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緑豊かな林の中。そこに小さな影があった。
人間の少女のようでありながら、両手両足は白い鳥のよう、トカゲを思わせる鱗に覆われた尾と頭頂部から伸びる赤い鶏冠を持った、「コカトリス」という魔物であった。
彼女は木の後ろから顔だけを出し、葉と葉の隙間から一点を見つめている。
視線の先には、自然溢れるこの地域には全く場違いな物が存在していた。
壁。灰色の石でできた、巨大な壁。
周囲にあるどの木よりも、今まで自分が見てきたどの建物よりも高いであろうその壁は、崖そのものを持ってきたかのようにそびえ立ち、それが左右にどこまでも続いている。
壁の上には黒い棒と箱を並べたようなものが等間隔に鎮座し、近くに小屋もある。
彼女がこれを見るのは、初めてではない。
小屋から何かが出てきた。
「あ…っ!」
彼女はそれを見た瞬間頭を引っ込めてしまった。
「み、見つかったかな…どうしよ、どうしよ……!」
元々臆病な種族であるコカトリスではあったが、ただの黒い点にしか見えないほど遠くにある「何か」を恐れるのにも理由があった。
壁の向こうには、悪魔がいる。
人間の姿をし、見た事もない杖と怪物を操る、冷酷で残忍な悪魔が。
7年ほど前、壁の向こうの、更に海を越えた所に突然大陸が現れた。
そこにいた人間達は海を越えて自分達のいる大陸にやって来ると、当時まだ手付かずの土地であった南東部に住み始めた。
その頃大陸では南西部を治める魔物領と北側を支配する教団領に分かれており、南東部を巡って睨み合いをしている状態だった。
人間の殆どは教団領におり、魔物領は慢性的に人間、特に男が不足していた。
魔物「娘」とある通り、魔物は皆女性であり、番う事ができるのは人間の男のみ。しかし人間と番っても生まれる子供は魔物娘だけ。魔物娘だけが増え、人間が増えないのなら、増えた分の魔物娘は必然的にあぶれる。
男女比はどんどん開いていき、男の確保は海を渡ってくる人間か度々攻めてくる教団領の兵士を攫う以外に方法がなく、それでは焼け石に水であった。
男の精を食料とし、性行為を何よりも好む魔物娘。それが得られず色々な意味で飢えていた彼女達にとって、突然やってきた人間の集団は恵みの雨に等しく、それに目をつけるのも当然だった。
ただちに交流を持つための準備が行われた。
目が良かったり、魔法で姿を消す事ができる魔物娘を派遣して情報収集を行わせると、分かった事があった。
彼らはこの世界の人間と変わらず、道具を使って建物を作り、集落を形成する。文字は違うが喋っている言葉も自分達が使っているものと同じ。
そしてこの世界の人間との決定的な違いがあった。
魔力を持っていない事である。誰一人として。
魔法を使っている様子が全く見受けられず、黒い杖のような物を持った兵士らしき個体はちらほらいたが、槍や剣を持っている者はいなかった。
料理に使うようなナイフか地面を掘るシャベルぐらいしか、刃物と呼べる物がなかった。
その情報が入り、領内の魔物娘、それも「過激派」と呼ばれる者達は勢いづいた。
これ以上手間と時間をかけて話し合いの準備をするより、力ずくで自分のものにしてしまった方が手っ取り早いと。
抵抗はされるだろうが相手は人間。脅威になり得る魔法も武器もない事が分かっているなら、性行為に持ち込むのは簡単だしそうすれば最終的には相手も幸せになる。
彼女達の行動は早かった。領内にいる仲間や飢えた魔物娘を取り込み、何千もの集団が南東部へとなだれ込んでいった。
話し合いでの融和を目指す魔物領指導者の静止も振り切って。それほど彼女達は飢えていたのだ。
行かなかった魔物娘達も、急進派の軽挙な行いには眉をひそめたがその反面、「彼女達が南東部を制圧すれば自分達もお零れに預かる事ができる」
と心のどこかで期待していた為か、特に何も言う事は無かった。
