連載小説
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見つめる者《前編》
 鍵を閉めたまま、理科室の中で息を潜める。
 廊下の前をドタバタと走る音が過ぎ、隣の準備室からはドアの開く音と先生の叱りつける声が飛ぶ。しかし足音の主たちは全く気にした気配も見せずにそのまま遠ざかっていった。
 準備室へ注意を向けると、静かにドアが閉められる音がした。
 コツコツと落ち着いた足音を立てて、先生はそのまま席に戻ったようだ。
 抜き足で準備室へと繋がる扉へと向かう。
 幸い二つの部屋を隔てる扉は開け放たれていて、先生が机で作業をこなす音が聞こえてくる。逆に言えば、こちらが僅かでも足音を立てれば、あちらにも響いてしまうだろう。紙にペンが走る小さな音を聞きながら、細心の注意を払って扉まで辿り着いた。
 スカートの中から触手を伸ばし、その先端についた瞳で準備室の様子を確認する。
 先生は長身を清潔な白衣に包み、机に向かったまま書き物をしていた。精悍でありながらも整った顔立ち。鼻先に乗ったあの忌々しい眼鏡が、先生の黒い瞳との間に立ちふさがっていた。
 触手の瞳から邪視を送ってみるものの、全く気にする様子もない。
「ベルさん」
 不意に名前を呼ばれて慌てて触手を引っ込める。
 先生は妙に気配に聡いというか、邪視は効かないのに視線にだけは気づいている節があるので侮れない。
「用があるのだったらちゃんと顔を出しなさい」
 顔を合わせる前から好感度が下がってしまったが、人間で例えれば角の向こうを鏡で確認するくらい失礼な行為なのだからこちらが悪い。
 スカートの中に触手を引っ込めて、大急ぎで身だしなみチェック。
 ――よし、女の子完了!
 扉をくぐって準備室へと足を踏み入れる。
 先生の匂いのする空気をひそかに肺の中へと送り込みながら、一歩進んで居住まいを正した。視線を向けると先生は既に書き物を止めていて、五脚の事務椅子を回転させてこちらに向き直っていた。
 単眼に邪視の力を込めて視線を絡めるも、やはり魅了の魔力は全く効いている気配がない。
「こ、こんにちはです、先生。暇つぶしに来ました」
 後ろめたさから、先生の咎めるような視線が痛い。
 逆にこっちが眼力にやられているようで、目を力の象徴とする魔物としては非常に肩身が狭かった。
「ええ、こんにちは、ベルさん。先ほど目の色を変えた男子生徒たちが十人ほど走って行きましたが、心当たりはありますか?」
 落ち着いているが良く通る声。嫌味たらしくないが、正気を失っている男子生徒たちを慮っていて語気は強かった。
 「すみません、わ、私がやりました!」
 これ以上好感度を下げないためにも、あっさりと白状して頭を下げる。
 先生は背もたれに体重を預け、軽くため息をついた。
 呆れられたのがわかって、自分でも信じられないほど胸が痛む。
 気付けば先生の目の前まで駆け寄って、語気を荒げていた。
「だ、だって、あいつら、私と目があうと視線を逸らすんですよ!? こっちは四六時中視線に魔力を込めてるわけじゃないのに……!」
 邪視は女の子の熱い視線と一緒で、誰彼かまわず向けるものではないのだ。
「では、何で彼らは魅了にかかっていたんです?」
「う……、あまりにも顔を逸らしたままだから、思わずこっち見ろって怒鳴っちゃって、その拍子に……」
 今度は先生はため息をつかなかった。
 かわりに向けられてくる、反省を促す視線。
 呆れるという行為が、実はそれ単体では相手を責めているだけで建設的でないのを先生は理解しているのだ。
「ごめんなさい。以後、十分に気をつけます」
 悄然として肩を落とすと先生は表情を崩して、よろしい、と微笑んだ。

 ゲイザーの種族は単眼が魔力的に完成されすぎていて、大昔の魔力本質の改変の時ですら、人間と同じ顔を手に入れることはできなかった。人は顔が九割と言われるとおり、体の異形は許容される社会になっても、顔の異形にはやはり抵抗のある人が未だにいる。
