後編
ふと気が付けば俺は豪勢なステンドグラスの前に立っていた。一人で立っていたわけでは無く隣には女性がいた。純白のウエディングドレスに身を包み幸せそうな笑顔を浮かべている。
周りを見渡すと沢山の人がいる。どうやら俺と俺の隣にいる女性を祝福してくれているらしい。いまいち状況が呑み込めない俺にその女性は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「達郎さん、どうしたの？まだ、落ち着かない？」
「えっと…。あぁ…。」
「もぅ…せっかく私たちの結婚式なんだよ…新郎がしっかりしてないでどうするの？」
女性は頬を少し膨らませて周りに聞こえないように囁いた。
結婚式…。ああ、そうだ。俺は彼女と結婚するんだった。それで今俺たちは結婚式場の中にいてこれから彼女と婚姻を結ぶところだったんだ。思い出した。
「ごめん、俺がしっかりしなきゃな。」
「その意気だよ。」
彼女はそう言った直後、俺の手を握ってきた。そして俺の方へ向き、少しはにかんだ後、口を開き
「幸せになろうね」と言った。
彼女がそう言った瞬間に周りの風景が歪み、自分の頭に頭痛が走った。頭痛に耐えられなくなり反射的に目を閉じる。
頭痛が収まり、目を開けるとそこは薄暗い玄関であった。そしてそこはかつて自分が住んでいた家の玄関だった。妙な胸騒ぎがする中、俺は自分の身体が自分の意思に反して勝手に動いている事に気付いた。靴を脱ぎ、床に上がり、一歩一歩目の前の扉へ近づいていく。そして扉へ近づくにつれて激しい寒気と吐き気に襲われた。今すぐにでも扉から離れここから出たい。そう思う事はできるが、身体は言う事を聞いてくれず一歩、また一歩と扉へ近づいていく。
そして扉にたどり着きドアノブに手をかけ、俺は扉を開いた。
扉の先には一人の男性と一人の女性がいた。男女両方とも裸であり激しく交わっていた。男性の方に見覚えは無かったが、女性は見覚えがあった。
私の妻であった。
二人ともどうやら事に夢中らしく、俺が扉を開けた事に気付いていなかった。
俺じゃない別の男の一物を恍惚とした表情で受け入れ、今まで聞いたこともないような乱れた声を発している妻の姿を見て、俺は思わず嘔吐し、床に吐瀉物をぶちまけたように思ったが実際に体は嘔吐もしておらず床には吐瀉物もなかった。俺の体は二人の情事をただ単に傍観しているだけであった。
傍観し続けていると、妻との行為にふけっていた男が顔をこちらに向けていた。到底人間では考えられないような体制で。体と首が全く正反対の方向を向いている。男は顔を醜くゆがませて潰れたヒキガエルのような声で俺に向かって言った。
「かわいそうになぁ、お前、今からお前は独りぼっちだ。だってお前の女、俺が取っちゃったんだから！」
ゲラゲラと聞くに堪えがたい声で男は狂ったように笑い続けこちらを見ながら妻に腰を打ち付けていた。今すぐ男の顔を顔の形が無くなるまで叩き潰して妻を助けたかったが、相変わらず俺の身体は動かないままだった。助けるべき妻も恍惚とした表情で男の交わりを受けているだけであった。
絶望感に打ちひしがれた俺は立つ気力を無くしその場に座り込んでしまった。
「かわいそうに。」
「かわいそうに。」
「かわいそうに。」
周りから聞こえる憐みの声。ふと自分がいる周辺を見渡すと床や壁や天井に人の顔がいくつも浮かび上がっていた。誰のかもわからぬ無数の顔が憐みの表情を浮かべ、俺を見ている。恐怖を感じ、無数の顔に背を向けって玄関から外に出ようと振り返ると目の前に、カエデがいた。
「カエデ！」
思わず俺は彼女に助けを求め、彼女に抱き着いた。彼女は俺を優しく受け止めてくれた。だがいつも暖かいはずの彼女の身体がやけに冷たかった。ふとした違和感を覚え彼女の顔を見ると―
「かわいそうに。」
彼女は俺の顔を冷たい顔で見つめ、言い放った。
彼女にその言葉を言われ、急に自分の身体に力が入らなくなり、その場に倒れこんでしまった。俺はこのまま一人。そう考えた瞬間に自分の身体が床に沈んでいくのを感じた。全身から冷や汗が吹き出し、今すぐ抜け出さなければマズイと本能が警鐘を鳴らすが、身体は依然としてびくともしない。このまま俺は床に沈み込んであの顔の一つになる。そう考えている間にも体は床にずぶずぶと沈んでいく。床にいる顔たちは俺を歓迎している。俺たちといれば孤独じゃない。ずっといよう。と俺に言ってくる。
いやだ。死にたくない。あいつらみたいになりたくない。いやだ。いやだ。いやだ。沈む。沈む。沈む。
「っ！！…..はぁ….はぁ…。」
俺は飛び起き、荒れた息を整えた後、深いため息をついた。寝巻は自分の汗でぐっしょりと濡れ不快な感触を俺に与えていた。ベッドの脇を見るとカエデがいた。彼女は心配そうに自分の顔を見つめていた。
「大丈夫、椛？ひどくうなされてたけど…。」
「カエデ…。」
俺の事を心配そうに見つめる彼女。イエティのカエデ。俺がハイキングコースから落ちて重傷を負っている所を助けてくれた。いつも俺を大事に扱ってくれた彼女。大切な存在。だからこそ、この事は言わなければいけない。彼女もきっとそれを望んでいるはずだろう。
「俺、記憶が戻ったんだ。」
俺には昔、妻がいた。いつも家に帰れば暖かい食事を作ってくれて、俺の話を親身になって聞いてくれる優しい妻が。俺と妻の関係は良好だったはずだった。だが、ふと違和感が出てきたのは結婚してから2年後だった。その頃の俺は仕事の関係で家を何日か空ける時が多く、妻によく寂しい思いをさせていたと思う。しかし妻は応援してくれた。私の事は大丈夫だから仕事を頑張ってねと。その時は気付かなかったが、彼女には実は寂しがり屋な面があり、俺が仕事で遅くなると言えば少し悲しそうな顔をするはずなのだ。しかしあの時の妻は寂しがる素振りを微塵も見せなかった。
そしてある日仕事が早く終わり、いつもより早めに家に帰ると見知らぬ男性と交わっている妻の姿を目撃してしまった。それを目撃した時、俺は何とも言えない虚無感に包まれた。自分の目の前に映っている光景が、今まで妻と築いてきた全てを壊したような気がした。
そう思った瞬間俺はその場に座り込んでしまった。俺が座り込んだ物音で二人ともこちらを向いて顔面蒼白になった。彼女は最近俺に内緒でバーに通っていたらしい。俺が家を仕事の為に長期間空けて寂しくなっていて彼女は人恋しさにバーに行き酒を飲んでいた。その時に知り合ったのがこの男性だった。彼が彼女の寂しさを埋めていたらしく、それが積もりに積もって今回の事に発展したらしい。
