連載小説
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前編
心地よく吹く秋の風に自分は今当たっていた。もうすぐ冬が来ようとしており、それも今は肌寒い。何の変哲もない、ただの雑居ビルの屋上に自分は今立っている。同業者の周りの空気に耐えかねて仕事場を少し離れたかっただけだったのに気が付いたらこんな所まで来てしまっていたのだ。
またやってしまった。気を付けていれば絶対に失敗するような事じゃなかった。
あの日以来俺はまともに仕事ができていた記憶がない。どのような事をやっても何かしら失敗をしている。幸い最近請け負っている仕事がそれほど重要な案件ではなかった為にさほど問題にはならなかった。上司や後輩のほとんどがいい人ばかりで俺がそのようなつまらないミスをしてもほとんどの人は俺を咎めなかった。だがこのままでは俺はいつか会社の尊厳に関わるような失態を晒し、会社をきっと悪い方向に持っていきかねない。だからそのような事になる前に一層この会社から出ていく事も考えたが、自分の歳の事や、もし今ここを出て行ったとしても他に行く当てがあるはずがないと思うとすぐにこの会社から出ていく気にもなれなかった。そして考えた末に出した結論が「現状維持」であった。しかしこのままミスを続ければ自分はいつか会社から追い出されることもわかっていた。この事を理解した上での「現状維持」という選択は自分にとってはもういつ沈没するか分からない泥の船に乗るようなものだった。「絶望」この二文字は今の自分をよく表していると思う。何かを始めるにはもう遅すぎる年齢。財産もなければ家族もいない。今務めている会社も追い出されるのは時間の問題…。
ネガティブな考えに疲れふと空を見上げると雲一つない眩しい青空が見えてふと目頭が熱くなるのを感じた。俺の心はこんなにも曇っているのに空はこんなにも晴れ晴れとしている。空が自分の事を嘲笑ったような気がした。こんな事を考えているうちに自分がどんどん惨めに思えてきた。ここから飛び降りられたらそんな気持ちは消えるのだろうか…。
「タツローさん、こんな所でなにしてんスか?」

不意に後ろから声をかけられ我に返り、後ろを振り向けば仲良くしている後輩が缶コーヒーを両手に持ち、立っていた。彼は「溝口拓也」彼がまだ新人の時、俺が彼の教育を担当した際に彼と意気投合し、互いに酒を飲み、色々な事を語りつくした数少ない会社の中での友人である。

「あぁタクか。すまない、ちょっと一人になりたくてな。すぐに戻るよ。」
「そんな焦らなくてもいいっスよ。はいコレ。」

そう言いながら拓也は俺の隣まで来て俺に缶コーヒーを渡してくれた。

「悪いな…いつも…。特に最近はお前に迷惑かけてばっかりだ…。」
「そんな事ないっスよ。逆に最近はタツローさんの役に立てて嬉しいくらいっスよ。」

彼は何処までもポジティブで、いつもウジウジ考えている自分とはどこまでも違っていてそんな風に彼と自分を比べてしまって、改めて自分に情けなさを感じてしまう。

「俺は情けない上司だな…。最近じゃ後輩の手を借りないとロクに仕事も出来ないようになってしまった。本当に情けないよ…。」
俺は自分の中にある煮え切らない思いをごまかすように缶コーヒーのプルタブを開けて数口コーヒーを飲んだ。そして拓也がなにか決心した顔で俺を見て口を開けた。
「タツローさん、俺、タツローさんにはまとまった休みっていうか…休息が必要なんだと思うんスよ。あんまり言いたくないですけどあんな事があったからタツローさんは精神的に疲れてるだけなんスよ。」

拓也からの言葉が的を得ていた気がして、そうかもな。俺はぼんやりとした返事を返した。
疲れてはいるがここで休息をとっても何の意味があるのだろう。趣味を何も持ち合わせていない自分にとって休暇は仕事をする事と同じくらい嫌なものであった。何もせず家で無駄な時間を過ごしてネガティブな事を考えて自己嫌悪になってまたネガティブになる。そんなスパイラルに陥るくらいならまだ仕事をした方がマシだ
とまたネガティブな事を考えていると拓也がいつもの明るい顔に戻り一枚の雑誌を渡してきた。

