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前編

 かくして、彼の縁談は始まった。
 両国で示し合わせた縁談の手筈はこうだ。先ずは南の国の姫が北の国の王城を訪れ、中を案内しつつ王と談話する。次に、王が姫の王城を訪れ談話する。最終的に縁が実れば婚約する。政略結婚だとしても、双方の財を確認する為に住まいを訪れ合うのは通常の事だ。今回向こう側の提案で実現した見合いであるから、先ずは先方が此方へと来る事になっている。
 今日がその姫君が来訪する日。伝令からは順調に先方が此方に向かっている事は通達されていたから、日取りがずれるという事はない。
 彼は着慣れた国王服に腕を通す。相手の姫君への無礼は許されない。しかし出来れば相手から断られる様に持っていきたい、と考えていた。
 しかし、南の国の姫君との縁談を直前にして流行る自身の気持ちを無視する事は出来なかった。無感情に徹する事が適わない心境だった。
「……時間だな」
 時計を見ると、短針が真上を向いている。
 彼は其処から半刻程目を瞑ってから、部屋を出た。
 廊下で周囲を見回していた給仕が、彼を見て慌てて駆け寄って来る。
「こんな所にいらしたんですか、王様。姫君がもう門の所でお待ちです」
「うむ」
 他国の姫君を迎えるに当たり城下の大通りでパレードを催す筈で、その所為で出迎えるのは昼下がりになってからだ、と思っていた彼は、焦燥感を抱いて宮殿の入り口へ向かう。
 確かに、其処には可愛らしい少女の姿があった。馬車の傍で大きめの日傘を差して佇んでいる。伏せがちな目元からは独特の哀愁が漂い、知らない場所だからだろうか、身を一回り小さくさせている。その様子が、彼にとっては愛らしさを痛感させた。
(随分と気合いが入っているな……)
 彼女の衣装を目にして、彼は内心で呟いた。まるで花嫁が着るドレスの様な白無垢を身に纏っている。結婚に前向きであるという意志表示だろう、とそれを見た誰もが口に出さず内心察した。
 彼は、王族が慌てて参じるとみっともなく見える事は知っていたので、待たせていると判っていても敢えてゆったりとした足運びで出迎える。
「遥々御越し頂いてありがとうございます。さぁ、こんな所ではなんですから、中へ」
 彼女は日傘を傾けて顔を隠す。彼の後ろをてってってと付いて行く。その後ろで、行者が引いて来た馬車を執事が案内して行った。
 玄関まで来ると、彼女は日傘を畳んで腕に引っ掛ける。彼がその様子を何気なく目撃しているのを察すると、頬を染めて俯いた。
(奥ゆかしい人だな)
 彼はこの手の女性が好きだった。貴族や王族の殆んどは、自分こそが一番だと言わんばかりに着飾り前へ前へと出てこようとする。それが彼にとっては魅力的とは程遠い印象だった。
 煌びやかな王宮の中を案内している最中でも、彼女は顔を上げる事はなかった。只、彼の後を静かに付いて行き、話を聞いて「はい」「ええ」という返事をするのみに留まった。
 まるで平民の娘の様だ、と彼は感じていた。寧ろ、その方がしっくり来る。垢抜けない雰囲気、場に親しめず委縮する素朴な振る舞い。自信がないともいえる表情は、彼にとっては慎ましさを感じさせた。



―――――



 彼が南の国の姫君の姿を見たのは戦場が初めてだった。
 嘗て北の国と南の国が取り分け激しい諍いを起こしていた頃、国境付近での衝突により勃発した戦闘は後に大規模な総力戦へと発展した。
 その最中、最前線で剣を振る彼の前を、騎馬隊を率いて横切った光があった。
 それが南の国の姫君の姿だった。
    彼女の透き通る様なブロンドは後ろで一つに纏められて、それはユニコーンの尾の様に煌めいている。肌は東洋の白磁の様で、傷一つない。
 そんな麗しい見目とは打って変わり、その猛々しい姿と馬上から振り乱す太刀筋は将に戦場を異色の華で飾っていた。その姿に見蕩れていた自覚が彼にはあった。
 未だ女性経験など浅かった時分の彼にとって、其れは一目惚れと言うべきものだった。



