猫と同心
広い部屋があった。板間の其処には無数の文机が並べられ、墨と紙の香りが充満している。大勢の男達が忙しく動き回り、和紙で作られた書類を整理、閲覧していた。
ふんだんに和紙が用いられた日本家屋の平屋、その一部であるこの部屋を徘徊するのは、月代を剃り、大のみの一刀差しを刺した武士の群れである。
彼等は同心と呼ばれる幕臣の一種であり、現代における警察の巡査にあたる治安維持組織の構成員であった。皆一様に地味な色の羽織袴を纏っており、中には忙しさから裾を捲っている者もいる。
そんな男共の中、部屋の隅で一人の男が眈々と調書をしたためていた。男の背は大して高くないが、身は引き締まり、如何にも武人といった雰囲気を纏わせているが……顔はそれに反し、実に穏やかなものだった。
低い団子鼻と薄く大きい唇。細く、僅かに垂れているせいで眠いようにも、笑っているように見える目。それらのせいでどうにも同心特有の堅さや、強さといったものは感じられない。むしろ、何処ぞの商店で番頭でもやっている方が似合っている風情である。
丁寧に結われた銀杏髷も、武士がするように前に伸ばすより、七分に曲げた商人のようにした方がずっと似合うだろう。
「よう、。そっちは終わったかい」
「栄介か。直に終わる」
折り目正しく正座し、書面を書く優しげな男に声を掛ける者があった。強面で背は見上げるような大男。同じく同心で、彼の同期の栄介であった。
「そろそろ巡察に出るか」
「そうだな」
対照的な両者は顔を合わせて示し合わせると、男は書面に走らせる筆を早め、栄介は自分が持っていた書面を書庫に仕舞いに向かう。
数分と経たぬ内に男は書面を仕立て上げ、それを書庫に仕舞い込み、巡察に出るため番札をひっくり返して面に出た。
紺足袋の上に雪駄を履き、刀の位置を直して外に出ると、そこには既に栄介が暇そうに待っていた。
「すまぬ、待たせた」
「うむ。では行くか」
二人は同心であるが、その中でも添物書という中堅所の役職であり、この奉行所においては古参組の人間であった。
そして、同心の勤めの一つとして一日一度の市中警邏を必ず行う事が含まれており、彼等はそれに出かけるのだ。
奉行所を出て、門前の大路をまわり、町に出る。其処には大路ほど広くはないが、無数の商店が建ち並び、活気のある通りが広がっていた。
此処、帝都の城下町は遙か遠くに城を望み、長く巨大な河を抱き、無数の家屋を抱えたこの極東最大の都市である。上下水と共用水場を備え、排泄場も設けられているため非常に衛生的で、活気に溢れていた。
丁寧に舗装された道を歩き、周囲を眺める。数多の商店が軒を連ね、前には目を楽しませる商品が幾つも並んでいる。そして、物売り共が忙しく道を駆け回りながら声を張り上げ、女子達が寄り合って楽しげに会話をする様は平和その物である。
「お、枝豆か……美味そうだな」
栄介が通り過ぎた物売りの一人を見て言った。大きな籠を抱え、そこに茹でた枝豆を束にして幾つも載せている。さっと茹でられ、塩で揉まれた枝豆はとても甘美で食欲をそそる香りを漂わせていた。
「ああ、夏だからな。季節物だしあれも良い」
晴れ渡った空には肥え太った入道雲が立ち上り、目も眩むような光を放ちつつ御天道様が全盛の熱気をこれでもかと言わんばかりに誇示する今は、正に夏の盛り。水無月の半ばの町は、人の熱気と太陽の熱で蒸されるような暑さであった。
「これで巡察中でなかったら是非とも摘みながら一杯やりたいもんだねぇ……」
「そうだな。終わってからな」
「はいはい、お堅いねぇ」
強面の男と柔面の男は並び立って歩き、市街の主な部分を廻り、小さな路地を覗いて誰ぞ無法を犯す者は居ないかと探す。が、どこも平和そのもので彼等が刃を抜き放つことはなく、二刻程で巡回を終えてしまった。
「やれ、平和で何よりだ」
「そうだな……捕り物が無くて有り難い物だ」
町を練り歩き、最後に奉行所に戻ってきた二人は先ほどの部屋に戻ると、自分の番板を取り上げ、懐に仕舞う。既に空は朱に染まる夕刻であるので、引き上げる時間なのだ。
