気儘な騎士と我儘な姫君。(前篇)
「お疲れ様です。いや、いつもありがとうございます旦那」
不揃いな歯を見せながら、マルクは椅子に座るアレクに向けて笑いかける。
相変わらず、何か裏があるような細い目つき。しかし、どこか愛嬌があるから不思議なものだ。
「いえ、私もお役に立てて光栄です。…あ、ありがとうございます」
差し出された果物酒を一舐めし、アレクはふうと息を吐き出した。
ずっと話し続けていたせいか、随分と喉が渇いていた。
甘く爽やかな風味が、とても心地よく感じる。
「ニコもジャンも、一応は納得したそうです。
ジャンは若干不服そうでしたが…まあ、元はと言えばジャンが契約書を読み違えたのが原因でしたからね」
「一応詐欺である可能性もあるので調べてみましたが、契約書にこれといって妙なところはありませんでした。
その…すみません。結果的に、村の方にとっては不利な結論となってしまって」
「いえいえ。悪かったのは、我々村の人間の方ですから。きっちり筋は通しておかないと、村の沽券に関わります。
ニコはこの村常連の行商人…妙な噂を立てられてしまっては困りますからねぇ」
マルクの味方になれなかった事は少々心苦しかったが、仲裁人は平等でなければならない。
しかしアレクは、この結論に少しほっとしていた。
もしニコという行商人が契約書を偽装していたなら、話はもっとややこしい事になっていた。
それこそ、下手をすれば血を見る結果になってしまう程に。
「それにしても…旦那、一つ聞きたいんですが。
旦那はもしかして、前は聖職者か何かだったので?」
「え?」
「ああ、いや、すみません。人の過去を詮索するなんて、野暮なことだとわかっちゃいるんですが…
旦那の聖句を混じえた話しっぷりが、まるで神父様のようだったんで。しかも、文字の読み書きもかなり達者ときた。
しかし商人にしては、欲が無い。だとすれば、後考えられるのは…とまあ、そんな風に考えてみたのですが」
頭を掻きながら、マルクは言う。
その顔を見る限り、その質問に深い意味はないようだ。単なる世間話らしい。
もし何か裏があるのであれば、アレクはすぐにわかる。そういう人間の顔を、見過ぎていたから。
「そうですね…当たらずとも遠からず、といったところです。
私は以前、修道院に住ませて頂いていたんですよ。修道士というわけではありませんでしたが」
半分以上、本当の事だ。隠すほどの事でもないので、正直に白状しておく。
ああ、とマルクは納得したような声を挙げる。
「やや、それはまた…そういう事ですか。
それじゃあもしかして、旦那が果実酒の造り方を知っていたのは…」
「ええ。聖句も文字も、そして醸造方法も、全て修道院で学びました」
「成程…合点がいきました。道理で、旦那の果実酒は美味しいわけだ。修道院仕込みだったとは」
予想外だったが、得心がいった。そんな様子で、マルクはにこりと笑う。
本当は、まだ秘密にしている事があるのだが…さすがに、それを此処で言うのは憚られた。
アレクは本心を胸中に押し隠しながら、マルクに軽く笑い返す。
マルクが手に持つジョッキを掲げてきたので、アレクもそれに答える。こん、と小気味の良い音がした。
「今後とも、我が村を宜しくお願いします。旦那」
「こちらこそ。また何かあれば、遠慮無く言って下さい」
ほぼ同時に、果実酒を口に流し込む。静かな、そして和やかな雰囲気。
「にゃおぅ…」
そんな一時を破ったのは、猫の小さな鳴き声だった。どことなく、不機嫌そうな声音。
眼前に座るマルクの身体が、ぎくりと強張る。アレクは、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「ええと…すみません。そろそろ、彼女が退屈してきたみたいですね」
「…そのようで。もしかしたら、昼間から酒盛りしているのがバレたのかもしれませんなぁ」
「かも、しれませんね。それじゃ、私はこれで」
果実酒を飲み干し、いそいそとアレクは立ち上がる。
マルクは手早くジョッキと瓶を片付け、出口へ向かうアレクへ向き直る。
