連載小説
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とある猫の気ままな放浪。そのろく。
「――ワーキャットだ!」

 その叫び声に、アレクは信じられない気持ちで顔を挙げる。
 よりにもよって、このタイミングで。
 怒声に混じって、ちゃりちゃりと金属音がぶつかり合う音が聞こえる。
 それは、あの首輪の鎖が奏でる音。彼女に、間違いない。

「逃がすなよ。足を狙え!」

 何とか声のする方に視線を向けると、そこには確かにあのワーキャットの姿があった。
 槍を持った賊達に追い立てられ、木々の間を縫うように走り回っている
 
「――んにッ!」

 賊の突き出した槍が、彼女のわき腹を霞める。
 自らを裂かれたような、ぞっとするような感触がアレクを襲う。
 しかし、彼女は怯むことなく攻勢に転じた。
 機敏な動きで賊の持つ槍に飛び乗り、ついで賊を踏み台にして木の枝へ乗り移る。

「――にぃ」

 ワーキャットは、賊達の位置を確認するように視線を巡らし、そしてアレクを見つめる。
 まさか…助けてくれたの、だろうか。
 しかし彼女は、不機嫌そうに眼を細めた後、すぐに目をそらす。
 まるで、『お前の為ではない』と言わんばかりに。

「弓で狙いを定めろ。つかず離れず、奴の爪が届かない距離からやれ」

 低く、冷たい声が辺りに響き渡る。
 視線を向けると、そこには静かな表情でワーキャットを見据える頭領の男の姿があった。
 人を殺す事をためらわない人種特有の、冷徹な瞳。
 先ほどまでの好意的な表情が、嘘のようだった。

「――に…!」

 一斉に放たれた矢を、ワーキャットは辛くも回避する。
 しかし、賊達の射撃は止まらない。
 頭領の男の指示のもと、賊達は淀みない動きで彼女の行く先へ回り込み、弓を放つ。
 まるで、彼ら全員が一つの生き物であるかのように、彼女を追い詰めていく。

 このままでは、彼女が危ない。
 アレクは、逸る気持ちを抑えつけながら状況を分析する。
 今、アレクの方を向いている者は、誰もいない。
 すぐそばにはあの痩せ男が剣を手に立っていたが、視線は彼女に釘付けになっている。
 やるなら、今しかない。

「ッう…!」

 身体に力を込めると、二度蹴られた腹部が痛みを発した。 
 しかしアレクは構わず、反動をつけて身体を無理やり立ち上がらせた。
 腕は後ろ手に縛られたままだったが、地面に膝をついた姿勢に復帰する。
 当然ながら、傍らにいた痩せ男がはっとして視線を向けてくる。

「な、てめ――んがッ!?」

 痩せ男が言葉を発する前に、アレクは勢い良く立ち上がった。
 アレクの頭頂部が、痩せ男の顎に激突する。
 脳を揺らされ、ぐらりと痩せ男の体が傾く。

「痛ッ…!」

 アレクは、思わず小さな呻き声を出してしまった。
 頭突きが痛かったのもあるが、最大の原因は突如右腕に走った鋭い痛みのせいだ。
 どうやら立ち上がる際、痩せ男が持っていた剣で腕を切ってしまったらしい。
 しかしそれによって、運良く腕に巻き付けられていた縄も切れたようだ。

「――ヤロウ!」

 一番近くにいたもう一人の賊が、罵声と共に襲い懸かってくる。
 アレクは自由になった腕で、未だふらついている痩せ男から剣をひったくった。 
 そしてほとんど反射的な動きで、相手の剣戟を受け流す。

「んな――!」

 襲いかかってきた賊は、勢い余ってつんのめる。
 その途端、アレクは右肩をがしりと掴まれた。
 悪寒と共に視線を向けると、そこには憤怒の表情で膝をつく痩せ男の姿。

「ひっ――!」

 咄嗟に、アレクは剣を持っていた右腕を振るう。
 ごん、と鈍い音が響く。
 剣の柄で顔面を薙ぎ払われた痩せ男の体が、勢い良く吹っ飛んだ。
 鼻血を吹き出しながら、痩せ男は地面にどしゃりと崩れ落ちる。

