SP:百薬の長(後編)/魔物娘:刑部狸
「それじゃ、っとと。今日も一日頑張ろっと…」
とある日。とある社宅の一室。
戸呂助が目を覚まし、立ち上がって背伸びをして立ちくらみを一つ。
そうして居間ではちょっと雑になった自作の朝食を済ませ、
玄関では足をうっかり踏み外しそうになるがなんとかこらえて革靴を履く。
―――タタンタタン…。タタンタタン…。
「―――でさー、オレ見たわけよ」
「えー何々」
「その女がさ、別の金持ちそうな男とホテルから出ている所!!」
「うそー!?」
「嘘じゃねえよ?ホレ、この画像だ」
「うわぁ、ホントだぁ…。信じらんなーい。キャハハ」
「その女の彼氏やってる奴、カワイソーだよな〜。
オレの勤め先の新人なんだけどさ。あ、新人っても何十人といるから分かるわけ―――」
―――タタンタタン…。タタンタタン…。
「―――今日アイツやめるんだってよ」
「あー、無理だったかー」
「だよなあ。よくもまあ口が回らないのにあんな職に就こうと思ったもんだ」
「なんだかんだ言って就職難だからな―――」
―――タタンタタン…。タタンタタン…。
電車に乗り、その途中で戸呂助は軽石とのこれまでのメールを見て悦に浸る。
『社黒〜。社黒駅でございます。お出口は左側でございます』
「んあ…?ってやべっ!?」
少しボーっとしていた。そのせいでうっかり電車で乗り過ごしそうになってしまった。
人混みの中、押しつ押されつ激流に身を任せるように流されていつもの改札を通る戸呂助。
その中に戸呂助の勤め先の社員も少なくはない。
「よっ、戸呂助!」
「んあ、おはよぅございます…。先輩…」
「どうしたんだお前。最近ボーッとしてること多くね?」
「そうでしょうか…」
「オレは先行ってるぜー」
「はい…」
返事をし、走って行く先輩社員の背を見送りながらふらふらと歩いて行く戸呂助。
そのまま会社のドアをくぐり、安っぽく見えるゲートを社員証で通過する。
――――――
「―――諸君!この会社の社訓は!?」
「「「はい!『24時間徹底的に働くべし』」」」
「声が小さい!!」
「「「はい!『24時間徹底的に働くべし』!!」」」
「もう一つ!この会社の社訓は!?」
「「「はい!『お客様の満足こそが私達の給料』!!」」」
「よろしい!先週の成績だが、変わらず戸呂助くんがNo.1を保持している!お前らもこいつを見習って仕事に励め!」
「「「はいっ!!!」
――――――
「はぁ…」
茶番な朝礼が終わった。
こんなの手間なだけで、むしろやめてく人を止めることなんてできないのに。
そう頭のなかで嘲笑い、ちょっとのため息を付きながら今日の巡回リストを戸呂助は確認する。そんな中、とある同僚が呼び出してきた。
「おい戸呂助。部長が呼んでるぜ」
「ン?」
果たして今の考えがいつの間にか独り言に出ていて聞かれていたのだろうか。
考えていても仕方がないのでそのまま部長のデスクに向かっているとちょっとした噂のようなものも聞こえる。
「アイツ、ボーっとしているのにすんげー成績叩き出すんだよなぁ」
「しーっ!!お前考えなしに発言すんなよな!聞こえてるぜぇ。前半の」
「なんだよ、事実じゃねえかよ。…まあ、その成績も下降気味とは聞くけどな」
ボーっとしているのくだり。
そうだ。確かにそんなことが多くなってきた。
どうもいつも頭がふわふわしているような感覚。
足元がたまに覚束なくなり、何もないところでころ―――
「―――っ!!?」
―――転んだ。何もないところで。
「オイオイ、またやったぜアイツ」
「ああいうのさえなきゃ私達の顔なのにねー」
「オイ。あんなのが顔だって認めたいのかお前」
「まさか!」
周りの同僚がくすくす笑いながら話すのが聞こえる。
少し不愉快だがいつもの事であるのは間違いない。
そう考えつつも、不機嫌な雰囲気を少し漏らしながら戸呂助は部長のデスクに向かうことにした。
「君は最近、ケアレスミスが少しだが増えてきたようだな」
「…すみません」
「困るなあ。ウチは成績はちゃんと出しさえすれば少しのことは目をつぶるが、そんなにケアレスミスを頻発して成績を落としてしまうようでは何か対応を考えなきゃいけなくなる」
「…はい」
「お前、入社した時から雰囲気全ッ然変わってしまってる。平たく言えば気が緩み過ぎだ。今はいいが、成績を更に落としてトップから転落したり社会的に致命的なミスを犯したり、客先でそんな醜態を見せるようなことがあったら、ここにはいられないと思え。いいな」
「…ふぁい」
部長のありがたい小言をぼーっと聞き流す戸呂助。
最後に持ち場に行ってよしと言われたので部長のデスクを後にする。
どうして最近頭がはっきりしなくなってきたんだろうか。
考えながら戸呂助は会社を後にし、先日食いつきの良かった顧客の所へ向かった。
――――――
「―――それじゃあ昨日言ってたこの魔除けの護符っていうの、頼もうかな」
「ありがとうございます。プランはいかが致しましょう?」
とある国境近くアパートの一階。その中の気のいい男の家の部屋前。
戸呂助はかばんを左手に、そのかばんから取り出した魔除けの護符を右手にちょっとした商談を行っている最中だった。
「それならこの『バッチリパーフェクトプラン』を頼むよ」
「ありがとうございます。ではこちらになり、ます」
少しだけ呂律が回っていないが、構わずにいつもの営業モードで会話を続ける。
そうしておけばとりあえずミスはないだろうという考えで続けていたがしかし、
「ありが―――って、これ『そこそこプラン』じゃないか!?」
「へっ―――って、あっ!?」
戸呂助はその考え自体が甘かったことを思い知らされることになる。
「まったく、まあいいか。人間ミス自体はつきものだろうしね」
戸呂助の間違いを指摘し、少しだけ呆れた男がため息をつきながら言う。
言葉の途中でふと、ガツンとアパートの外壁の階段が鳴る音が聞こえた。
男がその音に上を向いてみるが、特に上の階には何もなく。
「あっ!?」
一階に打ち立てられた細い柱に頭を打ち付けてぐったりしている戸呂助がいた。
「大丈夫!?」
「いえいえ。誠に、申し訳ありません。こちらです」
ふらふらと立ち上がりながら豪奢な柄をした護符を差し出す。
戸呂助が差し出したものが今度こそパーフェクトなプランの護符であることを確認した男は、とりあえずその札を玄関近くの棚に置き、戸呂助に許している旨を言う。
「いや、いいよいいよ。そんなことよりお大事に。初回契約金はこの額だったよね?これからもよろしく頼むよ」
「はい、誠にありがとうございます。では失礼します」
男に別れを告げ、そのまま次の客先に足を運ぶ戸呂助。
そんな彼に、忍び寄る一人の影が一人。
アパートの二階から降りると笑ってカメラのようなものを持っていた。
――――――
夜の8時。社内にて戸呂助は一日を振り返りながら帰り支度をしている。
一つだけミスはあったが、それ以外はつつがなく仕事を終えることができた。
戸呂助がそう振り返る中、とある同僚が呼び出してきた。
「おい戸呂助。部長が呼んでるぜ」
「ン?」
果たして今呼び出されるようなことがあったのだろうか。
考えていても仕方がないのでそのまま部長のデスクに向かっていると
ちょっとした噂のようなものも聞こえる。
「くくっ、今日でアイツも終わりかなぁ」