「それじゃ旦那、お気をつけて。…その、お連れの方にも、宜しく言っておいてください」
「ええ、確かに。それでは」
村人達の彼女に対する心象も、少しずつ良くなってきている。
その事を嬉しく思いながら、アレクは扉に手をかけた。
●
「ふにゃあ…」
時は昼下がり、緩やかな陽光の下。何とも、気の抜けた鳴き声が聞こえてきた。
ちらりと脇を見やると、ちょうどルイが大口を開けて欠伸をしているところだった。
寝ぼけ眼で顔をごしごしと洗い、そしてまた丸くなる。
御者台は狭い。当然のごとく、彼女とアレクは密着している。
彼女がそれを嫌がる様子は、全く無い。少し前までなら、考えられなかった事。
アレクは彼女の眠りを邪魔しないように、ゆっくりと馬車を進めていく。
「…にぃ」
一見、彼女は無防備に見える。しかし、これでルイが油断しているという事は全くない。
物音にはかなり敏感に反応するし、時折耳が辺りを探るようにぴくぴく動いている。
もしかすると、護衛のつもりなのかもしれない。彼女を騎士と呼んだアレクの言葉に、彼女なりに答えてくれているのだろうか。
「あ、そういえば――」
ふと思い出し、アレクは背後に置いてあった壺に手を伸ばす。
取り出したのは、魚の燻製。先ほど、仲介人の報酬として貰ったモノの一つ。
ぱちりとルイの眼が開き、ちらりとこちらを見る
「食べる? マルクさんがくれたんだけど」
「…にゃ?」
差し出された燻製を、ルイは注意深く見つめている。
怪しむ様なその様子から察するに、毒が入っている可能性でも考えているのか。
「大丈夫だよ、ほら」
かり、とアレクは手に持ったそれを一口齧って見せる。程良い塩味が、口内に広がった。
もう一度、ルイに燻製を差し出す。しかし、ルイはなぜかふいと顔を背けてしまった。
何か、気を悪くするような事をしてしまっただろうか。
「…じゃあ、これは僕が貰うよ」
残りの燻製を口に放り込もうとした――その時、唐突にルイが動いた。
突然の事に、反応する暇もなかった。手のうちにあった燻製が、忽然と消えうせる。
アレクは間抜けに口を開いた状態のまま、目をパチパチと瞬きさせる。
「にゃん♪」
アレクの持っていた燻製は、いつの間にかルイの口に咥えこまれていた。
どうやら、まんまとしてやられたらしい。
アレクは暫し茫然として、そして思わず吹き出してしまった。
「…だよね。ルイが、普通に受け取ろうとするはず無いよね」
「にゃあ」
自分だけには迷惑をかけても良いと、アレクはルイにそう言ってしまっている。
燻製を咀嚼しながら、ルイが膝の上に頭を乗せてくる。
アレクが優しく頭を撫でると、嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし始めた。穏やかで、とても朗らかな雰囲気。
「――!」
しかし、それはまたもや唐突に破られる。
ぴくり、とルイと耳が鋭く反応する。同時に、アレクの背筋に何かぞくりとした感覚が過ぎる。
どこからか、見られているような気配。アレクは、反射的に気配のする方角へと目を向ける。
視線の先、進行方向のその先にあったのは、アレクが住まいとしている山小屋。
まだ距離があるが、障害物は無い。こちらから、そして向こうからも互いが見える範囲内。
「……にゃん」
ひらりと、ルイが御者台から飛び降りた。そして、すぐさまどこかへかけていってしまう。
ルイは、基本的には自由気儘だ。唐突にどこか行ってしまうのは、別に珍しい事ではない。
しかし今のは、どう見ても何かから逃げだしたようにしか見えなかった。
「………」
嫌な予感がした。しかし、だからと言ってどうする事も出来ない。
どうやら、今日はどこへ行こうとも、安らぎは得ることはできないらしい。
アレクは意を決して、ゆっくりと馬車を山小屋へと進めていった。
●
「おかえり、アレク」
山小屋に戻ると、メディの姿は無かった。声だけが、アレクの元に届く。
その時点で、アレクはメディがどこにいるかを把握した。また、メディが何がしたいのかも。
