T:鎖を断ち切って【broken window】…上
広い街道を一台の二頭立て馬車が進む。
周囲を数十騎の騎兵が護衛し、さらにきちっとした身なりの男女数十人が
馬車の前と後ろを一糸乱れぬ様子でしずしずと歩みを進める。
道行く馬車はそこらの行商馬車など比較にならないほど豪華な造りの馬車で、
一目見ただけでも高貴な人物が載っているだろうということが分かる。
事実、この馬車には王女が乗っていた。
周囲の人々は王女のお付きと護衛であり、
これから道の先にある大国…グランベルテへと向かっているのだ。
「ふぅ……」
藍色の長髪に端正な顔立ち、そして白銀に輝く鎧を纏った男性騎士は
今日何度目とも知れないため息をつく。
決して疲労しているからではない。ただただ気分が憂鬱なのだ。
その顔には元気は感じられないが、責任感と厳格さが表れ
一切隙のなさそうな雰囲気をかもし出している。
そんな彼の下に近衛騎士の一人が近付いてきた。
「失礼します衛士長!」
「何用か?」
「従者たちが、そろそろ歩き疲れたと。」
「またか。今日一日は我慢しろと言ったはずだ。急がねばならん。」
「ですが…彼らは我らと違い徒歩。これ以上の強行軍は無理かと。」
彼が従者たちを見ると、誰もが疲労の限界に達しているようだった。
無理もない。朝出発してからというものずっと歩きっぱなしなのだ。
食事も水分も歩きながら摂る強行軍に、仕事慣れしている従者たちですら音をあげている。
「仕方ない、一旦ここで小休止しよう。道からそれ、そのあたりの木陰で休むといい。」
「ははっ!」
「はぁ……」
小休止のために止まった馬車の中で、華麗な衣装で着飾った女性が
今日何度目とも知れないため息をついていた。
腰まである長さの輝く金髪、白磁のような白い肌、可愛らしい大きな瞳と
男性が見れば百人中九十九人が思わず見とれるような絶世の美女。
着ている衣装の引き立ても相まって、もはや芸術の域にまで達していると言っても過言ではない。
しかし、努めてポーカーフェイスを装う表情には、
本人でも抑えきれない…絶望や悲しみとなど様々な負の感情が滲み出ていた。
その表情を見た召使は、女性が疲れているものと思い声を掛ける。
「お疲れで御座いますか姫様。」
「いえ…少し緊張してしまって。それよりも、シャナ……いえ、衛士長をここへ呼んで下さるかしら。」
「仰せのままに。」
召使に命じてしばらくもしないうちに、衛士長が馬車まで参上した。
衛士長は、馬車の入口で片膝をつき最上礼をとる。
「お呼びでございますかエレノア様。」
「シャナ、入って。」
「仰せのままに。」
「あとどれほど休憩するのですか?」
「そうですね、もうしばらくは休ませたいと存じます。
ですがエレノア様がお望みとあれば今すぐにでも出立させますが。」
「いえ…むしろもう少し長く休んでも大丈夫ですよ。」
「左様でございますか。ですが、グランベルテからの召還期日は明日まで。
もはや一刻の猶予もありません。急がなければ。
その上、外をご覧になられると分かりますように雲行きが怪しく、
特にグランベルテあたりの上空はすでに天気が崩れているようです。
いずれにしても、早めの行動が求められます。」
「そう…ですね。」
「…………………」
「…………………」
会話が続かない。だが、王女はもっと衛士長と話をしていたい。
彼がそばにいないと不安で胸が押しつぶされてしまいそうだ。
「エレノア様。」
「はい。」
「もしよろしければ、小休止が終わるまで御側に居ります。如何いたしましょう?」
「………お願い…します。」
小国シアノの王女エレノア。
絶世の美女と名高い彼女が軍事大国グランベルテの皇帝に目をつけられるまで時間はかからなかった。
彼女を溺愛していた父王は最後の最後まで手放すことを惜しんだが、
国民の命には代えられないと判断し、泣く泣くグランベルテに差し出すことにした。
まだ19歳の彼女であったが、祖国のために政略結婚に出されることに反発はしなかった。
生まれてからずっと箱入りとして育てられ、自由も意思もなく
ただ良き王女であるために教育されてきた彼女には、反発する勇気など持てない。
彼女の人生は自分では決められない。決定するのは常に他人だ。
それが彼女にとっては当たり前であり、これから先もそうなるはず。
しかしながら、エレノアにとってどうしても諦め切れないものもある。
それが、目の前にいる衛士長…シャナの存在だ。
元々傭兵の子供であったが前衛士長の養子となり厳しく鍛え上げられた末に、
