第二章 リャナンシーの苦悩
部屋の片隅に置かれた小さなベッドの更に隅っこに、アーリィは膝を抱えて蹲っていた。
そして何であんなことをアルフェリドに言ってしまったのだろうと、今日あったことを思い出しながら後悔していた。
そもそもリャナンシーのアーリィは、この学校に技術の向上のために入学したわけではない。
アーリィにとってこの学校にいる理由は、将来の夫を探すためだった。
しかしこの学校に所属して数年、一粒の砂金のような才能の煌きを持った作品は沢山あったが、その全てがアーリィが惚れこむにはあまりにも力不足の出来であった。
あと二回の品評で卒業しなければならないアーリィは、この学校に入学したのは間違いだったかと思い始めた。
だがまさにその時、彼女はあの向日葵の絵に出合った。
今まで見た事の無い技法で描かれたその作品のすばらしさと手で触れた味わいに、一瞬にして虜にされたアーリィは教師人に詰め寄ってこの作者の居場所を無理やり吐かせ、教えてもらった寮の部屋まで文字通りに飛んでいったのだ。
その部屋に辿り着くまで、アーリィの心は踊りに躍っていた。
漸く見つけた自分を虜にする絵の作者とはどういう人なのかと思いを馳せ。絵の題材に選んだのが自分と同じ向日葵という共通点に、これはもう自分の運命の人なのではないかと確信に似た気持ちを抱いた。
あふれ出る期待感に胸を焦がしつつ、あの作品の作者のドアを叩く。
ドアを一回叩くたびに、アーリィの鼓動は一層早鐘を打つ。
「はーい、いま開けます」
アーリィの耳に入った思い人が発したと思われる少年の心を忘れていないような優しげな声に、自分が抱いた思いは間違いないと確信するアーリィ。
ドアノブが捻られる音と共に開いたドアから一人の青年が出てきた。
画家特有の線の細さを感じさせる体つきに、生まれ出でたばかりの様な溌剌とした絵画の才能の輝きを放つ顔。その手からだけではなく身体から立ち上る匂いにも、身体の中に絵の具が流れているのではないかと思わせるほどに絵の具油の匂いが混ざっていた。
そんな名前も知らない彼を見たアーリィは、もうすでに彼の絵だけではなく彼の存在そのものにぞっこんだった。
「あ、あの、貴方の作品見ました!」
たまらずそう口に出したアーリィは瞳に恋の炎を灯らせて、続けざまにこう言った。
「貴方の絵に惚れました。あたしを妻にしてください!」
行き成りそんなことを言われた彼は困ってしまったのだろう、苦笑に似た表情をしていた。
ああそんな表情も素敵とうっとりとしていたアーリィの耳に、聞きたくない『アルフェリド・ダーキン』という名前が彼の口から出てきて、天にも昇る気分を邪魔された。
アーリィは『アルフェリド・ダーキン』の事を良くは知らなかったが、品評会でチラリとだけ見る彼の絵には、何時も自分の絵に良く似た構図と同じモチーフの絵が描かれていたのだけは知っていた。
いつ自分の絵を盗み見たのか知らないが、盗作紛いのその手法にアーリィは作者である『アルフェリド・ダーキン』を嫌悪していた。
そしてつい口に出して言ってしまったのだ。『あたしの真似ばっかりする、腕無しの盗作者』と。
アーリィの目の前にいるその人が、その『アルフェリド・ダーキン』だとは知らずに。
アーリィのその口から出た言葉を聴いたアルフェリドの態度は劇的に変化した。
多少は好意的だった目と表情が、マンティスが入れ替わったのではないかと思うほどの冷徹で無表情になり、そしてアーリィに対して興味を失った彼の瞳の奥には殺意があった。
その豹変ぶりにアーリィは何が自分の落ち度だか分からずに、抱いた恋心に突き動かされるかのように閉じられてしまったドアを無遠慮に叩いた。
そしてそのドアが怒り任せに開かれたとき、アーリィを見下げる彼の目にはもはや殺意しかなかった。
視線に射すくめられたアーリィに、彼が告げたのだ『俺がお前が嫌いなアルフェリド・ダーキン』だと。
その言葉と事実に愕然としたアーリィに更に追い討ちをかけるように彼は付け加えた。『俺もお前のことが大嫌いだ』と。
そうしてアーリィはやっと自覚したのだ、アルフェリドに『好きだ』と言ったその口で、同じ人に向かって『盗作者』と罵ったことを。
