とある逃亡者の新しい日常。(前篇)
「ちぃーす」
ばん、と派手に扉が開かれる。
思わずびくりと身をすくませ、しかし訪問者の顔を見てすぐにほっとする。
「…ヤン。扉を蹴り開くのはやめてって言ったでしょ?」
「知るか。元は俺んちだろ。俺の勝手だ」
ヤンは後ろ手に扉を閉める。
土色に汚れた外套を脱ぎ棄て、傍に置いてあった椅子にどかりと腰掛ける。
「疲れたわー。とりあえず酒くれ酒。無ければ水」
「ここは酒場でもないし、僕は酒場のマスターってわけでもないんだけどなあ」
口ではそう言いながらも、体は無意識に傍らのジョッキと果物酒が入った樽に向かっていた。
何度もこのやり取りを繰り返したからか、いつの間にか癖になってしまっている。
「さんきゅ。…っぷは、生き返るぅ。
いやー、家に帰ると勝手に酒が出てくるってのは良いねえ」
「人を酒汲み人形みたいに言わないでくれる?」
「はは、わりぃわりぃ。
じゃあアレク、お前も飲めよ。飲めないわけじゃねぇんだろ」
ヤンはジョッキを突き出す。
それに果物酒を継ぎ足しながら、アレクは首を横に振った。
「僕はいいよ。まだやることもあるし、昼間から飲んだくれるわけにはいかないから」
「ちぇ、つれねぇなぁ…」
嘆息しながら、ヤンはちびちびと酒を舐める。
その様子を見て、アレクはいつものように笑う。
此処へきて、はや10日。
アレクも、やっと今の生活に慣れてきた。
かつてと違い、身の回りのことはすべて自分でやらないといけない。
それは思ったより大変なことだったが、すぐに慣れた。人間、必要性が生まれるとどうにかなるものだと感心する。
やっと手に入れた、穏やかな生活。
ふと、形のない不安がアレクの胸をよぎる。
「ヤンは、何も聞かないね」
無言でちびちびと酒を飲むヤンに、アレクは何となく話しかけてしまった。
育ちの悪そうな鋭い眼差しが、アレクを突き刺す。
「あ?」
「僕の事。怪しいとは思わないの?」
人里離れた辺境。深い森の辺にある、棄てられた山小屋。
そこに、アレクは突然やってきた。そこが、ヤンの縄張りであるとは知らずに。
暗闇の中でヤンと初めて相対した時、アレクは一瞬殺されるかと思った。それほど、常日頃のヤンの眼つきは悪い。
だが今、何の因果かアレクは此処に住むことを許されている。
「別に。今時珍しくねぇだろ、家無しなんて」
「珍しくはないかもしれないけど…その、普通はもう少し警戒したりしない?」
「かもな。でも、実際何もないんだから良いじゃねぇか」
言いながら、またジョッキを突き出される。
アレクは嘆息しながら、ジョッキに果物酒を継ぎ足す。
「訳とか、聞かないの? こんな場所に家無しの人間がやってくるなんて、不思議で仕方ないと思わない?」
「まあ…確かに。こんなところに来る人間っつったら、町の牢獄から脱走した囚人か死刑囚くらいだわな。
なんてったって、此処は少し歩けば化け物だらけの帰らずの森。勇敢な聖騎士様ですら、此処に近づきたいとは思わないだろうよ」
「なら――」
コン、とジョッキが即席で拵えたカウンターにおかれる。
肘をつき、ヤンは心底呆れたような表情でため息を付く。
「ったく、しつこいヤツだな。お前が訳ありなのは、一目見た瞬間からわかってるっつーの。
だから何だ。お前はその理由を言えるのか?」
「それは…」
もちろん、言えない。
言えるわけがない。
「なら、それで良いじゃねぇか。俺も別に興味ねぇ。
ついでに行っとくが、寝床なんて他にいくらでもあるんだよ。お前にひとつ譲ったところで屁でもねぇ。
つか、今更なんでそんな話するんだよ」
「え? あ、えーっと…」
実を言うと、なんとなく口から出てきてしまっただけだ。沈黙に耐えかねた、というべきか。
しかし無理やり理由をつけるのならば。おそらくアレクは、心配だったのだと思う。
今まで生きてきて、アレクの周りには利己的な人間しかいなかった。だから、ヤンがなぜ理由もなく寝床を譲ってくれたのか分からなかった。
何か企みがあるのでは――そう、無意識に考えてしまった故の行動、なのかもしれない。
「…まあ、いいや。さて、それじゃ俺、そろそろ行くわ」
「ぇ」
がたん、と音を立ててヤンが立ち上がる。
脱ぎ捨ててあった外套を拾い上げ、汚れを叩き落す。
「もう行っちゃうの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「此処には酒飲みに来ただけだからな。また飲みたくなったらくる」
まるで、風のような人だ。アレクはそう心中で呟く。
何を考えているのか、よく分からない。だが、その奔放さがとても羨ましい。
大きな欠伸をしながら、ヤンはゆっくりと出口へ歩き去っていく。
「…ああ、そうだ。アレク、これだけは言っとく」
突然、ヤンが何かを思い出したかのように振り向く。
アレクは不意を打たれ、片付けようとしていたジョッキを取り落としそうになる。
「お前が此処にやってきたあの日の夜、俺はすげぇ機嫌が悪かった。なんでか、寝付きが悪かったからだ。
俺がお前を家に泊める気になったのは、お前があの時くれたその酒がメチャ美味くて気持ちよく寝れたからだ。
だから、恩とかそう言うのは感じなくて良い。純粋に運の問題だ。お前はツいてたってだけの話」
淡々と、ヤンは言い捨てる。そして、にやりと笑う。
「っつーわけで、今度来る時も酒をよろしく。もし酒がなかったら、今度こそお前を追い出してしまうかもしれねぇ」
冗談じみたその言葉に、アレクは思わず笑みが漏れてしまった。
アレクは、神に感謝する。あの場所から逃げ出して初めて会った人間が彼で、心から良かったと思う。
