夜。人里離れた、森の中。
　教会の鐘も、神の威光も届かない闇の中。
　精霊と、獣と――魔物の世界。

「はぁ…はぁ…っ」

　激しい息切れと、右足に鈍痛。
　慣れない全力疾走に、全身が悲鳴を上げていた。
　先ほど転んだ時に怪我した右足から、少しずつ血が流れ出ているのを感じる。
　ちらりと、後ろを見る。がさがさと、何かが音を立てて迫ってくる。

「ひっ…！」
　
　やはり、まだついてきている。
　視界の端に見えた、長い尾のようなシルエット。
　間違いない。あれは、魔物だ。もし捕まれば――食べられて、しまう。

「くぅ…！」

　今度は、右腕に痛みが走った。茂みをかき分けたときに、枝か何かで切ってしまったらしい。
　夜の森は視界が狭く、障害物も多い。このままでは、いつか体力が尽きてしまう。
　どうにかして、ずっと後ろから追ってきている魔物から逃げ遂せなければならない。

「…ぁ」

　気づけば、進む道が無くなっていた。
　すんでのところで立ち止まったその先は、切り立った崖になっていた。
　がらり、と足元付近の小石が崖の下へと崩れ落ちる。ぽちゃん、と水に落ちる音が響く。

「ぅ、あ」

　視線を崖から後ろに向けると、果たしてそこには、ソレがいた。
　朧な月の光りに照らされ、人間の上半身と、長く丈夫そうな蛇体が見えた。
　まだ少し距離がある。しかし、ゆっくりと着実に、こちらへと近づいてきている。

「………っ」

　眼下の崖を、もう一度見る。
　不気味な動物の鳴き声にまぎれて、水が流れる音が聞こえてくる。
　暗くて良く見えないが、おそらくこの下には川がある。
　もし底が浅い川だったら、死は免れない。しかし、迷っている暇は、ない。
　
「――神よ」

　意を決し、胸元の首飾りを強く握りしめる。
　こちらの意図に感づいたのか、蛇体の魔物がぴくりと体を震えさせ――そして、勢い良く近づいてくる。
　しかし、もう遅い。残る全身の力を込めて、僕は崖の向こうへと体を投げ出した。

『――………――！』

　誰かの声が、聞こえた気がした。
　しかし、僕は祈りの言葉を脳裏で唱えるのに必死で、それを聞き取ることは出来なかった。
　一瞬の浮遊感。僕の体は、暗闇の中へと落ちていき――そして、叩き付けられた。
　ざぶん、と大きな音が聞こえ、激痛が全身を駆け抜ける。
　そのあまりの痛みに、僕は意識を手放してしまった。

●

「――あ、アレク。遅かった、ね」

　扉を開けると、すぐさまメディが駆け寄ってきた。
　内心を悟られないように、アレクは笑顔で「ただいま」と答える。
　うまく、笑えただろうか。まるで顔が仮面になってしまったかのように固く感じた。

「お疲れ様、アレク。ごはんは、食べた？」
「うん。今日も、マルクさんのところでね」

　やはりというべきか、メディは若干不満そうな顔をする。
　最近、マルクだけでなく他の村人のところでも食事に誘われるようになり、帰るのが遅くなりがちだ。
　村人と仲良くなれた証拠だが、一人で待たされるメディには少し申し訳ない心地がする。
　
「まだ、病み上がり、なんだから。あまり無理しちゃ、駄目」
「うん…そうだね。気をつけるよ。
　明日は、果実酒造りに専念しようと思ってるから。もし良かったら、手伝ってくれる？」

　その言葉に、メディはぱあっ、とまるで花が咲いたような笑みを浮かべる。
　無邪気に擦り寄ってくるメディの頭を撫でながら、アレクは少しだけ心が軽くなるのを感じた。
　しかしそこで、メディは突然はっとして、アレクを仰ぎ見る。

「…アレク？　顔色、悪いよ？」

　少し触れただけで、看破された。やっぱり、メディは鋭い。
　
「うん…ちょっと、体調が悪いんだ。お酒、飲みすぎたかな」

　隠しても余計不安にさせるだけなので、肯定しておく。半分は、本当の話。
　病み上がりだったからか、少しだけ酔が回りやすかった。
　それと、ただ嫌な事があっただけ。
　原因は、自制心が足りなかったから。マルクにも、迷惑をかけてしまった。
　心配そうな顔をするメディの頭を撫でながら、アレクは家の中へ歩を進める。