    お姫様の騎乗する白馬に撥ね飛ばされるまでは。



 地面に叩き付けられた瞬間、彼の初恋は敗れ去った。
 序でに戦争にも負けた。
 国が滅ぶ事までは無かったが、彼は身も心もボロボロで数か月療養する派目になった。



―――――



「王様、昼食の準備が整いました」
 給仕が告げる。庭園を案内しようとしていた彼は、彼女に向き直る。
「判った。   それでは食卓に参りましょうか。……どうかされましたか?」
 彼女はぽーっと彼の顔を眺めていた。まるで熱に浮かされている様子で、彼は彼女の目の前で手を振ってみたり声を掛けてみたりするが、反応がない。
 縁談の相手とはいえ、未婚の女性の素肌に触れるのは問題があるが、其れでも仕方がないかと割り切って、露出する彼女の肩をそっと叩く。
「あの……もし?」
   ひゃふんっ!?」
 彼女の身体がぶるりと震える。想像以上の反応に、彼は唖然としてしまった。
「あ……ぅ……す、すみな、ひぇんっ」
 顔を真っ赤にして取り乱す彼女。
「あうぅっ、いえ、あの、すみま、せん……」
 言い直しても、未だ顔を真っ赤にしたままで俯く。
 彼は朗らかに笑って流す事にした。
「ははは、いえ、此方こそ、驚かせてしまったみたいで。さぁ、昼食にしましょう」
「は、はい」
 羞恥に耐えられず顔を覆い隠す彼女は、彼の後ろにぴたりと付いて歩き出した。



―――――



 少女は、このまま死んでもいいな、と思った。
 ずっと憧れていた男性が目の前で自分に微笑み掛けてくれているのが幸せ。自分が仕出かした粗相も、それは、恥ずかしくて顔から火が出そうだけれど。
 思わず、彼の横顔へ目を遣ってしまう。今までの話は全て上の空で返事をしてしまっていた。若しかしたら気を悪くしてはいないだろうか。そんな年頃の娘染みた悩みで頭の中を一杯にしていた彼女は夢見心地で、今まで何度も繰り返して来た彼との初めての出会いを回想する。



    あれは初秋の事。
 北の国と南の国が全面戦争をする以前、北の国で催された秋の収穫祭を見に行った時の出来事を、彼女は昨日の事の様に覚えていた。
 少女は久々に降り立った人里の喧騒に気を病みながら、彷徨い歩く。
 丁度、城下街の広場に差し掛かった時、大勢の人だかりが出来ていた。何事だろう、と小さな身長をうんと伸ばし、ぴょんぴょん跳ねながら、人々の視線の先を確かめようとするが、人の林が視界を塞ぐ。偶然出来た隙間から、人々は皆、壇上で演説をする人物を注視しているのが判った。
 少女が、北の国の王の姿を見たのは此れが初めてだった。薄味のブロンドに青い瞳。視線の先はしっかりと民衆を見据え、淡々と収穫の喜びと神への信仰を説いている。
 綺麗な人だな、と少女は思った。けれど、何だか空虚な人だ、とも思った。何故そんな風に思ったのかは知らないが、少女はその人物から目が離せなくなっていた。



 彼の演説が終わる。
 人々も疎らに散りつつあった。
 少女は、人が掃けて見通しが良くなった広場の真ん中でずっと佇んでいた。
    この人は何を見ているのだろう。
 何を感じているんだろう。何を喜びとするのだろう。
 そんな、誰も答える者の居ない疑問を浮かべては、沈めていく。



 刹那、空が真っ赤に染まり始めた。
 火付けだ、と誰かが叫んだのが少女の耳に入り、びくり、と身動ぐ。
 彼女が気付いた時、広場には誰もおらず。只、彼女の周囲をごうごうと燃え盛る炎が取り囲んでいた。
「え……っ、え、……っ」
 錯乱する少女。後に此の火災は北の国王を狙う何者かの手によるものだと発覚するが、この時の少女にとっては知るに及ばない事。
 火炎に呑まれた、麦で飾られた柱が、少女の頭上へ倒壊する。


