第三話 時間 ヴァンパイア 一章
「…サングラス、500丁…はい、確かに。」
リストに落としていた目線を戻し、宮廷魔術師エルンスト・マクスウェルはいつも通りの完璧スマイルを、目の前の、停まった馬車の御者席に座る男性に向けた。
「注文通りですね、ありがとうございます。…それでは、この後の手順は理解しておられますか?」
馬車からその男が飛び降りる。ローエンハルト城下町のとある大通り、日が暮れなずむ中、旅靴が石畳を打つ音が静かな町に響く。飛び降りるやいなや屈伸を一つして、その男は気さくな笑顔で応じてきた。
「あいよ、マクスウェルさん。メデューサの里までこいつを運べばいいんでさぁね?」
蓮っ葉な言葉遣いで答え、無精髭をいじりながら彼は荷台を指差した。何度か王宮から仕事を頼んだことのある馬車屋で、エルとは面識がある。
「ええ、ご苦労様です。…護衛に3小隊を手配しました、明朝には合流できるはずです。」
「こりゃどうも。…ま、今夜はローエンハルトでゆっくりさせてもらいまさぁ、いやぁ疲れたぁ…。」
この間レナード・ドイスに与えたサングラスだが、ふと、メデューサ等の、いわゆる『目を見てはいけない魔物』にも、効果があるのではないかと思い立ち、とあるメデューサの集落と、これを試してみて欲しいという交渉を交わし…いやはや、なかなかいろんな娘がいて楽しめた…そして、産地からこれを運ぶ馬車が、通り道のローエンハルトで休んでいるのだ。
「ぁあ…マクスウェルさん、この近くで…こう、美味い酒が飲める店ってありやせんかねぇ?お暇なら、一杯いかがっすか?」
「…そうですね、ご案内しましょう。…本来なら、女性にご同伴を与りたいところですがね。」
「ハハッ…違ぇねぇや。」
馬車を預ける手配も、そんな会話の合間に済ませ、歩き出す。多くの土地を回る馬車乗りは、多くの土地の情報を持っている。町酒場に向かう道すがら、話を聞いてみた。
「…南の方は、新魔族との和平より前に、だいぶ彼女たちに攻め入られていましたが、最近はどうなんでしょうね。…そちらの方へ行った事は?」
「ああ、こないだチラッと寄りましたわ。魔物のお嬢ちゃんたちも、割とおとなしくしてたんじゃないですかねぇ。やっぱほら、共存できるとなりゃ向こうもそれなりにこっちの顔を立ててくれんでしょ。」
そんな話をしているうちに、日が暮れ、暗くなってくる。決められた時間になると、魔術で管理された灯火がともる。その、太陽の光も無く、灯火もまだつかない、空白の時間が、どうしてもある。
その時間は決して長くないが、路地を通ったりするとかなり暗い。その夜闇にまぎれ、御者の歩く近くで何かがよろめく気配を感じて、エルンストはそちらに眼を凝らした。
「…おや、大丈夫ですか?」
見れば、年老いた男性が、杖を投げ出して倒れていた。カラン、と杖が地面に落ちる音に、御者も何事かと振り返って、慌てて駆け寄ってくる。
「おお…大丈夫じゃよ…」その老人は、弱々しいながらも嗄れた声で応じ、立ち上がろうとするが、上手くいかないようで、「…すまんが、杖を取ってくれんかのぉ?」
「こりゃすいませんね、爺さん。杖を蹴っ飛ばしっちまったみてぇだ、いやホントに悪かった。」
御者が、ペコペコと謝りながら杖を拾う。エルンストは老人に肩を貸し、立ち上がらせた。
「何…大丈夫じゃ、構わんよ。」
かすかな明かりの中で、杖をついて立ち上がった老人の姿を見ると、来ている着物や持っている杖は、明らかに上質なものであった。こういう所を住処にする人ではないと感じ、エルは質問した。
「ご老体、どうしてこんな路地裏を?そろそろ表通りにも明かりがともる頃です、足元が危ないですよ?」
「うむ…気にせんでくれ。儂は…暗いほうが落ち着くのじゃよ。人ごみはどうも好かんでのぉ…。」
しわがれていながらもどこか深みを感じさせる声や、ゆったりとした仕草からは、東洋にいると言われる仙人を思い浮かべさせられた。
「…まぁしかし、ローエンハルトのお城へ行こうと思えば、そうも言っておれんのかのぅ。」
「爺さん、お城に用があるのかい?何ならお詫びに、馬を出すぜ?」
「おお、そりゃ助かるわい。…正直もう、腰がのぉ…。」そこで老人は腰をさすり、溜息をつく。「城、というか…そこにいる、魔術師に用があるんじゃよ。最近、魔物と人間の揉め事を解決しとると言う…エルンストとか言う…」
「おや、それなら丁度良かったです。」エルはそれを聞いて笑みを浮かべる。「私がエルンスト・マクスウェルです。…して、ご老体、どういったご用向きでしょうか?」
老人に向かって一礼すると、体の前に出したエルンストの手を、老人が取った。掴む、というにはあまりにも素っ気のない動きだったので、反応できずになすがままになる。老人は無言で、エルンストの手をじっと見つめている。さすがに戸惑って、
「…あの、何か?」
「おお、すまんの、不躾じゃったのぅ。」老人はエルの手を離し、気さくな笑顔で謝罪した。「いや何、儂ぐらい生きとると、手なり目なりを見れば人となりが何となく分かるものなのじゃよ。」
「それはそれは。…それで、なら私はどういう人間だと思われますか?」
半信半疑ではありながらも、丁寧な態度は崩さないエルンスト。老人は、少し考えこんでから、
「…まぁ、初対面の老いぼれに寸評されるのも気分の良いものでは無かろうて。今は、仕事を頼むに足る人間だと分かれば良い。…それに際し会ってもらう女性に手を出すのは、今回ばかりは止めておいたほうがいいと忠告はするが、の。」
隣で御者が忍び笑いするのが聞こえてくる。やれやれ、私はただ、美しい女性にはその美しさに相応しい対応をしているだけだというのに。
「…話がそれたかの、すまんすまん。…さて、何から話そうか…。」
「ところで、ご老体。もし素性を明かせぬ身分なのであれば、こちらも何も伺いませんが…。」
「む、儂か?…そうか、言っておらんかったのぅ。…しかし、驚くでないぞ?」
