SP:百薬の長(前編)/魔物娘:刑部狸
この世は老いも若きも男も女も心の寂しい人間ばかり…だったのですが。
最近はどこの街も国も、お互いのスキマをお互いで埋めてしまえる者たちばかりでしてね…。
ワタシですか?ワタシは、そんな心のスキマをお埋めするサービスをしておりましたが、
魔界が広がるこの世の中では正直言って何もできたものじゃないんですよねぇ。
そんな状況に陥って初めてワタシ自身、人様の心のスキマに触れることで
ワタシ自身の心のスキマを埋めようとしていたことに気づいたんですよ。
さて、お話が過ぎましたが、今日のお客様はこの与井鳥戸呂助(よいどり へろすけ)という男性です。
この方は、この世界ではすっかり珍しくなったタイプのお方です―――。
◆ ◆ ◆
黒ィぎょうぶさんSP。
「百薬の長」
◆ ◆ ◆
とあるバー。
底なしの暗闇につづいてますと言わんばかりに地下に続く階段の奥深くにあるその店は、
物々しい雰囲気の入り口とは裏腹になかなかに繁盛している店である。
恐怖をおして中に入ればカウンターの奥には優しげな雰囲気の男と
狐の耳を隠そうともしない金髪の女が佇んでいる。
周りのテーブルでは様々なカップルがやすらぎの一時を酒とともに
過ごしているので、甘い雰囲気が常に絶えず、
もし独り身が出会いを求めるのならば別のところに行った方がいい
という特徴を持った店でもある。
カラン。
と、バーのドアのベルが鳴ればドアが開き、
微妙によれたスーツを着た妙に冴えない雰囲気の男が入ってくる。
男の名は与井鳥 戸呂助<よいどり へろすけ>。幼い頃から何かが欲しくても我慢し、
もしくは怖くて手が出せなかった事のほうが多かったという男だ。
当然、そうなってはいくら愛に生きることを至上とする魔界でも
なかなか相手を見つけるのは難しい物がある。
そんな鬱憤を少しでも晴らしに、慣れない酒場へと戸呂助はやってきたのだ。
そんな男に、優しげな雰囲気のバーテンダーが話しかけた。
「いらっしゃい。こちらの席が空いてますよ」
「…失礼します」
「何か飲みたいものは?」
「んー、分かりません。何ぶん、こんな所は初めてなもので…」
「あぁ、ではこんなのはいかがでしょう」
手慣れた様子でお手頃とされるワインがグラスに注がれる。
バーテンダーがグラスを差し出すまでのところを戸呂助は据わった目で見続ける。
据わった目つきとは言ったが、別段怒っているわけでも
酔っ払っているわけでもない。ただ気力がないだけである。
有名なバーだというからなんとなく来てみたのだが、いざ来てみれば
なんてことはないただの狐女と一人の男が仲睦まじく切り盛りしているだけの店だ。
「…では頂きます」
そう言うと、戸呂助はグラスをなんとなく手に取り、口につける。
またしても自分の見たくない類の光景を見せ付けられたので
腹いせ混じりにくいっとグラスを傾ける。
傾いたグラスから赤い綺麗な液体が流れ、口の中に入ると、
「…うっ、」
戸呂助は途端に顔をしかめた。口の中に酒のきつい味が広がる。
正しくは彼の味覚を酒の味が蹂躙するといったほうが正しいのかもしれない。
あまり会社の飲み会に出たことのない彼は、自身が酒の味が苦手であるということを今更ながらに思い出したのだった。
「…っ、んくっ」
かと言って、吐き出すのはあまりに失礼である。
口の中に流れ込んだ分は味覚が抵抗するところを我慢して
無理やり喉に通す。舌で味わった酒の味が今度は喉を蹂躙する。
酒が食道を通ったあたりで苦手な味は収まりつつあったが、
今度は喉から酒の残り香が鼻を嫌な方向で刺激する。
いかにも酒だというその味が苦手なので、
いかにも酒だというその匂いも苦手であった。
「ああ、申し訳ありません。もしかしてお客様、飲めないのでは…」
「い、いえいえ。下戸ではないんですけど、どうも味が苦手で…」
「ああ、なるほど…」
確かに酒に含まれるアルコールの味というのは慣れないと刺激が強い。
ともすれば甘いであったり酸っぱいであったりと様々な味があって、
酔いよりもそっちを楽しむ目的で飲む人もいる種類の酒も、
慣れない人からすればただの不味い飲み物でしかないことだってある。
それでも今のようにワインに拒否反応を示すような男が
ここに来たということはなにか理由があってのことであろう。
とは言え、下戸でないというのならそれこそしっかりと飲むぐらいでないと
酔っ払うには達しないものだ。特にこの男の場合、
何かを忘れて酔っ払うにはかなりの忍耐が必要となってくる。
あんまり無理をして酒を飲んでもストレス解消にはならないことを
ちょっと言っておこうとバーテンダーは思い、
ついでにサービスでソフトドリンクを別のグラスに注ぐ。
そんな時だった。
がちゃ。からんからんからん、からん。
冴えない男がそうしたのとは正反対に、手慣れた様子で
勝手知ったる自宅の玄関を通るようにドアが開かれる。
「いらっしゃい…ってアンタかい」
「ええ、また来ましたよ。おいなりさん」
「稲荷じゃない、妖狐だ。あと『お』をつけるな」
「まあ、どちらでもいいではないですか。陽子さん」
「はぁ、アンタも相変わらずだ。妹さんは元気なの?」
「刑子なら今も元気にあちこち廻ってますよ」
「ならいいけどさ。アンタなんかのためにジパング酒仕入れなきゃならない身にもなってよ」
入ってきたのは飄々とした様子の黒髪の女。
入ってきた時からどこか妖しげな笑顔で黒い着物に身を包んだその女は
黒い女が入った時からムスッとした顔の金髪の狐耳をした女と話しながら酒を注文する。
「ああいえいえ。今日はウイスキーを頼みます。ダブルでストレート」
「…アンタもよくそんなやって平気でいられるねえ」
「いえいえ。近頃はなかなかお客様が見つからないからそろそろ拠点変えようと思っているんですよね」
「へーへ。はい、ウイスキーダブル一杯お待ちどおさまっ」
「そんな風につっけんどんにするような人ばかりだからワタシも商売上がったりなんです」
察するに顔なじみなのだろう。黒髪の方は妖狐の顔なじみで結構お酒を飲むのだろうか。
着ている服は親魔物領の中でもかなり特殊な部類とされているジパングの物だ。
その帯まで黒い着物は非常に上品な雰囲気を漂わせ、かつ非常に地味なのが余計に目につく。
彼女の上品な雰囲気はウイスキーを注いだグラスをグイッと飲んでいるせいで台無しだが。
そんな風に考えながら、戸呂助が何故か黒い女から目を離せないでいると黒尽くめの女も気づいたらしい。
ちっとも顔を赤くさせず、入ってきた時の笑顔も全く崩さないまま戸呂助に絡んできた。
「そう思いませんか?」
「…あの、話が、見えない」
女性と交際するどころか仕事のこと以外で話した経験など殆ど無い戸呂助は
それだけでかなり口ごもってしまう。その様子を見て顔をしかめた妖狐と
バーテンダーの男はしかし、止めるでもなく揃ってため息をつく。
「ああ、失礼。ワタシは―――」
顔色こそ変えないが、いきなり見知らぬ冴えないこんな男に絡んでくるあたり、
ただの酒癖の悪い女なんだろうと戸呂助は考えていた。しかし、
「こういう者です」
その予想は見事に外れたのだった。
「ん…?『マ心サービス。 黒部富子』…?」
女が突然名刺を渡してきたので男もつい勢いで受け取ってしまう。
「ええ。ワタシが取り扱うのは寂しい心のスキマを埋めてくれるような、そんな商品です」
ああ。と納得した。
「セールスマン…?」
正確には女なのでセールスウーマンかセールスレディか。
「ま、そんなところですね」
「帰って」
「……」
ただの酔っ払いかと思ったらただの怪しい営業さんだった。
しかも心のスキマを埋めるとか言う怪しさ一級品のもの。
おまけに『マ心サービス。』だなんて妙ちきりんなキャッチコピーのみで
どこぞの会社であるとかそういった所属の情報など全くなし。
黒部富子という名前らしいが、一体お客様がいたとしてどこを見てもらって
そのお客様に気に入られようとしているのか全くわからない名刺だった。