 しかし、先生はそんな自分とも、他の生徒と分け隔てなく接してくれる。ちゃんとこちらの為になるよう自分の行為が相手にどういう影響を及ぼすかを考えて行動してくれるのだ。
 しかも激レアの邪眼殺しの眼鏡によって邪視が効かないせいで、その行為がこちらから与えた願望ではなく、本心から来るものなのだと理解できる。
 問題といえば、魔物としての唯一のアドバンテージが無力化されているせいで、全く取っ掛かりがつかめないことなのだが……。

 先生のお許しが出たところで準備室の椅子に座り物思いに耽っていると、目の前の机にコトリとお茶が置かれた。但し、200mlビーカーに入れられているが。
 ……ちょとこれはどうかと思う。
 先生に気に入られるために理科は得意科目にしたけれど、その知識によればビーカーは内容物を加熱しやすくするために熱をよく通すはずだ。つまり冷めきるまで手では持てない熱さのままというわけで、少なくとも熱い飲み物のコップとしては不都合極まりない。
「いや、でもコロナさんは気にしていませんでしたよ?」
 ポイントを稼ごうと理系女子を気取ってみせたらそんな返答が帰ってきた。
「いや、だって会長はフレアドラゴンじゃないですか。粘土感覚でガラス細工作れる人が猫舌だったら逆に笑えませんよ。……っていうか、入れたんですか!? ここに!? 会長を!? 二人きり!?」
「ええ、相談を受けたんですよ。自分の男に魅了をかけた目玉女がいるとね。イクラみたいに潰していいかと涼しい笑顔で聞かれました。室温はガンガン上がりましたけど」
 何故か部屋の隅に向けられた先生の視線を追い、ガラス細工のように手のひらの形に歪められたビーカーを発見して思わず背筋が凍った。
「で、でも会長、今日会った時はすごいにこやかに話しかけてくれましたよ!? 会長に限ってまさか騙し討ちなんてするわけないし……」
 不可抗力とはいえ、まさか《機動戦艦》の異名を持つ生徒会長の彼氏に邪視を通していたとは夢にも思わなかった。先ほど自分で誓いを立てた「十分に気をつける」の言葉がとたんに重みを増してくる。
 なにせこのままではいずれ他の学園《十勇傑》の彼氏に知らず手を出さないとも限らない。
「大丈夫ですよ。コロナさんにはちゃんと条件付で説得しましたから。あちらも笑顔で納得してくれましたし、ベルさんも機嫌が良い姿を見ているのでしょう?」
「げぇ……、条件? まさか、決闘という名の合法的な、こ、公開処刑とかじゃないですよね?」
 如何せん《機動戦艦》相手だ。こちらが相手の精神を掌握する前にステージごと蒸発して決着である。
「ベルさんがコロナさんに何かする必要はありませんよ。逆も然りです。コロナさんへの説得の条件は私が請け負った責務ですので、ベルさんがコロナさんに負い目を感じる必要はありません」
「……そうですか。なんか私の失敗のフォローをさせてしまってすみません。この埋め合わせは何かの形でしますので……」
 自分の預かり知らぬところで重大な案件が処理されていたことを知り、無力感に苛まれた。
 机に突っ伏して唸り声を上げた後、既にかなり冷めていたお茶をすする。横目で盗み見ると、なぜか先生は苦笑いを浮かべて考えこんでいる。
「どうしたんです、そんなに渋い顔をして? 会長に取り付けた条件が思いのほか難しかったりとか……?」
 普段、全くと言っていいほど苦労を顔に出さない先生が眉間にしわを寄せて考え込んでいる姿はとても斬新だったけれど、やはり多く恩を受けている相手である以上、珍しげに見眺め続けることはできなかった。
 心配になって問いただすと、先生は手のひらを振って苦笑した。
「いえ……、本当なら生徒が教師に埋め合わせなんて考えるものではない、と叱るところなのですが、どう言っていいものかと」