老人は居住まいを正し、エルンストをじっと見据えて、告げた。
「儂は…ヴァンパイア、吸血鬼なのじゃよ。」
吸血鬼。その名を聞いて、エルンストは背中の杖に手を伸ばしかける。カテゴリとしては旧魔族に属しながらも地上、人間界に暮らし、新魔族にも屈さず、かといって人間に大々的に敵対するわけでもない。その気ままな立ち位置と、それを許されるだけの圧倒的な戦闘能力を備えたこの種族は、地上、魔界を問わず、恐怖や畏敬、時として崇拝の対象ですらある。
しかし、その代償というべきか、吸血鬼は非常に多くの弱点を抱えた種族でもある。御しきれないわけではない。何より、目の前の老いたヴァンパイアからは、敵意を感じない。ならば、さして怖れ、身構える必要はないと判断したエルンストは、
「…名を、そうじゃな…クリムゾン、と言って分かるかの、エルンスト殿?」
その名を聞いて、初めて国王以外に対して跪いた。顔から血の気が引いているのが自分でわかる。
「…どうしたんでさ、マクスウェルの旦那?」
「そうじゃよ、エルンスト殿。『四紅』の名前に畏怖するのは…まぁ嬉しいが、所詮あれも名前が一人歩きしてるだけじゃて。顔を上げとくれ、話が出来ん」
「…しこう?何だいそりゃ?」
エルンストは許しを得てようやく立ち上がり、首を傾げている御者に説明を始めた。
「…人間界に存在するヴァンパイアの頂点に当たる4人の事で…魔王に匹敵する力を持っているとすら言われています。…そして、クリムゾン翁といえば、その中の最長老に当たるお方です。」
さらに言えば、現在ヴァンパイアが魔族を離れ、人間界に住んでいるのは、この四紅の一人、カーディナルという男の二千年前のある行動が原因になっている。二千年前、地上界全てを滅ぼして神に挑もうとした強大な魔王と、神の加護を受けた、人間、エルフ、その他様々な種族の混成軍たる勇者達との戦争があった。その時に、魔界の英雄であったカーディナルが勇者に寝返ったのである。
「…いや、そりゃ、その話は聞いたことあるぜ?勇者と魔王の戦い、勇者の最大の好敵手が改心して…その、カーディナル…有名な…お伽話、じゃなかったのかよ?」
御者がようやく事の重大さを理解したようで、冷や汗をかき出す。しどろもどろの言葉を聞いて、老人…クリムゾンが、心底愉快そうに大笑する。
「ファッファッファ…やれ、懐かしい事よ!確かに二千年前の、カーディナルの若造ときたら、痛快じゃったわ!」
ヴァンパイアの寿命は、人間の約100倍と言われている。ならばこのクリムゾン翁は少なく見積もっても八千歳を超えているのだろう。老いたりといえど、『四紅』のヴァンパイアがその力を奮おうものならば、ローエンハルトは最悪、地図から消える。必要以上の媚や恐れは見せず、エルンストは毅然としてクリムゾン翁に向き直った。
「…『四紅』…地上最強とすら言われるあなた方が、私ごときに何の御用ですか?…私の専門は、人間と新魔族のあいだの交渉事なのですが…。」
「おお、新魔族の件じゃとも。…というか、女のヴァンパイアはさすがに新魔王の魔力に侵食されてしもうたのでな、正確には新魔族になったヴァンパイアの話じゃ。」
そこで老いたヴァンパイアは、一つ咳払いをした。さて、いかなる難題が飛び出すかと、身構えているエルンストに、こんな依頼が投げかけられた。
「『四紅』の中で一番若い、ヴァンパイアの少女の…そうじゃな、話し相手になっとくれんかの?」
その翌日、エルンストは、一月程前のホルスタウロスの時と同じく、森の中を歩いていた。しかし、その森は、あの時のそれとはあまりにも様相が異なっていた。
まず、あの時の森は一面に緑が生い茂り、空が見えないくらいに木の葉が頭上を覆い、何よりも命が満ちていた。生き物の動く音、鳴き声。
しかし、今歩く森は、枯れ木ばかりが延々と立ち並び、地面は灰色にぬかるみ、それでいて…何かの気配を、一切感じとる事が出来ない。そして、木の葉が無いので視界が開けており…その理由と思しき古城は、かなり遠くからでもはっきりと見えていた。
ヴァンパイアとは、孤高な種族である。人を襲う旧魔族にせよ、新魔族の女たちにせよ、その強大さを恐れて周囲を去る。いわんや人間がヴァンパイアに好んで近づくような事は有り得ない。必然、彼らの暮らす周囲は、獣すらいない荒野となる傾向が強い。
「しかし…いやはや、これほどとは…。」
エルンストは、灰色にぬかるむ大地を踏みしめ、乾いた枯れ木に手をついて、周囲を見渡した。垂れこめた暗雲も手伝い、荒涼、という言葉がこうも似合う土地はまだ見たことがない。
森林を維持するには、大なり小なり動物の営みが欠かせない。死骸や排泄物を微生物が分解する事で草木を育てる養分が生じ、食物連鎖はその環を閉じる。この森は、生きとし生けるものがあの古城から逃げ出した結果なのだろう。もっと言えば、あの古城の主たる『四紅』の吸血鬼から。
足元の土は、辛うじて砂漠の砂よりは肥えていると思えるような有様だ。砂漠とは違い、まだ気まぐれに生き物が迷い込む事はあるのかもしれない。
そんな事を考えながら歩くうちに、古城は目の前に迫っていた。丁度正面に、正門らしき巨大な扉が見えてくる。
正直に言えば、エルンストという人間の本能は、逃げ出すことを強く勧めていた。不吉な気配が、心臓を鷲掴みにして歩みを重くする。だが足を止めない以上、進む理由もそれなりにはある。
一つには、『四紅』と呼ばれるヴァンパイアの頂点、その人格や生活が興味深かった。一般的なヴァンパイアの生活環境は、彼ら自身が時折気まぐれに著す本により一般に知られているが、より強大な力を持った個体だとどうなのか?好奇心旺盛なのはこの年若い宮廷魔術師の長所でもあり、短所でもあった。そして、もう一つ。
「…ヴァンパイアの女性とは、元々美しいモノだと聞いていますから…ね。」
