とある猫の気ままな放浪。そのいち。
自分は今、夢を見ている。
唐突に気づいた。しかし、今更どうしようもないことだった。
何度も夢に見すぎて、妙な諦観が生まれてきている。それは、忘れたくても忘れられない光景。
内容はいつも同じ。その日の役目が終わり、自室に戻る。やっと一人になれた事を喜びながら、ベッドに近づいていく。
――駄目だ。そこに、寝てはいけない。
分かっていても、どうにもならない。
これは既に起きてしまったことであり、ただ過去の出来事が反芻されているだけ。
疲れ果てた自分は、ベッドの上に倒れこむ。柔らかい羽毛製の布団に体を沈めながら、瞼を閉じる。
そして、気がつくと――
かちゃり、と耳元で音が鳴る。全身が、総毛立つ。
全て、いつも通り。この後にあの足音が、そしてあの女の罅割れたような笑みがやってくる。
早く覚めてくれ――そう願うも、その願いがかなったことは一度もない。
律儀で恨めしい自分の身体は、この映像を再生し終わるまで目覚めてくれない。
コツン、と足音が扉の前で止まる。ぎぃ、と扉が軋む音。
そして視界の端に、あの見るもおぞましい顔が映りそうになった――その時、
ぺちゃり、と奇妙な感触を顔に感じた。
「ぇ」
予想外の事に、喉から声が漏れる。途端に視界が暗転し――
はっとして目を見開くと、そこには透き通った彼女の顔があった。
唐突に覚醒したアレクの顔を見て、彼女は首を傾げる。
「あれ、く?」
「…あ、れ?」
マヌケな声をあげながら、アレクはきょろきょろと辺りを見やる。
山小屋の、壊れそうなベッドの上。布で仕切られた窓から、薄く曙光が漏れてきている。
顔に、冷たく柔らかい感触。彼女の――メディの手が、顔に張り付いていた。
顔を撫でられ、強張っていた心が落ち着いていくのを感じる。
「うな、されてた。だい、じょぶ?」
メディが、心配そうな表情でこちらを覗き込んできた。
どうやら、彼女に助けられたらしい。
「…ありがと、メディ」
手を伸ばし、彼女の頭を撫でる。
名前を付けたのは昨日の今日のことなのだが、彼女はしっかりと自らの名前を認識しているようだ。
にこり、と彼女は笑う。
「どう、いたし、まして」
ぎこちないが、はっきりとした言葉が帰ってくる。
彼女は魔物で、しかもスライム。正直、最初はどうなるかと思った。
しかし、彼女とのコミュニケーションは思いの外良好。彼女と会って、アレクは自分が持っていた魔物に対する知識が間違っていたことを知った。
…いや、全てが間違っていたわけではないが。人を食べる、と言う点に関しては。少し、アレな意味で。
「ごほう、び」
「…え」
「ごほうび、ちょうだい?」
言いながら、メディはするすると後退して、アレクの下半身に顔を近づける。
アレクの両足にスライム状の体を絡めながら、優しく局部を撫で始める。
ぎくり、とアレクの心が音をたてる。
「え、えーっと…夜じゃ、駄目?」
「きのうの、よる。もらえ、なかった」
「そ、それは…その。疲れてたから…」
言い訳を述べるアレクに対し、メディは納得する様子を見せない。
不満そうに頬を膨らました後、かくなる上は、とばかりに必殺技を放つ。
「…だめ?」
その顔は、やめて欲しい。本当に、自分が悪いことをしている気になってくる。
「…わかった。でも、一回だけだよ」
「やた!」
嬉々として、アレクの服を剥くメディ。…甘やかしすぎ、だろうか?