しかしその期待は、大きく裏切られる。
急進派の魔物娘達はわずか1ヶ月余りで帰ってきた。殆どが何かしらの傷を負って。
更にその数は、全体の4割に満たなかった。
しかもその後ろでは、大勢の兵士が彼女達に黒い杖を向けて追いかけて来ていたのである。
彼女達の失敗は明らかであった。しかもそれを追ってくる兵士の数に陸と空を行き交う見た事も無い怪物たちの姿。誰もが感じた。
彼女達は、いや自分達は、彼らを怒らせた。
そして今度は、自分達がしたように彼らが攻め込もうとしている。急ごしらえの寄せ集めとはいえ小国を魔界化できる程の規模の魔物娘達を壊滅させた軍事力をもって。
領内が混乱に陥る中、彼らはこちらがダメ元で出した交渉の申し出を意外なほどあっさりと受け入れ、兵を国境前で止めた。
そして交渉に現れた特使は言った。
「我々はこれ以上の戦いを望まない。だが先に仕掛けてきたのは君達だ。だから自衛のために戦った」
「我々は生きたいだけだ。だが君達はその邪魔をする」
「我々は君達の領域には入らない。だから君達も我々の領域には入らないでくれ。境界線は我々が決める」
一部の独断専行だったとはいえ、話し合いをせずに攻め込み、力を持って彼らを脅かした負い目もあり、何より彼らとの全面戦争を回避したかった指導者達は、この要求を受け入れた。
向こうが良いと言うまで、一切の接触を禁じられたのだ。
その後、負傷者の手当てや損害の把握、勝手に攻め込んだうえに大きな犠牲を出した過激派リーダーの裁判などに追われているうちに、南東部では人間達が壁を作り始めた。
そして領内での事後処理がひと段落ついた頃には、それは完成していた。彼らの拒絶の意思をそのまま形にしたかのような、大きく無機質で堅牢な壁が。
彼らの言った通り、一切の交流が無くなった。たまに逃げ遅れた急進派の生き残りや、元からそこに生息していた野生の魔物娘が送り返される以外に、壁が開く事はなかった。
立ち入り禁止の通告を無視して壁の向こうに行こうとした魔物娘もいたが、7割は追い返され、残り3割は二度と戻って来なかった。
それが、5年前の話である。
「来ないよね…来ないよね……!」
まるで天敵がすぐそばにいるかのように身を縮めるコカトリス。
ではなぜ彼女は、そこまで恐れるこの場所に自分から向かったのか。
「お姉ちゃん……」
彼女がお姉ちゃんと呼んだのは、近所に住んでいたサキュバスであった。
人見知りだった自分に親身になって接してくれた年上のお姉さんであり、初めてできた友達でもあった。
しかし5年前、例の急進派の遠征に同行して南東部に行き、そのまま行方不明となったのだ。
お姉ちゃんを連れ戻そうと南東部に向かってみるものの、その臆病さと5年前の生存者から聞いた話によって醸成されたイメージから、彼女は壁に近付く事ができなかった。
「ごめんねお姉ちゃん……もう5年も経つのに、これ以上行けないよ…」
自分の臆病さと、仲良くしてくれたお姉ちゃんに何もしてあげられないという情けなさに、もう何度目かも分からない涙が溢れる。
「うっ…くぅぅ……っ」
それは突然だった。ズンッという音が聞こえた。
「!?」
微かではあったが、重く低い、何かが地面に落ちたような音。
「何だろ…聞いた事ない音だけど」
林を出て見晴らしの良い所へと出てみると、見えた。
山を2つ越えたぐらいの所から、黒煙が上がっている。
「多分あれだよね……」
5年間、自宅と壁を行ったり来たりする生活を続けてきた彼女にとって、初めての事。
普通なら気味が悪く、そこから離れようとするが、今回は違った。
「行ってみよう……壁の方とは違うし、それに…」
ずっと二の足を踏んで前に進めずにいる自分の臆病さに嫌気が指していたのもある。
壁に近付く訳ではない事もあってか恐怖心は薄まり、今回ばかりは自分の目であれが何なのか確かめてみようと思ったのだ。
それに、逃げ足だけは自信があるし、斜面や岩場にも慣れている。
彼女は黒煙に向かって走り出した。