「わかった。実は、今度自分で作ってみたいと思ってるんだ。もうすぐ持ってきたのは切れてしまうからね。
それで良ければ、ご馳走するよ」
「ん、じゃあそれでいいや。楽しみに待ってる」
そう言い残し、ヤンは颯爽と去っていった。
バタン、と扉が閉められる。アレクは笑みを浮かべながら、果物酒を元の場所に戻した。
●
ヤンの訪問の、少し後。
アレクは山小屋を離れ、森の中を川原に沿って歩いていた。
目的は、食べられる野草の採集。山小屋にはヤンが残してくれた食べ物がまだまだあるが、そればかりに頼っているわけには行かない。
昔の自分を捨てるために、ちゃんと自給自足しなければ。
アレクはそんな決意と共に、注意深く地面を見ながら森の中を進む。
「…あ」
やっと見つけた。昨日徹夜で読んでいた野草辞典の挿絵と、目の前に生える植物の絵が完全に一致している。
食用の雑草。味はともかく、栄養は豊富であるはず。摘みとって紐で縛り、皮袋の中に入れる。
アレクはふう、と大きく息を吐き出す。そこそこの時間歩き回っているはずだが、あまり食べられるモノが見つからない。
何気なく、アレクは顔を上げた。そして、少し離れた位置にある大木が目に留まる。
「――あれ?」
一瞬、見間違いかと目を擦る。しかし、それは確かにそこにあった。
澄んだ清流の向こう側。斜めに倒れかかっている大木の根元付近に、一際目立つ形状をした草が生えていた。
色は他の植物と同じく緑色だが、瑞々しく鮮やかな色彩と特徴的な葉の形は見間違いようがない。
――薬草だ。それも、かなり珍しい種類の。
外傷に良く効き、騎士の間では重宝がられる逸品だと辞典に載っていた。あれ一つで、何日か分の食料が買える。
しかし、アレクは逡巡する。なぜならば、薬草は川の向こう側に生えていたから。
『川の向こうには、絶対に行くな。化け物の巣窟だからな…食べられても知らねぇぞ』
ヤンの言葉が、脳裏に蘇る。
彼の言いつけを破ると、碌な事はなかった。一作日も、ヤンに指示された道を少しそれただけで沼にハマリそうになってしまった。
だからこそ、アレクは葛藤する。取りに行く、べきだろうか?
「………よし」
アレクは決心して、清流に足を踏み入れた。
不安はあったが、目と鼻の先。すぐに戻ってくれば問題ないと、そう踏んだ。
世話になってばかりではいられない。あれがあれば、ヤンに迷惑をかけず済む。
慎重に川を渡り、ゆっくりと薬草に近づいていく。川の底は浅く、足首までがつかる程度だった。
何事もなく、アレクは目的の場所にたどり着いた。
(確か、図鑑には…)
脳裏に浮かべた図鑑の説明文に従い、ナイフを使って根っこから掘り起こす。
昔の自分からすれば、ナイフにこのような使い方があるなど想像だにしなかっただろう。ナイフを使う機会なんて、食事の時にしか無いと思っていた。
袋の中に薬草を入れる。うまく行き過ぎているのではないかと思うほど、あっさりと事は進んだ。
後は、速やかに川を渡れば――
「…?」
ぐらり、と視界が歪んだ。
思わず、膝をつきそうになる。
「あ、れ?」
まるで、酒に酔ったかのような酩酊感。
何事かとアレクは頭に手をやり――そして、気づいた。
死角になっていた大木の裏。そこに、毒々しい色をした花が咲いている。
ぐらつく脳裏に、一つの挿絵が浮かぶ。まどろみの、花。強力な…眠り薬の、材料。
「やば…」
口と鼻を塞ごうとしたが、手遅れだった。甘ったるい香りが鼻腔をかすめる。
不気味な浮遊感。高所から落ちる様に、アレクの意識は暗闇に沈んだ。
●
――おなか すいた。
彼女は、いつものように森の中をさまよっていた。
朝に目覚め、空腹になれば食事を摂り、夜に眠る。
その、繰り返し。
――ごはん ないかな。
この森は豊かだった。だからどこへ行こうとも、彼女の「たべもの」となるものはあった。
葉。花。種。実。時に、小さな虫や小動物。
すぐに、「たべもの」は見つかる。しかしその日、彼女はなぜかそれらを食べる気になれなかった。
時々起こる、不思議な衝動。空腹なのに、食べたくない。食べたとしても、何かが満たされないような不思議な心地。
結局、彼女は食べるのをやめた。
――のど かわいた。
気づけば、体がだんだん乾燥してきていた。
彼女はゆるゆると、水音のする方へと進んでいった。
やがて湿った地面にたどり着き、彼女はそれから水分を吸収した。
その時、彼女は見つけた。
――?
何かが、ある。
見たことのないモノ。しかし、彼女の本能はそれを知っていた。
――にん、げん?
人間の、男。
大きさは、彼女より少し大きいくらい。しかし、彼女の体で包みこめないほどの大きさではない。
どくん、と彼女の中心が脈打つ。
――たべれる かな。
その問いに、彼女の本能は是と答える。そして本能は、それの食べ方を教えてくれた。
不思議と、先ほどまではあった「たべもの」に対する迷いは消えていた。
彼女は気づく。私はずっと、それを食べたかったのだと。
だから彼女は、それを食べることに決めた。
●
まどろみの中。アレクはベッドの上に横になっていた。
奇妙な感覚。此処がどこなのかわからない。しかし、それを全く疑問に思わない。
ただ、不気味な焦燥がある。一体、これは何なのか。
かちゃり、と金属音が耳元から響く。途端、全身が総毛立つ。
――え?
見れば、両手首には手錠がかけられていた。それぞれの錠からは太い鎖が伸び、ベッドの柱にくくりつけられている。
両足も同じ状態。首を起こそうとして、首にまで首輪が巻きついていることに気づく。
――これは?