16歳で近衛兵の一員となり、18歳で衛士長の座を継いだ優秀な騎士。現在21歳。
何事もない時はやる気のない態度とぼけーっとした様子でどこか頼りなさそうだが、
任務の時にはしっかり内容をこなすし、特に不始末もしたこともない。
さらに戦いとなれば、とたんに鬼のような表情を見せるなど良くも悪くも表裏の激しい人物ではある。
そんな彼は、直属の王女エレノアの前では何があっても普段の無精な態度を見せず
真面目一辺倒の忠実な衛士長の顔で接する。
そんな彼のことが…好きで好きでたまらない。
子供のころからすでに面識はあった。
それどころか、一人で勉強するのが辛いと…生まれて初めて駄々をこねたときに
共に勉強する相手として一緒に過ごした時間もそれなりにあった。
(なので、とばっちりを喰らったシャナは男性騎士なのに家事全般が得意)
それまでシャナは兄妹がいないエレノアにとっては兄に代わる存在だった。
どんな時でもシャナは自分の味方だった。シャナは自分の言うことを何でも聞いてくれた。
しかし、エレノアが不用意に父王に放った言葉が二人の間を大きく隔てることになった。
「私ね!大きくなったらシャナと結婚するの!」
小さな女の子にありがちな、不用意な好意の表れ。
だが、父王は大きな危機感を抱いた。シャナを近付けることは娘のためにならない、と。
以来二人は大きく引き離され、別々の道を歩むことになった。
彼女の日常は急に色を失っていった。考えることも辛いことになった。
だが、不思議なことに会えなければ会えないほど、秘められた思いは大きくなってゆく。
忘れようと思っても忘れることが出来ない。彼女の顔からは笑顔が消えて行った。
その後シャナは戻ってきてくれた。
自分専属の近衛兵となり、少しずつではあるが顔を合わせる時間も増えた。
14歳の誕生日、数年ぶりに顔を合わせた時には心が舞い上がり、
心臓が破裂して死んでしまうのではないかとすら感じた。
しかし、そこにいたシャナは昔のシャナではなかった。
荘厳な白銀の鎧に身を包み、大理石のような冷たい表情で自分の前に跪いた近衛騎士。
この時初めて確信した。自分たちはもはや結ばれることはないのだと…。
(それでも…私はシャナのことが好きなの。ずっと私のそばにいてほしいの。お願い…シャナ…)
彼女の虚しい願いは結局届かず、
ある程度の時間が立つと衛士長は馬車から退出し出発の号令を掛けた。
「急ぐぞ!雨にでも降られたら余計体力を消耗するからな!」
「ははっ!」
馬車は再び走り出す。一路、グランベルテを目指して…
それは、その日の真夜中のことだった。
「あっ…!あああぁぁぁっ!!」
「ひぃんっ…か、身体が……熱く…」
「はあっ…はあっ……これは、一体……」
「何事だ!?侍女たちが急に苦しみ始めたぞ!」
「わ、分かりません!ですが衛士長!周りを!!」
「ちっ!!これは疫病か何かか!?」
木陰で仮眠をとっていたシャナは、あまりにも急な違和感に飛び起きた。
突如苦しみ始めたお付きの侍女たち。男性の中にも息を荒くしている者が多数いる。
周囲を見渡すと、道の両端に広がっていた雑木林が見る影もなくまがまがしく変わり果て、
重苦しく曇る空からは赤い月が顔をのぞかせていた。
強行軍で疲れ果てていた一行は、対処する術もなく
この異常な事態を呆然と見ていることしかできなかった。
「て…ててて…敵襲!!魔物の襲撃です!!」
「魔物だと!?うろたえるな!応戦しろ!エレノア様には指一本たりとも触れさせるな!!」
『応!!』
幸い近衛兵たちにはあまり影響が及んでいないようであった。
それでも、中には剣を持つ手が震えている者もいる。
相手は高々十匹そこらの魔物。速やかに撃退しなければ。
しかし、威勢が良かったのは初めだけだった。
「え…衛士長……足が言うことを…聞きません……」
「腰がふやけて……もう…」
「フフフ、私達に剣を向けられるかしら?できっこないわよね。」
「ねぇ…お姉さんたちと、イイコトしない?」
「これが噂に聞く淫魔どもか…。厄介な…!」
サキュバスと対峙した近衛兵たちはたちまち魅了され、その場から先に進めなくなる。
シャナもまた少しではあるが攻撃をためらおうとしている。
(このままでは一太刀すら浴びせらない…。仕方がない、奥の手だ!)
「怯むな!進め!それでもエレノア様に使える近衛騎士か!?」
「で…ですが……衛士長…、我々は……」
ズビシィッ!!
『!?』
シャナは、こともあろうか手近にいた近衛兵を斬り殺した!