「だから、そんなタツローさんにコレ!もうすぐ秋も終わるし、タツローさんの心身のリフレッシュも兼ねてと思ったんスけど...。」

そう言いながら渡された雑誌には何やらハイキングについて書かれてあった。山を登りつつ、山の中にある様々な景色を楽しもうという内容だった。体を動かすのが得意ではない自分でも十分に魅力的な内容に見えた。

「ハイキングか。リフレッシュにしてはいいかもな。」
「でしょ!?だから絶対行きましょうよ!!ほらこのコースとか…」

俺の言葉を聞いて顔を輝かせた拓也は話を続けた。雑誌に載っているどのハイキングコースにするか何十分間か話し合った結果、比較的登りやすい山に行くことになった。拓也は終始楽しそうに話をしていた。そんな姿を見ていると俺も自然と楽しみになっていた。滅多にない外出の機会だから精一杯楽しんでやろう。
ハイキングの事を考えていると自然と気分が少し明るくなったのを感じた。ハイキングの話を持ってきてくれた拓也に改めて感謝した。


「はぁ….はぁ……。」
「タツローさん、あともうちょっと…ですよ…。」

この山にハイキングに行く前の三日間、記録的な大雨が降った。幸いハイキング当日までには持ち直したものの、記録的な大雨が続いたせいで足場がぬかるんでいる。そのせいで俺と拓也は道中何回も転んでしまった。転ばないように足に意識を集中していた為に余計に体力を使ってしまった。長年さほど動かしていなかった体にこのハイキングはかなりきついものであったと改めて理解した。しかし目的地まであと目と鼻の先なのも確かだ、このまま登り切って―

「タツローさん、足場!!」
後輩の叫ぶ声に我に返りふと自分の足元を見てみると後輩と自分の足場の間にひびができていた。記録的な豪雨がもたらした産物かそれとも神が自分の運命を弄んだのかわからないが、足場のひびはみるみるうちに広がり、自分と後輩を分けるように崩れた。俺の身体は無数の土や石と共に山の急斜面へ投げ出された。斜面を転がり落ちている最中、急斜面の先に大きな岩が鎮座しているのが見えた。このままではあの岩に激突する。頭ではわかっているがそう安々と自分の転がる軌道を変えられるわけもなく、俺は岩に激突し、意識を手放してしまった。




「----っ…..」
自分の意識が戻った時、俺は何処かの寝室のベッドの上にいる事に気付いた。壁や天井を見たところ木造の小屋の一室のようだった。体を起こそうとしたが身体の節々が悲鳴を上げそのままベッドに倒れこんでしまった。どうやら全身を強く打ったらしく、包帯が身体全体に巻かれていた。自分に一体何が―
「あれ…?」
思い出せなかった。自分がなぜこんな状況にあるのかはさておき自分の名前すら思い出せなかった。何か自分が持っていた物は無いのかと周辺を見回したが何も手掛かりになりそうなものは無かった。そのまま動揺していると自分がいる部屋の扉が開き、ここの家主らしき人物が姿を現した。
「あっ、意識が戻ったんだね! よかった!このまま目覚めなかったらどうしようって思ってたんだよ?」
この家の家主は一言でいえば可愛らしい女性であった。くりくりとした大きい群青色の瞳、少し低いが形の整った丸い鼻、きめ細やかで毛穴の一つもない小麦色のしなやかで健康的な肌、若干湿り気を帯びた柔らかそうな唇、そして幼さが残るが人懐っこい表情。しかし彼女の特徴は顔よりもむしろその体にあった。彼女の手と足はもこもことした白い綿のような毛で包まれているのだ。彼女は一体何者なのか、今までこのような女性は見たことがなかった。そもそも人間なのか、など沢山の疑問が自分の中で渦巻いているときに彼女が自分に近寄ってきた。