思い出す。これは、過去の光景。
天蓋付きの、豪奢なベッド。そこに括り付けられる自分。そして、すぐに聞こえてくる――
コツン、という硬質な石畳を叩く音。今度こそ、叫び声が喉から漏れそうになる。
アレクは激しく暴れ、何とか拘束をとこうともがく。がしゃん、がしゃん。鎖は一向に緩まない。
ゆっくりと近づいてくる足音に、アレクの心が激しくかき乱される。
やめろ。やめてくれ。くるな。こっちに、くるな――コツン、と足音が扉の前で止まる。
ぎぃ、と扉が軋む音。そして、視界の端に不気味な笑みを浮かべた痩身の貴婦人の姿が映り――
「ッ!」
そこで、目が覚めた。
ぱちりと、目が合う。アレクを覗き込むように見ていたソレは、ひどく緩慢な動きで首を傾げる。
「え?」
仰天し、アレクは目を瞬く。体が、動かない。見れば、透明な何かが体にのしかかっている。
なんとか状況を理解しようと、アレクは未だ覚醒していない頭をフル回転させる。
(今のは…夢? いや、それよりもこの状況は――)
良く見ると、体にのしかかっているモノと自分を見つめているソレは、同じモノだった。
薄い水色。半透明で液状。女性の上半身のような体をした部分が、アレクをじっと見つめている。
女性の体の中心には、深い青色をした球体があった。魔物図鑑の挿絵が、脳裏に浮かぶ。
まさか、とアレクは背筋を凍らせる。
「ス…スライ、ム?」
夢の中でそうなったように、全身が総毛立った。
魔物。初めて、見た。
反射的に身を引こうとして、それすらもできないことに今更ながら気づく。
下半身は完全にその粘度の高い体にからめとられており、うまく動かすことができない。
「は、放――あ」
気づけば、アレクは裸だった。服はいつの間にか脱がされ、近辺に散乱している。
にゅるにゅると、体を覆うスライムが蠕動する。まるで、アレクの体を咀嚼するように。
このまま…食べられて、しまうのか?
ゆっくりと、スライムが体を包み込んでいく。アレクは後悔に押しつぶされそうになりながら、せめての抵抗と身を固くして目をつむる。
その途端、
「あくッ!」
激しい快感が、アレクの体を走り抜ける。
とっさに目を開いてしまい、再度ぱちりと目が合う。
自分より少しばかり幼い少女の形をしたソレは、穏やかな笑みを浮かべているように見えた。
「…え?」
呆けるのもつかの間、ぐにゃりとした粘着質な感触がアレクの股間を襲う。
「あぅッ!」
あまりの快感に、声が漏れ出る。慌てて口を塞ごうとしたが、手はスライムにからめとられて動けない。
唯一動かせる首を何とか持ち上げ、アレクはやっと何が起こっているかを知った。
アレクの股間にまとわりついたスライムが、彼の肉棒を刺激していた。
にゅるにゅると陰茎を揉み込まれ、アレクはまた悲鳴をあげてしまう。
「や、やめ――あぁッ!」
訳もわからぬまま、アレクは一方的に高められていく。
亀頭を粘度の高い部分で激しく揺すられる。陰茎をゼリー状の部分に絞り上げる様に擦られる。
まるで強制的に精液を搾り出そうとしているかのような、強烈な刺激。
「くぅッ、あ、あぁッ!?」
体がびくびくと痙攣するの抑えられない。
スライムの体の中では、肉棒が捏ね回される様子がくっきりと見えている。それが、さらに情動を促進させる。
アレクは反射的に歯を食いしばって耐えたが、あっという間に限界は訪れた。
「も、もぅ…」
「…♪」
スライムが、にこりを笑みを浮かべた気がした。それと同時に、アレクの肉棒がちゅうちゅうと吸い上げられる。
敏感な尿道口を刺激され、裏筋をヌルヌルと擦られ、アレクの脳裏がスパークする。
「あッ――!」
びくん、と肉棒が脈打ち、精液が放出される。
スライムの体は透き通っている。体内で白い液体が絞り出されている様は、アレクからもよく見えた。
「ぃ、あ、や、やめっ」
射精している最中も、スライムは容赦なく肉棒に刺激を加えてきた。
亀頭を捏ねくり回し、竿をすき上げ、さらなる射精を強いる。
あっという間に、肉棒の中に残っていた精液までもしごきだされる。
「ああ―――」
やっと射精が止まった途端に、倦怠感が訪れる。
疲れた――まるで、生命力まで吸い取られてしまったような心地がした。
それで終わりであるならば良かった。しかし、スライムにそのつもりはなさそうだった。
スライムはニコニコと笑みを浮かべながら、さらなる愛撫を繰り返してきた。
拘束が、強くなる。身動きが、全く取れなくなる。
「――ひ」
唐突に、全身から滝のような汗が噴き出す。
過去の記憶が蘇る。これと全く同じようなことを、されたことが――
――お前は、ただ、快楽に身を任せていればいいの。
艶めかしい、女の声。肉棒に伸びる、細くたおやかな手。
かちゃり、と鎖が擦れ合う音が聞こえた――気がした。
「ぁ、ぁあ、ああぁあぁあああぁ――!」
フラッシュバックが、アレクを襲う。
びくんと激しく痙攣するようにアレクの足が叩き上げられる。
意図して行った行動ではない。ただ、何かで拘束されるのが――怖かった。
限界以上の力で振り上げられた脚は、スライムの体をたやすく貫通する。
「――!?」
体の一部を破られたスライムは、びくんと震えて驚きの表情を見せる。
拘束が緩み、手がかすかに動くようになる。理屈を考える前に、アレクの体は行動を開始していた。
がばりと起き上がり、がむしゃらに右腕を振り上げる。
「うあぁあああああぁあ!」
ざん、と何かを裂くような手応え。
そのおぞましい感触に、アレクは思わず目を見開く。
「――ぇ」
「――ぁ」
そんな、小さな言葉を残して。スライムの体は、ぱんと弾けた。
アレクの体を覆っていたスライムが、溶ける様に粘度をなくす。
何が起こったのか、わからない。アレクは茫然と、振り上げた右手を見る。
手には、いつの間にかナイフが握られていた。前方に目を向けると、先ほどスライムの中心にあった核らしき球状の物体が力なく浮かんでいる。
球体には、刃物で切り裂かれたかのような裂傷が走っており、無残な断面図を晒している。それは、つまり――
「僕が…殺した、のか?」
そう実感した瞬間、猛烈な吐き気が襲ってきた。
胃の中を全部ひっくり返ったかのようなその感覚。アレクは左手で口を押さえ、何とか堪える事に成功する。
殺した。生まれて初めて、生き物を――殺してしまった。
ばちゃん、と音を立ててナイフが手から滑り落ちる。異形の体液で汚れた刃が目に映り、さらに吐き気がひどくなる。
(――違う。僕が殺したのは、人じゃない)
混乱状態になった心が、次々と言葉を乱雑に吐き出す。
人じゃない。だから良い。相手は魔物だ。魔物は殺せと、そう教えられてきた。だから問題ない。僕は悪くない。悪いのは――
かちゃり、と音が鳴る。三日月のような笑みが、脳裏に蘇る。
がん! とアレクは自らの頭を右手で殴りぬいた。
強く殴りすぎて意識が一瞬遠のくが、歯を食いしばって耐え切った。
じんじんとした痛みが頭に広がるにつれ、思考がクリアになっていく。アレクは深々と息を吐き出し、心を落ち着かせることに専念する。
…最悪だ。何を考えているのだと、アレクは自分自身を罵倒する。
やったのは自分で、悪いのも自分。此処で責任から目をそらしてしまっては、アイツらと同じ。畜生以下だ。そんなものに、なりたくない。
目尻に浮かんだ涙を拭い、アレクは立ちあがる。そして、自分が殺してしまったソレを見やる。
ずきりと、心が痛む。襲った相手に同情するなんて甘いにも程があると思うが、そう感じずにはいられない。
後悔の念にとらわれながらも、足元に落ちたナイフを手に取ろうとした――その時、
手の先にあったソレが、びくんと大きく震えた。
「わっ!」
アレクは反射的に手を引っ込める。びくん、と再度ソレが震える。
球状の物体が、脈動している。まるで、苦しむように。
生きて、いる。アレクの心に、黒い感情が蘇る。
気づけば、アレクはナイフを手に取っていた。だが、それを振り上げたところではたと踏みとどまる。
彼女を、殺すのか?