「真心なんて言って、ふと魔が差して心のスキ間に付け入られてぽしゃり、なんて結構聞くお話」
「おやおや、ワタシの調べではアナタは結構臆病で口数少ないところがあるそうだと思ってましたが」
「…うるさい」
「今まで何かと欲しいと思っても怖くなって手出しできない事のほうが多かったのでしょう。アナタ。それくらい口が回るのなら少しは行動を起こしても別に何も問題なかったでしょうに」
耳に障る言葉の数々。それらにうるさいと口にする代わりに戸呂助はいつの間にか出されていた
ソフトドリンクを一気。勢いが強くて気管に入り込み、ついむせこんでしまう。
「お気に障ってしまったのならば申し訳ございません。ですが、ワタシはお客様の心のスキマを埋めることを第一としています」
「だったら何なのその心のスキマって」
「寂しい心を持った状態のことを言います」
「………」
「ですが、最近はこんな魔界でしょう。待てど暮らせど心のスキマを持った者などもう来ないと言っていい状態だったんです。そこへアナタがやってきた」
それはつまり、誰もが皆、お相手がいて心のスキマなど持とうはずもないこの魔界の中で
寂しく一人を過ごしていると面と向かってはっきり言われたことに他ならない。
少なくとも彼はそう捉えたので、更に不機嫌が増していく。
「バカにしている?」
「ああ、失礼。決して貶しているわけではございません。むしろワタシとしては喜ばしいことなのです」
「仕事ができるから?」
「ええ。それに、ワタシがいなくなったりする時になって心のスキマを持つ者が残っているというのはワタシの信条に反することですから」
暗にお前、お金がほしいんだろうと言葉に込めてみたつもりだが、
黒部という女はこれっぽっちも動じる様子はない。挑発としては安すぎたかもしくはわかりにくかったかも知れないが、
だからといってこんなに笑顔をピクリとも崩さずにいられるのは少しおかしいような気もする。
まあ、酔ったふりなんて露骨な真似して近づくんだから
多少のことでは動じるわけがないかと結論付け、戸呂助は口を開いた。
「で?僕には何をしてくれるわけ?」
「これです」
黒部が小さい謎のペンダントを渡す。四角いガラスの物体に
一つの小さい筒が飛び出したような形状が特徴的のように思えた。
「バッカスのペンダントと言います」
「バッカス…?」
心のスキマを埋めるために何かしらのサービスをするのかと思ったら
奇妙なペンダント。ばっかじゃないの?などと面と向かって言えるわけもなく、
黙って黒部の話を聞く。
「ええ。ちょっとしたお話をしますと、これは旧魔王時代に作られたいわば骨董品です。そんな血で血を洗う時代にあっても、今の魔王のように人を愛する魔物ぐらいいました」
そんなうんちくに胡散臭いものを見る目をした戸呂助の様子に構わず、彼女は話を続ける。
「ですが、そこは旧魔王時代。バケモノに人を殺す力こそあっても人とお近づきになる勇気などあるわけもない。そこで、正しいことのための勇気を出すお手伝いをし、万が一の時には己の体を鈍らせて本能を削ぐことの手伝いをして人を殺させない。そんな風に心正しき魔物が自身の望みを叶え、時に己を律するための枷としていた、今では全く無用の長物です」
「で、僕みたいな人間でもそれを持てば話しかけたりすることに躊躇しなくなる、と」
「そういうわけです」
「ふーん。で、いくらむしりとろうって?」
「お金は一銭もいただくつもりはございませんよ」
「ただより高いものもないって聞くけど」
暫く続くやりとり。戸呂助は胡散臭さを感じつつも、何故か話を続けてしまう。
自分はこんなに話ができる人間だったかなと戸呂助はふと考えたがすぐに黒部の話に耳を傾け直してしまう。
「タダで構いませんが、どうしてもお金を払いたいというのであれば後払いという形でお願いします。ワタシは先にお金だけ受け取ってドロンとかそういう風に思われることが一番キライですからね」
「後払い、ね」
「先にアナタにその商品をお使いいただき、満足して下さったのであれば、気が向いた時にお支払いになるいうので全然構いません」
「そういうことね。ところでさ、いいの?」
「何がでしょう?」
脈絡のないの言葉に、あくまで笑顔は崩さずに聞き返す黒部。
それに対し、戸呂助はいい忘れていたことを述べ始めた。
「僕はこれからユーラの国に移り住むつもりなんだけど」
「ああ、なるほど。そう考えるまでとは、余程なんでしょうねえ」
ユーラの国。一言で言えば反魔物領である。
かつ経済も軍隊の力もかなり強い方であるため、周囲の魔物はなかなかに攻めあぐねているのだとか。
なので、中では人間たちが人間たちの暮らしを謳歌しているのだろう。
戸呂助はそんな環境に少なからず憧れを抱いていた。
それに何より、こんなバカップルたちが蔓延る地域にて自分だけ独身という状況が堪えないわけがない。ならいっそ魔物などいない所にでも移り住んでしまえば少しはこんな惨めな気持ちも収まるだろうと戸呂助は考えていた。
当然、職場でこの事をアヌビスである上司に話したら全力で止められたが。
『既婚子持ちが何を言う』
辞表を叩きつけ、この言葉を最後に会社を出て行ってしまったのだ。
もう今更止めるなどできるわけがない。
こんなことをいつの間にかかいつまんで話していた。
一方、ウンウンと笑顔で頷きながらそんな話を黒部は聞いていた。
「ならば、尚更です。アナタはこれを使うべきだ。ワタシの経験則から言わせてもらえば、魔物よりも人間のほうがよっぽど辛辣なこともありますからねえ」
「…っ!?」
あくまであまり興味ない風を装いつつもその言葉にギョッとする戸呂助。
そこで安心させるように黒部は戸呂助の肩を叩く。
「なあに大丈夫ですよ。ワタシも近々そこに泊まる予定ですから、アナタが心配しているようなことにはなりませんよ。お金も貴方自身もね」
「ふぅん…って、そっちもよっぽどなんだ」
揺さぶられてしまったことを悟られまいと戸呂助は言葉を返したが、それすらもどこか見透かされていそうな気がして、ソフトドリンクをもう一杯。その一杯でとりあえず気を落ち着ける。
「ええ。人間だけのところならワタシのお客様もわんさといるでしょうから」
こんなのに後払いで売ったらお金になんてならないと思ったが、
そうでもないらしい。ならちょっとだけ試してみるのもいいのかもしれない。
「…まあ、使ってみるよ」
そう言って戸呂助はバッカスのペンダントを受け取り、
「ありがとうございます。では、ご健闘をお祈り申し上げます…」
ペンダントを手渡した女は深々とお辞儀をした。
戸呂助は立ち上がり、そのままカウンターでバーのお勘定を済ませて出ようとしたが、ふと立ち止まって最後に一つ気になったことを聞くことにした。
「…ついでに聞くけど、その服は何なの?葬式帰り?」
「ああ、これですか?なんてことはない、ただの商売服ですよ。第一印象のインパクトは大事ですからね」
一瞬。
「…?」
黒部富子の頭から黒い動物の耳のような物が覗いた気がした。
すぐに見えなくなったので、その時は気のせいだと思っていた。
男の姿が見えなくなる。そんな男の姿を見て黒部はクスリと笑っていた。
「お酒はいいですよねえ。会話が円滑に進むようになる…」
黒い女の手には先ほど渡したペンダントと同じ形をしたウイスキーボトルがあった。
「…ところで陽子さん。アナタ一瞬妨害魔法かけましたね?」
「アンタんとこの『お客様』なんて見たかないんだよ。黒部富子」
先ほどまでのムスッとした顔とは明らかに異なる剣呑な雰囲気の妖狐。
しかし、それすらも意に介さぬ様子で黒部は返す。
「ホッホッホッ。無駄ですよ。妖術はワタシの大の得意なんですから…」
「はぁ…。アンタも刑子見習いなよな…」
「まあまあ。心のスキマを埋められる幸せを運んで差し上げるのがワタクシの仕事ですから」
そう言って黒部もお勘定を済ませ、外へ出て行く。
「…その幸せが歪んでさえなきゃ言うことなしなんだけどねぇ…」
◆ ◆ ◆
「…つい、乗せられて受け取ってしまった」
