いる。それなのに俺だけこんな、自分の家族が戻ってくればいいなどと、都合のよい幻想を抱いていていい筈がない。 今の俺に必要なのは気持ちの整理だった筈だ。死者は戻ってこない。悔いた所で戦争が起きなかった事には出来ない。死んだ者達の為に自分が出来る事は、その者達の代わりに生き抜く事。 なのに今口に出してしまった瞬間、また心がざわめき始めた。俺はいみじくも神仏や化生に縋り付いてまで絆を取り戻そうとしているのだ。 「成程……」 俺の最近の事情を聞いた人外は深く頷いた。 「御主も辛い役目を負う者なのじゃな。それで、自らの絆を希(こいねが)う、か……」 「ああ。情けない事だと思う。けれど、妹はまだ、三つだったんだ……この前やっと歩ける様になったばかりだったんだ」 「ふむ。それで蘇らせて欲しいのじゃな? 自らの絆を」 俺は深く頷いた。 人外は深く得心した様に小刻みに頷く。大きく息を吸って、落ち着いた声で一言だけこう述べた。 「無理じゃ」 「 俺は返す言葉を失った。同時に情けなさや怒りが込み上げてきて、俺は相手が人外であり自らが敵わない存在である事など忘れ、考え付くままに喚きたてた。 「なんなんだっ……願いを言えと言ったのはお前だろうっ。叶えると言ったのはお前だろうっ! それなのに、俺の願いを聞いただけで易々無理と断ずるくらいなら、初めから下手な虚栄を張るな!!」 「す、すまなんだ……てっきり金持ちになりたいだとか、そういう願いかと思ったのじゃ。その、水辺を歩いている御主を見ていて大した願いなど持ってないかな〜と思ったのじゃっ……、ほ、ほら、離してやるから、もう帰るが良い」 身体に巻き付く尾が引かれ、体の自由が戻る。しかし錯乱した俺の頭は猶人外を敵視する事を止めず、気付けば腰に佩く剣に手が伸びていた。 「おおう!? 待て、早まるなっ。きゃあっ!?」 振り翳した剣を見て刃傷沙汰に縁のない若娘の様に頭を伏せる人外。 ……それを見て、俺は昂ぶった激情が自分の内側にすぅっと引っ込んでいくのを感じた。 「……もう、いい。どうせ期待などしていなかった」 剣を収める。 情けない。情けなくて、死んだほうがマシだと思える程だ。気持ちの整理が付きかけた所で仮初の希望を垣間見せられ、嬉々として飛び付いてしまった自分が情けない。 死者は帰ってこない。いや、来るべきではないのだ。その摂理をそう簡単に捻じ曲げる事の出来る者など、神仏であろうと居る筈もない。そんな事は百も二百も承知だった筈だ。ましてや人間である俺が剣を振るうのにでさえ怯えるこの人外にそれ程の力がある筈はない。 頭を抱えて伏せていた人外が恐る恐ると言った風に俺を見上げる。 「おおう……もう怒っとらんのか?」 「ああ。よくよく考えれば俺の方こそ、甘えていたのだ。黒い牛が白くはならん」 怒りの反動だろうか。いや、例えそうだとしても最早外聞は捨てた様な物だった。 ……ああ、俺は家族を取り戻す事を真剣に願ってはいないのだ。完全に諦めている。だけれど、家族を失ったこの悲しみを只、誰かに話したかった。死んだ人間にみっともなく執着している自分を、誰かに知って欲しかった。それだけなのだ。 新天地で知る人も居ない。こんな事を話せる友人や身内も居なかった俺に、この人外がこうして無遠慮に尋ねてくれたお陰で奇しくもその闇は晴らされたのだ。 「ふぅ。まぁ……感謝はしておこう」 「ん? 今何か言ったかのう」 「いいや。それよりも尋ねたい事がある」 人外に向き直る。彼女は俺がまだ怒っているのではないかと類推したのか僅かに構えるのが見えた。 