死が二人を別つまで
「死にたく……、ない……。死にたく……」
瀕死の愛しい人がうわ言のようにそれだけを繰り返す姿を、ライラはただ見ているしかできなかった。
ライラ自身も全身に無数の傷を負い、深いものは骨にまで達しているものがある。
愛しい人を励まそうと口を開いても、出てくるのは泥のように粘つく血の塊だけだった。
「がっ、ごほっ……!」
無理に喋ろうと喉を動かせば血塊が気道に入って酷くむせる。
もはやライラも死に体だ。
それでもライラの意識の方が明瞭なのはひとえに魔物の生命力の方が高いからに他ならなかった。
「ライラ……。ライラ……」
ライラがむせた声を聞いたのだろう。恋人のグレイがライラの名を呼び始めた。
上手く上がらない手を必死に上げてグレイの手に重ねる。それだけでグレイが安心したように深く息を吐くのが聞こえた。
身動きが取れない自分たちはきっとこのまま朝日を見ることなく事切れるだろう。
グレイ同様、ライラとて無論死にたいわけはない。
それでもなお、死が目の前に迫っている今、その最期がこの人と一緒でよかったと。
ライラはそう思って祈りを馳せる。
――願わくは、最期までずっと二人で居させてください。死が二人を別つまで……。
◆◇◆
ライラはただの村人だった。
隣の家のグレイは幼馴染でおそらく幼い頃には恋をしていた。
グレイもライラのことが憎からず思っていたらしく、いつかお前を守ってやると兵になるために村を出て行った。
村で待っているライラの元には下っ端としてどうにかやっているとグレイからの手紙が月に一度は届いた。
そんなやり取りが数年続いたころ、グレイを待ち続けるライラの元にリリムがやってきた。
ライラは別段取り柄のある娘ではなかったが、何の因果か魔物の素養だけはあったらしい。
エキドナとなったライラはグレイの居る王都まで駆けつけてその姿を衛兵に見られてしまった。
ライラは上位の魔物であり、王都の兵は小国であるがゆえに弱く、ライラを討ち取れる者はいなかった。
だが、ライラの目的がグレイであると知れた時、国の面目を保つため、国王は決してグレイを差し出して追い払おうなどとは考えなかったのだ。
◆
ライラの目の前には五人の兵士。
うち四人はライラを傷つけうる技量をもった、王国きっての戦士たち。
しかし、その四人を同時に相手にしても、エキドナとなったライラなら十分にわたりあえた。
そして最後の一人は……。
「グレイ……」
ライラの目に、グレイは怯えているように見えた。
なるほど、グレイを囮にして自分を躊躇わせる作戦か。
しかし何の問題もない。四人を先に倒し、グレイを浚って山奥へと逃げてしまえばいい。
二人きりになって愛を囁けば、きっとグレイもわかってくれる――。
だが、国王も、手練れの四人ですら、グレイに攻撃させるだけではライラを倒せないのはわかっていた。
悲劇は、それをライラがわかっていなかったことだった。
故に、ライラはグレイがここに居させられる意図を図り損ねてしまったのだ。
ドスッ!
手練れの四人の得物が、いずれも中央にいたグレイを貫いた。
自身の血だまりの中へ崩れ落ちるグレイを見たときに、ライラの視界からはグレイ以外の全てが消し飛んだ。
そう、何も見えなくなったのだ。
グレイに駆け寄った自分に振り上げられる四人の得物も何もかも。
それらが自分の身体に衝き込まれるまでは。
ライラは不条理だと思った。
人の醜さを知らなかった自分が愚かだとも、グレイを餌にした国王を憎いとも思わなかった。
ただ、幼馴染が魔物になってしまっただけの男が、何の罪もなく殺されなくてはならない理はないと思った。
瀕死のグレイに釣られてまずは四箇所。
グレイを連れて逃げようとしてさらに四箇所。
グレイを横たえるまでにさらに二箇所。
四人を殺すまでにさらに二十箇所以上。
追っ手を振り切った時にはもう、魔物のライラですら死を待つばかりの満身創痍であった。
◆◇◆
「ライラ……、ライラ……、そこにいるのか……?」
重ねた手を握り返してくるグレイの視線は宙を泳ぎ、もはや見えては居ないようだった。
もう喋ることができないライラは、握った手に力を込めることでその存在を伝えるしかなかった。
「ああ……、居てくれたんだね……」
ライラには血の気の失せたグレイの頬が僅かに緩んだのが見えた。
意識が希薄なグレイにはライラも死に体であることがわからなかったのかもしれない。
「……このまま死んだら、君は誰かを恨むかもしれないから言っておきたいんだ」
グレイの声はほとんどかすれていて、ライラの耳にもかろうじて届くだけだった。
「君が魔物になったのを知って驚いたのを隠すつもりはない。魔物になった君を見て怖くなってしまったのも事実だ……。けど、君は身を挺して僕を救ってくれた。君は昔のままの、僕が大好きな君で居てくれたんだ……」