「はぁ――はぁ」

 不測の事態の連続に、アレクは荒い息を吐き出す。
 しかし、まだ事態は解決した訳ではない。アレクはすぐさまワーキャットの姿を探した。
 彼女は、少し離れた位置から呆然とした表情でアレクを見つめていた。
 そしてそんな彼女目掛けて、一人の賊が弓を引き絞っていた。

「――危ない!」

 その叫びに、彼女は即座に反応した。
 間一髪、射られた矢は彼女の身体を霞めることもなく、背後にあった木に突き刺さった。
 アレクは、ほっと一息ついた。しかし、すぐに辺りの状況を思い出して凍りつく。
 視線を巡らすと、賊達が敵意に満ちた視線でこちらを見ている。
 
「――!」

 ざり、と砂を踏む音。
 アレクは身体を捻りながら剣を構える。
 がきん、と背後から振り下ろされた剣が、金属音を立ててアレクの剣と絡み合う。
 ――剣を扱うのは、久しぶりだ。しかし、自然と身体がついてくる。
 幼少時の頃、指南役にこっぴどくしごかれたおかげだろうか。

「くっ――」
 
 それでも、多勢に無勢だ。
 一人を捌いても、瞬く間にもう一人が現れる。
 当然だが、相手は律義に一人ずつ襲いかかってくるわけではない。
 少しでも捌くのが遅れたら、恐らくそれでおしまいだ。
 
「――どいてろ」

 聞き覚えのある低い声。周りの賊達が、一斉に一歩下がる。
 その声を聞いた瞬間、全身から汗が噴き出した。
 ヤバい――本能が、身体を突き動かす。
 次の瞬間、とんでもない衝撃がアレクに襲いかかった。

「ッ!?」
「へぇ…驚いたな。
 まさか、受けられるとは思わなかった」

 凄絶な笑み。至近距離で、頭領の右頬に刻まれた古傷がぐにゃりと歪む。
 アレクの剣と頭領の大剣が、ぎちぎちと軋むような音を立てる。
 やはり――この男は、段違いだ。鍔迫り合いに持ち込むのが、やっとだった。
 頭領の男も、他の賊と同じく空腹のはず。それなのに、一体どこからこんな力が沸いてくるのか。
 もし彼が本調子だったのなら、アレクはあの振り下ろしで真っ二つになっていたかもしれない。

 ぴしり、と剣が悲鳴を挙げる。
 駄目か――アレクがそう思った瞬間、

「――隊長、あぶねぇ!」
 
 野太い声が、アレクの耳朶を打つ。
 次の瞬間、頭領の男は舌打ちしながらその場から飛び退いた。
 その動きに対応しきれず、アレクはたたらを踏む。
 一体何が起こったのか。
 思わず目をぱちくりさせるアレクの眼前に、小柄な影がすたりと着地した。
 ちゃりん、と金属音が鳴る。
 
「…にゃおう」

 忌々しげに眼を細めながら、ワーキャットが小さく鳴き声を挙げる。
 どうやら、また彼女に助けられたらしい。
 ワーキャットは一瞬だけアレクに目を向けると、即座に踵を返して後方を睨みつける。
 その先にいるのは、何とも微妙な表情で大剣を肩に担いだ、頭領の男の姿。

「…まいったね。どうも。
 お前さん方、一体どういう関係なんだ?」

 心底不思議そうに、頭領の男はそうぼやく。
 その飄々とした様子は、どことなくヤンに似ているものがある。 

「大した関係では、ありません。
 会って間もない…知り合いといったところです」
「知り合い、ねぇ…」

 固い表情のまま答えるアレク。気のない返事を返す頭領の男。
 はぁ、と頭領の男は深々と息を吐き出す。
 そして、大剣を右手一本で持ち上げ、アレクとワーキャットへ向けて突き出す。

「一応、提案しておく。
 もしその猫をこっちに引き渡せば、お前は助ける。どうだ?」
「――お断りします。私は、彼女を見捨てるつもりはありません」

 アレクは即答した。
 やっぱりな、と頭領の男はさして驚いた風でもなく乾いた笑みを浮かべる。

「残念だ」

 ゆっくりと、頭領の男の左手が挙げられる。
 周りにいた賊達がそれに反応して、包囲網を狭めていく。 
 正直なところ――絶体絶命だ。前後左右を賊達に囲まれ、逃げ場は皆無。
 全力で一点を突破すれば、もしかしたら逃げられる可能性はあるかもしれない。
 しかし、その策はあまりにも陳腐すぎる。目の前の男が、それを想定していないわけがない。