「え、それってもしかして、私が協力したほうが条件のクリアがし易いってことですか?」
 僅かな期待感に胸が躍る。
 先生の負った責務は自分が課してしまったものだが、それを協力して解決できれば少し位は心の距離が縮まりそうなものである。
 色よい返事を期待して先生の顔を覗き込む。
 だが、単眼の視線を臆さず見返してきた眼鏡越しの瞳は直ぐに伏せられ、その首は横に振られてしまった。
「申し訳ありませんが、決心がつきません。見合わせてもらってもいいですか?」
「そ、そうですか……。残念です……」
 期待が膨らんでいただけに、落胆も大きかった。
 別に嫌われたわけではないのだが、これ以上の脈はないと言われてしまったようにも聞こえる。
 そう思ってしまうと下手なアプローチは逆に先生に嫌われる結果になってしまうような気がして、これからどう向き合っていいのか考えが全くまとまらない。
 それなのに好きになって欲しい、終わりになって欲しくなどない、こちらを向いてもらいたいという気持ちだけは大きくなって、気付けば悪態の言葉しか出てこなかった。
「先生は……、会長のような女の人が好きなの……?」
 自分でも下から数えたほうが早いくらい悪い質問だなどということはわかっていた。
 机に突っ伏したまま視線を合わせずに答えを待つ。
 先生がこちらを見ていることは僅かな視線の気配でなんとなくわかったけれど、顔を合わせる勇気はなかった。
 『凝視する者』なんて名前の魔物の癖に、凝視されて視線を返せない。まるで自己否定ではないかと思いつめて、あながち間違ってないと自分をせせら笑う。なにせ好きになった相手との仲を悪くする質問を投げかけるなどと、それが魔物にとって自己否定でなくてなんであろう。
「コロナさんにはもう恋人がいますが?」
 先生にしては苦しい答え。
 というか質問に対する答えにすらなっていない。
 質問の「単眼娘は嫌いか」という本音はさておき、「会長のようなハイスペックな女性じゃないとだめなのか」と言う建前すら答えていないのだから、これははぐらかされたということだ。
 つまり脈なし。
「うぅ……、ぐすっ……」
 ゲイザーは眼球が大きいぶん涙も多い。
 滝のような涙は、床に滴り落ちるほどの水溜りを机の上に作り上げた。
「ちくしょー。一つ目がそんなにキモいかよー……。そりゃ会長みたいにおっぱいもないし腕力もないし魔力も上の中だしお金持ちでもないし家柄もよくないし目玉だって少ないし……。あれ、私、意外と終わってね……?」
 自棄になって「でもこれが勝っている」とひがむつもりが、全てにおいて会長のほうがスペックが高い事に気付き、乾いた笑いが口から漏れる。
「ハハハ……。ゲイザーが人好きになっちゃだめだっつーのか……。一つ目には人け……、魔物権はねーのかよー……」
 恋敗れた乙女はかくも醜いものなのかと自覚しつつ、先生のほうを向く。効かないのを承知で邪視を送ろうとするが、涙で歪んだ視界では先生の姿を像として結ぶことすらできなかった。
「ちくしょう、何でゲイザーの邪眼を遮断するかな、このクソメガネは。私は先生にさえ通れば世界中の誰にも邪眼が効かなくてもかまわないのに……!」
「ベルさん、それゲイザー流のプロポーズですよね?」
 先生の指摘に、思わずビクリと反応する。
 心持ち、海岸で寝そべるトドのように。または、鉄板のうえで跳ね回るエビのように。自暴自棄で駄々を捏ねるように文句を垂れていて、想い人に告白していたことに気付かなかった。
 そろり、と先生のほうへ視線を送ると、笑顔も何もない、恐ろしく真顔の視線とぶつかった。
「あぁ、はいはい。期待してませんでしたよー! 法的にハーレムオッケーなのに、どうしてかこってやるぜとか、二号さんでキープしようとか思わないかね、この甲斐性なし!」
 脈がないことなどさきほど既に痛感したばかりだ。
 これ以上先生への好意を振りかざしても、逆に自分が惨めになるだけだと理解して席を立つ。