長く喋りすぎたせいかグレイがむせだすが、ライラには手を握る意外にできることがない。
「……ごめん、時間が無いや。もう君の声も聞こえない。僕は逝ってしまうけれど、誰も恨まないで。僕を愛してくれるなら、僕のために誰も恨まないで……。愛してるよ、ライラ。最期まで、手を握っていてくれると嬉しいな……」
ライラは手を握りながら、グレイの握り返す力がどんどん弱くなっていくのを感じた。
愛しい人を看取りたいのに、視界が涙で歪んでその顔を見ることが叶わない。
それが結ばれぬ慙愧の涙か、それとも心通じた歓喜の涙かわからないまま、ライラは嘆いた。
私たちは一緒にいたかっただけなのに。
農村で人として貧しく暮らしていてもいい。
魔界で魔物として爛れた生活でもいい。
最期に一緒に逝けるのは幸運なのかもしれないけれど、間にあった幸福全てをすっ飛ばしてまで望むものではない。
せめて、あの二人は幸せだったんだよと誰かに語り継いでもらいたい。
私たちはここで愛し合ったんだよと誰かに知ってもらいたい……!
グレイの手のひらはまだ温かかった。だが、もう握り返す力は残っておらず、呼吸の音も僅かにしか聞こえない。
ああ死ぬんだと、それを悟った瞬間それまで忘れていた虚脱感が一度に襲い掛かってくる。
命が抜けていく感覚を、比喩ではなく実感する。
もうグレイの顔を見るために首を動かすこともできなくなっていた。
最後の最後、グレイの手の熱もわからなくなってきた頃、誰かが顔のそばの土を踏みしめた感触がした。
まぶたを閉じるその瞬間に屈んだその人物の白い髪だけが見えて、ライラの意識は暗い闇の中へと落ちていった。
瀕死の愛しい人がうわ言のようにそれだけを繰り返す姿を、ライラはただ見ているしかできなかった。
ライラ自身も全身に無数の傷を負い、深いものは骨にまで達しているものがある。
愛しい人を励まそうと口を開いても、出てくるのは泥のように粘つく血の塊だけだった。
「がっ、ごほっ……!」
無理に喋ろうと喉を動かせば血塊が気道に入って酷くむせる。
もはやライラも死に体だ。
それでもライラの意識の方が明瞭なのはひとえに魔物の生命力の方が高いからに他ならなかった。
「ライラ……。ライラ……」
ライラがむせた声を聞いたのだろう。恋人のグレイがライラの名を呼び始めた。
上手く上がらない手を必死に上げてグレイの手に重ねる。それだけでグレイが安心したように深く息を吐くのが聞こえた。
身動きが取れない自分たちはきっとこのまま朝日を見ることなく事切れるだろう。
グレイ同様、ライラとて無論死にたいわけはない。
それでもなお、死が目の前に迫っている今、その最期がこの人と一緒でよかったと。
ライラはそう思って祈りを馳せる。
――願わくは、最期までずっと二人で居させてください。死が二人を別つまで……。
◆◇◆
ライラはただの村人だった。
隣の家のグレイは幼馴染でおそらく幼い頃には恋をしていた。
グレイもライラのことが憎からず思っていたらしく、いつかお前を守ってやると兵になるために村を出て行った。
村で待っているライラの元には下っ端としてどうにかやっているとグレイからの手紙が月に一度は届いた。
そんなやり取りが数年続いたころ、グレイを待ち続けるライラの元にリリムがやってきた。
ライラは別段取り柄のある娘ではなかったが、何の因果か魔物の素養だけはあったらしい。
エキドナとなったライラはグレイの居る王都まで駆けつけてその姿を衛兵に見られてしまった。
ライラは上位の魔物であり、王都の兵は小国であるがゆえに弱く、ライラを討ち取れる者はいなかった。
だが、ライラの目的がグレイであると知れた時、国の面目を保つため、国王は決してグレイを差し出して追い払おうなどとは考えなかったのだ。
◆
ライラの目の前には五人の兵士。
うち四人はライラを傷つけうる技量をもった、王国きっての戦士たち。
しかし、その四人を同時に相手にしても、エキドナとなったライラなら十分にわたりあえた。
そして最後の一人は……。
「グレイ……」
ライラの目に、グレイは怯えているように見えた。
なるほど、グレイを囮にして自分を躊躇わせる作戦か。
しかし何の問題もない。四人を先に倒し、グレイを浚って山奥へと逃げてしまえばいい。
二人きりになって愛を囁けば、きっとグレイもわかってくれる――。
だが、国王も、手練れの四人ですら、グレイに攻撃させるだけではライラを倒せないのはわかっていた。
悲劇は、それをライラがわかっていなかったことだった。
故に、ライラはグレイがここに居させられる意図を図り損ねてしまったのだ。
ドスッ!