「アレ、ク。だいじょう…ぶ？」
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。
　ただ、少し疲れてるから…今日はもう、休む事にするよ」

　僅かにでも、彼女に嘘をついている。その事が、アレクの心を憂鬱にした。
　しかし、本当の事を吐露するわけにもいかない。
　他人に愚痴を聞かせるのは、あまり好きではない。
　アレクはもやもやとした気持ちのまま、メディの横を通り抜けた。
　ベッドへと近づいていき、ゆっくりと横になる。そして、すぐに目を瞑った。

「おやすみ、メディ」
「おやすみ、…アレク」

　言ってから、ふと思う。
　いつもように努めていたつもりだったが、やりとりが随分とそっけなくなってしまった気がする。
　やっぱり、僕は不器用だ。こういう事には…向いてないのかも、しれない――
　猛烈な睡魔に襲われる。まるで引き摺りこまれるように、アレクは眠りについた。

●

「これより、…――の名において、――…を始める」

　それは自分の声だったのか、はたまた別の人間の声だったのか。
　現実感の無い、黒白の風景。耳に届く音はどれもが不鮮明で、所々が掠れて聞こえる。
　おぼろげな視界の中には、たくさんの人がいた。この人達は…誰だった、だろうか。

「まず、――…卿のご主張…改めてお聞かせ願…ます。…――卿、レオニス…の――…」

　煌びやかな衣装に身を包んだ中年の男が、一歩前に進み出る。
　手入れの行き届いた口髭を蓄えたその男は、一礼の後に朗々と語り始める。

「此度は――…様の…――して頂き…――誠に…―――であります。
　さて、それでは――…の…――についてですが――…」

　声が、全く聞き取れない。
　一体何を言っているのかわからない――いや、覚えて、いない。
　どうして覚えていないのかと疑問に思い、すぐに思い当たる。
　聞く必要が、なかったからだ。そこで僕は、やっと自分が何をしているのか気がついた。

「…――卿の主張は以上になります。次は、――卿のご主張を――」

　彼らは――裁判を、行なっている。
　どちらが間違っていて、どちらが正しいのかを、判断するために。
　議題は…思い、出せない。確か、商会同士の諍いに関する議題、だったような気がする。
　商品の密輸の話だったか。はたまた、傷害事件の話だったか――

「――、――、――――で、――」　

　何も、聞こえない。まるで、左耳から入った言葉が右耳から抜けていくように。
　なぜならば、もう判決は決まっているからだ。この話し合いは、茶番に過ぎない。
　判決は、アレクが下すことになっている。しかし結論は、既にアレクの窺い知らぬところで決められている。
　どちらが正しいか判断するのは顔も覚えていない老人達で、僕はただ形式的に裁可を行う。
　だから、何も覚えていない。よしんば聞いたとしても、なんの意味もない。

「――それでは、――――様。どうぞ、御裁可を――」

　いつの間にか、話が終わっていた。傍らに立つ進行役の男が、判決を促す。
　僕の口は、すぐさま――決められていたとおりの、言葉を紡いだ。
　どちらが正しく、どちらが間違っている。
　そして、それはなぜか――単調に、なんの感慨もなく。
　一瞬だけ、ざわりと人々がざわめく。
　一人の男が恭しく頭を下げ、一人の男が小さく肩を落とす。

「流石は――…だ。なんと早い決断か――」

　どこからか、小さな呟きが聞こえた。僕は、内心苦笑する。
　このたった一つの判決のために、一体どれほどの時間老人達が議論を交わしたと思っているのだろうか。
　しかし結局のところ、どちらが多く彼らに――いや、アレクに貢いだかが最も判決に影響する。
　無論、貢がれたそれは形式上アレクが受け取ったことになっているが、最終的には全て老人達に分配される。
　何が正しいかは関係なく、ただ金と謀略によって裁可は下される。その決定のどこにも、アレクの意思は反映されない。
　そして最後に、アレクは朗々と告げる。

「――…を行ったことは、重罪である。したがって、カール・オールストンを、車輪刑に処す」
　
　ぐらり、と意識が歪む。脳裏に刻まれたその言葉が、アレクの心を軋ませる。
　実のところ、老人達が決めた判決へ至る内容は、全く覚えていない。
　しかし、最後の結論であるこの一言だけは、心に深く刻み込まれていた。
　
「――！　…！　…！」