手早く荷物を片付け、アレクは奥にある扉へと向かう。
「遅かった、ね。忙しかった、の?」
にこり、とメディは笑みを浮かべている。しかし、どことなく怖いのはなぜだろう。
そんなメディは、アレクのベッドの上に鎮座していた。下半身は半ば溶けているが、普段と違い足が有る。
メディがベッドの上でアレクの帰りを待つ、というこの状態。これは、ある事をしたいというメディの意思表示。
「え、えーっと…メディ? 帰って早々で悪いんだけど、まだやる事が…」
「果実酒なら、もう準備できてる。後は、熟成させるだけ」
「ぇ」
予想外の手際の良さ。
確かに、彼女はいつも傍らにいた。やり方を全て覚えていたとしても不思議ではない。
ぽんぽんと、メディが無言でベッドを叩く。早く来い、と言わんばかりに。
「あー…メディ。その、でもね? まだ、太陽は沈んでないし…それをするには、ちょっと早いような――」
「アレク…最近、村に行ってばっかり。私の事、かまってくれない」
「う…」
確かに、最近家を開ける事が多いのは確かだ。
しかも、アレクが村へ行く際は必ずルイが馬車に乗り込んできているため、メディよりもルイと一緒にいる時間の方が長くなってきている。
口にこそ出していないが、メディの不満はそこにあるのかもしれない。
「アレク…」
メディは徐にベッドの上に両手をつき、上目遣いの視線を向けてきた。
不安げな、そしてどこか蠱惑的な表情。故意か否か不明だが、体の各所を強調したその姿勢は――ひどく、眼に毒だった。
以前に比べてずいぶんと大人らしくなったその赤く艶めかしい肢体に、アレクは不覚にもどきりとしてしまった。
「アレクは…私とするの、いや? 私じゃ…だめ?」
「い、いやいや、別にそういう訳じゃなくって…ああ、もう」
アレクは意を決して、部屋に足を踏み入れる。そして、足早にメディへと近づいていく。
まるで悪いことをした子供のように、メディが身をびくりと震えさせる。
おどおどとアレクを見上げるメディ。もしかすると、怒られると思っているのかもしれない。
「…あ」
言葉で言い表すよりも、行動で示した方が早い。アレクは無言で、メディを抱きしめる。
頭を撫でて上げても良かったのかもしれないが、あえてアレクはこちらを選んだ。
そうした方が、良いように感じた。
「…少し、お酒の香りがするね。もしかして、また瓶を倒しちゃった?」
「ご、ごめんなさい…果物入れるとき、一つだけ…」
「良いよ、別に。…怪我がなくて、良かった」
「…ん」
メディはアレクの背に両腕を回し、軽く力を込めてきた。そして、額をアレクの胸に押し付ける。
冷たく、柔らかい感触。メディはスライムであり、体温も感触も人のそれとは程遠い。
しかし、アレクにとってそんなことは気にならない。人より柔らかく冷たい彼女の感触を、むしろ――愛しく、思う。
「…っと」
アレクは、はっと正気に戻る。このまま彼女に触れていると、いらぬ劣情を催してしまいかねない。
メディの誤解を解くという目的は達している。少し惜しい心持ちを感じながらも、アレクは彼女を抱きしめていた腕を解こうとする。
「――あれ?」
しかし、それは出来なかった。アレクの両腕は、ぴったりと彼女の背中に張り付いて離れない。
ふと気づくと、アレクの背中に張り付いたメディの手も同様の状況だった。
「つかまえ、た」
メディが、ゆっくりと顔を上げる。その顔は、無邪気な満面の笑顔だった。
しまった、と気づいた時にはもう遅い。アレクの体は、粘度が上がったメディの体に絡め取られていた。
ぬるぬるとしたメディの軟体が、アレクの体を覆い始める。
「わ、ちょ、メディ――うわ!?」
アレクの足元に回りこんだメディの軟体が、アレクのバランスを崩す。
その結果、アレクはメディを押し倒すような形で、ベッドに倒れ込む。
衝撃は、無い。ただ、顔が柔らかい何かに沈むような心地がしただけだった。
「やん、アレクのえっち」
「い、いや、メディがやったんじゃ――むぐ」
問答無用とばかりに、メディの両手がアレクの頭を抱きしめる。