恐怖に突き動かされる本能は、ナイフを振り下ろせと叫んでいる。しかし、アレクに残る理性は、それを全力で拒否していた。
殺さなくて良いのなら、殺したくない。そもそも、止めを刺す必要があるのか? 別に、このまま放っておいても――
「っ!」
どくん、とアレクの心臓が大きな音を立てる。
そうだ。どちらにせよ、目の前のソレは死んでしまう。今止めを刺しても、放っておいても、どの道死んでしまう。
紛れもない、自分のせいで。
一瞬だけ垣間見た、スライムの笑顔が思い出される。
「………いや、だ」
ばちゃん、と音を立ててナイフが手から滑り落ちる。ゆっくりと、胸にわだかまる吐き気が消えていく。
殺したく、ない。
そう決めたアレクの行動は、早かった。
地面に散らばる荷物の中から袋を探し出し、先程見つけた薬草を引っ張り出す。
辞典には、魔物に効くとは書いていなかった。だが、やれるだけのことはやりたかった。
脳内で使用法に関するページをめくりながら、石を使って草を磨り潰す。
こういう事に関しては特に不器用な自分に苛立ちながらも、何とか薬草を薬の形状にすることに成功する。
「………」
ごくり、と息を飲む。
球体は半液状の薄い層に包まれている。だからアレクは、その層に薬を混ぜるように溶かし込んだ。びくん、と核が大きく震える。
植物特有の青臭い匂いが立ち込める中、スライムの核は幾度か蠢動を繰り返す。
それはまるで、痛みに苦しんでいるかのようだった。もしや逆効果だったのか――アレクの心に絶望が過ぎる。
忘れていたはずの後悔の念が戻ってくる。地面に両手を付き、うなだれるように頭を垂れる。
ぐにゃりと、額に奇妙な感触。
「え?」
はっとして頭を上げると、至近距離に何事もなかったかのような顔をした先程の少女があった。
まるで、地面から顔だけが生えているような状態。透き通った頭の中で、核がくるくると回転している。
裂傷が、閉じている。薬が、効いた。
体の力が抜け、アレクはその場にへたり込む。場違いにもほどがあるとは思ったが、アレクは神に感謝の言葉を捧げる。
重圧から開放されたような開放感。アレクは一瞬だけその心地よい安堵感に身を委ね――そして、すぐに現実に引き戻された。
「え?」
再度、アレクはそんなマヌケな声を出した。気づけば、また自分の体はスライムに拘束されていた。
顔だけだったスライムの顔が、一瞬で元の形に再構成される。水同然だったスライムの体が、また粘度を取り戻してアレクの体を包み込む。
しまった、と思った時にはもう遅かった。アレクは押し倒されているような状態に逆戻りする。
「――ひ」
喉から、掠れた声が漏れる。しかし、当然の報いだ。すぐに逃げなかった自分が悪い。
絶望に満ちた、しかしどこか落ち着いた心地で、アレクは自らが救ってしまったソレを見上げた。
だが、アレクは次の瞬間、首を傾げる。
「―――?」
スライムに、全く動きが無い。
こちらの体を包み込みはしたものの、じっとこちらを見つめたまま動かなくなっている。
一体、どうしたのか。その疑問に答えるように、スライムは突如行動を開始した。
両手を伸ばし、アレクの頬に触れる。感情の薄い顔がゆっくりと近づけられ、視線と視線がしっかりと合わせられる。
「どう、して?」
一瞬、それが誰の言葉なのかわからなかった。しかし、聞き間違いようはない。
その言葉は、確かに目の前のスライムの口から発せられていた。
「どうし、て?」
もう一度、彼女は呟くように言った。ゆっくりと動く彼女の口は、上手く言葉を話すことができないのか、もどかしげに動いている。
スライムは、目を逸らす。何故か悲しげな表情をした後、オロオロと視線をさまよわせる。
何かを伝えたいのか? だとしたら、一体何を伝えたいのか。
アレクはどうにかして彼女の意を汲み取ろうと、彼女の唇の動きを注視しようとした――その時、
「むぅっ!?」
突然、口を塞がれた。視界がスライムの綺麗な顔で埋まり、唇にひんやりとした冷たい感触が満ちる。
くちづけ、された。その事実を理解した瞬間、アレクは頭が真っ白になる。
なん、で? 心に生まれたその疑問は、スライムの舌使いによって一瞬で溶かされた。
頬の内側を綿密に舐められ、舌を吸い付くように絡み取られ、湧き出た唾液を余すことなく吸い出される。
激しい、しかしどこか優しい愛撫を受けながら、アレクの意識はゆっくりと遠退いていった。
ばん、と派手に扉が開かれる。
思わずびくりと身をすくませ、しかし訪問者の顔を見てすぐにほっとする。
「…ヤン。扉を蹴り開くのはやめてって言ったでしょ?」
「知るか。元は俺んちだろ。俺の勝手だ」
ヤンは後ろ手に扉を閉める。
土色に汚れた外套を脱ぎ棄て、傍に置いてあった椅子にどかりと腰掛ける。
「疲れたわー。とりあえず酒くれ酒。無ければ水」
「ここは酒場でもないし、僕は酒場のマスターってわけでもないんだけどなあ」
口ではそう言いながらも、体は無意識に傍らのジョッキと果物酒が入った樽に向かっていた。
何度もこのやり取りを繰り返したからか、いつの間にか癖になってしまっている。
「さんきゅ。…っぷは、生き返るぅ。
いやー、家に帰ると勝手に酒が出てくるってのは良いねえ」