今日は夜勤ではないので帰りは早い。既に常勤の同心は多くが引き上げており、夜勤組の者達が仕事に備えてやって来ている。特に夜は犯罪が起きやすいので彼等も気を研ぎ澄ませていた。
「さぁって……帰る前に一杯引っかけていくかい?」
「いや、私はほれ、あれだ」
「何だよ、付き合い悪いな……じゃあ、一人酒でもして帰えらぁ」
栄介はそう言うと城下の町へと手を振って消えていった。これから何処かで酒を煽り、気が向いたら遊郭にしけ込んでから帰るのだろう。まだ暮れ六(現在の午後六時)、しかも季節は夏なのでまだかなり明るいし、帰るのはきっと遅くなろう。
「まぁ、飲むのも良いが、家にはアレがいるしな」
笑っているのか困っているのか分かりづらい顔をして、栄吉は通りを進み、大路に出て城の付近へと向かった。
そこには同心や与力などに与えられる屋敷が建てられており、栄介もその一つを預かっているのだ。同心は下級武士とはいえ、立派な御家人であり、同心筆頭にまで出世すれば八十石五人扶持程度の俸禄は受けられる。これは地方領で一万石程度を預かる大名の重臣に値する俸禄であった。
赤々とした空の下を歩き、やがて一件の屋敷にたどり着いた。約百坪そこらの屋敷であり、現代からすれば広大であるが、当時では小振りな家だ。栄介は戸口を開け、中へ入った。
「ただいまっと……」
主を迎える声はない。使用人は昼にしかおらず、夜には帰しているので自然と誰も居なくなるのだ。流石に住み込みを何人も抱えられるほど良い俸給は貰っていないので、仮雇いにせざるを得ない。
土間で雪駄を脱ぎ、向きを正して奥にある自室に向かう。そこで平服に着替え、使用人が支度を済ませたであろう夕食を摂るのだ。
静かに廊下を進み、自室の前に立つと、そこから明かりが零れていた。行燈に火が入っているようである。
静かに明けると、そこには猫がいた。
否、猫のように見えるが、人の女である。
二等辺三角形の耳が頭頂の側頭部に近い位置に生え、臀部の合間より長い尻尾が伸びている。胸は大きく発達し、足はすらりと長い。この時代の極東に住む者とは大きくかけ離れた体型をしていた。
身に纏うのは上品な仕立てをした小紬。深い藍色のそれを丁寧に着こなし、控えめな帯を締めていた。
「ん? ああ、お帰り」
「ただいま」
女は男の部屋に我が物顔で居座っており、暇そうに針仕事をしていた。何やら手拭いに刺繍をしているようである。
「早かったな」
「昼行灯だからね。夜には消さないといけない」
女性は人ではあってもヒトではなかった。魔物と呼ばれる人類の亜種であり、遙か昔から人間の側で生きてきた種族である。かつては雄生体も存在したらしいが、現在は雌性体しか存在せず、ヒトとツガイになって繁殖する希有な生き物だ。
極東では魔物はヒトと寄り添って生きており、常に歴史の中に魔物が居た。この国の頂点、帝には“鬼”と婚姻を結んだ者でさえ居るくらいである。それ程に彼女たちはこの地域にとけ込んでいるのだ。
彼女はワーキャットと呼ばれる猫の形質を有した魔物だが、猫が先なのか魔物が先なのかは定かではない。耳や尾、肉球を要した手足は黒く柔らかな獣毛に覆われていた。
長く艶やかな黒髪は丹念に手入れされているようだが、この時代の娘のように笄髷は結っておらず、そのまま流している。つり上がった猫目は月のような美しさを有し、今は明るいので瞳孔は細く収縮していた。
「食事にするか?」
「ああ。今日は梭子魚らしいぞ」
「てことは干物か?」
「ああ」
尊大な口調の女は針仕事を続けながら言った。男の着替えを手伝う様子はない。羽織を脱ぎ、箪笥に仕舞い込むと男は台所に向かった。
この態度の大きい同居人が食事の用意などするわけがないことを知っているからだ。元から夕飯は自分で暖めて食べていたが、手間は二人分なので倍になっているが、気にすると負けだろう。
手狭な台所に火を焚き、みそ汁の入っている鍋を温める。炊かれてから時間があまり経っていないのか、釜の米はまだ温かかったので、そのまま櫃に全て放り込んだ。小さな櫃なので二人で食べれば直ぐに無くなるであろう。
戸棚には梭子魚の干物が二人分、焼いて上に埃が被らないように布を被せて仕舞われている。それを膳に乗せ、みそ汁が温まるのを待つ間に櫃を部屋に運んだ。