二つの柔らかい双球を顔に押し付けられ、アレクは顔を真っ赤に染める。
そのまま絶息状態が続くこと数秒、アレクが胸から開放された時には、アレクの体は完全に包まれてしまっていた。
「これでもう、逃げられない、ね」
「…結局、こうなっちゃうのか…」
「ごめんね、アレク。でも、我慢できないの…」
艶めかしい挙措でアレクの胸を撫で、メディはアレクの首に吸いつく。
その感触に、背筋がぞくりと震える。心臓が、はちきれんばかりに熱く脈打つ。
少し前までは、幼い子供だったというのに。アレクの眼には、彼女は一人の女にしか見えなくなっていた。
それほどまでに、彼女の成長は著しい。容姿的にも、そして情動的にも。
「他のものじゃ、駄目なの。もう、アレクのじゃなきゃ、嫌なの…」
間近で見る彼女の顔は、可愛いというよりも美しいと称した方が正しい。
そんな顔で、そんな表情で言い寄られて、仮にも男であるアレクが正気でいられるはずがなかった。
すんでのところで、アレクは獣に化けてしまいそうな自身の体を押し留める。
そんなアレクの様子を見咎めたのか、メディが不思議そうな表情で首を傾げる。
「アレ、ク? どうした、の?」
「いや、その…」
できれば、乱暴な真似はしたくない。
その一心で、アレクはメディのなすがままになっていたのだが。
「だいじょうぶだよ、アレク」
「え?」
「今日は、優しく、してあげるから」
「………」
それは、どちらかというと男であるアレクの方が言うべきセリフではないだろうか。
どうやら、メディはアレクの動揺を違う意味で解釈してしまったらしい。
まあ、しかし、こうなってしまってはメディに主導権を握られるのは必然な訳で。
「じゃあ――いただきまーす♪」
「…頂かれます」
どうやら自分は、いつどこであろうとも女性に翻弄される運命にあるらしい。
しかし、彼女に――メディに翻弄されるのなら、それで良いのかもしれない。
あの女と違って、メディは僕の事を見ていてくれる。
アレクは大人しく、自らの運命を受け入れたのだった。
不揃いな歯を見せながら、マルクは椅子に座るアレクに向けて笑いかける。
相変わらず、何か裏があるような細い目つき。しかし、どこか愛嬌があるから不思議なものだ。
「いえ、私もお役に立てて光栄です。…あ、ありがとうございます」
差し出された果物酒を一舐めし、アレクはふうと息を吐き出した。
ずっと話し続けていたせいか、随分と喉が渇いていた。
甘く爽やかな風味が、とても心地よく感じる。
「ニコもジャンも、一応は納得したそうです。
ジャンは若干不服そうでしたが…まあ、元はと言えばジャンが契約書を読み違えたのが原因でしたからね」
「一応詐欺である可能性もあるので調べてみましたが、契約書にこれといって妙なところはありませんでした。
その…すみません。結果的に、村の方にとっては不利な結論となってしまって」
「いえいえ。悪かったのは、我々村の人間の方ですから。きっちり筋は通しておかないと、村の沽券に関わります。
ニコはこの村常連の行商人…妙な噂を立てられてしまっては困りますからねぇ」
マルクの味方になれなかった事は少々心苦しかったが、仲裁人は平等でなければならない。
しかしアレクは、この結論に少しほっとしていた。
もしニコという行商人が契約書を偽装していたなら、話はもっとややこしい事になっていた。
それこそ、下手をすれば血を見る結果になってしまう程に。
「それにしても…旦那、一つ聞きたいんですが。
旦那はもしかして、前は聖職者か何かだったので?」
「え?」
「ああ、いや、すみません。人の過去を詮索するなんて、野暮なことだとわかっちゃいるんですが…
旦那の聖句を混じえた話しっぷりが、まるで神父様のようだったんで。しかも、文字の読み書きもかなり達者ときた。
しかし商人にしては、欲が無い。だとすれば、後考えられるのは…とまあ、そんな風に考えてみたのですが」
頭を掻きながら、マルクは言う。
その顔を見る限り、その質問に深い意味はないようだ。単なる世間話らしい。
