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後篇 |
夜が明けた。
俺の胸にはケサランパサランの少女が抱かれていた。相変わらず良い匂いで、不思議と胸の奥が温かくなる。 お陰で此処最近の中で一番気持ちよい目覚めだった。 「あははー♪」 彼女は一足早く目が覚めていたらしく、俺が起きたのを真ん丸な瞳で見付けた後、無邪気に笑った。 俺も笑い返す……が、彼女の顔に昨晩の俺の劣情が未だ糸を引いているのを目の当たりにすると、一気に申し訳ない気持ちで一杯になった。 「ぎとぎとするー」 少女の言う通り、それは乾いて肌や髪に貼り付いてしまっていた。脇の所にもたっぷりと精液が残ってしまっている。 「洗おうか」 「あらうー。あははー♪」 彼女は自分が寝ている間に何をされていたのかも気にする様子はなく、そう返事した。 少女の体を一目から隠しながらシャワールームに駆け込む。 少女の裸体に水を掛けてやると、笑いながら「ちべたい、あははー♪」って言った。手で擦って精液の痕を落としながら、少女の柔らかさに心奪われる自分が居るのに気付く。首を振って邪念を振り落としてから、緑の髪をわしわしと洗った。 「……」 ふと、少女の膣内を洗う必要性が頭をよぎったが、取り敢えず股の部分を擦ってやるだけにとどめた。 「ふいてー、わはー♪」 シャワー室から出ると、ばんざいしてそうせがむ少女。濡れた体をタオルで拭き取ってやると、綺麗さっぱりした様子で元気よくまた「あははー♪」と笑った。 しかし、魔物とは言えほぼ全裸の少女をこのまま船内をうろつかせると色んな意味で危ない。自分の事はさて置いて、誰かに悪戯されるかもしれない。 其処で俺は少女を部屋に連れ戻すと、タンスの奥から俺が子供の頃着ていた服を引っ張り出した。 「これ着ろ」 その中で少女にも似合う様な、というより無難な白いシャツを着せてやる。だが彼女には少し大きいので、裾を括って胸が隠れるようにだけしてやる。下半身は綿で包まれているので隠す必要はないだろう。 「ふくー。おきがえー、わははー♪」 「はいはい」 着替えが終わると、ケサランパサランは気ままに宙を浮き始めた。 「驚いた。船長が言ってた通り、お前、飛べるんだな」 羽も無いのに。そう言うと少女は「ふわふわー」とか言うだけで部屋の中を飛び回る。壁にぶつかりそうになると綿の部分で撥ね返り、「あははー」と笑う。 ……楽しいのだろうか。 相変わらず重力を無視して飛び回る少女。ふと呼び名が見当たらない事に気付く。 「そう言えばお前、名前は?」 尋ねると、ケサランパサランは宙で一回転した。 「なまえ? ……ふわふわ!」 「それはお前の頭の中じゃないのか」 「わはー」 相変わらずマイペースに飛び回るケサランパサラン。 「まぁ、毛玉でいいか」 別になんでもなし。少女は「けだま、けだま〜♪」と連呼している。 「よし、毛玉。朝飯食いに行くぞ」 「ごはん?」 「ごはん」 「わはー」 毛玉を連れて食堂に赴く俺。働く男の一日はきちんと食事をとる事から始まるのだろう。この時間帯は船内で働く仲間達の殆んどが一堂に会するのである。 その仲間達の注目は当然、俺の連れている毛玉に向けられるのであった。 「なんだオメェ、随分と仲がいいじゃねぇか」 「うっせぇよ」 同僚に茶化されながら席に着き、飯にがっつく。空の飯は基本長持ちする燻製が多いが、それでも肉は御馳走だ。 ふと毛玉を見ると、目の前に置かれた干し肉をまじまじと見詰めているだけで手を伸ばそうとはしなかった。 「食わないのか」 「ん〜。