一話
学校帰りの友人との軽い挨拶。
メールの打ち切りに使われる恋人に向けた文面。
夜寝る前に交わされる親子の会話。
さよなら。
また明日、愛しているよ。
お休みなさい。
日常の中、溶け込んでいるそれらはどんな瞬間からも顔を覗かせる。
普段意識もしない『別れの挨拶』が溢れているにも関わらず、何故『別れが急なもの』と言われるのか。
勝手ながら、思うにそれは『覚悟が出来ていない時のもの』だからではないと自分は思うのだ。
持ち堪える。
受け入れる。
受け流す。
時間されあれば、人間はどんな準備だって出来る。
準備さえ出来れば、人間はおおよそどういった事態にも耐えられる。
耐えられるから明日を生きられる。
だから俺は――――
「そのご予算ですと、こちらの物件は如何でしょう?少し公共の交通機関からは離れてしまいますが、即日入居可能です」
――――絶賛、新居を模索中である。
事の始まりは至って唐突。
姉貴が魔物娘化してきたのだ。
姉貴は高校を卒業した後家計を助ける為、早々に就職をした。
本人曰く『どこにでもある取り立てて特徴のない会社に就職して失敗した』と言っていたが、『残業がなくても充分な給料が貰えるのが唯一の救い』とも言っていた。
普段と変わらぬ出社風景を見送って、帰ってきた後俺が見たのは夕飯のおかずを並べている心持ち若返っている母親と見知らぬ幼女であった。
「家間違えました」
思わず閉めてしまった後、数秒天井を仰ぎ表札を確認すると『大島』という字が書いている。
矢張り自宅で間違いない。
意を決して再度帰宅した俺を待ち構えていたのは、苦笑いを浮かべる母親と意地悪くニヤついている幼女であった。
普段と違う異様な光景に戸惑いつつも夕飯の席につくと、姉貴の席に当然のように座っている幼女が矢張り当然のように夕飯を突きながら甲高い声で語り出した。
曰く、幼女は姉貴――――大島 理香子(おおしま りかこ)本人であり取引先の営業担当からマッサージ店の割引券を貰ったので行ってみたら色々縮んでしまったらしい。
仕掛け人宜しく、姉貴同様にかなり縮んだその取引先の営業担当が『幼女化大成功!!』というプラカードを持って登場した彼女の顔を見た姉貴は、『その時は許すしかねぇわと思った』と語っていた。
大人状態だった営業の時とはうって変わって、悪戯が成功した時の子供独特のとても良い笑顔で現れた時は『嵌められた』というよりは『してやられた』という感情が強かったそうな。
彼女が渡した割引券は一時的に魔物娘化する【一日魔物体験コース】という内容らしく、本来心も体も無気力で疲れきった人々が、一時的とはいえ正に生まれ変わるお試しコースだ、と姉貴から説明をされた。
姉貴自身は心外だ、と言わんばかりの表情だったがこの時ほど鏡を見ろと思った事はない。
本人は誤魔化せているつもりだったのだろうが、目の奥が濁って生気も薄く声を掛けても上の空だった事も多くなった。
話を聞く限り、その取引先の営業は魔物だったのだろう。
見るに見兼ねて世話を焼いた、というところだろうか。
「一時的に、とはいえ生まれ変わったんだろ?どんな気分だ?」
「いや最高だわ。肩凝らないし腰痛くないし。……背が低いのは難点だけど」
元から薄かった胸を張りながら、姉貴がドヤ顔で答える。
ちなみに現在は座った時の足りない座高を補うべく、椅子にクッションを二つ重ねで敷いて座っていた。
それにしても見事に縮んだものだと感心する。
「それはそうと、よく姉貴に合う服があったよな。買ってきたのか?」
「小さい頃の服よ。アンタの分も取ってあるけど、見てみる?」
「物持ち良すぎだろ、オイ……」
横目に見ると、俺達のやり取りを微笑ましく見守る俺達の母親、大島 まゆ(おおしま まゆ)が懐かしそうにこちらを眺めていた。
…………そういや、なんで母さんまで若返ってんだ?
「なぁ姉貴、ちょっといいか?」
「んー?何、悪いけど筆下ろしはしないよ?こう見えて彼氏持ちだし」
「違ぇよ!というか彼氏居たのかよ初耳だぞ!?」
まぁ言ってないし、と浅漬けを口に放り込んで適当に答える合法ロリ。
腑抜けた顔でバリボリ噛み砕く様は、真面目に返答する気ゼロである。
「そうじゃなくてっ!姉貴が魔物化すんのはまだいいが、母さんに何したんだよ?というか明らかに何かしたろ……まさか」
「うんまぁ」
葱と豆腐だけのシンプルな味噌汁を少量啜ると、一息吐いて姉は口を開く。
「母さん、魔物化させちった♥」
「なにやっとんじゃオノレはあああぁぁぁぁぁっ!!」
『魔物娘』という存在が、この世界に来た当初は色々な意味でやりたい放題であった。
彼女達は基本的に人間の生命が脅かされる行為を一切行わないが、困った行為があったのだ。
自身の近似、あるいは全く別種への人体の再構築。
即ち――――魔物化である。
想像して欲しい。
ある日突然知人友人が見違えるくらいに自信に溢れる姿になっていたら?