もし何か裏があるのであれば、アレクはすぐにわかる。そういう人間の顔を、見過ぎていたから。
「そうですね…当たらずとも遠からず、といったところです。
私は以前、修道院に住ませて頂いていたんですよ。修道士というわけではありませんでしたが」
半分以上、本当の事だ。隠すほどの事でもないので、正直に白状しておく。
ああ、とマルクは納得したような声を挙げる。
「やや、それはまた…そういう事ですか。
それじゃあもしかして、旦那が果実酒の造り方を知っていたのは…」
「ええ。聖句も文字も、そして醸造方法も、全て修道院で学びました」
「成程…合点がいきました。道理で、旦那の果実酒は美味しいわけだ。修道院仕込みだったとは」
予想外だったが、得心がいった。そんな様子で、マルクはにこりと笑う。
本当は、まだ秘密にしている事があるのだが…さすがに、それを此処で言うのは憚られた。
アレクは本心を胸中に押し隠しながら、マルクに軽く笑い返す。
マルクが手に持つジョッキを掲げてきたので、アレクもそれに答える。こん、と小気味の良い音がした。
「今後とも、我が村を宜しくお願いします。旦那」
「こちらこそ。また何かあれば、遠慮無く言って下さい」
ほぼ同時に、果実酒を口に流し込む。静かな、そして和やかな雰囲気。
「にゃおぅ…」
そんな一時を破ったのは、猫の小さな鳴き声だった。どことなく、不機嫌そうな声音。
眼前に座るマルクの身体が、ぎくりと強張る。アレクは、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「ええと…すみません。そろそろ、彼女が退屈してきたみたいですね」
「…そのようで。もしかしたら、昼間から酒盛りしているのがバレたのかもしれませんなぁ」
「かも、しれませんね。それじゃ、私はこれで」
果実酒を飲み干し、いそいそとアレクは立ち上がる。
マルクは手早くジョッキと瓶を片付け、出口へ向かうアレクへ向き直る。
「それじゃ旦那、お気をつけて。…その、お連れの方にも、宜しく言っておいてください」
「ええ、確かに。それでは」
村人達の彼女に対する心象も、少しずつ良くなってきている。
その事を嬉しく思いながら、アレクは扉に手をかけた。
●
「ふにゃあ…」
時は昼下がり、緩やかな陽光の下。何とも、気の抜けた鳴き声が聞こえてきた。
ちらりと脇を見やると、ちょうどルイが大口を開けて欠伸をしているところだった。
寝ぼけ眼で顔をごしごしと洗い、そしてまた丸くなる。
御者台は狭い。当然のごとく、彼女とアレクは密着している。
彼女がそれを嫌がる様子は、全く無い。少し前までなら、考えられなかった事。
アレクは彼女の眠りを邪魔しないように、ゆっくりと馬車を進めていく。
「…にぃ」
一見、彼女は無防備に見える。しかし、これでルイが油断しているという事は全くない。
物音にはかなり敏感に反応するし、時折耳が辺りを探るようにぴくぴく動いている。
もしかすると、護衛のつもりなのかもしれない。彼女を騎士と呼んだアレクの言葉に、彼女なりに答えてくれているのだろうか。
「あ、そういえば――」
ふと思い出し、アレクは背後に置いてあった壺に手を伸ばす。
取り出したのは、魚の燻製。先ほど、仲介人の報酬として貰ったモノの一つ。
ぱちりとルイの眼が開き、ちらりとこちらを見る
「食べる? マルクさんがくれたんだけど」
「…にゃ?」
差し出された燻製を、ルイは注意深く見つめている。
怪しむ様なその様子から察するに、毒が入っている可能性でも考えているのか。
「大丈夫だよ、ほら」
かり、とアレクは手に持ったそれを一口齧って見せる。程良い塩味が、口内に広がった。
もう一度、ルイに燻製を差し出す。しかし、ルイはなぜかふいと顔を背けてしまった。
何か、気を悪くするような事をしてしまっただろうか。
「…じゃあ、これは僕が貰うよ」
残りの燻製を口に放り込もうとした――その時、唐突にルイが動いた。
突然の事に、反応する暇もなかった。手のうちにあった燻製が、忽然と消えうせる。
