連載小説
[TOP][目次]
アナフィラキシー
 机とベッドと本棚しかない狭い部屋に、余裕のない息と粘っこい水音が響いている。
 「うぅ…や、ばい…何回目だ、これ…」
 
 例の勉強会の後、帰宅した頃合いで和樹の体に異変が訪れた。下校する前になんとか収めた筈の勃起が再燃し、一向に収まらなくなってしまったのだ。夕食も断りさっさとシャワーを浴び、自室に籠り慣れ親しんだ右手で欲望の塊をしごき出す。一度目の射精は不安になるほどの勢いと量だった。いつもはティッシュ1枚で受け止めきれるはずの精液が手から溢れだしてこぼれ、カーペットに染みを作ってしまった。慌てて拭き取ろうとするも射精はなかなか止まらない。何枚もティッシュを引っ張り出してなんとか抑えこんだ末にはぐずぐずに湿った球体ができあがってしまった。ダチョウの卵ほどの大きさのそれに引きながら、既にほぼ全てカーペットに染みこんでしまった精液をなんとか拭き取ろうとするが…その間にもまた陰茎はどくどくと脈を打ちながら怒張し、次の弾込めを済ませてしまっているのだった。
 「くそ…ポケットティッシュも…これで全部か」
 箱からティッシュが無くなるまでそれほど時間はかからなかった。大量のティッシュと精液で満たされたごみ箱からはむっとする臭気が立ち上り、部屋中に栗の花の匂いが充満している。自分のものの臭いを嗅いでも萎えるどころか陰茎はどくどくと脈打つ一方。部屋のポケットティッシュまで使い切ってしまった和樹は今やごみ箱を股の間に置いてその中めがけて直接精液をぶちまけている。ごみ箱の中はまるで練乳を掛けすぎたかき氷のようだった。
 「臭い、なんとかしないと…」
 二つある窓の内、片方に扇風機を置く。外に向けて風を送り、少しでも換気をしなくては。このままでは間違いなく母親にバレる。
 扇風機を動かしている間も自分の意思で右手を止めることはできない。まるで発情期の猿のようだ。
 「あ、やばい…っ」
 あっという間に射精感が高まって、ごみ箱をあてがう間もなく尿道口から白濁が飛び出した。咄嗟にそれを左手で受ける。
 熱くどろどろとした粘液の塊が、左手で作ったお椀をみるみるうちに満たしていく。溢れる前に慌ててごみ箱へ向かい、その上で左手を傾けた。精液はまるでゼリーのように固まっており、一塊ごとどろりと滑り落ちる。いくら性欲の盛んな年頃とは言え、明らかに異様な光景だ。
 「なんなんだよ、もう…」
 原因はわからない。あの柔らかい乳房の感触となまめかしい「応急処置」が今も和樹の劣情を駆り立てて止まないのは確かだが、それだけでこんな…獣じみた精力が湧くことがあるだろうか?
 「うう…我慢できないっ…」
 いつもは訪れるはずの、あのいやに冷静な時間も全く訪れない。射精したらまた扱く、扱いてまた射精する、射精したら…その繰り返し。気がつけばもう、窓の外は白み始めていた。









 げっそりとした顔で校門をくぐる。結局昨日は一睡もできなかった。あの化け物のような精力のせいだ。ふらふらとした足取りで内履きに履き替え、教室へ進む。
 やけに周りから視線を感じる気がする。念のため朝にシャワーを浴びたが、それだけでは臭いが取れなかったのだろうか?不安になりながら教室に入ろうとした、その時だった。
 「うぐっ」
 急に首が絞まった。首筋にふわふわとした毛並みがあたる。漂ってくる微かな煙草の匂い。
 「来い」
 ドスの利いた低い声。忘れるはずもない、焔子の声だった。