「初めまして、だね!」

彼女はそう言った直後、自分の身体をその白い綿のような手を使って抱きしめてきた。

「え!?」
自分の頭の中の思考が一気に停止するのを感じた。あまりに予想外な行動。初対面の相手にいきなり抱き着かれるのは記憶を失っているのに言うのは難だがこの世に生を受けて初めての経験だと思う。しかし初対面の相手に抱き着かれているというのに不思議と嫌悪感や緊張感は無く、むしろリラックスしていた。抱き着いている彼女から感じる優しくて暖かい温もりにどことなく魅力を感じていた。

「まだ君の名前を聞いていなかったね、私はカエデ。あなたは?」

俺は彼女に唐突に名前を聞かれたが、自分の記憶が無い為に名乗れなかった。

「すまない、どうやら俺は記憶を無くしたみたいでね…自分の名前すら思い出せないんだ。
本当にごめんよ。君は俺に名前を教えてくれたのに俺は君に名前を教えてあげられなくて。」

俺の言葉を聞いて彼女は少し驚いた後、悲しい顔をしながら俺をさらに抱き寄せた。

「ごめんね、私、君が記憶を失ってたなんて知らなくて…。ちょっと無責任だったかな…。記憶を失って辛いよね、苦しいよね…。」

そう言いながら彼女は自分の身体をさらに強く抱きしめてきた。彼女から伝わってくる優しい温もり。自分は記憶を失っているはずなのにどこか懐かしくも切なく感じた。その自分の底から湧き上がる未知なる感覚に俺はどうしたらいいのかわからなくなってしまっていた。

「でも、大丈夫だよ!私が君の記憶を取り戻すのを手伝って…あれ?なんで泣いてるの?」
神妙な面持ちから急に明るくなった彼女がまた顔を曇らせていた。

「え?」

ふと自分の目を拭ってみると確かに自分は泣いていた。いくら拭っても全く涙は止まってはくれなかった。なぜ止まってくれないのか自分でも全く見当がつかなかった。

「あれ…おかしいな…。」

初対面の女性の前で泣くなんて男らしくないし、何しろ恥ずかしい。早く泣き止まないと。そう頭で思考するのはいいが身体は全く自分のいう事を聞いてくれず涙を流し続けた。

「すまない。自分でもよくわからないんだ。どうしてこんなに涙が出るのか…。すぐに泣き止むから―」
そういって俺は彼女の抱擁を解こうとしたが

「いいんだよ。」

彼女は再び俺を抱きしめた。

「辛かったんだよね、一杯我慢してきたんだよね。泣いてもいいんだよ。私がずっとそばにいてあげるから。遠慮しないで…? ね?」

彼女から俺にかけられる慰めと労わりの言葉。自分に何があったかも、自分にとって何が辛かったかも、何を我慢したかも、全く記憶に無いのに、彼女のその言葉を聞いてしまった瞬間に、無性に自分自身が悲しくなってきて、切なくなって、寂しくなってしまって、それらが一気に自分自身に襲い掛かってきて、たまらず俺は彼女に抱き着いてそれらから逃げようとした。そして、みっともない声を上げて叫んでいた。もう理性なんてなかった。自分の中から出てきた悲しさ、切なさ、寂しさ、それらを打ち消すように叫んだ。彼女はそんなみっともない姿の俺を慈愛に満ちた顔で包み込んでくれた。俺が泣き止むまでずっと…。





「ん…。」
ふと目を覚ますと、俺は何か暖かく柔らかいものに包まれていた。いい匂いがしてとても安心する。子供の時に経験した母親に抱かれている感覚に近い。俺は一体何をしていたんだっけ…。

「あ、ごめんね、起こしちゃった?」
「―あ、俺、寝ちゃってたのか…。」

彼女の声で自分の曖昧だった意識が少し明瞭になり、声が聞こえた方へ顔を上げると、カエデの笑顔が目の前にあった。そうだ、俺は初対面にも拘らず彼女に泣きついたんだった。
でも彼女はそんな俺をずっと抱きしめてくれていた。そして今も俺の身体を抱きしめてくれている。