 アレクには、一つの秘策があった。
 頭領の男の人格、そしてこの状況を利用した、唯一この場を穏便に収める事が出来る方法。
 あまり褒められたやり方ではないが…贅沢を言っている場合ではない。

「………」

 アレクは、ちらりとワーキャットの方を見やる。
 彼女の手を借りることができれば、この策の成功率は格段に上がる。
 しかしアレクには、自分の意思を彼女に伝える手段がない。
 よしんば彼女に人語が理解できたとしても、賊達にまで気づかれてしまったら意味がない。
 一人で、やるしかないのか――そう思った矢先、幸運にも彼女の視線がこちらを向いた。
 
「…にゃ?」

 小さく首を傾げる彼女の瞳を、アレクは無言で見つめる。
 言葉ではなく思いを込めた、ほとんど一瞬のアイコンタクト。
 彼女は訝しげに眼を細め、そしてそっぽを向く。
 駄目か――アレクはがくりと肩を落とす。しかし次の瞬間、彼女は思わぬ行動に出た。

「――にゃあッ!」

 唐突に、彼女は大きな鳴き声と共に最も近くにいた賊に飛びかかった。
 賊は驚きながらも、すぐさま彼女を受け止める体勢になる。しかし、それはフェイントだった。
 彼女は空中でひらりと身体を捻り、賊の脇を走り抜ける。
 まんまとしてやられた賊が、かっと顔を赤くしながら叫ぶ。

「てめぇ! 待てこらぁ!」

 その声につられて、何人かの賊達が彼女を追ってその場から離れた。
 図らずもその行動は、アレクが彼女に求めていた事とほとんど同じモノだった。
 彼女が囮になることで、アレクを囲む賊達の数は半数以下になった。
 
 やるしか、ない。
 アレクは決心し、息を大きく吸う。そして、勢い良く駆け出した。
 目の前にいる、頭領の男に向かって。

「――ああ?」

 さすがに、これは全くの予想外だったらしい。
 しかし驚きの声を挙げながらも、頭領の男の身体は反射的に大剣を構えようとしていた。
 アレクも、自分の実力は理解している。彼とサシで渡り合えるとは思っていない。
 だから、不意を突いた。アレクは剣を大きく振り上げる。頭領の男の間合いに入る、かなり前に。
 そしてアレクは走りながら、右手に持った剣を全力で頭領の男に投げつけた。

「んなっ!」
 
 頭領の男が、心から仰天したらしい声を挙げる。
 がきん、と大剣と剣が衝突して火花を散らす。
 頭領の男を傷つける事が目的だったわけではない。ただ、相手の気をそらす事が出来ればそれで良かった。
 思った通り、頭領の男は中途半端な姿勢で投擲された剣を受け止めてしまい、体勢を崩している。
 その脇を、アレクは全速力で走り抜ける。視界の端に、唖然とした頭領の男の顔が見えた。

「いっ――!?」

 そう声を挙げたのは、アレクの向かう先にいた小柄な賊。
 その傍らには、小柄な賊の肩を借りる様にして立っていた、あの痩せ男の姿。
 彼は、先ほどから頭領の男の背に守られるようにして、仲間に介抱されていた。
 アレクの狙いは、最初から彼一人だった。
 空腹と負傷によって賊達の中で最も体力を消耗し、そして武器を持たない人間。

「――おい、そいつを止めろぉッ!」

 背後から、頭領の男の叫び声が聞こえてきた。
 彼の事だ。おそらく、こちらの意図が掴めたのだろう。
 アレクは、腰の鞘からナイフを抜き取る。
 相手は実質一人。得物が少し心許ないが、やるしかない。
 しかし、アレクの心配は杞憂に終わった。
 
「――にゃあッ!」
「うわっ!?」
 
 剣を構えようとした小柄な賊は、横合いから飛び込んできたワーキャットに思い切り蹴り飛ばされた。
 この上ないタイミング。まさか、此処までしてくれるとは。
 アレクは彼女に感謝しながら、痩せ男に向けて突進する。

「チィッ――」

 痩せ男は、未だ血が流れ続けている鼻を左手で押さえながら、懐から小柄なナイフを取りだした。
 まだ、武器を持っていたのか。しかし、今更止まることは不可能だ。
 痩せ男が、アレクの胸へ向けてナイフを突き出してくる。
 アレクはそれを――間一髪、手に持ったナイフで弾き退けることに成功する。