「しーっ!!お前考えなしに発言すんなよな!聞こえてるぜぇ。全部」
「いいじゃねえかよ。てかあのビデオ見つけて報告したのお前だろ」
「ああ、『T.Kぽん』の動画だろ?わざわざ無音にしてさぁ」
今日でアイツも終わりのくだり。
何だ。一体自分が何をしたのだろう。
ビデオとは一体何のことか考えていると、
いつもの頭がふわふわしているような感覚がやってきた。
また足元が覚束なくなるが、今度こそは何もないところでころ―――
「―――っ!!?」
―――転んだ。また何もないところで。
周りの同僚が何も話さずくすくす笑うのが聞こえる。
いつもの事であるのは間違いないが、何か違和感を戸呂助は感じていた。
そう考えつつも、ぼーっとした顔で戸呂助は部長のデスクに向かうことにした。
「君。とうとうやらかしてしまったな」
禿頭の部長が何か底意地の悪い笑みを浮かべて戸呂助に言葉を投げかけた。
「…なんのことでしょうか」
「困るなあ。ウチは成績はちゃんと出しさえすれば少しのことは目をつぶるが、さすがに客先で、客の目の前で商品を出し間違えるなどというミスを犯すとはなあ」
「…!!」
悪意のある顔で部長がデスクから立ち上がり、戸呂助のそばに寄る。
そんな中で今日犯した一つのミスが戸呂助の頭をよぎった。
「ばれなければどうということはないとか、ミスは取り戻せたんだからとか、そう君は考えていたようだが、そうも行かないんだよなあ」
「どういう…ことですか」
この後に及んでも頭のふらつきは取れないものの、確実に今やばいことが起こっていると彼自身の中で感じ取ることができた。
そのことを感じさせていたのは周囲の雰囲気か、部長の雰囲気か。
いずれにしても悪意が混じっているような気がしてならなかった。
「トボけたって無駄なんだよ…。ほれ」
言葉とともに部長のノートPCが戸呂助に向けられる。
「…!!」
戸呂助は愕然とした。
そのPCには、今日犯したばかりの一つのミスが映しだされていたのだった。
「今日、敏腕社員である君が商品を取り出し間違えるところを偶然にも撮影した人がいるらしくってねえ。困るんだよこういうのは。ウチの評判ガタ落ちじゃないか」
『ありが―――って、これ『そこそこプラン』じゃないか!?』
『へっ―――って、あっ!?』
どこから撮ったのか、上から戸呂助と気の良さそうな男が写されていた。
映像の中の戸呂助がミスを指摘されてうろたえ、慌てているうちに足を滑らせる。
『まったく、まあ―――』
その間に戸呂助が頭を打ち、同じタイミングで大きな音がし、カメラが大きく動いて音声が途絶えた。それ以降は起き上がって頭を下げる戸呂助だけが撮られており、無音の代わりに周囲のクスクス笑う声が背景音の代わりとなっていた。
「―――」
その『一部始終』を呆然としながら戸呂助が見ていると、部長が再び語りかけてくる。
「この後の展開はどうかは私は知らない。だがね。こんなことが起こっては困るんだよねえ」
「―――」
「私は君に言ったよな?成績もズルズル、ズルズルと落ちている君は、今度なにかやらかしたら何かしら検討をせざるを得ないとな」
「―――」
「ん?どうするね?給料を減らすか?仕事を倍に増やしてみるか?これまでの出先に『醜態を見せて申し訳ございません』と謝って回るか?」
「―――」
「そうだ。休日を返上するというのはどうだろう。君は彼女がいるそうだが、これから減っていく給料では彼女の相手など出来るはずも無かろう。ならいっその事デートに使っている華の休日を返上して埋め合わせをする他ないだろうなあ」
「――――――――」
「好きなモノを選び給えよ君。何なら私の権限で全てやってもいいんだぞ?そうなれば本来もうクビのはずの君はまだまだここに居られるんだ。どうだね?悪い話では―――」
――――激しい動悸の中。
戸呂助は自分が何をやったのかを明確には覚えていなかった。
ただはっきりした感覚が手に残っていた。
その感覚は。何か重たい鈍器。例えば部長のノートPCを使ってそう固くないものを本気で殴ったような感覚。
その残滓として、手が激しくしびれ、じんじんと痛む。
『ありが―――って、これ『そこそこプラン』じゃないか!?』
『へっ―――って、あっ!?』
『まったく、まあ―――』
その手に持っていた鈍器のようなものは既に手から滑り落ちており、画面割れを起こしながらもループ再生設定していたであろう動画を流し続けていた。
戸呂助は自分が何をやったのか初めは分かるはずもなかった。
何故ならぼんやりと霞がかった頭のなかで今までに感じたことのない激しい衝動を感じていたから。
「―――」
そんな中。
「きゃあああああああああああああああ!!!!」
一人の女子社員の叫びと、
頭から血を流して横たわる禿頭をしたスーツの男の光景を
頭に焼き付けることでようやく何が起こったのかを理解した。
◆ ◆ ◆
「―――はっ、はっ、はっ、――」
ひたすらバッグも持たずに戸呂助は逃げた。
逃げながら、自分のやったことを理解しまいと必死だった。
だがしかし、血にまみれた床と、
画面が割れたノートPCと、
笑うことを忘れてすっかり戸呂助を恐怖の対象としていた室内の他の社員を見てしまえば嫌でも何をやってしまったのかを理解できてしまう。
そんな現実、認めたくない。
だから戸呂助は逃げ出した。
エレベーターではなく非常階段をただひたすらに転びながら降りて行き、すっかり日が落ちて暗くなった外に出れば警備員を押しのけ、警備員が呼び止めるのも、信号が赤で車がかすったことも無視してひたすら走り続ける。
明かりがまばらに灯るビルの谷間を駆け抜け、
シャッターが降りて久しいどこぞの商店街を駆け抜け、
少しだけ周りが閑散とし始めてきた中、
「―――はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、――あっ!!」
そこが急な下り坂であることも忘れて走りぬけようとし、既に限界寸前だった膝が耐えきれるはずもなく。
走ってきた勢いそのままに坂を転げ落ちていく戸呂助。
「うあっ、あぐっ、ぐああっ!!」
やがて坂が終わって転がり終えたところで彼は一人の良く見慣れたシルエットを見つけた。
「黒部…さん…?」
そう話しかける彼の様子を意に介さぬ様子で黒部はニヤニヤと笑い、一方的に話しかけた。
「やってしまいましたねえ。ワタシの忠告、忘れるからですよ」
「…ちゅうこく…?なんのこと、だ…?」
忠告、と言われても今の戸呂助の頭では思い出せるはずもない。
今は答えてほしい物があったという心理もあったのだろう。
思い出せない忠告よりも、とすかさず戸呂助は黒部に問いかける。
「そんなことより…、僕、大丈夫なんだよな…?このペンダントあれば、うまくいくんだよな…!?黒部さん!?」
その様子を見ていつぞや見せた凄惨な笑みを更に深める黒部。
「おやおや、その様子だと本当に忘れてしまったようですねえ。まあ、大丈夫であるとは思いますよ。ええ。アナタは…」
その言葉を最後に夜の闇に紛れて黒部は消えてしまった。
一体何が言いたかったのかまるで分からない。
でも分からないなら分からないで構わない。
多分、ペンダントがあれば、上手く行くはずなんだ、今のこれだってたまたま悪い夢を見ているだけなんだ、と縋る気持ちで戸呂助は再び走り出した。