「おい、せめて自分の膳くらい運べ」
「……仕方のない奴だな」
「どっちがだ」
二人並んで台所に向かい、男が丁度良く暖まったみそ汁を椀に注いで膳に乗せてやると、女は早々に部屋へと戻っていった。
「……火の始末の間くらい待てんのか」
ぶつくさ言いながら上から灰をかけ、丁寧に火を消した。この国で火付けは死罪であり、偶然の出火であろうとも宮勤めの自分ならば即座に身分を剥奪され、最悪処断されるだろう。その法がある故に、この国の人間は皆火の扱いに神経質であった。
ようやっと膳を持って部屋に戻ると、女は既に櫃の三割程を片付け、何処からか持ち込んだ沢庵をバリバリやりながら干物を解体していた。耳と鼻をひくつかせながら干物を箸で弄ぶ様は、正に猫その物であった。
「頂きます」
男も対面に座って食事を片付けにかかる。まず口に含んだみそ汁からは、出汁の濃厚な旨味と、ネギの香りが滲み出しており、大変美味い物だった。女の椀にはネギは入っていない。猫の形質からネギ類は食べられないらしい。
味わっているようであって、男の食事をする速度は大変速い。武士は常に戦いに備えられるように幼い頃から早食いの習慣を教えられ、彼もまた素早く、かつ見苦しくないように食事を片付ける術を身につけていた。
先に食事を始めた女と、後から食べ始めた男が膳の上を綺麗に片付けたのは殆ど同じ頃であった。揃って箸を置き、食物と制作者への感謝を述べ、頭を下げた。
「ふぅ……食った食った」
手足を投げ出して寝転がる女。仰向けに転がってじたじたと手足を動かして、体を解している。
「行儀が悪いぞ」
「お前は猫に何を望んでいるんだ」
「郷に入っては郷に従えと言ってだな……」
「だから、猫に人の掟は通用せん。文句があるなら自分に言え」
そこまでいうと女は不敵に笑ってみせた。
「何せ、お前が私を拾ってきたのだからな」
「あれはお前が……」
「何を言うか。路肩で震える私を無理矢理家に連れ込んで、被服を剥がして……よよよ……」
「ええい! 人聞きの悪い事を言うな貴様っ!!」
一瞬男の手が柄に伸びかけるが、精神力で押さえ込んでそれは止まった。人相の良い顔を怒りに染めているが、あまり恐ろしくは見えない。真に恐ろしいのは、引き締められた体から放たれる剣気である。達人が放つ、殺気とは異なる鋭利な感覚。しかし、それを受けても女は何処吹く風と言わんばかりに艶を作って続けた。
「体に消えない傷を付けられて……」
「喧しい!」
あながち間違った事は言っていないので、男は手を出せなかった。が、間違っていないだけであって、真実ではない。
数年前のある日、男は露のある日夜勤を終えて屋敷へ帰ってきた。人気のない道を歩いていると、道ばたにふと、何かの影を見つけた。
近寄ってみると、影は暗がりに倒れている女だった。身を検めると襤褸を纏い、背には大きな刀傷が見受けられる。傷は新しい物で酷く深く、放っておけば半刻と経たずに女は死んでしまうだろう。
なので男は女を連れ帰り、背の傷を焼酎で消毒し、背の傷を縫ってやった。それが、この二人の出会いだ。
ただ傷を癒してやるだけのつもりだったのに女は家に居着き、離れようとはしない。本来なら蹴り出してもいいのだが、何故か男はそんな気分にならなかった。何だかんだ言いながら、この生活を結構気に入っている節があるのだ。
「……ヤメだヤメ。怒っても仕様がない」
男はどかっと腰を降ろし、諦めたように言って茶を啜る。その顔は歪んでいながらも、大して不快そうではなかった。
「仕方ないな」
そういうと女は四つん這いになり、男へと這い寄ってその膝の上に上半身を投げ出す。艶やかな黒髪が膝と畳に広がり、目がきらりと輝く。着物の合間より覗く鎖骨と、白い肌が嫌に目についた。無意識の内に、男の溜飲が下がる
「どうした? ほら……」
楽しそうに笑う女、喉が小さく鳴っていた。ワーキャット特有の愉快さを表す行為だ。
そっと手を差し伸べ、男の頬を撫でる。髭が短く伸び始めており、そこから顎下を伝い、首へ。そして、手は着物の袷へと伸びていく。挑発的な愛撫に、男は小さな溜息で応えた。