じわじわと刺激されていた彼の分身は、衣類から開放された時には既に準備完了状態だった。
「〜♪」
メディは、歓喜の表情のまま口を大きく開く。そして、
「ぁむ」
「っ!」
それを、一気に根元まで口の中へ押し込んでしまった。
甘美な刺激がアレクの背筋を駆け抜ける。
「…ぅ、く」
相変わらず、彼女の動きは誰に教わるでもなく巧い。
しっかりと咥え込まれたまま幹を唇で梳かれ、先っぽの方にはぬるぬるとした舌を絡められる。
ぐるぐると回転するような動きで亀頭を責めていた舌が、だんだんと半径を狭めて尿道口にたどり着く。
敏感なその場所をノックされ、アレクは危うく達しそうになる。
早過ぎるのも情けない。何とも安いプライドが、精液が駆け上がるのを押し止める。
「ちゅぅ」
「あくっ!」
それならばと、メディは上下の動きを止め、吸い付くような刺激に変えてきた。
舌を裏筋にぴったりとくっつけ、小さく動かしながら肉棒を吸引する。
魔物とはいえ、幼い少女に肉棒を吸われるというこの状況。アレクは背信的な気持ちに襲われたが、それが更なる快感に繋がった。
メディの目が、アレクの方を見る。もう限界が来ていることを、悟られる。
「…ちゅぅっ」
一際強く、メディがアレクの肉棒を吸い立てる。同時に舌が勢い良く裏筋を舐め上げ、尿道口まで刺激する。
「く――あぁっ!」
我慢できる訳がなかった。勢い良く、白濁した液体が吐き出される。
「ん♪」
それを、メディは待ってましたと言わんばかりに吸収する。
彼女の体は透けているので、精液が彼女の体に吸い取られていくのがよく見える。
見方によっては、自分は今食べられていると言っても過言ではない。しかし、アレクの心に嫌悪はない。
彼女は、ただ食事のためにこの行為をしているわけではない。それが、何となく分かる。
「ちゅー」
「――っ…」
尿道に残っていた精液まで残さず吸い出され、アレクは甘い吐息を漏らす。
柔らかくなったそれをもごもごと舌で転がし、何も残っていないことを確認してから、メディはやっとアレクの分身を解放した。
最後にアレクの体に手を滑らせ、肌に浮かぶ汗を吸収する。冷たい感触が気持ち良い。
するすると、また彼女の顔が近づいてくる。そして、にこりと笑う。
「ごちそう、さま」
「どういたしまして」
アレクは彼女の頭に手をやる。そうすると、彼女が喜ぶと知っているから。
メディは満面の笑みを浮かべる。そして、アレクの首に腕を絡める。
――…仲良いな、お前ら。
ヤンの言葉が、脳裏に浮かぶ。確かに、そんな風にいわれても仕方ないかもしれない。
スライムの彼女に体温はない。しかし、アレクは心が暖まるのを感じた。
●
――ふにゃあ。
吾輩は、ふと大きな欠伸をしてしまった。
我ながら、なんともマヌケな声だ。しかし仕方あるまい。こんなにも良い天気なのだから。
正直、非常に眠い。しかし、此処で眠ることはできない。
――…にゃ。
出掛かった鳴き声を、無理やり喉に押し戻す。
また、誰か来た。今度は二人。
睡魔に襲われながらも、何とか気配を消すことに専念する。
もし見つかってしまったら、また納屋かどこかに閉じ込められてしまう。それだけは勘弁願いたい。
――…ふにゃあ。
この村に来て、はや幾日。そろそろ潮時かもしれない。
不覚にも昨日目撃されてから、村人達は吾輩を捕まえようと躍起になっている。
しかし、村の出口には常に誰かがおり、逃げるのはそう容易ではない。はてさて、どうするべきかと、吾輩は思考を巡らせてみる。
その時、吾輩は見つけた。
――!
いつの間にか、視界の先に馬車がある。
どうやら、先ほどの二人のうちどちらかが此処まで来るのに使ったらしい。
――にゃん♪
にやり、と吾輩は笑う。これを使わない手はない。
辺りに誰もいない事を確認すると、吾輩は素早く馬車に駆け寄って、荷台に身体を滑り込ませた。
馬に気づかれる事もなく、あっさりと荷物を覆う布の下にまぎれることに成功する。
――にゃあ…。
残念ながら、荷物の中に肉類はなかった。しかし、贅沢は言うまい。
後は此処で待っていれば、この馬車の持ち主が吾輩を村の外へ連れ出してくれるだろう。
安心したせいか、だんだんと瞼が重くなってくるのを感じる。まあしかし、此処なら問題あるまい。
そして、吾輩は今度こそ睡魔に身を委ねることにした。
●
「毎度ありぃ、と。いや、いつもありがとうございます旦那」
不揃いな歯を見せながら、男は御者台に座るアレクに向けて笑いかける。
身長が低く、まるで鼠のような印象。細く垂れた眼つきは、どことなく何か裏があるようにも感じられる。
しかしアレクは気にせず、自然な笑みをその男――マルクに返す。
「いえ、こちらこそ。いつも新鮮な野菜をありがとうございます。エールまで頂いてしまって」
「いやいや。これでもまだ釣り合わないくらいですよ。あの薬草はそれほどのモノです。
また見つけたら、どうぞ私にお申し付けを」
「ええ、必ず。それでは」
ぴしり、と軽く馬に鞭を入れる。ゆっくりと、荷物を満載した荷馬車が走り始める。
手を振るマルクに片手を挙げて答え、アレクは村の門を潜る。
「………」
そのまま、無言で道を進む。
しばらくなだらかな坂が続き、やがて下りに入り始めた辺りで振り返る。
村は見えなくなっている。そこで、緊張の糸が切れた。
「――ふぅ」
深々と、息を吐き出す。途端に、何やら不安な気持ちが押し寄せてくる。
上手に、話せただろうか? 本当に、あれで良かっただろうか?