戸呂助はふとネオンがけばけばしく輝く狭い路上を後にした所で歩を止めた。
やたらと印象が強く、頭にこびり付いたというのが正しいぐらいに
記憶から消えない黒部という喪服女。
歩みを止めたついでにバッカスのペンダントを取り出す。
黒部富子が言うには勇気を出す手助けをしたり、己を縛る枷になったりするらしい。
バッカスといえばロマリア地方の酒の神だったか。
だからこんな飲んだくれが持つようなウイスキーボトルみたいな形をしているのだろうか。
あれこれ考えてみるが、なんでこんなセンスかがよくわからない。
そんな効果ならもっと高尚な見た目や縁起のいい名前をしても良さそうな気もする。
そこへ。闇に紛れていたかのように。ゆらりと。
「与井鳥さん」
「ふぎゃあっ!?」
戸呂助が驚いて後ろを振り返ってみれば、暗闇に紛れすぎていたせいで服も黒髪も見えず、少し病的な白い顔と貼り付けたかのような笑顔だけが浮かんで見えた。
更に驚いた戸呂助が今度はひっくり返って尻餅をつく。
「おやおや。驚かせすぎてしまいましたか」
「な、なな、何なんだアンタ!?」
「いえいえ。一つ気になったことがありましてね」
気になったことが一体何か。泡を食った戸呂助がそれを考える間もなく黒部が更に口を開く。
「アナタ、どうやってユーラの国に渡るつもりなんです?」
「そんなの、アンタに関係―――」
「大いにありますよ。反魔物領なんですから、余所者は拒むのが当然。魔界から来たとなれば尚更です。アナタ、普通に殺されてしまいますよ」
「う…」
指摘されて口ごもる戸呂助。
こんな魔界にいたら自分は惨めな思いをするというのは本当だが、
飛び出すとのたまって会社に辞表を叩きつけたのは半分勢いだ。
黒部が言う通り、特にユーラの国に行くアテがあったわけでもない。
となれば、後は単身乗り込んで殺されるかこの魔界かその外で野垂れ死ぬかだ。
勢いで行動したのを戸呂助が本気で後悔し始めたあたりで黒部が突然手を差し出した。
「先程も言いましたが、ワタシはこれからユーラの国に行く予定です。経歴の詐称などワタシからすれば訳もありませんし、ご一緒にいかがです?」
「―――」
どうしてだろう。この女に対して面と向かって話していると、
目の前がぐるぐると、回ってもいないのに回っている感じがする。
どうしてか、従わなければならないような気がする。
戸呂助は吸い寄せられるようにその手を取り。
そして。
「どうしてこうなった…」
いつの間にか与井鳥戸呂助はゴトゴトと揺れる荷馬車の中、
黒部富子と一緒に隠れていた。
「いいですよねえ。こういうの。駆け落ちみたいじゃないですか」
「ただの同行者なのに何言ってんの…」
「まあまあ、たまにはこういう長旅もいいじゃありませんか」
「………」
長旅じゃなくて引っ越しなんだけど。
そう言いたかったがあまりに楽しそうな黒部の雰囲気に気圧されて何も言えずにいた。
「ダメですよ。しっかりとツッコミは入れなさい。気遣いもいいですけど、たまには言いたいことバシッと言ってくださいよ。アナタはむしろそういう努力が必要ですな」
「ツッコミ待ち!?」
ごとごと。ごとごと。
「ユーラの国、かあ」
「華やかな国、とは聞きますね」
「人間だけの国とも聞くなあ」
「現在急成長しているそうですから華やかなのは間違いなさそうですねえ」
「ところで、アンタは人間だけの反魔物な国に行ったりなんかして大丈夫なの?」
「おや、おかしなことを聞きますね?」
「え?」
「ワタシは。特に問題はありませんよ?」
「あ、そっか…。そういえばアンタ人間…だもん、なぁ…。なんでこんなこと聞いたんだろ」
「人間の国といいますのは、魔界ほど愛にまみれているわけではありませんから、より様々な心と心のスキマを持った人にあふれているわけです。それだけに、ワタシも仕事がやりやすくなりますからね」
「そっち…」
ごとごと。ごとごと。
「そういえばさ、心のスキマを埋める仕事って何をしてきたのさ」
「対面初日でアナタ、企業秘密に切り込みますか」
「あ、ごめん…」
「いえいえ。構いません。ワタシにとって思い出話みたいなものですから」
「…話するんだ」
「そうですねえ。例えばリャナンシーを射止めたいのにいい創作物のネタが湧かなくて困っていた男に物語を簡単に書くコツを教えたり、ユニコーンさんとその夫に、ちょっとした刺激になるものをあげたり、なかなか想いを告げられずに悶々としていた男の子の手助けをしたりしましたねえ」
「ふーん。心のスキマ、ねえ。魔界に住んでてもそういうの持つんだ」
「できにくいだけですからね。まあ、心のスキマを埋めて差し上げるワタシの仕事も、魔界じゃすっかりスキマ産業になってましたがね」
「ナーンチャッテ!!なんつってね」
「おや、セリフ持って行かれてしまいました」
ごとごと。ごとごと。
「ところで、アナタが今手にしているそのペンダントですが、実は既に効果を発揮していますよ」
「…Zzz」
「おや、眠ってしまわれていましたか。まあ、もう夜も深いですからね。それにしても、月が綺麗ですねえ。実に赤く大きくて神秘的だ」
………。
………………。
……………………………。
「…ハッ」
ふと、戸呂助の目が覚めた。
あたりを見渡してみれば、さっきまで住んでいた場所とは全く違う雰囲気の部屋だった。どうにも石造りのくせに妙に温かみのある部屋だ。
「…ここ、どこ?」
怪訝なものを見るようにあたりを見渡す戸呂助。
自分の記憶の限りでは、自分の部屋の窓枠は鉄製、寝床は床に直接敷く布団のはずだ。
なのに今自分が身を横たえているのはよく弾む暖かなベッドだし、窓枠は見たこともない木でできたものだ。
寝る前の記憶を出来るだけ探ってみる。
最後にいつの間にか寝ていたらしい。
どこで?
「…荷馬車、の中…?」
寝る前に、何をしていた?
「…お話を、していた」
誰と?
「…黒部、さん?」
黒部、富子?
「…ハッ!?」
色々と思い出していく。
半ば勢いとはいえ、ユーラの国に行こうとしていたこと。
その前に、黒部富子という喪服の女に謎のペンダントをもらったこと。
あのあたりから奇妙なまでに自分の口が回っていたこと。
「ってことは…」
もしかするとここがユーラの国なのかもしれない。
だが、外国に旅をするときは追い剥ぎに気をつけろとも聞く。
思い出したように戸呂助は身の回りのものを確認する。
周りを見渡せば壁にはいつものスーツがハンガーに掛かっており、バッグもベッドの直ぐ側に置いてあった。
最後に首を確認すると『バッカスのペンダント』がぶら下がっている。
「身の回りはとりあえず大丈夫…ん?」
バッグの中を確認すると、いつもの荷物に加えて封筒が一通入っているのが見えた。
早速中身を開けると手紙と地図などが入っていたので早速戸呂助は読み上げることにした。
『与井鳥戸呂助さんへ
ユーラの国入りおめでとうございます。
新天地ということで色々と不安なこともあるでしょう。
というわけで、アフターサービスの一環として
アドバイスをさせていただきます。
まずは同封してある地図に書いてある建物に入ってください。
そしてもう一つ。慎重になることは確かに必要でしょう。
ですが、不必要な恐れは抱かずに前に進むことも必要です。
それでは、ご縁があればまた会いましょう。
P.S.職探しですが、この国は職をもらうためのマニュアルなる
ものがあるそうですから、その本もついでに差し上げます』
「―――マ心サービス。黒部富子、かあ」
一応怪しい女であることには違いない。しかし、ここまでしてくれていることに戸呂助は少なくない恩を感じていた。
今度会ったら、ちゃんとお礼をしないといけない。
そう考え、一週間後に彼は地図に示された建物を目指すことにした。
◆ ◆ ◆
地図に示されていた建物は職業紹介所だった。
確かに人が人としての生活を営む以上、どうしてもお金が必要になる。そこは親魔物領でも変わらないし、反魔物領となれば尚更である。
そしてそのお金を得るためには働く必要がある。
ではそのためにはどうやって職業を得るか?