「人を酒汲み人形みたいに言わないでくれる?」
「はは、わりぃわりぃ。
じゃあアレク、お前も飲めよ。飲めないわけじゃねぇんだろ」
ヤンはジョッキを突き出す。
それに果物酒を継ぎ足しながら、アレクは首を横に振った。
「僕はいいよ。まだやることもあるし、昼間から飲んだくれるわけにはいかないから」
「ちぇ、つれねぇなぁ…」
嘆息しながら、ヤンはちびちびと酒を舐める。
その様子を見て、アレクはいつものように笑う。
此処へきて、はや10日。
アレクも、やっと今の生活に慣れてきた。
かつてと違い、身の回りのことはすべて自分でやらないといけない。
それは思ったより大変なことだったが、すぐに慣れた。人間、必要性が生まれるとどうにかなるものだと感心する。
やっと手に入れた、穏やかな生活。
ふと、形のない不安がアレクの胸をよぎる。
「ヤンは、何も聞かないね」
無言でちびちびと酒を飲むヤンに、アレクは何となく話しかけてしまった。
育ちの悪そうな鋭い眼差しが、アレクを突き刺す。
「あ?」
「僕の事。怪しいとは思わないの?」
人里離れた辺境。深い森の辺にある、棄てられた山小屋。
そこに、アレクは突然やってきた。そこが、ヤンの縄張りであるとは知らずに。
暗闇の中でヤンと初めて相対した時、アレクは一瞬殺されるかと思った。それほど、常日頃のヤンの眼つきは悪い。
だが今、何の因果かアレクは此処に住むことを許されている。
「別に。今時珍しくねぇだろ、家無しなんて」
「珍しくはないかもしれないけど…その、普通はもう少し警戒したりしない?」
「かもな。でも、実際何もないんだから良いじゃねぇか」
言いながら、またジョッキを突き出される。
アレクは嘆息しながら、ジョッキに果物酒を継ぎ足す。
「訳とか、聞かないの? こんな場所に家無しの人間がやってくるなんて、不思議で仕方ないと思わない?」
「まあ…確かに。こんなところに来る人間っつったら、町の牢獄から脱走した囚人か死刑囚くらいだわな。
なんてったって、此処は少し歩けば化け物だらけの帰らずの森。勇敢な聖騎士様ですら、此処に近づきたいとは思わないだろうよ」
「なら――」
コン、とジョッキが即席で拵えたカウンターにおかれる。
肘をつき、ヤンは心底呆れたような表情でため息を付く。
「ったく、しつこいヤツだな。お前が訳ありなのは、一目見た瞬間からわかってるっつーの。
だから何だ。お前はその理由を言えるのか?」
「それは…」
もちろん、言えない。
言えるわけがない。
「なら、それで良いじゃねぇか。俺も別に興味ねぇ。
ついでに行っとくが、寝床なんて他にいくらでもあるんだよ。お前にひとつ譲ったところで屁でもねぇ。
つか、今更なんでそんな話するんだよ」
「え? あ、えーっと…」
実を言うと、なんとなく口から出てきてしまっただけだ。沈黙に耐えかねた、というべきか。
しかし無理やり理由をつけるのならば。おそらくアレクは、心配だったのだと思う。
今まで生きてきて、アレクの周りには利己的な人間しかいなかった。だから、ヤンがなぜ理由もなく寝床を譲ってくれたのか分からなかった。
何か企みがあるのでは――そう、無意識に考えてしまった故の行動、なのかもしれない。
「…まあ、いいや。さて、それじゃ俺、そろそろ行くわ」
「ぇ」
がたん、と音を立ててヤンが立ち上がる。
脱ぎ捨ててあった外套を拾い上げ、汚れを叩き落す。
「もう行っちゃうの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「此処には酒飲みに来ただけだからな。また飲みたくなったらくる」
まるで、風のような人だ。アレクはそう心中で呟く。
何を考えているのか、よく分からない。だが、その奔放さがとても羨ましい。
大きな欠伸をしながら、ヤンはゆっくりと出口へ歩き去っていく。
「…ああ、そうだ。アレク、これだけは言っとく」
突然、ヤンが何かを思い出したかのように振り向く。
アレクは不意を打たれ、片付けようとしていたジョッキを取り落としそうになる。
「お前が此処にやってきたあの日の夜、俺はすげぇ機嫌が悪かった。なんでか、寝付きが悪かったからだ。
俺がお前を家に泊める気になったのは、お前があの時くれたその酒がメチャ美味くて気持ちよく寝れたからだ。
だから、恩とかそう言うのは感じなくて良い。純粋に運の問題だ。お前はツいてたってだけの話」
淡々と、ヤンは言い捨てる。そして、にやりと笑う。
「っつーわけで、今度来る時も酒をよろしく。もし酒がなかったら、今度こそお前を追い出してしまうかもしれねぇ」
冗談じみたその言葉に、アレクは思わず笑みが漏れてしまった。
アレクは、神に感謝する。あの場所から逃げ出して初めて会った人間が彼で、心から良かったと思う。
「わかった。実は、今度自分で作ってみたいと思ってるんだ。もうすぐ持ってきたのは切れてしまうからね。
それで良ければ、ご馳走するよ」
「ん、じゃあそれでいいや。楽しみに待ってる」
そう言い残し、ヤンは颯爽と去っていった。
バタン、と扉が閉められる。アレクは笑みを浮かべながら、果物酒を元の場所に戻した。
●