それを後ろからじっと見る黒部がいた。
「ああなってしまっては、主神だろうが酒の神だろうがすがられても突き放すしかありませんねえ」
訳もわからず戸呂助はただひたすらに走り続けた。
その胸の内には部長に抱いた怒りなどとうに消え失せており、自分の中でグチャグチャにないまぜになっているよくわからない感情があった。
「たすけてくれ…!だれか…!」
ふと呟いた言葉。
一体誰に助けて欲しかったのかもわからず、次第に体力だけが限界に近づいていく。
「あ…」
そこで、軽石 心のことが頭に浮かんだ。
恋人でいてくれている彼女なら、彼女ならば。
今の自分のことを受け止めてくれるかもしれない。
助けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を見出した彼は足を止め、別の方へと歩き出す。
「かるいし…、かるいし…!」
ふらふらと千鳥足になり、時折壁に当たりながらも戸呂助は歩き続けた。
『お庭電話、お留守番サービスでございます。ピーッと鳴ったら―――』
その最中に彼女の携帯電話に電話をかけたが、彼女は今取り込み中らしい。
構わずに戸呂助は歩き続ける。それがどれ位かかったとしても、
警察にさえ捕まらなければ。
「――はぁっ、はっ、は……」
戸呂助はそうとは感じなかったが30分後。
ようやく軽石 心の家の近くにまで辿り着いていた。
携帯は既に落としていた。だが、落とした携帯よりも彼には気になるものがあった。
――彼女の家は確か車は持っていなかったはずだ。
だったら、今彼女の家の前に停まって揺れていた車は何なんだ。
そう考える内に車から一組の若いカップルが出てきていた。
「もう!激しかったじゃない!一体どうしたの?」
「いやー、なんだかムラムラしてねえ…ん?」
片方は軽石 心だった。
「え…、戸呂助、今日平日じゃ…」
驚く様子の軽石。
そんな彼女の言葉を遮るように男の方が戸呂助に話しかけてきた。
「へろすけ……。………。あー、アンタもしかして与井鳥戸呂助さん?」
「……!?」
いかにも軽い若者のような男が驚愕で固まる戸呂助に話を続ける。
「いやー、お会いするのは初めてっす。自分、心さんとお付き合いさせてもらってる―――」
男の口から名前が出てきたような気がしたが、もはやその事は問題ではなかった。
お付き合いさせてもらっている。その言葉がうまく飲み込めず、軽石の方を見る。
すると、驚きながらも男の言葉に対して彼女は当たり前のように首肯していた。
「しかし、戸呂助さんも大変っすよねえ。なんせコイツ、ブランドモンとか欲しがったりするっしょ?今は戸呂助さんが買ってくれているからまあ自分に被害は―――」
言葉ははっきり聞こえていた。
意味もふらついた頭なりに理解できていた。
そして、それ以降、しばらくは戸呂助の意識があったこと以外ほとんどのことは彼の記憶になかった。
◆ ◆ ◆
整備や清掃といった作業を放って置かれて久しい狭い道路に戸呂助はいた。
多分、あれからひたすら走り続けたのだろうと思う。
どこへ逃げるのかと問われれば誰の目にも付かないような所、と答えただろう。
体力尽きて倒れこむ前に道路に座り込んでダメージを未然に防ぐ程度の理性は残っていたが、頭がうまく働いたのはそれまでだった。
もうさっきの男が言ったような言葉を聞いても戸呂助は反応しない。
走る途中、訳がわからなくなってあちこちで頭を打ち付けていたせいで聞いて反応しようにも上手く体を動かすことができないのだ。
「…………」
散々走り、転び続けたせいでパリっとしていたスーツは既に形無しである。
恐怖やらなにやらで動転していた心は既に停止しており、ただただ虚ろな目をして座り込むだけ。
辺りをじっと見渡し、少しだけ物思いに耽ってみる。
会社はとっくにクビになったろう。明日には事件として部長の一件は広まり、こんな所間もなく見つかってしまう。身分証やら財布やら入っていたバッグは会社に置いて行ってしまっていた。いつ逮捕されるのだろう。
「覚悟しろよてめゴルァ!!」
「ぐはっ!!」
「なー、そっちなにかいいものみつかったかー?」
「んーんー?なんにもー」
そういえば。故郷の魔界ではこんなゴミ溜めみたいな路などあっただろうか。
いや、無かった気がする。少なくとも周りの暴行沙汰やらゴミ漁りをする子供など、そんな光景は魔界では決して見られない。華やかな国の影を、自分がその一部になって初めて目の当たりにしたような気分だ。
いや、一部どころか自分は今見られた血気盛んな男たちや、健気にゴミの中から良い物を探している子どもたちにすら劣るだろう。
まあ、このまま朽ちていくのも悪くはないのかもしれない。
そうして一日と半が過ぎ。
外の道路にパトカーのサイレンが鳴り響く中、これまでの思い出を振り返っても何をしてもこのしょっちゅうぐるぐる回ったりブラックアウトしたりする視界も、空嘔吐も収まるはずがないので戸呂助は考えるのをやめた。
かに思われた。
「…………?」
戸呂助は虚ろな目で日の差す方向を見ていた。
そうしたら見慣れた着物のシルエットが見えたような気がした。
そのシルエットはわざとらしいという表現がぴったりなほどにゆっくりと歩いていた。
「…ぅぁ」
その影を追って、戸呂助はまず四つん這いで追い始めた。
ゴミ溜めの中で転びながらも這い続けたその後は、壁に手をついて立ち上がろうとする。
またもや転んでしまうがそれでも立ち上がって心もとない場所を覚束ない足取りでその人影のところへ進んでいく。
「ぁぅ…、ぅぅ…」
戸呂助が進んでいくうちに人影の方も彼に気づいたのか、綺麗な黒い着物のまま、あえてゴミ溜めの中へと進んでいく。
――気づいてくれた。
あの人なら。あの人ならなんとかしてくれる。どうしてきづかなかったんだろう。
あのひとならいまのぼくをたすけてくれる。きっと。きっと。
一人の人影に光を見出した男がプルプルと一歩一歩全力を尽くさねば転んでしまう様子で、片や女はゴミ溜めという不安定極まる足場の中ゆったりと、安定した歩きを見せ。
やがて黒部富子の胸の中に泣きそうな戸呂助が倒れこんだ。
「あ、あうぅあ…、く…べさ…」
「フフ…。アナタにはもう一度会うだろうと思っていました…」
初めて戸呂助に触れ、もはや蕩けたその笑みを隠そうともしない女がしっかりと彼の頭と背を抱きとめる。
「おや?その様子は…。もう一度ワタシに何かして欲しい、といったところでしょうか」
「…!」
黒部の言葉の一つ一つが彼のぼやけた頭の中に入り込んでくる。
その言葉だけを理解できた戸呂助は痛む頭を押して首を縦に振った。
「では…。お得意様になっていただける、ということですね?」
「……」
続く黒部の言葉にやはり頷く戸呂助。もはやそれを止めることが出来る者は誰もいなかった。
「それならば。ワタシの部屋にでも泊まりに来てはいかがでしょう?アナタが何を見たのかはワタシにはわかりませんが、ワタシの部屋なら大丈夫ですあそこならもうこれ以上、怖いものなど何もありませんからね…。もちろん、好きなだけ泊まって頂いて構いません」
「うぁ…?」
何かしてくれるのかと思ったら黒部の部屋に入れてくれるという。
にわかには信じがたかったので喋ることが出来ないなりに精一杯聞き返す。