    体が動かない。怖い。誰か。


 目を瞑って体を固める少女の耳に、ごしゃぁ、という音が響いた。
 薄目を開いた先には、剣を鞘に納める青年の姿。火柱が彼の横に真っ二つで倒れていた。
 少女はすぐに気付いた。彼は、先程までこの広場で演説をしていた男の人だ。
「君、此処は危ない。すぐに避難しなさい」
 彼は、みすぼらしい姿をした少女を見降ろしてそう語り掛けた。少女は、長い前髪の隙間から彼をじっと見詰めていた。
 周囲の炎は、二人にじりじりと距離を詰めて来ていた。彼は頭を掻く。
「仕方ないな」
「ッ? きゃっ……!」
 彼は、痩せっぽちな少女を抱き抱えると、炎の中を突っ切った。
 少女の顔が茹で上がる。今まで父親以外の男性と触れあった事などない生娘だった彼女は、今、絵本の中のお姫様の様に抱き抱えられている。
 炎の手が回らない場所まで連れられると、少女の足は地面に下ろされる。
「何処か怪我してないか?」
「あ……え……」
 咄嗟に言葉を話そうとするが、出て来ない。
 彼は徐に少女の頭を撫でた。
「突然の事で吃驚しただろう。心配しなくていい、此処はもう安全だ」
 きゅん、と胸の奥で仔犬が鳴いた。もう彼の顔も見られない。
「……あ、あの」
 勇気を振り絞って声を放った時、すでに彼の姿はなかった。
 少女は一人、胸を抑えて、頭を撫でた手の感触を反芻する。
(素敵な人だな……あの人のお嫁さんに、なりたいな……)



―――――



 南の国の姫君が訪問の日程を終える。
 次は北の国の王が南を訪れる番。日取りは五日後となる。
 南の国の城へ戻って来た彼女は、従者にわたわたと腕を振り回して何かを伝えると、てててと王城の中へ駆け込む。
 真っ先に向かった先は姫の自室だった。震える手を掲げ、生唾を呑み込み、恭しく三回ノックをした。
   はいは〜い。開いてますどぞー」
 中から調子の良い声が帰って来ると、彼女は声を震わせ「失礼します」とドアノブを押した。
「あ、おかえりー。シノン」
 姫君の部屋の中では冒険者の風体をした女性が立っていた。
 ブロンドのポニーテール、透き通ったシルエット、鼻の形や目の形、近くで見なければ誰にも判らない程薄い泣き黒子が艶やかに光る。
「た、ただいま、です。ひ、姫様……」
 彼女の体が黒ずみ、溶けたロウの様に垂れ落ちていく。中から現れたのはみすぼらしい黒衣に身を包む痩せっぽちな少女だった。擬態していた体は全て少女の影に溶けていく。
 少女はドッペルゲンガーという種類の魔物だった。恋破れた者の念に呼応し、その理想の姿形をとって恋人となろうとする性質を持つが、本体は到って質素で目立たない少女である。
 このドッペルゲンガーの名前はシノンといった。シノンが本体を表したや否や、冒険者風の女性が彼女に抱き付き、頬擦りをし始めた。
「うぅ〜ん♥ シノン、貴女やっぱり可愛いわ! 変に取り繕うよりそのままの方が素敵だって何時も言ってるのに」
「や、やぁん……っ」
 シノンのか弱い抵抗に、更に熱を増したのか、服の中に腕を突っ込んで柔肌を弄び始める。これには溜まらず、シノンも艶っぽい声を挙げて降参する。
「ふふん。何よ、可愛らしい声出しちゃって。お姉さんを誘惑するつもり? いけない子ねぇ、ぐふふ」
「や、やめぇ……ん、ぅぁ……っ」
 だらしない表情のこの女性は、涙目の少女の体をむしゃぶり尽す勢いで指を添わせ続ける。
 弄ばれる間、シノンはどうしてもこの綺麗で清楚そうな女性がこの国のお姫様だとは思えなかった。どちらかといえば酔っぱらったおじさんと言った方がしっくり来る。けれどそんな事言ったらまた酷い事をされるのは判っていたので、何時も何も言わない事にしていた。
 着ている物が肌蹴るまで甚振り続けた後、姫君はしたり顔で城外の土埃に汚れた服を脱ぎ始める。
「それで、どうだった? お相手は」
 シノンの顔が真っ赤になる。姫君は口角を吊り上げて、辛うじて声に出して笑うのを堪えた。
「あー、楽しみね。次は貴女の王子様が此方に来るんでしょう? 私も隠れて見てようかしら」
 シノンはふるふると首を振る。姫君はそんな彼女の頭をそっと撫でた。
「冗談よ。私が見付かっちゃうと意味がなくなるものね」
 シノンは姫君の目で判る程、ほっと胸を撫で下ろした。其れ程までに、自分が偽物だと気付かれるのを恐れているのかと、姫君は内心彼女を憐れんだ。



