3
男は狩人だった。理由は定かではない。ただ、彼は只管に孤独であった。
###
「成程、教団の司教が」
「へぇ、へぇ、なんでも少し『嫌な』手合いが来ちまったみたいでさぁ」
「魔物たちは?」
「皆どっかに行っちまいましたよ。匿った人間も罰せられるってモンだから、助けてやることも出来ねぇで。ホワイトホーンなんかが先導して山を越していったり何だり……、めっきり寂しくなっちまってねぇ」
顔なじみの革職人は、禿頭を撫でつけながらぼそぼそと語った。近頃は教団の権威も衰えたものだとアインザムは認識していたが、どうやらこの片田舎には数少ない例外が訪れていたらしい。曰く魔物の住民に追加で税を課したと。
遠い土地にとある聖職者が『買えば罪が許される』として紙の札を信徒に売ったという話を思い出す。確かそれも非難の的となり、権威の失墜を自ら招く結果になったのだったか。
「俺のところにも、一人魔物が来た」
「本当ですかい旦那、名前は何と?」
「オルニス、と名乗っていた」
「なんてこった……、あの子はね、例のホワイトホーンの一団と一緒に山を越える筈だったんでさ」
「あの豪雪だ、はぐれたのだろう」
「ああきっとそうだ。済まねえが旦那、冬の間だけでいい、あの子を匿ってやっちゃくれねぇですかい」
この辺りは冬になるといっとう雪深い、それこそホワイトホーンやイエティといった寒さに強く深雪をも踏み越えるタフネスを持った魔物でもなければ町の北に坐する山を越えるのは困難を極める。山で暮らして久しいアインザムですら、冬季は住処の周辺を巡回するのが精一杯だった。
「傷が癒えたらこちらに帰すつもりだったが……、そうもいかないようだな」
「冬を越えたら若い衆があちこちに助けを求めるつもりなんでさ、今はそのために旅道具なんかを揃えているところなんで、どうか、雪解けまでで良い」
「……分かった」
元より事情を聴いた時点で、彼は『そうする』つもりでいた。
幾ばくか多く渡された金貨を懐に仕舞いながら、普段よりも革の要求量が増えていたのもそういう事情かと、内心で合点する。
「あのキキーモラは責任を持って預かる」
「旦那……、すまねぇ、ありがとうなぁ」
「構わない」
「へへ、何とお礼を言えばいいんだか……ッと、いけねぇ旦那、例の司教だ、離れな」
革職人に促され、外套を羽織り直して路地へと踵を返す。物陰から覗き見た司教の姿は如何にも聖職者然として、しかしたっぷりとその腹を肥やした姿はアインザムにとって、魔物よりも魔物らしく見えた。
###
____という事がありまして、私は皆と山に入り……」
「はぐれた挙句に罠にかかって行き倒れていたと」
「は、はい……」
頭の天辺から包帯の巻かれた足先まで、余すところなくついと嘗めたアインザムの視線に、キキーモラは僅かに身を竦めた。
「……すまなかった」
「え?」
「事の顛末は麓で聞いている。貴女を疑るような真似をした事をした、申し訳ない」
「い、いえいえ!とんでもない……狩場に迷い込んだのは私の方ですし、それに、ええと……。と、とにかくっ、頭を上げてください!」
オルニスの言に従って姿勢を正したアインザムが、袖から幅広のナイフを取り出して懐に仕舞う。これには思わず彼女も青褪めた、つまりそれは、眼前の魔物が不審であればすぐさま喉に突き立てられていた代物なのだ。
キキーモラとは、主人に仕え奉仕することを悦びとする種族である。立ち振る舞いはもとより、感情の機微や気配を察知する能力にも長けている。そのオルニスをして察知出来なかった確かな加害の意思に、総身が震えあがるような思いであった。
「町の皆から雪解けの頃まで貴女を預かって欲しいと頼まれた。俺はそのつもりだ」
貴方はどうしたい。と狩人は尋ねる。相談のようで相談ではない。
「あ、ええと……、お願いします……」