「ウソだろ……」
緑豊かな林の中。そこで彼は目の前の光景を呆然と眺めていた。
唯一の移動手段が、さっきまで話をしていた仲間を抱えたまま燃えていた。
事の始まりは偵察衛星が壁の北側で不審な動きを捉えたと報告があった事だった。
北には宗教国家がある。転移後最初に接触した人間の国家。
交渉に向かった特使に国家主権の無条件譲渡と自国宗教への改宗という全面的な隷属を要求し、それが受け入れられないと見るや特使を皆殺しにして宣戦布告してきた狂信者たちの国。
本土に向かってきたそいつらの船団を空軍と海軍が殲滅してからは大人しくしていたが、まだ懲りてはいなかったらしい。
壁の外の緩衝地帯に部隊と見られる集団と宿営地らしきテント群が写っていたというのだ。
自分達特殊部隊に下された命令は彼らの監視と、可能であれば指揮官の拘束もしくは暗殺。
仲間達と共にヘリコプターに乗り込み、安全地帯で降りた後は徒歩で宿営地まで近付く。無理に指揮官を捕らえる必要はなく、本格的な攻撃開始まで定期報告を行っていればいい。簡単な任務のはずだった。
しかし一つ手違いがあった。
敵が司令部の予想より前まで侵入していたのだ。
ヘリがホバリングを始め、最初に降下したのは自分だった。ロープにしがみついて地面に降り立ち、固定具を外した瞬間、森の中から光る弾が撃ち上げられた。
低空で停止していた状態で回避できる筈もなく、直撃を受けたヘリはまだ降下途中だった隊員を空中ブランコのように振り回しながら墜落していった。
機体は原型を辛うじて留めていたものの、窓から機内の様子はオレンジ色の炎しか見えない。どう見ても中に居た者達は絶望的だった。
「ああ……そんな、エリックお前まで……」
エリックと呼んだ、降下ロープにしがみついていた隊員も、機体に上半身を押し潰されていた。
残ったのは自分1人だけ。
何年も訓練と生活を共にした仲間達が、莫大なコストと時間をかけて育て上げられた特殊部隊が7人も、一瞬で炎に消えた。
「作戦は失敗だ……戻らないと」
ヘリは撃墜、部隊は壊滅、自分達の存在が敵にばれている以上、監視など不可能。帰還する以外に選択肢はない。しかし、
「あの距離を歩くのか……」
無線は死んだ仲間が持っていた。墜落の衝撃とこの火災で、確実に壊れている。
報告をするには、歩いて壁まで戻るしかなかった。ヘリで行った距離を。
他に方法が無い以上、急がなければならない。ヘリを落とした敵が戦果確認の為にここに来るのは明らかだ。
「すまないエリック、弾を貰うぞ……仇は取るからな」
下半身しか見えないエリックの遺体から、ベルトに着けていた弾倉を取る。自分のと合わせれば、ある程度は応戦できる筈だ。
コンパスで方角を確認し、南に向かって歩き出す。
そして茂みを掻き分けた時…
彼女は黒煙に向かって走っていた。
時折空を見上げて方角を確認しながら走ると、煙の臭いが漂ってくる。
「うん、こっちで合ってる…」
だんだんと濃くなってくる煙の臭いに引き寄せられるように近付いていくと、微かにオレンジ色の光が見えた。
茂みに隠れ、ゆっくりと見える所まで這っていく。そこには、
「何、これ……」
灰色の物体が、もうもうと黒煙を上げながら燃えていた。
細長い剣のようなものが何本もついており、頭と思われる部分はトンボに似ている。
それを見た時、5年前の生き残りの1人が言っていた言葉を思い出した。空を飛ぶ巨大な羽虫が地面を抉るブレスを吐いたと。
「そんな、なんで壁向こうの怪物がこんな所に……!?」
その怪物は全身を焼きながら地面に身体を横たえ、ピクリとも動かない。
「死んでるのかな…う、目が……」
周囲に漂う煙が目に入ったのか涙が止まらなくなり、目を擦る。
その為に彼女は気付かなかった。
自分のいる茂みに向かってくる人影を。
突然バサッと音がした。
驚いて正面を見る。そこには……
手に黒い杖を持った男が立っていた。
「い、いやあぁぁぁぁぁぁ!?」
