連載小説
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秘密の始まり
 「x2をAに置き換えろ」
 「あ、はい……ええと、これは…」
 「それでただの二次方程式が出てくるな?それを因数分解すりゃいいだけだ」
 「あーっ…!そういうことですね…」
 しんとした、西日の差した放課後の教室。二人で勉強する一組の人魔。数学の問題集を前に悪戦苦闘する男子高校生の肩越しに、大きな魔物が解法を説いている。今やどこの高校にでもあるほほえましい光景だ。だがこのカップルには一つ、大きな秘密があった。それを知るには少し時を遡らねばならない。


 「アタシと付き合え」
 誰もいない放課後の教室に、無愛想な声が響いた。告白と言うには余りに感情のこもらない声色は、目の前に立つ大柄な魔物から放たれている。
 和樹には理解しがたい状況だった。目の前に立つのは藤野焔子(ほむらこ)。クラス一の美少女かつ校内一の不良であるマンティコアが、自分に告白しているのだ。クラス一目立たないと自負しているザ・モブ顔の自分に、である。
 「あの…ひ、人違いでは──」
 「ちげえよ」
 焔子は和樹の言葉を不機嫌そうに遮り、一歩詰め寄った。
 がちゃがちゃ。大量の釘が入った箱を振ったような音が彼女の背後から聞こえてくる。和樹は嫌な予感がした。
 「どうすんだ…付き合うか、それとも…」
 また一歩。緋色の瞳が和樹を冷たく射貫く。まだ小さかった頃近所の土佐犬に睨まれて動けなくなったことが妙に鮮烈に思い出された。
 「あ…いえ…その」
 さらに一歩。二人の間にはもう人一人も入れないだろう。微かに煙草の匂いがした。焔子の目つきは変わらず氷のように冷たい。断りでもしたら──。
 (殴られる…かも…)
 「あっ…つ、付き合います…付き合わせて、いただきます…」
 「もっとでけえ声で言え」
 「はぇ?」
 思わぬ一言に和樹は間の抜けた声を漏らした。焔子は舌打ちし、声を荒らげて言う。
 「早く言えよ。もっとでけえ声で…アタシと付き合いますってな…ほら早く」
 「は、はいっ、ほ…焔子さんと、付き合わせていただきますっ」


 「よし」
 満足げな呟きが聞こえた次の瞬間、焔子がものすごい勢いで近づいた──いや、和樹が無理矢理引っ張られたのだ。胸ぐらを掴まれたと気づくのに数秒かかった。何せ人生で誰かに胸ぐらを掴まれたことがない。
 それはさておき、間髪入れずに焔子が和樹に呟いたのは一転、残酷すぎる一言だった。
 「罰ゲームだよ、ばーか」









 それが、昨日のことだった。その後に続いたあまりにもあんまりな事のあらましを、和樹は未だに鮮明に思い出せる。
 「でけえ声出すなよ」
 小声に凄みを利かせて焔子は言った。
 「ダチがちゃんと10日間お前と付き合ってるか近くで見張ってんだよ…今、この瞬間もな。だがアタシはマジで好いてるなんてお前なんかに思われるのはごめんだね、虫酸が走る」
 焔子はにたりと笑って、和樹にしか聞こえないように囁く。余りにも屈辱的な言葉だった。
 「お前は罰ゲームだったなんて知らないフリしてアタシに10日間騙され続けろ…もしもダチにバレたら…わかってるな?」