 焔子に首根っこを掴まれ連れてこられた先は屋上だった。その日は雲一つなくからりと晴れていて、そよそよと吹く初夏の風が心地よかった──などと感じ入っている余裕は今の和樹にはない。
 屋上は普段、教師も生徒も立ち入り禁止だ。そんな場所に二人きり。取り巻きが隠れていそうな遮蔽物もない。つまり──焔子が恋人ごっこをする必要も、和樹に助けが来る望みもないということだ。殴られても蹴られても、ここではどうにもならない。
 「うっ…!」
 半ば放り投げるようにして、巨大な獣の手から解放される。和樹は受け身を取ることもできず、すすけた緑色のコンクリ屋根に尻餅をついた。視界がふっと暗くなり、ほぼ同時に下半身にずしりとした重みが加わる。あっという間にマウントポジションの完成だ。焔子は太陽を背負って和樹に馬乗りになり、右手で彼の胸板を押さえつけている。格闘技でよく話題に上る、上を取ったものにとっては絶対有利の体勢。馬乗りになられた者にとっては反撃もおぼつかない…されるがままといってもいい体勢だった。
 焔子の左手がゆらりと揺れた。和樹は情けない声を上げて、両腕で頭を守ろうとする。その右腕ががっしりと掴まれ、引っ張り上げられた。
 「ひ、ひいぃ…!たす、たす──」
 最早外聞を気にしている場合ではない。頼む、どこかの窓の開いた教室に声が届いてくれ。そう願い、目を固くつむって叫ぼうとしたその瞬間だった。
 突如、昨日味わったあの甘美な感触が右手を襲った。
 「ひゃ…っ!?」
 熱く湿った吐息。ぬるぬるで温かい舌と、時折こつりと当たる歯。見れば焔子は和樹の右手を口先まで持ち上げ、舐め回しているのだった。
 「きひ…精液くっせえなぁ…どうせ一晩中シコってたんだろ、このエロ猿が…」
 焔子の罵倒は図星だったが、混乱する余り内容が頭に入ってこない。殴られると思ったら舐められている。なんでだ?今日は傷も無いのに。
 昨日は手の甲を這うだけだった焔子の舌が、今日は指先や掌、指の付け根までを隅々まで這い回る。舌が指と指の隙間ににゅるりと滑り込むと、反射的にうわずった声が漏れた。思わず指をぴくりと動かすと、じっとしろと言うように焔子の握力が一気に強くなり爪が肉に食い込んだ。例えではなく腕がへし折られてしまいそうだ。恐怖に耐えつつ必死に指先を脱力させると、彼女は満足げに力を緩めた。和樹は冷や汗をかきながら、右手を動かさないことに全神経を集中させる。
 臙脂色の艶やかな舌は和樹の指という指に巻き付き絡みついて、上下に扱いていく。その奥の焔子と目が合った。蔑むようなからかうような表情でじっと見つめてくる彼女から、目を逸らすことができない。自分の右手がなまめかしく蠢く舌に為す術もなく陵辱されていくのを、和樹は黙って見ているしかなかった。
 背徳的で扇情的な光景に刺激され、股間に血流が集まっていくのを感じる。焔子が乗っているのが自分の腹の辺りで良かった、和樹はそう安堵した。もう少し足側にのしかかられていたら間違いなくこの欲望の膨らみが彼女の尻に当たっていたことだろう。
 舌は和樹の右手を…指を、掌を這い回り唾液を塗り込んでいく。右手の肌の乾いた部分はあっという間に無くなっていき、もうゼロだ。肉体を征服されている──そんな感覚が和樹の劣情を駆り立てていた。自分に被虐嗜好があるなどと認めたくはないが、いきり立った愚息は雄弁に性的興奮の事実を伝えている。
 「…射精、止まんなくなっちまったんだろ?」
 「…え、あ…それは」
 舐めるのをやめた焔子がにんまりと笑いかけてくる。彼女の顔の横で、唾液でぬらぬらと光る和樹の右手が揺れた。その後ろで棘だらけの尻尾がわざとらしくかちゃかちゃと音を立てて揺れる。
 「アタシらの棘はそうできてんのさ。刺されたオスはみぃんな…射精しか能が無い馬鹿になっちまうんだ」
 きひひっ。焔子は勝ち誇ったような笑い声を上げ、和樹の右手の平をべろりと舐め上げた。思わず和樹の腰が跳ねる。
 「ひひ。昨日で終わりじゃない…お前はこの先の人生ずぅっと射精猿だ…しかも自分を馬鹿にして騙した女に手をべろべろ舐められる妄想でしか興奮できない…惨めな猿になっちまったんだぜ?」
 「そ、そんな…いや、いやです…!」
 恐ろしい事実を告げられ絶望的な表情をする和樹に、焔子は一層嗜虐的な笑みを浮かべて応える。
 「ん〜…でもまあ…ひひっ…掠っただけだしなぁ…ずっぷり刺さったわけじゃないし…もしかしたらまだ戻れるかもな、普通の人間に」
 「ほ、本当ですか…?」
 弄ばれているだけだ、そう思いつつも縋るような目つきで焔子を見つめてしまう。無理も無い、本当に焔子の言うとおりであるならばこんなに惨めな人生は無いだろう。毎日のように止まらぬ射精に悩まされ、たとえどんなに好きな人ができても脳裏にちらついて離れないのは…あろうことか自分を散々こけにして嘲笑った女の姿。このにやけ面からべろりと這い出す舌の想像でしか興奮できない体になってしまうのだという。屈辱などという言葉では到底足りない。
 「さて、と」
 焔子は和樹の問いに応えないまま立ち上がる。思わずスカートの中の暗がりに目をやってしまうのは男の性だろうか。白の布地が目に映った瞬間、とくんと和樹の心臓が高鳴った。
 「お?ほらほらぁ…もう手遅れじゃねえのか?アタシに夢中なんだろぉ?」
 「う…そ、それは…そんな、こと…」
 全てお見通しとでも言うかのように焔子はにやにやと笑う。
 「ま、せいぜいあと9日間…アタシを怒らせないようにするんだな。今日も放課後…わかってるな?逃げんなよ」
 そういってまた嵐が去るように…彼女は行ってしまった。
 和樹は腰が抜けたまま、一限目のチャイムが鳴るまで屋上でぼうっとしていることしかできなかったのだった。
20/08/28 12:36更新 / キルシュ
戻る 次へ

■作者メッセージ
「うわっ…和樹のやつ何やらかしたんだ?藤野さんにめっちゃ嗅がれてるけど…」
「ほんとだ…しかも本人は気づいてないっぽい…」
「あー俺も藤野さんにあんなふうにくんかくんかされてえなー」
「やめろよ聞こえたら殺されるぞ…」

「うぐっ」
「来い」


「あ、持ってかれた」
「あーあ…いいなぁ…」

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33