とある従者の不思議な探検。そのご。
「んん…」
頬に微かな光を感じ、アレクは身じろぐ。
どうやら、今日も朝がやってきたらしい。
覚醒しきらない頭で、まず今日やるべきことはなんだったかと考える。
「――?」
何かが、おかしい。
身体が…重い。病に臥せっていたときのような、気怠さとは違う。
身体の上に何かが乗っているような、ベッドに貼り付けられているような――
「…っ」
下半身に、違和感を感じた
冷たい、ヌルヌルとしたものが腹部と太もも、そして股間に押し付けられている。
うっすらと、目を開く。
赤い瞳が、アレクの顔を見つめていた。
「…っメ、メディ――!?」
一気に意識が覚醒し、アレクを声をあげようとしたその時、
しゅるりと何かがアレクの口を塞ぐ。
半液体状になっていたメディの軟体が伸び、アレクの口元に絡み付いていた。
「むぐっ――」
「あまり、騒いじゃ、ダメ。ウィルに、聞こえちゃう」
メディのその言葉に、アレクは凍り付く。
アレクの下半身は、既に剥かれている。
こんなところを、客人であるウィルに見られるわけには――
「って、あれ?」
少し離れた位置にあるのベッドに視線を送ると、ウィルの姿はどこにもなかった。
昨夜はベッドの上で小さく丸まっていたはずの姿は、寝ていた痕跡は残しているものの忽然と消えている。
「ウィルは、水を汲みに行った、みたい」
「…嗚呼、成程」
どうやら、居候という扱いを申し訳なく思い、自ら仕事を買ってでたということらしい。
彼らしいといえば彼らしい。
知り合ってまだ一日目だが、彼の几帳面な性格は大体把握できた。
「…で、メディは何をしようとしてるの」
「ごはん。ウィルがいないなら、いいでしょ?」
にこりと、メディが無邪気で、どこか怖い笑みを浮かべる。
その手には、既に硬くなり始めているアレクのものが握られていた。
ウィルが向かったと思われる水場は、それほど遠くない。
行為の最中に、彼が帰ってくる可能性がないわけでもない。
「いや…でも、ウィルがいつ帰ってくるかわからないし――」
「じゃあ、次のごはんは、いつ? 私、おなかペコペコ」
むぅ、とふくれっ面で返答を返すメディ。
こう言っては何だが、「待て」と言われている子犬のような印象。
「こうしてる間にも、時間が、無くなる。――だから、すぐに、終わらせる」
「ちょ、ちょっとメディ待って――くぅッ!?」
ぱくりと、何の前触れもなくメディはアレクの肉棒を口の中に収めた。
そして、一気に根元まで咥えてしまう。
「とっても、気持ちよく、してあげる」
じゅるる、と音を立ててメディの頭が上下する。
全身を突き抜けるような快感に、全身が震えた。
しかし、体を動かすことは出来なかった。
いつの間にかメディの身体が、アレクの全身にまとわりついている。
「ッぁ…!」
まるで、脇を舐められたような感触。
メディの軟体がアレクの全身に絡みつき、性感帯を狙い済まして舐め上げ始めた。
「っ!」
胸に這い上がってきたメディの軟体に乳首を刺激され、アレクはまた身体を震わせてしまう。
さらには両脇、足の裏にまで軟体が滑りこみ、くすぐるような刺激を送り込んでくる。
たまらず脱力したところに、強く肉棒に吸い付かれる。びくりと身体を痙攣させた弾みに、行為を続けながらこちらを見るメディと目が合う。
メディの眼が、楽しそうに笑う。恥ずかしさに、アレクの顔に血が昇った。
「っく、ぁ…っ…」
我慢しようとしても、呻き声が口から漏れる。
メディは口内で肉棒を締め付けながら、亀頭に舌を巻き付ける。
そして、尿道口をほじるように舌を挿し込んできた。
「―――!」
視界が、真っ白に染まる。
与えられた強すぎる快感に、アレクはとうとう言葉にならない悲鳴を上げてしまった。
しかし、それでもメディは尿道責めを止めようとしない。
メディはアレクの全身を軟体で愛撫しながら、尿道を舐め回し、吸いつき続ける。
「いっ…! う、あ、あぁぁ…! …むぐっ!?」
刺激に耐えかねて声を漏らすアレクの口に、何かが巻きついた。
しゅるり、とメディの軟体が伸び、アレクの口を塞いでいた。
ちゅぽんと音を立てて、肉棒がメディの口から解放される。
「あまり声出すと、ウィルに、聞こえちゃうよ?」
「んん…!」
メディの指摘に、アレクは顔を強ばらせて声を小さくする。
にこりと、メディは笑う。そうしている間にも、メディはアレクのものへの刺激を止めなかった。
柔らかく湿った手で幹を包み、もう片方の手でぬるぬると亀頭を撫で回している。
「じゃあ――一気に、食べて、あげるね」
そう言うやいなや、メディはあーん、と口を大きく開けた。
そして、亀頭を一口で口内に包みこんでしまった。
ぬるりとした甘く優しい快感に、アレクはまた腰を振るわせてしまう。
しかし次の瞬間アレクを襲ったのは、今まで感じたことのない鋭い快楽だった。
「ん…! んんッ…!?」
尿道口に舌を押し付けられたかと思うと、じゅるるっと卑猥な音を立てて啜られた。
幹に巻きついて右手が、尿道から溢れでてくる液体を搾ろうとするかのように上下する。
左手は太ももを優しく這い回っていたかと思えば、するすると上に上がってきて陰嚢へと辿り着き、その中のものを押し出すように揉み込んできた。
さらには、まるで溶かそうとするかのように、メディの軟体がアレクの全身を舐め回す。
耐えられる、わけがなかった。
「んっ…♪」
びくんと、アレクは身体を震えさせる。メディは嬉々とした表情で、こちらを見つめる。
メディはアレクをしっかりと見つめたまま、溢れ出す白い液体を嚥下する。
アレクは、上目遣いでこちらを見るメディの目を見て、ぎょっとした。
まだ出るでしょ――そう、彼女の眼は言っていた。
「ん――んんんッ――!?」
口を塞がれたまま、アレクは無様な呻き声を挙げてしまう。
じゅるる、と更に射精中の肉棒が吸引された。
メディの両手は、休むことなく幹と陰嚢を搾り、更なる射精を促す。
太ももや足の裏をメディの軟体に這い回られ、アレクは腰に力を入れることが出来なくなる。
射精中の尿道口に、また舌が差し込まる。背筋が反り、どくんとまた精液がメディの口の中へ放出された。
「ん…んん…」
若干の呼吸困難と穏やかな愛撫によって、だんだんと意識が薄れてきた。
長く激しすぎる快感に、精神が麻痺してしまったらしい。
愛撫による穏やかな快感と時折やってくる鋭い快感の区別が付かなくなり、全身が性感帯になってしまったかのような錯覚を覚える。
何も考えることができない。白んだ視界が、ゆっくりと闇に沈んでいく。身体を駆け巡る快感に、意識を失いそうになった瞬間――
「ぷはあ……♪」
ちゅぽんと音を立てて、アレクのものが口外へと解放された。それと同時に、口を塞いでいたメディの軟体もするすると離れていく。
アレクは重い身体を引きずるようにして、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先で、メディは搾り出したばかりの精液をうれしそうに舌の上で転がしていた。
紅く半透明な身体の中で、白い精液が揺らめいている。
メディの身体に吸収されつつあるそれは、まるで先ほどまでメディに翻弄されていた自分のようだった。
「どう…アレク? 溶けちゃいそう、だった?」
口元に白い液体をこびり付かせながら、メディはどこか嗜虐的な笑みを浮かべる。
視線を下に向けると、メディに蹂躙されてすっかり力を無くした肉棒が下腹部付近に横立っていた。
やはり、昨日お預けを受けた意趣返しのつもりだったのだろうか。
「…ちょっと、僕には、凄すぎたよ…」
「だって…アレクが昨日、意地悪したから」
「それは謝るから…今度はもうちょっと、手加減してくれないかな」
アレクの力のない声に、メディは舌を出しながら首肯する。まるで、悪戯を窘められた子供のように。
メディを怒らせたらどうなるか、アレクは身にしみて理解できたような気がした。
完全に腰が抜けてしまって、動けない。タコのように脱力するアレクを、メディはうれしそうに見つめていた。
「あ」
「…どうしたの?」
「足音が、聞こえる。ウィルが、帰ってきたみたい」
「え」
それはまずい。
メディはアレクにのしかかった姿勢のままで、アレクの下半身は未だ裸のまま。
この状況を、ウィルに見られてしまうわけにはいかない
「大丈夫。私に、任せて」
「え、わ、ちょ――メディ、くすぐったいって…!」
するりと、メディの身体がアレクの服の下に入り込む。
柔らかい軟体が、顔や体に浮かんでいた汗や下半身の精液の名残を拭い去る。
驚くほどの手際の良さで、アレクは服を着せられた。
最後にメディがベッドから飛び降りると同時に、がちゃりと音を立てて扉が開いた。
「…あ、アレクさん。おはようございます!」
重そうに桶を抱えたウィルが、小屋には入るなり元気な挨拶を投げかけてきた。
「う、うん。おはよう…随分と、早起きなんだね」
どうにかして平常心を装いながら、アレクは返答を返す。
傍らで、メディは何事もなかったかのようにニコニコと笑っている。
その変わりように、アレクは若干の恐怖心を覚えた。
今後は、メディをからかうときは気をつけるようにしよう。
そうアレクは、心の中で誓った。
●
「ふあぁ…っとと」
日がようやく登り始めた辺りの、清々しい早朝。
ウィルは欠伸を噛み殺しながら、桶で水を運んでいた。
一食一飯の恩義があるのだから、これくらいはしないと申し訳がない。
幸いにも、早起きは修道院の頃からの習慣。
大した苦も無く誰よりも早く起き、こうして仕事に従事することができた。
「…あ、アレクさん。おはようございます!」
扉を開けると、家主であるアレクさんは既に起床していた。
