連載小説
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猫村さんと俺のお昼から午後にかけてB
 俺は顔を近づけ、嗜虐心と友愛の情の両方を込めて、猫村さんの耳元で優しく囁いた。

「猫村さんって、やばいんすね、性欲」

 これは、ちょっとおもしろいほどに効果てきめんだった。俺がこの言葉を口にした瞬間、猫村さんの顔はすぐに硬直したのだ。しかし今度はそれだけでなく、彼女の顔は真っ赤に染まり、そしてちょっと不細工(!)に歪んだ。
「っああぁー、もおおぉー」
そして猫村さんは、普段からは想像できないような情けない声を上げると、崩れ落ちるようにしてその場にへたり込んだのだ。俺は、自分の中の隠されていたいじめっ子心が、息を吹き込めれた炎のように、今この場でにわかに活気づいて来るのを、心の内側の壁でありありと感じ取っていた。
「せっかく話を逸らそうと思ってたのに……」
 おれは思わず笑ってしまった。あれはちょっといくら何でも無理があると思ったからだ。
「いや、全然出来て無かったっすよ」
「ええー! まあまあ上手くいってると思ってたのに」
「いやー、あれで誤魔化したのっていうのはいくら何でも無理があるっしょ」
「もー、最低……」
 猫村さんはいよいよ耳まで真っ赤になったまま、両手で顔を覆った。指の隙間からうなり声が漏れていた。
俺は追い打ちをかけた。
「いやー、さすがにあれはびっくりしましたね。何しろ財布出したらずるるーですもん。コンドームずるるーですもん」
「言わないでよ」
「俺以外にも見られてたかもしんないっすねー」
「え、やだ、うそでしょ」
「分かんないっすよー? あの時間結構他のお客さんいたし」
「いやだ、ちょっとやめてよ」
 猫村さんの顔が、今度はちょっとした怯えや恐怖のそれに変わった。俺は興奮した。
「いやー、猫村さんがあんな物持ち歩いてただなんてショックだなー。あんなにたくさん、しかも箱から出して。店の人もショックだけど、新藤君にとってもこれは結構ショックだなー」
「やめてってば」
もうちょっとだけ調子に乗って、猫村さんをやり込めてやりたい気もしたが、 俺はここらへんで切り上げて、改めてちょっと優しい口調で猫村さんを慰めた。
「でもまあ別に、恥ずかしいけど、ギリギリネタにならない程度のものではないじゃないっすか」
「それはそうだけどさ…、やっぱり恥ずかしいよ」
「松本が滑らない話でするぐらいのレベルっすよ」
「そうだけどさー」
「そっすよ」
うう……と唸りながらうつむく猫村さんを見て、俺はこの機会を利用して確かめたいことがあったのを思い出した。
俺はどさくさに紛れ、不躾の風を装って、ちょっと踏み込んだことを聞いてみた。
「というか、何であんなに持ってたんすか? 彼氏っすか?」
これはセクハラ覚悟だった。しかし、猫村さんの恋人の有無に関しては、俺は自分でもちょっと意外なまでに関心を持っていたのだ。
俺の予想では、猫村さんはすでに恋人がいて、あれだけ美人なんだから恋愛経験も豊富だと踏んでいたのだが、しかし帰ってきたのは意外な答えだった。
「いや、そーいうんじゃないよ」
猫村さんは両手の平に顔をうずめながら答えてくれた。
「え?」
「友達から聞いたの。“私達”はたくさん必要になるって」
(……?)
俺は最初は言葉の意味が分からなかった。“私達”って何だ?
正直なことを言うと、今回の猫村さんの不可解な受け答えだけではないにせよ、これまでの付き合いの中でも、猫村さんの正体に関して、他に疑念を抱かざるを得ない場面はおよそ少なくはなかったのだ。
しかし、今はそのことに対してかかずらっているべき時ではなかった。   
俺はもう少しだけ猫村さんを慰めた。
「彼氏いないのにゴム用意してたみたいな童貞ムーブも、いつかは笑い話に昇華できますって。大丈夫です。俺も他の人に喋りませんし」
「うるさい、童貞じゃないし、処女だし」
「え、あ、そうだったんだ。意外」
「鉄板ネタにするつもりでしょ」
「しませんよ、大丈夫です」
「絶対する」
「しないってば」
「ほんと?」
 そう言って猫村さんは、顔を上げて俺を見た。
少し顔に恥ずかしさは残っていたけれど、その顔にはわずかに笑みが戻ってきていた。俺の心のどこかの緊張が緩まった。
 俺がもう一度猫村さんを冷やかすと、彼女は少し仰々しく顔をしかめ、それでも最終的には笑っていた。
その時に俺がほっとした心持ちになったのは、第一に猫村さんに現在恋人はいないということ、そして彼女が今日のことに関して、ちょっとした冗談には笑える程度には、もう機嫌を直してくれているということが確認できたからだった。
 今、二人の間には、お互いにプライベートな下ネタというジョークを共有したことで発生した、打ち溶けた空気が出来ていた。こういう下ネタ関係の話に関して猫村さんは意外なまでに寛容だった。
何とも悪くない空気だった。