「お前は俺の願いが金持ちになりたいだのというありきたりなものだと推測したそうだが、お前はそれを叶えられるのか?」 「いや、無理じゃ」 胸を張ってそう答えるこの人外に僅か苛立ちを覚え剣に手を掛ける。 それを見た人外が慌てて制止する。 「ま、待て! 妾は何を隠そう、この湖に住まう守り神なのじゃ。人を突然蘇らせたり、金持ちにしたりなど出来ん」 「じゃあ何故あんなに自信に満ち溢れた物言いで願いを叶えてやるだなどと口に……」 「うっ」 痛い所を突かれたとばかりに呻く、護り神とやら。説教臭く言葉を続ける。 「そもそも、だ。何故、その、湖の護り神とやらが人の願いを叶えようと? 神というならば人の願いに対してそう安請け合いするものではないだろうに」 「うぅ」 目の前で見る見る小さくなっていく護り神。見ていると、なんだか俺の方が悪い様な気がしてしまう。 「うぅ……百何十年か振りに遭った人間が妾をイジメる……」 「お前ホントに護り神なんだろうな……?」 こんなのがこの美しい湖の護り神だと思うとこの先が心配になってしまう。寧ろ今までどうやって護ってきたのか知りたい所である。 「失礼な。こう見えて妾がこの湖を護り始めてから幾千年、一度たりとも水が濁るのを許した事などない。見てみろ、この風景を。水を泳ぐ魚は皆丸々と肥え太り、水鳥達も水面で踊っていようではないか」 護り神がいざと謂わんばかり湖に腕を広げる。確かに、其処には先程から俺も感銘していた水の風景がある。 此処でその言葉を疑っていても仕方が無い。何より話が進まない。取り合えずこの人外の言をそのまま追求する事はしないでおこうと思う。 「よし、お前が湖の護り神である事は信じよう。ではどうして人の願いを叶えるだのとのたまったのだ。何か願いを叶えなければならない事情があったのか?」 すると護り神は瞳に水を溜めて俺の足元に追い縋って来たのだった。 「聞いてくれるか!?」 その時点で既に何か嫌な予感はしていたが後には引けず。護り神は俺の肩を掴んでこう語り始めたのだ。 「妾は人々の信仰を力に湖を護っておるのじゃが、此処数十年から急に妾への信仰がなくなり始めてのう……。供物も碌にもらえん様になって、妾の僕である白蛇もおらん様になる所かこのままでは妾の力はなくなるばかりじゃ。それで、信仰を再び得る為に何度も力を揮ったのじゃが、どうにも上手くいかんでのう……こうなったら適当に人間を捕まえて、その者の願いを直接聞いて叶えてやろうと」 「それで叶える願いが己の身に余る場合を考えず、そして今に至るという訳か。成程、今の俺の場合を鑑みて、今までに揮った力とやらが結果に繋がらなかったのは容易に想像出来るのが悲しい所だな」 「御主、はっきり言う男じゃのう……その通りじゃ」 しょぼくれる護り神。 「もうこうなったら人間に直接手立てを考えてもらう方が……待て、帰るな!?」 「夕餉の支度があるのでな。また今度話を聞こう」 逃げ口上を口にしながら立ち去ろうとするとすぐさま護り神の尾が俺の身体に絡みついて引き止める。 「また今度と言っておきながら二度と来ない腹積りであろう……!? 御主は嘘吐きの様じゃからなぁ……?」 「確かにそうだが、そんなに必死になって俺を引き止めんでも良くはないか?」 「確かにそうだ!? 認めた上でその物言い!? 御主どういう神経しとるんじゃ!?」 お互い様の様な気もするが。一通り喚いた護り神は息を切らしながら、最期にこう告げてから俺を解放した。 「いいか! 明日、御主が来なければ……その、ひ、酷いんじゃからなっ。