 教室へ帰ろうと廊下へのドアへ向かってツカツカと歩み寄り、取っ手に指をかけて思い切り力を込めた。
「……あれ? 開かない」
 鍵を確認しても、ちゃんと「開」になっている。
 立て付けが悪くてどこかに引っかかっているのかと力をかける方向を変えてみても、ビクともしなかった。
「先生、このドア壊れてないですか? 開かないんですけど」
 醜態を晒したばかりで気まずくはあったけれど、一生徒として学校の備品の調子が悪いのであれば目上の先生に報告することに抵抗はなかった。
 報告してしまえば後は学校の問題であると、理科室側から出るために、先ほど入ってきた準備室と通じる扉へ向き直る。
 キィ……、バタン。
 それと、いつの間にか理科室へ続く戸口へと移動していた先生が扉を閉めるのは、全くの同時だった。
「……先生?」
 こちらへと向き直った先生は全くの無言で、先ほどと同じように至極真面目な顔をしていた。
 感情を読めないまま視線を合わせておよそふた呼吸ほど。そろそろ何か言わなくてはならないと、口を開きかけたが先に言葉を発したのは先生のほうだった。
「……ベルさんの言葉で決心がつきました。ですからコロナさんに取り付けた条件を今ここで履行します」
 普段どおりの先生の事務的な声。それが密室となった準備室にこだました瞬間、先生の足元から魔力のラインがほとばしるのが見えた。
「ひゃっ!?」
 何事かと身構えるが、魔力のラインは足元を完全に素通りして背後へと抜けていった。
 とりあえず人体への影響はないらしい。
 そう分かって辺りを見回すと、先生から放射状に伸びた魔力のラインは床一面を這い、壁を駆け上がり、天井を一部の隙もなく覆い尽くしていた。交差したラインはお互いに絡み合い、合流、分岐を繰り返し、そこに魔術的な意味を作り出していく。
「……これは、閉鎖結界!?」
 ゲイザーとは『見つめる者』。それは視線に魔力を乗せるだけでなく、対象の魔力の性質や魔術の役割などを視認することに長ける者。
 それ故に、先生の眼鏡に宿る邪眼殺しの魔術を視認できたのと同様に、今先生が張った結界の芸術的なまでの術式を見ることができた。
「……平面増幅環を多重に組み込んで強度を上げている……。それにこれは破綻情報を分散させて細分処理させるためのパス……、なんて緻密な……。これ、国定第一級指定の魔物も閉じ込められる代物ですよ!」
 魔力を視認できる身として、魔術の機能美をそのまま様式美として観覧することができる。それが一つ目という異形に生まれて唯一得をしたと思ったことであった。
 有名な画家が一室全てに描いた名画を見るように、先生の張った結界のあまりの美しさに見ほれていたが、コツリ、と先生の踏み出した一歩によって、その魔術のもつ本来の役割とその対象が自分であることを思い出した。
「せ、先生? 私が襲い掛かったわけじゃないのに、魔物を結界に閉じ込めるのは、犯罪ですよ!?」
 その言葉は、先生を注意しているというより、自分を落ち着けているように思えた。事実、伺いを立てるようように震えた声色は、語尾が引き攣れて上ずっている。
 意中のと接頭語が付くとはいえ、男性の手によって結界の密室の中に二人きりにされては、魔物以前に女の子として身構えるなと言うほうに無理があるだろう。会長ほどではないにしろ、魔物の端くれとして人間の男性に腕力では負けまいと身構える。
 そんな相手の様子を見て、先生は申し訳なさそうに頭を振った。
「ベルさん、実は貴女に二つほど秘密にしていたことがあるんです」
 そう言った先生は歩み寄るのを止めて、眼鏡をはずして机に置く。
 先生が今ここで眼鏡をはずす理由が分からなかった。いまここで眼鏡の加護を失ったら、邪眼の無効果というゲイザーに対する最大の優位を捨てることになるのだから。
 しかし信じられないことに、机に置かれた眼鏡を凝視しても、そのフレームやレンズに邪眼殺しの魔術はおろか、いかなる魔力の痕跡も認められなかった。