「ワタシもアナタのスキマを広げてしまったことには負い目ぐらいありますよ」
すると笑顔はそのままだったが、申し訳無さそうに黒部が返事したのだ。
「宿泊費は一日1万円…。またその他のサービス全て有料、お支払いは外出時で構いません。では一名様ご案内…」
そう黒部が言う間に壁に付いていたドアが開かれる。
体勢を変えて背後から戸呂助を抱きしめる格好となった黒部はそのままドアを開け、ボロボロの建物の外見からはとても想像できない広さを持った綺麗な部屋へと案内する。
やがてドアが閉められると、そのドアはスーッと透けて見えなくなり、そこにはボロボロの誰もいない建物の中と外のゴミ溜めを隔てるだけのただの壁があった。
◆ ◆ ◆
ここはどことも知れぬ一部屋。
誰がこの部屋のことを知るかといえば黒部富子しかいなく、その黒部が他の誰かを連れてくるということなど、今の今までなかった。
「さ、着きました。それとワタシは一つ謝っておかなければなりません」
「ぅぁ…?」
だから、その黒部富子が自身の部屋に男を連れ込むとなれば、それはよほど重要なことであろう、ということが伺えた。
「ワタシは人間ではありません。隠していたわけではないのですが、何かとあの姿も気に入っているものでして…」
言葉とともに黒部の周りに白い煙が漂ってくる。
一度その煙が周りの視界を遮ってしまうほどに濃くなったと思えば、その中から一人の魔物娘が本当の姿を表していた。
「ワタシは刑部狸の黒部と申します。以後、お見知り置きを」
刑部狸。稲荷と並べて語られるほどの大妖怪。
特に変化の術や幻術を扱わせれば右に出る種族はいない、ともされる。
同時に。
「さて、折角来ていただいたのですから、早速サービスをいたしましょう。まずはお風呂とワタシです。ご飯はまだもう少し先の時間ですから」
「ぁぅ…」
彼女らは性欲の権化とも称される。あの手この手でターゲットの男に接近し、男が一度捕まってしまえば後は彼女らの独壇場である。
「では、まずは服を脱ぎましょう。色々と汚れてしまっていますからね」
そう言って黒部は戸呂助のスーツのボタンを一つ一つ外す。
いつの間にか戸呂助は黒部と共に全裸になっており、黒部はその細身からは想像もつかない力でダランとした戸呂助を横抱きにして浴室へと連れて行った。
「まず定番の背中流しから行きましょうか…」
――――――
―――
―
………
………………
浴室でひと通り体をいじられてから居間に出て、黒部さんと一緒に御飯を食べてから寝室に入った。
ジーっと見ていると、上で跳ねる黒部さんが蕩け顔でこっちを見下ろしているのがよく分かる。
さっきから彼女の性器が自分の性器を加えこんで離さないせいで射精が止まらない。
水道の壊れた蛇口のような射精をするたびに自分の体も黒部さんの体も震える。
その時の黒部さんがすごく嬉しそうだったから、自分もついつい嬉しくなる。
そのうち、気持ちいいのが収まり、射精も収まると自分の性器も釣られて硬さを失う。
すると、黒部さんはそばに置いてある箱から何かの瓶を取り出した。
「どうですか?おや、もう出なくなったんですか。ソレじゃあ、今度はこんな精力剤とかどうでしょう?よぉく効きますよ」
よく効くということは、つまりもっともっと出すことが出来る、ということか。
そう考えたら居ても立っても居られなくなり、体力がなくなった体をおして起き上がろうとする。
「いえいえ。その必要はありません。ワタシが施してあげましょう」
瓶を開けた黒部さんが後ろを振り返る。
箱からもう一つ注射器のようなものを取り出し、薬を注入してきた。
「ぅあ゛っ…」
瞬間。頭にものすごい衝撃が走った。
その衝撃が次は喉を通り、胸に到達するとそこからドキドキするのが激しくなり、熱い感覚が衝撃とともに全身に伝わってきた。
今ならば、一人でも空を自由に飛んでいけそうな気がした。
そう例えてもいいぐらいのエネルギーを得たような気がした。
そして、そのエネルギーを全て目の前の恋しいタヌキさんに注ぎたかった。
目の前がグラグラする。高揚感のあまり、おかしな笑いをしたくなる。
気づけば性器がこれまで以上の硬さを得ていた。
「これはこれは…。仕入れておいてなんですが凄いですねぇ…。では」
黒部さんはちょっと驚いた様子だった。それはそうだ。
性器の持ち主が誰よりも驚き、笑ってしまいそうだったから。
もう一度黒部さんが動く。
今度は体を倒れこませ、頭を抱きしめて唇を重ね、濃厚に舌を絡ませながらの行為だった。
黒部さんが腰をふるたびに声が出ているのが聞こえる。
でもそれ以上に自分は目の前で星がチカチカと飛んでいるようになっているのでその事を気に留める余裕はあんまりなかった。
「ふふっ、一杯、だして、くださいねえ。それがワタシの、求める何よりの、ものですから」
いつ射精したのかもわからない。
そもそも出していない時があるのかさえもわからない。
このグワングワン言っている頭で分かるのは
今目の前にいるこの女性が死にそうなほどに気持よくさせてくれていること、
その艶やかな黒髪と吸い込まれそうな黒い瞳をした女性は
あのまま死んでしまうところだった自分を助けだしてくれた恩人だということ、
今ではもうその人無しでは何も出来ないぐらいに依存しきっていること。
確か人間じゃなくて刑部狸という妖怪だと言っていたけど関係ない。
むしろ元々自分は魔界の出身なのだから、故郷の生き方に従っているだけとも開き直ることが出来る。
いや、難しいことはどうだっていい。
気持ちいい。黒部さんが大好き。黒部さんのためならなんでもしたい。
ずっとこうしていたい。
「愛しあうって本当に良いものだったんですねえ。
いままでワタシなんかは誰かが愛しあうところしか見ていませんでしたから、その分、ぶつけさせていただきますよぉ」
「あ、ああっ、ひうっ、あ゛っ…!――――」
蕩けるような笑顔をした刑部狸と、
目はひっくり返り、涎は出っぱなしで気持ちいいを通り越した表情で悶え続ける男がひたすら交わり続けていた。
◆ ◆ ◆
行為を終えて。
すっかり精を出しきってぐったりして眠っている戸呂助と、
すっきりして布団の中で戸呂助を抱きながら横になっている黒部がいた。
やがて黒部は起き上がり、煙を立てると初めに見せた喪服の人間の姿へと変わる。
「捨てる神あれば拾う神あり」
その表情は獲物をとらえることの出来た獣の目であり、
言葉には出さずともその獲物を離すことなく永遠に自分のものにしようという気持ちが表に出ていた。
「なら、社会がこの方を確実に捨てさせるようにして、ワタシは拾う側に回ればいいんです」
喪服の黒部はそのまま部屋の外に出ると、そこは戸呂助と出会ったバーの前だった。
戸呂助が寝ている内に食料やら精力剤やらを仕入れに行き、ついでにこれまでの「仕事」もこなすつもりなのだ。
「え?ワタシには愛がない?いえいえそんなそんな。愛ならありますよ。少なくともワタシはこの方を離すつもりは毛頭ありませんし、この方もワタシのことを頼ってくれていますからねえ。
ただワタシは欲したら手段を選ばないという、ただそれだけ。
今回は、この方の心のスキマを、ワタシで埋められるようワタシの形に掘り直した。ただそれだけです…。
オーッホッホッホッホ…」
とある日。とある社宅の一室。