アレクは間抜けに口を開いた状態のまま、目をパチパチと瞬きさせる。
「にゃん♪」
アレクの持っていた燻製は、いつの間にかルイの口に咥えこまれていた。
どうやら、まんまとしてやられたらしい。
アレクは暫し茫然として、そして思わず吹き出してしまった。
「…だよね。ルイが、普通に受け取ろうとするはず無いよね」
「にゃあ」
自分だけには迷惑をかけても良いと、アレクはルイにそう言ってしまっている。
燻製を咀嚼しながら、ルイが膝の上に頭を乗せてくる。
アレクが優しく頭を撫でると、嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし始めた。穏やかで、とても朗らかな雰囲気。
「――!」
しかし、それはまたもや唐突に破られる。
ぴくり、とルイと耳が鋭く反応する。同時に、アレクの背筋に何かぞくりとした感覚が過ぎる。
どこからか、見られているような気配。アレクは、反射的に気配のする方角へと目を向ける。
視線の先、進行方向のその先にあったのは、アレクが住まいとしている山小屋。
まだ距離があるが、障害物は無い。こちらから、そして向こうからも互いが見える範囲内。
「……にゃん」
ひらりと、ルイが御者台から飛び降りた。そして、すぐさまどこかへかけていってしまう。
ルイは、基本的には自由気儘だ。唐突にどこか行ってしまうのは、別に珍しい事ではない。
しかし今のは、どう見ても何かから逃げだしたようにしか見えなかった。
「………」
嫌な予感がした。しかし、だからと言ってどうする事も出来ない。
どうやら、今日はどこへ行こうとも、安らぎは得ることはできないらしい。
アレクは意を決して、ゆっくりと馬車を山小屋へと進めていった。
●
「おかえり、アレク」
山小屋に戻ると、メディの姿は無かった。声だけが、アレクの元に届く。
その時点で、アレクはメディがどこにいるかを把握した。また、メディが何がしたいのかも。
手早く荷物を片付け、アレクは奥にある扉へと向かう。
「遅かった、ね。忙しかった、の?」
にこり、とメディは笑みを浮かべている。しかし、どことなく怖いのはなぜだろう。
そんなメディは、アレクのベッドの上に鎮座していた。下半身は半ば溶けているが、普段と違い足が有る。
メディがベッドの上でアレクの帰りを待つ、というこの状態。これは、ある事をしたいというメディの意思表示。
「え、えーっと…メディ? 帰って早々で悪いんだけど、まだやる事が…」
「果実酒なら、もう準備できてる。後は、熟成させるだけ」
「ぇ」
予想外の手際の良さ。
確かに、彼女はいつも傍らにいた。やり方を全て覚えていたとしても不思議ではない。
ぽんぽんと、メディが無言でベッドを叩く。早く来い、と言わんばかりに。
「あー…メディ。その、でもね? まだ、太陽は沈んでないし…それをするには、ちょっと早いような――」
「アレク…最近、村に行ってばっかり。私の事、かまってくれない」
「う…」
確かに、最近家を開ける事が多いのは確かだ。
しかも、アレクが村へ行く際は必ずルイが馬車に乗り込んできているため、メディよりもルイと一緒にいる時間の方が長くなってきている。
口にこそ出していないが、メディの不満はそこにあるのかもしれない。
「アレク…」
メディは徐にベッドの上に両手をつき、上目遣いの視線を向けてきた。
不安げな、そしてどこか蠱惑的な表情。故意か否か不明だが、体の各所を強調したその姿勢は――ひどく、眼に毒だった。
以前に比べてずいぶんと大人らしくなったその赤く艶めかしい肢体に、アレクは不覚にもどきりとしてしまった。
「アレクは…私とするの、いや? 私じゃ…だめ?」
「い、いやいや、別にそういう訳じゃなくって…ああ、もう」
アレクは意を決して、部屋に足を踏み入れる。そして、足早にメディへと近づいていく。
まるで悪いことをした子供のように、メディが身をびくりと震えさせる。
おどおどとアレクを見上げるメディ。もしかすると、怒られると思っているのかもしれない。
「…あ」