　視界の端で、ガタンと音を立てながら一人の男が引っ立てられる。
　その男は、口角泡を飛ばしながら、槍を持った兵士に連れていかれる。
　運悪くハズレくじを引いた小悪党だったのか、はたまた罪を着せられた無実の人間なのか。
　それすらも、アレクは分からない。現実に裁可を下した人間であるにも、関わらず。
　ぼきりと、何かが折れる音が脳裏で再生される。人とは思えない絶叫が、まだ耳に残っている気がする。
　
　老獪な老人達は、アレクの名によって裁可を下し、謀略を重ね、そして時に人を殺める。
　裁可による賞賛はアレクに向けられているが、その何倍もの怨嗟の声が密かに上がっていることをアレクは知っている。
　もし彼らの意図に綻びが生じれば、彼らは何の躊躇もなく僕を切り捨て、新たな代役を担ぎ上げることだろう。

「――お疲れさまでした。――…様」

　ぞくり、と悪寒が走る。
　振り向いた視線の先に――あの女が、いた。
　色を欠いた世界にただ一人、血のような赤いドレスが目に焼き付いている。
　仮面のような表情と、ひび割れのような壊れた笑み。
　その目は僕の方を向いているが、まるで僕の向こうにいる誰かを見ているかのよう。
　その口が、また何かを口走ろうとした――その時、


「――アレ、ク？」


　強く、しかし優しい声が、耳朶を打つ。
　一瞬で、意識が覚醒した。あの女の顔が、いつの間にかメディと入れ替わっている。

「…ッ！？」

　とっさに身を起こそうとして、しかしそれは出来なかった。
　視線を巡らすと、メディはアレクにのしかかるような形でアレクを覗き込んでいた。
　汗ばんでいたアレクの顔を、メディが優しく拭う。

「アレク、どうしたの？　うなされてた、よ？」
「――ッぁ」
　
　メディの顔が、少しだけアレクのそれに近づく。
　その時、アレクの脳に一つの事実が過る。彼女は、人の心を読む能力が、ある。
　アレクは咄嗟に、まるで突き飛ばすように両腕を伸ばしてしまった。
　両手はメディの両肩に当たり、メディの体を押しのける。
　
「…あ」

　メディの表情が凍りつく。しかしそれは、アレクも同じだった。
　反射的な行動だった。彼女を傷つけたかったわけではなかった。
　しかし、アレクは今メディに心を読み取られるわけにはいかなかった。

「…嫌、だった？」
「ご――ごめ、ん、メディ。そうじゃ、ないけど」

　悪夢のせいか、呼吸が荒い。
　むせこみながらも、アレクは訥々と言葉を紡ぐ。

「駄目、なんだ。メディに、知られたく…ない」
「…？　何、を？」

　きょとんとした表情で、首を傾げるメディ。その顔は、まるでアレクの事を信じきっているかのようだった。
　そんな彼女に、アレクは言葉をつまらせることしか出来ない。
　アレクは、怖い。心の中にある記憶を――いや。
　自分の本性を、メディに知られてしまうのが。

　自分の意志でなかったとはいえ、アレクは一言の言葉で何人もの人生を翻弄してきた。
　それなのに、かつてアレクの心を満たしていたのは、自分のした事に対する後悔よりも他者への怒りや呪詛の方が多かった。
　どうして、僕がこんな重荷を背負わなければならないのかと。
　どうして、この状況から僕を誰も助けてくれないのかと。
　皆、死んでしまえばいいのに、と。

「調子の良いことを言ってるのは、わかってる。でも、嫌、なんだ」

　メディの顔を直視できない。今の僕は――あまりにも、醜すぎる。
　おそらく、彼女の手がアレクの頭に触れた瞬間、この記憶と思いは彼女に伝わってしまう。
　右手で頭を抑えながら、アレクは搾り出すような声で呟く。

「こんな僕を、見られたくない。メディに、嫌われたく、ないんだ――」
「―――ぁ」

　メディが息を飲む気配が、伝わってくる。
　彼女の体が、少しだけアレクの上から離れるように動いた気がした。
　静寂が、訪れる。アレクが荒い息を吐き出す音が、夜の静けさの中で断続的に続いていた。
　アレクは、何とか心に残る悪夢の欠片を頭の中から追いだそうとする。
　しかし、一度思い出してしまったものを意志の力で忘れ去ることが簡単であるはずもない。