戸呂助が目を覚まし、立ち上がって背伸びをして立ちくらみを一つ。
そうして居間ではちょっと雑になった自作の朝食を済ませ、
玄関では足をうっかり踏み外しそうになるがなんとかこらえて革靴を履く。
―――タタンタタン…。タタンタタン…。
「―――でさー、オレ見たわけよ」
「えー何々」
「その女がさ、別の金持ちそうな男とホテルから出ている所!!」
「うそー!?」
「嘘じゃねえよ?ホレ、この画像だ」
「うわぁ、ホントだぁ…。信じらんなーい。キャハハ」
「その女の彼氏やってる奴、カワイソーだよな〜。
オレの勤め先の新人なんだけどさ。あ、新人っても何十人といるから分かるわけ―――」
―――タタンタタン…。タタンタタン…。
「―――今日アイツやめるんだってよ」
「あー、無理だったかー」
「だよなあ。よくもまあ口が回らないのにあんな職に就こうと思ったもんだ」
「なんだかんだ言って就職難だからな―――」
―――タタンタタン…。タタンタタン…。
電車に乗り、その途中で戸呂助は軽石とのこれまでのメールを見て悦に浸る。
『社黒〜。社黒駅でございます。お出口は左側でございます』
「んあ…?ってやべっ!?」
少しボーっとしていた。そのせいでうっかり電車で乗り過ごしそうになってしまった。
人混みの中、押しつ押されつ激流に身を任せるように流されていつもの改札を通る戸呂助。
その中に戸呂助の勤め先の社員も少なくはない。
「よっ、戸呂助!」
「んあ、おはよぅございます…。先輩…」
「どうしたんだお前。最近ボーッとしてること多くね?」
「そうでしょうか…」
「オレは先行ってるぜー」
「はい…」
返事をし、走って行く先輩社員の背を見送りながらふらふらと歩いて行く戸呂助。
そのまま会社のドアをくぐり、安っぽく見えるゲートを社員証で通過する。
――――――
「―――諸君!この会社の社訓は!?」
「「「はい!『24時間徹底的に働くべし』」」」
「声が小さい!!」
「「「はい!『24時間徹底的に働くべし』!!」」」
「もう一つ!この会社の社訓は!?」
「「「はい!『お客様の満足こそが私達の給料』!!」」」
「よろしい!先週の成績だが、変わらず戸呂助くんがNo.1を保持している!お前らもこいつを見習って仕事に励め!」
「「「はいっ!!!」
――――――
「はぁ…」
茶番な朝礼が終わった。
こんなの手間なだけで、むしろやめてく人を止めることなんてできないのに。
そう頭のなかで嘲笑い、ちょっとのため息を付きながら今日の巡回リストを戸呂助は確認する。そんな中、とある同僚が呼び出してきた。
「おい戸呂助。部長が呼んでるぜ」
「ン?」
果たして今の考えがいつの間にか独り言に出ていて聞かれていたのだろうか。
考えていても仕方がないのでそのまま部長のデスクに向かっているとちょっとした噂のようなものも聞こえる。
「アイツ、ボーっとしているのにすんげー成績叩き出すんだよなぁ」
「しーっ!!お前考えなしに発言すんなよな!聞こえてるぜぇ。前半の」
「なんだよ、事実じゃねえかよ。…まあ、その成績も下降気味とは聞くけどな」
ボーっとしているのくだり。
そうだ。確かにそんなことが多くなってきた。
どうもいつも頭がふわふわしているような感覚。
足元がたまに覚束なくなり、何もないところでころ―――
「―――っ!!?」
―――転んだ。何もないところで。
「オイオイ、またやったぜアイツ」
「ああいうのさえなきゃ私達の顔なのにねー」
「オイ。あんなのが顔だって認めたいのかお前」
「まさか!」
周りの同僚がくすくす笑いながら話すのが聞こえる。
少し不愉快だがいつもの事であるのは間違いない。
そう考えつつも、不機嫌な雰囲気を少し漏らしながら戸呂助は部長のデスクに向かうことにした。
「君は最近、ケアレスミスが少しだが増えてきたようだな」
「…すみません」
「困るなあ。ウチは成績はちゃんと出しさえすれば少しのことは目をつぶるが、そんなにケアレスミスを頻発して成績を落としてしまうようでは何か対応を考えなきゃいけなくなる」
「…はい」
「お前、入社した時から雰囲気全ッ然変わってしまってる。平たく言えば気が緩み過ぎだ。今はいいが、成績を更に落としてトップから転落したり社会的に致命的なミスを犯したり、客先でそんな醜態を見せるようなことがあったら、ここにはいられないと思え。いいな」
「…ふぁい」
部長のありがたい小言をぼーっと聞き流す戸呂助。
最後に持ち場に行ってよしと言われたので部長のデスクを後にする。
どうして最近頭がはっきりしなくなってきたんだろうか。
考えながら戸呂助は会社を後にし、先日食いつきの良かった顧客の所へ向かった。
――――――
「―――それじゃあ昨日言ってたこの魔除けの護符っていうの、頼もうかな」
「ありがとうございます。プランはいかが致しましょう?」
とある国境近くアパートの一階。その中の気のいい男の家の部屋前。
戸呂助はかばんを左手に、そのかばんから取り出した魔除けの護符を右手にちょっとした商談を行っている最中だった。
「それならこの『バッチリパーフェクトプラン』を頼むよ」
「ありがとうございます。ではこちらになり、ます」
少しだけ呂律が回っていないが、構わずにいつもの営業モードで会話を続ける。
そうしておけばとりあえずミスはないだろうという考えで続けていたがしかし、
「ありが―――って、これ『そこそこプラン』じゃないか!?」
「へっ―――って、あっ!?」
戸呂助はその考え自体が甘かったことを思い知らされることになる。
「まったく、まあいいか。人間ミス自体はつきものだろうしね」
戸呂助の間違いを指摘し、少しだけ呆れた男がため息をつきながら言う。
言葉の途中でふと、ガツンとアパートの外壁の階段が鳴る音が聞こえた。
男がその音に上を向いてみるが、特に上の階には何もなく。
「あっ!?」
一階に打ち立てられた細い柱に頭を打ち付けてぐったりしている戸呂助がいた。
「大丈夫!?」
「いえいえ。誠に、申し訳ありません。こちらです」
ふらふらと立ち上がりながら豪奢な柄をした護符を差し出す。
戸呂助が差し出したものが今度こそパーフェクトなプランの護符であることを確認した男は、とりあえずその札を玄関近くの棚に置き、戸呂助に許している旨を言う。
「いや、いいよいいよ。そんなことよりお大事に。初回契約金はこの額だったよね?これからもよろしく頼むよ」
「はい、誠にありがとうございます。では失礼します」
男に別れを告げ、そのまま次の客先に足を運ぶ戸呂助。
そんな彼に、忍び寄る一人の影が一人。
アパートの二階から降りると笑ってカメラのようなものを持っていた。
――――――
夜の8時。社内にて戸呂助は一日を振り返りながら帰り支度をしている。
一つだけミスはあったが、それ以外はつつがなく仕事を終えることができた。
戸呂助がそう振り返る中、とある同僚が呼び出してきた。
「おい戸呂助。部長が呼んでるぜ」
「ン?」
果たして今呼び出されるようなことがあったのだろうか。
考えていても仕方がないのでそのまま部長のデスクに向かっていると
ちょっとした噂のようなものも聞こえる。
「くくっ、今日でアイツも終わりかなぁ」
「しーっ!!お前考えなしに発言すんなよな!聞こえてるぜぇ。全部」
「いいじゃねえかよ。てかあのビデオ見つけて報告したのお前だろ」