親戚や身内が血の繋がりを疑いたくなるくらいに整った顔立ちになっていたら?
自分の恋人や妻が普段と比べ物にならないくらい愛らしく、艶かしくなっていたら?
そしてその全てが――自分に向かって苛烈ともいえる肉欲を向けてきたら。
ある会社では社員の無断欠勤が続発した。
ある学校では生徒が休み時間から数日間行方不明になる事件が起きた。
ある家屋からは近隣の住民から通報を受けて以来、姿を消した警察官の姿が発見された。
自称有識者はこの行為を『侵略行為だ』『人類への宣戦布告だ』と吠え立てる。
彼女達に詳しいという肩書きを付けた論者は『彼女達なりの少子化対策だ』『文化の違いだ』と言を返す。
魔物娘に嫌悪を持つ者は彼女達を『人類に取って代わる為に地獄から現れた全人類の敵対者』と罵り、逆の感情を持つ者は『資源的に行き詰った人類への天の救済』と褒め称えた。
喧々轟々。この議論は収束に向かってはいるものの、未だに飽く事無く続けられている。
誤解のないように断っておくが、彼女達の人類への言動は全て善意から来るものである。
彼女達にしてみれば、ただ『自分に素直に生きられるように彼女達なりに手助けをした』だけなのだ。
この風評に一番困惑したとすれば、それは彼女達に関わった人類側ではなく原因に対して何にでも理由やこじ付けをしたがる人類に関わってしまった彼女達の方であろう。
迷惑と取られていないのを祈るばかりである。
彼女達も勝手の違う新天地の人類との接し方を考えた結果、各国で高位の魔物娘を交えたある原則が結ばれる事となる。
人魔条約原則:いかなる理由を以ってしても、合意無く魔物化する行為の一切を禁じる。
抜け道のある原則だが、今日日『自由意志で魔物娘化する』事は別段禁じられていない。
合意無く行った場合、行ったのが魔物娘なら変化させた種族に見合った触手攻めや快楽攻めとなるが、人間が行った場合は変化させた種族に対しての『社会奉仕』が課せられる。
もし今回姉貴が行った魔物化が本人の意思を無視したものであれば、身内から前科者が出てしまう。
「いやさ、あたしってば一日体験コースを受けたじゃない?『こりゃいいわー、もう一生このままでいいかも知らんね』って言っちゃった訳よ」
俺の怒号と叩きつけられた両掌で少しずれてしまった食器の位置を気にしながら、姉貴は話し始めた。
「で、さ。そのポロっと言っちゃった台詞を耳聡ーく聞きつけた方がいらっしゃった訳ですよ。『オッホッホ。そんなら一丁、幼女生活満喫せんかの?』ってな感じで」
その人物の物真似だろう。
イントネーションを似せて語られた台詞はかなり飄々としたものだった。
「え、誰このチビッ子とか思ってたら急にあたしの下っ腹に手を当ててきて。マッサージの時とは比較にならないくらい熱いのがそこから流れてきてさー」
『この辺ね、この辺』と椅子の上に立って服を捲り上げる姉貴。
……幼女にしては滑らかな曲線を描く白い腹と、フリーサイズなのだろう。その下の似合ってない簡素な灰色の下着に一瞬目を奪われたのが悔しい。
姉貴はこちらを見てニヤニヤ笑っていたが、母に行儀を注意されて渋々椅子に座った。
「ま、そんな訳で――」
姉貴が体重を椅子の背もたれに預けると同時に、厚布を割くような音としたかと思うと姉貴の頭から何かが現れた。
角だ。
捻じ曲がった角が弧を描きながら伸びてくる。
「この通り、晴れて【バフォメット】になった訳なんだけどね」
腕はふさふさした獣毛に覆われ、肉球となった指の先に付いている鋭い爪をこちらに指差さしながら姉貴は踏ん反り返っている。
「あたしとしてはもう少し『せくしー』な方が良かったんだけどねー?あのチビ山羊、あたしをお仲間にする為にわざわざ幼女化させがったわ。……まぁ、なんでも開発寄りの会社らしいから前の会社よりは色々楽しめそうだけどさー」
「それってまさか……」
ヘッドハンティングという奴だろうか?