―――――



 この縁談の切欠は姫君の父親である南の国王の指図によるものだった。
 結婚適齢期を迎えたというのに未だ騎馬や剣を愛し、結婚相手として側近達が見繕った相手を悉く叩きのめしては「私より強い殿方とでないと認めません」などとのたまう娘にほとほと頭を悩ませていた王が、同じく婚姻に興味のない王を抱える北の国の大臣と共謀して無理矢理縁談を設置したのだ。
 勿論、北の国との関係修復の為の政略結婚という側面もあったが、父親としての老婆心が一番の理由だった。
「別にいいけど、只お見合いするんじゃ詰まらないわね」
 見目麗しい見た目とは裏腹、そのじゃじゃ馬っぷりは国内で知らぬ者はいないと言われる程の姫君。父の意向を汲み取りはすれど、従う気が毛頭ない。そもそも他人の掌で動くのが何より我慢ならない質だった。
「そうだ、良い事思い付いた」
 傍で聞き耳を立てていた側近が顔を青くする。姫君の提案は何時も碌でもない事を知っているのだ。
 姫君は自室に戻ると、早速お気に入りの侍女を呼び付けた。
 怯えた足取りで入って来たのは、一匹のドッペルゲンガーだった。彼女は、姫が先年の戦争中に見付けて以来気に入られ、魔物でありながら侍女として抜擢された。
 彼女が魔物である事は、姫以外誰も知らない。只、容姿はか弱く内気な少女然としているだけだったので、そもそも魔物だと疑う者が居ない。姫自身も別に隠しているつもりもなく、誰かに尋ねられれば真実を答える位、大した事実ではないという認識だった。
 件の少女は、未だに慣れぬ宮仕えの体裁に戸惑いつつ、言葉を発する。
「お、お呼びですか……? 姫様」
「貴女、私の代わりにお見合いしなさい」
 姫は、単刀直入に用件を伝えたつもりだった。
 すると、シノンは目を丸くして口元を震わせ始める。
「え? お、おお、お見合い……ですか……ッ? な、なんで、えっ、そんな。わ、私、お、男の人と、話なんか、した、こと、ないのに」
「大丈夫よ。私の振りをしてくれるだけでいいから」
 恥ずかしがる、というよりも、嫌がる素振りのシノンに構わず、姫は話を進める。
「北の国の王様よ。彼奴、絶対、面白いから。騙されたと思って行ってみなよ。お願い! 行ってくれたら、私、何でも言う事聞いちゃうから!」
「無理、無理ですぅ」
 普段、誰も蚊の鳴く様な大きさでしか喋った所を見た事が無いシノンが、この時ばかりは声を張り上げて逃げ出す。そうはさせまいと、姫はシノンの体を抱き挙げて、部屋の奥へと引き摺り込んだ。
    ドッペルゲンガーの変身能力は、好きな男性の理想の姿を形取る位が範疇だ。好きでもない男の理想の姿になるのは、シノンの様な流され易い個体であっても、矜持に反する。
「お願いよ」とシノンの腰に腕を絡めベッドに押し倒す姫。それでもシノンは嫌がり続ける。姫は、この一見意志薄弱そうな少女の存外な頑固さを垣間見ながら、とうとう伝家の宝刀を抜く時が来たか、と反芻する様に心に留める。
 姫は用意していた切り札を口にした。
「折角、彼に逢えるのに?」
 僅かに身動いだシノンは、すぐに抵抗を止めた。
 腕に抱く少女の中心で小さな心臓が、力強く拍子を刻んでいた。
 姫は満足気に鼻を鳴らす。
「逢えるよ、シノン。貴女が言ってた、王子様に」
「……ほんと?」
 小柄な少女が期待の眼差しで見上げて、一言そう返した。姫にとって、其れは一層抱き締めたくなる程健気に映る。
「ほんと。私、わがままだけど、嘘は吐かない主義だから。でも、シノンが男の人苦手なのは知っているし、騒々しい場所も駄目だってのは知っているから、無理はしなくても……」
   行きます」
 シノンははっきりと答えた。提案した姫も内心焦りを覚えた程毅然と返されたものだから、面喰ってしまう。
「でも、向こうの国には人が一杯いるのよ。変身したままで、私の振りもしなくちゃいけない。傍には私も居ないのよ?」
 姫は、咄嗟にシノンを引き留めようとしている自分に戸惑っていたが、すぐに理由に気付いた。余りにも、シノンの言葉に決意が込められていたので、自分の手元から彼女が居なくなってしまう実感に駆られたのだ。
 けれど、シノンは姫の腕の中で静かに頷いた。
「行く。行かせて、下さい」
「……そうね。意地悪しちゃダメよね」
 引き留めようとした行為をそう濁す。切り札を口にした責任は負わなくちゃ、と姫は自分を納得させた。
「それじゃあ、明日お父様に縁談の件正式に了解すると伝えておくわ。大丈夫、貴女は結果なんて気にしなくてもいいから。この縁談は、はっきり言ってお父様達が私に鎖を付けようとしているに過ぎないの。だから、シノンは好きなだけ、好きな事をしなさい」
「……姫様」
 シノンは体を入れ替えて、姫に向き直った。
「今日は、一緒に寝ても、いいで、しょうか……?」
 怖くない訳じゃない。知らない場所に行くのだから。けれど、勇気を出してみた。
 勇気を出したシノンの体は、心細さに震えていた。姫は其れを察して、優しく抱き寄せ、少女の顔を胸に沈めた。
「……うん♥」
 自分に妹が居たら、この子と同じくらい可愛がるんでしょうね。
 それにしても、相手は何て果報者なんだろう。こんな可愛い子にこれ程まで恋慕われるなんて。
    羨ましい。
 私がこの子と同じ位好きで居ても、彼奴は   あの馬鹿は   
 姫が顔を赤くして、首を振る。
「……姫様?」
「あはは、は……何でもないのよ、何でも。ささ、今夜は寝かさないわよぉ」
「ふぇ? あ、やぁぁ」
 この夜。ベッドの中で妹分の体を存分に堪能しながら、姫は嫉妬している自分の情けなさを痛感していた。