「ああ、『T.Kぽん』の動画だろ?わざわざ無音にしてさぁ」
今日でアイツも終わりのくだり。
何だ。一体自分が何をしたのだろう。
ビデオとは一体何のことか考えていると、
いつもの頭がふわふわしているような感覚がやってきた。
また足元が覚束なくなるが、今度こそは何もないところでころ―――
「―――っ!!?」
―――転んだ。また何もないところで。
周りの同僚が何も話さずくすくす笑うのが聞こえる。
いつもの事であるのは間違いないが、何か違和感を戸呂助は感じていた。
そう考えつつも、ぼーっとした顔で戸呂助は部長のデスクに向かうことにした。
「君。とうとうやらかしてしまったな」
禿頭の部長が何か底意地の悪い笑みを浮かべて戸呂助に言葉を投げかけた。
「…なんのことでしょうか」
「困るなあ。ウチは成績はちゃんと出しさえすれば少しのことは目をつぶるが、さすがに客先で、客の目の前で商品を出し間違えるなどというミスを犯すとはなあ」
「…!!」
悪意のある顔で部長がデスクから立ち上がり、戸呂助のそばに寄る。
そんな中で今日犯した一つのミスが戸呂助の頭をよぎった。
「ばれなければどうということはないとか、ミスは取り戻せたんだからとか、そう君は考えていたようだが、そうも行かないんだよなあ」
「どういう…ことですか」
この後に及んでも頭のふらつきは取れないものの、確実に今やばいことが起こっていると彼自身の中で感じ取ることができた。
そのことを感じさせていたのは周囲の雰囲気か、部長の雰囲気か。
いずれにしても悪意が混じっているような気がしてならなかった。
「トボけたって無駄なんだよ…。ほれ」
言葉とともに部長のノートPCが戸呂助に向けられる。
「…!!」
戸呂助は愕然とした。
そのPCには、今日犯したばかりの一つのミスが映しだされていたのだった。
「今日、敏腕社員である君が商品を取り出し間違えるところを偶然にも撮影した人がいるらしくってねえ。困るんだよこういうのは。ウチの評判ガタ落ちじゃないか」
『ありが―――って、これ『そこそこプラン』じゃないか!?』
『へっ―――って、あっ!?』
どこから撮ったのか、上から戸呂助と気の良さそうな男が写されていた。
映像の中の戸呂助がミスを指摘されてうろたえ、慌てているうちに足を滑らせる。
『まったく、まあ―――』
その間に戸呂助が頭を打ち、同じタイミングで大きな音がし、カメラが大きく動いて音声が途絶えた。それ以降は起き上がって頭を下げる戸呂助だけが撮られており、無音の代わりに周囲のクスクス笑う声が背景音の代わりとなっていた。
「―――」
その『一部始終』を呆然としながら戸呂助が見ていると、部長が再び語りかけてくる。
「この後の展開はどうかは私は知らない。だがね。こんなことが起こっては困るんだよねえ」
「―――」
「私は君に言ったよな?成績もズルズル、ズルズルと落ちている君は、今度なにかやらかしたら何かしら検討をせざるを得ないとな」
「―――」
「ん?どうするね?給料を減らすか?仕事を倍に増やしてみるか?これまでの出先に『醜態を見せて申し訳ございません』と謝って回るか?」
「―――」
「そうだ。休日を返上するというのはどうだろう。君は彼女がいるそうだが、これから減っていく給料では彼女の相手など出来るはずも無かろう。ならいっその事デートに使っている華の休日を返上して埋め合わせをする他ないだろうなあ」
「――――――――」
「好きなモノを選び給えよ君。何なら私の権限で全てやってもいいんだぞ?そうなれば本来もうクビのはずの君はまだまだここに居られるんだ。どうだね?悪い話では―――」
――――激しい動悸の中。
戸呂助は自分が何をやったのかを明確には覚えていなかった。
ただはっきりした感覚が手に残っていた。
その感覚は。何か重たい鈍器。例えば部長のノートPCを使ってそう固くないものを本気で殴ったような感覚。
その残滓として、手が激しくしびれ、じんじんと痛む。
『ありが―――って、これ『そこそこプラン』じゃないか!?』
『へっ―――って、あっ!?』
『まったく、まあ―――』
その手に持っていた鈍器のようなものは既に手から滑り落ちており、画面割れを起こしながらもループ再生設定していたであろう動画を流し続けていた。
戸呂助は自分が何をやったのか初めは分かるはずもなかった。
何故ならぼんやりと霞がかった頭のなかで今までに感じたことのない激しい衝動を感じていたから。
「―――」
そんな中。
「きゃあああああああああああああああ!!!!」
一人の女子社員の叫びと、
頭から血を流して横たわる禿頭をしたスーツの男の光景を
頭に焼き付けることでようやく何が起こったのかを理解した。
◆ ◆ ◆
「―――はっ、はっ、はっ、――」
ひたすらバッグも持たずに戸呂助は逃げた。
逃げながら、自分のやったことを理解しまいと必死だった。
だがしかし、血にまみれた床と、
画面が割れたノートPCと、
笑うことを忘れてすっかり戸呂助を恐怖の対象としていた室内の他の社員を見てしまえば嫌でも何をやってしまったのかを理解できてしまう。
そんな現実、認めたくない。
だから戸呂助は逃げ出した。
エレベーターではなく非常階段をただひたすらに転びながら降りて行き、すっかり日が落ちて暗くなった外に出れば警備員を押しのけ、警備員が呼び止めるのも、信号が赤で車がかすったことも無視してひたすら走り続ける。
明かりがまばらに灯るビルの谷間を駆け抜け、
シャッターが降りて久しいどこぞの商店街を駆け抜け、
少しだけ周りが閑散とし始めてきた中、
「―――はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、――あっ!!」
そこが急な下り坂であることも忘れて走りぬけようとし、既に限界寸前だった膝が耐えきれるはずもなく。
走ってきた勢いそのままに坂を転げ落ちていく戸呂助。
「うあっ、あぐっ、ぐああっ!!」
やがて坂が終わって転がり終えたところで彼は一人の良く見慣れたシルエットを見つけた。
「黒部…さん…?」
そう話しかける彼の様子を意に介さぬ様子で黒部はニヤニヤと笑い、一方的に話しかけた。
「やってしまいましたねえ。ワタシの忠告、忘れるからですよ」
「…ちゅうこく…?なんのこと、だ…?」
忠告、と言われても今の戸呂助の頭では思い出せるはずもない。
今は答えてほしい物があったという心理もあったのだろう。
思い出せない忠告よりも、とすかさず戸呂助は黒部に問いかける。
「そんなことより…、僕、大丈夫なんだよな…?このペンダントあれば、うまくいくんだよな…!?黒部さん!?」
その様子を見ていつぞや見せた凄惨な笑みを更に深める黒部。
「おやおや、その様子だと本当に忘れてしまったようですねえ。まあ、大丈夫であるとは思いますよ。ええ。アナタは…」
その言葉を最後に夜の闇に紛れて黒部は消えてしまった。
一体何が言いたかったのかまるで分からない。
でも分からないなら分からないで構わない。
多分、ペンダントがあれば、上手く行くはずなんだ、今のこれだってたまたま悪い夢を見ているだけなんだ、と縋る気持ちで戸呂助は再び走り出した。
それを後ろからじっと見る黒部がいた。
「ああなってしまっては、主神だろうが酒の神だろうがすがられても突き放すしかありませんねえ」