ただでさえ美しいヴァンパイアの女性。そして、女性の魔物は例外なく新魔王の魔力によって、サキュバス的な性質を受けている。いったいいかなる美少女に出会えるのか、楽しみで仕方がない。
…結局、エルンスト・マクスウェルの、ネゴシエイターとしてのモチベーションは、大抵の場合において、美しい謎と美しい女性、その二つに尽きるのであった。
正門に手をかけて押すと、ギギギと、巨大な怪物が歯ぎしりするような音を立てて、門が開く。中には、点在するロウソクに照らされた吹き抜け空間が広がっていた。正面には、赤い絨毯に彩られた階段がある。宮殿ならばどこもこういう作りになっている、と言わんばかりのオーソドックスな構造に、必要以上に赤の意匠を凝らしたデザイン。やはり赤の紗を掛けられた柱の影から、音もなく何者かが、エルンストの目の前に滑りだしてきた。
「これはこれは…エルンスト・マクスウェル様でいらっしゃいますね?」
頭をきっかり45度に下げ、一礼したのは、黒い礼服に身を包んだ年老いた紳士だった。彼も宮廷で見慣れたタイプの人間だ。穏やかで、礼儀正しく、そしてあまり存在感を前に出さない。その老紳士はこちらの答えを待たず、
「クリムゾン翁からお話は伺っております。遠いところから良くお越し下さいました。…私は、この屋敷でお嬢様にお仕えしております、ハレルと申します。お見知りおきを。」
「これはどうも。エルンスト・マクスウェルです。…それで、『四紅』の…」
「はい、今…いらっしゃいました。」
にこやかに笑いながら、ハレルが答える。気づけば、靴音がする。カツ、カツ、と、確固たるリズムで、鋭い音を刻んでいる。乱反射して音の出処が分かりにくかったが、ハレルが頭を下げて迎える方をみやると、正面の大きな階段の上。
「…クリムゾンのお爺様も、全くもの好きだわ。ねぇ、ハレル?これは、血袋一つが送られてきた、というわけではないのでしょう?」
そっけない声。靴音は止まらない。やがて、その姿は階段の一番上に現れ、そこで止まった。
外見年齢は、16歳ほどの乙女だろうか。ゴシック調のドレスは慎ましく可愛らしいはずが、赤と黒の意匠が何か不吉なものを与え、それをかき消すほどの美しさを醸しだす。かすかに覗く手足は人形のように細く、肌は透き通るほどに白い。凄艶、という言葉が似合うのに、どこかあどけなさすら残す顔立ちを、純金よりも煌めくと思えるほどの金髪が彩る。そして、気だるげな真紅の瞳は、まるで物でも見るようにエルンストに向けられている。
「…『四紅』ヴァーミリオン様、ですね?…お初にお目にかかります。私は…」
赤い手袋に覆われた手がゆっくりとこちらに向けられる。言葉を遮りながら、そのあまりにも美しい吸血鬼の少女、ヴァーミリオンは、あまりにも無感情にこちらを見ていた。
「…血袋に名前は必要無いわ。貴方が今生きているのは、お爺様のお達しがあるから。それだけよ。」
脅すような台詞を叩きつけながらも、殺気や敵意の類は一切感じられない。関心がないのだろう。一瞬、そのまま引き下がろうかとも考えた、が。
「…私は、エルンスト・マクスウェルと申します。」
「…そう。」命令を無視され、機嫌を損ねるかとも思ったが、彼女は特に心を動かした様子もなく、「覚えておくわ。…ハレル、夕食の準備は?」
「食堂に、整っております、お嬢様。」
ハレルが答えると、ヴァーミリオンはこちらに背を向けて歩き出した。姿が見えなくなった後で、
「…エルンスト様の分もご用意してありますが、如何なさいますか?」
当然のように出されたハレルのその提案に、エルンストはいささか戸惑いながらも、すぐに笑顔で答えた。
「宜しければ、ご同伴させて下さい。」
「かしこまりました。…お嬢様も、その方が寂しく無いかと存じますれば。」
そう言われたが、エルンストには…あの少女が、寂しさを感じるようなタイプだとも思えなかった。
「…話し相手、ね。…お爺様はいったい何を考えているのかしら。理解に苦しむわ。」
エルンストの向かい、長テーブルの一番奥で、表情を一切変えずにヴァーミリオンは食事を続ける。彼女のすぐ隣には老紳士、ハレルが控えていた。百人は同時に収容できそうな食堂に、今いるのはその三人だけである。
「そうですね…私に話が回ってきた、ということは、何かしら問題でも抱えていらっしゃるのでは、と思っていたのですが…。」
香草のソテー…味は意外と普通程度だった…を飲み込み、エルが答える。ヴァーミリオンはそれを聞いて、
「私は問題など抱えないし…仮にそうなったとして、それは貴方のような血袋が解決出来る物であるはずがないわ。」
そう言ってまた食事に戻る。どうも徹底的に見下されてはいるようだが、会話は通っている。無理にでも名乗っておいたのは、立場を明確にする上では良かったようだ。
気づけばハレルが隣に立っており、空いた皿を片付けて、濁ったスープを出してきた。まるで気配を感じさせない動き。これも吸血鬼の能力なのだろうか?
カチャリ、と音がして、前に向き直ると、ヴァーミリオンはナイフとフォークを置き、こちらを相変わらず無関心な眼で見つめながら、口を開いた。
「…まあいいわ。クリムゾンのお爺様がした事なら…無碍に追い返すのも、失礼かしらね。…好きなだけ滞在するといいわ。部屋はどうせ、いくらでも余っているのだから。」
「…ここの住人は、貴方と…ハレル殿、だけですか?」
「左様に御座います。」
これまたいつの間にかヴァーミリオンのそばに戻っていたハレルに軽く目をやると、彼は一礼して答えた。隣のヴァンパイア少女が、少し顔を歪める。
「…血袋がそんなにたくさん私の城にあっても、面倒なだけよ。」
初めて彼女が見せた、感情らしい感情。しかし、それは一言で片付け、解釈するにはあまりに複雑なものだと感じられた。
と、ヴァーミリオンは、隣に控えるハレルに目配せした。彼は心得た様子で、椅子に座る主に、跪いて頭を垂れた。…いや、遠くて良くは見えないが、頭は、下げたのではなく、横に逸らしたのでは…?