手練れの四人の得物が、いずれも中央にいたグレイを貫いた。
自身の血だまりの中へ崩れ落ちるグレイを見たときに、ライラの視界からはグレイ以外の全てが消し飛んだ。
そう、何も見えなくなったのだ。
グレイに駆け寄った自分に振り上げられる四人の得物も何もかも。
それらが自分の身体に衝き込まれるまでは。
ライラは不条理だと思った。
人の醜さを知らなかった自分が愚かだとも、グレイを餌にした国王を憎いとも思わなかった。
ただ、幼馴染が魔物になってしまっただけの男が、何の罪もなく殺されなくてはならない理はないと思った。
瀕死のグレイに釣られてまずは四箇所。
グレイを連れて逃げようとしてさらに四箇所。
グレイを横たえるまでにさらに二箇所。
四人を殺すまでにさらに二十箇所以上。
追っ手を振り切った時にはもう、魔物のライラですら死を待つばかりの満身創痍であった。
◆◇◆
「ライラ……、ライラ……、そこにいるのか……?」
重ねた手を握り返してくるグレイの視線は宙を泳ぎ、もはや見えては居ないようだった。
もう喋ることができないライラは、握った手に力を込めることでその存在を伝えるしかなかった。
「ああ……、居てくれたんだね……」
ライラには血の気の失せたグレイの頬が僅かに緩んだのが見えた。
意識が希薄なグレイにはライラも死に体であることがわからなかったのかもしれない。
「……このまま死んだら、君は誰かを恨むかもしれないから言っておきたいんだ」
グレイの声はほとんどかすれていて、ライラの耳にもかろうじて届くだけだった。
「君が魔物になったのを知って驚いたのを隠すつもりはない。魔物になった君を見て怖くなってしまったのも事実だ……。けど、君は身を挺して僕を救ってくれた。君は昔のままの、僕が大好きな君で居てくれたんだ……」
長く喋りすぎたせいかグレイがむせだすが、ライラには手を握る意外にできることがない。
「……ごめん、時間が無いや。もう君の声も聞こえない。僕は逝ってしまうけれど、誰も恨まないで。僕を愛してくれるなら、僕のために誰も恨まないで……。愛してるよ、ライラ。最期まで、手を握っていてくれると嬉しいな……」
ライラは手を握りながら、グレイの握り返す力がどんどん弱くなっていくのを感じた。
愛しい人を看取りたいのに、視界が涙で歪んでその顔を見ることが叶わない。
それが結ばれぬ慙愧の涙か、それとも心通じた歓喜の涙かわからないまま、ライラは嘆いた。
私たちは一緒にいたかっただけなのに。
農村で人として貧しく暮らしていてもいい。
魔界で魔物として爛れた生活でもいい。
最期に一緒に逝けるのは幸運なのかもしれないけれど、間にあった幸福全てをすっ飛ばしてまで望むものではない。
せめて、あの二人は幸せだったんだよと誰かに語り継いでもらいたい。
私たちはここで愛し合ったんだよと誰かに知ってもらいたい……!
グレイの手のひらはまだ温かかった。だが、もう握り返す力は残っておらず、呼吸の音も僅かにしか聞こえない。
ああ死ぬんだと、それを悟った瞬間それまで忘れていた虚脱感が一度に襲い掛かってくる。
命が抜けていく感覚を、比喩ではなく実感する。
もうグレイの顔を見るために首を動かすこともできなくなっていた。
最後の最後、グレイの手の熱もわからなくなってきた頃、誰かが顔のそばの土を踏みしめた感触がした。
まぶたを閉じるその瞬間に屈んだその人物の白い髪だけが見えて、ライラの意識は暗い闇の中へと落ちていった。
13/08/22 23:13更新 / C-Quintet