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後編

   おや?」
 父王は首を傾げた。部屋の中に愛娘の姿がない。
「はて、何処に行ったのやら。……窓も開けっぱなしで」
 北側の窓が開いている。此処は側塔の最上階であり、父王は不審がりながら其れを閉じに行く。
「まさか、落ちたりなどは……」
「はは、そんなまさか」
 窓は人が通れないくらいの幅しか開いていない。国王は下を覗いて見てから苦笑を返す。
 彼は姫君の居ない部屋の中を見回す。壁には剣や槍が掛けられ、部屋の隅には鎧が飾られている。テーブルには鞍が置いてあり、最近も使われたらしく、土が付いている。
「……これは」
 ベッドの上に薄桃色の便箋を見付ける彼。手に取り、後ろを向けると、差出人は不明なれど宛先に自分の名前が書かれているのが見えた。
「うん? どうしたのだ、エドアール殿」
 彼は咄嗟に便箋を懐に隠し、「いえ、何でもありません」と笑顔を返す。此処で自分宛の手紙を見付けられるのは問題がある。いや、この場でなくとも大問題だった。
 彼の額から冷や汗が垂れ落ちる。頭の中はパニック寸前だった。
 国王はこれから夫になる男でも娘の寝床に不用意に近付いたのは気に障ったらしく、剣呑な声を発した。
「そうか。……傍仕えの侍女もおらん。どうなっておるのだ、全く。申し訳ない、エドアール殿。儂もそろそろ公務に戻る時間故、用意させた部屋で少し休まれるといい。娘が戻って来たら御主の元へ向かわせる」
「はい、お心遣い感謝致します」
 国王の言う通りに用意された客間でソファーに腰掛ける。傍に控えていた給仕を下げさせ、姫君の部屋で見付けた便箋を開いた。



『北の国からご足労頂いた君へ。娘は預かった。北の山小屋にて待つ』



 これは、と彼は唸った。眉間に皺を寄せる。顎を抑えて、暫く逡巡する。
 王族の誘拐事件   どういう訳か、指名先は彼。これは一体どういう事なのだろうか。彼は自分が混乱しているのを自覚した。
 只一つはっきりと整理出来ているのは、この手紙を父王に見せて兵士を派遣させるのが妥当だとしても彼には其れが出来ない事だ。
 何故なら、宛先が彼だったからだ。知られてはならぬ事実まで暴露される。
 それならば一体誰が姫を助け出しに赴くというのだろうか。行動を起こせるのは自分しか居ない。
 しかし、しかしだ。助け出したとして、何故姫が誘拐されたのを知る事が出来ただろうか。そうなると、矢張りこの手紙が遅かれ早かれ公表されなければならない。そうでなければ、その不自然さから自分こそが誘拐犯の一味だと疑われる。



    暫くして、客間の扉がノックされた。
「待たせたな、エドアール殿。娘を連れてまいったぞ」
「御機嫌よう」
 彼の前に絹糸の如く麗しい髪を後ろに束ねた淑女が現れた事に依り、彼は一層訳が判らなくなった。対外的に見せる笑顔の完成度が不十分だと自覚していた。
 父王はぎこちない彼を前にして、きょとんとする。
「ははは、我が娘の美しさに口が開いたまま閉じられん様になったか。初対面でもあるまい」
「面白い方ですわ」
 姫君は目を細め、彼を見据えた。