「――レク」

　小さな声が、耳に届く。それと同時に、左腕がずぶり、と何かに沈み込むような奇妙な感触を感じた。
　はっとして、アレクはメディを見る。メディの紅い瞳が、アレクをじっと見据えていた。
　彼女の方を抑えていたはずの左腕を見ると、手首辺りまでが彼女の肩にめり込んでいた。
　メディは、スライムだ。当然といえば、当然の結果だった。

「アレク」

　声と共に、メディがアレクに顔を近づける。
　ずぶり、とアレクの左腕がさらにメディの肩に沈み、反対側に突き抜ける。
　アレクは反射的に右腕を伸ばす。右腕はあっさり彼女の左肩を突き破り、同じく通り抜ける。
　
「メ、ディ？」　

　呆然と呟くアレクに、メディは無言でさらに詰め寄る。
　もはやメディの顔は、目と鼻の先だった。
　彼女の体を突き抜けた両腕は、固められてしまったかのように動かない。
　このままでは、読み取られて、しまう。
　
「――ぅ、う」

　為す術は、ない。
　あの柔らかい唇がアレクに触れた瞬間、この暗い記憶が彼女の知るところとなるのだろう。
　アレクは観念するかのように目を瞑った。
　知られたくなかった自分を知られてしまうことに耐え切れず、現実から目を背けてしまう。

　なぜか、少しだけ間があった。
　ぽつり、とメディは呟く。

「…ばか」

　次の瞬間、柔らかい感触がアレクの頬に触れた。
　アレクは身を強ばらせる。自分の弱さを知られてしまったという事実に、絶望する。
　しかしそこで、ふと違和感に気づく。
　彼女特有のしっとりして柔らかい感触ではあるのだが、手とは少し異なるような気がした。
　もっと大きく弾力があり、包みこむような――

「むぐっ！？」

　そんなマヌケな声を上げてしまったのは、いきなり後頭部を抑えつけられたからだ。
　アレクの顔はひどく柔らかいそれに深く沈みこみ、一気に呼吸を絶たれた。
　甘い香りとほのかな暖かさが、アレクの思考を惑わせる。
　意識が遠のいてきた辺りで、やっとアレクを抑えつけていた力が緩んだ。

「ぷは！　…ぁ、う？」
「ふふ。…つかまえ、た」

　目を開くと、そこにあったのは彼女の顔ではなく――胸だった。
　柔らかい双球を象った軟体が、アレクの顔に押し付けられている。
　視線を上に巡らすと、そこには悪戯じみたメディの顔。

「こういうの、好きだよね」
「え？　あ、いや、そういうわけじゃ――」
「問答、無用」
「むぐ」

　また強く抱きしめられ、彼女の胸に視界を塞がれる。
　両腕を絡め取られて身動きがとれない状態での、抱き締め攻撃。
　今度は息苦しくなるほどではなかったが、思考する余裕ができただけ気恥ずかしさが増した。
　さりげなく抜け出そうと体を動かしてみたが、メディはしっかりと腕を巻きつけて離さない。

「そんな心配、しなくてもいいのに」

　アレクの耳元に口を近づけながら、メディが言う。

「こんなことで、私はアレクを嫌いになんて、ならないよ」
「え」
「寂し、かったんだよね。なら、そう思っても、仕方ないよ」
　
　優しく、頭を撫でられる。
　撫でられるのは、これで二度目だった。
　　
「大丈夫。私は、ずっと、ここにいるから。アレクのこと、ちゃんと見てるから」

　まるで子供をあやすように、メディはアレクの頭を撫で続ける。
　正直、恥ずかしい。成人の儀は、とっくに昔に終えている。
　こんな歳になって、自らより幼い少女に抱きしめられながら頭を撫でられるなんて。
　しかし、それでも、アレクはメディの手を振り払うことが出来なかった。
　目頭が、熱い。熱を持った雫が、アレクの目元から溢れ出る。

「よし、よし」

　頭を撫でられているうちに、胸を刺す痛みが溶けるように消えて行くのを感じた。　
　メディは、何も聞かない。ただ聞く必要がないだけかもしれないが、その方がアレクにはありがたかった。
　ゆっくりと穏やかに、睡魔が襲ってくる。
　本当は、ここで眠ってしまうとまた同じ夢を見てしまいそうで怖かったのだが。
　それを見越していたかのように、メディの暖かい体がアレクの体を優しく包み込む。