結果的にウィルの方が早かったとはいえ、アレクさんもかなり早起きな方のようだ。
「う、うん。おはよう…随分と、早起きなんだね」
そういうアレクさんの傍らには、先程まで眠っていたはずのメディさんがいた。
アレクさんはどこか恥ずかしげな様子で、対するメディさんは満足気な様子。
…何というか、相変わらず仲が良さそうな雰囲気。
「この時間に起きるのが、日課ですので。あ、お水は此処においておきますね」
「そこまでしてくれなくても良かったのに」
「いえ、居候なわけですから。これくらいはしませんと。他に、何かやることはありますか?」
屋敷の頃の癖で、むしろ働いていないと落ち着かない。
半ば強引に、朝食の準備まで手伝ってしまった。準備とは言っても、木製のカップに水を注いで、保存されていたパンを二つ取り出すだけだが。
「…あれ、メディさんの分はいらないのですか?」
「私は、要らない。ごはんなら、もう、貰った」
「え?」
にっこりと、メディさんがアレクさんに笑いかける。対するアレクさんは、何やら気不味げに視線をそらす。
妙な雰囲気に首をかしげながらも、アレクさんと共に椅子に座る。
しっかりと神へ感謝を捧げた後、ウィルは食事を始めた。
「――それで、ウィル。今後のことだけど…」
パンを食べ終えたところで、アレクさんは切り出した。
ごくり、とウィルは息を飲む。
彼は、結局のところ僕をどうするつもりなのだろうか。
このままレオンには秘密にしておいてくれるのか、それとも僕のことを彼に知らせてしまうつもりなのか。
「一応もう一度確認するけど…君は今後もマンドラゴラを探したい。でも、レオンさんには秘密にして欲しい。そうだね?」
「は、はい」
「僕としては、あまり面倒事に関わりたくないというのが本音かな。そういうのが嫌で、此処で隠者の真似事をしてるわけだし」
そう言うからには、やはりレオンに知らせるつもりなのだろうか。
僕は消沈して、頭を垂れてしまう。
メディさんが不安そうな視線をこちらに向けるなか、アレクさんは言葉を続ける。
「だから、僕達が君の事を手伝うのは面倒なことになるまで。それまでなら、出来ることなら手助けしてあげる」
「…え。と、いうことは…その」
「レオンさんに連絡するのは、もう少し後にするよ。状況によっては連絡することになるけど、それで良い?」
「は…はい! ありがとう、ございます」
深々と、ウィルは頭を垂れる。
嬉しさのあまり、挙措が少々大袈裟になってしまった。
視界の端で、クスクスとメディさんが笑っている。
「それで、今日も森の中を捜すつもり?」
「は、はい。食後、すぐにでも行こうかと思っていました。あまり、こちらにお邪魔してしまうのも悪いですし…」
「それなら、今日はルイと一緒に行くといいよ。ルイなら多少森の中を歩き慣れてるだろうし」
「ルイ、というと…あの、ワーキャットですか?」
恐る恐る、ウィルは復唱してしまった。
先日アレクさんの膝の上で丸まっていた姿は大人しそうだったが、やはり少し怖い。
「そういうわけだから、お願いできる?」
「にゃあ」
「わっ!?」
いつの間にか、背後にワーキャット――ルイスがいた。
ルイさんは肯定とも否定とも取れる曖昧な鳴き声を上げた後、胡散臭そうな眼でこちらを睨め回してくる。
こちらが視線をそらせずにいると、やがてルイさんはぷいと視線を逸らし、小屋の外へと去っていってしまった。
「…もしかして、僕って、嫌われてますか?」
「いや、それほどでもないと思うよ。やっぱり初めての人だから、警戒はされてると思うけど」
動物は嫌いじゃないが、当然魔物と接した経験は一度もない。
言葉も通じないようだし、どう接すればいいかわからなかった。
逡巡するウィルの手に、突然冷たく柔らかい感触が重ねられる。
ぎくりと視線を上げると、メディさんが僕の手に自らのそれを重ねながら、優しい表情でこちらを見ていた。
「動物扱い、しない方が、良い」
「え?」
「対等に、接すれば、大丈夫」
ウィルの不安感を読み取ったかのような、正確な助言。
メディさんのその言葉に、アレクさんは納得するように笑っていた。
「確かに、その通りかな。ルイは賢いから、多分こちらの言うことは全部理解してると思う。
だから、僕達と同じように接してあげて」
「は…はい。わかり、ました」
曖昧に、ウィルは頷く。気づけば、顔が赤く火照っていた。
…やっぱり、女の人は少し苦手だ。
傍らで優しげに笑うメディさんの顔さえ、まともに直視できない。
「でも、あまり森の奥には行かないようにね。実を言うと、僕もそう奥まで入ったことはないんだ」
「そう…なのですか?」
「ヤンに行くなって言われていてね。もし行くなら、彼と一緒の方がいいよ」
僕は、ギロリと鋭いヤンさんの眼光を思い出す。
正直、頼みづらい。しかし、いざという時は頼むしか無い。
「それじゃあ、僕は果実酒の仕込みがあるから、此処で失礼するよ。
嗚呼、そうそう。メディ、ウィルに食べ物を分けてあげて。食料も無しに森の中を歩き続けるのは辛いだろうし」
「え。あ、いや。そこまでして頂かなくても――」
「別に、気にしなくてもいいよ。僕は、教会の神の教えに従っているだけとも言えるしね」
「え?」
「――『何事でも自分にして貰いたいことは、他の人にもそのようにしなさい』」
「…あ」
ウィルは、その言葉を聞いてはっとする。
どこかで、聞いたことがある言葉だった。
かつて修道院長先生に何度も教えられた、聖句の一つ。
「求めれば、与えられる。探せば、見つかる。
人にして欲しいことは、貴方も人にしなさい――ですか」
脳裏に浮かび上がった言葉を、ウィルは暗唱する。
良く出来ました、というようにアレクさんが笑う。
心の何処かを共有できたような心地がして、ウィルは少しほっとした。
「貴方が道を違えなければ、神はきっと貴方の探し物を与えて下さるでしょう。
神の御加護が、ありますように」
粛々と、アレクさんは告げる。
その様は、まるで旅人に祈りを捧げる神父のようだった。
目を瞑り、全ての表情を消して祈るその表情――それを、ウィルはどこかで見たことがあるような気がした。
くすり、とアレクさんは笑う。神聖な雰囲気が立処に消え、小屋に現実感が戻ってくる。
ウィルの傍らで、キラキラとした眼でメディさんがアレクさんを見つめていた。
「わぁ…今日のアレク、なんか、凄く綺麗」
「あはは…これでも、修道士だからね。たまには、修道士らしいこともしないと。
…どうかな。少しは、落ち着いた?」
「え?」
「ずっと、緊張してたみたいだから。こうすれば、少しは楽になるかなと思って」
「――あ」
そこで、ウィルはやっと気づいた。
突然聖句を持ち出したのは、慣れない長旅による緊張を宥めるため。
大きな街が少ない此処近辺では、神に祈る場所すらあまり多くない。
教会の信者としての心の拠り所がなく、不安がなかったといえば嘘になる。
聞き慣れた神の言葉を聞き、ウィルはいつの間にか心が落ち着いているのを感じた。
「その…色々と、ありがとうございます」
なんと返答すればいいかわらかず、結局そんな適切かもわからない言葉を返してしまった。
アレクさんはそれに対して、無言で裏表の無い笑みを返す。
なぜ彼が『森の隠者』と呼ばれるのか、わかった気がした。
●
全く…面倒な仕事を任されてしまったものである。
吾輩は溜息を吐き出しながら、ちらりと背後を見やる。
視線の先には、息を切らせながら我輩を追ってくる小柄な小僧――ウィルの姿がある。
「ルイ…さん! ちょっと、待って、下さい…!」
ちょっとした草むらにさえ難儀しながら、遅々とした足取りで近付いてくる。
身体は吾輩より大きいくせに、運動神経は皆無らしい。
よくそんな身なりで森の中を探索しようなどと思ったものだ。
――にゃおぅ…。
小僧が吾輩に追いついてから、吾輩は次の枝に飛び移る。
捜し物をするならば、高いところの方が良い。
しかし、どうやら小僧は木に登ることすら出来ないらしい。
これなら、吾輩が一人で捜した方が早いような気もする。
「ハァ…ハァ…」
そろそろ小憎の体力が限界のように見えたので、吾輩は足を止めて木から降りることにした。
吾輩が地面に降り立ったのを見て、小僧はあからさまにホッとしてみせた。
木陰に腰をおろしながら、小僧は動物の胃で出来ているらしい革袋に口をつける。
甘ったるい、果物の香り。おそらくは、あるじが造った果実酒だろうか。
「あの…すみません。僕のこと、嫌いですか…?」
息を整えながら、小僧は我輩に恐る恐る話しかける。
別に、好きでも嫌いでもない。
この小僧は貴族の匂いはするものの、貴族特有の高慢無知な態度は感じられない。
強いて言うならば、そのオドオドした態度が気に入らないというだけの話。
生憎と吾輩は人の言葉を離すことが出来ないので、その返答を小僧へと伝えることは出来なかった。
「ご、ごめんなさい…僕、運動神経が悪くて…本の整理とかは、得意なんですけど…」
何を勘違いしたのか、小僧は全く見当違いの詫言を口にする。
今更何を言っているのだろう。これまでの様子を見ていれば、全くの自明である。
呆れ果ててモノも言えない――が、自らの主人の事を思うその気持ちだけは、本物らしい。
「ふぅ…もう、大丈夫です。先を急ぎましょう」
小僧は立ち上がり、また草木と奮闘し始める。
慣れない行軍に疲れているようだが、此処まで一度も弱音は吐いていない。
その熱心さ、そして忠誠心は、同じくあるじを持つ者として共感を持てた。
――…にゃー。
吾輩は立ち上がり、また木の上へと登る。
そして、先程までしていたように、小僧を少しでも草木が少ない獣道へと誘導しようとして――
ぴくりと、思わず耳を立てる。何かが、聞こえた。動物ではない――人間の、話し声。
――にぃ…!