「っ痛ぅ…!」

 弾かれた痩せ男のナイフが、アレクの頬を切り裂いた。
 だが、アレクは怯まない。勢いをそのままに、アレクは痩せ男に体当たりを仕掛けた。
 姿勢が不安定な、左肩からの突撃。しかしそれは、痩せ男を宙に浮かせるのには十分な威力を持っていた。

「ぐぅ――!」

 痩せ男が、アレクに潰されるような形で地面に落下する。
 げほ、と痩せ男が咳き込む。
 アレクはその隙を見逃さず、ナイフを持っている痩せ男の右手を踏み付けて封じる。
 
「っくそ、てめぇ――あが」

 罵声を吐き出そうとした痩せ男の口の中に、アレクはナイフを押し込んだ。
 ほぼ同時にアレクの左膝が男の胸に乗せられ、痩せ男は身を起こす事が出来なくなる。
 口内で止められた刃と痩せ男の歯が、触れ合ってかちかちと音を立てる。痩せ男の顔が、恐怖に凍りつく。
 
 ――捕えた。
 ほっとしそうになる心を、アレクは叱咤する。まだ、終わったわけではない。
 彼女を追って、賊達が近付いてくる音が聞こえる。
 アレクは大きく息を吸い込み、そして叫んだ。

「――動くなぁッ!」




 ――にゃあッ!

 へっぴり腰で剣を構える小柄な傭兵に、吾輩は思いっきり蹴りをくれてやった。

「うわっ!?」

 蹴りは見事に脇腹に入り、傭兵は実に情けない声を挙げてふっとんだ。
 そのまま受け身を取ることなく地面に叩きつけられ、傭兵は無様にのた打ち回る。
 他愛もない。吾輩はふん、と小さく鼻息を漏らして、吾輩を目指して追いかけてくる連中へと向き直る。
 
 別に、あの男が何をしたかったのかわかったわけではない。
 この期に及んで、あの男は一体何をしようというのか――吾輩には、全く見当がつかなかった。
 吾輩はただ、あの男に何か秘策があるようだったから、あの男が動きやすくなるよう行動しただけだった。

 嗚呼――吾輩はどうしてしまったのだろうか。
 たかが人間の為に、自ら危険な選択肢を選んでしまうとは。
 眼を血走らせて背後から追い縋ってくる傭兵達を見て、吾輩は大きく息を吐き出した――その時、

「――動くなぁッ!」

 大音量の怒声が、吾輩を襲った。
 平時と比べてあまりにも違いすぎていたために、一瞬それがあの男の声であるとわからなかった。
 身奮いと共に、吾輩は背後を振り向く。そこには、あの男がひょろ長い傭兵を押し倒し、刃を突き付けている姿があった。
 突き付けられた刃はひょろ長い傭兵の口内まで侵入しており、口を利こうものなら唇が裂けてしまうだろう。

「動かないで、下さい」

 あの男が、もう一度繰り返した。
 その声はどこか凛々しく、そして猛々しい。
 かつて吾輩に喘がされていたあの男の顔と、目の前にあるこの男の顔が、どうしても一致しない。

 刃を突き付けられた仲間を眼に捉え、他の傭兵達も動揺し始める。
 中には怒気を露にする者もいたが、どちらにせよあの男や吾輩に手を出そうとする者は誰もいなかった。
 慌ただしかった街道に、一時の静寂が訪れる。

「――そこまで、だ。てめぇら、剣を下げろ」

 それを破ったのは、この傭兵達をまとめているらしい右頬に古傷を持った大男だった。
 傭兵達の輪の一角が崩れる。猛獣のような殺気を緩めないままに、大男はこちらに近づいてくる。
 吾輩の攻撃が届かない絶妙な間合いで、大男は立ち止まった。
 あの男はひょろ長い傭兵に刃を向けたまま、ちらりと大男の方を見やる。

「成程、まさかそうくるとはな。――さて、状況を整理しよう。
 さっきまでお前は、俺達にお前自身の命というカードを握られていた。
 しかし、今お前は俺達の仲間の命というカードを握っている。
 それで? 一体どうするつもりだ?」