(違う、そういうつもりじゃ……)
そう口に出そうとして、ドア越しに感じるアルフェリドの殺意にアーリィは思わず口を噤んでしまい、そのまますごすごと部屋に帰ってきてしまったのだ。
もし人間がこんな状況に陥ったならば、次の恋に生きればいいと頭を切り替えられるだろうが、しかしリャナンシーであるアーリィにとってはそうはいかない。
リャナンシーが作品に惚れ込むと言うことは、その作品の作者をリャナンシーの本能が生涯の伴侶に選んだということだ。
そうなればもうその人以外の作品が気に入ることはない。その事実に例外など存在の余地すらない。
その人生を賭けた恋心を、自分の落ち度で砂のように粉々に打ち砕いたアーリィは、この世の終わりのような表情をした顔を抱えた膝に埋めた。
しかし頭の片隅で思ってしまうのだ、いまあの人が慰めてくれたらと。そしてそう思ってやるせなくて目の頭に涙が浮かぶ。
そのままめそめそと泣いていたアーリィだったが、がばっと顔を上げるとカンバスを取り出し、何かに取り付かれたかのように絵を描き始めた。
(相手は画家なんだ。だったらあたしのこの思いを絵画にすればきっと届くはず!)
妖精特有のプラス思考でアーリィは絵を描いていく。
アルフェリドが描いた向日葵と同じあの技法を使って、自分の恋心を表すように。
アーリィを怒鳴りつけてしまってから一週間後、アルフェリドは食堂で食事を食べ終え、卒業制作まで日はあるし練習のために何を題材にしてあの技法で絵を描こうかと思案していた。
もうすでに頭の中にはアーリィへの殺意はない。むしろ何であんなに怒り心頭していたのかすら分からない有様だった。
しかもアルフェリドは、こんどアーリィに出会ったらあの時乱暴な口調を使ってしまったことは謝らないと、とすら考えていた。
ぱらぱらと植物図鑑を見ていて、ふと向日葵とは真逆の性質のある花を見つけた。
その植物の名前は朝顔。向日葵と同じ夏に咲く花でありながら、一日の命しかない儚い花。
たしかに生命力に溢れた向日葵とは真逆の性質。しかしそれは新しい技法で儚さを試すには丁度いい題材だった。
「次は何を描くのか決めたの?」
新しい題材に思わず口をにやけさせたアルフェリドの表情を見ていたのか、ホブゴブリンのマールが手にプディングを持ってアルフェリドの向かい側に座った。
「お仕事はいいんですか?」
「食堂に来る人も落ち着いたし、休憩して来いって言われちゃって」
プディングを美味しそうに口に運ぶマールの光景をみて、あの技法で人物を描くのも良いかもしれないと、アルフェリドは心の中で静かに思った。
「見つけたー!!」
次々と新しい題材がアルフェリドの頭に浮かんできたまさにその時だった。食堂にカンバスを持った、体の彼方此方に絵の具がへばりついている少女が走り込んできて、アルフェリドに向かって突進してきた。
その少女にアルフェリドは見覚えがあった。正確に言うならば、あのリャナンシーが人間になって大きくなったらこうなるだろうなという予想図通りの背格好だった。
「もしかしてアーリィさんですか?」
「おお!分かっちゃう?」
アルフェリドに人間化していても自分だと認識してもらえた事に、嬉しそうに身を捩りながらそう応えるアーリィ。
「あの時は乱暴な口調を使って申し訳ありませんでした」
折角会ったのだからと、アルフェリドは忘れないうちにそう謝罪の言葉をアーリィにかけた。
「いや、あたしの方も変なこと言っちゃってさ……で、あたしを妻に」
「それはお断りします」
きっぱりとそう応えるアルフェリド。
しかしアーリィは何かアルフェリドを篭絡させる手があるのか、アルフェリドの素っ気ない態度にも笑顔だった。
「ふっふふ。まあそう言わないで、この作品を見てから答えてよっと」
ばさりとカンバスに掛けられていた布が取られると、真新しい乾いた絵の具特有の臭いを放つ絵画――それもさっきアルフェリドが良いなと思った朝顔をモチーフにした絵だった。
石壁に這った蔓の所々に、青白い花弁がついた数輪の朝顔がアルフェリドが作り上げた例の手法で描かれていた。
リャナンシーの名前負けしないほどに、その作品は立派な絵画だった。