視線の先に、二人の人間を見つけた。
物々しい鎧に身を包んだ二人の男は、大樹の影で何かを話していた。
そして間の悪いことに、その少し手前で小僧が何の警戒もなく茂みを潜りぬけ、鎧の男達と鉢合わせようとしていた。
吾輩の判断は、一瞬であった。
足場にしていた枝から、音を立てぬよう飛び降り――そして、小僧を押し潰した。
「わぷっ…!」
もちろん、完全に下敷きにしたわけではない。
一度手前に着地して、その後小僧の背にのしかかっただけだ。
小僧は何事かと眼を白黒させていたが、人の言葉を話せない我輩に説明はできなかったし、そんな時間もなかった。
また、話し声が聞こえてきた。そこでやっと小僧は吾輩の意図に気づいたらしい。
我輩と小僧は、茂みの影からその向こうにいる二人の動向を凝視する。
●
「ハァ…ハァ…」
予想していたことだったが、僕はルイさんについていくだけでも精一杯だった。
昨日もそうだったが、この森は少し奥に進んだだけで人智未踏の密林と化す。
地面どころか石の上にさえ苔に覆われているところもあり、足場も悪い。
そんな森の中を、ルイさんは頭上の枝を伝って一人で進んでいってしまう。
やっと彼女に追いついたところで、僕は革袋から水分を補給しながらルイさんに尋ねる。
「あの…すみません。僕のこと、嫌いですか…?」
元より、返答は期待していない。しかし、ウィルは聞かずにはいられなかった。
その言葉に、ルイさんはふん、と小さく鼻を鳴らしただけだった。
嫌っているというより、呆れているような様子。
「ご、ごめんなさい…僕、運動神経が悪くて…
本の整理とかは、得意なんですけど…」
とりあえず、呆れられている原因と思われる点について謝罪してみる。
しかし、ルイさんの双眸は相変わらず細められたままだった。明らかに、意思疎通が出来ていない。
ウィルは思わず嘆息してしまったが、気を持ち直して立ち上がる。
例え相手が言葉の通じない魔物であっても、誰かと一緒にいるというだけで、一人で森を歩き回っていた昨日より心は幾分か軽い。
「ふぅ…もう、大丈夫です。先を急ぎましょう」
「…にゃー」
僕の言葉に答えるように、ルイさんは立ち上がってまた木の上に戻っていった。
革袋を腰にくくりつけながら、ウィルは重い腰を挙げて草木を押し退ける作業に戻る。
ルイさんは軽い身こなしで頭上の木々を飛び移り、こっちだとばかりにこちらを見る。
ウィルと彼女の間には、ウィルの背丈程の長さを持つ藪が茂っていた。
これを越えなければならないのかと思うと、ウィルは心が挫けそうになった。
「…ハァ」
ウィルは疲れた息を吐き出しながらも、心を震え立たせる。
全ては、恩人であり主君であるアクイラ伯のため。
よし、と心の中で気合を入れ、藪の中を掘り進み始めた――その時、
「わぷっ…!」
突然、何かに押し潰された。
頭を強く押さえつけられ、地面に顔を押し付けられる。
草木と泥の味が、口の中に広がる。
むせこみながら立ち上がろうとしたところで、ぐいと更に強い力で抑えつけられる。
「ッ…!」
獣の匂い。野生の動物に――襲われた?
ウィルは恐怖に表情を凍らせたが、すぐに状況を理解する。
視線を右へずらすと、緊張に猫耳を尖らせるルイさんの顔があった。
今にも、頬が触れ合いそうな距離。背中に、何か柔らかい感触。
自分が今ルイさんに押し倒されていると気づき、ウィルの頭は沸騰する。
今更ながら思い出したが、彼女は魔物でワーキャットであると同時に、一人の女性だった。
身体に押し付けられる柔らかい感触は成熟した女のそれ。一応外套とちょっとした下着を身につけている様子だったが、ウィルからしては薄すぎる。
間近で見るその顔は、凛々しくもどこか可愛らしく――とても、綺麗だった。
湧き上がった情動が、ウィルの心を掻き乱す。
「…うへぇ。なんスかこの馬鹿でかい木は」
そんなウィルを現実世界に引き戻したのは、一人の男の声だった。
聞き覚えのある、やる気のない声音。
ウィルは声が出ないように両手で口をふさぎながら、茂みの先へと視線を向ける。
茂みの隙間から、二人の人影が見える。一人が身に纏っているのは、鈍色の甲冑。そしてもう一人は――白銀の甲冑。
見紛うハズがない。屋敷で生活を共にしていた、二人の騎士。
「おそらく、これが噂に聞く『双神樹』だろう。
教会の教えが広まる以前には、信仰の対象ともなっていた巨樹だとか」
ちらりと視線をずらすと、二人のそばに巨樹が二つあるのが見えた。
その大きさに、ウィルは思わず息を飲んだ。明らかに付近にある別の樹木とは一線を画す、巨大な老木。
幾つもの種類の木が合わさり、捻れ合い、折り重なって、それぞれが巨大な二本の木となっているらしい。
「嗚呼…だから、古めかしい飾りが付いてるんスか。
…こんなモンを信仰する奴の気がしれませんねぇ」
鈍色の鎧を着込んだ男――アクイラ伯護衛隊副長テオバルト、もといテオが、やれやれと片方の巨樹の影に腰を下ろす。
肩に担ぐようにして持っているのは、最新式の十字弓。
テオバルトの傍らで小柄なナイフを手に辺りを見回しているのは、白銀の鎧の青年――護衛隊隊長であるレオンハルト、もといレオン。
マンドラゴラを探しに、此処まで来たのだろうか。
「…やはり、思った以上に足場が悪いな。
次に来る時は、もっと装備を整えたほうが良いかもしれない」
「ですよねー。正直俺もうかなりしんどいっす。
ぼちぼち斥候の役割は果たしましたし、そろそろ一度村に戻って体勢を立て直すってのは?」
ヘラヘラと笑いながらそう言うテオを、レオンは鋭い視線で睨みつける。
「お前…少しは真面目に働いたらどうだ。
こうしている間にも、アクイラ伯や多くの領民は病で苦しんでいるというのに」
「いやー、あの爺さんがそう簡単にくたばる筈はねぇでしょう。
幸いにも、高名な医術師殿が面倒をみて下さってることですし。
それにあまり気張り過ぎて、俺らまで死神に魅入られる訳にもいかんでしょう?」
「…お前が過労で倒れる様なんて、騎士学校時代を含めて一度も見たことがないんだが」
「そりゃそうでしょう。適度にサボってますから」
呆れて物が言えない、といった風にレオンは首を左右にふる。
テオは相変わらず楽観的で、レオンは相変わらず神経質らしい。
懐かしさを感じながらも、ウィルは息を潜めて彼らに見つからないよう注意する。
「そもそも、斥候なんて部下に任しとけばいいでしょう。なんで俺ら二人なんスか」
「魔物が住むと噂される森だ。魔物と交戦経験のある私とお前で行った方が確実だろう」
「いやー、期待して貰えるのは有難いんですけど…この森ってアレじゃないですか、『化物』が出たって噂のある場所でしょう?