 朗々と語る大男に向けて、あの男はにこりと笑みを浮かべる。
 緊張しているのか、その頬には大粒の汗が滴っていた。
 吾輩はその時になってやっと、この男――アレクが、何をしようとしているのか気づいた。

「取引を、しましょう」

 ゆっくりと、アレクは言う。
 続きを促すように、大男が腕を組む。

「この方の命を、私の荷の代わりに差し出します。
 この方の身柄と、私の積み荷。釣り合わないとは、言わせません」

 毅然とした態度で、アレクは要求を持ちかける。
 消耗しているとはいえ、未だ戦力に差がある傭兵達相手に。

 はっきり言って、無茶である。
 釣り合うか釣り合わないかと言われれば、釣り合わない可能性の方が高い。
 相手は傭兵であり、彼らは常に合理的だ。彼ら一人一人の命が塵芥よりも軽いことを、彼ら自身が一番良く知っている。
 その長たるこの大男が、ひょろ長い傭兵一人を犠牲にして、此処にいる傭兵達全員の利益を損なう選択をするだろうか。

 ――にゃおぅ。

 吾輩は警戒心を緩めないままに、威嚇を込めて一鳴きする。
 それを聞いた大男はちらりとこちらを見て――そして、にやりと笑った。
 まるで旧知の友に笑いかけるような、人の良い笑み。予想外の反応に、吾輩は思わず目を瞬く。

「猫の嬢ちゃん、そう警戒しなさんな。
 もしお前さんが此処で余計な真似をしたら、そこにいる旦那の苦労が水の泡だ」

 大男はそう言って、肩に担いでいた大剣を背中の鞘にしまった。
 それを見た他の傭兵達も、若干不服そうにしながらも剣を納める。

「わかった。その条件を、呑もう」
「た、たいひょ――」
「うるせぇ、お前は黙っとけ。舌切っちまったらどうするつもりだ」

 大男の言葉に、ひょろ長い傭兵は大人しく黙りこむ。
 …吾輩は、まだ信用できない。
 吾輩は、傭兵の残忍さを知っている。これが奴らの罠である可能性も否定できない。
 そんな警戒心を悟られたのか、大男は吾輩の顔を見ながら小さく嘆息する。

「やれやれ、嫌われてるねぇ。まあ、理解してもらえなくても良いさ。
 確かに…仲間を見捨てたことが無いと言えば、嘘になる。
 でも、見捨てたくて見捨ててるわけじゃねぇんだ。助けられるときは、助けるさ」

 まるで子供に優しく説明するように、大男は言う。
 吾輩は、肩透かしを喰ったような気分になる。
 この男も、アレクと同じだ。憎みたいのに、憎めない。

「…ま、そろそろ潮時ってのもあるがな」
 
 言いながら、大男は背後へと視線を外した。
 つられて吾輩も視線をそちらに向けると、何やら橋の方から二人の人間がかけてくるのが見える。
 手には弓。胴には皮の鎧。おそらくは、傭兵達の仲間だろう。

「――何があった?」
「橋の向こうから、誰か来ます。
 おそらく村の男連中だと思いますが…それが、十数人。
 全員徒歩ですが、弓を持っているように見えました」
「狩りに出かけるような雰囲気じゃありません。恐らく、目的は俺達かと」

 見張りをしていたらしい二人の男が、大男にそう伝える。
 その言葉を聞いた傭兵達が、一斉にどよめき始める。
 只一人大男だけが、冷静に腕を組んで状況を分析していた。

「大方、誰かに見られてたってところだろ。村に増援を呼ばれたな。
 長居は無用だ。てめぇら、さっさと引き上げろ。旦那との交渉は、俺がする」

 大男はそう言って、自身が背に括りつけていた大剣を傍らにいた傭兵に押しつけた。
 やりきれない、といった表情で傭兵達は俯く。しかし、それも一瞬の事。
 大男の言葉に、傭兵達は黙って従った。そして、即座に撤退を開始する。

 傭兵達は、何人かに分かれて森の中に散開した。
 そしてその場には、アレクと吾輩、大男とひょろ長い傭兵だけが残される。

「さて、旦那。残るは俺一人だ。
 悪いが、うちの部下を解放して貰えるか?
 見ての通り、俺は丸腰。そいつが余計な真似をしたら、しかるべき行動を取ってもらっても構わない」