石壁も絵の具を重ね塗りしたことにより、より一層硬さと存在感を増している。そしてその朝顔はいまそこで摘んできたのではないかと思わせるほどの見事な艶やかさだった。
しかしアルフェリドが見れば見るほどに、その絵画に違和感が湧き上がる。
いったい何がとじっくりその絵画を見ていたアルフェリドだったが、この絵の問題点を唐突に理解した。
この絵は生々しすぎるのだ。
自意識のない石壁のはずのその絵には、アルフェリドが描いたあの向日葵の空のように情熱が蠢いていて、この世に存在しない異質で異形な生物の体の一部ような雰囲気を醸し出していた。
一日だけしか持たない力で精一杯咲く儚いはずの朝顔も、あまりにも生気に溢れすぎて朝顔の形をした食虫植物のような異様さを放っていた。
「うっぷ……」
そう頭が理解してしまうとそういう風以外には見えなくなり、アルフェリドは道端で死体を見たときのようなグロテスクさをその絵を通して感じ取り、口の中が胃から逆流してくる液体ですっぱくなってくる。
「食堂に何てもの持って来るの!」
この絵にアルフェリドが感じたものと同じ物を見たのか、マールは慌ててアーリィから布を引っ手繰ると有無を言わさずにその絵に掛けて覆い、絵の具の端ですら見えないようにと硬く結んでしまった。
「ちょっとなにするの!」
「それはこっちの台詞です。みんなが楽しく食事する場所に、こんな気味の悪い絵を持ってこないで下さい!」
「気味が悪いってなによ!ただの朝顔の絵じゃない!」
ぎゃーぎゃーと騒ぎ始めた二人を、気持ち悪そうな顔のままでアルフェリドは引き離した。
「うぇ……ただの絵って言うけど、この絵を見て君はなにも感じないのかい?」
その明らかに気分の悪そうな表情をしたアルフェリドの問いに、マールは小首を傾げた。
「普通の朝顔でしょ?まあ自画自賛じゃないけど、良く描けているとは思うけどね」
「いやそうじゃなくて……じゃあ、この絵を描くときに何を考えながら描いたの?」
朝顔と石壁をああも無残に変化させるのは、いったいどんな感情を封入した所為なのだろうかと、アルフェリドは疑問に思った。
しかしその問いに、アーリィはきゃっと声を出して恥ずかしそうに両手を頬に当てると、今度はもじもじしながらアルフェリドを上目遣いに見上げてきた。
「あたしのアルフェリドに対する恋心です♪」
そのアーリィの言葉を聴いて、アルフェリドは納得がいった。
この絵の石壁にはアーリィの恋心が塗り込められ、朝顔には子を成そうとする繁殖に旺盛な魔物の性が描かれていたのだ。
そんな絵の題材に遭わない感情を入れ込んでしまえば、その絵がどうなるかは先ほど見たとおりだった。
「だからこんなグロテスクな絵が……」
思いがけずそう言葉に出してしまったアルフェリドの言葉に、アーリィは想いを寄せる人から自分が神経を傾けて描いた絵にそんな評価を下されるとは思っても見なかったのだろう、じわりと目に涙が溜まる。
「う、うぇ……うわあああぁんーーーーー!」
アーリィは例の朝顔の絵画を掴んでその場から逃げ出すと、一目散に自分の部屋へと走り去っていった。
「……しまった」
別にアーリィを泣かせようと思って言ったわけではなかったアルフェリドは、自分の落ち度に思わず溜息を吐いてしまう。
「もしかしてアルちゃんも、あんな絵を描いているの?」
教師がアルフェリドの絵を気が触れていると評価しているのを知っているのだろう、マールはじとっと湿った目をアルフェリドに向けていた。
「確かにあの絵は俺が作り出した技法で描かれていましたけど、俺の絵はあんなグロテスクなモノじゃありませんよ」
「ふーん、一応は信じてあげるけど……でも私は一応寮監ですからね、今度絵を描き終えたら私に見せてください。チェックしますから」
明らかに気分を害したといった風なマールは、食べかけていたプディングを一気に口の中に入れると、厨房へと引っ込んでいってしまった。
どうしてこうなったのだろうと、アルフェリドはがっくりと肩を落とした。
部屋へと戻ったアーリィは二人にグロテスクと酷評された絵をじっと見ていた。
しかし何が悪いのかまったく分からない。