「…化物?」
「流石に、『ブストゥムの悪魔』に遭遇したら勝ち目ないですよ。会ったら即効で逃げます」
『ブストゥムの悪魔』。確かそれは、此処ブストゥムに伝わる物語の一節。
かつてこの土地を守る騎士達が、この森に住まう魔物を一掃しようと進軍したことがあった。
しかしその結果、騎士達は一人残らず五体を分割された無残な死体となって、森の外に打ち捨てられていたという。
その数、千人。
それ以来この森は魔物が住むと恐れられながらも、野放しにされているとのことだった。
ウィルが初めてその話を聞いた時は、恐ろしさに身を震わせたものだった。
しかし、随分と昔の話らしいので、今では真に受けるものはあまり居ないと聞いていた。
「…100年以上前のお伽話だろう、それは。事実がどうかも疑わしい。
お前もそうだが、この国の団員には魔物に対して苦手意識を持つ者が多すぎるな…」
「そりゃあまあ、この国全体に言える教育不行き届きって奴ですねぇ。
てか、そう思うならなおのこと団員の連中を無理やり連れてきてビシビシやった方が良かったんじゃ――ん、おーいたいちょー。これなんスかね?」
突然、テオがこちらを向いた――気がした。
ぎょっとしてウィルは体を動かしそうになったが、ルイに抑えつけられて阻止される。
「…なんだ。何か見つけ――嗚呼、これか。おそらく、この神木に対する捧げ物だろう。
巨樹信仰をまだ続けている者が、この近くにいるということか」
「うへぇ、マジすか。つまりそれ、異教徒ってことじゃないですか」
「まあ、広義ではそうなるのかもしれないが…別に、気にするほどのことでもないだろう。
生贄といった野蛮な儀式でも始めない限りはな」
「あー、すみません隊長。俺、気分が悪くなってきました。帰って良いスか?」
「駄目だ。――せめて、ウィルの足取りを掴むまで、帰るつもりはない」
傍らにいたルイの耳が、ぴくりと跳ね上がる。
ルイは、ウィルを隠すように身体を低くする。
更に柔らかい身体が密着してきて、ウィルの動悸が少しだけ早まった。
「ウィル坊…ねぇ。ホントに、この辺りに来てるんスかね?」
「少なくとも、我々が今拠点としている村に来ていたのは間違いない。この森に向かったという証言も、馬車の行者や宿の者から得られている」
「ああもう。仕事増やしてくれちゃってまあ…あの爺さんがこの事を知ったら、大目玉どころじゃないでしょう」
「…アクイラ伯は、ウィルを溺愛しているからな」
「ああもう、ひょいっとそこらから出てきてくれませんかねぇ。――例えば、そこの茂みから」
テオの視線が、今度こそはっきりとこちらを向いた。
そして、眼が合った――気がした。
冷や水を浴びせられたかのように、ウィルの背筋に悪寒が走る。
「…どういう意味だ?」
「いやね、さっきそこの辺りから不自然にガサガサ草をかき分けるような音が聞こえてたんですけど…此処に腰を下ろした辺りで、突然聞こえなくなりまして。
人か動物か、はたまたそれ以外かは知りませんけど――何か、居るんじゃないスか」
相変わらずのんびりした口調で、テオは言葉を紡ぐ。
口調こそいい加減だったが、その視線は一直線にこちらを向いたまま。
まずい――このままでは、見つかってしまう。
緊張に身を凍らせるウィルが行き着いたのは、二つの選択肢。
このままじっとしているか、一目散に逃走するか。
「…私が行く。お前は、いざという時に備えろ」
「りょーかい」
がちゃり、と音を立てながらテオが十字弓を構える。
ウィルは、サッと青褪めた。このままじっとしていれば、レオンに見つかってしまう。しかしむやみに動けば、テオに射られてしまうかもしれない。
逃げ道がを、全て塞がれてしまった。ウィルは何も考えられずに、ただその場で動けなくなってしまった。
レオンが草をかき分ける音を聞きながら、僕が諦めるように眼を瞑った――その時、
ウィルの背中にあった重みが消え、がさりと茂みが大きな音を立てた。
「――ッ!?」
レオンの判断は、素早かった。
藪から飛び出した何か――ルイに向けて、手に持っていたナイフを一閃させた。
幸いにも、ナイフの刃はルイに届かなかった。
ルイはレオンには見向きもせず、レオンの足元を駆け抜ける。
ウィルの視線の先で、テオの顔が驚愕に歪む。
「な――ワ、ワーキャットォ!?」
大袈裟に驚きながらも、テオの十字弓は寸分違わずルイへと向けられていた。
鋭い矢の一撃が、ルイの足元を穿つ。その衝撃に、ルイは体勢を崩して一時停止してしまう。
テオの手が、目にも留まらぬ速さで矢の再装填を行い、矢の先をルイへと向ける。
ウィルは目を見開き、咄嗟に叫び声をあげようとした――その瞬間、
「止めろ! 撃つなテオバルト!」
普段からは考えられないレオンの怒号に、ウィルは言葉を発する機会を失った。
ぎょっとしたテオが、引き金から手を離す。
次の瞬間には、ルイは向こう側の茂みの中へと飛び込んでいた。
ざあ、と一陣の風が吹き、辺り一帯の草木を揺らす。
「…あービビった。なんで止めたんスか?」
「むやみに命を殺めるな。あのワーキャットに、敵意はなかった。
私が近づいたから、飛び出してきただけだろう」
「…相手は、魔物ですよ? 見逃していいんスか」
「此処は戦場じゃない。…殺さなければならない、理由はない」
そう言いながら、レオンはルイが去っていった方角を見つめる。
テオは深々と嘆息しながら、十字弓を肩に担ぎなおす。
「…アイツ、もしかして前に報告があった奴じゃないスか。
首輪をつけた、作物荒らしのワーキャット…でしたっけ?」
「そういえば…そんな話もあったな。
まず、首輪をつけた魔物が畑を荒らしているという報告が、幾つかの村から知らされて、
確認を取らせるために兵士を遅らせようとした矢先に、村人から『解決した』と連絡が来た――だったか?」
「何とも、妙な話っスよねー。…あれ、でもさっきのアイツ、首輪付けてませんでしたね?」
「…一応、その件も調べておくか」
レオンはナイフを持ち直し、彼らが進んで来たらしい獣道を後戻りし始める。
その様子を見たテオの表情が、一転して喜色に染まる。
「おや、隊長。そろそろ村に帰還する頃合いで?」
「…この森には、噂通り魔物が居るということがわかった。
敵意はなかったにせよ、このまま二人だけで探索するのは危険かもしれない。
少し辺りを探索してから、村に戻るぞ」
「ですよねー。じゃあ、とっとと帰るとしますか。きっと隊員も隊長を心待ちにしてますよ!」
「…調子の良い奴め。ふざけてないで、さっさと行くぞ」
「アイッサー」
獣道の向こうへ、二人の騎士達は歩いて行く。
しばらくの間、草を踏む音だけがウィルの耳に届き――やがて、何も聞こえなくなる。
どうやら、見つからずに済んだらしい。
ウィルは深々と息を吐き出しながら、ゆっくりと身体を茂みから引っ張り出す。
「…あ」
立ち上がろうとしたウィルの傍らに、いつの間にかルイがいた。
世話の焼ける奴め、と言わんばかりにウィルを細目で睨みつけている。
全ては、彼女の機転のおかげだった。言わなければいけない、言葉がある。
「ありがとう、ございました」
「…にゃあ」
ぷい、と顔を背けながら、ルイは小さく鳴き声を上げた。
まるで、礼を言われるまでもない、と答えたかのように。
凛とした表情で佇むその姿は、主君に仕える騎士そのものだった。
●
一体これは、どういう状況なのか。
目の前で繰り広げられた光景に、私は目を離せないでいた。
二人の騎士、ワーキャット、そして――十字架の首飾りを持った少年。
「………」
私は『双神樹』の影から、わずかに顔を覗かせる。
視線の先では、少年がワーキャットに対して何やら親しげな様子で話しかけている。
少年の容姿は、騎士達が探していたアクイラ伯の従者の特徴と一致している。
それがどうして、あのワーキャットと行動を共にしているのか。
「…こりゃあ…」
面倒な場面に、出くわしてしまった。
今ここで見た光景は、上手く行けば利益につながるモノだが、同時に扱いに困るモノだ。
見なかったことにするか、騎士に報告するか、それとも跡をつけて詳細を調べるか――その後の判断によって、得られる利益や危険度が大きく変化する。
息を潜めたまま、私は思考の海を漂っていた。だから、後ろから近づくその小さな影に気づくことができなかった。
とんとん、と肩を叩かれる。ぎょっとして、私は振り向いた。
「…っ…」
悲鳴を挙げなかった自分を、褒めてやりたい気分だった。
もし此処にいたのが自分以外の村人だったらその場で叫び声を上げ、面倒なことになっていただろう。
視線の先にいたのは、半液体状の赤い身体を持つ魔物。
レッドスライム、だった。
「…んー…」
レッドスライムは、なぜかこちらの顔を見つめたまま、小首を傾げる。
スライムにしては、理知的で賢そうな表情をしていた。元より普通のスライムと比べ知能が高いレッドスライムだが、それにしてもこの表情は人間のそれに近い。
観察するような視線で、レッドスライムはこちらの顔をジロジロと見つめている。
私はといえば、長年の癖で商人特有の愛想笑いを浮かべてしまっていた。
「…もしかして、あなた、マルクさん?」
「――へ?」
多少たどたどしい口調で、しかし聞き取りやすい声音で、レッドスライムの口は言葉を紡いだ。
なぜ、私の名前を知っているのか。
かつて旅先で魔物に遭遇することは幾度かあったが、この国で魔物を知り合いに持ったことなどあるはずがない。
予想外の事態に、私は曖昧な愛想笑いのまま硬直してしまう。
「これは…何とも、まずいところを見られてしまいましたね」
レッドスライムとは別の声が、どこからか聞こえてきた。
はっとして視線を巡らすと、レッドスライムの後ろから新たな人影が現れていた。
困ったような表情を浮かべた、穏やかな印象の青年。
最近既知の間柄となったその人物の顔を見て、私は眼を丸くした。
「ア、アレクの旦那…? どうして、此処に?」
「話せば長くなりますが…それは、こちらの台詞でもありますね」
「それは…こちらもなんと言っていいか…」
背後に居るワーキャットと少年に聞こえないよう、ボソボソと小声で返答を返す。
苦笑しながら、アレクは顎に手を添える。
それは彼が言葉を探したり、何かを思い出そうとするときの癖。
状況を全く理解出来ないまま、私は息を飲みながら彼の言葉を待つ。
「そうですね…此処で話すのもアレです。
お互い、言い訳は私の家でということでどうですか?