ヤンの訪問の、少し後。
アレクは山小屋を離れ、森の中を川原に沿って歩いていた。
目的は、食べられる野草の採集。山小屋にはヤンが残してくれた食べ物がまだまだあるが、そればかりに頼っているわけには行かない。
昔の自分を捨てるために、ちゃんと自給自足しなければ。
アレクはそんな決意と共に、注意深く地面を見ながら森の中を進む。
「…あ」
やっと見つけた。昨日徹夜で読んでいた野草辞典の挿絵と、目の前に生える植物の絵が完全に一致している。
食用の雑草。味はともかく、栄養は豊富であるはず。摘みとって紐で縛り、皮袋の中に入れる。
アレクはふう、と大きく息を吐き出す。そこそこの時間歩き回っているはずだが、あまり食べられるモノが見つからない。
何気なく、アレクは顔を上げた。そして、少し離れた位置にある大木が目に留まる。
「――あれ?」
一瞬、見間違いかと目を擦る。しかし、それは確かにそこにあった。
澄んだ清流の向こう側。斜めに倒れかかっている大木の根元付近に、一際目立つ形状をした草が生えていた。
色は他の植物と同じく緑色だが、瑞々しく鮮やかな色彩と特徴的な葉の形は見間違いようがない。
――薬草だ。それも、かなり珍しい種類の。
外傷に良く効き、騎士の間では重宝がられる逸品だと辞典に載っていた。あれ一つで、何日か分の食料が買える。
しかし、アレクは逡巡する。なぜならば、薬草は川の向こう側に生えていたから。
『川の向こうには、絶対に行くな。化け物の巣窟だからな…食べられても知らねぇぞ』
ヤンの言葉が、脳裏に蘇る。
彼の言いつけを破ると、碌な事はなかった。一作日も、ヤンに指示された道を少しそれただけで沼にハマリそうになってしまった。
だからこそ、アレクは葛藤する。取りに行く、べきだろうか?
「………よし」
アレクは決心して、清流に足を踏み入れた。
不安はあったが、目と鼻の先。すぐに戻ってくれば問題ないと、そう踏んだ。
世話になってばかりではいられない。あれがあれば、ヤンに迷惑をかけず済む。
慎重に川を渡り、ゆっくりと薬草に近づいていく。川の底は浅く、足首までがつかる程度だった。
何事もなく、アレクは目的の場所にたどり着いた。
(確か、図鑑には…)
脳裏に浮かべた図鑑の説明文に従い、ナイフを使って根っこから掘り起こす。
昔の自分からすれば、ナイフにこのような使い方があるなど想像だにしなかっただろう。ナイフを使う機会なんて、食事の時にしか無いと思っていた。
袋の中に薬草を入れる。うまく行き過ぎているのではないかと思うほど、あっさりと事は進んだ。
後は、速やかに川を渡れば――
「…?」
ぐらり、と視界が歪んだ。
思わず、膝をつきそうになる。
「あ、れ?」
まるで、酒に酔ったかのような酩酊感。
何事かとアレクは頭に手をやり――そして、気づいた。
死角になっていた大木の裏。そこに、毒々しい色をした花が咲いている。
ぐらつく脳裏に、一つの挿絵が浮かぶ。まどろみの、花。強力な…眠り薬の、材料。
「やば…」
口と鼻を塞ごうとしたが、手遅れだった。甘ったるい香りが鼻腔をかすめる。
不気味な浮遊感。高所から落ちる様に、アレクの意識は暗闇に沈んだ。
●
――おなか すいた。
彼女は、いつものように森の中をさまよっていた。
朝に目覚め、空腹になれば食事を摂り、夜に眠る。
その、繰り返し。
――ごはん ないかな。
この森は豊かだった。だからどこへ行こうとも、彼女の「たべもの」となるものはあった。
葉。花。種。実。時に、小さな虫や小動物。
すぐに、「たべもの」は見つかる。しかしその日、彼女はなぜかそれらを食べる気になれなかった。
時々起こる、不思議な衝動。空腹なのに、食べたくない。食べたとしても、何かが満たされないような不思議な心地。
結局、彼女は食べるのをやめた。
――のど かわいた。
気づけば、体がだんだん乾燥してきていた。
彼女はゆるゆると、水音のする方へと進んでいった。
やがて湿った地面にたどり着き、彼女はそれから水分を吸収した。
その時、彼女は見つけた。
――?
何かが、ある。
見たことのないモノ。しかし、彼女の本能はそれを知っていた。
――にん、げん?
人間の、男。
大きさは、彼女より少し大きいくらい。しかし、彼女の体で包みこめないほどの大きさではない。
どくん、と彼女の中心が脈打つ。
――たべれる かな。
その問いに、彼女の本能は是と答える。そして本能は、それの食べ方を教えてくれた。
不思議と、先ほどまではあった「たべもの」に対する迷いは消えていた。
彼女は気づく。私はずっと、それを食べたかったのだと。
だから彼女は、それを食べることに決めた。
●
まどろみの中。アレクはベッドの上に横になっていた。
奇妙な感覚。此処がどこなのかわからない。しかし、それを全く疑問に思わない。
ただ、不気味な焦燥がある。一体、これは何なのか。
かちゃり、と金属音が耳元から響く。途端、全身が総毛立つ。
――え?
見れば、両手首には手錠がかけられていた。それぞれの錠からは太い鎖が伸び、ベッドの柱にくくりつけられている。
両足も同じ状態。首を起こそうとして、首にまで首輪が巻きついていることに気づく。
――これは?