「え……? そんな」
 どういうことなのかと、視線を先生の裸眼と眼鏡の間を往復させる。だが、学園随一の邪眼はこれまでと同様、先生に対してなんら強制力を持たせることはできなかった。
「まず一つ目なんですが……。実は僕、《勇者検定第一級》を持ってるんですよ」
「ぶっ!」
 あり得ざる予想外の告白にはしたなくも噴き出してしまった。
 どのくらいありえないかといえば、実はどこどこの国の王子でしたとか、実はあの人気映画俳優でしたとか、《勇者検定第一級》とはそのレベルでありえない肩書きなのだ。
 だが、この緻密な閉鎖結界の魔術様式を見せられては一笑に付して済ませるわけには行かなかった。
 なぜならば、今、先生は裸眼で邪視を受けても全く術にかかる気配がない。よくよく見れば先生の黒い瞳にはこれまで眼鏡にかかっていたものと同様の魔術が視認できたのだ。
「つまり、眼鏡は邪眼殺しじゃあなかったんですか……?」
「はい、ただの伊達眼鏡です」
 そこまで聞いて、震えが爪先から昇ってくる。
 何せ《勇者検定第一級》を先生が持っていることの信憑性がにわかに上がってきたのだ。
 問題はその取得条件。
 それは『国定第一級指定の魔物を一騎打ちで十人勝ち抜くこと』である。つまりは国定第二級指定の若輩ゲイザーなど一蹴に伏すことができるわけで。
「先生、もしかして、会長よりも……」
「ええ……、強いですよ」
 返答の後半は耳元から聞こえてきた。
 頷く時には七歩も離れていた先生は、こちらが縮み上がっている隙に、瞬時に目の前まで距離をつめたのだ。抵抗する間もなく肩を抱いていた両腕を掴まれて広げられ、胸を密着させたまま壁に押し付けられた。
「ひ、ひぅ……」
 耳元を吐息でくすぐられて、小さく悲鳴を上げる。
 それが抗議のものとしてよりも、むしろ好きな相手に媚びるためのものであることを自覚した。形ばかりの抵抗を試みるも、両腕を封じられ、胸板と肩で首元を押さえつけられては僅かに身じろぐことしかできなかった。
「あ、は、ぁ……」
 ずっと想い続けていた相手に拘束される倒錯感が呼吸を早くする。
 鼻先で揺れる短く切りそろえられた髪からは、魔物の嗅覚が意中の男性の香りを嗅ぎ取った。
 ゾワリ、と全身の産毛が総毛立つ。
 相手は国内で二十人もいない第一級指定の勇者である。
 魔物としての優位性は全て覆され、誰にも見咎められない籠の中で組み伏せられている。この身はまな板の上の鯉。相手が何を望もうと、抵抗も許されず、意のままにされるだろう。
 それでも良い。この身が満たされないよりは良い。と、魔物の本能は囁きかけるが、それでもなお、勇者でも教師でもなく、異形の顔を持つ自分を認めてくれた唯一の男性を慕う女子として、されるがままではいられなかった。
「せん、せ……。おねがい、です。私、せんせいを、好きでいたい、です……。だか、ら、せめて、本心を、おしえて、ください」
 これまでのアプローチを先生は全て受け流してきた。
 それが一転、力ずくで事に及ぼうとするのは、きっとこれが会長に取り付けた条件なのだろう。
 他人の恋人に色目を使ってはいけないというのは魔物同士の暗黙のルールだ。それを犯した以上、好きな相手に抱かれる程度の罰は行き過ぎた行為ではない。
 けれど、それとお互いの意思は別である。
 好かれて抱かれるならこれ以上はない。
 欲望のはけ口として犯されるのも我慢できる。
 しかし路端の石を拾うように、ただ条件を履行する手段として、義務感で抱かれるのだけは嫌だった。
「せんせ、い……。わたし、せんせいのこと、好きです。せんせいに、いわれたら、なんでもします。だから、せめて、かいちょうに言われたから、するのだけは、やめてください。せんせいが、したいから、めちゃくちゃにして、ください。それなら、どんなにひどくても、わたし、たえられますから」
