鈴蘭の花
「スズラン、リードを保ったまま第4コーナーに差し掛かる!」
そんな実況を遠くに聞きながら私はひたすらに走る。
このままいけば今日も優勝。今は背中に乗っている大好きなあの人から撫でてもらえる。
そう、私は騎手の男の人に恋しているのだった。
馬が人間に恋心だなんて自分でも悩んだし、同僚からもからかわれたり説得されたりした。
それでも、叶わぬ恋だとは分かっていても自分の気持ちを受け入れることにした。せめて引退して子供を作るのが仕事になるまでは、思い続けようと。
そんなことを考えて集中しなかったのが悪かったのだろうか。
前脚に激痛が走ったと感じた次の瞬間、自分でもどうなっているのかわからなくなるほどに激しく地面を転がった。
「スズラン!」
あの人が私の名前を呼ぶ、ひどく焦った声で意識が覚醒する。
顔を上げれば駆け寄ってくるあの人の姿が見えた。
あの人だってあんな勢いで地面にぶつかって、どこも痛くないはずがないのに。それでも私を心配してくれたことが嬉しくなった。
大丈夫よ、と声に出す代わりに起き上がる。その瞬間に前脚に走る痛みとあの人の呆然とした顔で、私はすべてを悟った。
「スズラン、お前…。」
私の脚は無残に折れていた。
ああ、ここで終わっちゃうんだ。こちらに来る人間や大きな車を見ながらぼんやりと考える。
人間は教えてくれないけど、何となく理解はしていた。こうなった馬たちがあの車で運ばれ、それから二度と見なくなってしまったこと、その馬を可愛がっていた人たちがしばらく暗い顔で過ごしているところを何度も見たことがある。
私はもう、助からない。
「スズラン、ごめん。ごめんな…。」
泣きそうな声で私の首筋を優しく撫でるあの人に、悲しさと愛おしさがこみ上げてきて思わず顔を寄せた。
私こそごめんね、あなたは悪くないのに。私はあなたを笑顔にしたくてここまで頑張ってきたのに、こんな顔にさせて別れることになるなんて。
やがて私の背から鞍が外され、あの人はもう一度私の首を優しく叩くと背を向けて歩き出す。それと同時に私の手綱も引かれ、あの人とは反対の方向に止めてある車のほうへとむけられた。
待って、もう少しだけ一緒にいたい。
そんな気持ちを込めて踏ん張ってみても、折れた足のせいかうまく抵抗できない。ついに私は車に乗せられ、背中で扉が閉まる鉄の音がした。
車の中にいたのは、私も知っている、白衣を着た綺麗な女のお医者さんだった。
サキュバス、と誰かが言っていたような気もするけれど、それが彼女の名前なのかもしれない。
このお医者さんは不思議な力があると馬の間でも有名な人だ。手で触れられるとたちまち痛みがなくなり、その間に治療が行われる。魔法とかいうので痛みを消すらしいと、人間の話を聞いた同僚が言っていたのを思い出した。
そのお医者さんが私の脚の状態を見て、悲しそうにため息をつく。
「さあ、始めるからおとなしくしておいてね。」
お医者さんの手が私に近づく。
ああ、これで本当に終わってしまう。
あの人のけがは大丈夫なんだろうか。
まだあの人と一緒に頑張りたかったのに。
せめて言葉が話せれば、最後に「好き」と伝えられたのに。
私が人ならばこの思いを隠す必要もなかったのに…。
お医者さんの手が触れる直前に、私は目を閉じた。
私は…あなたを愛しています。さようなら。
目を開けると、そこは日の光が差し込む部屋だった。
死んでもしばらくは消えるわけじゃないのかしら、と不思議な感覚で辺りを見回すと、そこにいないはずのお医者さんと目が合った。
…お医者さん?まさかあなたまで死んでしまったの?
「あら、やっと目が覚めたのね…ってなあに?まさか私が死んだと思ってるの?スズランちゃん。」
おもしろそうに笑うお医者さんを前に、私は状況が呑み込めないでいた。
生き…てる…?