「まだ早くないか。食べたばかりだろうに」
「食欲を満たしたんだから次だ次」
「発憤する季節ではあるまいに……」
「人の形質も混ざってるからいいんだよ」
女は見上げたまま顔を降ろし、男も併せて顔を降ろし、互い違いのまま唇が重なった。幾度か啄むように接吻を交わし、どちらからともなく舌を差し出し、互いの口腔を愛撫する。行燈の明かりが仄かに照らす部屋に粘質な水音が木霊する。
「んんっ……。なぁ……もういいだろう……? 床へ行こう……」
悩ましげな声を上げ、女が言った。口の端から舌が僅かに零れ、唾液が滴り銀色の軌跡を描く。
「節操無しが……」
「応えてるアンタも言えた事じゃないぞ」
閨は部屋の隣にあり、襖を開けると既に丁寧に二つの布団が並べて敷かれていた。使用人はこの二人が“そういった”関係であることを重々承知している。
そのまま縺れるように布団へと倒れ込み、また口吸いを始める。今度は深く合わせながら互いの体をまさぐりあい、衣服を剥ぎ取るように脱がせていく。男はあっという間に素裸になり、女は帯を解かれて小紬の前を大きくはだけ、その下の薄い襦袢も袷を解かれている。
「脱がないのか?」
「羽織ってる方が淫靡だろう?」
悪戯っぽく笑う女に、男は応えず足を割って体を潜り込ませた。手で確認すると、女の秘所はしとどに濡れそばり、うっすらと生えた毛も雫を受けて湿っていた。指先を軽く潜り込ませて内部を探ると、既に充分過ぎる程そこは潤いを帯びていた。
荒く息を吐きながら、女が男の首を抱え込む。大きな胸に顔が埋められ……男はそれに逆らわず、体を倒して女の中に潜り込んだ。
「んうっ……あふ……おおき……」
男は女の最奥まで到達すると、一度止まって女の背に手を回す。女も抱きしめる力を強め、顔に押されてふくよかな胸が形を変える。
やがて、男は腰をゆっくりと動かし始め、女の口から快感の喘ぎがこぼれ落ちる。斜に構えていた態度は何処かへ消え失せ、恥も外聞も無く、口を大きく開け、目尻に涙を貯めて快楽の声を吐き出し続ける。男も、それに応えて腰の律動を早めた。
その内、女も同調するように腰を動かし始め、体がぶつかり合う破裂音に似たような音が鳴り響き、更に喘ぎは大きくなる。部屋中に響き渡る淫靡な音は止むことはなく、少しずつ大きさを増していく。
永遠に止まらないと思うような激しさであったが、終わりは唐突に訪れた。男がとどめと言うかのように腰を一際大きく引き、最後に一番奥まで勢いよく突き込んで……体を震わせた。達したのだ。最奥に叩きつけられる白い命の奔流を受け、女は背を大きく逸らして声にならぬ声を上げる。脇腹や腹筋が細かく痙攣し、深い絶頂に達している事がありありと分かった。
そして、二人は芯を失ったかのように倒れ込み、深い息を吐いて互いに抱き寄せあった。何か、自分に足りぬ物を相手に求めるかのように。
息が少し落ち着くと、男は少し顔を上げて女の顔を覗き込んだ。その表情は、どこか満ち足りたような印象を受ける物だった。
「もういいか?」
その問いを鼻で笑って、女は男を突き飛ばす。男は乱れた布団に転がり、入れ替わるように女がその上に立った。
「まだまだだ」
その日、男は女の中へ四度放ち、月が中天に達するまで行為が終わることはなかった…………。
翌朝、二人は使用人が用意した朝食を手早く片付け、男は仕事へと向かうべく着替えを済ませていた。きっちりと羽織袴を着込み、使用人から差し出される刀を差す。髷に歪みはなく、何処へ出ても恥ずかしくない事を確認させると、男は入り口へと向かった。
草履を履き、いざ行かんとしたその時、男を引き留める声がした。女だ。
「ほら、これ持って行け。暑いからな」
手渡されたのは一枚の手拭い。白染めの簡素なそれには、丁寧な刺繍で小さな丸まって眠る黒猫と、大きな三毛猫が描かれていた。
男はそれを暫く眺めて、女の顔へと視線を移し……常に笑っているような顔を、更に歪めて笑みを強くした。
「有り難く使わせて貰おう」
「ああ。じゃあ、気を付けて行ってこい」
「うむ」
一歩外に出ると、むっとした熱気が肌に伝わってくる。空は青く澄み渡り、雲は一つもない。