訳もわからず戸呂助はただひたすらに走り続けた。
その胸の内には部長に抱いた怒りなどとうに消え失せており、自分の中でグチャグチャにないまぜになっているよくわからない感情があった。
「たすけてくれ…!だれか…!」
ふと呟いた言葉。
一体誰に助けて欲しかったのかもわからず、次第に体力だけが限界に近づいていく。
「あ…」
そこで、軽石 心のことが頭に浮かんだ。
恋人でいてくれている彼女なら、彼女ならば。
今の自分のことを受け止めてくれるかもしれない。
助けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を見出した彼は足を止め、別の方へと歩き出す。
「かるいし…、かるいし…!」
ふらふらと千鳥足になり、時折壁に当たりながらも戸呂助は歩き続けた。
『お庭電話、お留守番サービスでございます。ピーッと鳴ったら―――』
その最中に彼女の携帯電話に電話をかけたが、彼女は今取り込み中らしい。
構わずに戸呂助は歩き続ける。それがどれ位かかったとしても、
警察にさえ捕まらなければ。
「――はぁっ、はっ、は……」
戸呂助はそうとは感じなかったが30分後。
ようやく軽石 心の家の近くにまで辿り着いていた。
携帯は既に落としていた。だが、落とした携帯よりも彼には気になるものがあった。
――彼女の家は確か車は持っていなかったはずだ。
だったら、今彼女の家の前に停まって揺れていた車は何なんだ。
そう考える内に車から一組の若いカップルが出てきていた。
「もう!激しかったじゃない!一体どうしたの?」
「いやー、なんだかムラムラしてねえ…ん?」
片方は軽石 心だった。
「え…、戸呂助、今日平日じゃ…」
驚く様子の軽石。
そんな彼女の言葉を遮るように男の方が戸呂助に話しかけてきた。
「へろすけ……。………。あー、アンタもしかして与井鳥戸呂助さん?」
「……!?」
いかにも軽い若者のような男が驚愕で固まる戸呂助に話を続ける。
「いやー、お会いするのは初めてっす。自分、心さんとお付き合いさせてもらってる―――」
男の口から名前が出てきたような気がしたが、もはやその事は問題ではなかった。
お付き合いさせてもらっている。その言葉がうまく飲み込めず、軽石の方を見る。
すると、驚きながらも男の言葉に対して彼女は当たり前のように首肯していた。
「しかし、戸呂助さんも大変っすよねえ。なんせコイツ、ブランドモンとか欲しがったりするっしょ?今は戸呂助さんが買ってくれているからまあ自分に被害は―――」
言葉ははっきり聞こえていた。
意味もふらついた頭なりに理解できていた。
そして、それ以降、しばらくは戸呂助の意識があったこと以外ほとんどのことは彼の記憶になかった。
◆ ◆ ◆
整備や清掃といった作業を放って置かれて久しい狭い道路に戸呂助はいた。
多分、あれからひたすら走り続けたのだろうと思う。
どこへ逃げるのかと問われれば誰の目にも付かないような所、と答えただろう。
体力尽きて倒れこむ前に道路に座り込んでダメージを未然に防ぐ程度の理性は残っていたが、頭がうまく働いたのはそれまでだった。
もうさっきの男が言ったような言葉を聞いても戸呂助は反応しない。
走る途中、訳がわからなくなってあちこちで頭を打ち付けていたせいで聞いて反応しようにも上手く体を動かすことができないのだ。
「…………」
散々走り、転び続けたせいでパリっとしていたスーツは既に形無しである。
恐怖やらなにやらで動転していた心は既に停止しており、ただただ虚ろな目をして座り込むだけ。
辺りをじっと見渡し、少しだけ物思いに耽ってみる。
会社はとっくにクビになったろう。明日には事件として部長の一件は広まり、こんな所間もなく見つかってしまう。身分証やら財布やら入っていたバッグは会社に置いて行ってしまっていた。いつ逮捕されるのだろう。
「覚悟しろよてめゴルァ!!」
「ぐはっ!!」
「なー、そっちなにかいいものみつかったかー?」
「んーんー?なんにもー」
そういえば。故郷の魔界ではこんなゴミ溜めみたいな路などあっただろうか。
いや、無かった気がする。少なくとも周りの暴行沙汰やらゴミ漁りをする子供など、そんな光景は魔界では決して見られない。華やかな国の影を、自分がその一部になって初めて目の当たりにしたような気分だ。
いや、一部どころか自分は今見られた血気盛んな男たちや、健気にゴミの中から良い物を探している子どもたちにすら劣るだろう。
まあ、このまま朽ちていくのも悪くはないのかもしれない。
そうして一日と半が過ぎ。
外の道路にパトカーのサイレンが鳴り響く中、これまでの思い出を振り返っても何をしてもこのしょっちゅうぐるぐる回ったりブラックアウトしたりする視界も、空嘔吐も収まるはずがないので戸呂助は考えるのをやめた。
かに思われた。
「…………?」
戸呂助は虚ろな目で日の差す方向を見ていた。
そうしたら見慣れた着物のシルエットが見えたような気がした。
そのシルエットはわざとらしいという表現がぴったりなほどにゆっくりと歩いていた。
「…ぅぁ」
その影を追って、戸呂助はまず四つん這いで追い始めた。
ゴミ溜めの中で転びながらも這い続けたその後は、壁に手をついて立ち上がろうとする。
またもや転んでしまうがそれでも立ち上がって心もとない場所を覚束ない足取りでその人影のところへ進んでいく。
「ぁぅ…、ぅぅ…」
戸呂助が進んでいくうちに人影の方も彼に気づいたのか、綺麗な黒い着物のまま、あえてゴミ溜めの中へと進んでいく。
――気づいてくれた。
あの人なら。あの人ならなんとかしてくれる。どうしてきづかなかったんだろう。
あのひとならいまのぼくをたすけてくれる。きっと。きっと。
一人の人影に光を見出した男がプルプルと一歩一歩全力を尽くさねば転んでしまう様子で、片や女はゴミ溜めという不安定極まる足場の中ゆったりと、安定した歩きを見せ。
やがて黒部富子の胸の中に泣きそうな戸呂助が倒れこんだ。
「あ、あうぅあ…、く…べさ…」
「フフ…。アナタにはもう一度会うだろうと思っていました…」
初めて戸呂助に触れ、もはや蕩けたその笑みを隠そうともしない女がしっかりと彼の頭と背を抱きとめる。
「おや?その様子は…。もう一度ワタシに何かして欲しい、といったところでしょうか」
「…!」
黒部の言葉の一つ一つが彼のぼやけた頭の中に入り込んでくる。
その言葉だけを理解できた戸呂助は痛む頭を押して首を縦に振った。
「では…。お得意様になっていただける、ということですね?」
「……」
続く黒部の言葉にやはり頷く戸呂助。もはやそれを止めることが出来る者は誰もいなかった。
「それならば。ワタシの部屋にでも泊まりに来てはいかがでしょう?アナタが何を見たのかはワタシにはわかりませんが、ワタシの部屋なら大丈夫ですあそこならもうこれ以上、怖いものなど何もありませんからね…。もちろん、好きなだけ泊まって頂いて構いません」
「うぁ…?」
何かしてくれるのかと思ったら黒部の部屋に入れてくれるという。
にわかには信じがたかったので喋ることが出来ないなりに精一杯聞き返す。
「ワタシもアナタのスキマを広げてしまったことには負い目ぐらいありますよ」
すると笑顔はそのままだったが、申し訳無さそうに黒部が返事したのだ。