言葉で言い表すよりも、行動で示した方が早い。アレクは無言で、メディを抱きしめる。
頭を撫でて上げても良かったのかもしれないが、あえてアレクはこちらを選んだ。
そうした方が、良いように感じた。
「…少し、お酒の香りがするね。もしかして、また瓶を倒しちゃった?」
「ご、ごめんなさい…果物入れるとき、一つだけ…」
「良いよ、別に。…怪我がなくて、良かった」
「…ん」
メディはアレクの背に両腕を回し、軽く力を込めてきた。そして、額をアレクの胸に押し付ける。
冷たく、柔らかい感触。メディはスライムであり、体温も感触も人のそれとは程遠い。
しかし、アレクにとってそんなことは気にならない。人より柔らかく冷たい彼女の感触を、むしろ――愛しく、思う。
「…っと」
アレクは、はっと正気に戻る。このまま彼女に触れていると、いらぬ劣情を催してしまいかねない。
メディの誤解を解くという目的は達している。少し惜しい心持ちを感じながらも、アレクは彼女を抱きしめていた腕を解こうとする。
「――あれ?」
しかし、それは出来なかった。アレクの両腕は、ぴったりと彼女の背中に張り付いて離れない。
ふと気づくと、アレクの背中に張り付いたメディの手も同様の状況だった。
「つかまえ、た」
メディが、ゆっくりと顔を上げる。その顔は、無邪気な満面の笑顔だった。
しまった、と気づいた時にはもう遅い。アレクの体は、粘度が上がったメディの体に絡め取られていた。
ぬるぬるとしたメディの軟体が、アレクの体を覆い始める。
「わ、ちょ、メディ――うわ!?」
アレクの足元に回りこんだメディの軟体が、アレクのバランスを崩す。
その結果、アレクはメディを押し倒すような形で、ベッドに倒れ込む。
衝撃は、無い。ただ、顔が柔らかい何かに沈むような心地がしただけだった。
「やん、アレクのえっち」
「い、いや、メディがやったんじゃ――むぐ」
問答無用とばかりに、メディの両手がアレクの頭を抱きしめる。
二つの柔らかい双球を顔に押し付けられ、アレクは顔を真っ赤に染める。
そのまま絶息状態が続くこと数秒、アレクが胸から開放された時には、アレクの体は完全に包まれてしまっていた。
「これでもう、逃げられない、ね」
「…結局、こうなっちゃうのか…」
「ごめんね、アレク。でも、我慢できないの…」
艶めかしい挙措でアレクの胸を撫で、メディはアレクの首に吸いつく。
その感触に、背筋がぞくりと震える。心臓が、はちきれんばかりに熱く脈打つ。
少し前までは、幼い子供だったというのに。アレクの眼には、彼女は一人の女にしか見えなくなっていた。
それほどまでに、彼女の成長は著しい。容姿的にも、そして情動的にも。
「他のものじゃ、駄目なの。もう、アレクのじゃなきゃ、嫌なの…」
間近で見る彼女の顔は、可愛いというよりも美しいと称した方が正しい。
そんな顔で、そんな表情で言い寄られて、仮にも男であるアレクが正気でいられるはずがなかった。
すんでのところで、アレクは獣に化けてしまいそうな自身の体を押し留める。
そんなアレクの様子を見咎めたのか、メディが不思議そうな表情で首を傾げる。
「アレ、ク? どうした、の?」
「いや、その…」
できれば、乱暴な真似はしたくない。
その一心で、アレクはメディのなすがままになっていたのだが。
「だいじょうぶだよ、アレク」
「え?」
「今日は、優しく、してあげるから」
「………」
それは、どちらかというと男であるアレクの方が言うべきセリフではないだろうか。
どうやら、メディはアレクの動揺を違う意味で解釈してしまったらしい。
まあ、しかし、こうなってしまってはメディに主導権を握られるのは必然な訳で。
「じゃあ――いただきまーす♪」
「…頂かれます」
どうやら自分は、いつどこであろうとも女性に翻弄される運命にあるらしい。
しかし、彼女に――メディに翻弄されるのなら、それで良いのかもしれない。
あの女と違って、メディは僕の事を見ていてくれる。
アレクは大人しく、自らの運命を受け入れたのだった。
10/08/04 00:11更新 / SMan
戻る
次へ