それを見分ける間もなく、どこか優雅な仕草で、ヴァーミリオンは、晒されたその首筋に、噛み付いて牙を突き立てた。
唖然とするエルンストの目の前で、吸血行為が行われる。ゴクリ、ゴクリと、喉を鳴らす音だけが…命を飲み干す音が、いやに大きく響き渡る。生物としての格の違いを見せつけるその光景は、見とれずにはいられないほど背徳的な、捕食であった。
少女は最後に、血を舐めとってから老執事の首から離れた。永遠にも感じられる時間だったが、実際には10秒も経っていない。ハレルの首を貫いた牙の傷跡は既に癒えており、もう血は流れていない。そのままヴァーミリオンは指先で軽く口元を拭った。その仕草が、まるで口紅を塗り広げるようで、そう思うと、彼女の唇がひどく紅いのに気づかないわけにはいかない。血の赤か、元々の色なのか…その唇が、ゆっくりと動く。
「…ずいぶん、羨ましそうな眼で見るのね。」
背筋が凍りつくほど、甘く艶めかしい声。唇に集中していた視線を彼女の顔に散らすと、ほのかに頬が紅潮していて、瞳は嗜虐に潤んでいた。
「…いえ、同族の血の味に興味はありませんよ。」
正気が飛びそうな色香を振りきり、手元のスープに口をつけた。口の中や喉が、いつの間にかひどく乾いていた。その間にも、彼女の視線がこちらに向けられているのを感じる。
「…そう。…だったら、そういう事に、しておいてあげる。」
見透かしたような笑みでそれだけ言うと、その吸血鬼はさっきまでと同じように無表情になり、料理に手を伸ばした。何事もなかったかのように、優雅に鶏肉を口に運んでいる。
これ以上は何も無い、と判断し、エルンストはわざと手元の紅茶を一息に飲み干し、カップをやや目立つ位置に置いた。案の定、ハレルがこちらに歩いてきて、カップに紅茶を注いでくれた。
見ると、傷はすでにふさがっており、またハレル自身の血色もそんなに変わっているようには見えない。何より、彼自身、今の吸血行為を当然のものとして受け入れているのだろう、まるで動じた様子がない。
と、後ろ…というか、玄関の方から何か聞こえてきた。ヴァーミリオンやハレルも気づいたようで、動きを止める。エルは目を閉じ、その音に耳を傾けた。門が開くような音、それとほぼ同時に聞こえだした、何人かの声。ただの声ではなく、歌のように聞こえる。しばらく注意深く聴き、その旋律に、思い当たる。
「…これは…聖歌、ですね。」
何種類かある、教会の主神を讃える歌のうちの一つが、門を破って侵入した(恐らく開錠の魔術…教会の人間に言わせれば奇跡の業、だが)数名によって歌われている。他ならぬ、この吸血鬼の館において。
考えるまでもなく、教会の聖騎士団だろう。彼らは神に仕える軍として、魔物や異教徒を討伐し、また教会の警備なども行っている。
「…念のために言っておきますが、私は無関係ですよ。」タイミングの悪さに舌打ちしたくなりながら、エルンストはヴァーミリオンに告げる。「何なら証拠に、彼らに対して、撤退するように勧告しても…。」
そこで、エルははたと気づいた。ヴァーミリオンはまるで無関心そうに紅茶を飲んでおり…ハレルの姿がない。食堂を見回すが、いつの間にやらその姿はどこかへ消えていた。
「…別に、貴方が手引きをしていたとしても、どうでもいいわ。」紅茶を飲み終え、吸血鬼の少女はゆっくりと立ち上がる。「血袋がどれだけ束になっても、何も出来はしないのだから。」
そのまま彼女は、長いテーブルの長辺に沿うようにして、エルンストの方へ…エルの背後に扉があるので…そちらへ向かって歩き出した。
「…ですが…失礼ながら、吸血鬼は弱点を多く抱える種族でもあるのでは?」
十字架を見れば激しい痛みを感じ、日光に当たれば能力はガタ落ちする。女の、魔物化したヴァンパイアに対してなら真水も効果的なはずだ。
「本当に愚かね、貴方。」しかし、ヴァーミリオンはその進言を鼻で笑った。「だからもう、ハレルが露払いに向かったじゃない。」
老執事の姿が見えなかったのは、既に迎撃に出ていたからのようだ。…いや、しかし。エルンストは違和感を覚えて、隣を今通り過ぎたヴァーミリオンに問いかける。
「…ですが、ハレル氏だって、吸血鬼の弱点は抱えているのだから、話は同じでしょう?」
そこで彼女は振り返り、目を丸くした。そして、本当にかすかに、複雑そうな苦笑を浮かべた。
「…ハレルは、人間よ。私が、何度、血を吸っても…ずっと、ね。」
聖歌が響き渡る。それだけで、この薄汚れて暗い古城にも、いと高き主神の威光と恩寵が行き渡るように感じ、聖歌隊の一員、ジョナサンは、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
悪しき吸血鬼の居城に踏み込んだ聖騎士は、戦闘員だけで10名。士気を高め、簡易的ではあるが神の加護を与える聖歌隊が、ジョナサンを含めて4名。そして…中央にあり、大きな十字架を掲げる者が2名。
ジョナサンの知る限り、吸血鬼狩りにおいては一般的な布陣である。掲げられた十字架は、かつて聖女がお労しくも磔刑に処せられた十字架のレプリカであり、中央教会によって聖なる加護を与えられた一級品だ。普通の十字架では、戦闘行動に出た相手を留めるほどの力は無い。しかし、これを掲げていれば、それだけで吸血鬼は身動き一つ取れなくなる。加えて、まだ実証されてはいないが、噂では有効とされている真水も、一応一ビン持ってきた。
無抵抗になった吸血鬼を、この十字架に磔にすれば任務完了だ。いかに相手が強大だろうと、まるで問題はない。
簡単な仕事だ。しかし、当然である。神に逆らう愚か者に、偉大なる主神に代わって鉄槌を下す。その行いが困難であるように神が取り計らうような事は無い。
(…しかし、油断は禁物、か。)
そう考えた矢先、聖騎士団の小隊長が、全員に聞こえるように、十字架を囲んで陣を組むよう指令を出す。鎧兜に身を固めた聖騎士達がうなずき、十字架を掲げた聖騎士が立ち止まる。
次の瞬間、風切り音がして、直後、十字架が砕け飛んだ。
「…!?な、何事だ!?」
周囲を警戒するが、敵影は見当たらない。十字架の破片はバラバラと地面に落ち…その中に、明らかに異質なものが混ざっていた。ジョナサンはそれを拾いあげる。
「…これは…槍、か?…いや…。」
彼が手に持っているのは、矢だった。しかし…その大きさ、太さたるや、ショートスピアくらいはある。弓につがえて放てるものではない。となれば、弩…それも、かなり大型のものから放たれたのでは無いか?