人間の少女のようでありながら、両手両足は白い鳥のよう、トカゲを思わせる鱗に覆われた尾と頭頂部から伸びる赤い鶏冠を持った、「コカトリス」という魔物であった。
彼女は木の後ろから顔だけを出し、葉と葉の隙間から一点を見つめている。
視線の先には、自然溢れるこの地域には全く場違いな物が存在していた。
壁。灰色の石でできた、巨大な壁。
周囲にあるどの木よりも、今まで自分が見てきたどの建物よりも高いであろうその壁は、崖そのものを持ってきたかのようにそびえ立ち、それが左右にどこまでも続いている。
壁の上には黒い棒と箱を並べたようなものが等間隔に鎮座し、近くに小屋もある。
彼女がこれを見るのは、初めてではない。
小屋から何かが出てきた。
「あ…っ!」
彼女はそれを見た瞬間頭を引っ込めてしまった。
「み、見つかったかな…どうしよ、どうしよ……!」
元々臆病な種族であるコカトリスではあったが、ただの黒い点にしか見えないほど遠くにある「何か」を恐れるのにも理由があった。
壁の向こうには、悪魔がいる。
人間の姿をし、見た事もない杖と怪物を操る、冷酷で残忍な悪魔が。
7年ほど前、壁の向こうの、更に海を越えた所に突然大陸が現れた。
そこにいた人間達は海を越えて自分達のいる大陸にやって来ると、当時まだ手付かずの土地であった南東部に住み始めた。
その頃大陸では南西部を治める魔物領と北側を支配する教団領に分かれており、南東部を巡って睨み合いをしている状態だった。
人間の殆どは教団領におり、魔物領は慢性的に人間、特に男が不足していた。
魔物「娘」とある通り、魔物は皆女性であり、番う事ができるのは人間の男のみ。しかし人間と番っても生まれる子供は魔物娘だけ。魔物娘だけが増え、人間が増えないのなら、増えた分の魔物娘は必然的にあぶれる。
男女比はどんどん開いていき、男の確保は海を渡ってくる人間か度々攻めてくる教団領の兵士を攫う以外に方法がなく、それでは焼け石に水であった。
男の精を食料とし、性行為を何よりも好む魔物娘。それが得られず色々な意味で飢えていた彼女達にとって、突然やってきた人間の集団は恵みの雨に等しく、それに目をつけるのも当然だった。
ただちに交流を持つための準備が行われた。
目が良かったり、魔法で姿を消す事ができる魔物娘を派遣して情報収集を行わせると、分かった事があった。
彼らはこの世界の人間と変わらず、道具を使って建物を作り、集落を形成する。文字は違うが喋っている言葉も自分達が使っているものと同じ。
そしてこの世界の人間との決定的な違いがあった。
魔力を持っていない事である。誰一人として。
魔法を使っている様子が全く見受けられず、黒い杖のような物を持った兵士らしき個体はちらほらいたが、槍や剣を持っている者はいなかった。
料理に使うようなナイフか地面を掘るシャベルぐらいしか、刃物と呼べる物がなかった。
その情報が入り、領内の魔物娘、それも「過激派」と呼ばれる者達は勢いづいた。
これ以上手間と時間をかけて話し合いの準備をするより、力ずくで自分のものにしてしまった方が手っ取り早いと。
抵抗はされるだろうが相手は人間。脅威になり得る魔法も武器もない事が分かっているなら、性行為に持ち込むのは簡単だしそうすれば最終的には相手も幸せになる。
彼女達の行動は早かった。領内にいる仲間や飢えた魔物娘を取り込み、何千もの集団が南東部へとなだれ込んでいった。
話し合いでの融和を目指す魔物領指導者の静止も振り切って。それほど彼女達は飢えていたのだ。
行かなかった魔物娘達も、急進派の軽挙な行いには眉をひそめたがその反面、「彼女達が南東部を制圧すれば自分達もお零れに預かる事ができる」
と心のどこかで期待していた為か、特に何も言う事は無かった。
しかしその期待は、大きく裏切られる。
急進派の魔物娘達はわずか1ヶ月余りで帰ってきた。殆どが何かしらの傷を負って。
更にその数は、全体の4割に満たなかった。