確かに生まれたばかりの技法で描いたからには、まだ洗練されきっていない荒々しさは確かにある。しかしそれはまだ発展途上というだけであって、決して今まで書いてきた絵画に劣るとは言えないと自負していた。
キチンとアルフェリドの向日葵を参考にして描いたはずなのだ、描画方法は間違っていないはず。
「というより、グロテスクってなにさ」
じぃっと穴が開くほど見つめても、この朝顔にグロテスクな表現などない。
ただの石壁に這うように咲いた朝顔なだけだ。
血も内臓も無いし、不気味さを演出する隠し絵もこの絵には存在していない。
「そうだ、きっと題材が悪いだけ!」
考えても分からないことを考え続けてもしょうがないと、アーリィは妖精らしい短絡さで新しい絵に取り掛かった。
「次は……そうだ、アルフェリドの肖像画でも描こうかな。そうよ、そうしようっと!」
そして彼女は魔法の絵筆を使って描き始めた、自分の大好きなアルフェリドをそのままカンバスに閉じ込めるかのようとするかのように。
マールから絵を見せて欲しいといわれたからか、アルフェリドは取り合えずという感じで自画像を描いてはみたものの、ありふれた無表情の自画像を単に厚塗りしているような絵が出来上がっていた。
(うーん、やっぱり自分を題材にするのはこの技法には難しいのかなぁ?)
自分の身体は自分が良く知っているとはよく言うものの、事が自分の内面になってしまうと自分の匂いが自分ではどんなのかわからないように、自分の心の動きを自分自身で理解するのは難しいものである。
アーリィのあの朝顔の絵画にもそれはいえるのだろう。
アーリィの感情という自身の分身を絵に入れたために、あの絵に含まれている異質さに気づくことが出来なかったと予想できる。
この絵ではマールを納得させることは出来ないと判断して、さて次は何にしようかと思いっていると、ふと楽しそうに調理するマールの姿が頭に浮かんだ。
(他人の姿を描写してみたらどうなるのだろうか)
そう思い立ったら即行動。カンバスに木炭で線を引き始めた。
料理するのが好きで好きで仕方が無いと鍋を振るうマールを思い描きながら、料理中のマールの溌剌とした表情と振るわれる鍋の中身の匂いを絵に入れていく。
だがマールの朝顔の様なくどさを出さないように気をつけて、料理にたとえるならば振り掛ける一つまみの塩であるかのように、多すぎもせず少なくも無い程度の量に調節していく。
「ふう、ようやく出来たぞ……」
描き始めてから二週間。ようやく満足いく出来で描き終えた後、何か不備が無いかをアルフェリドはチェックしていく。
マールの楽しげな表情は切り抜いたようにそっくりそのままだが、そこの表情には美味しい料理を食べて欲しいという願望がアクセントに入れられていた。
その手に振るわれる火に焼かれて赤い鍋は、絵画に触れるだけでも火傷しそうな――それこそカンバス自体を燃え上がらせようとするような熱気を含んでいる。
鍋の中で激しく踊る料理の食材は、切り刻まれてもなお生気に溢れながら、料理としての匂い立つような美味しそうな一体感を得ていた。
アルフェリドがいま描く事の出来る最高傑作だといっても過言ではない。
気になるところといえば、アルフェリドが描きながらもマールに感謝の念を忘れなかったためなのか、アルフェリド自身どこかこの絵から僅かな母性を感じるような気がした。
これがどう影響するのかアルフェリドには未知数だった。
もしかしたらマールにグロテスクと詰られるかもしれないし、いまから新たに絵を描くとなると卒業制作の為の絵に割く時間が取れないという事実もあったが、この絵ならば大丈夫だとアルフェリドは太鼓判を押してマールに絵を見せることを決意した。
絵の描かれたカンバスに布を掛けて手に持つと、アルフェリドはドアノブを捻ってドアを開けた。
すると其処には丁度ドアをノックしようとした姿のままに固まった、人間の少女に化けているアーリィの姿。
アルフェリドが固まる彼女の手に視線を落とすと、其処には真新しい布に包まれたカンバスがあった。
「もしかして、また俺に絵を見てもらおうとしたの?」
「は、はい!今度のは目茶苦茶自信作なので、絶対にアルフェリドを満足させてみせます!」