    その瞬間、彼は全てに合点がいった。
 手に掴んだ手紙の文面をもう一度見遣る。
「そういう事か……」
 混迷を極めていた頭の中の事象一つ一つが纏まった事を、一本の線に繋がったと言い表す理由が彼にも判った瞬間、そう口に出していた。
「うん? そういう事とは何ですかな? ……その手紙は?」
 上機嫌な父王が彼の手にある紙切れに怪訝な表情を見せたが、その間に姫が割り込み、父王に微笑み掛ける。
「お父様、私、彼と二人でお話がしたいですわ」
「む。おお、そうかそうか。どうやら儂は邪魔者だったようだ。其れではこれで失礼するぞ、エドアール殿。娘を宜しく」
 姫を残して、父王が立ち去る。
 其れを見送った姫は、すぐさま窓を開け放ち、彼に振り返る。
「さぁ、行きなさい」
「……何故」
 ぽつり、と彼が口にした疑問の先は、ささくれの様に方向が定まらなかった。姫は困った様に苦笑する。
「これは、命令よ。私の親友を幸せにしなさい」
「……」
「聞こえなかったの? 返事は?」
 彼は小さく返事を返すと、窓から吊るされたロープを掴んだ。



   ふふん、あの後勝手に姿を消した報いよ」
 窓下を駆けていく彼の姿を見送って、姫君は鼻を鳴らした。
「貴方が洞窟から居なくなったと知ったシノンが、あの後どれだけ泣き叫んだか、知らないでしょう? 全く、貴方達は揃いも揃って手が掛るんだから」
 でも、今彼は駆けて行く。それがどういう事か本人達には判らなくとも、姫君には充分過ぎる程二人の繋がりが理解出来た。
 羨ましい   長年抱いていた嫉妬の情が、名残惜し気にシノンに向けられた。





――――――――――






 窓の外で日が沈んで行く。空が赤く染まって行く。
 姫の部屋の隠し通路を通って外に出た後、数人の男がシノン達を襲った。
 武芸を嗜んでいた姫君も男達に抑え付けられ身動きが取れず、非力なシノンは取り分けラインの細い男に担がれて連れ去られた。
 猿轡をされ、手足を縛られ、見知らぬ小屋に放り込まれた。周囲に見当たる物は煤けた樽と曇ったガラス窓だけ。
 シノンを此処へ放り込んだ男が彼女に語り掛ける。
「いい加減泣き止んでくれないか。良心が痛む」
「ぐすっ……ひっく……」
 シノンは此処に来てからずっと、叫ぶ事はせず、静かに泣いていた。突然知らない男に知らない場所に連れ去られた恐怖もさる事ながら、自分の親友である姫の安否が心配で堪らない。姫は自分勝手で享楽的だが、いつもシノンを気遣ってくれた。シノンにとっては実の姉の様な存在だったから、万が一の事があれば全て自分の所為だと責めていた。
 その様子が、単に泣き叫ばれるよりも男に心痛を与えた。声を掛けたのも、溜まりかねての事だった。
「あぁ、もう。仕方のない奴だ。……仕方がないから、良い事を一つ教えてやる」
 頭を重そうに支えながら、誘拐犯は口にした。
「其方は傷一つ負わず帰る事が出来る。何故なら、其方は報われるからだ」
「……」
 涙で泣き腫らした少女の目が、ちらりと男を見遣った。
 男は続けて語る。
「私のやり残した事はこれだけなのだ。これさえやり遂げれば、私は何の気兼ねなく自由になれる。だから、暫し、待て。待っていれば、其方だけではなく、私も報われるのだ」
「……貴方、様は」
 誘拐犯が窓を見遣る。遠景に、彼の知る人物が見えた。
   来たか」



―――――



 古びた山小屋には夜露を凌がんと蜘蛛の巣が張られている。
 彼がその前に立った時、中から顔を黒い布で覆った男が現れた。
「手紙は読んでくれた様だな」
「……何故こんな事を」


 我が王よ   


 誘拐犯に扮したエドアール王は、一目で正体を看破された事に別段驚きもせず、覆面を脱ぎ去った。
「くく、なんだ、折角雰囲気を大切にしてやったのに。顔を隠したのが無駄になった」
 露わになったエドアール王の顔は、彼に瓜二つであった。
 いや、彼こそがエドアール王と同じだったのだ。