「おやすみ、アレク」
「おや、すみ…メ、ディ」

　ほとんど無意識に、アレクは返事を返す。
　気づけば、諸々の不安は跡形もなく吹き飛んでいて。
　すとん、とアレクの意識は闇に沈んだ。
　
●

　朝。といっても大分寝過ごしてしまったため、日は既にかなり高いところにある。
　以前は一度悪夢を見ると朝まで眠れなかったものだが、今回はそんなことは全くなかった。
　むしろ、今までにないほど清々しい目覚めだったように思える。
　
「なあ、アレク。ちょっといいか？」

　そう言ったのは、いつものようになんの前触れもなく現れたヤンだ。
　アレクが目覚めてから少しした辺りにやってきて、当然のように果実酒を要求してきた。
　仕方なくまだ試行錯誤中の一品を差し出すと、ヤンは徐にそれをラッパ飲みし始めた。
　…何か、嫌なことでもあったんだろうか？

「別にいいけど…ところでヤン、君が飲んでる果実酒もタダじゃないんだけどね。
　毎日ツケといてくれって言ってるけど、そろそろ払ってほしいな？」
「少しくらい良いじゃねーか。家賃と思ってまけてくんね？」
「家賃で済む量じゃないと思うんだけど…もう一本空けてるし。
　マルクはちゃんとお金を払ってくれてるんだから、ヤンも払ってくれないと」　
「あーもう、わーったよ。今度来たときは何とかする。
　いいか？　オーケイ？　なら、俺の番だ。お前に、いやお前らに一言いいたい」

　酒が回っているのか、妙に饒舌にまくし立てるヤン。
　首を傾げるアレクに、ヤンはただ一言。

「爆ぜろ」

　…はい？　と思わずアレクは首をかしげてしまった。

「えーっと…どういう意味？」
「知るか。俺も詳しくは知らねーよ。
　俺が昔居た街の連中が、お前みたいに女とイチャイチャしている奴にそう言ってたからよ。
　なんか無性に言いたくなった。悪いかコラ」

　どうやら、嫉妬する対象にぶつけられる類の言葉らしい。
　確かにこの状況だと否定しづらいので、アレクは沈黙せざるをえない。
　そんなアレクの代わりに、メディがボソリと言葉を紡ぐ。

「今日のヤン、なんか、感じ悪い」
「…お前なあ。一応はっきり言っとくが、主な原因はお前だかんな」
「？」
「可愛らしく首傾げんな。つか、そろそろ離れろお前ら」

　いつ指摘されるかと不安だったのだが、とうとう突っ込まれた。
　ヤンが言葉で示したとおり、メディは今、アレクの背中にのしかかるように抱きついている。
　曰く、「アレクは、さみしがりやさん、だから」。
　…昨日の夜を思い出すと、恥ずかしくて死にそうになる。

　アレクとしても、ヤンの前でこの状態でいるのは恥ずかしい。
　しかし、メディは「えー」と口を尖らせて拒絶の意思を示す。
　アレクの首に巻きつけていた両腕に、メディはさらに力を込めた。
　より強く押し付けられる柔らかい感触に、アレクは体を硬直させる。

「…見せつけてくれるじゃねえか。なあアレク、式はどこで挙げるんだ？
　尤も、魔物との婚姻を受け入れる教会があるかは怪しいところだがなぁ」
「いや、その…ヤン？　一度それをおいて、少し落ち着いて話さない？」

　ヤンの持っている瓶が、今にも凶器に代わりそうで怖い。
　話が泥沼化してきたので、アレクはひとまず一時休戦を申し出る。
　ヤンはち、と軽く舌打ちした後、派手に呷っていた酒瓶を机の上に置く。
　アレクはほっと一息つきながら、未だ背中に張り付いたままのメディに顔を向ける。

「メディ。そういえば、今日は外に行くっていってなかった？」
「えー。そう、だっけ？」
「ほら、ある時間にしか見つからない植物があるとか」
「…あ。忘れてた」

　名残惜しげに、メディの体が離れていく。
　完全にメディが離れたことを確認してから、アレクは心の中で大きく息を吐き出した。
　最近、メディはどんどん人間らしく――いや女性らしくなっている気がする。
　少し前は、小さな子供だったというのに。体つきや挙措にも、どきりとさせられることが多くなってしまった。
　
「アレク」
「ん？」