今日も暑くなりそうだ…………。
ふんだんに和紙が用いられた日本家屋の平屋、その一部であるこの部屋を徘徊するのは、月代を剃り、大のみの一刀差しを刺した武士の群れである。
彼等は同心と呼ばれる幕臣の一種であり、現代における警察の巡査にあたる治安維持組織の構成員であった。皆一様に地味な色の羽織袴を纏っており、中には忙しさから裾を捲っている者もいる。
そんな男共の中、部屋の隅で一人の男が眈々と調書をしたためていた。男の背は大して高くないが、身は引き締まり、如何にも武人といった雰囲気を纏わせているが……顔はそれに反し、実に穏やかなものだった。
低い団子鼻と薄く大きい唇。細く、僅かに垂れているせいで眠いようにも、笑っているように見える目。それらのせいでどうにも同心特有の堅さや、強さといったものは感じられない。むしろ、何処ぞの商店で番頭でもやっている方が似合っている風情である。
丁寧に結われた銀杏髷も、武士がするように前に伸ばすより、七分に曲げた商人のようにした方がずっと似合うだろう。
「よう、。そっちは終わったかい」
「栄介か。直に終わる」
折り目正しく正座し、書面を書く優しげな男に声を掛ける者があった。強面で背は見上げるような大男。同じく同心で、彼の同期の栄介であった。
「そろそろ巡察に出るか」
「そうだな」
対照的な両者は顔を合わせて示し合わせると、男は書面に走らせる筆を早め、栄介は自分が持っていた書面を書庫に仕舞いに向かう。
数分と経たぬ内に男は書面を仕立て上げ、それを書庫に仕舞い込み、巡察に出るため番札をひっくり返して面に出た。
紺足袋の上に雪駄を履き、刀の位置を直して外に出ると、そこには既に栄介が暇そうに待っていた。
「すまぬ、待たせた」
「うむ。では行くか」
二人は同心であるが、その中でも添物書という中堅所の役職であり、この奉行所においては古参組の人間であった。
そして、同心の勤めの一つとして一日一度の市中警邏を必ず行う事が含まれており、彼等はそれに出かけるのだ。
奉行所を出て、門前の大路をまわり、町に出る。其処には大路ほど広くはないが、無数の商店が建ち並び、活気のある通りが広がっていた。
此処、帝都の城下町は遙か遠くに城を望み、長く巨大な河を抱き、無数の家屋を抱えたこの極東最大の都市である。上下水と共用水場を備え、排泄場も設けられているため非常に衛生的で、活気に溢れていた。
丁寧に舗装された道を歩き、周囲を眺める。数多の商店が軒を連ね、前には目を楽しませる商品が幾つも並んでいる。そして、物売り共が忙しく道を駆け回りながら声を張り上げ、女子達が寄り合って楽しげに会話をする様は平和その物である。
「お、枝豆か……美味そうだな」
栄介が通り過ぎた物売りの一人を見て言った。大きな籠を抱え、そこに茹でた枝豆を束にして幾つも載せている。さっと茹でられ、塩で揉まれた枝豆はとても甘美で食欲をそそる香りを漂わせていた。
「ああ、夏だからな。季節物だしあれも良い」
晴れ渡った空には肥え太った入道雲が立ち上り、目も眩むような光を放ちつつ御天道様が全盛の熱気をこれでもかと言わんばかりに誇示する今は、正に夏の盛り。水無月の半ばの町は、人の熱気と太陽の熱で蒸されるような暑さであった。
「これで巡察中でなかったら是非とも摘みながら一杯やりたいもんだねぇ……」
「そうだな。終わってからな」
「はいはい、お堅いねぇ」
強面の男と柔面の男は並び立って歩き、市街の主な部分を廻り、小さな路地を覗いて誰ぞ無法を犯す者は居ないかと探す。が、どこも平和そのもので彼等が刃を抜き放つことはなく、二刻程で巡回を終えてしまった。
「やれ、平和で何よりだ」
「そうだな……捕り物が無くて有り難い物だ」
町を練り歩き、最後に奉行所に戻ってきた二人は先ほどの部屋に戻ると、自分の番板を取り上げ、懐に仕舞う。既に空は朱に染まる夕刻であるので、引き上げる時間なのだ。
今日は夜勤ではないので帰りは早い。既に常勤の同心は多くが引き上げており、夜勤組の者達が仕事に備えてやって来ている。特に夜は犯罪が起きやすいので彼等も気を研ぎ澄ませていた。