しかし、どこから?聖騎士団は全方位を警戒している。いくつか立ち並ぶ柱の陰の、どれかか?確証は無いが、矢の向きを考えれば、ある程度候補は絞り込める…。
だが、それを探る時間はもう残されていなかった。
「…それで?もう手の内はお終いなのかしら?だとしたら…『四紅』の名を、知らなかったのかもしれないわね。」
気づけば、正面の階段、その一番上に、吸血鬼が立っていた。こちらを、まるで無関心な眼で見下ろしている。いや…何だ、あれは。その姿を認識した途端、気温が数度下がったように感じた。
足がすくむ。動物的な本能が、生物としての格の違いを訴えている。『四紅』だって?馬鹿な。子どもでもその名前は知っている。だが、ここにそれがいるなんて、聞いていない。
神よ、お救い下さい。ジョナサンはそう呟いたつもりだった。自分の口からは、震える、言葉にならない声が漏れただけだった。
エルンストが駆けつけた時には、既に教会の聖騎士が頼む十字架は、ハレルの狙撃により木っ端微塵に砕け散っており、ヴァーミリオンに見下ろされている聖騎士団は恐慌状態一歩手前だった。
ヴァーミリオンが、特に殺気を放ったりして威圧しているわけではない。むしろその対応は、エルに対するものと特に変わるところがなく、無関心そうに、気だるげに相手を見ているだけだ。
だというのに、訓練されているであろう聖騎士ですら腰が引けていて、非戦闘員などもはや腰を抜かしそうになっている。要するに、ただただ、『四紅』たるヴァンパイアの、溢れ出る力それのみが、彼らを恐怖させているのである。
勝負あった。そう判断し、エルンストはヴァーミリオンに声をかける。
「さて、無駄に殺すことも無いでしょう。このまま見逃してやれば、彼らは素直に退くでしょうし…『四紅』の名が知れた以上、二度と攻めてはこないと思いますが?」
だが、彼女は、まるで奇異な物でも見るような目をエルンストに向けた。
「…何を言っているのか、よく分からないのだけど。」
「いえ、ですから…いかに貴方がヴァンパイアだからといって、無益な殺生をする事は無いでしょう、と…。」
「私も、無駄に殺すのは好きじゃないわ、確かに。…でも…。」ますます不思議そうに首を傾げるヴァーミリオン。「だって、あれは…人間でしょう?」
「だから、人間…です…から…。」
人間ですから、殺してはいけない。言いかけて、エルンストは口を噤んだ。彼女が、吸血鬼・ヴァーミリオンが、敵に対してすら無関心な目を向ける理由が…何となく、分かった気がしたからだ。
彼女は、人間のことを『血袋』と一緒くたにして呼ぶ。つまりは、そういう事だ。彼女にとっての人間は…人間にとって、果物とか野菜とか、その程度のものでしかない、という事なのだ。
苺を噛み潰すのに、良心の呵責を感じる人間はいない。生卵を割るのに、殺気を放つ人間もいない。
根本的に、価値観が違うのだ。全てのヴァンパイアがそうであるかは分からない。しかし、少なくとも、このヴァーミリオンにとって…人間とは、何らかの感情を抱く対象ですら無いのである。
さすがに、交渉の成立する相手ではない。エルンストは諦めて溜息をつく。せめて降伏を勧告しようと、聖騎士たちの方に振り向こうとして。
「…う、わあああああああああっ!」
見れば、叫びながら、一人の聖騎士が突っ込んでくる。剣を振りかぶり、ヴァーミリオンめがけて。もはや洗練された動きはなく、恐怖に駆られての突撃…言ってしまえば、ヤケクソである。恐れることはない。ヴァーミリオンならば腕の一振りで迎撃できるし、エルンストでも素早く詠唱すれば間に合う。
そして、その聖騎士を仕留めたのはハレルだった。先程十字架を狙撃した位置と同じ、吹き抜けの二階の柱の影から、正確無比な弩の一撃が突撃してきた聖騎士の頭を貫く。
(…いや、違う?)