当然オルニスに冬の山を降りる術など無く、彼女は一抹の不安を抱えたまま狩人の厄介になる他なかった。____とはいえ結果から言えば、オルニスの不安は全くの杞憂であったのだが。
アインザムは早朝に一日分の薪を割って暖炉の傍に置き、井戸水を含ませた布で身体を清め、罠の様子を見て回り帰ってくると、それ以降は簡単な掃除や洗濯と飯の煮炊き、そしてオルニスの面倒を見る以外には何もしなかった。一月も経てば怪我も快方へ向かい、脚の『慣らし』も兼ねて部屋の掃除を手伝わせる程度の家事を任されるようになり。
「アインザムさん、物置の掃除が済みましたよ」
「こちらも終わった。……飯にしよう」
「はいっ」
それから二週間もすれば、二人はすっかり奇妙な同居生活に適応し始めていた。力仕事や巡回、食料管理と炊事はアインザムが、掃除や洗濯、ベッドメイクの類はオルニスがという具合にどちらからとも無く分担し、生活を回す。
「悪い、客人に面倒事を任せるような真似を」
「寝食を提供して頂いているのは私の方ですよ?私に出来ることなら、全てお任せして頂いてもいいくらいです」
「それは流石に……」
炊いた押し麦と干し果物を口に運びながら、何でもない会話に花を咲かせるのも、今となっては慣れた光景となりつつあった。
「……仕事の振り分けはまた考えるとして、助かっているのは事実だ、手が空く時間が増えたし、前よりも服が柔らかい気がする」
「私、街では宿屋で働いていましたから、お洗濯は特に得意なんです」
「洗い方で変わるものか?」
「それはもう変わりますよ、今度教えて差し上げますね」
キキーモラの奉仕とは、仕える者の能力を最大限発揮出来るようにし、主人に安寧に満ちた生活を齎すものであるとされている。彼ら二人の生活においては、それは全くの事実だった。
家事を二人で分担する分、純粋に余暇の時間が増える。オルニスの言に偽りなく衣類のみならず寝具も柔らかく、休息の質も良くなった。休息が深くあればそれだけ仕事が捗り、また余暇が増える。敢えて乱雑な言葉で表すならば、『暇』である。
昼食後には弓の弦を張り替え、矢を整備し、ナイフと斧を研ぎいで柄紐を巻きなおす。有り余った時間の潰し方を、孤独だった狩人は知る由も無い。
「……」
それでも余った時間を、彼は客人の観察に費やすことにした。今は物置から引っ張り出してきた安楽椅子に腰かけて、持ち物に入っていたらしい毛糸を編んでいる、その姿。夕日を浴びて輝く落ち栗色の髪、毛糸を手繰る細指、細めた黄金色の眼、宿屋の娘らしい質素な衣服に覆われた、豊かな肢体。
「アインザムさん?」
つい、と金の視線が動く。不思議そうな、くすぐったがるような表情。
「気にするな、する事が無いだけだ。続けてくれていい」
「……それでしたら」
オルニスは少し悩むような仕草を見せてからややあって立ち上がると、古い革張りのソファ____アインザムのすぐ隣____に腰を下ろした。驚きに身じろいだ狩人の手をとり、毛糸玉を握らせる。
「少し、手伝ってくださいますか?」
「あ、ああ」
「少しずつ毛糸を解いて貰って、私が編みやすいように伸ばして頂いて」
「……こうでいいか」
「はい、そのままお願いします」
促されるままに毛糸を解きながら、オルニスを見下ろす。折れそうなほど細い首、せっせと動く繊手、胸程の高さにある髪から微かに漂う、麦わらの匂い。久しく感じた事の無い、或いはこの先感じる事も無いだろうと断じていた『熱』が、ふつふつと狩人の体内に湧いていく。それが、キキーモラという魔物が抱える性質だと彼は知る由も無かった。
或いは知っていても、『抑える』という判断は下していただろうが。麓の方から届く足音を聞き取ったのは、二重の意味で幸運だと言える。
「オルニス」
「はい?」
「物置に隠れていろ、大勢で誰か来る」