ごはん、もうたべた」 「何食ったんだ」 「おにーさんのおちんぽ汁♪」 俺から半径5m以内に居る仲間達が一斉に食ってるものを噴き出した。 朝っぱらから不幸な事故があったものの、俺は元気です。 旅の人に尋ねて判ったが、ケサランパサランは精液が餌なのだそうだ。あの形と言えど、やはりサキュバスか。 「お前あんな所であんな事いうなよ……」 「おっちんっぽじっるじっる♪」 「歌うんじゃねぇ」 毛玉のほっぺたを引っ張る。よく伸びた。 それと、旅の人からこう注意された。 『ケサランパサランの毛玉には幻覚作用があって、彼女達はそれを粉末状にして振り撒く事があります。基本的に吸って害はないですが、念の為、人前に出る時は注意して下さい』 成程と思った。だから俺は毛玉の香りを嗅いで思考が吹っ飛んだりしたんだ。 全く、俺はなんて厄介なものを拾ったのか。お陰で俺は変態扱いだ。 『 「……」 幸福を呼ぶ、か。 今の俺は幸福なんだろうか。 よく判らなかった。 「わはー」 けど、「大事にしてあげてくれ」と言われると嬉しかった。 これもよく判らない話だった。 毛玉は飛空艇の中で大人気になった。 一種のブームとも言えるかもしれない。 通りすがる仲間は皆毛玉が無邪気に笑っているのを見ると、釣られて笑顔になる。普段は人前でも一切表情を見せない機関室のおっさんですら、毛玉がふよふよ近寄って「わはー」と言ったら、微かに笑ったのだ。 俺はあのおっさんがあんなに渋く笑うなんて知らなかった。いつも仏頂面で、機械にしか興味がないのかと思っていた。 毛玉は、皆に可愛がられた。 思えば、俺達は空に夢を抱いてこうして飛空艇に乗っているけれど、やっている事といえばなんだ? 積荷の確認、運搬、顧客探し、或いは船を飛ばし続ける為の整備や修復ぐらいだ。 俺達は皆夢を抱いた。空と言う、未だ嘗て人が踏み入った事のない領域にはまだ誰も見た事のない冒険が待つのだと。 少なくとも、ガキだった頃の俺はそれを幻想した。 けれど実際に来てみれば、空はただ過酷で、ただ果てしなく、ただ孤独な場所だった。 絶望した訳じゃないさ。空にだって良い事はある。朝陽が昇るのを雲の上で誰よりも早く見る事が出来るだろうし、毛玉の時の様にちょっとした出会いもあるから絶望的に孤独って訳じゃない。 ただ、雲の中に城なんて浮かんでいないし、ましてや世界中が欲しがる宝なんてものも幻に過ぎないという事には気付けてきた頃だった。 そんな中で久し振りに仲間が増えた。 可愛らしく間抜けな声で笑う、少女の姿をした魔物だ。 皆はなんとなく気付けていただろう。 これは俺達が追い続けた夢の泡沫なんだと。 この程度、なんだ。 現実なんてものは。 「あははー♪」 俺達はその言葉を口には出さなかった。何時も笑っている毛玉が困ってしまうかもしれない気がしたからだ。少なくとも、俺達が思っていたものとは違ったけれど、毛玉は俺達が見付けた宝だった。 皆を笑顔にしてくれる。 少なくとも、笑えている間だけは俺達幸せなんだと自覚出来ている。 「あははー♪ 「おう、毛玉。今日も元気だなー」 「……わはー」 ただ、船長にだけは毛玉の表情が違う。姿を見掛けた途端、眉を下げて「わはー」と元気なく怯えるのだ。笑い声に張りがなく、船長の姿を見掛けると物陰か俺の後ろに隠れようとする。 船長は「なんで俺だけ……」と拗ねていたが、基本毛玉の事は容認してくれているようだった。 普段俺にちょっかいかけてくる報いだと思って良い気味だった。 毛玉は基本的に俺の傍から離れようとしなかった。 食堂の中でふわふわと気紛れに飛んでいるように見えても、俺が何処かに行こうとするとすいっと付いて来る。 