その手段のうちの一つがこの職業紹介所だった―――
「それでは、自己紹介をお願いします」
「はい」
―――紹介先の一つとして挙がっていた大きな会社。
大きな会社。大きいだけあって雇う予定人数もものすごい多く、
それでいて学歴問わず、アットホームな職場という触れ込みで求人広告をしていた。
その魔界では見られない広告は魔界生まれの戸呂助にはひどく新鮮に映り、彼はいつの間にか応募していた。
面接官に促され、自分のプロフィールをスラスラと答えていく。
―――与井鳥戸呂助 22歳。
性別 男。
最も有名である魔界ジパング、の隣に位置するケランの国出身。
ケランは反魔物領としては最も魔物の対策の研究が進んでいるとされている国だ。
そこで幼少期、青年期と過ごしていき、ユーラの国に移り住んだ。
「はい、はい。分かりました。それでは、これから質問をしていきますので―――」
当然、黒部が用意した嘘である。
ケランの国はあるし、魔物対策も進んではいるのも本当だ。
ただ、それはあくまで反魔物領としてであって、魔物自身がいる親魔物領ほどではない。
そして戸呂助の出身国もケランではなく、隣の魔界であるジパングだ。
言いながら、戸呂助は不思議に思う。
本来ならば人と話すこと、特に嘘をつくことを少々苦手としていた戸呂助だが、どうしてだろうか。この嘘にまみれた経歴を、あたかも自分のモノとして面接を進めることができていた。
「弊社のどういったところが気に入ったのでしょう?」
「アナタはケランの国出身だそうですが、そこで何をなされていたのですか?」
「学生時代に頑張ったことは何ですか?」
時間が過ぎていく。この企業は魔除けグッズを作っている会社だ。
魔界が時間とともに広がっていくこのご時世では魔除けの類は飛ぶように売れる。
そうなれば、ドンドンとこの企業も成長していくし、志望者数も増えるのは当たり前の話だ。
そんな志望者の山を事務的にさばくような面接官の質問の中、なんでもないかのように答える戸呂助。
「はい、分かりました。ありがとうございます。最後に弊社に関することで質問はありますか?」
「はい。御社の―――」
◆ ◆ ◆
「―――それでは、こんなものなどいかがでしょう」
内定をもらってからずいぶんと経つ。
戸呂助は初めに受けた魔除けグッズを扱う商社のセールスマンとなっていた。
魔法のたぐいはあまり得意ではなかったという理由で営業志望として応募したのがもうずいぶん前のことである。もちろん動機はでっち上げたが。
戸呂助はもっぱら新規開拓営業をやっていた。
笑顔で訪問し、あたかも自分のところの商品が一番であるかのように言い、とにかくいい印象を与える。
いい所をとにかく良く伝え、悪いところはあまり伝えないかこうすることでカバーできる
と言っておくか。いずれにしても事実を元にして言うのだから面接の時のような
真っ赤なウソを言うよりもずっと楽な仕事である。
特に戸呂助は周りよりもいい結果を出せていたので給料もすぐに上がった。
ただし、会社全体のスローガンとして、「やれるときにとことんやっておく」というモノがある。
これが一体どういうことかといえば、単純に休みが少ないのである。
土曜日に出ずっぱりは割と当たり前の話であり、戸呂助のように日曜日にゆっくり休めるというのは優遇されている方である。
魔除けグッズが売れているうちにドンドンと売り込み、できるだけ利益を稼ぐというその姿勢に、体力の限界を迎え、心か体を壊して辞めていく人も何人か出てくる頃。
戸呂助は彼女を作っていた。
「ねえねえ。今度の休みっていつ頃?」
「んー、まあいつも通りだけど、次の日曜」
街で出会った軽石 心(かるいし こころ)という女性と週に一度のデートをしていた戸呂助。
彼女とはこうして週に一度だけデートをする中でこうして今日のようにショッピングを楽しむこともあればどこかへとドライブをすることだってある。
いずれも彼女が望んだものであり、特にドライブに関しては彼女は家に車が無いそうなのでなかなか車にのる機会が無いからか、楽しそうであった。
デート中のちょっと高いお店やお買い物も、ちょっと距離のあるドライビングやそのためのガソリン代もこの大企業の稼ぎから出るお給料の前では苦ではない。
寧ろそれぐらいの出費で彼女と共に居られるというのなら安いものであるとさえ捉えていた。
「分かった!それじゃあまたね!バイバイ!」
「うん。じゃあね」
軽石の姿が見えなくなってくる。と、同時に夢みたいな華の日曜が終わる。
そう一人思いながら日が落ちかけている街を戸呂助はふらっとよろめきながら歩いて行く。
ここに来てからの生活は概ね上手くいっている。
自分の時間というもの自体は少ないと自覚するところであるが、
その少ない自分の時間で最大限楽しく過ごせているのだから問題はない。
おそらく黒部富子が渡したこのペンダントのおかげなのだろうか。
自分に何かをするための勇気を与えるためのアイテム。
それは確かに効果があったのだろう。黒部には感謝しなければならない。
「…ととっ」
そう考えつつ戸呂助は帰路につくが、ついうっかり足がもつれてしまった。
最近こういうことが増えたような気がする。
やはり月〜土と様々なところを駆けずり回り、日曜に軽石の相手をするとなると
溜まる疲労も相当なものなのだろう。
「バァ」
「おわっ!!とっとっとわあっ!!!」
そこへ、一人の女の声が大きな声で話しかけてきた。
やはり驚き、後ろを振り返ろうとするが足がもつれた。
当然、バランスを崩し、戸呂助は転んで盛大に尻餅をつく。
「ッタぁ…」
悪いことには水たまりに転んでしまった。
予備のスーツはあるので致命傷ではないが、クリーニングに出さないとこのスーツは着られない。
「おやおや、悪いことをしてしまいました」
「んあ、黒部さんだったの」
戸呂助の後ろにいたのは黒部だった。
相変わらずの喪服姿であり、ともすれば街の闇の中に溶けるような見た目をしているせいでちょっと目を凝らさざるをえない。
そこで少し目を凝らしてみればこれまた相変わらずの貼り付けたかのような笑顔が印象的で、姿勢も話し方も何一つ変わっていないように見えた。
「お久しぶりですねぇ。与井鳥さん」
「いや、こっちこそ久しぶり。相変わらずその服なんだ」
「ええ。お客様にも覚えて貰えてますよ」
それはそうだろう。喪服を着て商売をするという全くもって不届きな行為なのだから。
「それより、調子はどうです?上手く言ってますか?」
探るように。戸呂助と身長差のあまりない黒部が身をかがめ、下から覗き込むように、上目遣いで戸呂助をじっと見る。
その動作に一瞬ドキッとしてしまう戸呂助。
しかし、今の自分には軽石という女性がいるのだからこれはいかんとその気持ちを急いで振り払い。
「う、うんうん。万全だよ。寧ろ絶好調すぎて少し怖いぐらいかな」
すると妖艶と思わせる姿勢から一転、身を起こして黒部が頷く。
「そうですか。それは良かった」
「あはは…」
恩を感じているとはいえ、何を考えているのか悟らせないような黒部の仕草に、やはり少し内心焦る戸呂助。
黙っていたらそのまま訪れるであろう沈黙を予期し、それには耐えられないことも予想した戸呂助は、ふとベルトにくくりつけていたペンダントに手が触れたのでそちらに話題を移すことにした。
「やっぱり、このペンダントの効果?」
「いえいえ。そのペンダントはあくまで補助的なモノであって、上手くいったのはアナタが前向きに頑張ろうという気持ちが根っこにあるからですよ」
「ふ〜ん…」
四角いペンダントを手にとってまじまじと見る。
このペンダントの形が形なだけに酒好きか何かかとからかわれたこともあるが、これを持って行動するようになってから何をするにも抵抗がなくなったように思える。
黒部はあんなことを言ったが、やっぱりこのペンダントのおかげな部分も大きいだろうと戸呂助が考えていると。
「………」
ずいっと。突然黒部が無言で戸呂助の眼前まで近づいた。
「…!?」
そのままジーっと観察するように戸呂助の顔を見ていく黒部。
その舐め回すような視線にただならぬ雰囲気を感じ取り、今にも逃げ出したいのに何故か戸呂助は逃げ出せない。
「ま、その様子だと後は特に問題なさそうですね」
そう呟いて黒部はパッと顔を離した。
「黒部さん…?」
「いやはや、回せば口が回ると思いましたが、まさかセールスマンになるとは」
「あー、うん。自分でもなんの因果かとは思ったけどホントに合ってるんだなーって」
そのまま話を戻す黒部に、釣られて戸呂助は続けた。
「ワタシもびっくりです。まさか、ねえ」
「ええ―――あ、そうだ」