何故、一人なのか。どれだけ相手の戦力を過小評価したところで、二人いるところに一人突っ込ませる方はない。ましてや、相手の目的は…。
「ハレル、危ないッ!」
声は、ヴァーミリオンのものだった。見れば、ハレルの位置…恐らく、さっきの一射で位置を割り出されたのだろう、二階の柱に向けて三名の騎士が飛びかかっていた。ハレルの持っている弩はかなりの大型だ。近接武器を持った相手とやりあうにはあまりにも取り回しが悪い。
吸血鬼の少女が、優雅さをかなぐり捨てた動きで腕を振るう。爪から迸る魔力が紅い光を伴い、斬線が宙を翔ける。それだって一瞬光の線が走ったようにしか見えない速度で、その線状にいた騎士二人が、バターを切るように鎧ごと切断される。残りの一人が運良くその一撃を逃れ、ハレルのいるところのすぐ近くに着地した。
それを見るやいなや、エルンストは念のためあらかじめ仕込んでおいた遅延魔術を発動させる。非常に短い一節の詠唱で、起動のみを命じられた魔術は『フリーズ』。聖騎士の体が瞬く間に凍りつく。そのままぐらつき、吹き抜けの手すりを乗り越えて落下する。床に当たれば、ガラスのコップを落としたように砕け散るだろう。
「て…撤退、撤退ッ!」
恐らく、ハレルを人質にでも取るつもりだったのだろう。目論見が外れたようで、聖騎士団の隊長とおぼしき男が、自分も逃げながら退却の指令を出す。しかし、エルンストの隣で風が舞い上がり、ヴァーミリオンが跳躍し、叫んだ。
「貴様らはッ!」
空中から、先程と同じ、紅い爪が二回、三回と打ち下ろされる。次々に聖騎士達は装備もろとも真っ二つになり、勢い余って地面にも爪痕が残る。彼女が着地するのとほぼ同時に、辛うじて爪の一撃を逃れた聖歌隊の一員が門から逃げ出していった。
ヴァーミリオンは、一瞬追いかけるか迷ったようだったが、すぐにもう一度跳躍し、ハレルの目の前に降り立った。エルもそちらを見ると、彼は無事らしかった。吸血鬼の少女もそれを確認したのか、安心したように息をついている。
「…私は大丈夫でございます。お嬢様こそ、お怪我はございませんか?」
「それこそまさかだわ、私を誰だと思ってるの、ハレル。」
さっきまでの、激情に駆られた姿はどこへやら、ヴァーミリオンは無表情に応じていた。エルもそちらへ歩み寄る。ハレルが今床に置いた弩は、本当に大きい。…あまり詳しくないエルンストでも知っている、年代物の弩だ。威力、精度、射程距離、整備のしやすさ…全てにおいて現行の物に匹敵する名機だが、最近は機動性を重視した結果ほとんど使われていない。
エルンストが近寄ると、ヴァーミリオンは、かすかな笑みを浮かべながら、
「私に偉そうな事を言った割に、ちゃっかり一人仕留めてるじゃない。」
「まぁ私も軍人ですからね、平和主義者では無い、という話です。」必要に駆られて人殺しをしたことは何度だってある。好んではいないが、さりとて抵抗も無い。「第一、交渉の場を台無しにしたのは彼らですから。」
ヴァーミリオンは、ほとんど返事も聞かずにエルの隣を歩き抜けた。
「そうね。…ハレル、私はもう寝るわ。…後片付けをしておきなさい。」
「畏まりました、お嬢様。お休みなさいませ。」
ハレルは一礼し、頭を上げるとエルに向き直った。
「…ありがとうございます、エルンスト様。助かりました。」
「いえ、ハレルさんが無事で何よりですよ。…後片付け、手伝いましょうか?私なら、水でまとめて洗い流せますが。」
「それは助かります。では、絨毯などを退けますので、少し待っていて頂けますか?」
エルは頷き、とりあえずハレルと一緒に中央の階段まで歩く。ハレルは階下に降りて、慣れた手つきで片付けを始めた。中には、結構悲惨な状態のものもあるのだが、エルンストは軍人としてそういうものを見慣れているし、ハレルも特に物怖じしている様子はない。
「…ハレルさん、あなたは…」その様子を見やりながら、エルンストはポツリと呟いた。「…人間、だそうですね。」
ハレルは何の反応も示さず、絨毯を折りたたんでいる。聞こえなかったのかな、と考えていると、
「…エルンスト様、この後お時間はございますか?」
屋敷全体の調度に合わせたような赤と黒のデザインは、質素なハレルの部屋にもしっかり行き届いていた。椅子に座り、テーブルに置かれた魔術灯の明かりを頼りに片付いた部屋を見回していると、ハレルは棚から何かを出して、テーブルの上に置いた。
「…それは、彼女とよくなさるのですか?」
エルはそのチェス盤と駒を指して言った(実際のチェスとは違います)。ハレルはやんわりと頷いて、エルンストの対面に来るように椅子を出し、自身も腰掛けた。エルンストもこの伝統あるゲームは得意だ。良く妹のカリンをボコボコにしては悔しがらせている。
慣れた手際で駒を並べ、先攻を譲ってもらって早速端のソルジャーを動かす。ハレルも応じて、粛々と手は進んでいく。ハレルの攻め手は隙がなく、これまでにチェスで対局した相手の中でも指折りの強敵であると思えた。実際の殺し合いをしたあと、戦争の模倣をする、という状況に皮肉を感じずにはいられなかったが、生理的にそれを受け付けないほどではない。
「ですが、失礼ながらお嬢様は…あまりお得意では無い様子で。」
「すると、やはり、なんというか…わざと負けてあげたり?」
「いえいえ、そうするとお嬢様はいつも怒ってしまって…。」
そう言ってニコニコと笑う。正直、ハレルをヴァンパイアだと思っていたこともあったが、ここに来て初めて、エルンストはハレルが血の通った人間だと感じた。
「一度など、『次は実力で勝ってみせる、絶対に手を抜かないように』と言いながら、10回ほど続けて指した事も…。おっと、アーチャーをそこに?それは変わった手ですね。」
「ローエンハルトでは今流行っている手です…。しかし、ヴァーミリオン様も、可愛いところがおありですね。」似たような経験がエルンストとカリンの間にもある。「そういう時は、悟られないような負け方を探しながら…」
「そうですね、それもずいぶん得意になりました。…まぁ、私がここに来たのは20歳の時ですから、もうお嬢様とは何度勝負したか知れません。」