二年間愛し合っていたはずの妻の突然の裏切りで俺は女性が怖くなった。彼女が怖くなった俺は妻と離婚することをその場で伝えた。
彼女と離婚してから疑心暗鬼の癖がついてしまい、ほんの些細な事でも気にするようになってしまった。それで気の迷いが生じたのか仕事が全くうまくいかなくなった。仕事がうまくいかないせいで周りからの信頼は落ちていく一方。それを見かねた後輩がハイキングに誘ってくれて、それで後輩と一緒に山に行って俺は落ちて記憶を失い、俺はカエデと出会った。
「そういうわけさ。」
俺はカエデに今まで自分に何があったのかを一切合切話した。彼女は俺の話を親身になって聞いてくれていた。彼女は話を聞き終えると俺を優しく抱きしめてきた。
「今まで辛かったよね…。苦しかったよね…。椛…。もう頑張らなくていいよ…。私がずっと椛の傍にいるからね…。苦しい思いや悲しい思いはもうさせないから…。」
彼女はそう言いながら俺の頭をふわふわの手で撫でる。彼女からかけられる労わりの言葉。
果たしてそれは本当なのか。どうにも分からない。彼女だってその気になればすぐに俺を裏切る事だってありうる。彼女は今は話を聞いて俺を憐れんでいるだけなのではないか。そんな考えが俺の頭には残ったままだった。
「君の心は冷えきってるから、私が温めてあげる…。」
彼女は俺を憐れんでいるから、こんな事が言えるのだ。きっとこれは彼女の本心じゃない。時間がたてば彼女は俺に愛想を尽かすだろう。愛想を尽かして俺の事を疎ましく思う事だろう。などとそのようなマイナス思考の連鎖が俺の頭を埋め尽くす。
「やめてくれ…駄目だ…こんな事…。」
「大丈夫…。心配しなくても私が全部やってあげるから….私が幸せにしてあげるから…。」
だめだ。彼女は気付いていない。彼女が今抱いている感情は一時的なものなんだ。こんな俺に向けられていいものなんかじゃない。こんな事じゃ彼女が穢れてしまう。こんなことで彼女は汚されてはいけない。
頬を朱に染めて服を脱いで迫ってくる彼女を見て、俺の頭は更にネガティブな考えから訳の分からぬ考えに埋め尽くされていく。
「一緒に幸せに…なろうね…。」
彼女との距離はもう目と鼻の先であった。その時に俺に一つの考えが浮かんだ。俺が彼女の元からいなくなってしまえば彼女は汚されずに済む。それを思いつくと同時に俺は彼女を押しのけた。
「やめろ！」
「ひゃっ！？」
俺に突き飛ばされ、床に倒れる彼女。彼女が倒れている間に俺は扉へ走った。内側にかかっているカギを開けて扉を開ける。扉を開けると同時に突き刺すような冷気が激しい風と共に入ってきた。外は吹雪であった。この吹雪の中を行こうと思うにはまだ勇気が少し足りないように思えた。このまま何も事前情報なしに吹雪の中へ足を踏み出せば生きて帰れる保証は無かった。
いや、何を躊躇しているのだろう。今更生き延びたとしても何があるだろうか。そうだ。ハイキングに登る前に俺はビルから飛び降りようとしてたじゃないか。この吹雪はこの俺を哀れに思った神様からの最後の慈悲なのかもしれない。きっと最後の死に場所を用意してくれたのだ。そう考え俺が一歩踏み出そうとしたその時だった。
「待って…。」
か細く儚い声が後ろから聞こえた。俺は足を止めて後ろを向いた。後ろにはカエデが立っていた。そして今にも泣きそうな顔で俺に近づいてきて、俺の手を握った。
「行かないで…。」
涙交じりの声で俺に言うカエデ。そんな彼女を見て俺は少し躊躇した。彼女に嫌な思いをさせているのではないのかと思ったが、結局彼女の元にいたところで俺は彼女の重りになってしまう。そんな事になるぐらいなら、いっそ彼女の元から消えよう。
「俺なんかがいなくても君は大丈夫さ。」
俺は彼女に振り向き際に一言言った後、彼女の手を振りほどき、白くて冷たい死の世界へどこへ行くかもわからず走った。
走っている途中で後ろを振り向いたが彼女は追ってきていなかった。やっぱり彼女にとって俺はどうでもいい存在だったんだ。その確信が持てて俺は煮え切らない思いとすっきりとした思いの両方を抱えながら吹雪の中ひたむきに走った。
「どうしよう…。」
彼に嫌われてしまったかもしれない。彼が、いなくなってしまったら私はもう一生一人で何もない寂しい生活を送っていかなければならない。もう一人は嫌だった。この際なら何でもいい。彼に嫌われていてもいい。もう一度彼を説得する。絶対にあなたを凍えながら死なせたりはしない。あなたを山の中で見つけた時から私はあなたを守ると決めていたんだもの。私の前からあなたが消えるなんて絶対に嫌だ。私はもう二度と大切な人を失くしたくない。
私はそう決心すると、吹雪で視界がはっきりしない中、彼を探しに家を出発した。彼の精の匂いを頼りに。
「待っててね…!!」
外はかなりの勢いで吹雪いており、気温もかなり低かった。並の人間ならきっとすぐに凍えて死んでしまうだろう。彼の命が危ない。早くいかなければ…。
目の前に広がるのは真っ白な雪。かなり長い時間この吹雪の中を走り続けてきたが、そろそろ俺の体は限界だった。
そう思考した途端に体から力が抜け、俺はその場に倒れこんだ。雪の中に倒れこんだ瞬間に自分の体温が急速に奪われていく。そして体温が低くなっていくと同時に自分の命が消えていくのを実感した。自分はここで死ぬ。そう頭で理解した瞬間に自分の意識が遠のいていく。
これでいい。俺はここで死ぬ。雪に埋もれて誰にも見つからずに、誰にも知られずに死ぬ。これでいいんだ―
俺は自分の身体が雪に包まれていくのを感じながら、意識を手放した。
…！！椛…！！椛っ！！
呼んでいる。誰かの声。消えかけていた自分の意識が少し戻ってくる。意識が戻ったと同時に全身を刺し貫くような冷たさが俺を襲った。完全に凍えてしまって動かなくなってしまった体に鞭を打ち何とか体を起こす。すると目の前には涙で顔をぐしゃぐしゃにしたカエデが立っていた。
カエデは俺の顔を見るなり目にも止まらぬ速さで俺の体を抱きしめた。
「死なないで…。お願い…。死なないで…。」
カエデは涙交じりの声で呟きながら俺の体を抱きしめ、俺を温めてくれている。俺は彼女の体温に身を委ねた。吹雪の中だという事を忘れさせるほどにカエデの抱擁は温かく、安心するものであり、完全に冷たくなってしまった俺の身体は彼女によって熱を取り戻そうとしていた。俺はしばらくの間カエデの抱擁に身を任せ、まどろみの中へ落ちて行った。