黒部は貼り付けたかのような笑顔や先ほどまでの舐め回すような視線とはまた別に、普通に楽しそうであった。
そんなコロコロと雰囲気の変わる黒部に忘れてしまっていたが、戸呂助は前々から言おうと思っていたことを思い出した。
「このペンダントのお代とか謝礼金とか払わなきゃ」
「おお、そういえばそんなこと言ってましたね」
「えっと、いくらで?」
「そうですねえ。ではこれまでの稼ぎ全てでお願いします」
ヒエッ。
「冗談ですよ。では千円程で」
「あれ、そんなものでいいの」
「もともとお客様の満足がワタシの報酬ですからね」
「はぁ…。はい、千円でいいのならこれで…」
「はい。有難うござます」
男が財布から出した紙幣を一枚。
女がそれを受け取り、袖の中の袋にしまう。
「それはそうと、そのペンダント。大層気に入っておられるようで」
「まあ、ね。最初は何だこれって思ってたけど今はもう手放せないよ。なんだか身につけていたい雰囲気が漂うんだよね」
「それは結構。ただし、今はいいですが気をつけてくださいね。そのうちアナタはペンダントを外さなければならない時が来ます。頭や体がふらっとなったりしたらそれが危険信号です。そうなったら以前のアナタに戻ろうとも一旦ペンダントを外してください」
再び一瞬だけ漂う奇妙な黒部の雰囲気。それにたじろぎながらも戸呂助は相槌を打つ。
「そ、そうなんだ…」
「忠告しましたよ」
「うん、分かった…。それじゃあもう夜も遅いし、僕はこれで」
「ええ。それではまたご縁があれば」
そう言って夜の帳に消えていく戸呂助。
「さぁて、明日からの仕事に備えて、寝よ」
そう欠伸をしながら彼は帰路についたのだった。
そんな後ろ姿を闇に紛れて黒部はしばらく見守ると、その笑顔は淫蕩か妖艶か凄惨か。
いずれにせよ獲物を着々と追い詰めている狩人のそれと確実に形容できる空気が漂い始めた。
「ホッホッホ。神も人も頼られすぎれば時には突き放したくもなりますからね…。ワタシは大丈夫ですが」
最近はどこの街も国も、お互いのスキマをお互いで埋めてしまえる者たちばかりでしてね…。
ワタシですか?ワタシは、そんな心のスキマをお埋めするサービスをしておりましたが、
魔界が広がるこの世の中では正直言って何もできたものじゃないんですよねぇ。
そんな状況に陥って初めてワタシ自身、人様の心のスキマに触れることで
ワタシ自身の心のスキマを埋めようとしていたことに気づいたんですよ。
さて、お話が過ぎましたが、今日のお客様はこの与井鳥戸呂助(よいどり へろすけ)という男性です。
この方は、この世界ではすっかり珍しくなったタイプのお方です―――。
◆ ◆ ◆
黒ィぎょうぶさんSP。
「百薬の長」
◆ ◆ ◆
とあるバー。
底なしの暗闇につづいてますと言わんばかりに地下に続く階段の奥深くにあるその店は、
物々しい雰囲気の入り口とは裏腹になかなかに繁盛している店である。
恐怖をおして中に入ればカウンターの奥には優しげな雰囲気の男と
狐の耳を隠そうともしない金髪の女が佇んでいる。
周りのテーブルでは様々なカップルがやすらぎの一時を酒とともに
過ごしているので、甘い雰囲気が常に絶えず、
もし独り身が出会いを求めるのならば別のところに行った方がいい
という特徴を持った店でもある。
カラン。
と、バーのドアのベルが鳴ればドアが開き、
微妙によれたスーツを着た妙に冴えない雰囲気の男が入ってくる。
男の名は与井鳥 戸呂助<よいどり へろすけ>。幼い頃から何かが欲しくても我慢し、
もしくは怖くて手が出せなかった事のほうが多かったという男だ。
当然、そうなってはいくら愛に生きることを至上とする魔界でも
なかなか相手を見つけるのは難しい物がある。
そんな鬱憤を少しでも晴らしに、慣れない酒場へと戸呂助はやってきたのだ。
そんな男に、優しげな雰囲気のバーテンダーが話しかけた。
「いらっしゃい。こちらの席が空いてますよ」
「…失礼します」
「何か飲みたいものは?」
「んー、分かりません。何ぶん、こんな所は初めてなもので…」
「あぁ、ではこんなのはいかがでしょう」
手慣れた様子でお手頃とされるワインがグラスに注がれる。
バーテンダーがグラスを差し出すまでのところを戸呂助は据わった目で見続ける。
据わった目つきとは言ったが、別段怒っているわけでも
酔っ払っているわけでもない。ただ気力がないだけである。
有名なバーだというからなんとなく来てみたのだが、いざ来てみれば
なんてことはないただの狐女と一人の男が仲睦まじく切り盛りしているだけの店だ。
「…では頂きます」
そう言うと、戸呂助はグラスをなんとなく手に取り、口につける。
またしても自分の見たくない類の光景を見せ付けられたので
腹いせ混じりにくいっとグラスを傾ける。
傾いたグラスから赤い綺麗な液体が流れ、口の中に入ると、
「…うっ、」
戸呂助は途端に顔をしかめた。口の中に酒のきつい味が広がる。
正しくは彼の味覚を酒の味が蹂躙するといったほうが正しいのかもしれない。
あまり会社の飲み会に出たことのない彼は、自身が酒の味が苦手であるということを今更ながらに思い出したのだった。
「…っ、んくっ」
かと言って、吐き出すのはあまりに失礼である。
口の中に流れ込んだ分は味覚が抵抗するところを我慢して
無理やり喉に通す。舌で味わった酒の味が今度は喉を蹂躙する。
酒が食道を通ったあたりで苦手な味は収まりつつあったが、
今度は喉から酒の残り香が鼻を嫌な方向で刺激する。
いかにも酒だというその味が苦手なので、
いかにも酒だというその匂いも苦手であった。
「ああ、申し訳ありません。もしかしてお客様、飲めないのでは…」
「い、いえいえ。下戸ではないんですけど、どうも味が苦手で…」
「ああ、なるほど…」
確かに酒に含まれるアルコールの味というのは慣れないと刺激が強い。
ともすれば甘いであったり酸っぱいであったりと様々な味があって、
酔いよりもそっちを楽しむ目的で飲む人もいる種類の酒も、
慣れない人からすればただの不味い飲み物でしかないことだってある。
それでも今のようにワインに拒否反応を示すような男が
ここに来たということはなにか理由があってのことであろう。
とは言え、下戸でないというのならそれこそしっかりと飲むぐらいでないと
酔っ払うには達しないものだ。特にこの男の場合、
何かを忘れて酔っ払うにはかなりの忍耐が必要となってくる。
あんまり無理をして酒を飲んでもストレス解消にはならないことを
ちょっと言っておこうとバーテンダーは思い、
ついでにサービスでソフトドリンクを別のグラスに注ぐ。
そんな時だった。
がちゃ。からんからんからん、からん。
冴えない男がそうしたのとは正反対に、手慣れた様子で
勝手知ったる自宅の玄関を通るようにドアが開かれる。
「いらっしゃい…ってアンタかい」
「ええ、また来ましたよ。おいなりさん」
「稲荷じゃない、妖狐だ。あと『お』をつけるな」
「まあ、どちらでもいいではないですか。陽子さん」
「はぁ、アンタも相変わらずだ。妹さんは元気なの?」
「刑子なら今も元気にあちこち廻ってますよ」
「ならいいけどさ。アンタなんかのためにジパング酒仕入れなきゃならない身にもなってよ」
入ってきたのは飄々とした様子の黒髪の女。
入ってきた時からどこか妖しげな笑顔で黒い着物に身を包んだその女は
黒い女が入った時からムスッとした顔の金髪の狐耳をした女と話しながら酒を注文する。
「ああいえいえ。今日はウイスキーを頼みます。ダブルでストレート」
「…アンタもよくそんなやって平気でいられるねえ」
「いえいえ。近頃はなかなかお客様が見つからないからそろそろ拠点変えようと思っているんですよね」
「へーへ。はい、ウイスキーダブル一杯お待ちどおさまっ」
「そんな風につっけんどんにするような人ばかりだからワタシも商売上がったりなんです」
察するに顔なじみなのだろう。黒髪の方は妖狐の顔なじみで結構お酒を飲むのだろうか。
着ている服は親魔物領の中でもかなり特殊な部類とされているジパングの物だ。
その帯まで黒い着物は非常に上品な雰囲気を漂わせ、かつ非常に地味なのが余計に目につく。
彼女の上品な雰囲気はウイスキーを注いだグラスをグイッと飲んでいるせいで台無しだが。
そんな風に考えながら、戸呂助が何故か黒い女から目を離せないでいると黒尽くめの女も気づいたらしい。
ちっとも顔を赤くさせず、入ってきた時の笑顔も全く崩さないまま戸呂助に絡んできた。
「そう思いませんか?」
「…あの、話が、見えない」
女性と交際するどころか仕事のこと以外で話した経験など殆ど無い戸呂助は
それだけでかなり口ごもってしまう。その様子を見て顔をしかめた妖狐と