「……分かりました」
彼女が短いやり取りでアインザムに従ったのは、ひとえに従者としての性質か、生来の聡さ故か。毛糸を素早く巻き取って抱え、家の奥にぱたぱたと駆けていく。
その姿を見送ったアインザムがさも狩りに出る風を装って庭に立つのと、鎧の一団がその視界に映ったのはほぼ同時。銀色のそれは教団の衛兵に支給されるものだ。
「……止まれ、此処から先は俺の狩場だ」
憮然とした声に「貴様」と声を荒げかけた兵士を先頭の騎士が制する。如何にも実用一本の堅牢な装備に、使い込まれた諸刃の長剣。他と見比べるまでもなく隊長格なのだろう。フルフェイスの奥から静かな声が零れた。
「ゲームキーパー……いや、狩人か」
「如何にも」
「礼を失する真似をしたことは謝罪しよう。私はレガト、君は?」
「アインザム」
名を聞いて頷いたレガトが、庭を見渡して尋ねる。。
「単刀直入に聞こう、ここ暫く野山で魔物の類を見てはいないか」
「魔物、どのような?」
「どのようなものでもいい、雪角、淫魔、その他何でも、だ」
「……見てはいない」
「見て『は』いない、か」
「一月前、罠が壊れていたことがある。猪や鹿を相手にするための鉄製で、周りに血痕があった」
「ほう、それで?」
「それだけだ、後は何もない。罠が壊れること自体は時々ある、熊がやったか魔物がやったか、そこまでは見当がつかない」
この時期は特に雪がよく降るから。と肩を竦めてアインザムは締め括る。事実と嘘を半々にした、淀みの無い山伏問答だった。
「狩場を見に行っても?」
「その人数では無理だ、雪が崩れる」
「何人なら許容できる?」
「二人……いや、一人だ、数が増えると俺が面倒を見切れない」
そこまで問答を続けて、レガトは一つ息を零して兜を脱ぐ。アインザムと同じ年頃の若者の、精悍な顔が露わになる。寄った眉根や疲労の見え隠れする表情から、アインザムはどことなく彼の心境を察した。
「……突然押しかけおいて、済まないな。部下は下がらせよう」
そう言って騎士は副長らしき女性に手短に指示を出し、それに従って一隊は山道を引き返していく。素人目にもよく訓練された淀みの無い統率に思えたが、それはレガトと同様に疲れの滲む様子だった。
「……俺個人としては、君が魔物を見ていようがいまいが、どうでもいいのだがな」
「教団の騎士がそれを言うのか」
「淫蕩と退廃を戒めていても、個々人の思想までは主神様でも縛れまいよ」
凡そ兵士の一隊を束ねる男とは考えにくい物言いだったが、虚言を吐いている様子にも見えない。
「私の妹は7年前『から』サキュバスでね、先月レスカティエで式を上げた所だ」
「それは目出度い」
「副官にも魔物化の兆候が出ているのだが、今の所上手く性質と付き合っている」
「……それは大丈夫なのか?」
アインザムの問いに、レガトは今度こそくつくつ笑う。
「頭に羽を付けた男に心配されてもな」
「…………」
「キキーモラだろう、見ればわかる」
身構えて手斧に手を伸ばした狩人を手で制して、レガトは屈託なく笑みを深めた。
「突然押しかけて家にまで踏み入る程恥知らずではないつもりだ。『私は何も見ていないし、狩人にも不審な点は無かった、山に踏み入っての捜索は部下と麓町の安全を考慮して一旦保留とする』というだけの話さ」
「……意外だな、主神教の騎士と言えば、もっとこう……強硬なものだと」
「それは偏見だな。そういう者もいないとは言えないが、少なくとも私は違う。カエルは上手く抑えておくから、暫くは辛抱してくれ」
「カエル?」
「司教様の事だ」
「ふはッ」
そのあんまりな渾名に、今度はアインザムが笑う番だった。
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「成程、教団の司教が」