脳裏にその言葉が過ぎったが、内心頭を振る。
理由が無い。
身内の謙遜じゃないが、姉貴は外面だけが良くて家の中じゃ俺限定で相当偉そうなだけなのだ。
外じゃ平々凡々な一般人が、何でヘッドハンティングなんて受けているのか全く理解出来ない。
「でも未だに分かんないんだよねー。『こやつ、磨けば光るぞい。青田買いゲットじゃぜ!』とか言われたけど。あたしの何が良かったのかね?」
本人も全く理解していなかったようである。
首を傾げる姉弟に今まで碌に会話に参加していなった母さんが参入した。
「そういえば理香子、小さい頃は随分弟を引っ張り回してたわね。今の会社に勤めてからはそんな素振りが一切無くなったけど、多分その勢いを見抜かれたんじゃないかしら?」
何歳頃の話よー、と姉貴は言うが内心納得した。
俺の記憶が確かなら、姉貴が丁度今くらいの10か12位の年齢まで大分振り回されたのだ。
その暴君っぷりは歳を重ねる毎に鳴りを潜めていったものの、三つ子の魂百までとも言う。
表に出なくなっただけで奥底に溜まっていたそれを、姉貴を魔物娘化した奴は見抜いたのだろう。
親切な誰かさんは何かの理由でそれが必要だったから、手っ取り早く自分と同じようにしたと。
そこまでを想像して、俺は核心部分に触れる。
「姉貴が魔物化した経緯は分かった。じゃあ母さんが変わった理由は何なんだ?」
三人で暮らしていた間母さんが何か不満を漏らす事は数える程しか記憶していない。
今となっては恥ずかしい話だが、もしかしたら自分の与り知らぬところで人生を変えたくなるような事があったのかもしれない。
親とはいえ家族の変化に気付けなかった自分の落ち度は、せめて聞いておきたかった。
「お母さんね……付き合ってる人が居るの」
「それは予想外だったかなっ!?」
つい椅子を蹴って立ち上がってしまった。
突然の自分の驚いた声に反応して、母さんはビクリと震える。
その様子に思わず冷静になった頭に、姉貴の非難が被さった。
「……そんな驚くことでもないでしょー?母さんだってまだまだ女盛りなんだし、彼氏の一人も居て当然じゃない」
当然の事を言わせるな、という呆れた表情を乗せて姉貴が突っ込んでくる。
確かにそうかもしれないが、自分はそろそろ成人しようかというところだ。
母親の交友関係を一々気に掛けるような年齢ではないが、だからと言って突然義父が出来るかもしれないと聞かされては驚くなという方が無理な話だ。
「――――いつ頃から?」
団欒時にされた予想外のカミングアウトから何とか立ち直りつつ、先を聞いてみる。
「半年くらい前からよ……。相手の方はお母さんより10歳くらい上の人。勤めてる旅館のお客様だったの」
初めは何かの冗談と思ったそうだ。
だが相手が本気だと分かって徐々に付き合いを深めていき、現在も交際を続けてる。
今年の夏頃には入籍する予定だったそうだ。
……もう、二ヶ月なかったじゃないか。
しかし、それでは魔物娘化した理由が分からず終いだ。
「母さんは、何で魔物化したんだ……?」
呟いた疑問を耳聡く拾ったのか、姉貴は代わりに答えてきた。
「アンタねー、分かんない?好きな男との結婚前に、少しでも綺麗になりたい乙女心って奴がさ」
「そ、そうか。そうなんだ」
危うく『乙女?母さんが?年齢的にないだろ』と言いかけたが寸ででブレーキが踏めた。
流石に地雷原の上を駆け抜けて、無事に突破出来る自信が俺には無い。
「そういや母さんが結婚するんだったら、今住んでる部屋はどうするんだ?」
「それなんだけどね」
「あたし達、引っ越すから。アンタも荷物纏めなさいよ」
「…………はい?」
姉貴の唐突過ぎる発言に、たっぷり数十秒時間が流れた後何とか二文字の疑問系を搾り出す。
「母さんは結婚相手のところへゴールイン。あたしは――――」
どのように音を出したのか。
柔らかそうな肉球となった指をパチンと鳴らすと、姉貴の部屋から眩い光が一瞬煌いた。
「――――彼氏の部屋へ私物転送完了、と。この部屋も後一ヶ月で解約しちゃうから。早いとこ新居、決めちゃいなさいよ?」
「えっと……ゴメンね?早い方が良いって理香子ちゃんに言われちゃったから……。居られるのが来月末までだから、お母さんも理香子ちゃんも一緒に真(まこと)ちゃんの新しいお家探すから、頑張ろうね?」
状況はいつの間にか詰まされていた。
理解は出来ても思考は追いつかない。
だが思考は追いつかなくても、やらねば俺は住所不定である。
十数年生きた自分の人生の中できっと三指に入るであろう理不尽に、俺は納得出来ないまま頷くしかなかった。
14/08/03 20:06更新 / 十目一八
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