まともに人と会話をしたことが無かったアレクにとっては、たったあれだけのやり取りでも結構な負担だった。
しかし、慣れなければならない。何とか心機を一転させようと手綱を握りこんだ――その時、
「なーにこの程度で緊張してんだ」
「うわぁ!?」
背後から、突然話しかけられた。
思わず手綱を思いっきり引いてしまい、甲高い嘶き声と共に馬の前足が跳ね上げられる。
「っと!」
道の脇から茶色い影が飛び出してきて、手綱を奪われる。
アレクが目を白黒させているうちに、突然現れた人物――ヤンは、馬を宥めることに成功していた。
ふぅ、とヤンが額の汗をぬぐう。
「あぶねぇな。気ぃつけろ」
「…僕としては、突然声をかけてきたヤンに問題があったと思うんだけど」
半眼で睨みながら、はっきりと主張しておく。
自分は引っ込み思案なほうだと思うのだが、ヤンにはなぜかずけずけとモノを言えるから不思議だ。
ヤンの見た目は、それこそ眼光や服装も含め野盗同然だというのに。
「あの程度で驚くお前が悪い。つか、気づいてなかったのか」
「…え。どこにいたの? 全然気づかなかったんだけど」
「お前が村に入った辺りからずっと後ろから尾行してた」
「気づくわけないでしょ!」
初めて会った時もそうだったが、ヤンが気配を隠すとどこにいるか本当にわからない。
暗殺者でもしていたんじゃないか、と思うほどだ。
「もっと早く声を書けたらよかったのに…」
「目的が他にあったからな。早く話しかけても意味なかった」
「は?」
アレクは首を傾げる。そして、暫し考える。
答えは、意外と早く出た。
「もしかして、今買ってきた食糧が目当て?」
「あったりー。さらにいうなら、酒。葡萄酒とか持ってねぇ?」
体の良いタカリだった。アレクは深々と嘆息する。
「確かに、サービスでエールを貰ったよ。僕は飲まないから、あげても良い」
「マジで? さすがアレク。太っ腹ー」
「でも、帰ってからね。飲みながら歩くとかは無しで」
ヤンは不満そうな表情。しかし、アレクもそれは譲らない。
個人的なこだわりだが、歩きながらモノを食べたり飲んだりのは良くないことだと思っている。
「…わーったよ。じゃ、さっさと行こうぜ。俺はこのままで良いから」
そう言って、ヤンはすたすたと歩き始める。
確かにこの馬車は小さく、もう一人が乗れる余裕はない。
仕方が無いので、アレクはヤンの歩く速度に合わせて馬を進ませることにした。
「しかし、お前人と話すの苦手すぎだろ。後ろで見ててひやひやしたぞ」
「うん。自覚してる…そんなに、緊張してるように見えた?」
「まあな。忠告しとくが、お前はアイツ以外と取り引きしたりすんじゃねぇぞ。ぜってぇ騙される」
ヒドイ言われようだ。しかし、実際にそうなりそうだから本当に怖い。
アレクは黙って首を縦に振っておく。
「そういえば、あの人はなんで良いの? ヤンの紹介だって言ったら、なんか凄いオマケしてくれたんだけど」
「ああ、アイツは俺に借りがあるんだよ。森ん中で迷ってるところを助けてやった」
「森の中って…」
「おまえんちのすぐそばの森。川の向こう側だな」
彼女と――メディと会った、あの森。
アレクはまだ奥に入った事が無いが、ヤン曰く化け物の巣窟であるとのこと。
「なんでそんな危ないところで迷ってたの?」
「目的は、お前がさっき売ったアレだ。それほど高く売れるんだよ」
「へぇ…」
高いモノだとは知っていた。が、命をかけるまでのモノではないように思える。
そんなにお金とは大切なものなのか。アレクには、理解できなかった。
「ま、アイツはがめついが根は良い奴だ。村でもそこそこ一目置かれてるし、付き合っといて損はねぇ」
「うん。確かにね」
がめついというが、あの程度ならまだまだ可愛いものだとアレクは思う。
かつて自分の周りにいた人間は、アレどころではなかった。
「一応もう一度言っとくが、お前もあの森には入るんじゃねぇぞ。命がいくつあっても足りねぇからな」
「大丈夫。僕は行くつもりないよ。薬草はメディが取りに言ってくれるし」
「…メディ?」
ヤンが首を傾げる。
そういえば、この話はまだした事が無かったかもしれない。
「ああ…もしかして、あのスライムの事か?」
「う、うん。名前が無いのはわかりにくいから…」
「ふぅん」
気のない相槌。…それだけ、なのだろうか。
ヤンは、彼女の事を何も聞かない。相手は魔物だというのに、これといって怖がったりする様子もない。