「お前、俺にひっついてばっかりだな」 「あははー。らぶらぶだー♪」 「お前の一方通行だろーが」 そんな訳で以前の発言と合わせ、皆から公認の仲という事で毛玉は俺の部屋で世話する事になっていた。 夜になれば毛玉は何食わぬ顔で粉を撒く。不思議と、毛玉は俺と二人きりになる時にしか粉を撒いたりしなかった。 「おなかすいたー♪」 「はいはい、待ってろ……」 いつも通り幻覚作用で身動きを封じられ、溢れだす欲望を曝される。 節操のない怒張は毛玉の前で反り返る。毛玉は目を真ん丸にしながら興味津々といった感じで弄り回す。 「あ〜ん♪」 大きな口を開けて、咥える。怒張が激しく波打つ。少女の口の中で蠢く舌が絡み付く。搾り取るかの様な舌の動きに、あえなく子種を毛玉の口内に噴き出した。 (ドクッ、ビュルルル……ッ) 「ん、ちゅ。ぺろ、ぺろ……ごっくん」 俺の精液を美味しそうに舐める毛玉。指や手の平に掛った分も残さず舐め取る。 しかし余程腹が減っていたのか、怒張に絡みついた分にまで舌を這わせ始めた。 「あ、こら……待て」 俺の静止を無視して、毛玉は容赦なく俺の怒張を舐め立てる。 「ぺろぺろ、ちゅうちゅう……じゅるる、じゅるるる」 イヤらしい音を立て、俺の怒張から溢れて止まらない汁を残さず味わおうとする毛玉。俺は第二波の予兆を感じ取り、思わず毛玉の頭を掴んで怒張を喉の奥に突っ込ませた。 「! ぷっ、うぅ」 呻く毛玉。しかし俺は容赦なく毛玉の喉に欲望をぶちまけた。 (ビュルル、ドプッ、ビュゥ……ビュクッ) ゆっくりと引き抜く。 毛玉はだらしなく舌を垂らし、虚ろな瞳で息を荒げていた。 「わ、悪い……止められなくて」 俺がそう言うと、毛玉は「あははー♪」と、俺に心配かけまいとするかのように笑った。 まるで「大丈夫だよ」と声を掛けてくれているようだった。 そんな時、ふと頭を過ぎった。 どうして毛玉は俺にだけこんな事をするんだろう。 どうして俺の周りを離れようとしないのだろう。 どうして俺以外の奴には粉を振りかけたりしないのだろう。 そう思って尋ねてみた。 「なぁ、お前、なんで俺ばっかりに付いて来るんだ?」 毛玉は予想通りの反応を返して来た。 「ついてくる? ……ついてきた! わは〜♪」 「……もういい、聞いたのが間違いだった」 呆れながら、ベッドに倒れ込む。なんだか最近此奴の相手で疲れる事が多くなった。此奴が何処かに吹き飛んでしまったら困るので、甲板にも出られなくなった。 背中に毛玉が抱き付いて来る。毛玉は、毛玉の為に用意したベッドでは寝なかった。何時も笑いながら俺のベッドに潜り込んでくる。 「あははー♪」 「……お前、浮きながら寝れるだろ」 この前、珍しく静かだなーと思っていたら、宙に浮きながら鼻提灯膨らませていた事があった。多分ケサランパサランの正式な寝方といえばあっちなのだと思う。 「……わはー……わはー」 最初返事かと思ったが、静かでゆっくりとした呼吸から放たれる鳴き声は寝息であった。俺も馬鹿らしく思いながら腕枕を作る。自分の枕は毛玉にあげてしまい、隣のベッドから引っ張り返すのも面倒だった。 睡魔が直に襲ってくる。 うとうと。 此奴が寝ながら粉を放つ所為で、最近見る夢は幸せな夢か淫夢に限定されていた。因みに淫夢の時は態々朝に相手してやらなくても済む事が多かったりするのだが、理由はお察しのとおりである。 偶には変わった夢を見てみたいものである。例えば、空を飛ぶ夢とか。 考えたら可笑しいな。今俺は空を飛んでいるというのに。 だけど、ハーピーみたいに自分の体一つで飛んでみたい。空を、雲を突き抜けていきたい。そうすればきっと気分が晴れると思う。 