「へぇ、へぇ、なんでも少し『嫌な』手合いが来ちまったみたいでさぁ」
「魔物たちは?」
「皆どっかに行っちまいましたよ。匿った人間も罰せられるってモンだから、助けてやることも出来ねぇで。ホワイトホーンなんかが先導して山を越していったり何だり……、めっきり寂しくなっちまってねぇ」
顔なじみの革職人は、禿頭を撫でつけながらぼそぼそと語った。近頃は教団の権威も衰えたものだとアインザムは認識していたが、どうやらこの片田舎には数少ない例外が訪れていたらしい。曰く魔物の住民に追加で税を課したと。
遠い土地にとある聖職者が『買えば罪が許される』として紙の札を信徒に売ったという話を思い出す。確かそれも非難の的となり、権威の失墜を自ら招く結果になったのだったか。
「俺のところにも、一人魔物が来た」
「本当ですかい旦那、名前は何と?」
「オルニス、と名乗っていた」
「なんてこった……、あの子はね、例のホワイトホーンの一団と一緒に山を越える筈だったんでさ」
「あの豪雪だ、はぐれたのだろう」
「ああきっとそうだ。済まねえが旦那、冬の間だけでいい、あの子を匿ってやっちゃくれねぇですかい」
この辺りは冬になるといっとう雪深い、それこそホワイトホーンやイエティといった寒さに強く深雪をも踏み越えるタフネスを持った魔物でもなければ町の北に坐する山を越えるのは困難を極める。山で暮らして久しいアインザムですら、冬季は住処の周辺を巡回するのが精一杯だった。
「傷が癒えたらこちらに帰すつもりだったが……、そうもいかないようだな」
「冬を越えたら若い衆があちこちに助けを求めるつもりなんでさ、今はそのために旅道具なんかを揃えているところなんで、どうか、雪解けまでで良い」
「……分かった」
元より事情を聴いた時点で、彼は『そうする』つもりでいた。
幾ばくか多く渡された金貨を懐に仕舞いながら、普段よりも革の要求量が増えていたのもそういう事情かと、内心で合点する。
「あのキキーモラは責任を持って預かる」
「旦那……、すまねぇ、ありがとうなぁ」
「構わない」
「へへ、何とお礼を言えばいいんだか……ッと、いけねぇ旦那、例の司教だ、離れな」
革職人に促され、外套を羽織り直して路地へと踵を返す。物陰から覗き見た司教の姿は如何にも聖職者然として、しかしたっぷりとその腹を肥やした姿はアインザムにとって、魔物よりも魔物らしく見えた。
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____という事がありまして、私は皆と山に入り……」
「はぐれた挙句に罠にかかって行き倒れていたと」
「は、はい……」
頭の天辺から包帯の巻かれた足先まで、余すところなくついと嘗めたアインザムの視線に、キキーモラは僅かに身を竦めた。
「……すまなかった」
「え?」
「事の顛末は麓で聞いている。貴女を疑るような真似をした事をした、申し訳ない」
「い、いえいえ!とんでもない……狩場に迷い込んだのは私の方ですし、それに、ええと……。と、とにかくっ、頭を上げてください!」
オルニスの言に従って姿勢を正したアインザムが、袖から幅広のナイフを取り出して懐に仕舞う。これには思わず彼女も青褪めた、つまりそれは、眼前の魔物が不審であればすぐさま喉に突き立てられていた代物なのだ。
キキーモラとは、主人に仕え奉仕することを悦びとする種族である。立ち振る舞いはもとより、感情の機微や気配を察知する能力にも長けている。そのオルニスをして察知出来なかった確かな加害の意思に、総身が震えあがるような思いであった。
「町の皆から雪解けの頃まで貴女を預かって欲しいと頼まれた。俺はそのつもりだ」
貴方はどうしたい。と狩人は尋ねる。相談のようで相談ではない。
「あ、ええと……、お願いします……」