何か、他に言う事はないのだろうか。
「お前が決めたんだろ」
「ぇ」
「アイツ、家に置くことにしたんだろ。なら、名前つけるのは当然じゃね?」
当然のことのように、ヤンは言う。
今度こそ、アレクは訝しげな顔をしてしまった。
普通、知人が魔物と連んでいたら嫌な顔をしそうなものだが。
「…ヤンってさ。魔物が怖くないの?」
「さぁ。モノによるんじゃねぇ? 少なくとも、スライムは別に怖かねぇな。基本的に害はないし」
「そう…なんだ」
価値観の違いを感じる。
アレクが持っている魔物に対する印象と、ヤンのそれは全く違うように感じられる。
「お前よ。コッチ側の人間だろ」
「え? …どういう意味?」
「あの化け物の森より、コッチ側の人間ってこと」
アレクは首肯する。やっぱりな、とヤンは得心がいった表情になる。
「コッチ側の国は、反魔物派だからな。魔物は悪って教育されてる。お前もそうなんだろ?」
「そう、だけど…え、それじゃ森の向こうは違うの?」
「魔物が無害とまでは言わないが、そんなに過剰じゃねぇな。
少なくとも、向こうじゃ『スライムは人を食べる』なんて嘘をガキに教えたりしねぇ」
やっぱり、嘘だったのか。アレクは、改めて自身の無知さを理解する。
同時に、自国の体制に疑問を覚える。どうして、この国はそんな教育をしているのか。
「さぁな。お偉い様方の崇高な考えは、俺にはワカンネ。その方が、色々と都合が良いんだろ」
「そう…なの、かな」
「深く考えるなって。どうせ考えても何ができるわけでも――…っと」
ヤンが視界の端で、軽く身構える。
何事かとアレクが顔を挙げると、道の向こうから誰かやってくるのが見えた。
青く透き通った軟体質の身体。弾けるような笑顔が、こちらへと近づいてくる。
「あれく!」
アレクが御者台から降りるのと、メディが飛びついてくるのは同時だった。
メディがそうするのは読めていた。アレクは難なくメディの体を受け止める。
「おか、えり」
「ただいま、メディ」
アレクがメディの頭を撫でると、メディは気持ち良さそうな顔をする。
ちらりとヤンの方を見ると、ヤンは感心するような表情でこちらを見ている。
「随分と懐かれたもんだな。スライムとはいえ、こうも人に懐くのは珍しいと思うんだが」
「そう、なのかな? 確かに、どうして此処まで僕を慕ってくれるのかはわからないんだけど」
「ふぅん」
ヤンが一歩近づくと、メディは初めてヤンの存在に気付いたかのようにハッとする。
そして、アレクの後ろに隠れるように移動。明らかに、警戒している様子。
「…なんか、納得いかねぇ」
「顔が怖いんじゃないかな」
渋面になるヤン。チ、と小さく舌打ちして、イジけるようにそっぽを向く。
アレクは、思わず笑みを漏らしてしまった。やはり、ヤンは見た目ほど悪い人間ではない。
と、そこで、突然体が下に引っ張られる。
「ん?」
下を見ると、メディが服の端を掴みながらこちらを見ている。
「あれ、なに?」
小さな指が差す先にあるのは、アレクが載っていた小型の馬車。
つい先日、生活必需品の運搬用にマルクから譲り受けたモノだ。屋根も無く、馬も年寄りだが、まだ使えないことはない。
御者台の後ろのスペースは白い布で覆われており、その下には先程買った食料諸々がある。
「えっと…」
最初は、馬車そのものを知らないのかと思った。
しかし、メディの指はどちらかというと積荷の方を向いているように見える。
「あれは、今日買ってきた食物だよ」
「たべもの?」
「そう…あ、メディじゃなくて、僕が食べるモノ。パンとか、果物とか」
メディでもわかるように、なるべくわかりやすく説明する。
しかし、メディは何やら不満そうな表情をしている。
説明するものを間違えたかと、アレクはもう一度メディの指差す方角を見直して、
「え?」
視界の先で、何かが動いた。一瞬だけでよく分からなかったが、積荷を覆う白い布が不自然な動きをしたように見えた。
今日は、鶏等の動物は仕入れていない。見間違えかと思ったが、それはもう一度もぞりと動いた。
ヤンがこちらの様子に気づき、同じく視線を辿る。
「ちがう。たべもの、じゃない」
メディの拙い言葉が聞こえるのと、布が大きく揺れ動くのは同時だった。
突然の事態に、アレクは硬直する。しかし、ヤンはあまり動揺した様子はない。
無言で、荷馬車に近づいていく。アレクはぎょっとした。
「ちょ、ちょっと…」