 そう、余りにも屈辱的な言葉だった、筈だったのだが。
 「ほれ、ぼーっとすんな。次」
 「は、はい」
 悪くない、一日経ってそう思ってしまっている自分がいた。あのクラス一の憧れであり畏怖の対象でもある藤野焔子が、自分なんかと付き合っている──それが例え僅か10日間の芝居だとしても。しかも焔子はやたらと距離感が近い。恐らく「ちゃんと付き合っている」ということを見張り役の友人とやらに見せつけねばならないのだろう──未だにどこから見られているのかは全くわからないが。
 この勉強会でもそうだ。焔子が後ろから参考書を覗き込む度に、彼女の豊満な乳房が和樹の肩に押し当てられる。柔らかく温かい二つの肉は和樹の肩の上でむにゅむにゅと形を変え、隙間無く密着してくるのだ。男として見られてさえいない、そういうことなのだろうと和樹は納得しているが、正直そんなことはどうでも良かった。どう思われていようが和樹が男であるのは事実であり、そして魔物の扇情的な肉体に密着されて嬉しくない男はいない…と思う。まして童貞ならなおのこと。悪くない、どころか良い。喜ばしい。和樹の心臓は興奮で小鳥のように震え、いうまでもなく机の下の愚息は小さなテントを作っていた。
 (もう、役得ってことでいいんじゃないか?)
 そんなことを考えている自分がいる。
 (確かに罰ゲームだって言われたときは悔しかったけど…)
 焔子と付き合ったことのある人間がこの高校に、いやこの世に一体何人いようか?まして彼女の乳房の柔らかさを知っている人間は?そう思うと和樹の心からは悔しさややるせなさがすっと消え、代わりに醜い劣情やら浅ましい優越感やらで頭がいっぱいになってしまうのだった。
 「おい…なんだこれは」
 「はひっ」
 一瞬いきり立った愚息の存在がバレたのかと思ったが、違った。焔子の視線は変わらず机の上の問題集に落ちている。
 「なんでコレが解けてこっちが解けねえんだ…言ったはずだぞ、式の形の丸暗記はやめろって」
 焔子の背後でコウモリの翼がゆっくりと開き、サソリの尻尾がゆらりと揺れた。サソリにしては多すぎる大量の棘同士がぶつかり、がちゃがちゃと不気味な音を立て始める。
 「ひ…ご、ごめんなさ──」
 有無も言わさず尻尾が振り下ろされる。顔を守ろうと反射的に突き出した手に、鋭い痛みが走った。
 「いっ…!」
 恐る恐る右手を見やると、手の甲に一閃の切り傷があった。5センチ程の決して小さくはない傷だ。大きな血管はなかったようで、傷からはじんわりと血がしみ出してくる。
 「…は、ハンカチ…!」
 そもそも絆創膏など持っていないし、あったとしてあの小さなガーゼで覆える大きさの傷ではなかった。和樹はあたふたと左手でポケットを探る。
 「…ちっ…防ぎやがって…」
 気遣いの欠片もない気怠げな声が聞こえたが、間違っても焔子に抗議などはできない。左手でハンカチをポケットから引っ張り出して傷に押し当てようとした、その瞬間だった。
 「へ……な、な!?」
 ぱし、と右手が掴まれる。直後温かい吐息と、ぬるりとした感触が伝わった。
 「な…なに、を…」
 昔の貴族が手の甲に口づけをするような格好で、焔子が和樹の右手を舐めていた。手の甲の傷の部分を唾液まみれでぬるぬるの舌が何度も往復する。髪の毛や尻尾と同じ、臙脂色の舌だ。透明な唾液が手の甲からこぼれ落ち、糸を引いて机に垂れた。
 ぞくぞくとした快感が腕を伝って肩にまで響く。腕を引いて拒もうにも右手は大きな獣の両手でがっしりと押さえつけられて微動だにしない。それどころか突如始まった背徳的な「応急処置」に和樹の目は釘付けで、体も腰が抜けてしまったかのように動かなかった。
 永遠にも思えた甘美な時間もしばらくすると終わり、舌は唾液の糸を引いて手の甲から離れる。熱い吐息からも解放されてひんやりと冷え始めた手の甲を、寂しい──そう思ってしまう。焔子はふいと顔を上げ、相変わらず傲岸不遜な顔でこちらを睨んできた。少し上気しているように見えるのは…気のせいだろう。獣の手で口をぬぐい、焔子は呟く。
 「ほれ、治ったろ」
 「え……あ、ほんとだ…」
 見れば言われたとおり、右手の甲の傷は跡形もなく消えている。唾液でべとべとになっていることを除けば、すっかり元通りだった。しかし…頭は夢見心地のままぼんやりとしたままだし、心臓は早鐘のように打ったままで戻らない。和樹の呆けた視線は立ち上がった焔子のお腹の辺りをさまよって、ピントも定まらない有様だ。まさしく放心状態であった。
 「今日は終わりだ」
 焔子は唐突にそう告げ、自分のスクールバッグを持ち上げる。そのまま和樹にはもう一瞥もくれず、颯爽と教室を横切り…嵐が去るように、出て行った。
 結局その日は見回りの学年主任がやってくるまで、和樹は座ったままぼんやりと自分の右手を見つめていたのだった。
20/08/26 20:41更新 / キルシュ
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