バーテンダーの男はしかし、止めるでもなく揃ってため息をつく。
「ああ、失礼。ワタシは―――」
顔色こそ変えないが、いきなり見知らぬ冴えないこんな男に絡んでくるあたり、
ただの酒癖の悪い女なんだろうと戸呂助は考えていた。しかし、
「こういう者です」
その予想は見事に外れたのだった。
「ん…?『マ心サービス。 黒部富子』…?」
女が突然名刺を渡してきたので男もつい勢いで受け取ってしまう。
「ええ。ワタシが取り扱うのは寂しい心のスキマを埋めてくれるような、そんな商品です」
ああ。と納得した。
「セールスマン…?」
正確には女なのでセールスウーマンかセールスレディか。
「ま、そんなところですね」
「帰って」
「……」
ただの酔っ払いかと思ったらただの怪しい営業さんだった。
しかも心のスキマを埋めるとか言う怪しさ一級品のもの。
おまけに『マ心サービス。』だなんて妙ちきりんなキャッチコピーのみで
どこぞの会社であるとかそういった所属の情報など全くなし。
黒部富子という名前らしいが、一体お客様がいたとしてどこを見てもらって
そのお客様に気に入られようとしているのか全くわからない名刺だった。
「真心なんて言って、ふと魔が差して心のスキ間に付け入られてぽしゃり、なんて結構聞くお話」
「おやおや、ワタシの調べではアナタは結構臆病で口数少ないところがあるそうだと思ってましたが」
「…うるさい」
「今まで何かと欲しいと思っても怖くなって手出しできない事のほうが多かったのでしょう。アナタ。それくらい口が回るのなら少しは行動を起こしても別に何も問題なかったでしょうに」
耳に障る言葉の数々。それらにうるさいと口にする代わりに戸呂助はいつの間にか出されていた
ソフトドリンクを一気。勢いが強くて気管に入り込み、ついむせこんでしまう。
「お気に障ってしまったのならば申し訳ございません。ですが、ワタシはお客様の心のスキマを埋めることを第一としています」
「だったら何なのその心のスキマって」
「寂しい心を持った状態のことを言います」
「………」
「ですが、最近はこんな魔界でしょう。待てど暮らせど心のスキマを持った者などもう来ないと言っていい状態だったんです。そこへアナタがやってきた」
それはつまり、誰もが皆、お相手がいて心のスキマなど持とうはずもないこの魔界の中で
寂しく一人を過ごしていると面と向かってはっきり言われたことに他ならない。
少なくとも彼はそう捉えたので、更に不機嫌が増していく。
「バカにしている?」
「ああ、失礼。決して貶しているわけではございません。むしろワタシとしては喜ばしいことなのです」
「仕事ができるから?」
「ええ。それに、ワタシがいなくなったりする時になって心のスキマを持つ者が残っているというのはワタシの信条に反することですから」
暗にお前、お金がほしいんだろうと言葉に込めてみたつもりだが、
黒部という女はこれっぽっちも動じる様子はない。挑発としては安すぎたかもしくはわかりにくかったかも知れないが、
だからといってこんなに笑顔をピクリとも崩さずにいられるのは少しおかしいような気もする。
まあ、酔ったふりなんて露骨な真似して近づくんだから
多少のことでは動じるわけがないかと結論付け、戸呂助は口を開いた。
「で?僕には何をしてくれるわけ?」
「これです」
黒部が小さい謎のペンダントを渡す。四角いガラスの物体に
一つの小さい筒が飛び出したような形状が特徴的のように思えた。
「バッカスのペンダントと言います」
「バッカス…?」
心のスキマを埋めるために何かしらのサービスをするのかと思ったら
奇妙なペンダント。ばっかじゃないの?などと面と向かって言えるわけもなく、
黙って黒部の話を聞く。
「ええ。ちょっとしたお話をしますと、これは旧魔王時代に作られたいわば骨董品です。そんな血で血を洗う時代にあっても、今の魔王のように人を愛する魔物ぐらいいました」
そんなうんちくに胡散臭いものを見る目をした戸呂助の様子に構わず、彼女は話を続ける。
「ですが、そこは旧魔王時代。バケモノに人を殺す力こそあっても人とお近づきになる勇気などあるわけもない。そこで、正しいことのための勇気を出すお手伝いをし、万が一の時には己の体を鈍らせて本能を削ぐことの手伝いをして人を殺させない。そんな風に心正しき魔物が自身の望みを叶え、時に己を律するための枷としていた、今では全く無用の長物です」
「で、僕みたいな人間でもそれを持てば話しかけたりすることに躊躇しなくなる、と」
「そういうわけです」
「ふーん。で、いくらむしりとろうって?」
「お金は一銭もいただくつもりはございませんよ」
「ただより高いものもないって聞くけど」
暫く続くやりとり。戸呂助は胡散臭さを感じつつも、何故か話を続けてしまう。
自分はこんなに話ができる人間だったかなと戸呂助はふと考えたがすぐに黒部の話に耳を傾け直してしまう。
「タダで構いませんが、どうしてもお金を払いたいというのであれば後払いという形でお願いします。ワタシは先にお金だけ受け取ってドロンとかそういう風に思われることが一番キライですからね」
「後払い、ね」
「先にアナタにその商品をお使いいただき、満足して下さったのであれば、気が向いた時にお支払いになるいうので全然構いません」
「そういうことね。ところでさ、いいの?」
「何がでしょう?」
脈絡のないの言葉に、あくまで笑顔は崩さずに聞き返す黒部。
それに対し、戸呂助はいい忘れていたことを述べ始めた。
「僕はこれからユーラの国に移り住むつもりなんだけど」
「ああ、なるほど。そう考えるまでとは、余程なんでしょうねえ」
ユーラの国。一言で言えば反魔物領である。
かつ経済も軍隊の力もかなり強い方であるため、周囲の魔物はなかなかに攻めあぐねているのだとか。
なので、中では人間たちが人間たちの暮らしを謳歌しているのだろう。
戸呂助はそんな環境に少なからず憧れを抱いていた。
それに何より、こんなバカップルたちが蔓延る地域にて自分だけ独身という状況が堪えないわけがない。ならいっそ魔物などいない所にでも移り住んでしまえば少しはこんな惨めな気持ちも収まるだろうと戸呂助は考えていた。
当然、職場でこの事をアヌビスである上司に話したら全力で止められたが。
『既婚子持ちが何を言う』
辞表を叩きつけ、この言葉を最後に会社を出て行ってしまったのだ。
もう今更止めるなどできるわけがない。
こんなことをいつの間にかかいつまんで話していた。
一方、ウンウンと笑顔で頷きながらそんな話を黒部は聞いていた。
「ならば、尚更です。アナタはこれを使うべきだ。ワタシの経験則から言わせてもらえば、魔物よりも人間のほうがよっぽど辛辣なこともありますからねえ」
「…っ!?」
あくまであまり興味ない風を装いつつもその言葉にギョッとする戸呂助。
そこで安心させるように黒部は戸呂助の肩を叩く。
「なあに大丈夫ですよ。ワタシも近々そこに泊まる予定ですから、アナタが心配しているようなことにはなりませんよ。お金も貴方自身もね」
「ふぅん…って、そっちもよっぽどなんだ」
揺さぶられてしまったことを悟られまいと戸呂助は言葉を返したが、それすらもどこか見透かされていそうな気がして、ソフトドリンクをもう一杯。その一杯でとりあえず気を落ち着ける。
「ええ。人間だけのところならワタシのお客様もわんさといるでしょうから」
こんなのに後払いで売ったらお金になんてならないと思ったが、
そうでもないらしい。ならちょっとだけ試してみるのもいいのかもしれない。
「…まあ、使ってみるよ」
そう言って戸呂助はバッカスのペンダントを受け取り、
「ありがとうございます。では、ご健闘をお祈り申し上げます…」
ペンダントを手渡した女は深々とお辞儀をした。
戸呂助は立ち上がり、そのままカウンターでバーのお勘定を済ませて出ようとしたが、ふと立ち止まって最後に一つ気になったことを聞くことにした。
「…ついでに聞くけど、その服は何なの?葬式帰り?」
「ああ、これですか?なんてことはない、ただの商売服ですよ。第一印象のインパクトは大事ですからね」
一瞬。
「…?」
黒部富子の頭から黒い動物の耳のような物が覗いた気がした。
すぐに見えなくなったので、その時は気のせいだと思っていた。
男の姿が見えなくなる。そんな男の姿を見て黒部はクスリと笑っていた。
「お酒はいいですよねえ。会話が円滑に進むようになる…」
黒い女の手には先ほど渡したペンダントと同じ形をしたウイスキーボトルがあった。
「…ところで陽子さん。アナタ一瞬妨害魔法かけましたね?」
「アンタんとこの『お客様』なんて見たかないんだよ。黒部富子」