「どうせ、村で猫か何か紛れ込んだんだろ。さっさと追っ払っちまえば良い」
そう言って、ヤンは無造作に布を取り去る。中にあるものが、一同の眼前に晒される。
「ぇ――」
そんな、掠れるような声を出したのはアレクで、
「あぁ?」
そんな、ガラの悪い驚きの声を上げたのはヤンだった。そして、
「………」
アレクの傍らで、無言で目を険しくするメディ。
三者三様の視線の先に姿を表したのは、
「…にゃあ?」
確かに、猫だった。頭についた耳と、長い尻尾は猫のそれ。
しかし、耳の下にある顔は、明らかに人間の少女のそれだった。
「…ワーキャット?」
心底意外そうなヤンの声が、辺りに響きわたる。
しかしアレクは、その言葉を聞いていなかった。アレクの視線は、ワーキャットと呼ばれた彼女の首に注がれている。
ちゃり、と音が鳴る。ぞわり、とアレクの心がざわめく。
「にゃあ」
何事もなかったかのように彼女は一声鳴いて、組んだ腕の中に顔を埋める。
彼女の首に繋がれたひどく重々しい鉄製の首輪が、もう一度ちゃりと音を立てた。
唐突に気づいた。しかし、今更どうしようもないことだった。
何度も夢に見すぎて、妙な諦観が生まれてきている。それは、忘れたくても忘れられない光景。
内容はいつも同じ。その日の役目が終わり、自室に戻る。やっと一人になれた事を喜びながら、ベッドに近づいていく。
――駄目だ。そこに、寝てはいけない。
分かっていても、どうにもならない。
これは既に起きてしまったことであり、ただ過去の出来事が反芻されているだけ。
疲れ果てた自分は、ベッドの上に倒れこむ。柔らかい羽毛製の布団に体を沈めながら、瞼を閉じる。
そして、気がつくと――
かちゃり、と耳元で音が鳴る。全身が、総毛立つ。
全て、いつも通り。この後にあの足音が、そしてあの女の罅割れたような笑みがやってくる。
早く覚めてくれ――そう願うも、その願いがかなったことは一度もない。
律儀で恨めしい自分の身体は、この映像を再生し終わるまで目覚めてくれない。
コツン、と足音が扉の前で止まる。ぎぃ、と扉が軋む音。
そして視界の端に、あの見るもおぞましい顔が映りそうになった――その時、
ぺちゃり、と奇妙な感触を顔に感じた。
「ぇ」
予想外の事に、喉から声が漏れる。途端に視界が暗転し――
はっとして目を見開くと、そこには透き通った彼女の顔があった。
唐突に覚醒したアレクの顔を見て、彼女は首を傾げる。
「あれ、く?」
「…あ、れ?」
マヌケな声をあげながら、アレクはきょろきょろと辺りを見やる。
山小屋の、壊れそうなベッドの上。布で仕切られた窓から、薄く曙光が漏れてきている。
顔に、冷たく柔らかい感触。彼女の――メディの手が、顔に張り付いていた。
顔を撫でられ、強張っていた心が落ち着いていくのを感じる。
「うな、されてた。だい、じょぶ?」
メディが、心配そうな表情でこちらを覗き込んできた。
どうやら、彼女に助けられたらしい。
「…ありがと、メディ」
手を伸ばし、彼女の頭を撫でる。
名前を付けたのは昨日の今日のことなのだが、彼女はしっかりと自らの名前を認識しているようだ。
にこり、と彼女は笑う。
「どう、いたし、まして」
ぎこちないが、はっきりとした言葉が帰ってくる。
彼女は魔物で、しかもスライム。正直、最初はどうなるかと思った。
しかし、彼女とのコミュニケーションは思いの外良好。彼女と会って、アレクは自分が持っていた魔物に対する知識が間違っていたことを知った。
…いや、全てが間違っていたわけではないが。人を食べる、と言う点に関しては。少し、アレな意味で。
「ごほう、び」
「…え」
「ごほうび、ちょうだい?」
言いながら、メディはするすると後退して、アレクの下半身に顔を近づける。
アレクの両足にスライム状の体を絡めながら、優しく局部を撫で始める。
ぎくり、とアレクの心が音をたてる。
「え、えーっと…夜じゃ、駄目?」
「きのうの、よる。もらえ、なかった」
「そ、それは…その。疲れてたから…」
言い訳を述べるアレクに対し、メディは納得する様子を見せない。
不満そうに頬を膨らました後、かくなる上は、とばかりに必殺技を放つ。
「…だめ?」
その顔は、やめて欲しい。本当に、自分が悪いことをしている気になってくる。
「…わかった。でも、一回だけだよ」
「やた!」
嬉々として、アレクの服を剥くメディ。…甘やかしすぎ、だろうか?