    国王の影武者である、彼こそが。


 彼は、呆れた様に首を振った。当座、自分が考えていた事がバカらしくて仕方がなかったというのに、いざその通りの現実を目の当たりにしてしまうとどう受け止めていいのか判らない。全てが自作自演だったと思うと、彼の内にも怒りが込み上げて来た。
 そもそもの発端は、エドアール王の思い付きだった。
 縁談に影武者を用意する   尋常じゃない発想だ。外交儀礼を弁えぬ失礼千万とはこの事だ。だが、エドアール王は言い出したら限がない。宥め賺すのも困難を極める。だから彼は今まで通り、命令を遂行しようと、穏便な結末を齎そうと尽力した。
 だというのに   この王は、自らの影武者を追い詰めて楽しんでいたのだ。
 これでむかっ腹が立たぬ筈がない、と彼は罵ってやりたい気分だった。
「目的は、なんでしょうか、我が王よ」
 努めて冷静を装いながら、彼は問う。
 するとエドアール王は、しなやかに剣を抜き浚った。
「私は其方に感謝している。私の代わりに多くの危機に曝され、私を救ってくれた」
 だからこそ   
「其方が、憎い」
 奮われた剣を、彼の剣が受け止める。
 彼の剣は動揺に震えた。
「憎、い?」
 今までエドアール王の為に心身を尽して来た。まさか。どうして。感謝されているつもりはなかったが、憎まれているとは思いもしなかった。
 エドアール王が彼の剣を往なし、瞬間、払う。彼は機敏に体を捻じる。国王服から肌が覗いた。
「気付いてもいなかったか。私はな、常々自由でありたいと望んでいた。王位なんてものに価値を感じられなかった。しかし、しかしだな。生まれの責任というものがある。王として生まれたからには王でなくてはならない。其方が私の影として生まれたからには影でなくてはならなかったように」
「我が王……」
「皮肉なことに、私は私と同じ顔の其方が疎ましい。私は影に縛られたくはないのだ。王の、影に」
 そうしてエドアール王が彼を数合斬った後に、彼は言葉を返す。
「……勝手な事を言わないでくれ」
「何だと?」
 彼は、この時初めてエドアール王に反撃した。気勢を吐き、剣を振り降ろす。
「勝手な事を言うな! お前は何時も何時も、我侭だ! この縁談だってそうだ、お前の思い付きでどうして私がこんなにも苦労を背負わなければいけないんだ。この前の大衆演説だって、お前が直前に逃げ出さなければ、私が出る幕ではなかった。お前が逃げ出せば、私が何時もその尻拭いをさせられてきた!」
「逃げ出して何が悪い。私は、王になんぞなりたくはなかったんだ」
「だったら中途半端に逃げないでくれ! ちゃんと逃げ切ってくれ」
「逃げ切れたとして、この国はどうなる。我が故郷はどうなる。其方はどうなるのだ。生憎だが、その責任を放棄出来る程私は馬鹿じゃあなかった」
 剣戟を演じながら、互いに喚き合う。
「私は王の影である其方を消し去りたいと願った。だから暗殺者を雇い、執拗に着け狙ったが、其方は悉く返り討ちにしてくれた。流石、私の影だと舌を巻いたよ。だがだ、それも今日で終わりだ。其方を影から解き放ってやろう」
 彼は愕然とした。今まで暗殺者に襲われて来たのは、王の身代わり等ではない。王自身が差し向けたものだったのだと知って、積み上げて来た物が崩れ去って行く。
「どうした。私と其方の剣術は拮抗していたと思うのだが」
 手数の面で押されていく彼に、エドアール王は淡々と言い放った。
「……それでも」