ハレルは微笑みながら、遠い何かを思う目で、チェス盤を眺める。その間にも、きわどい攻めの応酬は続く。そのさなか、ハレルは訥々と語り始めた。
「…今でも、はっきりと思い出せます。私は今80歳ですから…60年前、ですか。…私は、当時、冒険者でした。」
彼が語ったのは、おおよそこういう話だ。
ハレル・ハルフェアは、どこにでもいる一介の冒険者だった。重石弓の名手であり、忍び歩きと狙撃を得意としていたが、それだって達人の域では無かった。
依頼を受け、気心の知れた仲間と共に討伐に向かった、人を喰らう魔物は、事前情報とは明らかに数が違っていた。これもよくある事だ。
そして、仲間の一人がミスを犯したことにより殺され、パーティーは瓦解した。ハレルも、何匹もの魔物に追われながら、命からがら逃げ延びた。痛ましい記憶だが、珍しいことかと聞かれれば、そうではない。
古城を見つけ、逃げこんでみれば、そこにいたのは、この世の物とも思えないほど、美しい少女だった。そしてこの出会いを含め、ここから先のハレルの人生は、運命の女神に仕組まれたとしか思えないほどの奇遇だらけだった、そういう事だ。
「…恐らく、彼女は…お嬢様は、召使を得て、眷属とするために、私を手元に置いたのでしょう。」
淡々と語りながら、ハレルはアーマーナイトを前進させる。エルンストがその対応に頭を巡らせる間に、さらに言葉が続いた。
「…どうやら、稀にいるそうです。何度血を吸われようと、ヴァンパイアにはならない人間が。…魔力的な、抗体的な…その辺は良く分かりませんが。」
理屈では、分かる話だ。先天的に特定の魔術に対する抵抗力を持つ者はちらほらいる。ウィザードににらみを利かせる形で駒を動かしながら、エルンストは問いかけた。
「…ということは、60年前からずっと…」
「ええ、今の関係が続いております。お嬢様の身の回りのお世話をして、血を吸っていただく。…お嬢様は、他人…当然同族の吸血鬼も…ですが、お嫌いのようで。…同じ『四紅』の方や、その縁の方くらいしかこの屋敷に滞在なさることはありません。」
さらに、ハレルはウォーリアを急襲させる。致命打と成り得る一手だ。エルンストは被害を最小限に留める一手を思案しながら、考える。
ヴァーミリオンの下僕としての生活に、何のメリットがあるか。当然何も無い。ならば、ハレルという男が60年もその生活を続け、疑問一つ持たず彼女に仕えるか、という問いに対する答えは極めて簡単だ。
しかし。エルンストは、ソルジャーを一つ捨てる形で攻撃を受け流しながら、ためらいがちに口を開いた。
「…ですが、彼女はヴァンパイアで。…あなたは…。」
よりにもよって、ヴァンパイアになれない、人間。
ヴァンパイアという種族は、ヴァーミリオンの『血袋』という言葉に代表されるように、プライドが高く、人間を下等なものと見下す。まさか、恋愛の対象になどなるわけがない。ヴァーミリオンほどともなれば、こう言ってもいい。ハムに恋をする人間がいるか、と。
いや、むしろ問題はそこではないのかも知れない。自分の考えを打ち消すと、その間にハレルの手が駒に伸びていた。
「…お嬢様は…あの頃と変わらず…。」穏やかな中に、溢れ出しそうな悲しさを秘めた、形容しがたい表情で、彼は呟く。「…ほんとうに、きれいです。」
グリフィンナイトがエルンストの布陣をたたき割った。ハレルの、皺だらけになった手が、かすかに震えながら戻っていく。
時間の流れが、百倍も違うのだ。かつて吸血鬼の少女に恋をした青年は、報いられぬ想いを抱え、日々老いていく自分と、ずっとずっと美しいままの少女を見比べ続ける。
本当に、強く、ヴァーミリオンという少女に魅せられたのだろう。だからこそ、その苦しみは、想像もつかないほどのものだと感じられる。
「…失礼ながら、人魚の血は試されましたか?…確かに、このローエンハルトではほとんど手に入らない品ですが…。」
「…ヴァンパイアとは、血を飲む種族です。人魚の血を飲んだ人間の血液は、ヴァンパイアの飲めないものへと変質する…クリムゾン翁から、そう告げられました。」
久しぶりに出た名前に、エルンストは心のなかで納得した。あの老人は、きっとこのハレルの事を解決して欲しかったのだろう。
「…興味深いお話が、聞けました。」
やるべきことがわかった。何とかしてみせる。そんな言葉は出なかった。ただ代わりに、パラディンの駒を一つつまみあげて、置いた。ハレルが怪訝な顔をして、盤面を見渡す。そして目を見開いて、苦笑した。
「…参りました。これはどうあがいても…私の負けですな。」
「まぁ、まだ20手は先になるかと思いますが…そう分かるところがさすが、という話ですよ。」
エルンストは微笑んで立ち上がる。
「ところで、もうお部屋のご用意は済んでおります。…この邸では、日が登っている間に眠って、日が沈めば起きだすのがルールでございます。…すでに昼更かしをしすぎてしまったようで、もうずいぶん日が高くございます。」
「…まぁ、分かってはいましたけどね。女性が同衾でなければ、昼に寝る習慣は無いんですよね。」
「…それは、お嬢様を…。」
「八つ裂きか干物かの二択はご勘弁願いたいですね。」
言わなかったが、射殺されるケースもあるかもしれない。
どれだけ走っただろう。泥まみれになりながら、何度も転びながら…ヴァーミリオン邸を襲った聖騎士団の、最後の生き残り…聖歌隊のジョナサンは、気づけば見知らぬ土地で倒れ伏していた。あの化物が追ってこないのは分かっていた。多分、逃げたかったのは、あのヴァンパイアからではなく、神のもとに集った兄弟たちが、みんな死んでしまったあの場所からなのだろう。
ここは、どこだ?虚ろな目で、周りを見回す。人里ではない。緑の生い茂る、密林と呼んで差し支えない場所だ。しかし、何か…というよりは、誰かの気配がする。人が住んでいる。それも、たくさん。
枝葉を踏みしめる音に、首だけで振り向くと、そこには褐色の肌を獣の皮で覆った、美しくも荒々しく、野性的な女性が、ジョナサンを見下ろしていた。
さらに、複数足音がする。似たような出で立ちの女が、ジョナサンを取り囲む。話に聞いたことがある。古来より点在する、異教の女戦士の集落では、いち早く新魔族による侵略が行われ、そのほとんどが魔物となった、と。そして、彼女らを、魔物となる以前からの呼称のまま、アマゾネス、と呼び習わすことを。