それは、子供の頃からの憧れだったから。 其処に浮かぶ白い雲。 子供の頃から俺は空を見上げ、飛んでみたいと思い続けた。 ある時は、ただ気持ちよさそうだから。 ある時は、空から地上を見渡してみたいから。 ある時は、その向こうに何があるのか気になったから。 目的は幾度代わったものの、飛びたいと言う気持ちだけは変わらなかった、あの頃。 実際、子供なんてのは「あれがしたい」だけで、大人の様に目的にこだわったりはしないものなのだろう。子供にとって大切なのは手段だったのかもしれない。 俺は夢を見た。懐かしい夢だ。 そうして地上から空へと旅立ちたい気持ちを募らせる一介の少年だった頃。 ある日、俺は空から贈り物をしてもらった。 昨日は嵐だった。 雨上がりの晴れの日には虹が出来る。俺の家は見晴らしのいい丘にあったから、そういう日にはよく見られた。 その日もぼんやりと虹を眺め、根元から消えて行くのを見届ける。虹が消える瞬間というのはそれとなく侘しい気持ちになるものだ。 そんな時、宙を漂うふわふわした白玉を見付けた。 そのふわふわは意志があるかの様に、俺が差し出した手にちょこんと乗っかった。手の平に柔らかい感触。大きさは小石大。突っついてみても空気の様に感触がない。 不思議な毛玉だった。 一陣の風が吹く。此処は小高い丘だから、よく風が通り抜ける。子供ながら、自分が授かった空からの不思議な贈り物を守りつつ家へと持って帰った。 家には兄貴が一人でいた。 兄貴は昔から海賊が好きで、昔から海賊の格好をして、昔から海賊を気取っていた。 それにつけて兄貴は目敏い。俺が両手で包んで守っているものに目を付け、早速略奪に掛って来た。 「おまえ、なにみつけたんだよっ」 「な、なんでもないよぅ」 「みせろ! ぶかがみつけたおたからは みんなせんちょうのものだ!」 この頃から弟には横暴な兄貴だった。 兄貴は俺の手を掴み、無理矢理両手を開けさせようとする。俺は必死で抵抗しながら、力を入れ過ぎてふわふわを潰してしまわない様にも注意した。 結局その時は兄貴と一緒に親父に殴り飛ばされ、事無きを得た(実際とんでもない被害を被った気もする)訳だが、俺がお袋の使わなくなった化粧箱か何か(よく憶えていない)に入れて置いたふわふわに、兄貴は何かにつけてちょっかいを出して来た。 潰してみたり、舐めてみたり、色を塗ろうとしたり、虫を入れてみたり。兎に角あのふわふわは兄貴の関心を引いてやまなかった。 俺は仕方なくふわふわを空に返す事にした。兄貴が今度犬に食わせて見るとかなんとか言っているのを聞いたからだ。これ以上ふわふわが兄貴の悪戯に曝されるのは我慢出来ない。 俺はこの年、一番風が強い日に外に出た。手の中にはあのふわふわを包んで。 「げんきでね」 此奴が生き物なのかすら判らないが、取り敢えず折角犬に食わされる運命から救ったのだ。この後すぐに犬の口に飛び込む様な間抜けな真似はするなとでも思ったのだろう。 一陣の風が吹いた。 俺は手を開く。 けれど、ふわふわはしがみつく様に俺の手から離れようとしない。 俺はふわふわを掌から指で弾いた。 ふわふわは一瞬で何処かに消えてしまった。 「……」 子供の頃、空を飛びたい理由が沢山あったのは思い出した。 その中に確か、あの時のふわふわに出会えたら、なんて事も考えていた気がする。 いや、確かに考えた。俺はあの時のふわふわにもう一度会いたいと思っていた。 会ってどうするかなんて考えなかった。此処でもまた、子供と言うのは目的を定めない。只会いたいという願望だけで突き動かされた。 空の向こうには何があるのだろう。