 大好きな先生の香りに包まれて、どんどん体が熱くなる。
 それと同時に思考には霞がかかって、普段は恥ずかしくて言えないような欲求がするりと口からこぼれ出ていった。
 女の子の言葉は魔物たちがもつ数少ないわがままだ。
 よってそれでは数多くを語れない。
 すぐに全てを語りつくして後は相手のいらえを待つばかりだった。
「ふぁ、あ、あぁっ、はぁあ」
 先生に密着され、興奮してふきでた汗が女の匂いを撒き散らす。
 先生は少し癖のある長い髪の中へ顔を突っ込み仕切りに匂いをかいでいた。
「ベルさんはいい匂いがしますね」
 耳を弄ぶ優しい声。
 それは少なくとも、先生にとってこの体が魅力的であるという告白に他ならなかった。義務で嫌々抱くのではなく、抱きたいから抱いて貰える。そこに相手に対する慈しみがなかったとしても、先生の慰み者になれるならそれ以上は望むべくもないことだった。
「ありがとう、ございます。せんせい、わたしで、いっぱいきもちよく、なって、なってください」
 身体を離した先生に視線を絡めて微笑みかける。
 開放された両腕をお尻の後ろで組んで胸を突き出した。
 先生の腕が再び身体に伸びる。
 覚悟して目をつぶるも、両手はブラウスやスカートへ伸ばされることなく、腰と頬にあてがわれた。
「せん、せい……?」
 ついに行為が始まると思っていたのに、拍子抜けしてしまった。
 どういうことなのだろうと先生の顔を見ると、その表情はいつもの真面目で事務的なそれではなく、見るものを安心させる慈しみと優しさに満ちたものだった。
「ベルさんが魅力的だったので、肝心のもうひとつの秘密を明かすのを忘れていました」
 先生は少し茶目っ気名表情を浮かべて、ぽかんと呆けたこちらの頬を柔らかく揉みながら、腰ともう片方の手でこちらの腰を固定してゆらゆらと揺らした。
 まるで社交ダンスみたいな、はたまた赤子をあやすようなその仕草は身をゆだねてもいいと思わせる安心感を呼び起こす。
「実はね」
 一緒に身体をゆすりながら、先生はもったいつけながら濃密に視線を絡めてくる。
「僕は単眼フェチなんです!」
「……はぁい?」
 千年の恋も醒めるとはこういうことをいうのかと実感した。
 全身の熱が一気にクールダウンして、下着やブラウスをぬらしていた汗や体液が急に煩わしくなってくる。
「えぇ……、だって、ねぇ? 単眼が好きとか、先生頭おかしいでしょう」
「何を言うんです! ベルさんは美しい! 目は口ほどに物を云々とは真実なんです! ベルさんの大きな瞳は、他の魔物や人間以上に分かりやすく感情を表現するんです! 嬉しい時の細めたまぶたも、憂えた時の伏して艶やかな睫毛も、悪戯心に満ちた流し目も、全部、全部、全部っ、ベルさんだけの魅力なんですよ!」
 両肩を掴まれてがくがくと揺さぶられる。
 先生はものすごく熱く語っているけれど、今までずっと自分で気持ち悪いと思っていた仕草が魅力的だなどといわれてもとても信じられなかった。
「はぁ、とりあえず汗かいちゃったんで、部室棟のシャワー浴びてきてもいいですか? お返事は後日しますので。結界、開けてもらってもいいです?」
 気持ちを切り替えて冷静に考えてみようと、仕切りなおしを提案してみる。
「仕方ありませんねぇ……」
 もっと食い下がってくるかと思いきや、先生はあっさりと引き下がった。しかしすぐさま結界を解くことはせず、机の書類の中からスマホを発掘してくると、そのディスプレイを見せてくる。
 先生のスマホを受け取ると同時にバイブレーションがメールの着信を告げた。
「先生、メールが、……え、見てもいいんですか? えっと、会長から? 返信……、内容は……、……ヒィ!」
 決して長くないその内容を黙読して怖気が走る。
 リアルで10cmも飛び上がってしまった。

『 Frm : コロナさん
  Sub : Re : もしベルさんが逃げたらどうします?