―――――



(嫉妬しちゃうのは良くないなぁ。今はシノンの幸せを願ってあげないと。この子も、自分に自信を以て行動さえすればねぇ)
 姫君は縁談から帰って来たシノンの頭を撫でる。
 冒険者の格好から絢爛豪華なドレスに身を包んだ姫君の美貌は、主張の強い宝石や生地に上回るが故に際立ち、そうして一国の貴人たる風格を見せる。シノンは宝石の価値なんて判らなかったが、普段の姫君の姿には息が詰まる様な圧迫感を覚える。
「姫様、あの……」
 シノンがおずおずと口にする。
 姫君は髪を掻き挙げて、最後にティアラを冠った。
「なぁに?」
「……あの」
 それだけ口にして、シノンはどもってしまう。シノンの胸中には澱んだ泥の様な物が堆積していたが、姫君を相手に口にして良い物か判らない。
 少女が真摯に恋している事を知っている姫君は、察した風に肩を竦めた。
「確かに、貴女は自分の正体を偽っているわね。けれど、ドッペルゲンガーという魔物は、そういうものらしいじゃない」
「……」
 そういうもの   シノンは、確かにそうだ、と思う。ドッペルゲンガーは恋破れた男の想い人に扮して添い遂げる性質を持つ。つまりそれは、ある意味、自らの正体を隠し続けているという事でもある。そうして生涯幸せに暮らしている個体が居る事も、シノンには判っていた。其れが悪性であるなんて、とんと考えてはいない。
 だとしても、シノンは不誠実に感じていた。真剣に恋焦がれている相手に正体を隠すなんて、偽りのない恋には相応しくない、と思っていた。自分の恋愛の理想形は互いに隠し事のない家族である事だった。
 でも、自分にはこの方法しかないんだ……。そう思うと、何も言葉が出て来なかった。
「忘れちゃ駄目よ。貴女が彼を手に入れる為には、お姫様じゃなくちゃいけない。そうじゃなければ、彼には近付けないのよ。もし此処で、貴女が貴女の拘りの為に正体を明かせば、彼に会う切欠は永久に失われる。変な事は考えちゃ駄目」
「でも……」
 シノンは言葉を飲み込む。姫君は敢えて言わなかった。本意ではないとはいえ、此方から申し込んだ縁談で影武者を立てたと知られれば、応じた相手に激怒されるに決まっている。其れは戦争の引鉄になるだろう。やっと築けた平和だ。シノンの我侭で其れが崩れ去る訳にはいかない、と。
 シノンはこの時初めて、自分が負った任務の途方もない重大さに気付く。足が震えた。一刻も早くこの国から逃げ出したいと思った。
 けれど、後悔はしなかった。   其れほどまでに、自分の王子様と談笑出来た事には価値があった。
「さぁ、余計な事は考えずに、次に会った時はもっと親密になれるように作戦を考えましょう」
 シノンは頷く。我侭を言っちゃいけない。彼との繋がりをみすみす失いたくはない。自分が影武者である事は隠し通さなければならない。自分の恋路の為にも、姫君の為にも。
 次に会うのは5日後。しかも、彼は一晩を此処で過ごす。
 つまり   