    甲高い音が響く。

「それでも、彼女を巻き込んだ事は許さない」
 一太刀閃いた瞬間、エドアール王の持つ柄の先が消し飛んだ。月明かりを受け、回転しながら飛行する刃は、やがて森部の中へ吸い込まれていく。
「……ふむ。業物だったのだがな」
 エドアール王は惜しむというよりも満足気な表情で、折れた剣を見詰める。
「満足して頂けましたか、我が王」
「うむ。済まないな、茶番に付き合わせた」
「構いません」
 剣を収め、彼は恭しく傅く。
「その様な儀礼は、もう、不要だ。言っただろう。其方を王の影から解き放つと」
「……国を去るのですか」

    兄上。

 さぁ、と風が舞う。
「……そんな呼び方はするな。生まれるのが数瞬早かっただけだ」
「しかし、それでも我が王は兄上だけです」
「民よりも己を選んだ暗君を慕うな。……早く行ってやれ。これ以上、目の前でか弱い少女に泣き続けられるのは敵わない」
 其処で彼はハッ、として月に照らされた小屋の中に駆け込む。
    エドアールは其れを見送った後、静かに森の中へ姿を消した。


 
―――――



 小屋の中に駆け込んだ時、彼は部屋の隅で震える少女の姿を見た。
 黒髪で目元を覆い、宵闇の貫頭衣に身を包む、痩せっぽちな少女。彼女は彼の前で小動物の様な声で泣いていた。
「やぁ……来ないで……見ないでぇ……っ」
「……」
「見ないで……見ないで……うぅ……っ」
 泣いて拒絶する少女を前に、彼は、兄王の気持ちを少し理解する。
 しかし、どう声を掛けていいものなのだろうか。迷っている内に段々と自分の行動を振り返っていく。自分がどうしてこの少女を助けに来たのか、理由を探し始める彼。
 倉皇している内に、窓から差し込む月光がシノンの顔を照らした。
 シノンは、飛び上がり、窓辺で天を仰ぐ。
「月……月! どうして? 変身出来ない……どうして、私、どうしちゃったの……?」
 この世の終わり、と言わんばかりに取り乱し、床に頭を打ち付けるシノン。
 彼はそんな彼女へ湧き上がる感情を、後ろから抱き締める事だけで表した。
「驚く事なんてない。君は、最初から変身なんて出来ていなかったよ」
「えっ?」
「……どうやら、私達は揃って主君に騙されていた様だ」
 ぎゅ、と彼の腕に抱き締められ、シノンはパニックになった。
 気付いた時には、訳も判らず彼の腕を淑やかな胸元で抱き締め返していた。
「君が私の城に来た時から、君は君自身の姿だった。私は、姫君の姿を知っていたから、すぐに気付いたのだ。君が私と同じく、この縁談の代役として立てられた事を。……どうやら、君は姫君の姿になっていると思い込んでいたみたいだ。恐らくは、姫君の手回しで、君の周りの人間は話を合わせていたんだろう。我が城の給仕達は姫の姿を知らなかった故、君は気付けないままだったが……」
「そ、んな。だって、私達は、好きな人の理想の姿で現れるの、に。へ、変身が出来なくなっちゃうのは、私なんかの姿を、好きになって、くれなくちゃ」
 たどたどしく其処まで口にして、其れが今の状況をどう露わしているのか悟り、シノンはかぁぁっと顔を熱くした。
「え、嘘。なんで、そんな、えっ。でも……えっ」
「言葉で伝えてしまっていいか?」
 そう耳元で囁かれて、シノンは眩暈がした。心臓の高鳴りが激し過ぎて、一瞬停止した気がした。
 最早彼の言葉に返事する余裕もないシノン。緊張の為か、彼の腕の中で凍り付いている。
「君の事は憶えている。以前の戦争の時、瀕死の私を救ってくれた」
「あわ、あわわわわ」
    知っていて、くれたんだ。
 シノンは喜びを噛み締めた。魔物でありながら殊勝にも神へ感謝を捧げた。
「……ドッペルゲンガーは、慕う男の前に現れると聞く。私の何処を慕ってくれたのか、聞かせてくれないか」
 シノンは、ごくりと唾を飲み込んで、一度気持ちを落ち着かせる。
 彼の目に映った少女の、髪の隙間から見える瞳には振り絞った勇気が光っていた。
「……貴方様は、私を、助けてくれたから」
「助ける? ……」
「収穫祭の時、演説してる時、貴方様が助けてくれた」
「……それだけ?」
 シノンは、こくりと頷く。彼が鼻吐息を吐くと、思い出した様に付け足す。
「あの、でも、貴方様の目が、空虚で……寂しそうだったから。私が、いなくちゃ、ダメだと思って。……あっ。えと、あの、ごめんなさい……失礼な事、言って」
 彼は自分が驚いた表情を見せた事に気付かなかったが、すぐに「構わない」と言って取り繕って見せる。
「空虚、か」
「……?」
    国王エドアールの影として生まれた自分は、一生を影で過すのだと覚悟していたつもりだった。
 けれど、その覚悟はこの魔物にとって空虚に映ったらしい。
 自分では気付かなかった。
 彼女に言われないと、気付かなかった。