 ―――――――――――――――――――――――――――――
 人様の旦那で男遊びをしておきながら先生のお慈悲からも逃げるなんて、救いようのない売女ですね。
 そんな女がもし先生のようなすばらしい殿方の恋人でなかったとしたら、きっと捻り殺しても誰も文句を言わないでしょう。 』

 スマホを先生に手渡しするだけで何度も落としそうになる。
 会長の彼氏への愛は本物だ。
 最強の座を巡って、会長の彼氏を人質に取った《十勇傑》が八人、三ヶ月ほど病院送りにされている。
「せ、先生? ここは教師として会長から私を守ってくれるところじゃないですか?」
 虫の良い話だと思いながらもあえて先生の職業倫理をつついてみる。
「そうしたいのはやまやまなんですが、コロナさんのご実家は学園へ多額の寄付をしていますからね。もし逆らったら、しがない一般教員の首なんて軽く飛んでしまうでしょう……。だから! ベルさんは僕のお嫁さんになるしかないんです! さぁ、覚悟を決めてください!」
 ワキワキと両手を動かしながら近寄ってくる先生から逃れるべく廊下への引き戸を動かそうとするも当然動かない。そう広くはない準備室に逃げ場などあるはずもなく、すぐさま壁際に追い詰められてしまった。
「せ、先生、先生のことは大好きですけど、これではいかんせんムードがないというか。先生もここで私としちゃったら、教師生命があやうくないですかー!?」
「ふっふっふ、分かってませんねぇ、ベルさん。教師と生徒、禁断の愛は学校の密室だからこそ燃え上がるんじゃないですか! これ以上にムーディーな場所もシチュもあり得ません! 教師生命? そんなものよりベルさんのほうが大事に決まってるじゃないですか! 一級勇者がどれだけ潰しが効くと思ってるんです? ベルさん一人くらい養って見せますよ!」
「や、やしなあぁ!?」
 全てを捨てても自分が欲しいと言われて冷めた熱が再燃する。
 単眼フェチの告白直前の水準まで一気に熱がぶり返してきた。
 それでもなお、嬉しいと思う半面、どうしても信じられないという気持ちが心の奥でくすぶっている。自分のような異形の顔が気にならないだけでなく、むしろ好ましいと思ってくれるなど、邪眼を使う以外ありえないのだと思って生きてきた。
 先生が嘘をつくような人でないことはわかっている。
 だがそれとは関係なく、自分が美しいなどとはどうしても思えないのだった。
「やっぱり、信じられません。先生が私を99%好きだと信じられても、100%好きだなどとは到底思えません……」
 体は熱を持ったまま、しかし力が抜けてヘナヘナとその場に崩れ落ちる。浅く湿った呼吸を繰り返しながら、伏しがちの単眼からは涙がこぼれた。
 魔物の本能はこんなにも先生を求めているというのに、いや魔物の本能がそれを正しいと判断しているからこそ、逆にそれが本当に正しいのかが分からないのだ。
「先生、私、どうしたらいいんでしょう? 先生のことは大好きです。でも、私は先生が私のことを好きだということが信じられない。それって、私が先生を好きだってことを、先生に信じてもらえないってことですよね? だったら私が先生を好きだってことは先生にとって意味の無いことで、じゃあ私が先生を好きでいることも意味がないんじゃないかって思えてしまうんです」
 身体を縮こまらせたまま、先生を見上げる。
 先生はさっきまでのふざけた態度を一変させ、昨日までそうだったように、不安の吐露を黙って聞いていてくれた。ただ、今までとひとつ違うのは、それまでの事務的な無表情ではなく、迷いを持ってしまったことに対する悼みや慈しみの表情を浮かべていたことだった。
「ベルさんはよい子です。相手のことをちゃんと考えている。だからこそ、僕がベルさんを好きだということを、信じられないことに負い目を感じているのですね」
 言葉を選ぶように語りだした先生はしゃがんで目線の高さを合わせてくれた。まるで小学生か幼稚園児をなだめるように語りかけて来る先生に対し、ただ頷くことしかできなかった。