「ぼふん」
 間抜けな音を立てて、シノンの頭から湯気が立ち上る。顔を真っ赤にして、床に座り込んだ。
「え、突然どうしたのっ? シノン? シノーン」
 姫君に頬をはたかれながら、シノンは来るべき初夜に想いを馳せていた。





――――――――――





 彼はゆったりと馬車に揺られて、移り変わる長閑な風景を眺めていた。南の国は農業が盛んで、農夫達が鍬を振り降ろしている光景が流れている。
 先年まで此処は戦場だったという事を忘れてしまいそうになる   自嘲する様に、思い直す。
 最初戦況が優位にあった北の国。特に自分は一個部隊を纏めて南の国に最も早く侵攻した。そして、将に王都まで目と鼻の先であるこの地帯にまで馬を進めた事を憶えている。
 結果は相手の姫君に吹き飛ばされて敗走。自分が打ち倒されたのが切欠で優勢だった自軍の士気が落ち、劣勢だった相手の士気が高まった。その後立て続けに敗戦したのは其れが直接の原因だっただろう。
 だが、其れは今は考えなくて良い事だ。苦い思い出だ。其れよりも、これからの事を考えよう。
 今から自分は、南の国の姫君の所へ会いに行くという事になっている。会って、きっと城の中を案内され、食事の後極上のワインに舌鼓を打った後、姫君の部屋で一夜を明かす手筈になっている。
 自分でも不思議な感覚だった。話が急過ぎると思わなくもなかったが、其れほど嫌だと感じていない自分が居た。先日でさえ、断られる様にと画策していた最初と違って、会話を楽しんでしまっていた。
 どうすればいいのか判らなくなっていた。だって、この縁談には致命的な欠陥があるのだ。成立させる訳にはいかないが、禍根を残す訳にもいかない。自分の立場を呪うのは何度目だろうか。
 彼は何時も気を静める為に瞑想する。
 この時も、馬車に揺られながら目を閉じる事にした。



 美姫の跨る白馬に蹴飛ばされ、意識を失ったあの時の事は今でも覚えている。
 只、その後の記憶が不確かだった。
 目を覚ました傍で、女の子が自分の頭部に撒かれた包帯を換えてくれていた。
 其れが今でも誰か判らない。けれど凄く可愛らしくて、全体的に影のある少女だったという事だけは覚えている。
   待ってて、下さいね。今、お身体を綺麗にしますから……」
 虚ろな意識ながら、ああ、天使だ、と思ったものだ。
 兎に角、その名も知らぬ少女のお陰で戦場の塵にならずに済んだのだ。
 今更何でこんな事を思い出しているのか、彼には心当たりがあったが、今はさておく事にする。



 パレードの歓迎を受け、王城に着いて石畳みに足を着ける。眼前には勇壮な兵士の隊列。王様の出迎えを受けるが、姫君の姿は何処にもない。
 国王曰く、「恥ずかしがって出て来ないのだろう。珍しい」との事だった。どうやら南の国王は大いに脈を示す娘に願望染みた期待を抱いているらしい。そうでなくては、王自身もあのじゃじゃ馬が年相応乙女らしく恥じらう姿など想像出来ない筈だった。
「いやーあの娘がこんなにも殊勝に恥じらうとは、御主は余程良い男なのだろうな」
「いえ、其れ程の事は……」
「謙遜せずとも良い。御主と儂はもう縁者なのだからな! はっはっは」
「は、はぁ……」
 段取りが違いながらも、王城の中を上機嫌な王自ら案内する彼は無難に話を合わせながら、彼女の姿を探す。
 その様子は更に王を喜ばせる。娘煩悩な王は娘が影武者を立てている事も知らずに、彼を姫の部屋に案内した。
「まだ日も明るい内だが、此処は若い者二人で話をする方がいいだろう」との弁であるが、要するに手早く決着を着けたいという魂胆が彼にも伝わって来る。実際、娘の本性を知られない内に婚約を取り付けたい、と国王は願っていた。
 何やら退くに退けない所まで来てしまった自覚を抱きながら、彼は姫君のドアをノックしようとする。
 すると、国王が何の気なしに彼の前に押し入った。
「ああ、我が娘にそんな律儀はせずとも良い」
 国王が手早くノックをし「パパだ、入るぞ」と声を掛けながら返事を待たずにドアを開いた。