ふと彼女の腕の中で気が付くと、さっきまでは無かった手足の感覚が不思議と戻ってきていた。それと同時にぼんやりしていた意識が次第に明瞭になってくる。ふと顔を上げるとカエデと目が合った。
「バカ！椛のバカ！なんでこんな吹雪の中、外に出て行っちゃうの！？椛は人間なんだよ！？私と違うんだよ！？こんなところに長い間一人でいたら死んじゃうんだよ！？死んじゃったらどうするの！？」
カエデと目が合った瞬間カエデは今までにない気迫で俺に迫って俺を怒鳴った。今まで見た事のない彼女の気迫に少し俺は驚愕した。
だが、彼女の言い分はごもっともだろう。俺は自分で勝手に決めてカエデの意見も聞かず、彼女を拒んでしまって、挙句の果てに死にそうになって、そして結局彼女に助けられた。こんなことでは怒られても仕方がない。
「よかった…死ななくてよかったよぉ…！！」
「カエデ…。」
目に涙を浮かべたカエデは抱擁の力をさらに強めてきた。すすり泣きながらかすかな声で「よかった」とつぶやいている。
ここまで自分の事を思ってくれていたカエデの姿に俺は少し前カエデに言った事を思い出し、自分を悔いた。ここまで自分の事を思ってくれているカエデがいたのに、俺は彼女を拒絶した。俺はカエデの事を何も考えずに自己中心的な行動をとって、更に彼女に迷惑をかけてしまった。そんな自分に嫌気がさしてしまう。
とりあえず彼女に謝らなくてはいけない。俺はそう考えた。
「ごめんな、カエデ。俺はやっぱりバカだよ。君がこんなに俺の事を心配してくれている事に気が付かなかったんだから。こんな事許してもらえないかもしれないけど謝らせてくれ。本当にすまなかった。」
「バカ！バカ！椛のバカぁ！そんな事なんかどうでもいい！椛が生きているだけでいい！」
カエデは涙交じりの声で必死に俺に訴えた。カエデは俺の胸に顔を埋めて小さく泣いていた。俺は彼女が泣き止むまで彼女の身体を抱きしめ続けた。
「私は椛の事が好き。」
「…。」
しばらくして泣き止んだカエデは唐突に俺の顔を見て、言った。彼女からその言葉を受けた俺は黙り込んでしまった。
「好き」「愛している」その言葉に俺はまだ抵抗があった。今この場で好きだとしてもまた時間が経つにつれてきっとその思いは消えてしまって、また俺は裏切られるのではないだろうか。俺は無意識にそう考えてしまい、黙り込んでしまった。そんな事を悶々と考えているとカエデがずっと俺の顔を覗き込んでいた。
「ねぇ椛、また裏切られるんじゃないかって考えたでしょ。」
「っ！」
図星だった。自分が今まさに考えていた事を的確に当てられて少し動揺した。そして俺が動揺しているのに気づいたのか、カエデは俺の頭を抱きしめて自分の胸元へ引き寄せた。暖かくて柔らかい感触と共に感じたのは彼女の心音だった。カエデから発せられる心音は
力強く、早かった。
「椛、私が椛を裏切るなんて事は絶対にないよ。絶対に。私たち魔物は一度愛した人を絶対に裏切ったりしない。今の私の心の音、聞こえるでしょ？ほら、椛が近くにいるだけで、椛が抱きしめてくれるだけで、椛がここにいるだけで、こんなにもドキドキしてる。」
俺はカエデの胸から顔を上げるとカエデは頬を朱く染めて少し照れたようにはにかんでいた。
「でも、俺はこんなにも情けない人間なんだぞ、すぐに人の事を疑って自分で勝手にありもしないことを考えて精神が不安定になって、こんな俺はきっと幸せになんかなれない。君に迷惑をかけ続けるだけだ。」
俺の言葉を聞いたカエデは俺の顔を両手で包んだ。そして目の前にカエデの顔が来る。
カエデはおでこを俺のおでこにくっつけ目を閉じ俺を諭すように口を開いた。
「大丈夫。椛は幸せになれるよ。もう二度と嫌われるなんて考えなくていいように、裏切られる事なんて考えなくていいようになれる。もしうまくいかなくても私がずっと椛の傍にいて椛を支える。絶対に椛の事を迷惑なんて思わないよ。」
カエデの言葉を聴いて俺は確信した。きっとカエデは俺を幸せにしてくれる。そう思った瞬間俺は救われた気持ちになった。そして、今自分の目の前にいるカエデが無性に愛おしくなった。記憶喪失になった時からずっと自分を心配し続けてくれたカエデ。あの時は言えなかったが、今ならきっと彼女に言えるだろう。
「カエデ。」
「うん。」
「君の事が、好き―」
俺の言葉を言い終わる前にカエデは俺に抱き着いていた。そしてそれと同時にカエデは俺を押し倒した。
「嬉しい。椛からその言葉が聞けて私は、本当に嬉しい…。私も椛の事、大好き！」
カエデはそう言いながら俺への抱擁の力を強める。俺もカエデに負けまいと彼女を強く抱きしめた。俺たちはお互いの気持ちを確かめ合うように雪の中ずっと抱き合っていた。吹雪は次第に止みつつあり、俺達はお互いに抱き合いながらカエデの家へ帰った。
カエデの家に帰ってすぐに彼女は俺を抱きかかえたまま、片手とは思えないほどの手際の良さで暖炉に火をつけた。更にカエデはベッドから毛布を持ってきて、彼女の身体全体を俺の身体もろとも包みこんだ。彼女曰く長時間冷たい冷たい雪の中にいたのだからこれぐらいしないと風邪を引いちゃうだそうだ。正直彼女に抱きしめられているだけで寒気は全く無く、逆に暖かいのだ。既に暖かい状態の二人で毛布に包まって暖炉の前に座る。しかも後ろには発育の良いカエデが俺の身体に密着しており下半身にも熱が溜まる。彼女の柔らかいマシュマロのような胸が俺の背中に押し当てられる度に自分の喉がカラカラに乾くのを感じた。彼女を自分の欲望のままに押し倒してめちゃくちゃにしたい。自分の頭の中でそんな欲求が不意に頭の中に出てくる。すぐに理性がその考えを否定しようとするが身体は正直でそんな下種な考えを否定しようとすればするほどカエデの身体を意識してしまって自分の愚息が更に固くなっていくばかりであった。そんな状況に悶々としていると不意にカエデから声をかけられた。
「ねぇ、椛。」
「うん？」
「椛はさ、私たち魔物が何を栄養に生きてるか知ってる？」
「あー…知ってる事は…知ってる。」
魔物の主な栄養源は人間の男性から発せられる生命エネルギー。別名「精」である。この精が最も含まれているのは男性の生殖器から発生する精液である。こんな文章を昔読んだことがある。魔物が現代に現れ始めた時、少し興味がわいたので魔物についての本を借りて、その本の中にあった文章だと思う。今このタイミングで彼女がこのような事を聞いてくるのはきっとそういう事だと思う。そう頭の中で勝手に結論付け、俺は覚悟を決めて彼女の方へ体を向けた。