「ベルさん、難しく考えすぎですよ。愛するというのは、愛されることじゃない。愛し合うということは、愛され合うことではないんです。それが証拠に、ひとつたとえ話をしましょう。たとえば、僕がベルさんのことを好きでも何でもなかった場合。その時、ベルさんは、ベルさんが僕を好きだという心に意味がないと思いますか? 僕を好きだということを止める理由になりますか?」
「……あ」
 ふと、光明が射した気がした。
 たしかに愛した以上は愛されたい。けれど、愛されなかったからといって、相手を愛する心がなくなるだろうか? 相手がこちらをどの程度好きかによって、相手を愛する心の価値が変わるだろうか。
 そんなことはない、と自分の中で「女の子」と「魔物」が同時に声を上げた。そう、自分は、先生や周りの誰にどう思われようと、先生がたまらなく好きなのだ。
「……好き。好きです。愛しています。先生が大好きです。……先生が私を嫌いでも、もしかしたら好きでいてくれたとしても、同じくらい先生が大好きです!」
「ええ、僕もベルさんが大好きです。身勝手を言えば、ベルさんにも僕を好きでいて貰いたいです。……と、ベルさん!?」
 今度こそ本当に力が抜けてしまって、先生の腕の中に倒れこむ。
 お互い好き勝手に「好きだ」「愛している」と言っているだけなのに、なぜこんなにも気持ちが通じ合っているのかがわからない。
 けれどそれは欠片も不快さを感じなくて、理由なんて分からなくても相手を愛し続けていさえすればよい気がした。
「先生、なります。私、先生のお嫁さんに。ちょっとひねくれてますけど、貰ってくれますか?」
 先生の逞しい腕のなかでクタリと脱力しながらもそれだけは言った。この気持ちは最初の気持ち。こうだったらいいなと思った最初の想いだ。言うまでにものすごく紆余曲折があったけれど、振り返ってみれば最初から変わらないただ一つの気持ちだった。
「もちろん。嫌だといっても離しません。僕はベルさんじゃないとダメですから。ベルさんと見つめあってずっと生きていきたいです」
 先生の顔が近づいてくる。
 ゆっくりと視線を絡ませながら、先生の表情を観察する。
 なるほど、よく見てみれば同じ表情に見えて僅かな違いが常に変化している。きっと先生もこちらの顔を見ていろいろなことを考えているに違いない。自分の一つ目が先生よりも表情を読みやすいというのであれば、確かに先生にとって一つ目はこの上なく愛しさを感じる物なのかも知れなかった。
 顔が触れそうなほど近づいて、もう視線を合わせることができなくなっていた。それでも最後までまぶたは閉じず、万感の想いを込めて、くちびるが重なる瞬間を待ちわびた。
13/09/15 02:27更新 / C-Quintet
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■作者メッセージ
っかしいなー。リッチの話を書いていたらいつの間にか新しい娘に浮気をしていたぞ?
というわけで、ゲイザーのベルさんのお話です。
前編となっているのは、ベルさんと先生が「愛し合う」関係になれて切りが良かったからです。
本当は前編後編あわせて一本の話なのですが、後編はただひたすら二人がいちゃいちゃするだけの話なので、いっそここで切っていいかとおもい、投稿に踏み切りました。
後編は書けていません・・・、いつになるやも分かりません・・・
ただ、やりたかったこと(性的な意味で)が後編に入っているので失踪だけはしないつもりです。
よろしければ後編も気長にお待ちいただければと思います。

※追記
 いや、推敲って大事ですよね。昨日半分眠っていた状態で確認して投稿したのですが、今日見返してみたら言葉も出ないほど酷い・・・。なので、全体的にざっと修正させていただきました。ちょっとは見られる文章になっているといいな・・・。

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