目に炎を灯らせて迫ってくるアーリィに、なんか気合と選んだ言葉が絵画とは違う方向に向かっているのではないかと、アルフェリドはアーリィの情熱を疑わずにはいられなかった。
「俺も用事があるから、それが終わってからにしてもらてもいい?」
「もちろんです!あたしの絵を見てくれるんならいつでも待ちます!」
そんなアーリィの一途な姿勢にアルフェリドは苦笑いしつつ、彼は食堂へ向かった。
「ご飯ですか?まだ少し早い気が?」
「いやちょっと頼まれごとをね」
アルフェリドの横に並びながら、えっちらおっちらと大きいカンバスを引きずらないように持って運ぶアーリィ。
本来ならばアルフェリドが持ってあげればいいのだろうが、絵画を描き続けて体力が落ちているアルフェリドに、自分の絵とアーリィの絵の両方を持てるだけの力は悲しいことに無かったのだった。
やがて食堂に辿り着き、アルフェリドはマールを呼び出した。
「はい、アルちゃん何か様ですか?」
「前にマールさんが絵のチェックをしたいと仰っていたので、描いた絵を持ってきました」
「態々持ってきてくれたんですか?言ってくださればお部屋にお伺いしましたよ……それで、何の絵なんですか?」
「それは見てのお楽しみということで」
アーリィがその場に存在しないかのように話を進める二人に、アーリィは何も思わなかったわけではなかったが、この用件が終わればアルフェリドはアーリィとの時間を取ってくれると言っていたのだからと我慢した。
そしてバサリと布がアルフェリドのカンバスから取り除かれ、そこに描かれていた絵が日光の下に晒された。
「……これもしかして私ですか?」
「そうですが何か変な、」
「みんなー、料理長がモデルの絵だって!」
盗み聞きしていたのだろうか、頭に小さなコック帽を被ったゴブリンが大声で周りにいた調理スタッフに声をかけると、わらわらとアルフェリドの絵の周りに集まってきた。
「ほへー、よく描けてるッすね」
「うわなにこれ、リアルすぎて料理長が二人いるみたいで気持ち悪い」
「いやなに言ってんのさ、この嬉しそうに料理する料理長の何処が気持ち悪いって言うんだよ」
「いやでも気持ち悪いって言うのも分かるよぅ。ほらこの鍋なんか、絵のはずなのに触ったら火傷になりそうだねぇ」
描いた人とモデルになった人を差し置いて、議論に華を咲かせ始めたスタッフ達。
しかしながらここでも評価は肯定と否定に真っ二つ。どうやらこの技法はそういう運命にあるようだ。
「それでマールさんの評価はどうなんですか?」
「ふぇえ!わ、私の評価ですか!?」
「だって絵のチェックをするって言ったのマールさんですよ」
話を急に振られたマールは慌てふためきながらも、じっとアルフェリドの絵を見つめた。
そして何が気に入らなかったのか、小首を傾げながらアルフェリドに向き合った。
「あ、あのぅ、良くは描けていると思いますけど、私ってこんなに嬉しそうに料理してましたっけ?」
「いまさらそれっすか料理長!」「いやもしかしたらと思ってましたけど…」「そうだねぇ、本当に本人は自覚してなかったんですねぇ」
マールの感想に完全に野次馬と化したスタッフが思い思いの言葉をマールに投げかける。
その言葉にマールは驚いているようだった。
「え、えぇ!?もしかして私、本当にこんな風に料理してるの?」
「そらぁもう!」「愛を告白された乙女のように」「むしろ愛しい旦那に弁当作る新妻のようですよぅ」
「そうだったんだ……これが私が料理しているときなんだ……」
周りのスタッフ達に言われて漸く自覚したのか、マールは再度絵に視線を向けるとしげしげと見始めた。
「ふふっ、なんだか気に入っちゃった。ねえアルちゃんこの絵ちょうだい、食堂に飾るから」
「いいですよ差し上げます。……と言うことは評価は」
「いいよバンバン書いて。こんな素敵な絵なら全然許可するよ。あの子の絵とは……」
嬉しさのあまりに其処まで口を滑らせて、はたと気が付いて口を噤んだマール。
彼女の視線の先には、悔しそうに唇を噛み締めるアーリィの姿。
「……帰ります」
とぼとぼと肩を落として帰る彼女の背中に誰も声をかけることが出来なかった。
これで何度目だろうかと考えながら、アーリィは膝を抱えて部屋の片隅に蹲っていた。
アルフェリドのあの料理人の絵を見たときは衝撃的だった。