その先に、ふわふわが居てくれたらいいのに。 ふわふわと空を漂うのは気持ちがよさそうだ。 ふわふわと地上を見降ろせたらどんな気分だろう。 若しかしたら、俺が空に飛びたいと思ったのはその頃じゃないだろうか。 全ての動機にふわふわを当て嵌めたら、何故かスッキリする。 子供の頃は何も判っていなくて、色んな事に不便だったし、見る世界は狭かった筈だ。お陰で子供の頃の記憶が今になって曖昧なんだと気付かされる。 只 あの頃は。 子供の頃は。 大人になってしまった今では。 空を見上げるだけで楽しかった。 嵐が来ても、何が来ても。兄貴が煩わしくたって、夢を持てた。 子供が夢を持つのは簡単だった。穴ぼこだらけでも、夢と言い張れば何でも夢だ。大人になれば動機や目的、手段を簡潔に纏めてこそ夢であり、実現させる事に躍起にならなければならない。 俺にはそんなの無理だった。 大人なのに。 俺は兄貴程、才能がなかった。 俺の「空を飛びたい」という夢を叶えたのは兄貴だった。 兄貴が全て用意してくれた。 船も、仲間も、そして俺の居場所も。 俺は、何もしてない。動機を持っただけだ。手段も上辺だけの目的も、兄貴が用意してくれたんだ。 俺はそれを何処かで申し訳なく、いや、情けなく思っている。 大人なのに。 だから、子供の頃は幸せだった。 動機だけ純粋であれば、それだけで楽しかったから 「毛玉を空に返す」 俺がこう言った時の皆の顔は一様にハトが豆鉄砲を食らった様だった。 「な、なんで。どうして」 皆が口々に訳を訊いて来たが、俺はそれに答えないままこう言い放った。 「これは、シュワルツェネッガー号副船長としての命令だ」 全員が閉口する。今まで気ままにやって来た仲だ。突然殺伐とした態度をとる俺に、戸惑っているのだろう。 事態を理解出来ていない様子の毛玉は、相変わらず気楽に俺の周りをふよふよと飛び回っていた。 「あははー。ふくせんちょーさまだぞー♪」 「……」 「あははー♪」 「毛玉」 「ん?」 呼ぶと、彼女は何時も真ん丸な瞳で俺を見詰める。 「悪い、ちょっとあっちに行っててくれないか」 能天気に笑う彼女にそぐわぬ、冷めた表情で俺は言う。 俺が毛玉を追い払ったのはこれが初めてだ。毛玉は一旦首を傾げるも、気にしない様子で「あははー」と何処かへ飛び去って行った。 「……それで、どうしてなんだ」 船長が口を開いた。正直、このタイミングまで全く詮索しようとしなかったのは兄貴らしくないと思えていた。 「毛玉は毛玉のあるべき場所に帰るべきだと思った」 「彼奴は嫌がるぞ」 その言葉を聞いて、自分の感情が突然沸点に達したのを感じた。 「兄貴が最初に言ったんだろっ。彼奴は宙に浮いているのが性分だ、助けるのは余計なお世話だって!」 「テメェ、何度船長と呼べって言わせりゃ判る」 「今更そんな事心底どうでもいいんだよ」 そう、心底どうでもいい。兄貴の言葉なんか。 只、俺は……毛玉があるべき姿にあって欲しいと願うだけだった。 「どうでもいい事なんてねぇよ! 人にとって何が大切かなんて違うもんさ! テメェが理解出来てないだけで」 「兄貴が言えた口か? 昔俺が大事にしていたふわふわを犬に食わそうとした癖に」 「はぁ? 何時の話をしてるんだよ。今は毛玉の話だろうが」 「兄貴に毛玉の話をする義理なんてない。俺は、もう決めたんだ」 「俺は船長だ。シュワルツェネッガー号の名を出した以上、俺にお伺いを立てろ」 「嫌だね。誰が自分の兄貴に」 「テメェ、我儘もいい加減にしろよ」 「兄貴こそ、傲慢も程々にしろ」 口喧嘩。今にも手が出そうな睨み合い。俺だってこんな事は只の意地の張り合いだって判っていた。