 そこで、彼には一つ確認しておかなければいけない事があった。
「それは、本当に私だったのか?」
 彼は怪訝な顔をして、シノンに問い掛ける。
「貴方様です」
 きっぱりと、シノンが言い放つ。
 暫く目の中を覗き込んだ後、彼は観念した様に肩を竦める。
「参った。思えば、この小屋に入った時から君は私を見分けていた。兄上の事だから、敢えて君に自身の顔を見せただろう。私達を区別出来たのは姫君に続いて君が初めてだ」
 彼は思い返す。戦場で姫君は彼に一瞥くれた後、雑兵諸共馬で蹴散らして行った。あれは気付かなかった訳ではなく、本当に彼を雑兵と同じ扱いにしたのだろう。
 するとシノンは、眉を顰め、彼の袖を不満げに引っ張った。
「……私が、先」
「うん?」
「私が先に、貴方様を見付けた」
 彼は刹那意図が理解出来なかったが、シノンが姫君に張り合っているのだと気付くと、この気弱そうに見えてその実頑固な少女の頭をぐしぐしと撫でてやりたい衝動に駆られた。
 それにしても   見付けた、か。
 私はこの少女に見付けられてしまったのか。
 そんな風に考えてみると、何だか面白おかしい。表情が独りでに綻んだ。
 影武者は表舞台に出ない。出ようとは彼自身思っていない。只、その存在を居ない者として扱われるものだった。実際彼の生活というものは、エドアール王が衆目の目に曝されている間は誰にも姿を見られぬ様にしなければならなかった。
 エドアール王の代わりに姿を現わしても、エドアールを模倣しなければならない。其れは彼にとって、彼ではない。エドアールの影としての単なる務めだった。
 誰かに見付けて欲しかった   自分がそう願っていた事実を目の当たりにして愕然とすれど、この影を纏う少女の言葉ならば素直に受け入れられた。
 対してシノンは、漸く彼と相思相愛であるという事実が夢ではないと知って、普段音感がないからと音楽の類を一切拒んで来たというのに、上機嫌に鼻歌を歌って彼の身体をぺたぺた触っていた。
「ふふ……♪ 好き……大好き……私の旦那様……♥ もう離れ離れは嫌ですからね……♥」
「……今日は、月が、綺麗だ」
 これだけ月光が眩ければ、影も消えて無くなってしまうだろうな   そんな事を考えながら、彼は可愛らしい自身の妻を抱き寄せた。