先ほどまでのムスッとした顔とは明らかに異なる剣呑な雰囲気の妖狐。
しかし、それすらも意に介さぬ様子で黒部は返す。
「ホッホッホッ。無駄ですよ。妖術はワタシの大の得意なんですから…」
「はぁ…。アンタも刑子見習いなよな…」
「まあまあ。心のスキマを埋められる幸せを運んで差し上げるのがワタクシの仕事ですから」
そう言って黒部もお勘定を済ませ、外へ出て行く。
「…その幸せが歪んでさえなきゃ言うことなしなんだけどねぇ…」
◆ ◆ ◆
「…つい、乗せられて受け取ってしまった」
戸呂助はふとネオンがけばけばしく輝く狭い路上を後にした所で歩を止めた。
やたらと印象が強く、頭にこびり付いたというのが正しいぐらいに
記憶から消えない黒部という喪服女。
歩みを止めたついでにバッカスのペンダントを取り出す。
黒部富子が言うには勇気を出す手助けをしたり、己を縛る枷になったりするらしい。
バッカスといえばロマリア地方の酒の神だったか。
だからこんな飲んだくれが持つようなウイスキーボトルみたいな形をしているのだろうか。
あれこれ考えてみるが、なんでこんなセンスかがよくわからない。
そんな効果ならもっと高尚な見た目や縁起のいい名前をしても良さそうな気もする。
そこへ。闇に紛れていたかのように。ゆらりと。
「与井鳥さん」
「ふぎゃあっ!?」
戸呂助が驚いて後ろを振り返ってみれば、暗闇に紛れすぎていたせいで服も黒髪も見えず、少し病的な白い顔と貼り付けたかのような笑顔だけが浮かんで見えた。
更に驚いた戸呂助が今度はひっくり返って尻餅をつく。
「おやおや。驚かせすぎてしまいましたか」
「な、なな、何なんだアンタ!?」
「いえいえ。一つ気になったことがありましてね」
気になったことが一体何か。泡を食った戸呂助がそれを考える間もなく黒部が更に口を開く。
「アナタ、どうやってユーラの国に渡るつもりなんです?」
「そんなの、アンタに関係―――」
「大いにありますよ。反魔物領なんですから、余所者は拒むのが当然。魔界から来たとなれば尚更です。アナタ、普通に殺されてしまいますよ」
「う…」
指摘されて口ごもる戸呂助。
こんな魔界にいたら自分は惨めな思いをするというのは本当だが、
飛び出すとのたまって会社に辞表を叩きつけたのは半分勢いだ。
黒部が言う通り、特にユーラの国に行くアテがあったわけでもない。
となれば、後は単身乗り込んで殺されるかこの魔界かその外で野垂れ死ぬかだ。
勢いで行動したのを戸呂助が本気で後悔し始めたあたりで黒部が突然手を差し出した。
「先程も言いましたが、ワタシはこれからユーラの国に行く予定です。経歴の詐称などワタシからすれば訳もありませんし、ご一緒にいかがです?」
「―――」
どうしてだろう。この女に対して面と向かって話していると、
目の前がぐるぐると、回ってもいないのに回っている感じがする。
どうしてか、従わなければならないような気がする。
戸呂助は吸い寄せられるようにその手を取り。
そして。
「どうしてこうなった…」
いつの間にか与井鳥戸呂助はゴトゴトと揺れる荷馬車の中、
黒部富子と一緒に隠れていた。
「いいですよねえ。こういうの。駆け落ちみたいじゃないですか」
「ただの同行者なのに何言ってんの…」
「まあまあ、たまにはこういう長旅もいいじゃありませんか」
「………」
長旅じゃなくて引っ越しなんだけど。
そう言いたかったがあまりに楽しそうな黒部の雰囲気に気圧されて何も言えずにいた。
「ダメですよ。しっかりとツッコミは入れなさい。気遣いもいいですけど、たまには言いたいことバシッと言ってくださいよ。アナタはむしろそういう努力が必要ですな」
「ツッコミ待ち!?」
ごとごと。ごとごと。
「ユーラの国、かあ」
「華やかな国、とは聞きますね」
「人間だけの国とも聞くなあ」
「現在急成長しているそうですから華やかなのは間違いなさそうですねえ」
「ところで、アンタは人間だけの反魔物な国に行ったりなんかして大丈夫なの?」
「おや、おかしなことを聞きますね?」
「え?」
「ワタシは。特に問題はありませんよ?」
「あ、そっか…。そういえばアンタ人間…だもん、なぁ…。なんでこんなこと聞いたんだろ」
「人間の国といいますのは、魔界ほど愛にまみれているわけではありませんから、より様々な心と心のスキマを持った人にあふれているわけです。それだけに、ワタシも仕事がやりやすくなりますからね」
「そっち…」
ごとごと。ごとごと。
「そういえばさ、心のスキマを埋める仕事って何をしてきたのさ」
「対面初日でアナタ、企業秘密に切り込みますか」
「あ、ごめん…」
「いえいえ。構いません。ワタシにとって思い出話みたいなものですから」
「…話するんだ」
「そうですねえ。例えばリャナンシーを射止めたいのにいい創作物のネタが湧かなくて困っていた男に物語を簡単に書くコツを教えたり、ユニコーンさんとその夫に、ちょっとした刺激になるものをあげたり、なかなか想いを告げられずに悶々としていた男の子の手助けをしたりしましたねえ」
「ふーん。心のスキマ、ねえ。魔界に住んでてもそういうの持つんだ」
「できにくいだけですからね。まあ、心のスキマを埋めて差し上げるワタシの仕事も、魔界じゃすっかりスキマ産業になってましたがね」
「ナーンチャッテ!!なんつってね」
「おや、セリフ持って行かれてしまいました」
ごとごと。ごとごと。
「ところで、アナタが今手にしているそのペンダントですが、実は既に効果を発揮していますよ」
「…Zzz」
「おや、眠ってしまわれていましたか。まあ、もう夜も深いですからね。それにしても、月が綺麗ですねえ。実に赤く大きくて神秘的だ」
………。
………………。
……………………………。
「…ハッ」
ふと、戸呂助の目が覚めた。
あたりを見渡してみれば、さっきまで住んでいた場所とは全く違う雰囲気の部屋だった。どうにも石造りのくせに妙に温かみのある部屋だ。
「…ここ、どこ?」
怪訝なものを見るようにあたりを見渡す戸呂助。
自分の記憶の限りでは、自分の部屋の窓枠は鉄製、寝床は床に直接敷く布団のはずだ。
なのに今自分が身を横たえているのはよく弾む暖かなベッドだし、窓枠は見たこともない木でできたものだ。
寝る前の記憶を出来るだけ探ってみる。
最後にいつの間にか寝ていたらしい。
どこで?
「…荷馬車、の中…?」
寝る前に、何をしていた?
「…お話を、していた」
誰と?
「…黒部、さん?」
黒部、富子?
「…ハッ!?」
色々と思い出していく。
半ば勢いとはいえ、ユーラの国に行こうとしていたこと。
その前に、黒部富子という喪服の女に謎のペンダントをもらったこと。
あのあたりから奇妙なまでに自分の口が回っていたこと。
「ってことは…」
もしかするとここがユーラの国なのかもしれない。
だが、外国に旅をするときは追い剥ぎに気をつけろとも聞く。
思い出したように戸呂助は身の回りのものを確認する。
周りを見渡せば壁にはいつものスーツがハンガーに掛かっており、バッグもベッドの直ぐ側に置いてあった。
最後に首を確認すると『バッカスのペンダント』がぶら下がっている。
「身の回りはとりあえず大丈夫…ん?」
バッグの中を確認すると、いつもの荷物に加えて封筒が一通入っているのが見えた。
早速中身を開けると手紙と地図などが入っていたので早速戸呂助は読み上げることにした。
『与井鳥戸呂助さんへ
ユーラの国入りおめでとうございます。
新天地ということで色々と不安なこともあるでしょう。
というわけで、アフターサービスの一環として
アドバイスをさせていただきます。
まずは同封してある地図に書いてある建物に入ってください。
そしてもう一つ。慎重になることは確かに必要でしょう。
ですが、不必要な恐れは抱かずに前に進むことも必要です。
それでは、ご縁があればまた会いましょう。
P.S.職探しですが、この国は職をもらうためのマニュアルなる
ものがあるそうですから、その本もついでに差し上げます』
「―――マ心サービス。黒部富子、かあ」
一応怪しい女であることには違いない。しかし、ここまでしてくれていることに戸呂助は少なくない恩を感じていた。
今度会ったら、ちゃんとお礼をしないといけない。
そう考え、一週間後に彼は地図に示された建物を目指すことにした。
◆ ◆ ◆
地図に示されていた建物は職業紹介所だった。
確かに人が人としての生活を営む以上、どうしてもお金が必要になる。そこは親魔物領でも変わらないし、反魔物領となれば尚更である。
そしてそのお金を得るためには働く必要がある。
ではそのためにはどうやって職業を得るか?