しかもその後ろでは、大勢の兵士が彼女達に黒い杖を向けて追いかけて来ていたのである。
彼女達の失敗は明らかであった。しかもそれを追ってくる兵士の数に陸と空を行き交う見た事も無い怪物たちの姿。誰もが感じた。
彼女達は、いや自分達は、彼らを怒らせた。
そして今度は、自分達がしたように彼らが攻め込もうとしている。急ごしらえの寄せ集めとはいえ小国を魔界化できる程の規模の魔物娘達を壊滅させた軍事力をもって。
領内が混乱に陥る中、彼らはこちらがダメ元で出した交渉の申し出を意外なほどあっさりと受け入れ、兵を国境前で止めた。
そして交渉に現れた特使は言った。
「我々はこれ以上の戦いを望まない。だが先に仕掛けてきたのは君達だ。だから自衛のために戦った」
「我々は生きたいだけだ。だが君達はその邪魔をする」
「我々は君達の領域には入らない。だから君達も我々の領域には入らないでくれ。境界線は我々が決める」
一部の独断専行だったとはいえ、話し合いをせずに攻め込み、力を持って彼らを脅かした負い目もあり、何より彼らとの全面戦争を回避したかった指導者達は、この要求を受け入れた。
向こうが良いと言うまで、一切の接触を禁じられたのだ。
その後、負傷者の手当てや損害の把握、勝手に攻め込んだうえに大きな犠牲を出した過激派リーダーの裁判などに追われているうちに、南東部では人間達が壁を作り始めた。
そして領内での事後処理がひと段落ついた頃には、それは完成していた。彼らの拒絶の意思をそのまま形にしたかのような、大きく無機質で堅牢な壁が。
彼らの言った通り、一切の交流が無くなった。たまに逃げ遅れた急進派の生き残りや、元からそこに生息していた野生の魔物娘が送り返される以外に、壁が開く事はなかった。
立ち入り禁止の通告を無視して壁の向こうに行こうとした魔物娘もいたが、7割は追い返され、残り3割は二度と戻って来なかった。
それが、5年前の話である。
「来ないよね…来ないよね……!」
まるで天敵がすぐそばにいるかのように身を縮めるコカトリス。
ではなぜ彼女は、そこまで恐れるこの場所に自分から向かったのか。
「お姉ちゃん……」
彼女がお姉ちゃんと呼んだのは、近所に住んでいたサキュバスであった。
人見知りだった自分に親身になって接してくれた年上のお姉さんであり、初めてできた友達でもあった。
しかし5年前、例の急進派の遠征に同行して南東部に行き、そのまま行方不明となったのだ。
お姉ちゃんを連れ戻そうと南東部に向かってみるものの、その臆病さと5年前の生存者から聞いた話によって醸成されたイメージから、彼女は壁に近付く事ができなかった。
「ごめんねお姉ちゃん……もう5年も経つのに、これ以上行けないよ…」
自分の臆病さと、仲良くしてくれたお姉ちゃんに何もしてあげられないという情けなさに、もう何度目かも分からない涙が溢れる。
「うっ…くぅぅ……っ」
それは突然だった。ズンッという音が聞こえた。
「!?」
微かではあったが、重く低い、何かが地面に落ちたような音。
「何だろ…聞いた事ない音だけど」
林を出て見晴らしの良い所へと出てみると、見えた。
山を2つ越えたぐらいの所から、黒煙が上がっている。
「多分あれだよね……」
5年間、自宅と壁を行ったり来たりする生活を続けてきた彼女にとって、初めての事。
普通なら気味が悪く、そこから離れようとするが、今回は違った。
「行ってみよう……壁の方とは違うし、それに…」
ずっと二の足を踏んで前に進めずにいる自分の臆病さに嫌気が指していたのもある。
壁に近付く訳ではない事もあってか恐怖心は薄まり、今回ばかりは自分の目であれが何なのか確かめてみようと思ったのだ。
それに、逃げ足だけは自信があるし、斜面や岩場にも慣れている。
彼女は黒煙に向かって走り出した。
「ウソだろ……」
緑豊かな林の中。そこで彼は目の前の光景を呆然と眺めていた。
唯一の移動手段が、さっきまで話をしていた仲間を抱えたまま燃えていた。