　名前を呼ばれ、何気なく振り返る。
　次の瞬間、頬に柔らかい感触が触れる。

「…――っ！」
「あは。ひっかかった」

　楽しげにメディは笑い、今度こそアレクから離れる。
　そのままメディは足早に机を回りこみ、ヤンの隣を横切り、裏手の出口へと到達する。
　もしこの場にルイがいたら、あからさまに嘆息していたことだろう。

「夕ごはんまでには、帰ってくるから」

　颯爽と、メディは扉の向こうへ消える。
　去り際に悪戯っぽくぺろりと出した舌が、妙に蠱惑的に見えた。
　アレクとヤンは不覚にもしばらくの間硬直したままだったが、徐に疲れた表情で顔を合わせ、二人同時に深く溜息をつく。
　
「おいアレク、どうしちまったんだアイツは。いつも以上に新妻オーラ全開なんだが」
「う…うん、まあその、色々あってね」

　言葉を濁しながら、アレクは試作品の果実酒を一口舐める。
　…少し、甘すぎるだろうか。
　
「いーよなぁ、お前らは。いつ見ても相思相愛な感じでよぉ…
　こちとら変な蛇に捕まるわ、妙な蜘蛛に絡め取られるわ…」
「え？」
「なんでもねーよ。それよりアレク、この酒なんか甘すぎね？」

　ヤンが試作品を親指でさしながら言う。ヤンもアレクと同じ感想らしい。　
　どうやら、まだ改良の余地があるようだ。アレクは果実酒の製法を改めて考え直し始める。
　ふと、視線を感じた。
　顔を上げると、そこには机に肘をついて不機嫌そうにこちらを睨むヤンの姿。

「ったく、空気どころか酒まで甘いときた。心配して損したぜ…」
「心配って…僕、何か心配されるようなことしたっけ？」
「おいおい、昨日の今日で忘れたとは言わせねえぞ。
　マルクに聞いた。昨日、あの行商人…ニコだったか、アイツにブチキレたんだってな」
「…ああ。その事、か。そう…だったね」

　得心がいって、アレクは渋面になる。できれば、思い出したくなかったことだ。
　そう、アレクは昨日、ある理由でマルクの友人でもある行商人のニコの手を、手酷く振り払ってしまった。
　こちらの心境を察したのか、やや軽い雰囲気だったヤンの表情が神妙なそれへと変わる。　

「…あー。その、なんだ。思い出させといてアレだが、あまり気にすんな。
　聞く限り、向こうがアンフェアな事したのが原因らしいじゃねーか。悪いのは向こうだろ？」
「まあ、そうかも知れないけど…でもやっぱり、他にもやり方があったんじゃないか、って思うんだよね…」

　確かに、不正を働こうとしたのはニコの方だ。
　しかし、彼の悪意はアレクが以前経験したそれとは比べものにならないほど些細なものだ。
　手を打ち払うのは、過剰反応だった。

「…ちなみに、どこまで知ってるの？」
「あ？　別に、そこまで詳しくは知らねーよ。ニコがお前に手をひっぱたかれたってことだけだ。
　でもまあ、検討はつく。ニコってアレだ、マルクより見た目は小奇麗だが、中身は小汚そうな青目野郎だろ」
「えーっと…その言い方は、どうかと思うけど」
「良いじゃねぇか、この場にいるわけじゃねえんだし。
　ともかく、アイツがなんか妙なことをしようとして、お前に賄賂かなんか贈ったんだろ？」
「…まあ、そんな感じかな」

　今日のヤンは、妙に勘が良い。
　というか、ヤンにとってもこの程度の話は日常茶飯事なのかもしれない。
　ちょっとした不正に対する金銭の受け渡しなんて、よくあること。
　理屈としては、わかっている。しかし、やはり心が受け付けなかった。
　昔を、思い出してしまう。たとえそれが、ほんの少しの悪意だったとしても。

「…ま、過ぎちまったことは忘れようや。つーかアレク、酒が切れちまったんだけど」
「え？　あ、コラ。さりげなくおかわりを勝手に注がないでよ。そっちは売り物だから駄目だって」
「いいじゃねぇかよぅ。ケチケチすんなって。ほれ、お前も一献」
「わ！　ちょっとヤン、ふらふらしないで。溢れる溢れる勿体無い！」

　わざと高い位置から酒瓶を傾けるヤンの酒を、アレクはどうにか受け止める。
　昼から飲み過ぎるというのは、正直どうかと思う。
　しかし、物憂い気分でいるよりは良いのかもしれない。　