「命令に従わない者は、斬る!!」
「ひいいぃぃっ!?」
赤い月に照らされたシャナの怒りの形相は、まさに『鬼』と呼ぶにふさわしかった。
恐怖が魅了を上回った近衛兵たちは、必死にサキュバス達に向かってゆく。
「くっ…なんて強引な!!」
「あなた、それでも人間なの!?」
「黙れ淫魔どもが!我々を襲ったこと、後悔するのだな!」
シャナ自身の強さも尋常ではなかった。
目の前にいたサキュバスを切り裂くと同時に、飛んできた攻撃魔法を回避。
そのまま二匹目のサキュバスにも重傷を負わせた。
他の近衛兵たちも恐怖に駆られて積極的に攻撃し、サキュバス達を戸惑わせた。
このまま押し切れる。そう確信したシャナ。
だが、この時もう一匹…魔物が現れた。
それも、戦局を一気に覆す強力な魔物が。
「止まりなさい。これ以上、同胞たちを傷つけさせません。」
見た目はサキュバスだった。漆黒の服に身を包み、白銀の髪と赤い瞳が特徴的だ。
しかし、放たれる魔力と存在感は周囲のサキュバスとは比べ物にならないくらい強い。
直視するだけで、すべての思考が吹き飛んでしまうような……
カラン カコン
近衛兵たちは再びその場で足を止める。それどころか、持っていた武器をも手放した。
シャナが作った恐怖など、もう頭の片隅にも残っていなかった。
「…………………(ゴクリ)」
そのシャナですら督戦することを忘れ、その場に崩れ落ちる。
体中が火照り、下半身に意識が集中していく。
(傷つけはさせない…か。そもそも襲ってきたのは…お前らの方……なのに。)
わずかながら思考できる力は残っているものの、
身体の神経は脳とのつながりを断ち切られているに等しかった。
カチャリ…
「…っ!!」
カチカチ…ガチガチ…
(って!俺は何をしているっ!!なぜ俺は鎧を脱ごうとしているんだ!!)
身体と分離していた意識は、金属音と共に元に戻った。
どうやら、無意識に肩当てを外していたようで、今まさに胸甲に手を掛けようとしていた。
シャナの鎧は留め方が複雑だったので何とか外す前に意識が戻ったようだ。
だが、まだ意識に霞がかかっている。このままでは……
「うぐぐ……むんっ!!」
ザクッ!
シャナは剣を自らの脇腹に突き刺し、強引に完全な意識を取り戻す。
激痛とともに、血が流れ出す。それでも彼は立ち上がった。
改めて周囲を見回すシャナ。
先ほどまで勇敢に戦っていた近衛兵たちに、お付きの侍女たちが群がっている。
中には、すでに生まれたままの姿で交わり始めている者すらいる。
それと同時に、エレノアの姿が脳裏に浮かぶ。
「エレノア様はご無事だろうか?」
駆け足で、エレノアが休んでいる馬車へと向かう。
「ああん♪シャナさまぁ〜」
「シャナさま!お待ちくださいっ!」
「うっ…」
馬車に近付いた途端、周囲を侍女たちに取り囲まれる。
着崩されたメイド服…頭には小さな角が生え、腰の付け根あたりから尻尾が生えている。
間違いない。彼女たちはサキュバスの魔力を受けて魔物と化してしまったのだ。
「はなせ…エレノア様が……!」
「そんな!私だってシャナ様のことをお慕いしていました!」
「シャナ様…どうか私にお情けを……」
「もう我慢できません…衛士長の……下さい…」
「だ…め!私が最初にシャナ様に抱いてもらうんだもん!」
「シャナ様、ここをこんなになされて。今楽にして差し上げますからね…」
十数人もの侍女たちは容赦なくシャナにとりついてくる。
これにはさすがのシャナも戸惑ってしまう。
シャナだって男性だ。押し寄せる濃厚な雌の香りに、またしても意識が揺らぐ。
(エレノア様…)
主君を想う心が、彼の意識を繋ぎとめた。
「どけえええぇぇっ!!」
『キャーーーーーーーーッ!!』
力を振り絞って、侍女たちを吹き飛ばす。
「エレノア様!!」
「あ……………シャ……シャナ………で…すか?」
馬車の中でうずくまっていたエレノアはくぐもったそして途切れ途切れの苦しそうな声で応える。
急いでそばに駆け寄り、シャナがエレノアの肩に触れ抱き起こそうとした瞬間、
「はぁ……ん…。」
「エレノア様!どこかお身体の調子が悪いのでしょうか!?」
(何というお姿だ…それに、熱もあるようだ……)
シャナの胸に寄りかかるエレノアは苦しそうに息をし、その身体は火照ったように熱い。
エレノアの大きな瞳はトロンと潤み、頬は桜色にほんのり上気し、
真っ白な首筋にはしっとりと汗をかき、柔らかな髪がまとわりついていた。
始めて見たエレノアの妖艶な姿に、シャナは釘づけになってしまう。
「シャナ……熱い…………、身体が…変です…………溶けて……しまいそう……」
「エレノア様、少々お待ち下さい!いつの間にかこの辺りは魔界と化したようです!
幸い私は意識を保っています。なので、この場から脱出いたします!」
そう言うと、シャナは持っている剣で鎧の隙間からベルトを切り裂き
身体を覆う白銀の鎧すべてをその場に捨てた。
身軽な軍服だけとなったシャナは、エレノアを抱きかかえると勢いよく馬車から飛び出した。
「シャナ……」
「エレノア様、しばらくご辛抱下さい。」
群がる侍女たちを剣で容赦なく切り裂き、近くに繋いであった愛馬に騎乗する。
「ハイヤァッ!!」
ヒヒイイィィン!!
シャナは一心不乱で手綱を握り、エレノアを腕に抱えたままその場を離脱していった。
11/06/23 19:03更新 / バーソロミュ
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