じわじわと刺激されていた彼の分身は、衣類から開放された時には既に準備完了状態だった。
「〜♪」
メディは、歓喜の表情のまま口を大きく開く。そして、
「ぁむ」
「っ!」
それを、一気に根元まで口の中へ押し込んでしまった。
甘美な刺激がアレクの背筋を駆け抜ける。
「…ぅ、く」
相変わらず、彼女の動きは誰に教わるでもなく巧い。
しっかりと咥え込まれたまま幹を唇で梳かれ、先っぽの方にはぬるぬるとした舌を絡められる。
ぐるぐると回転するような動きで亀頭を責めていた舌が、だんだんと半径を狭めて尿道口にたどり着く。
敏感なその場所をノックされ、アレクは危うく達しそうになる。
早過ぎるのも情けない。何とも安いプライドが、精液が駆け上がるのを押し止める。
「ちゅぅ」
「あくっ!」
それならばと、メディは上下の動きを止め、吸い付くような刺激に変えてきた。
舌を裏筋にぴったりとくっつけ、小さく動かしながら肉棒を吸引する。
魔物とはいえ、幼い少女に肉棒を吸われるというこの状況。アレクは背信的な気持ちに襲われたが、それが更なる快感に繋がった。
メディの目が、アレクの方を見る。もう限界が来ていることを、悟られる。
「…ちゅぅっ」
一際強く、メディがアレクの肉棒を吸い立てる。同時に舌が勢い良く裏筋を舐め上げ、尿道口まで刺激する。
「く――あぁっ!」
我慢できる訳がなかった。勢い良く、白濁した液体が吐き出される。
「ん♪」
それを、メディは待ってましたと言わんばかりに吸収する。
彼女の体は透けているので、精液が彼女の体に吸い取られていくのがよく見える。
見方によっては、自分は今食べられていると言っても過言ではない。しかし、アレクの心に嫌悪はない。
彼女は、ただ食事のためにこの行為をしているわけではない。それが、何となく分かる。
「ちゅー」
「――っ…」
尿道に残っていた精液まで残さず吸い出され、アレクは甘い吐息を漏らす。
柔らかくなったそれをもごもごと舌で転がし、何も残っていないことを確認してから、メディはやっとアレクの分身を解放した。
最後にアレクの体に手を滑らせ、肌に浮かぶ汗を吸収する。冷たい感触が気持ち良い。
するすると、また彼女の顔が近づいてくる。そして、にこりと笑う。
「ごちそう、さま」
「どういたしまして」
アレクは彼女の頭に手をやる。そうすると、彼女が喜ぶと知っているから。
メディは満面の笑みを浮かべる。そして、アレクの首に腕を絡める。
――…仲良いな、お前ら。
ヤンの言葉が、脳裏に浮かぶ。確かに、そんな風にいわれても仕方ないかもしれない。
スライムの彼女に体温はない。しかし、アレクは心が暖まるのを感じた。
●
――ふにゃあ。
吾輩は、ふと大きな欠伸をしてしまった。
我ながら、なんともマヌケな声だ。しかし仕方あるまい。こんなにも良い天気なのだから。
正直、非常に眠い。しかし、此処で眠ることはできない。
――…にゃ。
出掛かった鳴き声を、無理やり喉に押し戻す。
また、誰か来た。今度は二人。
睡魔に襲われながらも、何とか気配を消すことに専念する。
もし見つかってしまったら、また納屋かどこかに閉じ込められてしまう。それだけは勘弁願いたい。
――…ふにゃあ。
この村に来て、はや幾日。そろそろ潮時かもしれない。
不覚にも昨日目撃されてから、村人達は吾輩を捕まえようと躍起になっている。
しかし、村の出口には常に誰かがおり、逃げるのはそう容易ではない。はてさて、どうするべきかと、吾輩は思考を巡らせてみる。
その時、吾輩は見つけた。
――!
いつの間にか、視界の先に馬車がある。
どうやら、先ほどの二人のうちどちらかが此処まで来るのに使ったらしい。
――にゃん♪
にやり、と吾輩は笑う。これを使わない手はない。
辺りに誰もいない事を確認すると、吾輩は素早く馬車に駆け寄って、荷台に身体を滑り込ませた。
馬に気づかれる事もなく、あっさりと荷物を覆う布の下にまぎれることに成功する。
――にゃあ…。
残念ながら、荷物の中に肉類はなかった。しかし、贅沢は言うまい。
後は此処で待っていれば、この馬車の持ち主が吾輩を村の外へ連れ出してくれるだろう。
安心したせいか、だんだんと瞼が重くなってくるのを感じる。まあしかし、此処なら問題あるまい。
そして、吾輩は今度こそ睡魔に身を委ねることにした。
●
「毎度ありぃ、と。いや、いつもありがとうございます旦那」
不揃いな歯を見せながら、男は御者台に座るアレクに向けて笑いかける。
身長が低く、まるで鼠のような印象。細く垂れた眼つきは、どことなく何か裏があるようにも感じられる。
しかしアレクは気にせず、自然な笑みをその男――マルクに返す。
「いえ、こちらこそ。いつも新鮮な野菜をありがとうございます。エールまで頂いてしまって」
「いやいや。これでもまだ釣り合わないくらいですよ。あの薬草はそれほどのモノです。
また見つけたら、どうぞ私にお申し付けを」
「ええ、必ず。それでは」
ぴしり、と軽く馬に鞭を入れる。ゆっくりと、荷物を満載した荷馬車が走り始める。
手を振るマルクに片手を挙げて答え、アレクは村の門を潜る。
「………」
そのまま、無言で道を進む。
しばらくなだらかな坂が続き、やがて下りに入り始めた辺りで振り返る。
村は見えなくなっている。そこで、緊張の糸が切れた。
「――ふぅ」
深々と、息を吐き出す。途端に、何やら不安な気持ちが押し寄せてくる。
上手に、話せただろうか? 本当に、あれで良かっただろうか?