カエデは顔を朱く染めてにんまりとしていた。それは慈悲深い優しい顔のようにも見えたし、熟練の娼婦が見せるような淫らな顔にも見えた。彼女と目が合った瞬間に俺は彼女に抱き寄せられると同時に唇を奪われた。
「…!?」
「ん…。れろ…。」
カエデとのキスは唇同士のふれあいで終わるキスではなく互いに舌を交じり合わせる濃厚なキスだった。彼女の絶妙な舌遣いに俺はただひたすら震える事しかできなかった。これが魔物とのキス。キスするだけで絶頂しそうなほどの快楽が身体にしみこんでくる。カエデは無我夢中に俺の舌を舐めしゃぶり、絡めてきた。まるで彼女の舌が別の生き物のように俺の舌にまとわりつき、無限の快楽を俺に与えてくる。
「…っは！」
「んっ…はぁ…はぁ…まだ出したら駄目だよ？」
俺がもう少しで絶頂する寸前でカエデは口を離した。彼女と俺の口の間にもうどちらのものか分からない暖炉の淡い光に照らされ光るよだれのアーチが出来ていた。だらしなく口を開いた彼女の姿に俺は興奮し更に自分の愚息が固くなるのを感じた。早く出して楽になりたい。その思考が自分の頭の中を塗りつぶす。
「はぁ…はぁ…」
「それ、とっても苦しそう…。脱がせてあげる…。じっとしててね…。」
カエデは俺を抱いたまま起用に俺のズボンと下着を脱がした。服を脱がすと同時にばねのように自分の愚息が飛び出した。今までにないくらいにそりたつ自分の愚息はその先端をカウパー液で怪しくてからせていた。
「すごい、これが椛の…。大丈夫だよ…。すぐ入れてあげるから….。」
「カエデ…。」
「一緒に気持ちよくなろうね。嫌な事や、怖い事、不安な事、全部忘れさせてあげる…。」
「あぁぁ…。」
その後カエデと俺は暖炉で燃え盛る炎のようにひたすら交わりあった。お互い時間の感覚を忘れ、快楽で気を失い、目覚めては交わりを繰り返した。
あの吹雪の夜に俺とカエデが交わった後、色々な事が起きた。まず後輩の拓也へ生存報告をしに行った事。俺が落ちた時、拓也は必死に俺の事を探してくれていたらしい。俺が会いに行ったとき拓也は鼻水を垂らしながら俺に寄ってきて俺の生存を喜んでくれた。拓也の話によると世間での俺の生存はもはや絶望視されていたらしく、レスキュー隊による救助も断念されたそうだ。それでも拓也は諦めきれず仕事の合間を縫ってひたすら俺を捜索してくれていたそうだ。今彼は捜索を協力してくれた魔物の女性と交際をしているようで、毎日が幸せだそうだ。
次に俺は務めていた会社へ辞表を提出した。会社へ行く時、俺の席はきっと無いだろうから辞表はいらないかと思っていたが、以外にも社長の意向で俺の席は残されていた。社長に辞表を提出した際に社長は深く問い詰める事はせずすんなりと辞表を了承してくれた。社長の意向に感謝し、お礼と感謝の気持ちを社長に告げ、俺は正式に会社を辞めた。
次は引っ越しであった。ずっと一人で住んでいたアパートの荷物を軽く整理し、いらないものを捨て、必要なものは全てカエデの家へ持って行った。この時はカエデや拓也達が共に手伝ってくれたので、小さいアパートから山奥にあるカエデの家への引っ越しは割とスムーズに進んだ。
このような事をしている内に寒い冬は終わりを告げ、今俺とカエデが住んでいる山には春が来ようとしていた。それもそのはず雪が次第に少なくなり、最近では日中に少し汗ばむような気温になることも少なくはない。今日もかなり暖かく、日差しも良好である。俺たちはこの機会を逃すものかと二人で冬の間溜まりに溜まっていた洗濯物を干していた。
「最近この辺りも温かくなってきたねぇ。ポカポカ陽気で居眠りしちゃいそうだよ。」
「はは、じゃあカエデが居眠りしないうちに全部干さないとな。」
「全部終わるまで居眠りなんてしないよ！もう！椛は冗談が通じないんだから！」
「ごめん、ごめん。そんなに怒るなよ。」
むくれてそっぽを向いているカエデを洗濯物を干しながらなだめる。だが彼女は一向にそっぽを向いたままで俺の方を見ようともしない。
「なぁ、悪かったって。カエデ。」
「ふん！椛の事なんか知らないもん！」
更にカエデに言葉をかけてみるが、カエデの機嫌は一向に治る気配がない。手を出し尽くした俺は最終手段に出ることにした。俺はカエデにおもむろに近づいて彼女の身体を抱きしめた。すると拗ねてむくれたカエデの顔が一転し、いつもの可愛らしい太陽のような笑顔が戻り、すかさずカエデも俺を抱きしめた。
「えへ、椛に抱きしめてもらうの、大好き。」
「俺もカエデを抱きしめるのが大好きだ。」
「えへへ…。」
俺たちはしばらくそのままお互いの身体を抱きしめあっていた。お互いに言葉は無かったが言葉は無くてもお互いの気持ちが手に取るように理解できた。幸せ。俺達二人の間にあるのはそんな単純でシンプルな気持ちだった。密着した時に彼女から聞こえる彼女の心音ともう一つ別の心音。彼女の中に新しい生命が宿っている。俺とカエデの愛の結晶。俺たちの子供。今でも十分に幸せであるが、きっと新しい家族が増えればもっと幸せな生活が送れるだろう。
そう俺が考えていると、カエデがおもむろに声をかけた。
「ねぇ、椛、私たちの子供の名前、何がいいかな？」
「そうだなぁ、どんな名前がいいかな。」
新しく産まれてくる子供の名前。カエデや椛はどちらも秋の風物詩だ。俺たちと同じ秋関係の名前でもいいかもしれないが、せっかくだし全く別の名前にしてもいいと思う。例えば今の季節は春だから春から名前を取るのもいいかもしれないな…。
「ねぇ、椛、私ね、さっそくだけどもうどんな名前にするか決めちゃった。」
「実はもう俺も決まったんだ。」
子供の名前は春から取ろう。優しくて暖かい子に育ってほしいから。きっとカエデに似ていい子になるはずだ。俺のダメな所は似てほしくないけど、そんな事はカエデの前では言わないし、考えないようにしよう。きっとこれから来る幸せが逃げるかもしれないから。
温かい日差しと爽やかなそよ風は俺達家族を優しく包んでくれた。まるでこれから俺たちに訪れる不幸を遮るように、家の庭から見える景色はどれも輝いて見えた。木が、森が、草花が俺たちを祝福している。そんな事を俺とカエデは感じながら二人で抱き合って遠くの青空を見ていた。
山に春が訪れようとしていた。