もちろん、私の事を信用して頂くことが前提となりますが」
冗談混じりに、アレクは言う。私は、思わず苦笑してしまった。
お互いが腹に何かを隠している事が明らかなこの状況で、よくそんなことを言えるものだ。
これが商人同士の密談であったならば、相手の拠点に赴いたところで口封じに合う可能性も考慮しなければいけないところ。
しかし、今の私は商人ではなく、彼もまた商人ではない。
そして、彼がそういう姑息な策略が嫌いな人種であることは良く知っている。
「…わかりました。では、話はその時にということで」
目の前で、にこりとアレクが笑みを浮かべる。
その表情は、純粋な笑顔に見えてどこか空虚だった。
傍目からは分かりにくいかもしれないが、人間関係に疲れた世捨て人特有の疲れた笑顔。
――嗚呼、多少の違いはあるとはいえ、やはり私と彼は同じ人種だ。
傍らでレッドスライムに見つめられながら、私とアレクは静かに握手を交わした。
頬に微かな光を感じ、アレクは身じろぐ。
どうやら、今日も朝がやってきたらしい。
覚醒しきらない頭で、まず今日やるべきことはなんだったかと考える。
「――?」
何かが、おかしい。
身体が…重い。病に臥せっていたときのような、気怠さとは違う。
身体の上に何かが乗っているような、ベッドに貼り付けられているような――
「…っ」
下半身に、違和感を感じた
冷たい、ヌルヌルとしたものが腹部と太もも、そして股間に押し付けられている。
うっすらと、目を開く。
赤い瞳が、アレクの顔を見つめていた。
「…っメ、メディ――!?」
一気に意識が覚醒し、アレクを声をあげようとしたその時、
しゅるりと何かがアレクの口を塞ぐ。
半液体状になっていたメディの軟体が伸び、アレクの口元に絡み付いていた。
「むぐっ――」
「あまり、騒いじゃ、ダメ。ウィルに、聞こえちゃう」
メディのその言葉に、アレクは凍り付く。
アレクの下半身は、既に剥かれている。
こんなところを、客人であるウィルに見られるわけには――
「って、あれ?」
少し離れた位置にあるのベッドに視線を送ると、ウィルの姿はどこにもなかった。
昨夜はベッドの上で小さく丸まっていたはずの姿は、寝ていた痕跡は残しているものの忽然と消えている。
「ウィルは、水を汲みに行った、みたい」
「…嗚呼、成程」
どうやら、居候という扱いを申し訳なく思い、自ら仕事を買ってでたということらしい。
彼らしいといえば彼らしい。
知り合ってまだ一日目だが、彼の几帳面な性格は大体把握できた。
「…で、メディは何をしようとしてるの」
「ごはん。ウィルがいないなら、いいでしょ?」
にこりと、メディが無邪気で、どこか怖い笑みを浮かべる。
その手には、既に硬くなり始めているアレクのものが握られていた。
ウィルが向かったと思われる水場は、それほど遠くない。
行為の最中に、彼が帰ってくる可能性がないわけでもない。
「いや…でも、ウィルがいつ帰ってくるかわからないし――」
「じゃあ、次のごはんは、いつ? 私、おなかペコペコ」
むぅ、とふくれっ面で返答を返すメディ。
こう言っては何だが、「待て」と言われている子犬のような印象。
「こうしてる間にも、時間が、無くなる。――だから、すぐに、終わらせる」
「ちょ、ちょっとメディ待って――くぅッ!?」
ぱくりと、何の前触れもなくメディはアレクの肉棒を口の中に収めた。
そして、一気に根元まで咥えてしまう。
「とっても、気持ちよく、してあげる」
じゅるる、と音を立ててメディの頭が上下する。
全身を突き抜けるような快感に、全身が震えた。
しかし、体を動かすことは出来なかった。
いつの間にかメディの身体が、アレクの全身にまとわりついている。
「ッぁ…!」
まるで、脇を舐められたような感触。
メディの軟体がアレクの全身に絡みつき、性感帯を狙い済まして舐め上げ始めた。
「っ!」
胸に這い上がってきたメディの軟体に乳首を刺激され、アレクはまた身体を震わせてしまう。
さらには両脇、足の裏にまで軟体が滑りこみ、くすぐるような刺激を送り込んでくる。
たまらず脱力したところに、強く肉棒に吸い付かれる。びくりと身体を痙攣させた弾みに、行為を続けながらこちらを見るメディと目が合う。
メディの眼が、楽しそうに笑う。恥ずかしさに、アレクの顔に血が昇った。
「っく、ぁ…っ…」
我慢しようとしても、呻き声が口から漏れる。
メディは口内で肉棒を締め付けながら、亀頭に舌を巻き付ける。
そして、尿道口をほじるように舌を挿し込んできた。
「―――!」
視界が、真っ白に染まる。
与えられた強すぎる快感に、アレクはとうとう言葉にならない悲鳴を上げてしまった。
しかし、それでもメディは尿道責めを止めようとしない。
メディはアレクの全身を軟体で愛撫しながら、尿道を舐め回し、吸いつき続ける。
「いっ…! う、あ、あぁぁ…! …むぐっ!?」
刺激に耐えかねて声を漏らすアレクの口に、何かが巻きついた。
しゅるり、とメディの軟体が伸び、アレクの口を塞いでいた。
ちゅぽんと音を立てて、肉棒がメディの口から解放される。
「あまり声出すと、ウィルに、聞こえちゃうよ?」
「んん…!」
メディの指摘に、アレクは顔を強ばらせて声を小さくする。
にこりと、メディは笑う。そうしている間にも、メディはアレクのものへの刺激を止めなかった。
柔らかく湿った手で幹を包み、もう片方の手でぬるぬると亀頭を撫で回している。
「じゃあ――一気に、食べて、あげるね」
そう言うやいなや、メディはあーん、と口を大きく開けた。
そして、亀頭を一口で口内に包みこんでしまった。
ぬるりとした甘く優しい快感に、アレクはまた腰を振るわせてしまう。
しかし次の瞬間アレクを襲ったのは、今まで感じたことのない鋭い快楽だった。
「ん…! んんッ…!?」
尿道口に舌を押し付けられたかと思うと、じゅるるっと卑猥な音を立てて啜られた。
幹に巻きついて右手が、尿道から溢れでてくる液体を搾ろうとするかのように上下する。
左手は太ももを優しく這い回っていたかと思えば、するすると上に上がってきて陰嚢へと辿り着き、その中のものを押し出すように揉み込んできた。
さらには、まるで溶かそうとするかのように、メディの軟体がアレクの全身を舐め回す。
耐えられる、わけがなかった。
「んっ…♪」
びくんと、アレクは身体を震えさせる。メディは嬉々とした表情で、こちらを見つめる。
メディはアレクをしっかりと見つめたまま、溢れ出す白い液体を嚥下する。
アレクは、上目遣いでこちらを見るメディの目を見て、ぎょっとした。
まだ出るでしょ――そう、彼女の眼は言っていた。
「ん――んんんッ――!?」
口を塞がれたまま、アレクは無様な呻き声を挙げてしまう。
じゅるる、と更に射精中の肉棒が吸引された。
メディの両手は、休むことなく幹と陰嚢を搾り、更なる射精を促す。
太ももや足の裏をメディの軟体に這い回られ、アレクは腰に力を入れることが出来なくなる。
射精中の尿道口に、また舌が差し込まる。背筋が反り、どくんとまた精液がメディの口の中へ放出された。
「ん…んん…」
若干の呼吸困難と穏やかな愛撫によって、だんだんと意識が薄れてきた。
長く激しすぎる快感に、精神が麻痺してしまったらしい。
愛撫による穏やかな快感と時折やってくる鋭い快感の区別が付かなくなり、全身が性感帯になってしまったかのような錯覚を覚える。
何も考えることができない。白んだ視界が、ゆっくりと闇に沈んでいく。身体を駆け巡る快感に、意識を失いそうになった瞬間――
「ぷはあ……♪」
ちゅぽんと音を立てて、アレクのものが口外へと解放された。それと同時に、口を塞いでいたメディの軟体もするすると離れていく。
アレクは重い身体を引きずるようにして、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先で、メディは搾り出したばかりの精液をうれしそうに舌の上で転がしていた。
紅く半透明な身体の中で、白い精液が揺らめいている。
メディの身体に吸収されつつあるそれは、まるで先ほどまでメディに翻弄されていた自分のようだった。
「どう…アレク? 溶けちゃいそう、だった?」
口元に白い液体をこびり付かせながら、メディはどこか嗜虐的な笑みを浮かべる。
視線を下に向けると、メディに蹂躙されてすっかり力を無くした肉棒が下腹部付近に横立っていた。
やはり、昨日お預けを受けた意趣返しのつもりだったのだろうか。
「…ちょっと、僕には、凄すぎたよ…」
「だって…アレクが昨日、意地悪したから」
「それは謝るから…今度はもうちょっと、手加減してくれないかな」
アレクの力のない声に、メディは舌を出しながら首肯する。まるで、悪戯を窘められた子供のように。
メディを怒らせたらどうなるか、アレクは身にしみて理解できたような気がした。
完全に腰が抜けてしまって、動けない。タコのように脱力するアレクを、メディはうれしそうに見つめていた。
「あ」
「…どうしたの?」
「足音が、聞こえる。ウィルが、帰ってきたみたい」
「え」
それはまずい。
メディはアレクにのしかかった姿勢のままで、アレクの下半身は未だ裸のまま。
この状況を、ウィルに見られてしまうわけにはいかない
「大丈夫。私に、任せて」
「え、わ、ちょ――メディ、くすぐったいって…!」
するりと、メディの身体がアレクの服の下に入り込む。
柔らかい軟体が、顔や体に浮かんでいた汗や下半身の精液の名残を拭い去る。
驚くほどの手際の良さで、アレクは服を着せられた。
最後にメディがベッドから飛び降りると同時に、がちゃりと音を立てて扉が開いた。
「…あ、アレクさん。おはようございます!」
重そうに桶を抱えたウィルが、小屋には入るなり元気な挨拶を投げかけてきた。
「う、うん。おはよう…随分と、早起きなんだね」
どうにかして平常心を装いながら、アレクは返答を返す。
傍らで、メディは何事もなかったかのようにニコニコと笑っている。
その変わりように、アレクは若干の恐怖心を覚えた。
今後は、メディをからかうときは気をつけるようにしよう。
そうアレクは、心の中で誓った。
●
「ふあぁ…っとと」
日がようやく登り始めた辺りの、清々しい早朝。