「嫌なことはあった時は飲むに限る。
　多分お前、酒を呑むことはあっても酔っ払ったことはないだろ」
「そりゃあ…まあ」
「よーし、良い機会だ。今日はもう仕事なんざ止めだ止め。
　今日は吐くまで寸前まで飲んで、苦労人同士愚痴で盛り上がろうじゃねぇか」

　そう言いながら、ヤンが果実酒が波々と注がれたジョッキをこちらに突き出してくる。
　アレクは苦笑しながらも、手に持っていたジョッキを掲げて、ヤンのそれに軽くぶつける。
　にかり、とヤンは笑い、そしてジョッキを一気に傾けて果実酒を飲み干した。
　相も変わらず、良い飲みっぷりだった。アレクも続いて、ゆっくりとジョッキを傾ける。
　その時、こんこん、と音がした。

「あ？」

　興が削がれたと言わんばかりの、不機嫌そうな声。ヤンが胡乱気な視線を音のした方へと向ける。
　アレクはジョッキを机の上にゆっくりと下ろし、ノックされた扉へと近づいて行く。
　声を整える為に一度だけ咳をした後、アレクは落ち着いた口調で尋ねる。

「どなたですか？」
「突然の訪問、申し訳ありません、ええと…マルクです」
「…マルクさん？」

　扉の向こうから聞こえたのは、マルクの声だった。
　小柄な鼠を思わせる外見とは裏腹に、村の商売の一切を取り仕切る若き村おさの一人。
　普段からその声はどこか謙った様子だが、今日は殊更何かを遠慮しているように感じられた。

「また何か、仲裁の依頼でしょうか？」
「ああ、いや、今回は違います。
　その、旦那に会いたいって方がいらっしゃいましてね。お連れした次第です」
「私に…ですか」

　どうしたものか、とアレクは一瞬だけ物思いにふける。
　魔物が住むと呼ばれる森の近くである此処までマルクがやってきたのは、初めてのことだ。
　只事ではないような気がする。
　マルクが連れてきた客人なのだから、野盗や傭兵ということはないだろう。
　しかし脳裏によぎるのは、先日の夢。あの場所に僕を連れ戻そうとする輩がいないとは、限らない。

「………」

　しかし、ここで姿を見せぬまま追い返すのも、怪しまれてしまうだけだ。
　いざという時は、一目散に逃げる。
　万が一に備えて脱出経路を脳裏に思い描いた後、アレクは扉に手をかける。

「わかりました。どうぞ、お入りください」

　がちゃり、と扉を開ける。
　差し込んできた光に目を細めつつも、アレクは即座に来訪者の顔をしっかりと見定める。
　まず視界に入ってきたのは、頭一つ分ほど小さい位置にあるマルクの顔だった。
　どこか困ったような顔立ちで、こちらを見上げている。
　そして、その次に目に入ってきたのは――太陽の光を受けて光り輝く、白銀の甲冑だった。

「…っ」

　思わず息を飲み、そして見上げる。
　銀白色の篭手に、同色の胸当て。そして、腰に提げられた銀の長剣。
　アレクより少しだけ高い位置から、精悍な眼差しがこちらを見据えていた。
　程よい長さに整えられた金色の髪が小さく揺れる。
　流れるような挙措で、優雅な一礼が為される。

「お初にお目にかかります。貴方が、『森の隠者』殿ですか？」
「…森の、隠者？」

　聞きなれない言葉に、アレクは目を瞬かせる。
　視界の端で、マルクが微妙な顔で目を逸らした。
　こちらの反応を見て、碧眼の来訪者は訝しげな顔をする。
　しかし、すぐさま納得した様子になった。
　
「嗚呼――失礼、申し遅れました。
　私は、コルレオニス騎士団に所属するレオンハルトと申します。
　どうかご安心を。異端審問の類ではありませんので」

　如何にも育ちの良い騎士といった風体の青年が、堅苦しい口調で名乗りをあげた。
　どちらかというと乱暴な人種が多い騎士にしては、言葉が丁寧で人当たりが良い。
　後半の言葉は冗談交じりにいったようだが、アレクは思わず苦笑いを浮かべてしまった。
　身に纏う鎧の模様から見ても、この騎士は敬虔な信者に違いない。
　もしこの場にメディやルイがいたら、どうなっていたことか。

　それにしても――コルレオニス騎士団、か。
　…今のところ、気づかれている様子はない。

「突然押しかけたご無礼をお赦しください。火急の用事であったため、このような形となってしまいました。
　この辺りの事情に詳しいという貴方に、ご助力願いたいことがあるのです」