 俺は、会社に戻るという猫村さんを途中まで見送って、地下鉄の駅に降りる階段前で彼女と別れた。
「地下鉄使わないんすか?」
「ダイエット中なの。今日は、脂っこいもの食べちゃったから」
「猫村さんなら、今でも全然大丈夫っすよ。普通に細いです」
「ふふ、ありがと。でも歩くよ。動くと気持ちいいし」
 この時になると、猫村さんはもういつものような落ち着きやミステリアスさを取り戻していた。その様子を見て、俺はかなり安心したのだ。平常運転の猫村さんだった。
 地下鉄の階段を下りながら、何気なく振り返ると、もう猫村さんはいなくなっていた。少し寂しい気持ちを抱えながらも、俺は楽しい気持ちでホームに滑り込んできた地下鉄に乗り込んだ。
 今日はなかなかどうして愉快な一日になったと思う一方で、俺はこのまま家に帰ってしまうのがもったいないような気でいた。バスケ部は引退して長くが経っていて、遠く学校の部室に顔を出すのはどこか気まずかった。春休みも半ばに近づいて、思いつく限りでの楽しみは、そのころまでに、あらかたやり尽くしてしまっていたのだ。今公開している映画もほとんど見終わってしまったし、友達を誘おうにも今から急に呼び出すのは気が引けた。何よりも、金がなかったのだ。この当時、俺はまだバイトをしていなかった。
 しかし、俺は今の所持金を確かめようとしてポケットの財布を開いた時になって、気が付いた。例のコンドームの驚きにかまけて、俺は猫村さんに払ってもらっていた食事代を、彼女に渡していなかったのだ。
(やべ、忘れてた)
 俺は慌てて、地下鉄の次の駅で降りて向かいのホームの電車を待った。俺は猫村さんの職場への道のりを心の中に思い浮かべた。彼女は歩きで会社に向かったから、ひょっとしたら俺の方が先に着くかもしれない。彼女の会社は地下鉄の駅をでて、歩いて少し行ったところにあったのだ。今日の猫村さんは徒歩で帰って行ってしまったが。
 猫村さんは会計係として働いているというのは前に述べたとおりだけれど、俺は彼女の職場がそこにあるのかまで知っていた。前に、猫村さんのおごりで、会社の食堂に案内してもらったことがあるのだ。彼女の職場はすぐ近くだった。
19/08/03 09:25更新 / マモナクション
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■作者メッセージ
新藤君の猫村さんへの口調は色々とアレですが、彼は本気を出すと、物凄く丁寧な、折り目正しい敬語を使えます。
8月3日修正 長かったので分割しました。

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