ウィルは欠伸を噛み殺しながら、桶で水を運んでいた。
一食一飯の恩義があるのだから、これくらいはしないと申し訳がない。
幸いにも、早起きは修道院の頃からの習慣。
大した苦も無く誰よりも早く起き、こうして仕事に従事することができた。
「…あ、アレクさん。おはようございます!」
扉を開けると、家主であるアレクさんは既に起床していた。
結果的にウィルの方が早かったとはいえ、アレクさんもかなり早起きな方のようだ。
「う、うん。おはよう…随分と、早起きなんだね」
そういうアレクさんの傍らには、先程まで眠っていたはずのメディさんがいた。
アレクさんはどこか恥ずかしげな様子で、対するメディさんは満足気な様子。
…何というか、相変わらず仲が良さそうな雰囲気。
「この時間に起きるのが、日課ですので。あ、お水は此処においておきますね」
「そこまでしてくれなくても良かったのに」
「いえ、居候なわけですから。これくらいはしませんと。他に、何かやることはありますか?」
屋敷の頃の癖で、むしろ働いていないと落ち着かない。
半ば強引に、朝食の準備まで手伝ってしまった。準備とは言っても、木製のカップに水を注いで、保存されていたパンを二つ取り出すだけだが。
「…あれ、メディさんの分はいらないのですか?」
「私は、要らない。ごはんなら、もう、貰った」
「え?」
にっこりと、メディさんがアレクさんに笑いかける。対するアレクさんは、何やら気不味げに視線をそらす。
妙な雰囲気に首をかしげながらも、アレクさんと共に椅子に座る。
しっかりと神へ感謝を捧げた後、ウィルは食事を始めた。
「――それで、ウィル。今後のことだけど…」
パンを食べ終えたところで、アレクさんは切り出した。
ごくり、とウィルは息を飲む。
彼は、結局のところ僕をどうするつもりなのだろうか。
このままレオンには秘密にしておいてくれるのか、それとも僕のことを彼に知らせてしまうつもりなのか。
「一応もう一度確認するけど…君は今後もマンドラゴラを探したい。でも、レオンさんには秘密にして欲しい。そうだね?」
「は、はい」
「僕としては、あまり面倒事に関わりたくないというのが本音かな。そういうのが嫌で、此処で隠者の真似事をしてるわけだし」
そう言うからには、やはりレオンに知らせるつもりなのだろうか。
僕は消沈して、頭を垂れてしまう。
メディさんが不安そうな視線をこちらに向けるなか、アレクさんは言葉を続ける。
「だから、僕達が君の事を手伝うのは面倒なことになるまで。それまでなら、出来ることなら手助けしてあげる」
「…え。と、いうことは…その」
「レオンさんに連絡するのは、もう少し後にするよ。状況によっては連絡することになるけど、それで良い?」
「は…はい! ありがとう、ございます」
深々と、ウィルは頭を垂れる。
嬉しさのあまり、挙措が少々大袈裟になってしまった。
視界の端で、クスクスとメディさんが笑っている。
「それで、今日も森の中を捜すつもり?」
「は、はい。食後、すぐにでも行こうかと思っていました。あまり、こちらにお邪魔してしまうのも悪いですし…」
「それなら、今日はルイと一緒に行くといいよ。ルイなら多少森の中を歩き慣れてるだろうし」
「ルイ、というと…あの、ワーキャットですか?」
恐る恐る、ウィルは復唱してしまった。
先日アレクさんの膝の上で丸まっていた姿は大人しそうだったが、やはり少し怖い。
「そういうわけだから、お願いできる?」
「にゃあ」
「わっ!?」
いつの間にか、背後にワーキャット――ルイスがいた。
ルイさんは肯定とも否定とも取れる曖昧な鳴き声を上げた後、胡散臭そうな眼でこちらを睨め回してくる。
こちらが視線をそらせずにいると、やがてルイさんはぷいと視線を逸らし、小屋の外へと去っていってしまった。
「…もしかして、僕って、嫌われてますか?」
「いや、それほどでもないと思うよ。やっぱり初めての人だから、警戒はされてると思うけど」
動物は嫌いじゃないが、当然魔物と接した経験は一度もない。
言葉も通じないようだし、どう接すればいいかわからなかった。
逡巡するウィルの手に、突然冷たく柔らかい感触が重ねられる。
ぎくりと視線を上げると、メディさんが僕の手に自らのそれを重ねながら、優しい表情でこちらを見ていた。
「動物扱い、しない方が、良い」
「え?」
「対等に、接すれば、大丈夫」
ウィルの不安感を読み取ったかのような、正確な助言。
メディさんのその言葉に、アレクさんは納得するように笑っていた。
「確かに、その通りかな。ルイは賢いから、多分こちらの言うことは全部理解してると思う。
だから、僕達と同じように接してあげて」
「は…はい。わかり、ました」
曖昧に、ウィルは頷く。気づけば、顔が赤く火照っていた。
…やっぱり、女の人は少し苦手だ。
傍らで優しげに笑うメディさんの顔さえ、まともに直視できない。
「でも、あまり森の奥には行かないようにね。実を言うと、僕もそう奥まで入ったことはないんだ」
「そう…なのですか?」
「ヤンに行くなって言われていてね。もし行くなら、彼と一緒の方がいいよ」
僕は、ギロリと鋭いヤンさんの眼光を思い出す。
正直、頼みづらい。しかし、いざという時は頼むしか無い。
「それじゃあ、僕は果実酒の仕込みがあるから、此処で失礼するよ。
嗚呼、そうそう。メディ、ウィルに食べ物を分けてあげて。食料も無しに森の中を歩き続けるのは辛いだろうし」
「え。あ、いや。そこまでして頂かなくても――」
「別に、気にしなくてもいいよ。僕は、教会の神の教えに従っているだけとも言えるしね」
「え?」
「――『何事でも自分にして貰いたいことは、他の人にもそのようにしなさい』」
「…あ」
ウィルは、その言葉を聞いてはっとする。
どこかで、聞いたことがある言葉だった。
かつて修道院長先生に何度も教えられた、聖句の一つ。
「求めれば、与えられる。探せば、見つかる。
人にして欲しいことは、貴方も人にしなさい――ですか」
脳裏に浮かび上がった言葉を、ウィルは暗唱する。
良く出来ました、というようにアレクさんが笑う。
心の何処かを共有できたような心地がして、ウィルは少しほっとした。
「貴方が道を違えなければ、神はきっと貴方の探し物を与えて下さるでしょう。
神の御加護が、ありますように」
粛々と、アレクさんは告げる。
その様は、まるで旅人に祈りを捧げる神父のようだった。
目を瞑り、全ての表情を消して祈るその表情――それを、ウィルはどこかで見たことがあるような気がした。
くすり、とアレクさんは笑う。神聖な雰囲気が立処に消え、小屋に現実感が戻ってくる。
ウィルの傍らで、キラキラとした眼でメディさんがアレクさんを見つめていた。
「わぁ…今日のアレク、なんか、凄く綺麗」
「あはは…これでも、修道士だからね。たまには、修道士らしいこともしないと。
…どうかな。少しは、落ち着いた?」
「え?」
「ずっと、緊張してたみたいだから。こうすれば、少しは楽になるかなと思って」
「――あ」
そこで、ウィルはやっと気づいた。
突然聖句を持ち出したのは、慣れない長旅による緊張を宥めるため。
大きな街が少ない此処近辺では、神に祈る場所すらあまり多くない。
教会の信者としての心の拠り所がなく、不安がなかったといえば嘘になる。
聞き慣れた神の言葉を聞き、ウィルはいつの間にか心が落ち着いているのを感じた。
「その…色々と、ありがとうございます」
なんと返答すればいいかわらかず、結局そんな適切かもわからない言葉を返してしまった。
アレクさんはそれに対して、無言で裏表の無い笑みを返す。
なぜ彼が『森の隠者』と呼ばれるのか、わかった気がした。
●
全く…面倒な仕事を任されてしまったものである。
吾輩は溜息を吐き出しながら、ちらりと背後を見やる。
視線の先には、息を切らせながら我輩を追ってくる小柄な小僧――ウィルの姿がある。
「ルイ…さん! ちょっと、待って、下さい…!」
ちょっとした草むらにさえ難儀しながら、遅々とした足取りで近付いてくる。
身体は吾輩より大きいくせに、運動神経は皆無らしい。
よくそんな身なりで森の中を探索しようなどと思ったものだ。
――にゃおぅ…。
小僧が吾輩に追いついてから、吾輩は次の枝に飛び移る。
捜し物をするならば、高いところの方が良い。
しかし、どうやら小僧は木に登ることすら出来ないらしい。
これなら、吾輩が一人で捜した方が早いような気もする。
「ハァ…ハァ…」
そろそろ小憎の体力が限界のように見えたので、吾輩は足を止めて木から降りることにした。
吾輩が地面に降り立ったのを見て、小僧はあからさまにホッとしてみせた。
木陰に腰をおろしながら、小僧は動物の胃で出来ているらしい革袋に口をつける。
甘ったるい、果物の香り。おそらくは、あるじが造った果実酒だろうか。
「あの…すみません。僕のこと、嫌いですか…?」
息を整えながら、小僧は我輩に恐る恐る話しかける。
別に、好きでも嫌いでもない。
この小僧は貴族の匂いはするものの、貴族特有の高慢無知な態度は感じられない。
強いて言うならば、そのオドオドした態度が気に入らないというだけの話。
生憎と吾輩は人の言葉を離すことが出来ないので、その返答を小僧へと伝えることは出来なかった。
「ご、ごめんなさい…僕、運動神経が悪くて…本の整理とかは、得意なんですけど…」
何を勘違いしたのか、小僧は全く見当違いの詫言を口にする。
今更何を言っているのだろう。これまでの様子を見ていれば、全くの自明である。
呆れ果ててモノも言えない――が、自らの主人の事を思うその気持ちだけは、本物らしい。
「ふぅ…もう、大丈夫です。先を急ぎましょう」
小僧は立ち上がり、また草木と奮闘し始める。
慣れない行軍に疲れているようだが、此処まで一度も弱音は吐いていない。
その熱心さ、そして忠誠心は、同じくあるじを持つ者として共感を持てた。
――…にゃー。
吾輩は立ち上がり、また木の上へと登る。
そして、先程までしていたように、小僧を少しでも草木が少ない獣道へと誘導しようとして――
ぴくりと、思わず耳を立てる。何かが、聞こえた。動物ではない――人間の、話し声。
――にぃ…!