まともに人と会話をしたことが無かったアレクにとっては、たったあれだけのやり取りでも結構な負担だった。
しかし、慣れなければならない。何とか心機を一転させようと手綱を握りこんだ――その時、
「なーにこの程度で緊張してんだ」
「うわぁ!?」
背後から、突然話しかけられた。
思わず手綱を思いっきり引いてしまい、甲高い嘶き声と共に馬の前足が跳ね上げられる。
「っと!」
道の脇から茶色い影が飛び出してきて、手綱を奪われる。
アレクが目を白黒させているうちに、突然現れた人物――ヤンは、馬を宥めることに成功していた。
ふぅ、とヤンが額の汗をぬぐう。
「あぶねぇな。気ぃつけろ」
「…僕としては、突然声をかけてきたヤンに問題があったと思うんだけど」
半眼で睨みながら、はっきりと主張しておく。
自分は引っ込み思案なほうだと思うのだが、ヤンにはなぜかずけずけとモノを言えるから不思議だ。
ヤンの見た目は、それこそ眼光や服装も含め野盗同然だというのに。
「あの程度で驚くお前が悪い。つか、気づいてなかったのか」
「…え。どこにいたの? 全然気づかなかったんだけど」
「お前が村に入った辺りからずっと後ろから尾行してた」
「気づくわけないでしょ!」
初めて会った時もそうだったが、ヤンが気配を隠すとどこにいるか本当にわからない。
暗殺者でもしていたんじゃないか、と思うほどだ。
「もっと早く声を書けたらよかったのに…」
「目的が他にあったからな。早く話しかけても意味なかった」
「は?」
アレクは首を傾げる。そして、暫し考える。
答えは、意外と早く出た。
「もしかして、今買ってきた食糧が目当て?」
「あったりー。さらにいうなら、酒。葡萄酒とか持ってねぇ?」
体の良いタカリだった。アレクは深々と嘆息する。
「確かに、サービスでエールを貰ったよ。僕は飲まないから、あげても良い」
「マジで? さすがアレク。太っ腹ー」
「でも、帰ってからね。飲みながら歩くとかは無しで」
ヤンは不満そうな表情。しかし、アレクもそれは譲らない。
個人的なこだわりだが、歩きながらモノを食べたり飲んだりのは良くないことだと思っている。
「…わーったよ。じゃ、さっさと行こうぜ。俺はこのままで良いから」
そう言って、ヤンはすたすたと歩き始める。
確かにこの馬車は小さく、もう一人が乗れる余裕はない。
仕方が無いので、アレクはヤンの歩く速度に合わせて馬を進ませることにした。
「しかし、お前人と話すの苦手すぎだろ。後ろで見ててひやひやしたぞ」
「うん。自覚してる…そんなに、緊張してるように見えた?」
「まあな。忠告しとくが、お前はアイツ以外と取り引きしたりすんじゃねぇぞ。ぜってぇ騙される」
ヒドイ言われようだ。しかし、実際にそうなりそうだから本当に怖い。
アレクは黙って首を縦に振っておく。
「そういえば、あの人はなんで良いの? ヤンの紹介だって言ったら、なんか凄いオマケしてくれたんだけど」
「ああ、アイツは俺に借りがあるんだよ。森ん中で迷ってるところを助けてやった」
「森の中って…」
「おまえんちのすぐそばの森。川の向こう側だな」
彼女と――メディと会った、あの森。
アレクはまだ奥に入った事が無いが、ヤン曰く化け物の巣窟であるとのこと。
「なんでそんな危ないところで迷ってたの?」
「目的は、お前がさっき売ったアレだ。それほど高く売れるんだよ」
「へぇ…」
高いモノだとは知っていた。が、命をかけるまでのモノではないように思える。
そんなにお金とは大切なものなのか。アレクには、理解できなかった。
「ま、アイツはがめついが根は良い奴だ。村でもそこそこ一目置かれてるし、付き合っといて損はねぇ」
「うん。確かにね」
がめついというが、あの程度ならまだまだ可愛いものだとアレクは思う。
かつて自分の周りにいた人間は、アレどころではなかった。
「一応もう一度言っとくが、お前もあの森には入るんじゃねぇぞ。命がいくつあっても足りねぇからな」
「大丈夫。僕は行くつもりないよ。薬草はメディが取りに言ってくれるし」
「…メディ?」
ヤンが首を傾げる。
そういえば、この話はまだした事が無かったかもしれない。
「ああ…もしかして、あのスライムの事か?」
「う、うん。名前が無いのはわかりにくいから…」
「ふぅん」
気のない相槌。…それだけ、なのだろうか。
ヤンは、彼女の事を何も聞かない。相手は魔物だというのに、これといって怖がったりする様子もない。
何か、他に言う事はないのだろうか。
「お前が決めたんだろ」
「ぇ」
「アイツ、家に置くことにしたんだろ。なら、名前つけるのは当然じゃね?」
当然のことのように、ヤンは言う。
今度こそ、アレクは訝しげな顔をしてしまった。
普通、知人が魔物と連んでいたら嫌な顔をしそうなものだが。
「…ヤンってさ。魔物が怖くないの?」
「さぁ。モノによるんじゃねぇ? 少なくとも、スライムは別に怖かねぇな。基本的に害はないし」
「そう…なんだ」
価値観の違いを感じる。
アレクが持っている魔物に対する印象と、ヤンのそれは全く違うように感じられる。