周りを見渡すと沢山の人がいる。どうやら俺と俺の隣にいる女性を祝福してくれているらしい。いまいち状況が呑み込めない俺にその女性は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「達郎さん、どうしたの？まだ、落ち着かない？」
「えっと…。あぁ…。」
「もぅ…せっかく私たちの結婚式なんだよ…新郎がしっかりしてないでどうするの？」
女性は頬を少し膨らませて周りに聞こえないように囁いた。
結婚式…。ああ、そうだ。俺は彼女と結婚するんだった。それで今俺たちは結婚式場の中にいてこれから彼女と婚姻を結ぶところだったんだ。思い出した。
「ごめん、俺がしっかりしなきゃな。」
「その意気だよ。」
彼女はそう言った直後、俺の手を握ってきた。そして俺の方へ向き、少しはにかんだ後、口を開き
「幸せになろうね」と言った。
彼女がそう言った瞬間に周りの風景が歪み、自分の頭に頭痛が走った。頭痛に耐えられなくなり反射的に目を閉じる。
頭痛が収まり、目を開けるとそこは薄暗い玄関であった。そしてそこはかつて自分が住んでいた家の玄関だった。妙な胸騒ぎがする中、俺は自分の身体が自分の意思に反して勝手に動いている事に気付いた。靴を脱ぎ、床に上がり、一歩一歩目の前の扉へ近づいていく。そして扉へ近づくにつれて激しい寒気と吐き気に襲われた。今すぐにでも扉から離れここから出たい。そう思う事はできるが、身体は言う事を聞いてくれず一歩、また一歩と扉へ近づいていく。
そして扉にたどり着きドアノブに手をかけ、俺は扉を開いた。
扉の先には一人の男性と一人の女性がいた。男女両方とも裸であり激しく交わっていた。男性の方に見覚えは無かったが、女性は見覚えがあった。
私の妻であった。
二人ともどうやら事に夢中らしく、俺が扉を開けた事に気付いていなかった。
俺じゃない別の男の一物を恍惚とした表情で受け入れ、今まで聞いたこともないような乱れた声を発している妻の姿を見て、俺は思わず嘔吐し、床に吐瀉物をぶちまけたように思ったが実際に体は嘔吐もしておらず床には吐瀉物もなかった。俺の体は二人の情事をただ単に傍観しているだけであった。
傍観し続けていると、妻との行為にふけっていた男が顔をこちらに向けていた。到底人間では考えられないような体制で。体と首が全く正反対の方向を向いている。男は顔を醜くゆがませて潰れたヒキガエルのような声で俺に向かって言った。
「かわいそうになぁ、お前、今からお前は独りぼっちだ。だってお前の女、俺が取っちゃったんだから！」
ゲラゲラと聞くに堪えがたい声で男は狂ったように笑い続けこちらを見ながら妻に腰を打ち付けていた。今すぐ男の顔を顔の形が無くなるまで叩き潰して妻を助けたかったが、相変わらず俺の身体は動かないままだった。助けるべき妻も恍惚とした表情で男の交わりを受けているだけであった。
絶望感に打ちひしがれた俺は立つ気力を無くしその場に座り込んでしまった。
「かわいそうに。」
「かわいそうに。」
「かわいそうに。」
周りから聞こえる憐みの声。ふと自分がいる周辺を見渡すと床や壁や天井に人の顔がいくつも浮かび上がっていた。誰のかもわからぬ無数の顔が憐みの表情を浮かべ、俺を見ている。恐怖を感じ、無数の顔に背を向けって玄関から外に出ようと振り返ると目の前に、カエデがいた。
「カエデ！」
思わず俺は彼女に助けを求め、彼女に抱き着いた。彼女は俺を優しく受け止めてくれた。だがいつも暖かいはずの彼女の身体がやけに冷たかった。ふとした違和感を覚え彼女の顔を見ると―
「かわいそうに。」
彼女は俺の顔を冷たい顔で見つめ、言い放った。
彼女にその言葉を言われ、急に自分の身体に力が入らなくなり、その場に倒れこんでしまった。俺はこのまま一人。そう考えた瞬間に自分の身体が床に沈んでいくのを感じた。全身から冷や汗が吹き出し、今すぐ抜け出さなければマズイと本能が警鐘を鳴らすが、身体は依然としてびくともしない。このまま俺は床に沈み込んであの顔の一つになる。そう考えている間にも体は床にずぶずぶと沈んでいく。床にいる顔たちは俺を歓迎している。俺たちといれば孤独じゃない。ずっといよう。と俺に言ってくる。
いやだ。死にたくない。あいつらみたいになりたくない。いやだ。いやだ。いやだ。沈む。沈む。沈む。
「っ！！…..はぁ….はぁ…。」
俺は飛び起き、荒れた息を整えた後、深いため息をついた。寝巻は自分の汗でぐっしょりと濡れ不快な感触を俺に与えていた。ベッドの脇を見るとカエデがいた。彼女は心配そうに自分の顔を見つめていた。
「大丈夫、椛？ひどくうなされてたけど…。」
「カエデ…。」
俺の事を心配そうに見つめる彼女。イエティのカエデ。俺がハイキングコースから落ちて重傷を負っている所を助けてくれた。いつも俺を大事に扱ってくれた彼女。大切な存在。だからこそ、この事は言わなければいけない。彼女もきっとそれを望んでいるはずだろう。
「俺、記憶が戻ったんだ。」
俺には昔、妻がいた。いつも家に帰れば暖かい食事を作ってくれて、俺の話を親身になって聞いてくれる優しい妻が。俺と妻の関係は良好だったはずだった。だが、ふと違和感が出てきたのは結婚してから2年後だった。その頃の俺は仕事の関係で家を何日か空ける時が多く、妻によく寂しい思いをさせていたと思う。しかし妻は応援してくれた。私の事は大丈夫だから仕事を頑張ってねと。その時は気付かなかったが、彼女には実は寂しがり屋な面があり、俺が仕事で遅くなると言えば少し悲しそうな顔をするはずなのだ。しかしあの時の妻は寂しがる素振りを微塵も見せなかった。
そしてある日仕事が早く終わり、いつもより早めに家に帰ると見知らぬ男性と交わっている妻の姿を目撃してしまった。それを目撃した時、俺は何とも言えない虚無感に包まれた。自分の目の前に映っている光景が、今まで妻と築いてきた全てを壊したような気がした。
そう思った瞬間俺はその場に座り込んでしまった。俺が座り込んだ物音で二人ともこちらを向いて顔面蒼白になった。彼女は最近俺に内緒でバーに通っていたらしい。俺が家を仕事の為に長期間空けて寂しくなっていて彼女は人恋しさにバーに行き酒を飲んでいた。その時に知り合ったのがこの男性だった。彼が彼女の寂しさを埋めていたらしく、それが積もりに積もって今回の事に発展したらしい。
二年間愛し合っていたはずの妻の突然の裏切りで俺は女性が怖くなった。彼女が怖くなった俺は妻と離婚することをその場で伝えた。