「まあ、生きてるといっても元の生活は無理かもしれないけどね…。とにかくこれを見てみなさい。」
そういって私の前に置かれたのは姿見。
そこに映っているのは、前脚に包帯が巻かれている以外は見慣れた自分の体。ただし、首から上は女性の胴体に変わっていた。
「え…?私…。」
戸惑いとともに私の喉から出たのは、女性らしい甲高い声。そんな私にお医者さんが優しく声をかけてくる。
「ユニコーン、っていう魔物になったのよ。私が魔力を流し込んだらあっという間に姿が変わっていっちゃったんだから、びっくりしたわよ。スズランちゃんの強い気持ちが私の魔力と反応したのかもしれないわね。」
「じゃあ、私…。」
自分でも驚いたことに、私の頭には魔物の基本的な知識がもう備わっていた。
自分が生きていること、人間と恋愛できる種族になった事実に涙があふれてくる。
居ても立ってもいられずに立ち上がった私に、お医者さんが微笑みかける。
「寝てる間もうわごとでつぶやき続けるくらい好きな相手がいるんでしょう?脚も本気で走ったりジャンプしなければ大丈夫だから、行ってきなさい。」
その言葉を聞いて、私は部屋から飛び出した。しばらく動かしていなくてぎこちない脚も気にせず、大好きなあの人のもとへ。
今度こそ、「好き」を言うために…。
「…なるほど、それが奥様が魔物になったいきさつなんですね。」
「はい。あの時は本当にうれしかったです。」
目の前に座る女性に頷く。机の上の先ほど受け取った名刺には「月刊『魔物と生きる』記者」と印刷されている。
「旦那様は、魔物になった奥様を見てどう思いましたか?」
「いやあ、最初は驚きましたね。もう助からないものだとばかり思っていましたし、魔物になってるなんて思わなかったですよ。そのあと、ずっと昔から好きだったと言われた時はもっとびっくりしましたけどね。」
照れたように笑うあの人の左手の薬指には、私とお揃いの指輪が光っている。
そんな実況を遠くに聞きながら私はひたすらに走る。
このままいけば今日も優勝。今は背中に乗っている大好きなあの人から撫でてもらえる。
そう、私は騎手の男の人に恋しているのだった。
馬が人間に恋心だなんて自分でも悩んだし、同僚からもからかわれたり説得されたりした。
それでも、叶わぬ恋だとは分かっていても自分の気持ちを受け入れることにした。せめて引退して子供を作るのが仕事になるまでは、思い続けようと。
そんなことを考えて集中しなかったのが悪かったのだろうか。
前脚に激痛が走ったと感じた次の瞬間、自分でもどうなっているのかわからなくなるほどに激しく地面を転がった。
「スズラン!」
あの人が私の名前を呼ぶ、ひどく焦った声で意識が覚醒する。
顔を上げれば駆け寄ってくるあの人の姿が見えた。
あの人だってあんな勢いで地面にぶつかって、どこも痛くないはずがないのに。それでも私を心配してくれたことが嬉しくなった。
大丈夫よ、と声に出す代わりに起き上がる。その瞬間に前脚に走る痛みとあの人の呆然とした顔で、私はすべてを悟った。
「スズラン、お前…。」
私の脚は無残に折れていた。
ああ、ここで終わっちゃうんだ。こちらに来る人間や大きな車を見ながらぼんやりと考える。
人間は教えてくれないけど、何となく理解はしていた。こうなった馬たちがあの車で運ばれ、それから二度と見なくなってしまったこと、その馬を可愛がっていた人たちがしばらく暗い顔で過ごしているところを何度も見たことがある。
私はもう、助からない。
「スズラン、ごめん。ごめんな…。」
泣きそうな声で私の首筋を優しく撫でるあの人に、悲しさと愛おしさがこみ上げてきて思わず顔を寄せた。
私こそごめんね、あなたは悪くないのに。私はあなたを笑顔にしたくてここまで頑張ってきたのに、こんな顔にさせて別れることになるなんて。