向日葵とはまた別の味わいのある、インパクト満載のあの絵。
周りの人たちに見つからないように気を配って、そっと摘み食い程度に絵に触れただけでも、アーリィの身体にはサキュバスが極上の精を口にしたのと同じような幸福感と満足感が駆け巡った。
それ故にこれがあたしの為に描かれた物だったらと、悔やまずにいられなかった。
しかしそれだけではない。リャナンシーのアーリィだからこそ完璧に理解したことがある。
あの絵にはホブゴブリンのマールの内面が描かれ、さらにアルフェリドの彼女に対する感謝の念も込められていたことを。
どうしてアルフェリドがあのホブゴブリンに其処まで感謝しているのかは分からなかったが、それよりなにより問題なのはアルフェリドがマールの内面をを理解し、それを周りの絵の素人であるゴブリン達にも分かるように表現していたこと。
「全然駄目じゃない……」
今になってアーリィは理解したのだ。この技法は絵のモチーフの事を真に理解していないと描けない技法なのだと。
その点に気が付いたアーリィは食堂から逃げ帰る前に教師に頼み込んで、アルフェリドの提出された作品を見せてもらい、そして知った。
アルフェリドは知っていたのだろう、アーリィの作品と自分の作品が如何しても似てしまう事を。そして人間の身でリャナンシーという強大な芸術才能に単身挑まなければならない恐怖を。
その証拠に構図や着想は真似したのかと思うほどに同じだが、時間を経ていくに従い絵の配置や描き方が上達している事。
そしてアーリィがその絵に手を触れて感じた、アルフェリドの血反吐を吐くほどの苦悩とそれを打ち負かそうとする努力と信念を。
アーリィがアルフェリドのことを『盗作者』と心の中で罵っている時にも、アルフェリドは歯を食いしばり挑み続け、その結果に絶望し続けてもなお其れを止めようとはしなかった事を。
それはどんなに苦しい事だっただろうか。聖職者が行う苦行すら生ぬるいと思えるほどの苦痛なのかもしれない。
其処まで耐えてやっと手に入れた――凍りつく冬の時代が終わり春に新芽が芽吹くように、報われぬ努力の末に生まれ出でたのがあの技法だったのだ。
だからこそ、その事実にアーリィは恥じ入ってしまうのだ。
恥知らずなほどに得意満面な顔で、技法を何も分かっていないただ真似ただけの朝顔の絵をアルフェリドに見せた事を。
今日アルフェリドに見せようとしたアルフェリドの肖像画も、あの技法の上辺だけを齧っただけの駄作――アルフェリドがどんな人物かを知ろうともせず、自分の思い描いた理想像をただ押し付けただけの絵。
あんなもの人の目に触れる前に処分しなくてはと、俯いた顔を上げて部屋を見回しても、あの絵は何処にも無かった。
(まさか……)
あの食堂に置いて来てしまったのだろうか。
もしそうならば、あの場にいた人はあの絵を見て腹を抱えて笑ったことだろう。この何処がアルフェリドなのかと。
(終わった……何もかも)
仮にあの絵をアルフェリドに見られたとしたら、きっとアルフェリドは自身が生み出した技法を何にも知りもしないで使った事に、彼と始めて会った時の様な表情をしたことだろう。
それならばまだいい、もしもアルフェリドがアーリィの事を『ただ自分の真似をしているだけの腕無し』と判断したらと思うと怖くてしょうがない。
自分が想いを寄せる人から失望され、さらには唾棄されるものを見るような目つきで見られるという想像をするだけで、この世はこんなにも冷たくて寂しい世界だったのかと恐怖する。
あまりの恐怖にアーリィはガタガタと肩が震え、カチカチと歯の根が合わない。
毛布を何枚も着込んだアーリィの額に汗が浮かんでも、その寒さは一切緩む事は無い。
仮に温暖で過ごしやすい妖精の国へ逃げ込んだとしても、この冷感はついて来てアーリィの身体を蝕む事だろう。
アルフェリドの腕に抱かれればこの寒さは吹き飛ぶのにと考え、そしてそれが適う事が無いという事実に打ちのめされてさらに悪寒が身体を走り抜ける。
あまりの寒気にぶるぶると震える手で魔法の絵筆を握る。
現実を忘れカンバスの中の世界に助けを求めるように。
アルフェリドは自分の部屋の中で、アーリィの描いたアルフェリドの肖像画を見ていた。