彼女と離婚してから疑心暗鬼の癖がついてしまい、ほんの些細な事でも気にするようになってしまった。それで気の迷いが生じたのか仕事が全くうまくいかなくなった。仕事がうまくいかないせいで周りからの信頼は落ちていく一方。それを見かねた後輩がハイキングに誘ってくれて、それで後輩と一緒に山に行って俺は落ちて記憶を失い、俺はカエデと出会った。
「そういうわけさ。」
俺はカエデに今まで自分に何があったのかを一切合切話した。彼女は俺の話を親身になって聞いてくれていた。彼女は話を聞き終えると俺を優しく抱きしめてきた。
「今まで辛かったよね…。苦しかったよね…。椛…。もう頑張らなくていいよ…。私がずっと椛の傍にいるからね…。苦しい思いや悲しい思いはもうさせないから…。」
彼女はそう言いながら俺の頭をふわふわの手で撫でる。彼女からかけられる労わりの言葉。
果たしてそれは本当なのか。どうにも分からない。彼女だってその気になればすぐに俺を裏切る事だってありうる。彼女は今は話を聞いて俺を憐れんでいるだけなのではないか。そんな考えが俺の頭には残ったままだった。
「君の心は冷えきってるから、私が温めてあげる…。」
彼女は俺を憐れんでいるから、こんな事が言えるのだ。きっとこれは彼女の本心じゃない。時間がたてば彼女は俺に愛想を尽かすだろう。愛想を尽かして俺の事を疎ましく思う事だろう。などとそのようなマイナス思考の連鎖が俺の頭を埋め尽くす。
「やめてくれ…駄目だ…こんな事…。」
「大丈夫…。心配しなくても私が全部やってあげるから….私が幸せにしてあげるから…。」
だめだ。彼女は気付いていない。彼女が今抱いている感情は一時的なものなんだ。こんな俺に向けられていいものなんかじゃない。こんな事じゃ彼女が穢れてしまう。こんなことで彼女は汚されてはいけない。
頬を朱に染めて服を脱いで迫ってくる彼女を見て、俺の頭は更にネガティブな考えから訳の分からぬ考えに埋め尽くされていく。
「一緒に幸せに…なろうね…。」
彼女との距離はもう目と鼻の先であった。その時に俺に一つの考えが浮かんだ。俺が彼女の元からいなくなってしまえば彼女は汚されずに済む。それを思いつくと同時に俺は彼女を押しのけた。
「やめろ！」
「ひゃっ！？」
俺に突き飛ばされ、床に倒れる彼女。彼女が倒れている間に俺は扉へ走った。内側にかかっているカギを開けて扉を開ける。扉を開けると同時に突き刺すような冷気が激しい風と共に入ってきた。外は吹雪であった。この吹雪の中を行こうと思うにはまだ勇気が少し足りないように思えた。このまま何も事前情報なしに吹雪の中へ足を踏み出せば生きて帰れる保証は無かった。
いや、何を躊躇しているのだろう。今更生き延びたとしても何があるだろうか。そうだ。ハイキングに登る前に俺はビルから飛び降りようとしてたじゃないか。この吹雪はこの俺を哀れに思った神様からの最後の慈悲なのかもしれない。きっと最後の死に場所を用意してくれたのだ。そう考え俺が一歩踏み出そうとしたその時だった。
「待って…。」
か細く儚い声が後ろから聞こえた。俺は足を止めて後ろを向いた。後ろにはカエデが立っていた。そして今にも泣きそうな顔で俺に近づいてきて、俺の手を握った。
「行かないで…。」
涙交じりの声で俺に言うカエデ。そんな彼女を見て俺は少し躊躇した。彼女に嫌な思いをさせているのではないのかと思ったが、結局彼女の元にいたところで俺は彼女の重りになってしまう。そんな事になるぐらいなら、いっそ彼女の元から消えよう。
「俺なんかがいなくても君は大丈夫さ。」
俺は彼女に振り向き際に一言言った後、彼女の手を振りほどき、白くて冷たい死の世界へどこへ行くかもわからず走った。
走っている途中で後ろを振り向いたが彼女は追ってきていなかった。やっぱり彼女にとって俺はどうでもいい存在だったんだ。その確信が持てて俺は煮え切らない思いとすっきりとした思いの両方を抱えながら吹雪の中ひたむきに走った。
「どうしよう…。」
彼に嫌われてしまったかもしれない。彼が、いなくなってしまったら私はもう一生一人で何もない寂しい生活を送っていかなければならない。もう一人は嫌だった。この際なら何でもいい。彼に嫌われていてもいい。もう一度彼を説得する。絶対にあなたを凍えながら死なせたりはしない。あなたを山の中で見つけた時から私はあなたを守ると決めていたんだもの。私の前からあなたが消えるなんて絶対に嫌だ。私はもう二度と大切な人を失くしたくない。
私はそう決心すると、吹雪で視界がはっきりしない中、彼を探しに家を出発した。彼の精の匂いを頼りに。
「待っててね…!!」
外はかなりの勢いで吹雪いており、気温もかなり低かった。並の人間ならきっとすぐに凍えて死んでしまうだろう。彼の命が危ない。早くいかなければ…。
目の前に広がるのは真っ白な雪。かなり長い時間この吹雪の中を走り続けてきたが、そろそろ俺の体は限界だった。
そう思考した途端に体から力が抜け、俺はその場に倒れこんだ。雪の中に倒れこんだ瞬間に自分の体温が急速に奪われていく。そして体温が低くなっていくと同時に自分の命が消えていくのを実感した。自分はここで死ぬ。そう頭で理解した瞬間に自分の意識が遠のいていく。
これでいい。俺はここで死ぬ。雪に埋もれて誰にも見つからずに、誰にも知られずに死ぬ。これでいいんだ―
俺は自分の身体が雪に包まれていくのを感じながら、意識を手放した。
…！！椛…！！椛っ！！
呼んでいる。誰かの声。消えかけていた自分の意識が少し戻ってくる。意識が戻ったと同時に全身を刺し貫くような冷たさが俺を襲った。完全に凍えてしまって動かなくなってしまった体に鞭を打ち何とか体を起こす。すると目の前には涙で顔をぐしゃぐしゃにしたカエデが立っていた。
カエデは俺の顔を見るなり目にも止まらぬ速さで俺の体を抱きしめた。
「死なないで…。お願い…。死なないで…。」
カエデは涙交じりの声で呟きながら俺の体を抱きしめ、俺を温めてくれている。俺は彼女の体温に身を委ねた。吹雪の中だという事を忘れさせるほどにカエデの抱擁は温かく、安心するものであり、完全に冷たくなってしまった俺の身体は彼女によって熱を取り戻そうとしていた。俺はしばらくの間カエデの抱擁に身を任せ、まどろみの中へ落ちて行った。