だが、お人よしのクルー達は皆止めようにも止められない雰囲気だっただろう。 隣の部屋で事態を聞き付けたのか、毛玉が慌てて飛んで戻ってくる。 「わはー。どったのー?」 船内で起こった喧嘩は何時も毛玉が止めてくれていた。よく判らないが、毛玉がいると自分が今怒っている事が些細に思えてくる。彼女自身、何時も通りにしたつもりだろう。 でも今は違う。此奴の為の諍いだ。当人が割って入ってくるものじゃない。俺は毛玉を睨みつけて言った。 「あっちに行ってろって言っただろうがっ」 「……わはー」 落ち込んだ様子で何処かに消える毛玉。 静まりかえる船内。 刺さる様な視線。 今の一瞬だけで孤立無援になった気がした。 「……なぁ、訊いてくれ」 只、俺は訴え続けた。 「彼奴を自然に返してやりたいんだ。彼奴は俺達皆の宝、それは判ってる。彼奴は確かに沢山俺達を笑わせてくれた。彼奴が来てくれて、俺達は毎日笑って、幸せな気分を味わえた。……けど、もう充分だろ? 俺達の為に彼奴を此処に縛り付ける事なんてないと思うんだ。そろそろ彼奴を、彼奴自身の幸せを願ってやってもいい頃なんじゃないか?」 俺の話を静かに聞いていた仲間達。 兄貴が深い溜息を吐いて、俺にこう言った。 「お前の考えは良く判った。けどな、それは毛玉本人の意思を確認してからだ」 「勿論そうするつもりだよ」 俺が答えると、兄貴は怪訝な顔をする。 「……お前、自分が言ってる事判ってんのか」 「判ってるさ」 判っている。 結局、自分は毛玉に何もしてやれない。 毛玉が理解出来るように説明して、決めてもらおう。 「 最期の兄貴の戯言なんて耳にも入らなかった。 「んー、と」 「いいよな? お前の為なんだから」 「……」 俺の提案に、毛玉は頷いた。 それを見た兄貴は仕方なさげに溜息を吐き、静かに舵を取った。 「……じゃあ、行くか」 「え? 行くって何処に」 訝しげな表情が返って来る。 「返すんじゃねぇのかよ。毛玉」 「あ、ああ」 「大気がぶつかり合う場所ではよくケサランパサランの大群が見られる。其処に行って毛玉を放すんだよ」 何やら不機嫌に言い放つ兄貴。 俺はすでに「ああ、そうか」と返す力しか残ってはいなかった。 ケサランパサランが良く見られるスポットは此処から南西、すぐ近くにあった。 スポットとしては魔界近くの場所よりも小規模だが、それでもケサランパサランウォッチングをされる場所としては彼女達に会える確率が大きい場所でもある。 「ほら、もうすぐ着くぞ」 取り舵を持って、何かを急かすように兄貴が言った。 「だな」 俺はそれだけを返す。 兄貴は何か言いたそうに取り舵を小さく殴るが、結局何も言わないまま現場に到着するのだった。 「……どうやら運が悪かったみてぇだな」 取り舵に凭れ掛け、窓の外を見回す兄貴。外には雲が疎らに散っているだけで、ケサランパサランの集団は見られない。 船内に安堵のムードが漂った。 「どうする? 今日は止めとくか?」 この言い草。兄貴はなんとかして俺に諦めさせようとしている。 確かに毛玉を放すのを延期すれば、俺の考えは揺らいでしまうかもしれない。 俺はそれが判っているからこそ、決めてすぐそれを実行しようというのに、だ。 「いや、此処で放す」 「おいおい、ちょっと待てよ。お前、仲間の所に返すんだろ? だったらせめて集団で居る所で放せよ」 焦燥感に眉を潜ませる兄貴。 「駄目だ。それだと兄貴達が適当に理由付けて毛玉を放そうとしなくなるじゃないか」 「……」 沈黙。 俺は重苦しい空気の中、毛玉の手を引いて甲板に出た。 ブオォ 甲板に吹き付ける風は強い。