視線の先に、二人の人間を見つけた。
物々しい鎧に身を包んだ二人の男は、大樹の影で何かを話していた。
そして間の悪いことに、その少し手前で小僧が何の警戒もなく茂みを潜りぬけ、鎧の男達と鉢合わせようとしていた。
吾輩の判断は、一瞬であった。
足場にしていた枝から、音を立てぬよう飛び降り――そして、小僧を押し潰した。
「わぷっ…!」
もちろん、完全に下敷きにしたわけではない。
一度手前に着地して、その後小僧の背にのしかかっただけだ。
小僧は何事かと眼を白黒させていたが、人の言葉を話せない我輩に説明はできなかったし、そんな時間もなかった。
また、話し声が聞こえてきた。そこでやっと小僧は吾輩の意図に気づいたらしい。
我輩と小僧は、茂みの影からその向こうにいる二人の動向を凝視する。
●
「ハァ…ハァ…」
予想していたことだったが、僕はルイさんについていくだけでも精一杯だった。
昨日もそうだったが、この森は少し奥に進んだだけで人智未踏の密林と化す。
地面どころか石の上にさえ苔に覆われているところもあり、足場も悪い。
そんな森の中を、ルイさんは頭上の枝を伝って一人で進んでいってしまう。
やっと彼女に追いついたところで、僕は革袋から水分を補給しながらルイさんに尋ねる。
「あの…すみません。僕のこと、嫌いですか…?」
元より、返答は期待していない。しかし、ウィルは聞かずにはいられなかった。
その言葉に、ルイさんはふん、と小さく鼻を鳴らしただけだった。
嫌っているというより、呆れているような様子。
「ご、ごめんなさい…僕、運動神経が悪くて…
本の整理とかは、得意なんですけど…」
とりあえず、呆れられている原因と思われる点について謝罪してみる。
しかし、ルイさんの双眸は相変わらず細められたままだった。明らかに、意思疎通が出来ていない。
ウィルは思わず嘆息してしまったが、気を持ち直して立ち上がる。
例え相手が言葉の通じない魔物であっても、誰かと一緒にいるというだけで、一人で森を歩き回っていた昨日より心は幾分か軽い。
「ふぅ…もう、大丈夫です。先を急ぎましょう」
「…にゃー」
僕の言葉に答えるように、ルイさんは立ち上がってまた木の上に戻っていった。
革袋を腰にくくりつけながら、ウィルは重い腰を挙げて草木を押し退ける作業に戻る。
ルイさんは軽い身こなしで頭上の木々を飛び移り、こっちだとばかりにこちらを見る。
ウィルと彼女の間には、ウィルの背丈程の長さを持つ藪が茂っていた。
これを越えなければならないのかと思うと、ウィルは心が挫けそうになった。
「…ハァ」
ウィルは疲れた息を吐き出しながらも、心を震え立たせる。
全ては、恩人であり主君であるアクイラ伯のため。
よし、と心の中で気合を入れ、藪の中を掘り進み始めた――その時、
「わぷっ…!」
突然、何かに押し潰された。
頭を強く押さえつけられ、地面に顔を押し付けられる。
草木と泥の味が、口の中に広がる。
むせこみながら立ち上がろうとしたところで、ぐいと更に強い力で抑えつけられる。
「ッ…!」
獣の匂い。野生の動物に――襲われた?
ウィルは恐怖に表情を凍らせたが、すぐに状況を理解する。
視線を右へずらすと、緊張に猫耳を尖らせるルイさんの顔があった。
今にも、頬が触れ合いそうな距離。背中に、何か柔らかい感触。
自分が今ルイさんに押し倒されていると気づき、ウィルの頭は沸騰する。
今更ながら思い出したが、彼女は魔物でワーキャットであると同時に、一人の女性だった。
身体に押し付けられる柔らかい感触は成熟した女のそれ。一応外套とちょっとした下着を身につけている様子だったが、ウィルからしては薄すぎる。
間近で見るその顔は、凛々しくもどこか可愛らしく――とても、綺麗だった。
湧き上がった情動が、ウィルの心を掻き乱す。
「…うへぇ。なんスかこの馬鹿でかい木は」
そんなウィルを現実世界に引き戻したのは、一人の男の声だった。
聞き覚えのある、やる気のない声音。
ウィルは声が出ないように両手で口をふさぎながら、茂みの先へと視線を向ける。
茂みの隙間から、二人の人影が見える。一人が身に纏っているのは、鈍色の甲冑。そしてもう一人は――白銀の甲冑。
見紛うハズがない。屋敷で生活を共にしていた、二人の騎士。
「おそらく、これが噂に聞く『双神樹』だろう。
教会の教えが広まる以前には、信仰の対象ともなっていた巨樹だとか」
ちらりと視線をずらすと、二人のそばに巨樹が二つあるのが見えた。
その大きさに、ウィルは思わず息を飲んだ。明らかに付近にある別の樹木とは一線を画す、巨大な老木。
幾つもの種類の木が合わさり、捻れ合い、折り重なって、それぞれが巨大な二本の木となっているらしい。
「嗚呼…だから、古めかしい飾りが付いてるんスか。
…こんなモンを信仰する奴の気がしれませんねぇ」
鈍色の鎧を着込んだ男――アクイラ伯護衛隊副長テオバルト、もといテオが、やれやれと片方の巨樹の影に腰を下ろす。
肩に担ぐようにして持っているのは、最新式の十字弓。
テオバルトの傍らで小柄なナイフを手に辺りを見回しているのは、白銀の鎧の青年――護衛隊隊長であるレオンハルト、もといレオン。
マンドラゴラを探しに、此処まで来たのだろうか。
「…やはり、思った以上に足場が悪いな。
次に来る時は、もっと装備を整えたほうが良いかもしれない」
「ですよねー。正直俺もうかなりしんどいっす。
ぼちぼち斥候の役割は果たしましたし、そろそろ一度村に戻って体勢を立て直すってのは?」
ヘラヘラと笑いながらそう言うテオを、レオンは鋭い視線で睨みつける。
「お前…少しは真面目に働いたらどうだ。
こうしている間にも、アクイラ伯や多くの領民は病で苦しんでいるというのに」
「いやー、あの爺さんがそう簡単にくたばる筈はねぇでしょう。
幸いにも、高名な医術師殿が面倒をみて下さってることですし。
それにあまり気張り過ぎて、俺らまで死神に魅入られる訳にもいかんでしょう?」
「…お前が過労で倒れる様なんて、騎士学校時代を含めて一度も見たことがないんだが」
「そりゃそうでしょう。適度にサボってますから」
呆れて物が言えない、といった風にレオンは首を左右にふる。
テオは相変わらず楽観的で、レオンは相変わらず神経質らしい。
懐かしさを感じながらも、ウィルは息を潜めて彼らに見つからないよう注意する。
「そもそも、斥候なんて部下に任しとけばいいでしょう。なんで俺ら二人なんスか」
「魔物が住むと噂される森だ。魔物と交戦経験のある私とお前で行った方が確実だろう」
「いやー、期待して貰えるのは有難いんですけど…この森ってアレじゃないですか、『化物』が出たって噂のある場所でしょう?