―――――



 彼が到着する日、誤算が発覚した。
 朝、シノンが姫の元を尋ねて泣き始めたのだ。姫が事情を尋ねると、本日が晦日(つごもり)らしいのだと言う。
「つご、もり?」
「ぐすん。……月が、見えない日なんです……」
「? 月が見えないのの、何がいけないの?」
 シノンの表情が湿っぽくなっていく。
「うぅ……私達は、月の見えない晩は変身出来ないんです……うぅ、うぅぅ」
「マジで」
 これには姫君も頭を抱える。まさか、今晩一緒の部屋に寝泊まりしない、とはいかないだろう。国王は娘が色気を出したと聞いて大喜びしている。あの父親なら此方の話も聞かずに同衾させようとしてくるに違いない。代わりに本物の姫君が同衾する訳にいく筈もない。其れは其れでシノンが嫌な思いをするだけだ。
「……兎に角対策を考えましょう。相手は順調に此方に向かってるそうよ。日取りは変わりそうにないわ」
「でも、でも」
「諦めちゃダメよ、シノン。考えるの」
「ぐすん……はい……」
 服の袖で涙を拭うシノンに胸をときめかせる姫だったが、緊急事態とばかりに頭を回す。



    しかし、無情にも時だけが流れた。
 既に彼が王城に到着している頃だった。本来なら訪れた彼を姫君が出迎えに行く手筈となっていた。しかし、それよりもこの想定外を何とかフォローしなければならない。
 案は幾つか出た。宿泊を無しにして彼に帰って貰うか、別の部屋に泊って貰うか。しかし、何方を選んでも相手に失礼だ。段取りを変えるには其れなりの理由が必要だが、其れがどうしても思い付かない。
「でも、その晦日は外れる事もあるんでしょう? 占星術師だって確実じゃないのだから」
「其れもそうですけれど……あうぅ」
「だったら祈りましょう。月が出る事を」
「でも、出なかったら……」
 その時、扉の向こうで話声が聞こえ始める。


   ああ、我が娘にそんな律儀はせずとも良い」


 姫君はすぐに悟った。父王の上機嫌な声。きっと、彼をこの部屋に連れて来たのだ。この分だと返事も待たずに入り込んで来る。
「シノン、早く変装してっ」
 部屋の中にノックが響く。シノンは慌てて影を纏い始める。


「パパだ、入るぞ」


 扉が音を立てて開いた。
「シノン   、此方へ!」
 慌てる姫君に腕を引かれた時、シノンの脳裏には懐かしい思い出が蘇って来ていた。





――――――――――





 シノンは最初、怯えて住処の中に籠っていた。
 彷徨う身である彼女が夜露を凌ごうと夜を明かした洞窟の目の前の森で、突然人間達が大きな声を上げて戦い始めたからだ。
 耳障りな剣戟や悲鳴。彼女は耳を抑えて洞窟の奥で震えていた。



 やがて、洞窟の外に静けさが戻った。
 終わったのかな。そんな風に思って顔を覗かせると、風に混じって血腥い臭いが漂っている。きっと、命を落とした人もいたのだろう。人間のやる事は理解出来ないが、なんだかシノンは悲しい気持ちになっていた。
 シノンは居心地が悪くなって、住処を移す事にした。
 洞窟から出歩いて森に入る。
 暫くして、前方に倒れている男がいた。兵士の身形である為、身を数歩引くシノンだったが、その顔には見覚えがあった。
「あっ……」
 収穫祭の時、シノンを助けてくれた人。
 シノンは咄嗟に樹の影に隠れた。今の自分の姿は、魅力的ではない。きっと、見られると幻滅されてしまう。
 だがしかし、彼の額は割られ、出血している事に気付く。彼が痛みに呻いた時、シノンは飛び上がって驚いたが、彼の命が危ないと判ってから目が逸らせなくなっていた。
 男性は怖い。人間も怖い。自分の姿を見られたくはない。けれど、このままじゃ   



 シノンは洞窟へ引き返した。
 彼の身体を何とか引き摺って。
 幸い、洞窟までは目と鼻の距離。彼の着込んだ鎧の外し方もすぐに判った。彼自身がそれほど重くなかったのもシノンにとっては助かった。何せ、か弱い少女が底力で何とか牽引出来たのだ。
 彼の意識は戻らない。頭を強く打っている様だった。
 シノンは暫く彼の看病をする事にした。彼が目覚めた時にどうしようかとか、彼がこのまま目覚めなかったらどうしようとか、そういった不安を抱えながら、懸命に看病に勤めた。