妾とてまだ水を溢れさせる程度の力はあるのじゃからなっ」 「はいはい」 脅す覇気の全くない文句にほとほと呆れ返りつつ、後ろ手を振りながらその場を立ち去った。行きと同じく隘路を通り、木柵を跨いで祠の背に立つ。 後ろから護り神の声が情けなく耳に届いた。 本当にあんなのが湖の護り神なのだろうか。確かに最初は溢れ出る余裕とその身に帯びる力を前に怯んでしまったが、今となってはアホらしいくらい、あの人外が頼りなく見える。 祠を横切ろうとする際、ふと森の影に木の板を見付けた。縁で漆の剥げているのが見えたので祠に飾られていたものだろうか。なんとはなしにそれを手に持ち裏返して見た。 木の板には荘厳な装飾が成され、中央には大変立派な文字でその様に書かれていた。 ……いや。そんな事あろう筈がない。 あんな不器用な女子(おなご)が、伝説に聞かれる龍だなんて、誰が信じよう。 責めて初めて会った時のあのなんと知れない覇気があった頃に是を見ていれば幾分か信じてあった所を、今ではとてもとても。 俺はこの大袈裟な看板を鼻で嗤いつつ祠の傍に立て掛け、また来た道を帰って行った。 村に戻った俺は村人からの白い視線に曝されながらそそくさとお世話になっている御老公の家に向かった。来て見て初めて判った事だが、此処は余所者に馴れ合う習慣がないらしい。暫く肩身が狭い思いをするだろうが、直に迎え入れてくれるとは御老公の弁だった。 「おお、帰ったか、隆広殿よ」 もう誰が呼ぶ事もないだろうと思っていた俺の名。しわがれた老叟の声が焚き火に揺れる。もう殆んど見えていないだろう御老公の目が鈍く此方を見据えた。 「湖畔はどうじゃった。澄み切っておったじゃろう」 「ああ、見事でした。何時まで眺めていても飽きない」 「そうじゃろう、そうじゃろう。あそこには龍神様が住んでおられるからのう」 思わず耳を欹(そばだ)てる。 「龍神?」 「ああ、龍神様じゃ。昔からあの淡海の湖を護ってくださっておる。この村の龍神村というのもその龍神様に肖ったものなのじゃ」 御老公の言う龍神の話を聞いて、あの湖の護り神とのたまう蛇の様な井出達の化生を思い浮かべる。 「まさか、本当に龍だったとは……」 「ん? どうかしたのかのう?」 「い、いや。その龍神というのを、見た者は居るのでしょうか?」 ご老公は訝しげな表情を浮かべながら答える。 「見た者はおるか? そうじゃのう……そんな話は聞いた事がないが。一〇〇年以上も前から伝わっておる話じゃが、容姿に関しては何も伝え聞かされておらんからのう。見た者なんぞおらんのではないかのう」 「そ、そうですか。……湖畔の森にそれらしい祠が打ち捨てられて居まして。気になっていたのですが」 「ほう、そんな物があったのか。そういえば儂が生まれる以前は何処かの祠によく供え物をしたそうじゃが、今では……」 表情を翳らせる御老公。 「今では信じる者などおらんからのう。昔は湖が大雨などで荒れてよく水害が起こっておったから、龍神様に祈って治めてもらう事も多かった。今では周辺の治水も進んでおる所為か、水害なんぞ滅多に起こらん。元々が穏やかな湖じゃったからのう。その所為でこの村でも龍神様を信じる者は少なくなってしもうた」 あの人外が言った通り、龍神への信仰は薄れているのは事実らしい。御老公は嘆かわしげに背を丸める。 「それだけならいざ知らず、最近の若者は龍神様を化け物呼ばわりしよる。昔から湖を護って下さっていたというのに。