「宿泊費は一日1万円…。またその他のサービス全て有料、お支払いは外出時で構いません。では一名様ご案内…」
そう黒部が言う間に壁に付いていたドアが開かれる。
体勢を変えて背後から戸呂助を抱きしめる格好となった黒部はそのままドアを開け、ボロボロの建物の外見からはとても想像できない広さを持った綺麗な部屋へと案内する。
やがてドアが閉められると、そのドアはスーッと透けて見えなくなり、そこにはボロボロの誰もいない建物の中と外のゴミ溜めを隔てるだけのただの壁があった。
◆ ◆ ◆
ここはどことも知れぬ一部屋。
誰がこの部屋のことを知るかといえば黒部富子しかいなく、その黒部が他の誰かを連れてくるということなど、今の今までなかった。
「さ、着きました。それとワタシは一つ謝っておかなければなりません」
「ぅぁ…?」
だから、その黒部富子が自身の部屋に男を連れ込むとなれば、それはよほど重要なことであろう、ということが伺えた。
「ワタシは人間ではありません。隠していたわけではないのですが、何かとあの姿も気に入っているものでして…」
言葉とともに黒部の周りに白い煙が漂ってくる。
一度その煙が周りの視界を遮ってしまうほどに濃くなったと思えば、その中から一人の魔物娘が本当の姿を表していた。
「ワタシは刑部狸の黒部と申します。以後、お見知り置きを」
刑部狸。稲荷と並べて語られるほどの大妖怪。
特に変化の術や幻術を扱わせれば右に出る種族はいない、ともされる。
同時に。
「さて、折角来ていただいたのですから、早速サービスをいたしましょう。まずはお風呂とワタシです。ご飯はまだもう少し先の時間ですから」
「ぁぅ…」
彼女らは性欲の権化とも称される。あの手この手でターゲットの男に接近し、男が一度捕まってしまえば後は彼女らの独壇場である。
「では、まずは服を脱ぎましょう。色々と汚れてしまっていますからね」
そう言って黒部は戸呂助のスーツのボタンを一つ一つ外す。
いつの間にか戸呂助は黒部と共に全裸になっており、黒部はその細身からは想像もつかない力でダランとした戸呂助を横抱きにして浴室へと連れて行った。
「まず定番の背中流しから行きましょうか…」
――――――
―――
―
………
………………
浴室でひと通り体をいじられてから居間に出て、黒部さんと一緒に御飯を食べてから寝室に入った。
ジーっと見ていると、上で跳ねる黒部さんが蕩け顔でこっちを見下ろしているのがよく分かる。
さっきから彼女の性器が自分の性器を加えこんで離さないせいで射精が止まらない。
水道の壊れた蛇口のような射精をするたびに自分の体も黒部さんの体も震える。
その時の黒部さんがすごく嬉しそうだったから、自分もついつい嬉しくなる。
そのうち、気持ちいいのが収まり、射精も収まると自分の性器も釣られて硬さを失う。
すると、黒部さんはそばに置いてある箱から何かの瓶を取り出した。
「どうですか?おや、もう出なくなったんですか。ソレじゃあ、今度はこんな精力剤とかどうでしょう?よぉく効きますよ」
よく効くということは、つまりもっともっと出すことが出来る、ということか。
そう考えたら居ても立っても居られなくなり、体力がなくなった体をおして起き上がろうとする。
「いえいえ。その必要はありません。ワタシが施してあげましょう」
瓶を開けた黒部さんが後ろを振り返る。
箱からもう一つ注射器のようなものを取り出し、薬を注入してきた。
「ぅあ゛っ…」
瞬間。頭にものすごい衝撃が走った。
その衝撃が次は喉を通り、胸に到達するとそこからドキドキするのが激しくなり、熱い感覚が衝撃とともに全身に伝わってきた。
今ならば、一人でも空を自由に飛んでいけそうな気がした。
そう例えてもいいぐらいのエネルギーを得たような気がした。
そして、そのエネルギーを全て目の前の恋しいタヌキさんに注ぎたかった。
目の前がグラグラする。高揚感のあまり、おかしな笑いをしたくなる。
気づけば性器がこれまで以上の硬さを得ていた。
「これはこれは…。仕入れておいてなんですが凄いですねぇ…。では」
黒部さんはちょっと驚いた様子だった。それはそうだ。
性器の持ち主が誰よりも驚き、笑ってしまいそうだったから。
もう一度黒部さんが動く。
今度は体を倒れこませ、頭を抱きしめて唇を重ね、濃厚に舌を絡ませながらの行為だった。
黒部さんが腰をふるたびに声が出ているのが聞こえる。
でもそれ以上に自分は目の前で星がチカチカと飛んでいるようになっているのでその事を気に留める余裕はあんまりなかった。
「ふふっ、一杯、だして、くださいねえ。それがワタシの、求める何よりの、ものですから」
いつ射精したのかもわからない。
そもそも出していない時があるのかさえもわからない。
このグワングワン言っている頭で分かるのは
今目の前にいるこの女性が死にそうなほどに気持よくさせてくれていること、
その艶やかな黒髪と吸い込まれそうな黒い瞳をした女性は
あのまま死んでしまうところだった自分を助けだしてくれた恩人だということ、
今ではもうその人無しでは何も出来ないぐらいに依存しきっていること。
確か人間じゃなくて刑部狸という妖怪だと言っていたけど関係ない。
むしろ元々自分は魔界の出身なのだから、故郷の生き方に従っているだけとも開き直ることが出来る。
いや、難しいことはどうだっていい。
気持ちいい。黒部さんが大好き。黒部さんのためならなんでもしたい。
ずっとこうしていたい。
「愛しあうって本当に良いものだったんですねえ。
いままでワタシなんかは誰かが愛しあうところしか見ていませんでしたから、その分、ぶつけさせていただきますよぉ」
「あ、ああっ、ひうっ、あ゛っ…!――――」
蕩けるような笑顔をした刑部狸と、
目はひっくり返り、涎は出っぱなしで気持ちいいを通り越した表情で悶え続ける男がひたすら交わり続けていた。
◆ ◆ ◆
行為を終えて。
すっかり精を出しきってぐったりして眠っている戸呂助と、
すっきりして布団の中で戸呂助を抱きながら横になっている黒部がいた。
やがて黒部は起き上がり、煙を立てると初めに見せた喪服の人間の姿へと変わる。
「捨てる神あれば拾う神あり」
その表情は獲物をとらえることの出来た獣の目であり、
言葉には出さずともその獲物を離すことなく永遠に自分のものにしようという気持ちが表に出ていた。
「なら、社会がこの方を確実に捨てさせるようにして、ワタシは拾う側に回ればいいんです」
喪服の黒部はそのまま部屋の外に出ると、そこは戸呂助と出会ったバーの前だった。
戸呂助が寝ている内に食料やら精力剤やらを仕入れに行き、ついでにこれまでの「仕事」もこなすつもりなのだ。
「え?ワタシには愛がない?いえいえそんなそんな。愛ならありますよ。少なくともワタシはこの方を離すつもりは毛頭ありませんし、この方もワタシのことを頼ってくれていますからねえ。
ただワタシは欲したら手段を選ばないという、ただそれだけ。
今回は、この方の心のスキマを、ワタシで埋められるようワタシの形に掘り直した。ただそれだけです…。
オーッホッホッホッホ…」
14/05/05 00:03更新 / 一波栄
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