やがて私の背から鞍が外され、あの人はもう一度私の首を優しく叩くと背を向けて歩き出す。それと同時に私の手綱も引かれ、あの人とは反対の方向に止めてある車のほうへとむけられた。
待って、もう少しだけ一緒にいたい。
そんな気持ちを込めて踏ん張ってみても、折れた足のせいかうまく抵抗できない。ついに私は車に乗せられ、背中で扉が閉まる鉄の音がした。
車の中にいたのは、私も知っている、白衣を着た綺麗な女のお医者さんだった。
サキュバス、と誰かが言っていたような気もするけれど、それが彼女の名前なのかもしれない。
このお医者さんは不思議な力があると馬の間でも有名な人だ。手で触れられるとたちまち痛みがなくなり、その間に治療が行われる。魔法とかいうので痛みを消すらしいと、人間の話を聞いた同僚が言っていたのを思い出した。
そのお医者さんが私の脚の状態を見て、悲しそうにため息をつく。
「さあ、始めるからおとなしくしておいてね。」
お医者さんの手が私に近づく。
ああ、これで本当に終わってしまう。
あの人のけがは大丈夫なんだろうか。
まだあの人と一緒に頑張りたかったのに。
せめて言葉が話せれば、最後に「好き」と伝えられたのに。
私が人ならばこの思いを隠す必要もなかったのに…。
お医者さんの手が触れる直前に、私は目を閉じた。
私は…あなたを愛しています。さようなら。
目を開けると、そこは日の光が差し込む部屋だった。
死んでもしばらくは消えるわけじゃないのかしら、と不思議な感覚で辺りを見回すと、そこにいないはずのお医者さんと目が合った。
…お医者さん?まさかあなたまで死んでしまったの?
「あら、やっと目が覚めたのね…ってなあに?まさか私が死んだと思ってるの?スズランちゃん。」
おもしろそうに笑うお医者さんを前に、私は状況が呑み込めないでいた。
生き…てる…?
「まあ、生きてるといっても元の生活は無理かもしれないけどね…。とにかくこれを見てみなさい。」
そういって私の前に置かれたのは姿見。
そこに映っているのは、前脚に包帯が巻かれている以外は見慣れた自分の体。ただし、首から上は女性の胴体に変わっていた。
「え…?私…。」
戸惑いとともに私の喉から出たのは、女性らしい甲高い声。そんな私にお医者さんが優しく声をかけてくる。
「ユニコーン、っていう魔物になったのよ。私が魔力を流し込んだらあっという間に姿が変わっていっちゃったんだから、びっくりしたわよ。スズランちゃんの強い気持ちが私の魔力と反応したのかもしれないわね。」
「じゃあ、私…。」
自分でも驚いたことに、私の頭には魔物の基本的な知識がもう備わっていた。
自分が生きていること、人間と恋愛できる種族になった事実に涙があふれてくる。
居ても立ってもいられずに立ち上がった私に、お医者さんが微笑みかける。
「寝てる間もうわごとでつぶやき続けるくらい好きな相手がいるんでしょう?脚も本気で走ったりジャンプしなければ大丈夫だから、行ってきなさい。」
その言葉を聞いて、私は部屋から飛び出した。しばらく動かしていなくてぎこちない脚も気にせず、大好きなあの人のもとへ。
今度こそ、「好き」を言うために…。
「…なるほど、それが奥様が魔物になったいきさつなんですね。」
「はい。あの時は本当にうれしかったです。」
目の前に座る女性に頷く。机の上の先ほど受け取った名刺には「月刊『魔物と生きる』記者」と印刷されている。
「旦那様は、魔物になった奥様を見てどう思いましたか?」
「いやあ、最初は驚きましたね。もう助からないものだとばかり思っていましたし、魔物になってるなんて思わなかったですよ。そのあと、ずっと昔から好きだったと言われた時はもっとびっくりしましたけどね。」
照れたように笑うあの人の左手の薬指には、私とお揃いの指輪が光っている。
14/02/08 23:54更新 / 飛燕