思い出す。これは、過去の光景。
天蓋付きの、豪奢なベッド。そこに括り付けられる自分。そして、すぐに聞こえてくる――
コツン、という硬質な石畳を叩く音。今度こそ、叫び声が喉から漏れそうになる。
アレクは激しく暴れ、何とか拘束をとこうともがく。がしゃん、がしゃん。鎖は一向に緩まない。
ゆっくりと近づいてくる足音に、アレクの心が激しくかき乱される。
やめろ。やめてくれ。くるな。こっちに、くるな――コツン、と足音が扉の前で止まる。
ぎぃ、と扉が軋む音。そして、視界の端に不気味な笑みを浮かべた痩身の貴婦人の姿が映り――
「ッ!」
そこで、目が覚めた。
ぱちりと、目が合う。アレクを覗き込むように見ていたソレは、ひどく緩慢な動きで首を傾げる。
「え?」
仰天し、アレクは目を瞬く。体が、動かない。見れば、透明な何かが体にのしかかっている。
なんとか状況を理解しようと、アレクは未だ覚醒していない頭をフル回転させる。
(今のは…夢? いや、それよりもこの状況は――)
良く見ると、体にのしかかっているモノと自分を見つめているソレは、同じモノだった。
薄い水色。半透明で液状。女性の上半身のような体をした部分が、アレクをじっと見つめている。
女性の体の中心には、深い青色をした球体があった。魔物図鑑の挿絵が、脳裏に浮かぶ。
まさか、とアレクは背筋を凍らせる。
「ス…スライ、ム?」
夢の中でそうなったように、全身が総毛立った。
魔物。初めて、見た。
反射的に身を引こうとして、それすらもできないことに今更ながら気づく。
下半身は完全にその粘度の高い体にからめとられており、うまく動かすことができない。
「は、放――あ」
気づけば、アレクは裸だった。服はいつの間にか脱がされ、近辺に散乱している。
にゅるにゅると、体を覆うスライムが蠕動する。まるで、アレクの体を咀嚼するように。
このまま…食べられて、しまうのか?
ゆっくりと、スライムが体を包み込んでいく。アレクは後悔に押しつぶされそうになりながら、せめての抵抗と身を固くして目をつむる。
その途端、
「あくッ!」
激しい快感が、アレクの体を走り抜ける。
とっさに目を開いてしまい、再度ぱちりと目が合う。
自分より少しばかり幼い少女の形をしたソレは、穏やかな笑みを浮かべているように見えた。
「…え?」
呆けるのもつかの間、ぐにゃりとした粘着質な感触がアレクの股間を襲う。
「あぅッ!」
あまりの快感に、声が漏れ出る。慌てて口を塞ごうとしたが、手はスライムにからめとられて動けない。
唯一動かせる首を何とか持ち上げ、アレクはやっと何が起こっているかを知った。
アレクの股間にまとわりついたスライムが、彼の肉棒を刺激していた。
にゅるにゅると陰茎を揉み込まれ、アレクはまた悲鳴をあげてしまう。
「や、やめ――あぁッ!」
訳もわからぬまま、アレクは一方的に高められていく。
亀頭を粘度の高い部分で激しく揺すられる。陰茎をゼリー状の部分に絞り上げる様に擦られる。
まるで強制的に精液を搾り出そうとしているかのような、強烈な刺激。
「くぅッ、あ、あぁッ!?」
体がびくびくと痙攣するの抑えられない。
スライムの体の中では、肉棒が捏ね回される様子がくっきりと見えている。それが、さらに情動を促進させる。
アレクは反射的に歯を食いしばって耐えたが、あっという間に限界は訪れた。
「も、もぅ…」
「…♪」
スライムが、にこりを笑みを浮かべた気がした。それと同時に、アレクの肉棒がちゅうちゅうと吸い上げられる。
敏感な尿道口を刺激され、裏筋をヌルヌルと擦られ、アレクの脳裏がスパークする。
「あッ――!」
びくん、と肉棒が脈打ち、精液が放出される。
スライムの体は透き通っている。体内で白い液体が絞り出されている様は、アレクからもよく見えた。
「ぃ、あ、や、やめっ」
射精している最中も、スライムは容赦なく肉棒に刺激を加えてきた。
亀頭を捏ねくり回し、竿をすき上げ、さらなる射精を強いる。
あっという間に、肉棒の中に残っていた精液までもしごきだされる。
「ああ―――」
やっと射精が止まった途端に、倦怠感が訪れる。
疲れた――まるで、生命力まで吸い取られてしまったような心地がした。
それで終わりであるならば良かった。しかし、スライムにそのつもりはなさそうだった。
スライムはニコニコと笑みを浮かべながら、さらなる愛撫を繰り返してきた。
拘束が、強くなる。身動きが、全く取れなくなる。
「――ひ」
唐突に、全身から滝のような汗が噴き出す。
過去の記憶が蘇る。これと全く同じようなことを、されたことが――
――お前は、ただ、快楽に身を任せていればいいの。
艶めかしい、女の声。肉棒に伸びる、細くたおやかな手。
かちゃり、と鎖が擦れ合う音が聞こえた――気がした。
「ぁ、ぁあ、ああぁあぁあああぁ――!」
フラッシュバックが、アレクを襲う。
びくんと激しく痙攣するようにアレクの足が叩き上げられる。
意図して行った行動ではない。ただ、何かで拘束されるのが――怖かった。
限界以上の力で振り上げられた脚は、スライムの体をたやすく貫通する。
「――!?」
体の一部を破られたスライムは、びくんと震えて驚きの表情を見せる。
拘束が緩み、手がかすかに動くようになる。理屈を考える前に、アレクの体は行動を開始していた。
がばりと起き上がり、がむしゃらに右腕を振り上げる。
「うあぁあああああぁあ!」
ざん、と何かを裂くような手応え。
そのおぞましい感触に、アレクは思わず目を見開く。
「――ぇ」
「――ぁ」
そんな、小さな言葉を残して。スライムの体は、ぱんと弾けた。
アレクの体を覆っていたスライムが、溶ける様に粘度をなくす。
何が起こったのか、わからない。アレクは茫然と、振り上げた右手を見る。
手には、いつの間にかナイフが握られていた。前方に目を向けると、先ほどスライムの中心にあった核らしき球状の物体が力なく浮かんでいる。
球体には、刃物で切り裂かれたかのような裂傷が走っており、無残な断面図を晒している。それは、つまり――
「僕が…殺した、のか?」
そう実感した瞬間、猛烈な吐き気が襲ってきた。
胃の中を全部ひっくり返ったかのようなその感覚。アレクは左手で口を押さえ、何とか堪える事に成功する。
殺した。生まれて初めて、生き物を――殺してしまった。
ばちゃん、と音を立ててナイフが手から滑り落ちる。異形の体液で汚れた刃が目に映り、さらに吐き気がひどくなる。
(――違う。僕が殺したのは、人じゃない)
混乱状態になった心が、次々と言葉を乱雑に吐き出す。
人じゃない。だから良い。相手は魔物だ。魔物は殺せと、そう教えられてきた。だから問題ない。僕は悪くない。悪いのは――
かちゃり、と音が鳴る。三日月のような笑みが、脳裏に蘇る。
がん! とアレクは自らの頭を右手で殴りぬいた。
強く殴りすぎて意識が一瞬遠のくが、歯を食いしばって耐え切った。
じんじんとした痛みが頭に広がるにつれ、思考がクリアになっていく。アレクは深々と息を吐き出し、心を落ち着かせることに専念する。
…最悪だ。何を考えているのだと、アレクは自分自身を罵倒する。
やったのは自分で、悪いのも自分。此処で責任から目をそらしてしまっては、アイツらと同じ。畜生以下だ。そんなものに、なりたくない。
目尻に浮かんだ涙を拭い、アレクは立ちあがる。そして、自分が殺してしまったソレを見やる。
ずきりと、心が痛む。襲った相手に同情するなんて甘いにも程があると思うが、そう感じずにはいられない。
後悔の念にとらわれながらも、足元に落ちたナイフを手に取ろうとした――その時、
手の先にあったソレが、びくんと大きく震えた。
「わっ!」
アレクは反射的に手を引っ込める。びくん、と再度ソレが震える。
球状の物体が、脈動している。まるで、苦しむように。
生きて、いる。アレクの心に、黒い感情が蘇る。
気づけば、アレクはナイフを手に取っていた。だが、それを振り上げたところではたと踏みとどまる。
彼女を、殺すのか?