「さぁって……帰る前に一杯引っかけていくかい?」
「いや、私はほれ、あれだ」
「何だよ、付き合い悪いな……じゃあ、一人酒でもして帰えらぁ」
栄介はそう言うと城下の町へと手を振って消えていった。これから何処かで酒を煽り、気が向いたら遊郭にしけ込んでから帰るのだろう。まだ暮れ六(現在の午後六時)、しかも季節は夏なのでまだかなり明るいし、帰るのはきっと遅くなろう。
「まぁ、飲むのも良いが、家にはアレがいるしな」
笑っているのか困っているのか分かりづらい顔をして、栄吉は通りを進み、大路に出て城の付近へと向かった。
そこには同心や与力などに与えられる屋敷が建てられており、栄介もその一つを預かっているのだ。同心は下級武士とはいえ、立派な御家人であり、同心筆頭にまで出世すれば八十石五人扶持程度の俸禄は受けられる。これは地方領で一万石程度を預かる大名の重臣に値する俸禄であった。
赤々とした空の下を歩き、やがて一件の屋敷にたどり着いた。約百坪そこらの屋敷であり、現代からすれば広大であるが、当時では小振りな家だ。栄介は戸口を開け、中へ入った。
「ただいまっと……」
主を迎える声はない。使用人は昼にしかおらず、夜には帰しているので自然と誰も居なくなるのだ。流石に住み込みを何人も抱えられるほど良い俸給は貰っていないので、仮雇いにせざるを得ない。
土間で雪駄を脱ぎ、向きを正して奥にある自室に向かう。そこで平服に着替え、使用人が支度を済ませたであろう夕食を摂るのだ。
静かに廊下を進み、自室の前に立つと、そこから明かりが零れていた。行燈に火が入っているようである。
静かに明けると、そこには猫がいた。
否、猫のように見えるが、人の女である。
二等辺三角形の耳が頭頂の側頭部に近い位置に生え、臀部の合間より長い尻尾が伸びている。胸は大きく発達し、足はすらりと長い。この時代の極東に住む者とは大きくかけ離れた体型をしていた。
身に纏うのは上品な仕立てをした小紬。深い藍色のそれを丁寧に着こなし、控えめな帯を締めていた。
「ん? ああ、お帰り」
「ただいま」
女は男の部屋に我が物顔で居座っており、暇そうに針仕事をしていた。何やら手拭いに刺繍をしているようである。
「早かったな」
「昼行灯だからね。夜には消さないといけない」
女性は人ではあってもヒトではなかった。魔物と呼ばれる人類の亜種であり、遙か昔から人間の側で生きてきた種族である。かつては雄生体も存在したらしいが、現在は雌性体しか存在せず、ヒトとツガイになって繁殖する希有な生き物だ。
極東では魔物はヒトと寄り添って生きており、常に歴史の中に魔物が居た。この国の頂点、帝には“鬼”と婚姻を結んだ者でさえ居るくらいである。それ程に彼女たちはこの地域にとけ込んでいるのだ。
彼女はワーキャットと呼ばれる猫の形質を有した魔物だが、猫が先なのか魔物が先なのかは定かではない。耳や尾、肉球を要した手足は黒く柔らかな獣毛に覆われていた。
長く艶やかな黒髪は丹念に手入れされているようだが、この時代の娘のように笄髷は結っておらず、そのまま流している。つり上がった猫目は月のような美しさを有し、今は明るいので瞳孔は細く収縮していた。
「食事にするか?」
「ああ。今日は梭子魚らしいぞ」
「てことは干物か?」
「ああ」
尊大な口調の女は針仕事を続けながら言った。男の着替えを手伝う様子はない。羽織を脱ぎ、箪笥に仕舞い込むと男は台所に向かった。
この態度の大きい同居人が食事の用意などするわけがないことを知っているからだ。元から夕飯は自分で暖めて食べていたが、手間は二人分なので倍になっているが、気にすると負けだろう。
手狭な台所に火を焚き、みそ汁の入っている鍋を温める。炊かれてから時間があまり経っていないのか、釜の米はまだ温かかったので、そのまま櫃に全て放り込んだ。小さな櫃なので二人で食べれば直ぐに無くなるであろう。
戸棚には梭子魚の干物が二人分、焼いて上に埃が被らないように布を被せて仕舞われている。それを膳に乗せ、みそ汁が温まるのを待つ間に櫃を部屋に運んだ。
「おい、せめて自分の膳くらい運べ」