毛玉の手を此処で放せば、直ぐに遠くまで飛んで行ってしまうだろう。 「わはー」 毛玉が力無く笑った。 俺は彼女の脇を抱えて、向かい合う。 「これからお別れだ。短い間だったけど、楽しかったよ、毛玉」 そう言うと、毛玉は途端に悲しげに瞳を濡らし始めた。 「……ヤダ」 毛玉はそう拒否すると、俺の服にしがみ付いて来た。 「毛玉……」 「ヤダ」 頑としてそう言い続ける毛玉。 「でも、この前お前、うんって言ったじゃないか」 「……いってないもん」 確かに毛玉は頷いただけだ。 だけど、此処まで来てしまったらもう引き返せないのだ。 「お別れだ」 「ヤダー」 引き離そうとしても、俺の服を必死に掴んで離れようとしない毛玉。 「駄目だ。此処にいちゃ、お前は幸せになれない」 「どーしてー」 純粋な眼で問い掛けてくる毛玉。 俺達は所詮夢に破れ、空に焙れたどうしようもない集団だ。当ても無く空をふらつき、当ても無く商売をする。それだけ。 俺は、俺達は、お前に何も与えてやれないんだ。 「毛玉、お願いだから」 俺はくぐもった声で言う。 これ以上擦り寄られていると、決心が揺らいでしまうじゃないか。 「……また、ばいばいするの?」 ドキッとした。 過去に置いて来た罪悪感が、追い駆けてくる気がした。 「……え?」 「ばいばいしたら、もうおにーさんに会えなくなる。そんなの、ヤダ」 俺の胸に蹲る毛玉の笑顔に、涙が浮かんでいた。 「でも、俺達はお前に何もしてやれないし……」 「空でふわふわしてても、だれもお話してくれない。でもおにーさんの傍だったら皆笑ってくれる」 「……でも」 「もう、ふわふわしたくない……お空にいるとまた一人になっちゃう……」 頭をぐしぐし押し付けてそう訴える毛玉。 「やっとおにーさんのトコに戻れたのに……たくさんたくさんふわふわして、やっと見付けたのに……」 「え?」 また毛玉は俺の罪悪感を疼かせる言葉を吐いた。 何かが喉に引っ掛かる。 何かが、俺を引き止める。 「お前、まさか……」 「……わはー」 毛玉は悲しげに一声鳴いた。 一陣の風が吹く。 毛玉の手が不意に離れる。 ふわっと浮かび上がる、毛玉の体。 「お、おいっ。ちょっと待て……お前 そう言えば此奴、俺が子供の頃呼んでいたように「ふわふわ」と最初名乗った。 兄貴が苦手なのは、もしかして綿毛の頃散々悪戯されたのを憶えて? それに、俺の傍から片時も離れようとしなかったのも……。 毛玉の体が天高く昇る。 彼女は笑っていた。 俺の頬に温かい雫が落ちた。 「 突風に流されて飛んでいく毛玉の姿に、思わず駆け出そうとした。けれど、俺の行く手を空が阻む。 「待てっ、待てよ馬鹿ぁっ」 手を伸ばしても、身を乗り出しても、今では毛玉に届かない。 毛玉は笑って、そして泣いていた。 なんで気付いてやれなかったんだろう。 彼奴は、本当に此処に居たかったんだ。 自分から望んで、俺の傍に来たんだ。 なのに、俺はどうして拒絶してしまったんだろう。 どうして、拒絶する事が彼女の為だと思えてしまったんだろう。 俺は転落防止用の柵に拳を打ちつけた。金属が跳ね返り、拳から腕に掛けて痛みが走る。 痛みなんてどうでもいいと思えた。 こんな痛み、毛玉の気持ちと比べれば……。 彼奴も俺達と同じだったんだ。 空に探し物を見付けに来た。 見付ければ幸せになれる。そんな探し物だ。 だけど、俺達にとってそれは漠然としていて、何なのか判らなかったんだ。 幸せってものが何なのか。自分が何を見付ければいいのか、判っていた。 俺を幸せにする為に。自分が幸せである為に。 なのに、俺に拒絶された毛玉の行先は何処にあるのだろうか。 ……其処から、彼奴の果てしない孤独が始まる。 「……そんなの、駄目だ」 俺は言った。 「彼奴は幸せでなくちゃいけないんだ。……俺達の様に、なっちゃいけない」 俺は言った。 「ふわふわ、お前だけは……!」 俺の体は暫く凍った様に動かなかったが、彼奴と過ごした日々、そして情事の事を思い浮かべる度に、体の芯が熱くなっていった。 「 俺は操舵室に駆け込んで、開口一番叫んだ。 「どうした」 この時だけ、兄貴は船長と呼ばなかった俺を咎めなかった。 「飛ばしてくれ。3時の方向、風に沿って」 「……」 兄貴共々、船員達は暫く示し合わせたかのように黙っていたが、次第に頷き始めると、一気に隆盛が高まった。 「 兄貴の号令が船に轟く。 其れに続々と船員達が答える。 「「「アイアイサー!」」」 「……!」 「ほら、シャキッとしろよ」 呆然としている所で、兄貴に背中を叩かれよろめく。 「で、でも、俺……」 「お前はお前なりに毛玉の幸せを考えたんだろ。だから、こうして追い駆ける」 兄貴は俺の眉間に指を突き立てた。 「この船は、本当は俺がお前の夢の為に造ったもんであって、本当はお前が船長なんだ。お前が信じる道を、今は突き進め」 俺は、兄貴の言葉を無視して独断で毛玉を返そうとしたのに。 今はその兄貴の言葉に救われる様な気分だった。 感慨を込めて、呟く。 「……兄貴」 「 ゴスッ。 痛烈な腹蹴り。 思わず地面にうずくまる。 「な、なんで……本当は、お前が船長って……」 言ってたのに。 すると兄貴はそれとこれとは話が別だと言わんばかりにこう言い放った。 「ああん? テメェみてぇな状況も見れねぇ奴が船長なんざ務まるか。やっぱ船長っつったらこう、男気溢れて、それでいて力強く、そして賢明でないとな。将に俺みたいに! ガッハッハ」 ……今の時程、この男を殺したいと思う事はなかったが。 それ以上に、この時程有り難いと思った事は初めてだった。 「所で、見付からなかったらどうする気だ?」 暫く航行した所で、兄貴が尋ねる。 俺は言った。 「それでも探すさ」 「それでも見付からなかったら」 「地の果てまで探す」 ふわふわがそうしてくれたように。 この広大な空の中、たった一人を見付けるのは気の遠くなる様な目標だが、不可能じゃないんだ。 その可能性を、ふわふわは示してくれた。 「……探すさ。見付かるまで探す」 今もまた、何処かで雲海の過客となって漂う彼奴の姿を思い浮かべながら。 |
【メモ-おまけ】
“ケサランパサランの笑い声(鳴き声?)” ケサランパサランの笑い声(鳴き声?以下略)については昨今魔物研究学会の間で注目が集まっており、熱心な研究家達によってその研究が進められている。 しかし近年ケサランパサランの笑い声の詳細について多くの学者達が、「あははー」と笑っている(鳴いている?以下略)と主張する\あははー/派と、「わはー」と笑っていると主張する\わはー/派に大きく分かれている。 両学派は現在でも互いの主張のみで拮抗していると思われていたが、最近まさかの両学派の主張を取り入れる\わははー/派が新興学派として表在化した。 現在でもケサランパサランの笑い声は「あははー」であるとする\あははー/派、「わはー」であるとする\わはー/派、そのどちらともとれる「わははー」であるとする\わははー/派の主張によって学会は紛糾している。 ----------------------------------- P.S. まさか感想欄が\あははー/でもなく\わはー/でもなく新興勢力\わははー/に占領されるとは思いませんでした まる 10/10/25 00:29 Vutur |