全く、最近の若者というのは、龍神様の話に限らず、そもそもがなっとらん」 段々と話が龍神から最近の若者への苦言に切り替わっていくのを察し、慌てて夕餉の支度に取り掛かる振りをして逃げる。 もし、あの化生が龍神であろうがあるまいが、初めて遭った人間が俺以外であったなら、彼女は一体どうなっていたのだろうか。もしかしたら化け物として扱われて騒ぎになってしまっていたかもしれない。大仰な見た目に反して随分頼りのない龍神様の事だ。十分在り得ただろう。 そう思うと何故だか今からでも心配になって来てしまった。あの後変な味を占めて俺以外の人間に不用意に関わっていそうで、不安だ。言うなれば自分が可愛がって餌付けしていた猪が漁師に餌を強請ってしまう時の様な、そんな種類の不安だが。 まぁ、何にせよ明日また顔を出してみるか 翌日、朝餉を終えてから早い時間から御老公に出掛ける事を告げ、昨日よりも襤褸さが際立っている様な気がする祠を横切って、件の岩場に出向いた。 まさか昨日と同じ場所に居るとは思っていなかったのだが、これが当たり前の様にとぐろを巻いて居たのだった。 「うむ、ちゃんと来おったな。殊勝、殊勝」 そして俺を待ち構えていた様に仁王立ちした。 「若し来なかったらどうしようかと思っておった所じゃ」 「来なかったら水害でも起こすんじゃなかったのか」 「お、おお。そうじゃった、そうじゃった」 昨日の台詞を忘れた訳ではないと思うが、随分と下手な芝居を打つ様に返す化生。 「で、昨日の話の続きじゃ。妾への信仰を取り戻す為に知恵を貸して欲しいのじゃが……協力してくれんかのう。頼れるのは御主だけなんじゃ」 上目遣いに瞳を潤ませる龍神。胸元に釣り下がる零れんばかりの乳房、その間にある隙間に吸い込まれそうになりながらも、俺は首を振った。 「待て待て。信仰など、俺が囃し立てる訳にはいかんぞ。飽く迄お前自身で築き上げるしかないだろう」 「判っておる。じゃから御主にどうこうして欲しいという訳ではないのじゃ。只、どういう事をすれば信仰が集まるのか意見を聞かせて欲しいのじゃ」 どうすれば信仰が集まるかなど、生まれてこの方崇め奉られる立場になった事もないのだから考えた事などない。俺自身特に何かを信仰している訳でもないから、信仰する側の心境も余り判ってはいないのだ。 そんな俺が考え付く事なんて大した助けになるとは思えないが、一先ず口に出してみる。 「そうだなぁ……直接人助けをしてみたらどうだ?」 「じゃから、願いを叶えるのは無理じゃ」 「いやいや、願いを叶えるまでやらなくてもいい。只、人が溺れていたら助けてやったり、旱魃が起きれば雨を降らしてやったり……兎に角困っている人を助けるんだ。そうすれば下手に高い望みなど要求されないで感謝されるだろうから」 龍神は暫く呆けていたが、はっと目が覚めた様に身震いすると、俺に熱烈に抱き付いて来たのだった。 「そ、それは思いつかなんだ! 感謝するぞっ!」 「おふっ!?」 甘い匂いが広がる。柔らかく豊満な膨らみが俺の顔を包み込んでいるのだ。興奮している様子の龍神は自分の胸が俺の息を止めている事に一向に気付かない様子で、抱き付いたまま上体を上げ下げさせていた。 暫く後に解放され、俺は息を切らしながら地面に倒れ込む。龍神は途端に不安げな表情で指遊びを始めた。 「あ……で、でも、妾のこの姿じゃと恐れられてしまうのではないか?」 確かに龍神の姿を見れば誰しも腰を抜かすに違いない。しかし俺の目には既にこの化生に恐れる要素などなく、極自然にあるがままを受け入れられる物となっていた。寧ろ、下半身が龍である以外、上半身の女性の姿だけ取ってみれば目を奪われる程美しい。 