当然オルニスに冬の山を降りる術など無く、彼女は一抹の不安を抱えたまま狩人の厄介になる他なかった。____とはいえ結果から言えば、オルニスの不安は全くの杞憂であったのだが。
アインザムは早朝に一日分の薪を割って暖炉の傍に置き、井戸水を含ませた布で身体を清め、罠の様子を見て回り帰ってくると、それ以降は簡単な掃除や洗濯と飯の煮炊き、そしてオルニスの面倒を見る以外には何もしなかった。一月も経てば怪我も快方へ向かい、脚の『慣らし』も兼ねて部屋の掃除を手伝わせる程度の家事を任されるようになり。
「アインザムさん、物置の掃除が済みましたよ」
「こちらも終わった。……飯にしよう」
「はいっ」
それから二週間もすれば、二人はすっかり奇妙な同居生活に適応し始めていた。力仕事や巡回、食料管理と炊事はアインザムが、掃除や洗濯、ベッドメイクの類はオルニスがという具合にどちらからとも無く分担し、生活を回す。
「悪い、客人に面倒事を任せるような真似を」
「寝食を提供して頂いているのは私の方ですよ?私に出来ることなら、全てお任せして頂いてもいいくらいです」
「それは流石に……」
炊いた押し麦と干し果物を口に運びながら、何でもない会話に花を咲かせるのも、今となっては慣れた光景となりつつあった。
「……仕事の振り分けはまた考えるとして、助かっているのは事実だ、手が空く時間が増えたし、前よりも服が柔らかい気がする」
「私、街では宿屋で働いていましたから、お洗濯は特に得意なんです」
「洗い方で変わるものか?」
「それはもう変わりますよ、今度教えて差し上げますね」
キキーモラの奉仕とは、仕える者の能力を最大限発揮出来るようにし、主人に安寧に満ちた生活を齎すものであるとされている。彼ら二人の生活においては、それは全くの事実だった。
家事を二人で分担する分、純粋に余暇の時間が増える。オルニスの言に偽りなく衣類のみならず寝具も柔らかく、休息の質も良くなった。休息が深くあればそれだけ仕事が捗り、また余暇が増える。敢えて乱雑な言葉で表すならば、『暇』である。
昼食後には弓の弦を張り替え、矢を整備し、ナイフと斧を研ぎいで柄紐を巻きなおす。有り余った時間の潰し方を、孤独だった狩人は知る由も無い。
「……」
それでも余った時間を、彼は客人の観察に費やすことにした。今は物置から引っ張り出してきた安楽椅子に腰かけて、持ち物に入っていたらしい毛糸を編んでいる、その姿。夕日を浴びて輝く落ち栗色の髪、毛糸を手繰る細指、細めた黄金色の眼、宿屋の娘らしい質素な衣服に覆われた、豊かな肢体。
「アインザムさん?」
つい、と金の視線が動く。不思議そうな、くすぐったがるような表情。
「気にするな、する事が無いだけだ。続けてくれていい」
「……それでしたら」
オルニスは少し悩むような仕草を見せてからややあって立ち上がると、古い革張りのソファ____アインザムのすぐ隣____に腰を下ろした。驚きに身じろいだ狩人の手をとり、毛糸玉を握らせる。
「少し、手伝ってくださいますか?」
「あ、ああ」
「少しずつ毛糸を解いて貰って、私が編みやすいように伸ばして頂いて」
「……こうでいいか」
「はい、そのままお願いします」
促されるままに毛糸を解きながら、オルニスを見下ろす。折れそうなほど細い首、せっせと動く繊手、胸程の高さにある髪から微かに漂う、麦わらの匂い。久しく感じた事の無い、或いはこの先感じる事も無いだろうと断じていた『熱』が、ふつふつと狩人の体内に湧いていく。それが、キキーモラという魔物が抱える性質だと彼は知る由も無かった。
或いは知っていても、『抑える』という判断は下していただろうが。麓の方から届く足音を聞き取ったのは、二重の意味で幸運だと言える。
「オルニス」
「はい?」
「物置に隠れていろ、大勢で誰か来る」