「大分スッキリしたよ。ありがとう、カエデ」
「えへへ…。どういたしまして。」

感謝の言葉を伝えるとカエデは嬉しそうにはにかみ、抱擁の力を俺の身体に傷つけないように少しだけ強めた。彼女が抱擁を強めた際に彼女の柔らかい胸が自分の身体に押し付けられた。彼女はどうやらかなり肉付きが良いらしい。そんな事を考えていると俺の腹が音を立てて鳴った。

「お腹空いてるんだね。ご飯つくろっか?」
「……いいのか?俺こんな体だけど何か手伝えること無いか?」

世話を焼かれっぱなしでは性に合わないから、何か彼女の為にできる事があればいいと思って言った言葉であったが、

「君は怪我してるんだから、無理して動いちゃだめだよ?おとなしく待っててね、すぐに持ってくるから。」

彼女にそう言われ、俺はおとなしく待っている事にした。


しばらく待っていると美味しそうな匂いと共にカエデが部屋に戻ってきた。

「お待たせ!できたよ!!」
いい匂いのする大きな鍋といくつか食器の乗った台車を押しながら入ってきた彼女は可愛らしい雪だるまのワッペンが付いた白いエプロン姿であった。ただでさえ可愛らしい彼女がこのエプロンの効果によって更に可愛らしく見える。
「カエデの特性シチューだよ!これ食べたら!きっと元気が出るよ!!」

そう言いながら彼女はシチューを木製の皿に入れて俺に手渡してきた。皿を受け取り、いざカエデの特性シチューを見た時、俺は直感した。これは美味しいものだと。乳白色のルゥの中に浮く大きめにカットされた色とりどりの野菜が俺の食欲をそそった。

「いただきます。」
「うん!一杯食べてね!おかわりもたくさんあるから!」

スプーンで適量掬い、スプーンの上で適温にさせてから俺はシチューを口へ運んだ。
うまい。自分が想像した味を遥かに凌駕した味だった。「特性シチュー」の名はどうやら伊達ではないらしい。俺は無意識的に一口、また一口とスプーンを口へ運んでいた。そうしていく内に皿は気が付けば空になっていた。もっとこのシチューを食べていたい。心の奥底から思った俺は彼女に空の皿を差し出した。

「おかわり…お願いできるか?」
「うん!いいよ!」

こんな調子でシチューを食べ続け、最終的に俺は皿3杯分のシチューを平らげた。あんなに飯をよこせと喚いていた腹の虫も静かになった。

「ご馳走様でした。あー、食ったなー。」
「お粗末様でした!君っていっぱい食べるんだねー!うんうん、えらい♪えらい♪」

カエデがそう言いながら俺の頭をふわふわの手で撫でる。彼女に甘やかされてとても幸せな気分だった。あったかくて、ふわふわで、とても安心する。しばらく彼女に撫でられながらベッドで横になっていると、腹が満たされたせいなのか彼女のせいなのか、また眠くなってきてしまった。眠気のせいでついうとうとしてしまう。

「あは、また眠くなっちゃった?」
「…んあ、すまない。」

不意に彼女に声をかけられ俺は体を起こそうとしたが、唐突にベッドに入ってきた彼女に抑えられてしまった。

「いいよ、今日はこのまま寝ちゃおうか。君のそのケガも早く治さないとね…。大丈夫だよ、私がずっとそばにいてあげるから、安心して眠ってね…。」

そういって彼女は俺の身体を抱きしめた。彼女に抱きしめられて、彼女の体温を感じていく内に俺は再び眠りについた。俺が眠ってからも彼女はずっと俺を抱きしめてくれていた。





「ね、君はまだ名前が思い出せないんだよね?」
「あぁ。全く思い出せないな。」
「それでね、私ねずっと君の事「君」って呼ぶのはなんだか余所余所しいなって思っててね、だから今から私が君に名前を付けてあげるね!」