 大男は両手を広げて、吾輩らに対し敵意が無い事を示す。
 此処まで譲歩されると、確かに奴らが罠を張っている可能性は低いように思えてくる。
 アレクもそう思ったのか、突き付けていたナイフをひょろ長い傭兵の口から引き抜く。
 両手で持っていたナイフを右手一本に持ち替え、アレクはゆっくりと立ち上がった。

「どうぞ、あちらへ。余計な真似は、しないで下さい」

 アレクが、淡々とした口調でひょろ長い傭兵に語りかける。
 くそ、と小さな罵声が聞こえた気がした。
 気持ちはわからないでもないが、無礼な奴だ。噛みついてやろうか。
 吾輩はそうも思ったが、余計な真似をしてこの場を混乱させるわけにもいかない。 
 ひょろ長い傭兵は立ち上がって、ゆっくりと離れていく。吾輩はそれを、黙って見つめていた――その時、
 
「――ああ、すみません。ちょっと待って下さい」
 
 突然、アレクがひょろ長い傭兵を呼び止めた。
 予想外の事に、吾輩は眼を丸くする。訝しげな表情で、ひょろ長い傭兵はアレクへと振り返る。
 アレクはと言えば、いつの間にか自らの荷馬車の方へ移動しており、その中から二本の瓶を取り出していた。
 
「忘れ物です」

 少しばかり緊張に強張った、そして若干申し訳なさそうな弱々しい笑みを浮かべて、
 アレクはそれらの瓶を、ひょろ長い傭兵に差し出した。
 吾輩の視線の先で、大男がぴくりと眉を挙げる。
 そのやや前方で、ひょろ長い傭兵が剣呑な視線をアレクへと向けた。

「…何のつもりだ。施しのつもりか?」
「いえ、違います。この果実酒と、私の命を交換して下さい」
「あぁ?」

 意味がわからない、といった風に声を荒げるひょろ長い傭兵。
 同じく吾輩も、アレクの言っている意味が全く分からなかった。
 顎に手を添えながら、大男がふむと考え込むような姿勢になる。

「旦那、それはどういう意味だ? 対価は、既に足りているような気がするんだが」
「いえ、まだ取引は終わっていません。
 私が提案したのは、彼の命と――彼女の命の、交換です。
 私の命は、その勘定に入っていません」
「…は?」 

 そんな間の抜けた声を挙げたのは、ひょろ長い傭兵。
 恐らく吾輩も、この傭兵と同じような顔をしていただろう。
 一体この男は、突然何を言い出すのか。
 只一人、大男だけがアレクの言葉を理解したかのような反応を見せる。
 にやり、と右頬の古傷が歪む。

「へぇ…つまり、あれか。
 そこの嬢ちゃんの命は俺の部下と同等の価値があるが、お前さんの命は果実酒二本分の価値しかねぇ、と」
「あなたが彼の事を大切に思っているように、私も彼女の事が大切ですから。
 私の命も、この状況を考えれば妥当なところでしょう。
 追手が迫る中あの馬車をまるごと持っていくのは不可能ですし、それくらいは値引かせて頂きます」

 そう言って、アレクは吾輩の顔へと向ける。
 穏やかな、優しい笑み。
 吾輩はどんな顔をしていいか分からず、結局そっぽを向いてしまった。
 あんな言葉をあんな顔で言われて、どんな反応をしろというのか。もやもやしたわだかまりが、胸中に溜まっていく。

「それに、私が今できることと言ったら、果実酒を造ることくらいですから。
 私の価値としては、分相応なところではないでしょうか?」

 アレクは満足そうに自らが造ったという果物酒を眺め、そして傭兵たちへ向けて、にこりと笑いかける。 
 吾輩は、呆れてモノが言えない。
 しかし、吾輩はそこらの猫とは違う。誇り高く知的なワーキャットである。
 なぜ、アレクがこのような提案をしたのか――その理由くらいは、わかっていた。

 アレクが果実酒を差し出したのは、後難の恐れを断ち切るため。
 このまま傭兵達と物別れしてしまうと、今後また襲われる可能性がある。
 だからアレクは、自身を殺そうとした相手に対し、相手に不快感を持たせないような適当な理由を付けて果物酒を差し出した。
 吾輩は、その度胸と寛容さに感服する。
 ちらりと脇を見やれば、何とも形容し難い表情をしたひょろ長い男と、ひどく楽しそうな表情をした大男の姿。
 