「……仕方のない奴だな」
「どっちがだ」
二人並んで台所に向かい、男が丁度良く暖まったみそ汁を椀に注いで膳に乗せてやると、女は早々に部屋へと戻っていった。
「……火の始末の間くらい待てんのか」
ぶつくさ言いながら上から灰をかけ、丁寧に火を消した。この国で火付けは死罪であり、偶然の出火であろうとも宮勤めの自分ならば即座に身分を剥奪され、最悪処断されるだろう。その法がある故に、この国の人間は皆火の扱いに神経質であった。
ようやっと膳を持って部屋に戻ると、女は既に櫃の三割程を片付け、何処からか持ち込んだ沢庵をバリバリやりながら干物を解体していた。耳と鼻をひくつかせながら干物を箸で弄ぶ様は、正に猫その物であった。
「頂きます」
男も対面に座って食事を片付けにかかる。まず口に含んだみそ汁からは、出汁の濃厚な旨味と、ネギの香りが滲み出しており、大変美味い物だった。女の椀にはネギは入っていない。猫の形質からネギ類は食べられないらしい。
味わっているようであって、男の食事をする速度は大変速い。武士は常に戦いに備えられるように幼い頃から早食いの習慣を教えられ、彼もまた素早く、かつ見苦しくないように食事を片付ける術を身につけていた。
先に食事を始めた女と、後から食べ始めた男が膳の上を綺麗に片付けたのは殆ど同じ頃であった。揃って箸を置き、食物と制作者への感謝を述べ、頭を下げた。
「ふぅ……食った食った」
手足を投げ出して寝転がる女。仰向けに転がってじたじたと手足を動かして、体を解している。
「行儀が悪いぞ」
「お前は猫に何を望んでいるんだ」
「郷に入っては郷に従えと言ってだな……」
「だから、猫に人の掟は通用せん。文句があるなら自分に言え」
そこまでいうと女は不敵に笑ってみせた。
「何せ、お前が私を拾ってきたのだからな」
「あれはお前が……」
「何を言うか。路肩で震える私を無理矢理家に連れ込んで、被服を剥がして……よよよ……」
「ええい! 人聞きの悪い事を言うな貴様っ!!」
一瞬男の手が柄に伸びかけるが、精神力で押さえ込んでそれは止まった。人相の良い顔を怒りに染めているが、あまり恐ろしくは見えない。真に恐ろしいのは、引き締められた体から放たれる剣気である。達人が放つ、殺気とは異なる鋭利な感覚。しかし、それを受けても女は何処吹く風と言わんばかりに艶を作って続けた。
「体に消えない傷を付けられて……」
「喧しい!」
あながち間違った事は言っていないので、男は手を出せなかった。が、間違っていないだけであって、真実ではない。
数年前のある日、男は露のある日夜勤を終えて屋敷へ帰ってきた。人気のない道を歩いていると、道ばたにふと、何かの影を見つけた。
近寄ってみると、影は暗がりに倒れている女だった。身を検めると襤褸を纏い、背には大きな刀傷が見受けられる。傷は新しい物で酷く深く、放っておけば半刻と経たずに女は死んでしまうだろう。
なので男は女を連れ帰り、背の傷を焼酎で消毒し、背の傷を縫ってやった。それが、この二人の出会いだ。
ただ傷を癒してやるだけのつもりだったのに女は家に居着き、離れようとはしない。本来なら蹴り出してもいいのだが、何故か男はそんな気分にならなかった。何だかんだ言いながら、この生活を結構気に入っている節があるのだ。
「……ヤメだヤメ。怒っても仕様がない」
男はどかっと腰を降ろし、諦めたように言って茶を啜る。その顔は歪んでいながらも、大して不快そうではなかった。
「仕方ないな」
そういうと女は四つん這いになり、男へと這い寄ってその膝の上に上半身を投げ出す。艶やかな黒髪が膝と畳に広がり、目がきらりと輝く。着物の合間より覗く鎖骨と、白い肌が嫌に目についた。無意識の内に、男の溜飲が下がる
「どうした? ほら……」
楽しそうに笑う女、喉が小さく鳴っていた。ワーキャット特有の愉快さを表す行為だ。
そっと手を差し伸べ、男の頬を撫でる。髭が短く伸び始めており、そこから顎下を伝い、首へ。そして、手は着物の袷へと伸びていく。挑発的な愛撫に、男は小さな溜息で応えた。
「まだ早くないか。食べたばかりだろうに」
「食欲を満たしたんだから次だ次」