「お前よ。コッチ側の人間だろ」
「え? …どういう意味?」
「あの化け物の森より、コッチ側の人間ってこと」
アレクは首肯する。やっぱりな、とヤンは得心がいった表情になる。
「コッチ側の国は、反魔物派だからな。魔物は悪って教育されてる。お前もそうなんだろ?」
「そう、だけど…え、それじゃ森の向こうは違うの?」
「魔物が無害とまでは言わないが、そんなに過剰じゃねぇな。
少なくとも、向こうじゃ『スライムは人を食べる』なんて嘘をガキに教えたりしねぇ」
やっぱり、嘘だったのか。アレクは、改めて自身の無知さを理解する。
同時に、自国の体制に疑問を覚える。どうして、この国はそんな教育をしているのか。
「さぁな。お偉い様方の崇高な考えは、俺にはワカンネ。その方が、色々と都合が良いんだろ」
「そう…なの、かな」
「深く考えるなって。どうせ考えても何ができるわけでも――…っと」
ヤンが視界の端で、軽く身構える。
何事かとアレクが顔を挙げると、道の向こうから誰かやってくるのが見えた。
青く透き通った軟体質の身体。弾けるような笑顔が、こちらへと近づいてくる。
「あれく!」
アレクが御者台から降りるのと、メディが飛びついてくるのは同時だった。
メディがそうするのは読めていた。アレクは難なくメディの体を受け止める。
「おか、えり」
「ただいま、メディ」
アレクがメディの頭を撫でると、メディは気持ち良さそうな顔をする。
ちらりとヤンの方を見ると、ヤンは感心するような表情でこちらを見ている。
「随分と懐かれたもんだな。スライムとはいえ、こうも人に懐くのは珍しいと思うんだが」
「そう、なのかな? 確かに、どうして此処まで僕を慕ってくれるのかはわからないんだけど」
「ふぅん」
ヤンが一歩近づくと、メディは初めてヤンの存在に気付いたかのようにハッとする。
そして、アレクの後ろに隠れるように移動。明らかに、警戒している様子。
「…なんか、納得いかねぇ」
「顔が怖いんじゃないかな」
渋面になるヤン。チ、と小さく舌打ちして、イジけるようにそっぽを向く。
アレクは、思わず笑みを漏らしてしまった。やはり、ヤンは見た目ほど悪い人間ではない。
と、そこで、突然体が下に引っ張られる。
「ん?」
下を見ると、メディが服の端を掴みながらこちらを見ている。
「あれ、なに?」
小さな指が差す先にあるのは、アレクが載っていた小型の馬車。
つい先日、生活必需品の運搬用にマルクから譲り受けたモノだ。屋根も無く、馬も年寄りだが、まだ使えないことはない。
御者台の後ろのスペースは白い布で覆われており、その下には先程買った食料諸々がある。
「えっと…」
最初は、馬車そのものを知らないのかと思った。
しかし、メディの指はどちらかというと積荷の方を向いているように見える。
「あれは、今日買ってきた食物だよ」
「たべもの?」
「そう…あ、メディじゃなくて、僕が食べるモノ。パンとか、果物とか」
メディでもわかるように、なるべくわかりやすく説明する。
しかし、メディは何やら不満そうな表情をしている。
説明するものを間違えたかと、アレクはもう一度メディの指差す方角を見直して、
「え?」
視界の先で、何かが動いた。一瞬だけでよく分からなかったが、積荷を覆う白い布が不自然な動きをしたように見えた。
今日は、鶏等の動物は仕入れていない。見間違えかと思ったが、それはもう一度もぞりと動いた。
ヤンがこちらの様子に気づき、同じく視線を辿る。
「ちがう。たべもの、じゃない」
メディの拙い言葉が聞こえるのと、布が大きく揺れ動くのは同時だった。
突然の事態に、アレクは硬直する。しかし、ヤンはあまり動揺した様子はない。
無言で、荷馬車に近づいていく。アレクはぎょっとした。
「ちょ、ちょっと…」
「どうせ、村で猫か何か紛れ込んだんだろ。さっさと追っ払っちまえば良い」
そう言って、ヤンは無造作に布を取り去る。中にあるものが、一同の眼前に晒される。
「ぇ――」
そんな、掠れるような声を出したのはアレクで、
「あぁ?」
そんな、ガラの悪い驚きの声を上げたのはヤンだった。そして、
「………」
アレクの傍らで、無言で目を険しくするメディ。
三者三様の視線の先に姿を表したのは、
「…にゃあ?」
確かに、猫だった。頭についた耳と、長い尻尾は猫のそれ。
しかし、耳の下にある顔は、明らかに人間の少女のそれだった。
「…ワーキャット?」
心底意外そうなヤンの声が、辺りに響きわたる。
しかしアレクは、その言葉を聞いていなかった。アレクの視線は、ワーキャットと呼ばれた彼女の首に注がれている。
ちゃり、と音が鳴る。ぞわり、とアレクの心がざわめく。
「にゃあ」
何事もなかったかのように彼女は一声鳴いて、組んだ腕の中に顔を埋める。
彼女の首に繋がれたひどく重々しい鉄製の首輪が、もう一度ちゃりと音を立てた。
10/05/13 22:41更新 / SMan
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