「俺は特に気にしないが。それに、お前の姿は誰の目にとっても美しいと思うぞ」 「ッ!? へぁっ!?」 率直な感想を述べてみると、龍神は奇妙な声を上げて顔を覆い隠してしまった。 「な、何を言うのじゃ……っ、妾の一分も生きてはおらぬ小僧の分際で……っ。あうぅ」 「? そんなに変な事を言ったか? しかし、まぁ、そうだな。万が一の事を考えて、姿は極力曝さない様にすればいい。そうすると目に見えない、何か神仏の力が働いていると思われるだろう。引いてはそれがお前への信仰心に繋が……」 俺の言葉を遮って、またもや龍神の胸が俺の口を塞いだ。 「御主の才覚を侮っておったっ! なんと素晴らしい案じゃっ」 「ぐはっ」 また暫く興奮に苛まれた龍神の抱擁に捕われる。 解放と同時に地面に倒れ込む俺を全く意に介す様子なく、龍神は息巻いていた。 「よし、善は急げ。今日から人助けじゃ! さて、誰か困っている者はおらんかのう」 龍神が尾の先を水面に漬ける。目を瞑り、穏やかに肩を上下させる。 「……何をしてるんだ?」 「妾はこの湖を護る水神じゃぞ? 己が目で見ずともこの湖の様子は手に取る様に判る・こうして水に触れておれば猶の事じゃ」 成程。俺にはそういう特別な力はないが、龍神というからにはそういう神通力を持っていても不思議ではない。 暫く水に尾を浸していた龍神だったが、行き成り目を見開き、今にも泣きそうな顔で俺に振り返った。 「おい! 誰も困っておらんではないか! どうすればいいんじゃっ。うむむ、こうなったら御主を溺れさせて妾が助けるしか……」 「どうしてそうなる!? あ、慌てるな。そう都合よく困っている人間など見付かる筈がないだろう。気長に待て」 「うぐぐ」 何やら収まりの付かない様子の龍神を必死に宥めすかして落ち着いてもらう。 「取り敢えず暫く待て。困っている人が居ないなんて良い事じゃないか」 「うむ、全く持ってその通りじゃな。で、困っている人間がいれば妾は姿を現さぬ様に助ければいいのじゃな」 「その通り」 「判った。では今後その通りにしよう。……で、じゃな」 龍神は袖を口元に寄せて視線を泳がせる。 「ま、また来てくれるかのう……その、人里の様子を聞かせて欲しいのじゃ」 確かに、人里の様子が気になるのは判る。しかし、どうしてそれだけの事を尋ねるのにそれ程恥ずかしがる必要があるのだろうか。 まぁ断る理由もないのだが。 「ああ、時間があれば話相手になってくれ。俺も此処に来たばかりで周りに馴染めないでいたんだ。だから、此方こそ頼む」 すると龍神は顔を隠したまま蛇体を軽く跳ね上げ、上擦った声を発する。 「う、うんっ。ああ、えと……はい」 「?」 その後俺が帰るまで龍神は顔を隠したままだった。 次の日。また龍神の元へと行くと、何やら水音が響いている。 見ると、嬉々とした表情の彼女の尾元に川魚が山の様に盛られていたのだった。 「おお、丁度よい所へ来たのう」 彼女は徐に一匹の丸々肥えた魚の尾ひれを摘み、楚々としていた筈の口を大きく開けて頭から丸呑みにしてしまった。 「昨日、御主の言う通りあの後溺れている子供を助けてな! なぁに、姿は見せんかったが、随分不思議そうにしておったわ」 「それで、この魚は?」 「ああ、妾の朝餉じゃ。それと、御主への感謝の気持ちと言った所かのう。ほれ、何十尾か持って行け」 龍神が二匹目を摘んだ所で、俺は呆れ返ってしまった。 「龍というのはこんなに食う物なのか? 流石に何十尾もは食えんぞ」 指に付いた魚の脂を舌で舐め取る龍神。 「そうなのか? 