次の日カエデは俺にそう言った。どうやら彼女は記憶喪失の俺に名前を付けてくれるらしい。俺の記憶についてだがこれと言って全く進歩が無い。相変わらず自分の名前を筆頭に自分自身の事を何も思い出せなかった。そういう面で彼女の提案は間違ってはいないと思う。いつまでも名無しさんでは味気が無いと思っていたところだった。

「何がいいかな…うーん…。あれもいいし、これもなぁ…。」

いつも元気な顔が特徴の彼女だが、今回はいつにも増して真剣な表情になってうんうん唸っている。そんな姿が可愛らしく見えるのも、彼女の魅力の一つだと思う。そんな下らない事を考えている間に彼女は何か思いついたらしく、笑顔でこちらを見ていた。

「決まったよ、君の名前。今日から君は、」

記憶を失う前の自分がどんな名前だったのか全く思い出せないが、確かに自分は名前を持っていたはずで、そうでありながら新しい名前を誰かに付けられるのはものすごく新鮮な感覚だなと感じた。そして今から自分に付けられる名前に俺は少しワクワクしていた。

「椛 だよ!」
「もみじ…。」

彼女が時間をかけて唸った末に出てきた俺の新しい名前は椛らしい。どちらかと言えば女の子につけるような名前ではないのだろうかと少し考えたが、せっかくカエデにつけてもらった名前なのでここで文句を言うのは少し違うと思う。しかし椛とは、カエデとほぼ同じようなものじゃないのだろうか、彼女と少し距離感が近くなったのは嬉しいが、さすがに安直すぎやしないだろうか…。いやこれ以上文句を言うのはやめておこう。

「えへ、色々迷っちゃったんだけど…やっぱりこれがいいかなって思ったんだ。カエデと椛でお揃いだよ!ね、椛!」
「あ、あぁ、そうだな。」

カエデはそういうと俺に満面の笑みを向けてきた。正直「椛」なんて名前は少しどうかと思っていたが、カエデのこの笑顔を見ればそんな気持ちもすぐに消えそうだった。彼女に名前を呼ばれると、俺と彼女との距離が確実に近づいていることが手に取るように分かった。また一歩彼女は俺に近づいたのだ。俺に名前を付けることによって。

「えへ、もーみーじっ!」
「うお」

カエデは俺に名前を付けてすぐに俺を抱きしめてきた。彼女は俺を抱きしめながら可愛らしい顔で俺の顔を覗き込んでくる。可愛らしい顔に長時間見つめ続けられるとこちらもさすがに恥ずかしくなる。恥ずかしくて顔に熱が集まっていっているのがわかる。いま自分の顔を鏡で見ればきっとタコのように赤いであろう。

「えへへ、なんか、幸せだね。」
「あぁ、すごく幸せだ。」

カエデが頬を朱く染めて笑顔を作った。ほにゃりとした彼女の笑顔は本当に幸せそうで、今間近で彼女の顔を見ている自分も幸せにしてくれる気がした。彼女の笑顔を見れば不思議と元気が出てくる。

「早く怪我、なおしちゃおうね!」
「おう!」
「怪我が治ったら一緒に山の中を散歩しようね!もちろん安全な所だけだけどね!」

早くこの怪我を治してカエデと一緒に色々な所へ行こう。カエデが一緒ならきっとこの怪我も早く治るはずだ。



「うん、その穴に通して…そう、そこを編み込んで…これで完成だよ!」
「ふぅ…意外と難しいもんだな…。カエデのやつと比べると大分不格好だな。」
「そんな事ないよ、初めてでここまでできたら十分だよ!それに慣れたらもっと綺麗に作れるよ。そんなに落ち込まないで。」