 そんなある日。
 シノンは目覚めない彼の顔をじっと覗き込んでいた。
 ……ドッペルゲンガーに好かれるという事は、彼は自分の知らない女性に片想いをしているのだと、ふとした拍子に思い付いたのだ。
 一体、どんな人が好きなんだろう。   シノンが彼の思念を読み取ったのはやましい気持ちがあっての事ではなかった。只、それを気にしてしまった以上、ドッペルゲンガーの能力として望みに関わらず読み取ってしまう。
 性格は、御淑やかで大人しい女性が好み。
 容姿は   。シノンの影が実体を以て、シノンの身体に絡み付いて行く。混沌とした影の塊を形成した後、急激に人の形を取ると、其処には南の国の姫君の騎兵姿が現れていた。
(……綺麗な人。きっと、何処かのお姫様なんだ。私なんかじゃ、釣り合わない……)
 胸に手を当て、シノンはがっかりする。けど、都合よく自分みたいな身長もなければ胸もないちんちくりんを好む人なんか現れないのも承知していた。
「わお、私そっくりね〜」
 洞窟に響いた女性の声に、シノンは飛び上がる。
 見遣ると、入口方面に冒険者風の姿をした美女が立っている。しかも、その顔は今しがたシノンが映した彼の想い人本人のものだった。
   ッ! きゃぁ……っ!?」
 驚き余って、シノンの変身が“溶けて”しまう。
 姫君は自分の姿を真似た正体が儚げな少女だと知って、益々上機嫌にシノンの手を掴むと、目を輝かせた。
「ねぇ、貴女ドッペルゲンガーって奴じゃないの? 面白い能力ね! 私の侍女になりなさい」
「えっ、えっ」
 姫君はシノンの腕を引っ張って行こうとするが、彼女の向こうに倒れ伏せる彼の姿を目にする。刹那、目を丸くした姫だったが、すぐにシノンに向き直って訳知り顔で口にする。
「彼は……ははぁん。ねぇ、貴女。ここじゃあ満足した治療は出来ないんじゃないかしら。私の国で治療した後彼の国に送還してあげた方がいいわ」
「え、あ、あの」
「言い忘れていたけれど、私南の国の王女なの。何とでも都合は付くわ。彼の事は後で使いの者を出すから心配しないで。あぁん、もう、震えた瞳が可愛い♥」
 だきっ、と初対面の魔物を抱き締める姫君。豊満な胸がシノンの顔を包み込んで呼吸を遮る。
 シノンの弱い抵抗に姫君が解放すると、シノンは手を胸元で遊ばせおずおずと口にする。
「……あの、彼を、助けて、くれるんですよね?」
「ええ」
「だったら、私、貴女と行きます。だから、彼を助けて下さい。お願い、します……」
 そのシノンの言葉が余りにも誠実に響いたものだから、姫君も困惑する。
(別に、貴女が侍女になれば彼を助けてあげる、なんて脅迫めいた事言ったつもりないのだけれど。傷付いた敵兵は捕虜として保護するのは国際法で決められているし……まぁ、いいか。訂正しない方が面白そう)
 罪悪感よりも享楽に敏感な姫君はそう考える。
「それじゃあ、外に馬を繋いであるから来て。帰ったら貴女にとっておきの仕立屋を用意するわ。貴女、名前は?」
「あ……はい、シノン、です……」
「シノン! 可愛い名前ね。私のと交換して欲しいくらい」
 姫君の背に付いて行くシノン。振り返って、傷付いた彼を見遣って、名残惜しそうに俯いた。
「……また、ね」
「シノン、何してるの? 早く戻らないと、彼の救護も遅れるんだから」
「は、はい……」
 急かす姫君の元へ、ととと、とシノンが駆けていく。
 洞窟の中で、彼は一人取り残された。



「……」
 彼が、目を開く。
 痛みを思い出し、頭を抑えると、其処には真新しい包帯が巻かれていた。
「……彼女、は」
 周囲を見回しても、誰かいる気配はない。
 彼の中に燃え上がる様な感情が息を吹き返したのは、この時だった。

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【メモ】
“晦日”

月隠れ(つきごもり)から転じたもの。晦は月が隠れることを意味する。
月の見え方のことをそれぞれ月相と呼び
新月(朔)、上弦、満月(望)、下弦、晦日(晦)…などがある。


13/03/11 14:03 Vutur

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