ふと彼女の腕の中で気が付くと、さっきまでは無かった手足の感覚が不思議と戻ってきていた。それと同時にぼんやりしていた意識が次第に明瞭になってくる。ふと顔を上げるとカエデと目が合った。
「バカ！椛のバカ！なんでこんな吹雪の中、外に出て行っちゃうの！？椛は人間なんだよ！？私と違うんだよ！？こんなところに長い間一人でいたら死んじゃうんだよ！？死んじゃったらどうするの！？」
カエデと目が合った瞬間カエデは今までにない気迫で俺に迫って俺を怒鳴った。今まで見た事のない彼女の気迫に少し俺は驚愕した。
だが、彼女の言い分はごもっともだろう。俺は自分で勝手に決めてカエデの意見も聞かず、彼女を拒んでしまって、挙句の果てに死にそうになって、そして結局彼女に助けられた。こんなことでは怒られても仕方がない。
「よかった…死ななくてよかったよぉ…！！」
「カエデ…。」
目に涙を浮かべたカエデは抱擁の力をさらに強めてきた。すすり泣きながらかすかな声で「よかった」とつぶやいている。
ここまで自分の事を思ってくれていたカエデの姿に俺は少し前カエデに言った事を思い出し、自分を悔いた。ここまで自分の事を思ってくれているカエデがいたのに、俺は彼女を拒絶した。俺はカエデの事を何も考えずに自己中心的な行動をとって、更に彼女に迷惑をかけてしまった。そんな自分に嫌気がさしてしまう。
とりあえず彼女に謝らなくてはいけない。俺はそう考えた。
「ごめんな、カエデ。俺はやっぱりバカだよ。君がこんなに俺の事を心配してくれている事に気が付かなかったんだから。こんな事許してもらえないかもしれないけど謝らせてくれ。本当にすまなかった。」
「バカ！バカ！椛のバカぁ！そんな事なんかどうでもいい！椛が生きているだけでいい！」
カエデは涙交じりの声で必死に俺に訴えた。カエデは俺の胸に顔を埋めて小さく泣いていた。俺は彼女が泣き止むまで彼女の身体を抱きしめ続けた。
「私は椛の事が好き。」
「…。」
しばらくして泣き止んだカエデは唐突に俺の顔を見て、言った。彼女からその言葉を受けた俺は黙り込んでしまった。
「好き」「愛している」その言葉に俺はまだ抵抗があった。今この場で好きだとしてもまた時間が経つにつれてきっとその思いは消えてしまって、また俺は裏切られるのではないだろうか。俺は無意識にそう考えてしまい、黙り込んでしまった。そんな事を悶々と考えているとカエデがずっと俺の顔を覗き込んでいた。
「ねぇ椛、また裏切られるんじゃないかって考えたでしょ。」
「っ！」
図星だった。自分が今まさに考えていた事を的確に当てられて少し動揺した。そして俺が動揺しているのに気づいたのか、カエデは俺の頭を抱きしめて自分の胸元へ引き寄せた。暖かくて柔らかい感触と共に感じたのは彼女の心音だった。カエデから発せられる心音は
力強く、早かった。
「椛、私が椛を裏切るなんて事は絶対にないよ。絶対に。私たち魔物は一度愛した人を絶対に裏切ったりしない。今の私の心の音、聞こえるでしょ？ほら、椛が近くにいるだけで、椛が抱きしめてくれるだけで、椛がここにいるだけで、こんなにもドキドキしてる。」
俺はカエデの胸から顔を上げるとカエデは頬を朱く染めて少し照れたようにはにかんでいた。
「でも、俺はこんなにも情けない人間なんだぞ、すぐに人の事を疑って自分で勝手にありもしないことを考えて精神が不安定になって、こんな俺はきっと幸せになんかなれない。君に迷惑をかけ続けるだけだ。」
俺の言葉を聞いたカエデは俺の顔を両手で包んだ。そして目の前にカエデの顔が来る。
カエデはおでこを俺のおでこにくっつけ目を閉じ俺を諭すように口を開いた。
「大丈夫。椛は幸せになれるよ。もう二度と嫌われるなんて考えなくていいように、裏切られる事なんて考えなくていいようになれる。もしうまくいかなくても私がずっと椛の傍にいて椛を支える。絶対に椛の事を迷惑なんて思わないよ。」
カエデの言葉を聴いて俺は確信した。きっとカエデは俺を幸せにしてくれる。そう思った瞬間俺は救われた気持ちになった。そして、今自分の目の前にいるカエデが無性に愛おしくなった。記憶喪失になった時からずっと自分を心配し続けてくれたカエデ。あの時は言えなかったが、今ならきっと彼女に言えるだろう。
「カエデ。」
「うん。」
「君の事が、好き―」
俺の言葉を言い終わる前にカエデは俺に抱き着いていた。そしてそれと同時にカエデは俺を押し倒した。
「嬉しい。椛からその言葉が聞けて私は、本当に嬉しい…。私も椛の事、大好き！」
カエデはそう言いながら俺への抱擁の力を強める。俺もカエデに負けまいと彼女を強く抱きしめた。俺たちはお互いの気持ちを確かめ合うように雪の中ずっと抱き合っていた。吹雪は次第に止みつつあり、俺達はお互いに抱き合いながらカエデの家へ帰った。
カエデの家に帰ってすぐに彼女は俺を抱きかかえたまま、片手とは思えないほどの手際の良さで暖炉に火をつけた。更にカエデはベッドから毛布を持ってきて、彼女の身体全体を俺の身体もろとも包みこんだ。彼女曰く長時間冷たい冷たい雪の中にいたのだからこれぐらいしないと風邪を引いちゃうだそうだ。正直彼女に抱きしめられているだけで寒気は全く無く、逆に暖かいのだ。既に暖かい状態の二人で毛布に包まって暖炉の前に座る。しかも後ろには発育の良いカエデが俺の身体に密着しており下半身にも熱が溜まる。彼女の柔らかいマシュマロのような胸が俺の背中に押し当てられる度に自分の喉がカラカラに乾くのを感じた。彼女を自分の欲望のままに押し倒してめちゃくちゃにしたい。自分の頭の中でそんな欲求が不意に頭の中に出てくる。すぐに理性がその考えを否定しようとするが身体は正直でそんな下種な考えを否定しようとすればするほどカエデの身体を意識してしまって自分の愚息が更に固くなっていくばかりであった。そんな状況に悶々としていると不意にカエデから声をかけられた。
「ねぇ、椛。」
「うん？」
「椛はさ、私たち魔物が何を栄養に生きてるか知ってる？」
「あー…知ってる事は…知ってる。」
魔物の主な栄養源は人間の男性から発せられる生命エネルギー。別名「精」である。この精が最も含まれているのは男性の生殖器から発生する精液である。こんな文章を昔読んだことがある。魔物が現代に現れ始めた時、少し興味がわいたので魔物についての本を借りて、その本の中にあった文章だと思う。今このタイミングで彼女がこのような事を聞いてくるのはきっとそういう事だと思う。そう頭の中で勝手に結論付け、俺は覚悟を決めて彼女の方へ体を向けた。