カンバスに描かれたアルフェリドは見た目は現実のアルフェリドと同じだが、描かれている内面は違っていた。
その目には魔王に挑もうとする勇者のような気高さと、何事にも揺るがぬ鉄の意志に満ち溢れていた。
顔立ちには自分の才能を信じて疑わない自信が刻まれ、迷いや恐れなど微塵も窺えない。
これが自分の顔だろうかと苦笑してしまうアルフェリド。
アルフェリドは知っているのだ、自分などこの絵のような英雄譚の勇者の様に表されるようなものではない事を。
いままで自分は絵の描き方はこれで良いのか筆運びを間違ってはいないかといつも戦々恐々としつつ、迷い恐れながら赤ん坊のように一歩一歩よちよち歩きで進んできたと。
そしてだからこそ考えてしまうのだ、食堂でこの絵を一緒に見たマールがアルフェリドに言ったこと。
『本当にあの子はアルちゃんのことが好きで好きで仕方が無いのね』
ヒントのようにそう告げられたマールの言葉を頭の中に入れてもう一度アーリィの絵を見ると、この絵はまったく違った様相を発する。
この絵はただのアルフェリドの肖像画ではなく、恋する乙女が自身の純情を込めて描いた愛する人への恋文なのだ。
私の目には貴方はこう映ってしまうほど、私は貴方のことを愛しています――という事をこの絵は伝えているのだ。
(参ったな……)
いままで絵しか描いてこなかったアルフェリドにとって、誰かに告白を受けたというのは始めてである。
いや正確に言えば同じ人に二回告白されているようなものなのだが、最初に会った時のあれはアルフェリドにとって絵画の腕をリャナンシーに褒められたぐらいにしか思ってなかったのだ。
しかしこうもアーリィの純情を目の当たりにしてしまうと、アルフェリドは思わず照れてしまう。こんなにも自分を愛してくれる人がいることに。
そしてアルフェリドは考える、自分がアーリィの事をどう思っているのかを。
アーリィの第一印象は最悪だった。『盗作者』などと罵られたのだから当たり前だ。
アルフェリドはあの時、アーリィに失望し軽蔑し殺意を抱いてしまった。
そこではたとアルフェリドは気が付いた。なんで失望したのか軽蔑したのか殺意を抱いたのかと。
考えて考えて考え抜いて、ようやくアルフェリドは思い至った。
実際にアーリィに会ったのはあの時が初めてだったが、アルフェリドは以前からアーリィの事を絵画を通して知っていた。
アルフェリドと同じ着想で同じ構図で描く、アルフェリドより腕が上の少女。
その少女に追い付こうと追い抜こうとしている内に、アルフェリドは頭の中で会った事の無いアーリィの事を想像していたのだ。
自分がこんなに努力しても追い付けないあいつはどんな奴なのだろうか。
リャナンシーというが、どんなに綺麗な人なのだろう。
彼女はどんな風に絵を描くのだろう。
やがてアルフェリドの想像の中のリャナンシーは、アルフェリドが自覚せぬままにアルフェリドの理想の画家であり目標となっていったのだった。
だからこそ初めてアーリィに会ったときの余りの想像との落差に失望し、目標にすらならないと軽蔑し、これ以上自分の理想を壊すなと殺意を抱いてしまったのだった。
(これじゃあアーリィの描いたこの絵の事を笑えないな……)
アルフェリドは頭の中に自分の理想のアーリィを思い描き、アーリィは実際のカンバスに理想のアルフェリドを描いたという違いはあれど、二人の間の程度に差は無い。
そして思考が一巡りし、またアルフェリドがアーリィの事をどう思っているのかに戻る。
アルフェリドがアーリィの事をどう思っているのか、アルフェリド自信には分からないとしか言いようが無い。
しかし心の中でアーリィを思うと感じたことの無い思いがある事が分かる。
まだ見ぬアーリィを想像して膨らみ、実際に会った事で急速に萎んでしまったこの感情。
表層意識という深雪の下に埋もれてしまい、その一部分も覗けないがその下に確りと感じる小さな想い。
その想いを確かめるようにアルフェリドは筆を取ると、カンバスに絵を描き始める。
現実世界を締め出して、カンバスの中の世界で答えを見つけようとするように。
11/08/13 13:34更新 / 中文字
戻る
次へ