事の始まりは偵察衛星が壁の北側で不審な動きを捉えたと報告があった事だった。
北には宗教国家がある。転移後最初に接触した人間の国家。
交渉に向かった特使に国家主権の無条件譲渡と自国宗教への改宗という全面的な隷属を要求し、それが受け入れられないと見るや特使を皆殺しにして宣戦布告してきた狂信者たちの国。
本土に向かってきたそいつらの船団を空軍と海軍が殲滅してからは大人しくしていたが、まだ懲りてはいなかったらしい。
壁の外の緩衝地帯に部隊と見られる集団と宿営地らしきテント群が写っていたというのだ。
自分達特殊部隊に下された命令は彼らの監視と、可能であれば指揮官の拘束もしくは暗殺。
仲間達と共にヘリコプターに乗り込み、安全地帯で降りた後は徒歩で宿営地まで近付く。無理に指揮官を捕らえる必要はなく、本格的な攻撃開始まで定期報告を行っていればいい。簡単な任務のはずだった。
しかし一つ手違いがあった。
敵が司令部の予想より前まで侵入していたのだ。
ヘリがホバリングを始め、最初に降下したのは自分だった。ロープにしがみついて地面に降り立ち、固定具を外した瞬間、森の中から光る弾が撃ち上げられた。
低空で停止していた状態で回避できる筈もなく、直撃を受けたヘリはまだ降下途中だった隊員を空中ブランコのように振り回しながら墜落していった。
機体は原型を辛うじて留めていたものの、窓から機内の様子はオレンジ色の炎しか見えない。どう見ても中に居た者達は絶望的だった。
「ああ……そんな、エリックお前まで……」
エリックと呼んだ、降下ロープにしがみついていた隊員も、機体に上半身を押し潰されていた。
残ったのは自分1人だけ。
何年も訓練と生活を共にした仲間達が、莫大なコストと時間をかけて育て上げられた特殊部隊が7人も、一瞬で炎に消えた。
「作戦は失敗だ……戻らないと」
ヘリは撃墜、部隊は壊滅、自分達の存在が敵にばれている以上、監視など不可能。帰還する以外に選択肢はない。しかし、
「あの距離を歩くのか……」
無線は死んだ仲間が持っていた。墜落の衝撃とこの火災で、確実に壊れている。
報告をするには、歩いて壁まで戻るしかなかった。ヘリで行った距離を。
他に方法が無い以上、急がなければならない。ヘリを落とした敵が戦果確認の為にここに来るのは明らかだ。
「すまないエリック、弾を貰うぞ……仇は取るからな」
下半身しか見えないエリックの遺体から、ベルトに着けていた弾倉を取る。自分のと合わせれば、ある程度は応戦できる筈だ。
コンパスで方角を確認し、南に向かって歩き出す。
そして茂みを掻き分けた時…
彼女は黒煙に向かって走っていた。
時折空を見上げて方角を確認しながら走ると、煙の臭いが漂ってくる。
「うん、こっちで合ってる…」
だんだんと濃くなってくる煙の臭いに引き寄せられるように近付いていくと、微かにオレンジ色の光が見えた。
茂みに隠れ、ゆっくりと見える所まで這っていく。そこには、
「何、これ……」
灰色の物体が、もうもうと黒煙を上げながら燃えていた。
細長い剣のようなものが何本もついており、頭と思われる部分はトンボに似ている。
それを見た時、5年前の生き残りの1人が言っていた言葉を思い出した。空を飛ぶ巨大な羽虫が地面を抉るブレスを吐いたと。
「そんな、なんで壁向こうの怪物がこんな所に……!?」
その怪物は全身を焼きながら地面に身体を横たえ、ピクリとも動かない。
「死んでるのかな…う、目が……」
周囲に漂う煙が目に入ったのか涙が止まらなくなり、目を擦る。
その為に彼女は気付かなかった。
自分のいる茂みに向かってくる人影を。
突然バサッと音がした。
驚いて正面を見る。そこには……
手に黒い杖を持った男が立っていた。
「い、いやあぁぁぁぁぁぁ!?」
17/04/16 15:19更新 / 貧弱マン
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