「…化物?」
「流石に、『ブストゥムの悪魔』に遭遇したら勝ち目ないですよ。会ったら即効で逃げます」
『ブストゥムの悪魔』。確かそれは、此処ブストゥムに伝わる物語の一節。
かつてこの土地を守る騎士達が、この森に住まう魔物を一掃しようと進軍したことがあった。
しかしその結果、騎士達は一人残らず五体を分割された無残な死体となって、森の外に打ち捨てられていたという。
その数、千人。
それ以来この森は魔物が住むと恐れられながらも、野放しにされているとのことだった。
ウィルが初めてその話を聞いた時は、恐ろしさに身を震わせたものだった。
しかし、随分と昔の話らしいので、今では真に受けるものはあまり居ないと聞いていた。
「…100年以上前のお伽話だろう、それは。事実がどうかも疑わしい。
お前もそうだが、この国の団員には魔物に対して苦手意識を持つ者が多すぎるな…」
「そりゃあまあ、この国全体に言える教育不行き届きって奴ですねぇ。
てか、そう思うならなおのこと団員の連中を無理やり連れてきてビシビシやった方が良かったんじゃ――ん、おーいたいちょー。これなんスかね?」
突然、テオがこちらを向いた――気がした。
ぎょっとしてウィルは体を動かしそうになったが、ルイに抑えつけられて阻止される。
「…なんだ。何か見つけ――嗚呼、これか。おそらく、この神木に対する捧げ物だろう。
巨樹信仰をまだ続けている者が、この近くにいるということか」
「うへぇ、マジすか。つまりそれ、異教徒ってことじゃないですか」
「まあ、広義ではそうなるのかもしれないが…別に、気にするほどのことでもないだろう。
生贄といった野蛮な儀式でも始めない限りはな」
「あー、すみません隊長。俺、気分が悪くなってきました。帰って良いスか?」
「駄目だ。――せめて、ウィルの足取りを掴むまで、帰るつもりはない」
傍らにいたルイの耳が、ぴくりと跳ね上がる。
ルイは、ウィルを隠すように身体を低くする。
更に柔らかい身体が密着してきて、ウィルの動悸が少しだけ早まった。
「ウィル坊…ねぇ。ホントに、この辺りに来てるんスかね?」
「少なくとも、我々が今拠点としている村に来ていたのは間違いない。この森に向かったという証言も、馬車の行者や宿の者から得られている」
「ああもう。仕事増やしてくれちゃってまあ…あの爺さんがこの事を知ったら、大目玉どころじゃないでしょう」
「…アクイラ伯は、ウィルを溺愛しているからな」
「ああもう、ひょいっとそこらから出てきてくれませんかねぇ。――例えば、そこの茂みから」
テオの視線が、今度こそはっきりとこちらを向いた。
そして、眼が合った――気がした。
冷や水を浴びせられたかのように、ウィルの背筋に悪寒が走る。
「…どういう意味だ?」
「いやね、さっきそこの辺りから不自然にガサガサ草をかき分けるような音が聞こえてたんですけど…此処に腰を下ろした辺りで、突然聞こえなくなりまして。
人か動物か、はたまたそれ以外かは知りませんけど――何か、居るんじゃないスか」
相変わらずのんびりした口調で、テオは言葉を紡ぐ。
口調こそいい加減だったが、その視線は一直線にこちらを向いたまま。
まずい――このままでは、見つかってしまう。
緊張に身を凍らせるウィルが行き着いたのは、二つの選択肢。
このままじっとしているか、一目散に逃走するか。
「…私が行く。お前は、いざという時に備えろ」
「りょーかい」
がちゃり、と音を立てながらテオが十字弓を構える。
ウィルは、サッと青褪めた。このままじっとしていれば、レオンに見つかってしまう。しかしむやみに動けば、テオに射られてしまうかもしれない。
逃げ道がを、全て塞がれてしまった。ウィルは何も考えられずに、ただその場で動けなくなってしまった。
レオンが草をかき分ける音を聞きながら、僕が諦めるように眼を瞑った――その時、
ウィルの背中にあった重みが消え、がさりと茂みが大きな音を立てた。
「――ッ!?」
レオンの判断は、素早かった。
藪から飛び出した何か――ルイに向けて、手に持っていたナイフを一閃させた。
幸いにも、ナイフの刃はルイに届かなかった。
ルイはレオンには見向きもせず、レオンの足元を駆け抜ける。
ウィルの視線の先で、テオの顔が驚愕に歪む。
「な――ワ、ワーキャットォ!?」
大袈裟に驚きながらも、テオの十字弓は寸分違わずルイへと向けられていた。
鋭い矢の一撃が、ルイの足元を穿つ。その衝撃に、ルイは体勢を崩して一時停止してしまう。
テオの手が、目にも留まらぬ速さで矢の再装填を行い、矢の先をルイへと向ける。
ウィルは目を見開き、咄嗟に叫び声をあげようとした――その瞬間、
「止めろ! 撃つなテオバルト!」
普段からは考えられないレオンの怒号に、ウィルは言葉を発する機会を失った。
ぎょっとしたテオが、引き金から手を離す。
次の瞬間には、ルイは向こう側の茂みの中へと飛び込んでいた。
ざあ、と一陣の風が吹き、辺り一帯の草木を揺らす。
「…あービビった。なんで止めたんスか?」
「むやみに命を殺めるな。あのワーキャットに、敵意はなかった。
私が近づいたから、飛び出してきただけだろう」
「…相手は、魔物ですよ? 見逃していいんスか」
「此処は戦場じゃない。…殺さなければならない、理由はない」
そう言いながら、レオンはルイが去っていった方角を見つめる。
テオは深々と嘆息しながら、十字弓を肩に担ぎなおす。
「…アイツ、もしかして前に報告があった奴じゃないスか。
首輪をつけた、作物荒らしのワーキャット…でしたっけ?」
「そういえば…そんな話もあったな。
まず、首輪をつけた魔物が畑を荒らしているという報告が、幾つかの村から知らされて、
確認を取らせるために兵士を遅らせようとした矢先に、村人から『解決した』と連絡が来た――だったか?」
「何とも、妙な話っスよねー。…あれ、でもさっきのアイツ、首輪付けてませんでしたね?」
「…一応、その件も調べておくか」
レオンはナイフを持ち直し、彼らが進んで来たらしい獣道を後戻りし始める。
その様子を見たテオの表情が、一転して喜色に染まる。
「おや、隊長。そろそろ村に帰還する頃合いで?」
「…この森には、噂通り魔物が居るということがわかった。
敵意はなかったにせよ、このまま二人だけで探索するのは危険かもしれない。
少し辺りを探索してから、村に戻るぞ」
「ですよねー。じゃあ、とっとと帰るとしますか。きっと隊員も隊長を心待ちにしてますよ!」
「…調子の良い奴め。ふざけてないで、さっさと行くぞ」
「アイッサー」
獣道の向こうへ、二人の騎士達は歩いて行く。
しばらくの間、草を踏む音だけがウィルの耳に届き――やがて、何も聞こえなくなる。
どうやら、見つからずに済んだらしい。
ウィルは深々と息を吐き出しながら、ゆっくりと身体を茂みから引っ張り出す。
「…あ」
立ち上がろうとしたウィルの傍らに、いつの間にかルイがいた。
世話の焼ける奴め、と言わんばかりにウィルを細目で睨みつけている。
全ては、彼女の機転のおかげだった。言わなければいけない、言葉がある。
「ありがとう、ございました」
「…にゃあ」
ぷい、と顔を背けながら、ルイは小さく鳴き声を上げた。
まるで、礼を言われるまでもない、と答えたかのように。
凛とした表情で佇むその姿は、主君に仕える騎士そのものだった。
●
一体これは、どういう状況なのか。
目の前で繰り広げられた光景に、私は目を離せないでいた。
二人の騎士、ワーキャット、そして――十字架の首飾りを持った少年。
「………」
私は『双神樹』の影から、わずかに顔を覗かせる。
視線の先では、少年がワーキャットに対して何やら親しげな様子で話しかけている。
少年の容姿は、騎士達が探していたアクイラ伯の従者の特徴と一致している。
それがどうして、あのワーキャットと行動を共にしているのか。
「…こりゃあ…」
面倒な場面に、出くわしてしまった。
今ここで見た光景は、上手く行けば利益につながるモノだが、同時に扱いに困るモノだ。
見なかったことにするか、騎士に報告するか、それとも跡をつけて詳細を調べるか――その後の判断によって、得られる利益や危険度が大きく変化する。
息を潜めたまま、私は思考の海を漂っていた。だから、後ろから近づくその小さな影に気づくことができなかった。
とんとん、と肩を叩かれる。ぎょっとして、私は振り向いた。
「…っ…」
悲鳴を挙げなかった自分を、褒めてやりたい気分だった。
もし此処にいたのが自分以外の村人だったらその場で叫び声を上げ、面倒なことになっていただろう。
視線の先にいたのは、半液体状の赤い身体を持つ魔物。
レッドスライム、だった。
「…んー…」
レッドスライムは、なぜかこちらの顔を見つめたまま、小首を傾げる。
スライムにしては、理知的で賢そうな表情をしていた。元より普通のスライムと比べ知能が高いレッドスライムだが、それにしてもこの表情は人間のそれに近い。
観察するような視線で、レッドスライムはこちらの顔をジロジロと見つめている。
私はといえば、長年の癖で商人特有の愛想笑いを浮かべてしまっていた。
「…もしかして、あなた、マルクさん?」
「――へ?」
多少たどたどしい口調で、しかし聞き取りやすい声音で、レッドスライムの口は言葉を紡いだ。
なぜ、私の名前を知っているのか。
かつて旅先で魔物に遭遇することは幾度かあったが、この国で魔物を知り合いに持ったことなどあるはずがない。
予想外の事態に、私は曖昧な愛想笑いのまま硬直してしまう。
「これは…何とも、まずいところを見られてしまいましたね」
レッドスライムとは別の声が、どこからか聞こえてきた。
はっとして視線を巡らすと、レッドスライムの後ろから新たな人影が現れていた。
困ったような表情を浮かべた、穏やかな印象の青年。
最近既知の間柄となったその人物の顔を見て、私は眼を丸くした。
「ア、アレクの旦那…? どうして、此処に?」
「話せば長くなりますが…それは、こちらの台詞でもありますね」
「それは…こちらもなんと言っていいか…」
背後に居るワーキャットと少年に聞こえないよう、ボソボソと小声で返答を返す。
苦笑しながら、アレクは顎に手を添える。
それは彼が言葉を探したり、何かを思い出そうとするときの癖。
状況を全く理解出来ないまま、私は息を飲みながら彼の言葉を待つ。
「そうですね…此処で話すのもアレです。
お互い、言い訳は私の家でということでどうですか?
もちろん、私の事を信用して頂くことが前提となりますが」
冗談混じりに、アレクは言う。私は、思わず苦笑してしまった。
お互いが腹に何かを隠している事が明らかなこの状況で、よくそんなことを言えるものだ。
これが商人同士の密談であったならば、相手の拠点に赴いたところで口封じに合う可能性も考慮しなければいけないところ。
しかし、今の私は商人ではなく、彼もまた商人ではない。
そして、彼がそういう姑息な策略が嫌いな人種であることは良く知っている。
「…わかりました。では、話はその時にということで」
目の前で、にこりとアレクが笑みを浮かべる。
その表情は、純粋な笑顔に見えてどこか空虚だった。
傍目からは分かりにくいかもしれないが、人間関係に疲れた世捨て人特有の疲れた笑顔。
――嗚呼、多少の違いはあるとはいえ、やはり私と彼は同じ人種だ。
傍らでレッドスライムに見つめられながら、私とアレクは静かに握手を交わした。
11/07/24 23:56更新 / SMan
戻る
次へ