――――――――――





「行くのね」
 国を去ろうとするエドアール王の前に、冒険者風の井出達の美女が立ち塞がる。
「ああ、其方には世話になったな」
「……それだけ?」
 エドアールの顔を覗き込む、南の国の王女。
「……情けない事だがな。国を出奔する身でありながら、誰の見送りもないというのは寂しいと思っていた所だ」
「そう」
「……オマケに、一番来て欲しい人が見送りに来てくれた。私は果報者だな」
 姫君は一瞬嬉しそうににんまりし掛けたが、それを必死で堪えた後に、静かに首を振ってみせる。
「勘違いしないで。私は見送りに来たんじゃないの」
 エドアールは快活に笑って見せる。
「冗談だ」
「何よ、冗談って」
「冒険者の格好をしている其方を見て、本気で見送りだと判断する愚か者だと思ってるのか」
「貴方は私がそんな浅慮な女に見える?」
「……私が好いた女がそうである筈がないだろう。一見粗暴に見えても、内実は誰よりも美しく気高く聡明なのが、私の忠愛を捧げる女性なのだから」
 姫君の髪がぶわっと浮き上がるが、またもや顔に出るのを堪える。
 エドアールは思い出していた。このじゃじゃ馬と初めて会った時、彼女はエドアールが囮とした影武者に騙されず、素早く引き返した後に本陣を急襲してきたのだ。
 そしてエドアールに出会って開口一番「やっぱり本物の方がカッコイイ」と口にし、彼を茫然とさせた。
 其れ以来、エドアールは姫君に興味を持ち始めた。影武者が公務をこなしている間、エドアールは決まって城を抜け出して国境の湖で姫君と逢い引きを重ねた。お互い冒険者に憧れがあり、身分相応の王侯貴族と比べると遥かに馬が合ったのだ。
 今でも姫君と一緒にダンジョンに潜ったり、森を探検してみたりした時のスリリングな体験を心躍らせて反芻出来る。
「けれど、どうしてあんな回りくどい事をする必要があったの? 占星術師に今日は晦日だって嘘吐かせたり、誘拐してみたり……そりゃあ、シノンが幸せになってくれるならなんでも良かったけれど」
 姫君が、からかう様に尋ねた。
「単なる清算だ。……私の国では、双子や血を分けた兄弟の片方を影武者として育てる習わしがある。だから、彼奴が先に生まれていれば王であっただろうし、私が後に生まれれば王の影であっただろう。本当は、そうであれば良かった。私は王の責務を嫌っていたからな。去る前に、彼奴にも判らせてやりたかったのだ」
「ふぅん……それで、産まれて初めて兄弟喧嘩でもしよう、って思ったんだ?」
「身も蓋もない言い方、と言いたい所だが、全く以てその通りだな。ははは」
 エドアールは気持ちが晴れたかの様に笑う。
「……ねぇ、気は済んだ?」
「ああ」
「じゃあ、勿論連れて行ってくれるのよね」
「……しかし、国はどうする」
「貴方と同じよ」
 エドアールは苦笑する。血を分けた弟と産まれて初めて喧嘩という物をしてみせる為の芝居の最期には自らの出奔を予定している。その為の人手は国内ではなく無関係な国外から得なければならなかった。
    魔王軍が彼等に接触してきたのは、時を同じくした頃だった。
「矢張り私達は似た者同士だな」
「ふふ、似た者夫婦の間違いよね。やがては似た者家族になる予定だしね」
「……だったら先ずは、適当な所で挙式を上げなければな」
「……うん♥」


 やがて二人の冒険者の卵達が、紆余曲折の末二つの祖国が魔界に飲まれて一つの領地として成立した事を知るのは、もう少し後の話。
 元来の国を治めていた王と王妃は夫婦揃って魔界の一領主となり、その仲の睦まじさは永遠に交わり続ける影法師に例えられ、末永く幸せに暮らしたという。

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【メモ】
“影法師”

なんで只の影じゃなくて法師がついているのか。
そんな事を考えて調べてみると、膝小僧とかそういう感じに多く見られる擬人化志向が影にも及ぼされているらしい。
昔の人の擬人化にかけるストイックさには辟易します。

13/03/11 14:05 Vutur

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