その手段のうちの一つがこの職業紹介所だった―――
「それでは、自己紹介をお願いします」
「はい」
―――紹介先の一つとして挙がっていた大きな会社。
大きな会社。大きいだけあって雇う予定人数もものすごい多く、
それでいて学歴問わず、アットホームな職場という触れ込みで求人広告をしていた。
その魔界では見られない広告は魔界生まれの戸呂助にはひどく新鮮に映り、彼はいつの間にか応募していた。
面接官に促され、自分のプロフィールをスラスラと答えていく。
―――与井鳥戸呂助 22歳。
性別 男。
最も有名である魔界ジパング、の隣に位置するケランの国出身。
ケランは反魔物領としては最も魔物の対策の研究が進んでいるとされている国だ。
そこで幼少期、青年期と過ごしていき、ユーラの国に移り住んだ。
「はい、はい。分かりました。それでは、これから質問をしていきますので―――」
当然、黒部が用意した嘘である。
ケランの国はあるし、魔物対策も進んではいるのも本当だ。
ただ、それはあくまで反魔物領としてであって、魔物自身がいる親魔物領ほどではない。
そして戸呂助の出身国もケランではなく、隣の魔界であるジパングだ。
言いながら、戸呂助は不思議に思う。
本来ならば人と話すこと、特に嘘をつくことを少々苦手としていた戸呂助だが、どうしてだろうか。この嘘にまみれた経歴を、あたかも自分のモノとして面接を進めることができていた。
「弊社のどういったところが気に入ったのでしょう?」
「アナタはケランの国出身だそうですが、そこで何をなされていたのですか?」
「学生時代に頑張ったことは何ですか?」
時間が過ぎていく。この企業は魔除けグッズを作っている会社だ。
魔界が時間とともに広がっていくこのご時世では魔除けの類は飛ぶように売れる。
そうなれば、ドンドンとこの企業も成長していくし、志望者数も増えるのは当たり前の話だ。
そんな志望者の山を事務的にさばくような面接官の質問の中、なんでもないかのように答える戸呂助。
「はい、分かりました。ありがとうございます。最後に弊社に関することで質問はありますか?」
「はい。御社の―――」
◆ ◆ ◆
「―――それでは、こんなものなどいかがでしょう」
内定をもらってからずいぶんと経つ。
戸呂助は初めに受けた魔除けグッズを扱う商社のセールスマンとなっていた。
魔法のたぐいはあまり得意ではなかったという理由で営業志望として応募したのがもうずいぶん前のことである。もちろん動機はでっち上げたが。
戸呂助はもっぱら新規開拓営業をやっていた。
笑顔で訪問し、あたかも自分のところの商品が一番であるかのように言い、とにかくいい印象を与える。
いい所をとにかく良く伝え、悪いところはあまり伝えないかこうすることでカバーできる
と言っておくか。いずれにしても事実を元にして言うのだから面接の時のような
真っ赤なウソを言うよりもずっと楽な仕事である。
特に戸呂助は周りよりもいい結果を出せていたので給料もすぐに上がった。
ただし、会社全体のスローガンとして、「やれるときにとことんやっておく」というモノがある。
これが一体どういうことかといえば、単純に休みが少ないのである。
土曜日に出ずっぱりは割と当たり前の話であり、戸呂助のように日曜日にゆっくり休めるというのは優遇されている方である。
魔除けグッズが売れているうちにドンドンと売り込み、できるだけ利益を稼ぐというその姿勢に、体力の限界を迎え、心か体を壊して辞めていく人も何人か出てくる頃。
戸呂助は彼女を作っていた。
「ねえねえ。今度の休みっていつ頃?」
「んー、まあいつも通りだけど、次の日曜」
街で出会った軽石 心(かるいし こころ)という女性と週に一度のデートをしていた戸呂助。
彼女とはこうして週に一度だけデートをする中でこうして今日のようにショッピングを楽しむこともあればどこかへとドライブをすることだってある。
いずれも彼女が望んだものであり、特にドライブに関しては彼女は家に車が無いそうなのでなかなか車にのる機会が無いからか、楽しそうであった。
デート中のちょっと高いお店やお買い物も、ちょっと距離のあるドライビングやそのためのガソリン代もこの大企業の稼ぎから出るお給料の前では苦ではない。
寧ろそれぐらいの出費で彼女と共に居られるというのなら安いものであるとさえ捉えていた。
「分かった!それじゃあまたね!バイバイ!」
「うん。じゃあね」
軽石の姿が見えなくなってくる。と、同時に夢みたいな華の日曜が終わる。
そう一人思いながら日が落ちかけている街を戸呂助はふらっとよろめきながら歩いて行く。
ここに来てからの生活は概ね上手くいっている。
自分の時間というもの自体は少ないと自覚するところであるが、
その少ない自分の時間で最大限楽しく過ごせているのだから問題はない。
おそらく黒部富子が渡したこのペンダントのおかげなのだろうか。
自分に何かをするための勇気を与えるためのアイテム。
それは確かに効果があったのだろう。黒部には感謝しなければならない。
「…ととっ」
そう考えつつ戸呂助は帰路につくが、ついうっかり足がもつれてしまった。
最近こういうことが増えたような気がする。
やはり月〜土と様々なところを駆けずり回り、日曜に軽石の相手をするとなると
溜まる疲労も相当なものなのだろう。
「バァ」
「おわっ!!とっとっとわあっ!!!」
そこへ、一人の女の声が大きな声で話しかけてきた。
やはり驚き、後ろを振り返ろうとするが足がもつれた。
当然、バランスを崩し、戸呂助は転んで盛大に尻餅をつく。
「ッタぁ…」
悪いことには水たまりに転んでしまった。
予備のスーツはあるので致命傷ではないが、クリーニングに出さないとこのスーツは着られない。
「おやおや、悪いことをしてしまいました」
「んあ、黒部さんだったの」
戸呂助の後ろにいたのは黒部だった。
相変わらずの喪服姿であり、ともすれば街の闇の中に溶けるような見た目をしているせいでちょっと目を凝らさざるをえない。
そこで少し目を凝らしてみればこれまた相変わらずの貼り付けたかのような笑顔が印象的で、姿勢も話し方も何一つ変わっていないように見えた。
「お久しぶりですねぇ。与井鳥さん」
「いや、こっちこそ久しぶり。相変わらずその服なんだ」
「ええ。お客様にも覚えて貰えてますよ」
それはそうだろう。喪服を着て商売をするという全くもって不届きな行為なのだから。
「それより、調子はどうです?上手く言ってますか?」
探るように。戸呂助と身長差のあまりない黒部が身をかがめ、下から覗き込むように、上目遣いで戸呂助をじっと見る。
その動作に一瞬ドキッとしてしまう戸呂助。
しかし、今の自分には軽石という女性がいるのだからこれはいかんとその気持ちを急いで振り払い。
「う、うんうん。万全だよ。寧ろ絶好調すぎて少し怖いぐらいかな」
すると妖艶と思わせる姿勢から一転、身を起こして黒部が頷く。
「そうですか。それは良かった」
「あはは…」
恩を感じているとはいえ、何を考えているのか悟らせないような黒部の仕草に、やはり少し内心焦る戸呂助。
黙っていたらそのまま訪れるであろう沈黙を予期し、それには耐えられないことも予想した戸呂助は、ふとベルトにくくりつけていたペンダントに手が触れたのでそちらに話題を移すことにした。
「やっぱり、このペンダントの効果?」
「いえいえ。そのペンダントはあくまで補助的なモノであって、上手くいったのはアナタが前向きに頑張ろうという気持ちが根っこにあるからですよ」
「ふ〜ん…」
四角いペンダントを手にとってまじまじと見る。
このペンダントの形が形なだけに酒好きか何かかとからかわれたこともあるが、これを持って行動するようになってから何をするにも抵抗がなくなったように思える。
黒部はあんなことを言ったが、やっぱりこのペンダントのおかげな部分も大きいだろうと戸呂助が考えていると。
「………」
ずいっと。突然黒部が無言で戸呂助の眼前まで近づいた。
「…!?」
そのままジーっと観察するように戸呂助の顔を見ていく黒部。
その舐め回すような視線にただならぬ雰囲気を感じ取り、今にも逃げ出したいのに何故か戸呂助は逃げ出せない。
「ま、その様子だと後は特に問題なさそうですね」
そう呟いて黒部はパッと顔を離した。
「黒部さん…?」
「いやはや、回せば口が回ると思いましたが、まさかセールスマンになるとは」
「あー、うん。自分でもなんの因果かとは思ったけどホントに合ってるんだなーって」
そのまま話を戻す黒部に、釣られて戸呂助は続けた。
「ワタシもびっくりです。まさか、ねえ」
「ええ―――あ、そうだ」
黒部は貼り付けたかのような笑顔や先ほどまでの舐め回すような視線とはまた別に、普通に楽しそうであった。
そんなコロコロと雰囲気の変わる黒部に忘れてしまっていたが、戸呂助は前々から言おうと思っていたことを思い出した。
「このペンダントのお代とか謝礼金とか払わなきゃ」
「おお、そういえばそんなこと言ってましたね」
「えっと、いくらで?」
「そうですねえ。ではこれまでの稼ぎ全てでお願いします」
ヒエッ。
「冗談ですよ。では千円程で」
「あれ、そんなものでいいの」
「もともとお客様の満足がワタシの報酬ですからね」
「はぁ…。はい、千円でいいのならこれで…」
「はい。有難うござます」
男が財布から出した紙幣を一枚。
女がそれを受け取り、袖の中の袋にしまう。
「それはそうと、そのペンダント。大層気に入っておられるようで」
「まあ、ね。最初は何だこれって思ってたけど今はもう手放せないよ。なんだか身につけていたい雰囲気が漂うんだよね」
「それは結構。ただし、今はいいですが気をつけてくださいね。そのうちアナタはペンダントを外さなければならない時が来ます。頭や体がふらっとなったりしたらそれが危険信号です。そうなったら以前のアナタに戻ろうとも一旦ペンダントを外してください」
再び一瞬だけ漂う奇妙な黒部の雰囲気。それにたじろぎながらも戸呂助は相槌を打つ。
「そ、そうなんだ…」
「忠告しましたよ」
「うん、分かった…。それじゃあもう夜も遅いし、僕はこれで」
「ええ。それではまたご縁があれば」
そう言って夜の帳に消えていく戸呂助。
「さぁて、明日からの仕事に備えて、寝よ」
そう欠伸をしながら彼は帰路についたのだった。
そんな後ろ姿を闇に紛れて黒部はしばらく見守ると、その笑顔は淫蕩か妖艶か凄惨か。
いずれにせよ獲物を着々と追い詰めている狩人のそれと確実に形容できる空気が漂い始めた。
「ホッホッホ。神も人も頼られすぎれば時には突き放したくもなりますからね…。ワタシは大丈夫ですが」
14/05/04 23:50更新 / 一波栄
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