「……分かりました」
彼女が短いやり取りでアインザムに従ったのは、ひとえに従者としての性質か、生来の聡さ故か。毛糸を素早く巻き取って抱え、家の奥にぱたぱたと駆けていく。
その姿を見送ったアインザムがさも狩りに出る風を装って庭に立つのと、鎧の一団がその視界に映ったのはほぼ同時。銀色のそれは教団の衛兵に支給されるものだ。
「……止まれ、此処から先は俺の狩場だ」
憮然とした声に「貴様」と声を荒げかけた兵士を先頭の騎士が制する。如何にも実用一本の堅牢な装備に、使い込まれた諸刃の長剣。他と見比べるまでもなく隊長格なのだろう。フルフェイスの奥から静かな声が零れた。
「ゲームキーパー……いや、狩人か」
「如何にも」
「礼を失する真似をしたことは謝罪しよう。私はレガト、君は?」
「アインザム」
名を聞いて頷いたレガトが、庭を見渡して尋ねる。。
「単刀直入に聞こう、ここ暫く野山で魔物の類を見てはいないか」
「魔物、どのような?」
「どのようなものでもいい、雪角、淫魔、その他何でも、だ」
「……見てはいない」
「見て『は』いない、か」
「一月前、罠が壊れていたことがある。猪や鹿を相手にするための鉄製で、周りに血痕があった」
「ほう、それで?」
「それだけだ、後は何もない。罠が壊れること自体は時々ある、熊がやったか魔物がやったか、そこまでは見当がつかない」
この時期は特に雪がよく降るから。と肩を竦めてアインザムは締め括る。事実と嘘を半々にした、淀みの無い山伏問答だった。
「狩場を見に行っても?」
「その人数では無理だ、雪が崩れる」
「何人なら許容できる?」
「二人……いや、一人だ、数が増えると俺が面倒を見切れない」
そこまで問答を続けて、レガトは一つ息を零して兜を脱ぐ。アインザムと同じ年頃の若者の、精悍な顔が露わになる。寄った眉根や疲労の見え隠れする表情から、アインザムはどことなく彼の心境を察した。
「……突然押しかけおいて、済まないな。部下は下がらせよう」
そう言って騎士は副長らしき女性に手短に指示を出し、それに従って一隊は山道を引き返していく。素人目にもよく訓練された淀みの無い統率に思えたが、それはレガトと同様に疲れの滲む様子だった。
「……俺個人としては、君が魔物を見ていようがいまいが、どうでもいいのだがな」
「教団の騎士がそれを言うのか」
「淫蕩と退廃を戒めていても、個々人の思想までは主神様でも縛れまいよ」
凡そ兵士の一隊を束ねる男とは考えにくい物言いだったが、虚言を吐いている様子にも見えない。
「私の妹は7年前『から』サキュバスでね、先月レスカティエで式を上げた所だ」
「それは目出度い」
「副官にも魔物化の兆候が出ているのだが、今の所上手く性質と付き合っている」
「……それは大丈夫なのか?」
アインザムの問いに、レガトは今度こそくつくつ笑う。
「頭に羽を付けた男に心配されてもな」
「…………」
「キキーモラだろう、見ればわかる」
身構えて手斧に手を伸ばした狩人を手で制して、レガトは屈託なく笑みを深めた。
「突然押しかけて家にまで踏み入る程恥知らずではないつもりだ。『私は何も見ていないし、狩人にも不審な点は無かった、山に踏み入っての捜索は部下と麓町の安全を考慮して一旦保留とする』というだけの話さ」
「……意外だな、主神教の騎士と言えば、もっとこう……強硬なものだと」
「それは偏見だな。そういう者もいないとは言えないが、少なくとも私は違う。カエルは上手く抑えておくから、暫くは辛抱してくれ」
「カエル?」
「司教様の事だ」
「ふはッ」
そのあんまりな渾名に、今度はアインザムが笑う番だった。
23/10/02 14:43更新 / Gネック
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