　その表情は思いの外深刻そうで、内心はかなり切羽詰っているように見える。
　どうやら、只事ではないらしい。
　こんな辺境まで訪ねてきたのだから、当然といえば当然だが。
　こちらから確認したいことは幾つかあったが、アレクはまず先に相手の用件を聞くことにした。

「――わかりました。私でよければ、お伺いします。一体、どのようなご用件でしょうか？」

　その言葉に、レオンハルトと名乗った騎士の顔が少しだけ綻ぶ。
　こん、と背後で物音。おそらくは、ジョッキを机の上に置く音。
　もしかすると、ヤンがこちらの話に興味を示したのかもしれない。
　レオンハルトは、さも言いにくそうに、忍ぶように言葉を紡ぐ。
　
「単刀直入に申します。私は――マンドラゴラを、探しているのです」

●

　朝は、日が昇る頃に目を覚まして、果実酒造りの手伝いをする。
　昼は、今行っているように森の中を散策して薬草や果実を採集する。
　夜は、アレクに『ごはん』を貰って、アレクと一緒に眠る。
　それが、最近のメディの日課だった。

「…あ」

　身に覚えのある甘ったるい香り。
　キョロキョロと当たりを見回すと、思った通り近くの大木の根元にそれはあった。
　毒々しい色をした、大輪の花。大の動物を昏倒させるほどの毒気を放つ、危険な植物。
　しかし、その根は眠り薬だけでなく、様々な薬効を持つ貴重な材料――らしい。
　アレクに教えて貰ったわけではない。しかし、メディは何故かそれを知っていた。

「よい、しょ、っと」

　メディは躊躇せず毒花に近寄り、地面に体の一部を滑り込ませて掘り返す。
　そして、毒気を放っている花の部分を取り去って、残りの部分を体の中に取り込んだ。
　今、メディの体の中には、5つの果実と4種類ほどの薬草が漂っている。
　これだけあれば、何日か分の食料を買うことができるはず。また、アレクに褒めてもらえる。

「…ふふっ」

　頭を撫でてもらったときの感触を思い出し、思わず頬が綻んだ。　
　そういえば、アレクと初めてあったのも、この花がきっかけだった。
　この花の毒にやられて昏倒していたアレクを――メディは、『食べて』しまった。

　御世辞にも感動的とはいえない出会いだった。
　メディはアレクを無理やり襲ってしまい、その結果アレクに反撃され、傷つけられた。
　しかし、メディは全くその事を気にしていないし、むしろ良かったと思っている。
　あの事があったからこそ、アレクと会うことが出来、こうして一緒に暮らせている。

「♪〜♪〜」

　アレクといると楽しい。アレクの事を思うと、心が弾む。
　こんな生活がずっと続けばいいと、メディは無邪気に心の中で呟いた。
　アレクに教えてもらった鼻歌を歌いながら、メディは上機嫌で森の中を進む。
　その時、ぐに、と足元に奇妙な感触を感じた。

「ん？」

　鼻歌をピタリと止め、メディは下方を見やる。
　茶色で、湿っていて、柔らかいモノが、地面に広がっている。
　明らかに森の自然物ではない、人によって作られた物。
　一体これはなんだろうかと、メディは視線を巡らして、

「――あ」

　思い出した。
　それは、アレクが外出する時に羽織っている外套に似ていた。
　そして、地面に敷かれた外套の端に――人の手のようなものが、見えた。

「…行き、倒れ？」

　よく見ると、微かに動いている。まだ、息がある。
　メディは容態を確認しようと、ゆっくりと外套を捲りとる。
　外套に隠れていた顔が、顕になる。メディは、目を見張った。

「…アレ、ク？」

　呆然と、メディが呟く。
　その言葉に反応するように、その人物はううん、と呻き声をあげながら体を大きく震わせる。
　かちゃりと音を立てて、その首に掛けられていた十字架の首飾りが地面に滑り落ちた。

■作者メッセージ
相変わらずの長さ、そして執筆速度orz
ふと思うと、描写が重なってしまっているような気がしないでもない。語彙力ががが。
次回あたり、情報を整理する意味も兼ねて各キャラの設定まとめアンド裏話でも公開してみるべきですか…しかし、需要ありますかね？
ともあれ、ここまで読んでいただきありがとうございました。
それでは。