俺が記憶を失い、カエデの家で介抱してもらってからそろそろ1か月になろうとしていた。自分の記憶が戻ってくる気配は全く無いが、怪我の方はカエデがいてくれたおかげで、まだ多少痛むものの、快方に向かっている。この一か月間で彼女の事について理解したことがある。
まず、これは薄々感づいていたことであったが彼女は人間ではないという事だ。彼女は「イエティ」という寒冷地に住む魔物らしい。魔物。それはゲームや小説、アニメの中だけの存在だと思っていたが、実際自分たちが目の当たりにしていないだけであって、結構前からこの人間界に紛れ込んでいるらしい。魔物とは言っても人間を襲い、危害を加える存在ではない。むしろ人間との友好関係を築こうとこの人間界に参入してきたらしい。姿も角が生えていたり、翼が生えていたり、体の一部が馬であったり、蜘蛛であったり、多種多様なようだ。しかし一番の特徴は性別は女性だけであり、そして全員が美人であるという事だそうだ。カエデの話によると魔物たちが来た地域での既婚率が上昇しているらしい。なんともめでたい話である。次に彼女の種族イエティについてだがこの種族は人を抱きしめる事がコミュニケーションの一つらしい。彼女が初対面の俺に抱き着いたのもきっと彼女にとっては挨拶のつもりだったのだろう。それ以外にもカエデについてもっと知りたかったが彼女は何故か顔を朱くして俯き、これ以上は答えてくれなかった。

そして今俺はカエデと一緒に道具を作っている。カエデはどうやら自然の材料を使って道具を作ることによって収入を得ているらしい。自分自身の怪我もマシになり、俺は彼女への恩返しの意味も込めて、彼女に手伝いをさせてくれないかと頼んだ。最初、彼女は「君はまだ怪我人なんだから無理したらダメ!」の一点張りで全然手伝わせてもらえなかったが、それでも俺は諦めきれず、何度か頼んでいると彼女は「簡単な作業だけなら」という条件付きで渋々了承してくれた。彼女が作っている道具は生活雑貨から本当に必要なのかどうか疑ってしまうような物まで多種多様であった。しかしどの道具も人工の素材からは出せない温かみを持っていた。そしてそれらは温かみだけではなく実用性も兼ね備えていた。質もいい上に実用性も高い。道具としては最高だろう。

「次はちょっと危ないんだけど…このナイフでこの木の皮を削ってくれるかな?大体でいいから。」
「あぁ、いいよ。」

次に依頼されたのは木の皮をナイフで削る作業だった。ナイフを使って俺が怪我をしないかが心配なのか彼女は少し心配そうに俺を見ていた。

「大丈夫だよ。手は切らない。」
「本当に…気を付けてね…。」
「あぁ、もちろん。」

カエデと過ごしてきて気付いた事があるが、カエデは少し心配性なところがある。この前彼女が入れてくれたお茶をこぼしてしまい、少し手を火傷してしまった時に彼女は血相を変えて俺に飛びつき、すぐに手を冷やしてくれた。火傷はたいしたことはなかったが、その時彼女はとても辛そうにしていたのを覚えている。そんな事をぼんやりと考えながら作業をしていると不意に自分の指先に痛みが走った。

「っ!」

どうやらぼんやり作業していた所為で自分の指を切ってしまったらしい。それほど深くは切れていないが、傷口からは血が出ていた。指を切るなと言われていたのに指を切ってしまうとは我ながらかなり情けない。

「椛!大丈夫!?」
「それほど深くはないから大丈夫だよ。カエデ、絆創膏か何かないか?」
「あぁ、血が出てる…すぐに消毒液と絆創膏持ってくるね。」

そういうと彼女は奥へ引っ込み、治療道具を取りに行った。やはり彼女は辛そうな顔をしていた。なぜ彼女は俺が怪我をする度にそんな辛そうな顔をするのだろうか。自惚れかもしれないが自分の事をそこまで大事に思っているのか、それとも別の意図があるのか、考えてみたがどうにもわからなかった。考えているうちに彼女が救急箱を持ってきた。