「ははっ…こりゃ、驚いた。まさか、自分の命を安く買い叩く奴がいるとは思わなかった」

 がはは、と大男は豪快に笑い、何を思ったのかアレクの荷馬車へ近づいていく。
 そして乱暴に荷物を漁り、二本の果物酒を取り出した。

「さすがに、二本は安すぎるだろ。お前さんの価値が、それだけに留まるはずはない。
 それに、これくらいは貰えねぇとうちの奴らが納得しねぇ」
「結構ですよ。もし良ければ、持てるだけ持っていって下さい」
「いや、これで良い。――交渉、成立だ」

 大男が、そう宣言する。それと同時に、蹄の音が聞こえてきた。
 吾輩が反応する間もなく、我輩達と傭兵達の間に三頭の馬が滑り込んできた。
 そのうち一頭の馬の背には、つい先ほど吾輩が蹴り飛ばした、小柄な傭兵が乗っている。

「隊長! 急いで下さい、もう奴らが見えてきました!」
「そう慌てんなって。おい、ロブ。旦那から酒を貰うのを忘れんなよ」
「…はぁ。わかりやしたよ」

 ロブと呼ばれたひょろ長い傭兵は、ひったくるように二本の瓶を受け取った。
 そして、どこがバツが悪そうな顔でアレクを睨みつける。

「俺は、謝らねぇぞ」
「かまいませんよ。これで、チャラにして頂けるなら」

 け、と忌々しげに毒づいて、ひょろ長い傭兵は踵を返す。
 ひらり、と手馴れた様子で馬に跨り、小柄な傭兵を伴って即座に駆けて行ってしまった。
 最後まで、無礼な奴だ。我輩は胸中で呟く。

「なあ、旦那。名前は、なんてんだ?」

 声のした方に視線を巡らすと、大男は既に馬に跨っていた。
 右手で馬の手綱を引き、二本の果実酒は腰に下げられている。  
 こうして馬に跨っている姿を見ると、群れをまとめる者特有の威圧感がひしひしと感じられる。

「アレク、と言います」
「アレク…か。良い名だ。
 俺はジークだ。今は…そうだな、ジーク傭兵団の団長って事になってる」

 耳をすますと、橋の方角から騒々しい音がだんだんと近づいてくるの感じる。
 大勢の足音。そして何か木製の固いモノ――おそらく、武器が触れ合う音。
 
「見ての通り、傭兵だ。金さえ貰えれば、汚いことだろうが何でもやる。
 もし荒事に巻き込まれたら、遠慮なく言ってくれよ。安くしとくぜ、旦那」
「こんな事は、もう二度と御免ですが…一応、考えておきます」

 アレクは、曖昧な笑みを浮かべて答える。
 にかり、とジークと名乗った大男は笑う。
 先程までは剣を手に殺し合っていたというのに、この仲の良さは一体どういう事なのか。
 全くもって人間とは…いや、男とは、よく分からないモノだ。

「私が言うのも何ですが…あなた方が困難を乗り越えることができるよう、神に祈っています」
「神、か…残念だが、俺達はとうの昔に天に見放されているだろうさ。
 お導きがあるかどうかもわかんねぇ。他の連中よろしく、神の御加護を、なんて言えねぇんだ。
 だから俺は、別れ際の相手にはこう言う事にしてる」

 大男が、手綱を引く。
 馬は嘶き声を上げて、大きく前足を振り上げる。

「――戦女神(ヴァルキュリア)の加護が、ありますように」

 だん、と勢い良く大男を乗せた馬は地面に両前脚を叩きつけ、そしてものすごい勢いで走り始めた。
 あっという間に、大男の姿は視界から消えて失せる。
 吾輩は、呆然と大男の後ろ姿を見送っていた。なんというか…最後まで、芝居がかった男だった。
 アレクはといえば、緊張の糸が切れたのか、突然へたりとその場に座り込んでしまっていた。
 全く、情けない。折角、この戦力差で傭兵共を追い返したと言うのに。
 はぁー、と長く深々とした息を吐き出し、アレクは徐に吾輩の方へと振り向いた。

「何とか、なったね。
 ありがと、助かったよ」

 屈託のない笑み。吾輩は、この笑顔が苦手だ。
 吾輩はふい、と顔を背ける。あの笑顔を見ていると…何だか、顔が火照ってくる。
 
「怪我はない? そういえば、前足を怪我して――」

 ――!?