人間とは随分小食なのじゃな。まぁよい。好きな分持って帰れ」 そう言われたので、折角だから適当な物を何尾か手に束ねる。 そんな俺の様子を間近で見ている様子の龍神。 「……なんだ。やっぱり惜しいとでも言うのか」 「い、いや。なんじゃ、昔馴染みに似とるなと思ってのう」 言葉にしてもう許されたと思ったのか、今度はまじまじと見詰め始めた。 「……本当に似ておる。懐かしいのう」 「何時の時代の知り合いなんだ?」 「もう一〇〇年そこそこは前かのう。この湖に妾が住まった時に、丁度御主くらいの青年がとぼとぼと此処にやってきてな。妾も此処に来たばかりで人恋しかったので話し掛けたのじゃ。それで仲良くなってのう」 「一〇〇年……ん? 一〇〇年前にお前が住んだという事は、この前言っていた幾千年護り続けて来たって言うのは嘘か!」 龍神の体が身動ぐ。 「うっ、細かい所を覚えておる男じゃの……あー、彼奴もそういう奴じゃった」 「おい、話を変えようとするな」 「五月蝿いのう。五月蝿いのう」 魚を口に放り込みながら頭をぶんぶんと振る龍神。 「……そういえば、人恋しさをどうにかする為に妾を水神として信仰されるよう取り成してくれたのは奴じゃった。あの時もこうして、人々に信仰されるよう助言してくれたのう」 なんだか年寄りの昔話を聞いている気分になってきたが、龍神が気持ちよさげに語っているのを見て口に出さないでおいた。 「彼奴はどうしておるのかのう。元気でやっているじゃろうか」 「いや、流石に亡くなっているだろう」 思わず返した言葉だったが、龍神は柳眉を逆立てて唸った。 「なんと失礼な奴じゃ! 人の久しい友人を死んだ者などと蔑むとは」 「一〇〇年も経っていれば人の寿命は尽きている。その話は、一〇〇年前なんだろう?」 すると龍神は上の空になってしまい、暫く視線が定まらなくなってしまっていた。 「……そう、なのか? 人間の命というのは、そんなに短い物なのか……」 「知らなかったのか?」 彼女が頷く。よくよく考えてみれば、この龍神は人を知らなさ過ぎるきらいが度々散見された。 「そうか」 一拍子置いてから、口にする。 「因みに、何という名前なのだ? 俺が世話になっている村の住人なら何かしら話が聞けると思うんだが」 龍神は重たく顔を上げて答える。 「確か……妾は隆盛と呼んでおったが。苗字は確か、水……水、なんじゃったか」 其処まで聞いて、もしかしてと思い「水沢?」と投げ掛ける。 「おお、そうじゃ。……何故判った?」 水沢隆盛。 我が水沢家に誇る祖父の名だ。 そうか、祖父が語ったこの湖に住まう寂しがり屋な親友とはこの龍の事か。 そして数奇な事に、祖父と懇意であったこの龍神と俺がこうして語らっている。思わず笑みが零れそうになるが、必死に堪えて言葉を返した。 「いや、すまん。……所で、その水沢というのだが」 「待て。……良いのじゃ」 龍神が言葉を遮る。 「もう亡くなっておるのじゃろう? ならばそれで良いではないか。所詮、人と龍とでは生きる年月が違おうぞ……」 そう語り、龍神は虚ろに湖を眺めた。遠くで雁の群れが島の影に隠れるのが見えた。 「……辛気臭い話になってしもうたな。今日はもう帰るが良い。魚は新鮮な内に丸呑みした方が美味いからな」 「人間は魚を丸呑みなどせん」 「なんじゃと……では一体どうやって食らうのじゃ」 意外な顔をする龍神に人間がする魚の食い方を教えると大層首を傾げ「丸呑みの方が腹が膨れる」などと漏らしていた。 そうして昼下がりまで取り止めもない事を語り、その日は帰路に着いた。 |