「指に薬つけるね。ちょっとしみると思うけど…我慢してね。」
「それくらいは我慢できるさ。」
「あは、椛はおりこうさんだね。」

今まで辛そうな顔をしていたカエデがやっと笑顔を浮かべる。やはり彼女には笑顔が似合う。しょんぼりした顔は似合わない。カエデには笑顔でいてほしいと思う。

「じゃあ、塗っちゃうね…ちょっとしみるよ?」

彼女の言葉と共に塗られた薬が傷口に染みわたり、再び指先に痛みが走った。その痛みで少しぼんやりとしていた思考が明瞭になる。

「っ…。」
「もうすぐだよ…。頑張って…。」

薬を塗り終えた彼女は救急箱から絆創膏を取り出し、慣れた手つきで俺の指にそれを張り付けた。

「はい!これでもう大丈夫だよ!今度からは本当に気を付けてね。椛が怪我をして苦しんでいる姿なんて私はもう見たくないから…。」

ただ指を切っただけなのにここまで心配されて、ここまで彼女が自分の事を思ってくれていて俺は嬉しくなった。

「ありがとう、ここで目が覚めてから俺は君に助けてもらってばかりだ…。本当に感謝のしようもないよ…。本当にありがとうカエデ。こんな情けない俺を傍に置いてくれて…。」
「椛がそんな事思う必要は無いんだよ…。椛がここにいるだけで私は嬉しいから…。だから…そんな事言わないで。」

彼女はそう言うと俺の身体を抱きしめてきた。
俺がここで目覚めたときにはもう既に彼女がいて、記憶を失った上に怪我をしていた俺をずっと看病してくれて労わってくれて、俺をこんなにも大事に思ってくれているカエデ。そんな彼女に俺はきっと惹かれているんだと思う。彼女に愛の言葉を伝えたい。けど言い出せない。なぜだかは分からない。好きだと言ってしまえばいいとわかっているのに頭に何か引っかかる物があるせいで全く言い出せない。

「どうしたの?考え事?」

気が付くとカエデが俺の顔を覗き込んでいた。そんな事を考えていた所為でどうやら俺は神妙な顔をしていたようだった。彼女にこれ以上の心配をかけるわけにはいかないと思い笑顔を作った。

「いや、何でもない。よし!作業の続きをしよう!今度は指を切らないように注意しないとな!」
「駄目だよ。また椛が指切っちゃうかもしれないから違う作業にしよ?この作業は私が後でやっておくから…。」

結局この日はカエデと一緒に別の作業を行った。また俺が怪我をしないか心配だったらしく、俺はカエデと密着した状態で作業する事になった。


カエデと一緒に作業をしている時にふと目線を外に向けると牡丹雪がしんしんと降ってい
た。もう季節は秋から冬に変わろうとしている。

「あ、雪だ。もうそんな季節なんだね。」
「これからきっとかなり寒くなるかな、参ったな。」
「私がいれば大丈夫だよ。椛が寒くなっても私が温めてあげる!ほら、こーやって!」

そう言いながらカエデは俺を抱きしめてきた。彼女の抱擁はとても温かく、そして何よりも安心する。彼女が傍にいてくれればきっと風邪を引くことはおろか寒さに震えることもないだろう。

「カエデはあったかいな。」
「えへ、椛もあったかいよ。」

彼女が抱擁の力を少し強めた。その行為を受けた俺は無性に彼女が恋しくなり、彼女を抱き寄せた。カエデは内心びっくりした様子だったが、顔を朱く染めて俺に満面の笑顔を向けてくれた。

「ずっと一緒にいようね…。急にどこかに行っちゃったりしないでね…。」
「どこにも行かないさ。俺は記憶が無いのに今更どこに行くって言うんだい?」
「うん、それもそうだね。」

少し肌寒い木造小屋の中二人で抱き合ってお互いの体温を感じながら、俺とカエデは降り積もっていく雪を窓から見ていた。山に冬が来ようとしていた。
15/12/08 00:16更新 / がしわーた
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■作者メッセージ
ここまで読んで下さってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

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