恐怖に突き動かされる本能は、ナイフを振り下ろせと叫んでいる。しかし、アレクに残る理性は、それを全力で拒否していた。
殺さなくて良いのなら、殺したくない。そもそも、止めを刺す必要があるのか? 別に、このまま放っておいても――
「っ!」
どくん、とアレクの心臓が大きな音を立てる。
そうだ。どちらにせよ、目の前のソレは死んでしまう。今止めを刺しても、放っておいても、どの道死んでしまう。
紛れもない、自分のせいで。
一瞬だけ垣間見た、スライムの笑顔が思い出される。
「………いや、だ」
ばちゃん、と音を立ててナイフが手から滑り落ちる。ゆっくりと、胸にわだかまる吐き気が消えていく。
殺したく、ない。
そう決めたアレクの行動は、早かった。
地面に散らばる荷物の中から袋を探し出し、先程見つけた薬草を引っ張り出す。
辞典には、魔物に効くとは書いていなかった。だが、やれるだけのことはやりたかった。
脳内で使用法に関するページをめくりながら、石を使って草を磨り潰す。
こういう事に関しては特に不器用な自分に苛立ちながらも、何とか薬草を薬の形状にすることに成功する。
「………」
ごくり、と息を飲む。
球体は半液状の薄い層に包まれている。だからアレクは、その層に薬を混ぜるように溶かし込んだ。びくん、と核が大きく震える。
植物特有の青臭い匂いが立ち込める中、スライムの核は幾度か蠢動を繰り返す。
それはまるで、痛みに苦しんでいるかのようだった。もしや逆効果だったのか――アレクの心に絶望が過ぎる。
忘れていたはずの後悔の念が戻ってくる。地面に両手を付き、うなだれるように頭を垂れる。
ぐにゃりと、額に奇妙な感触。
「え?」
はっとして頭を上げると、至近距離に何事もなかったかのような顔をした先程の少女があった。
まるで、地面から顔だけが生えているような状態。透き通った頭の中で、核がくるくると回転している。
裂傷が、閉じている。薬が、効いた。
体の力が抜け、アレクはその場にへたり込む。場違いにもほどがあるとは思ったが、アレクは神に感謝の言葉を捧げる。
重圧から開放されたような開放感。アレクは一瞬だけその心地よい安堵感に身を委ね――そして、すぐに現実に引き戻された。
「え?」
再度、アレクはそんなマヌケな声を出した。気づけば、また自分の体はスライムに拘束されていた。
顔だけだったスライムの顔が、一瞬で元の形に再構成される。水同然だったスライムの体が、また粘度を取り戻してアレクの体を包み込む。
しまった、と思った時にはもう遅かった。アレクは押し倒されているような状態に逆戻りする。
「――ひ」
喉から、掠れた声が漏れる。しかし、当然の報いだ。すぐに逃げなかった自分が悪い。
絶望に満ちた、しかしどこか落ち着いた心地で、アレクは自らが救ってしまったソレを見上げた。
だが、アレクは次の瞬間、首を傾げる。
「―――?」
スライムに、全く動きが無い。
こちらの体を包み込みはしたものの、じっとこちらを見つめたまま動かなくなっている。
一体、どうしたのか。その疑問に答えるように、スライムは突如行動を開始した。
両手を伸ばし、アレクの頬に触れる。感情の薄い顔がゆっくりと近づけられ、視線と視線がしっかりと合わせられる。
「どう、して?」
一瞬、それが誰の言葉なのかわからなかった。しかし、聞き間違いようはない。
その言葉は、確かに目の前のスライムの口から発せられていた。
「どうし、て?」
もう一度、彼女は呟くように言った。ゆっくりと動く彼女の口は、上手く言葉を話すことができないのか、もどかしげに動いている。
スライムは、目を逸らす。何故か悲しげな表情をした後、オロオロと視線をさまよわせる。
何かを伝えたいのか? だとしたら、一体何を伝えたいのか。
アレクはどうにかして彼女の意を汲み取ろうと、彼女の唇の動きを注視しようとした――その時、
「むぅっ!?」
突然、口を塞がれた。視界がスライムの綺麗な顔で埋まり、唇にひんやりとした冷たい感触が満ちる。
くちづけ、された。その事実を理解した瞬間、アレクは頭が真っ白になる。
なん、で? 心に生まれたその疑問は、スライムの舌使いによって一瞬で溶かされた。
頬の内側を綿密に舐められ、舌を吸い付くように絡み取られ、湧き出た唾液を余すことなく吸い出される。
激しい、しかしどこか優しい愛撫を受けながら、アレクの意識はゆっくりと遠退いていった。
10/07/08 00:02更新 / SMan
戻る
次へ