「発憤する季節ではあるまいに……」
「人の形質も混ざってるからいいんだよ」
女は見上げたまま顔を降ろし、男も併せて顔を降ろし、互い違いのまま唇が重なった。幾度か啄むように接吻を交わし、どちらからともなく舌を差し出し、互いの口腔を愛撫する。行燈の明かりが仄かに照らす部屋に粘質な水音が木霊する。
「んんっ……。なぁ……もういいだろう……? 床へ行こう……」
悩ましげな声を上げ、女が言った。口の端から舌が僅かに零れ、唾液が滴り銀色の軌跡を描く。
「節操無しが……」
「応えてるアンタも言えた事じゃないぞ」
閨は部屋の隣にあり、襖を開けると既に丁寧に二つの布団が並べて敷かれていた。使用人はこの二人が“そういった”関係であることを重々承知している。
そのまま縺れるように布団へと倒れ込み、また口吸いを始める。今度は深く合わせながら互いの体をまさぐりあい、衣服を剥ぎ取るように脱がせていく。男はあっという間に素裸になり、女は帯を解かれて小紬の前を大きくはだけ、その下の薄い襦袢も袷を解かれている。
「脱がないのか?」
「羽織ってる方が淫靡だろう?」
悪戯っぽく笑う女に、男は応えず足を割って体を潜り込ませた。手で確認すると、女の秘所はしとどに濡れそばり、うっすらと生えた毛も雫を受けて湿っていた。指先を軽く潜り込ませて内部を探ると、既に充分過ぎる程そこは潤いを帯びていた。
荒く息を吐きながら、女が男の首を抱え込む。大きな胸に顔が埋められ……男はそれに逆らわず、体を倒して女の中に潜り込んだ。
「んうっ……あふ……おおき……」
男は女の最奥まで到達すると、一度止まって女の背に手を回す。女も抱きしめる力を強め、顔に押されてふくよかな胸が形を変える。
やがて、男は腰をゆっくりと動かし始め、女の口から快感の喘ぎがこぼれ落ちる。斜に構えていた態度は何処かへ消え失せ、恥も外聞も無く、口を大きく開け、目尻に涙を貯めて快楽の声を吐き出し続ける。男も、それに応えて腰の律動を早めた。
その内、女も同調するように腰を動かし始め、体がぶつかり合う破裂音に似たような音が鳴り響き、更に喘ぎは大きくなる。部屋中に響き渡る淫靡な音は止むことはなく、少しずつ大きさを増していく。
永遠に止まらないと思うような激しさであったが、終わりは唐突に訪れた。男がとどめと言うかのように腰を一際大きく引き、最後に一番奥まで勢いよく突き込んで……体を震わせた。達したのだ。最奥に叩きつけられる白い命の奔流を受け、女は背を大きく逸らして声にならぬ声を上げる。脇腹や腹筋が細かく痙攣し、深い絶頂に達している事がありありと分かった。
そして、二人は芯を失ったかのように倒れ込み、深い息を吐いて互いに抱き寄せあった。何か、自分に足りぬ物を相手に求めるかのように。
息が少し落ち着くと、男は少し顔を上げて女の顔を覗き込んだ。その表情は、どこか満ち足りたような印象を受ける物だった。
「もういいか?」
その問いを鼻で笑って、女は男を突き飛ばす。男は乱れた布団に転がり、入れ替わるように女がその上に立った。
「まだまだだ」
その日、男は女の中へ四度放ち、月が中天に達するまで行為が終わることはなかった…………。
翌朝、二人は使用人が用意した朝食を手早く片付け、男は仕事へと向かうべく着替えを済ませていた。きっちりと羽織袴を着込み、使用人から差し出される刀を差す。髷に歪みはなく、何処へ出ても恥ずかしくない事を確認させると、男は入り口へと向かった。
草履を履き、いざ行かんとしたその時、男を引き留める声がした。女だ。
「ほら、これ持って行け。暑いからな」
手渡されたのは一枚の手拭い。白染めの簡素なそれには、丁寧な刺繍で小さな丸まって眠る黒猫と、大きな三毛猫が描かれていた。
男はそれを暫く眺めて、女の顔へと視線を移し……常に笑っているような顔を、更に歪めて笑みを強くした。
「有り難く使わせて貰おう」
「ああ。じゃあ、気を付けて行ってこい」
「うむ」
一歩外に出ると、むっとした熱気が肌に伝わってくる。空は青く澄み渡り、雲は一つもない。
今日も暑くなりそうだ…………。
10/12/17 02:11更新 / 霧崎