カエデは顔を朱く染めてにんまりとしていた。それは慈悲深い優しい顔のようにも見えたし、熟練の娼婦が見せるような淫らな顔にも見えた。彼女と目が合った瞬間に俺は彼女に抱き寄せられると同時に唇を奪われた。
「…!?」
「ん…。れろ…。」
カエデとのキスは唇同士のふれあいで終わるキスではなく互いに舌を交じり合わせる濃厚なキスだった。彼女の絶妙な舌遣いに俺はただひたすら震える事しかできなかった。これが魔物とのキス。キスするだけで絶頂しそうなほどの快楽が身体にしみこんでくる。カエデは無我夢中に俺の舌を舐めしゃぶり、絡めてきた。まるで彼女の舌が別の生き物のように俺の舌にまとわりつき、無限の快楽を俺に与えてくる。
「…っは！」
「んっ…はぁ…はぁ…まだ出したら駄目だよ？」
俺がもう少しで絶頂する寸前でカエデは口を離した。彼女と俺の口の間にもうどちらのものか分からない暖炉の淡い光に照らされ光るよだれのアーチが出来ていた。だらしなく口を開いた彼女の姿に俺は興奮し更に自分の愚息が固くなるのを感じた。早く出して楽になりたい。その思考が自分の頭の中を塗りつぶす。
「はぁ…はぁ…」
「それ、とっても苦しそう…。脱がせてあげる…。じっとしててね…。」
カエデは俺を抱いたまま起用に俺のズボンと下着を脱がした。服を脱がすと同時にばねのように自分の愚息が飛び出した。今までにないくらいにそりたつ自分の愚息はその先端をカウパー液で怪しくてからせていた。
「すごい、これが椛の…。大丈夫だよ…。すぐ入れてあげるから….。」
「カエデ…。」
「一緒に気持ちよくなろうね。嫌な事や、怖い事、不安な事、全部忘れさせてあげる…。」
「あぁぁ…。」
その後カエデと俺は暖炉で燃え盛る炎のようにひたすら交わりあった。お互い時間の感覚を忘れ、快楽で気を失い、目覚めては交わりを繰り返した。
あの吹雪の夜に俺とカエデが交わった後、色々な事が起きた。まず後輩の拓也へ生存報告をしに行った事。俺が落ちた時、拓也は必死に俺の事を探してくれていたらしい。俺が会いに行ったとき拓也は鼻水を垂らしながら俺に寄ってきて俺の生存を喜んでくれた。拓也の話によると世間での俺の生存はもはや絶望視されていたらしく、レスキュー隊による救助も断念されたそうだ。それでも拓也は諦めきれず仕事の合間を縫ってひたすら俺を捜索してくれていたそうだ。今彼は捜索を協力してくれた魔物の女性と交際をしているようで、毎日が幸せだそうだ。
次に俺は務めていた会社へ辞表を提出した。会社へ行く時、俺の席はきっと無いだろうから辞表はいらないかと思っていたが、以外にも社長の意向で俺の席は残されていた。社長に辞表を提出した際に社長は深く問い詰める事はせずすんなりと辞表を了承してくれた。社長の意向に感謝し、お礼と感謝の気持ちを社長に告げ、俺は正式に会社を辞めた。
次は引っ越しであった。ずっと一人で住んでいたアパートの荷物を軽く整理し、いらないものを捨て、必要なものは全てカエデの家へ持って行った。この時はカエデや拓也達が共に手伝ってくれたので、小さいアパートから山奥にあるカエデの家への引っ越しは割とスムーズに進んだ。
このような事をしている内に寒い冬は終わりを告げ、今俺とカエデが住んでいる山には春が来ようとしていた。それもそのはず雪が次第に少なくなり、最近では日中に少し汗ばむような気温になることも少なくはない。今日もかなり暖かく、日差しも良好である。俺たちはこの機会を逃すものかと二人で冬の間溜まりに溜まっていた洗濯物を干していた。
「最近この辺りも温かくなってきたねぇ。ポカポカ陽気で居眠りしちゃいそうだよ。」
「はは、じゃあカエデが居眠りしないうちに全部干さないとな。」
「全部終わるまで居眠りなんてしないよ！もう！椛は冗談が通じないんだから！」
「ごめん、ごめん。そんなに怒るなよ。」
むくれてそっぽを向いているカエデを洗濯物を干しながらなだめる。だが彼女は一向にそっぽを向いたままで俺の方を見ようともしない。
「なぁ、悪かったって。カエデ。」
「ふん！椛の事なんか知らないもん！」
更にカエデに言葉をかけてみるが、カエデの機嫌は一向に治る気配がない。手を出し尽くした俺は最終手段に出ることにした。俺はカエデにおもむろに近づいて彼女の身体を抱きしめた。すると拗ねてむくれたカエデの顔が一転し、いつもの可愛らしい太陽のような笑顔が戻り、すかさずカエデも俺を抱きしめた。
「えへ、椛に抱きしめてもらうの、大好き。」
「俺もカエデを抱きしめるのが大好きだ。」
「えへへ…。」
俺たちはしばらくそのままお互いの身体を抱きしめあっていた。お互いに言葉は無かったが言葉は無くてもお互いの気持ちが手に取るように理解できた。幸せ。俺達二人の間にあるのはそんな単純でシンプルな気持ちだった。密着した時に彼女から聞こえる彼女の心音ともう一つ別の心音。彼女の中に新しい生命が宿っている。俺とカエデの愛の結晶。俺たちの子供。今でも十分に幸せであるが、きっと新しい家族が増えればもっと幸せな生活が送れるだろう。
そう俺が考えていると、カエデがおもむろに声をかけた。
「ねぇ、椛、私たちの子供の名前、何がいいかな？」
「そうだなぁ、どんな名前がいいかな。」
新しく産まれてくる子供の名前。カエデや椛はどちらも秋の風物詩だ。俺たちと同じ秋関係の名前でもいいかもしれないが、せっかくだし全く別の名前にしてもいいと思う。例えば今の季節は春だから春から名前を取るのもいいかもしれないな…。
「ねぇ、椛、私ね、さっそくだけどもうどんな名前にするか決めちゃった。」
「実はもう俺も決まったんだ。」
子供の名前は春から取ろう。優しくて暖かい子に育ってほしいから。きっとカエデに似ていい子になるはずだ。俺のダメな所は似てほしくないけど、そんな事はカエデの前では言わないし、考えないようにしよう。きっとこれから来る幸せが逃げるかもしれないから。
温かい日差しと爽やかなそよ風は俺達家族を優しく包んでくれた。まるでこれから俺たちに訪れる不幸を遮るように、家の庭から見える景色はどれも輝いて見えた。木が、森が、草花が俺たちを祝福している。そんな事を俺とカエデは感じながら二人で抱き合って遠くの青空を見ていた。
山に春が訪れようとしていた。
16/01/16 01:20更新 / がしわーた
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