 唐突に、アレクが手を伸ばす。吾輩は、咄嗟に飛び退いてしまった。

「あ…」

 声のトーンが、あからさまに下がる。
 …違う。今のは、触れられるのが嫌だったわけでは、ない。
 本能的に、避けてしまった。やはり、吾輩はまだ…人間が嫌いらしい。

「…ごめん」

 俯きながら、アレクは謝罪する。
 ちらりと様子を伺うと、その頬から血が流れているのが見えた。
 確か、ひょろ長い傭兵を押さえ込んだ拍子に付けられた傷。
 視線を下にずらすと、右腕にも切り傷があった。これは、縄を解いた時に切ってしまったものだろうか。

 ――………。

 吾輩は、ゆっくりとアレクに近づいていく。
 注意力が散漫になっていたのか、アレクは俯いたまま吾輩に全く気づく様子がない。
 少しだけ、躊躇う。しかし、吾輩は決心する。

「――わっ!?」

 ぺろり、と吾輩はアレクの頬を一舐めする。びくり、とアレクが大袈裟に体を震わせる。
 鉄の味が、吾輩の口内に広がる。ついで、吾輩はアレクの腕の切り傷にも一度だけ舌を這わせる。
 これで、借りは返した。そういうことに、しておく。
 呆然と固まっていたアレクの顔が、ゆっくりと暖かい表情に溶けていく。

「…ありがと」
 
 ひどく、耳がむず痒い。意図せず、ぴくぴくと耳が動いてしまった。
 それを見たアレクは、くすりと笑みを零す。
 むっとした吾輩は、腹いせにもう一度頬を舐めてやることにした。

「痛っ!」

 先程は自重したが、今度はザラザラした舌の表面を尖らせたまま舐めてやった。
 まるで引っ掛かれたような感触を味わったことだろう。…もちろん、傷は避けたが。
 しかしアレクは舐められた場所を摩りながら、なお笑みを浮かべる。
 
「――旦那ぁ!」

 ぴくん、と吾輩は耳を振り上げる。
 いつの間にか、慌ただしい足音がすぐ近くまで近づいてきていた。
 はっとして、吾輩は橋の方角を見やる。幾人もの男達が、こちらへと走ってくる。
 弓を背に背負った、村の狩人達。先頭に立つのは――背が低く、前歯が飛び出た鼠のような男。
 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。

「…マルク」

 アレクが、ほっとしたような声をあげる。
 しかし、吾輩は全く逆の心境だった。
 忘れるはずが無い。
 あの男、いやあの男達は、村で吾輩を捕まえ、納屋に押し込め、挙句髭面の使いに吾輩を売り払おうとした人間達だった。

「だ…旦那、大丈夫、でしたか? どこか、怪我は――」

 息を切らせながら男達が近づいてきて――そして、吾輩を眼に捉えるなり、ぎょっとする。
 まずい。吾輩が立ち上がるのと、鼠のような男が叫ぶのは同時だった。

「ワ…ワーキャット!?」

 ガチャガチャと、村の狩人達が吾輩に向けて弓を構え始める。
 アレクがやっと状況に気づき、慌てて立ち上がろうとするのが見えた。

「待、待って下さい! 彼女は――」

 聞こえたのは、そこまでだった。
 吾輩の体は、吾輩の意思に関係なくその場から飛び出していた。
 視界の端に、憎悪に染まった村人達の眼と、必死な顔で吾輩を庇うアレクの眼が見えて、

 ――にぃ。

 胸が締め付けられるような気持ちを感じながらも、吾輩は逃げ出した。
 吾輩を呼びとめる声が、背後から聞こえた――そんな、気がした。


11/05/29 15:39更新 / SMan
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■作者メッセージ
なんか本能のままに書いていたらえらい事に。
ふと振り返ると、プロット段階と比べ文量が非常に多い…あるぇー?
しかも若干二名が空気すぎる。でも大丈夫! 次回ちゃんと見せ場があります故。

まあ、書きたいモノ(=芝居がかったオッサン)が書けたから良しとしましょう。
…さて、そろそろ甘いのを考え始めますか。
もうちょっとだけ続くんじゃよ。

それでは。

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