彼女らが言葉を交わすのが、耳を通してぼやけた意識に入り込んでくる。「男か?久しぶりだ」「教会の人間じゃないの、あれ」「神の教え、とやらでも広めにきやがったんじゃねぇの?」「あら、それにしては泥々よねぇ」
疲れて、朦朧として、何も考えられずにいると、ひときわ美しく、荒々しいアマゾネスがこちらに歩いてきた。無造作に、ジョナサンが持っていたビンを取り上げた。中身を見て、蓋を開け、匂いを嗅いで、一口飲む。そして、それが真水であると分かると、その女は鼻を鳴らした。
「ああ、大方この男…あのクソ忌々しい吸血鬼をヤリにでもいったんだろう。それでチビリそうになっちまって、ケツ捲って逃げてきたんじゃねぇか?」
聖都で育ったジョナサンが聞いたこともないような汚い言葉。そして、どっ、と嘲笑が沸き起こる。かろうじて状態を理解しだしたジョナサンに、目の前のアマゾネスが話しかけた。
「まー、残念だったな、アンタ。アタシらも、あの森とバカでかい城が手に入りゃな、と思うし、お高く止まりやがったあのクソ女は大っ嫌いだが…『四紅』ヴァーミリオンなんて化物、触らぬ神に何とやら、って奴さ。」
『四紅』ヴァーミリオン。その名前を聞いた途端、ジョナサンの心に、暗い炎が点った。
一緒に聖歌隊に入った、幼なじみ。家で取れたブドウをくれた先輩の聖騎士。悩みを聞いてくれた、小隊長。死んでいった彼らの、思い出を薪にするように、炎は燃え広がる。
気がつくとジョナサンは、そのアマゾネスの肩に、手をかけていた。爪を立てられて、怒りに顔を歪めた彼女は…ジョナサンと目を合わせた瞬間、身の程知らずな男を怒鳴りつけようとしていた事も忘れて、その、復讐に爛々と輝く瞳に見入っていた。
「…あなた達も、あの吸血鬼を、殺したいですか?」
かつて朗々と聖歌を歌ったその声は、疲労と悲しみと、何より憎悪に、ひどく嗄れていた。
「…なんだ、テメェ。何を…」
「殺したい、です、か?」
「…アタシらだって、あのクソ吸血鬼には、何人も仲間を殺られてる。…だがな、出来るわきゃ…」
「…あなた達が、私の言うことを聞いてくれたら…」
ジョナサンは、自分の知っている情報が驚くべき速さで組みあがって行くのを感じていた。可能だ。あの悪魔に、罰を与え、償いをさせることは、出来る。
そのアマゾネスも、また彼女の仲間たちも、完全に気圧されていた。彼女らにこの作戦を言い含めれば、きっと実行に移してくれるだろう。仮に自分がその後打首にされたとしても、ヴァーミリオンを地獄に落とせるならば、思い残すことなど無い。思い残すことなど、奴が全て奪った。
そこからは、言葉にならなかった。笑いが、止まらない。自らの復讐が成り立つであろう可能性を目の前にして、ジョナサンはやはりこう思うのだった。
やはり、神はいたのだ。
リストに落としていた目線を戻し、宮廷魔術師エルンスト・マクスウェルはいつも通りの完璧スマイルを、目の前の、停まった馬車の御者席に座る男性に向けた。
「注文通りですね、ありがとうございます。…それでは、この後の手順は理解しておられますか?」
馬車からその男が飛び降りる。ローエンハルト城下町のとある大通り、日が暮れなずむ中、旅靴が石畳を打つ音が静かな町に響く。飛び降りるやいなや屈伸を一つして、その男は気さくな笑顔で応じてきた。
「あいよ、マクスウェルさん。メデューサの里までこいつを運べばいいんでさぁね?」
蓮っ葉な言葉遣いで答え、無精髭をいじりながら彼は荷台を指差した。何度か王宮から仕事を頼んだことのある馬車屋で、エルとは面識がある。
「ええ、ご苦労様です。…護衛に3小隊を手配しました、明朝には合流できるはずです。」
「こりゃどうも。…ま、今夜はローエンハルトでゆっくりさせてもらいまさぁ、いやぁ疲れたぁ…。」
この間レナード・ドイスに与えたサングラスだが、ふと、メデューサ等の、いわゆる『目を見てはいけない魔物』にも、効果があるのではないかと思い立ち、とあるメデューサの集落と、これを試してみて欲しいという交渉を交わし…いやはや、なかなかいろんな娘がいて楽しめた…そして、産地からこれを運ぶ馬車が、通り道のローエンハルトで休んでいるのだ。
「ぁあ…マクスウェルさん、この近くで…こう、美味い酒が飲める店ってありやせんかねぇ?お暇なら、一杯いかがっすか?」
「…そうですね、ご案内しましょう。…本来なら、女性にご同伴を与りたいところですがね。」
「ハハッ…違ぇねぇや。」
馬車を預ける手配も、そんな会話の合間に済ませ、歩き出す。多くの土地を回る馬車乗りは、多くの土地の情報を持っている。町酒場に向かう道すがら、話を聞いてみた。
「…南の方は、新魔族との和平より前に、だいぶ彼女たちに攻め入られていましたが、最近はどうなんでしょうね。…そちらの方へ行った事は?」
「ああ、こないだチラッと寄りましたわ。魔物のお嬢ちゃんたちも、割とおとなしくしてたんじゃないですかねぇ。やっぱほら、共存できるとなりゃ向こうもそれなりにこっちの顔を立ててくれんでしょ。」
そんな話をしているうちに、日が暮れ、暗くなってくる。決められた時間になると、魔術で管理された灯火がともる。その、太陽の光も無く、灯火もまだつかない、空白の時間が、どうしてもある。
その時間は決して長くないが、路地を通ったりするとかなり暗い。その夜闇にまぎれ、御者の歩く近くで何かがよろめく気配を感じて、エルンストはそちらに眼を凝らした。
「…おや、大丈夫ですか?」
見れば、年老いた男性が、杖を投げ出して倒れていた。カラン、と杖が地面に落ちる音に、御者も何事かと振り返って、慌てて駆け寄ってくる。
「おお…大丈夫じゃよ…」その老人は、弱々しいながらも嗄れた声で応じ、立ち上がろうとするが、上手くいかないようで、「…すまんが、杖を取ってくれんかのぉ?」
「こりゃすいませんね、爺さん。杖を蹴っ飛ばしっちまったみてぇだ、いやホントに悪かった。」
御者が、ペコペコと謝りながら杖を拾う。エルンストは老人に肩を貸し、立ち上がらせた。
「何…大丈夫じゃ、構わんよ。」
かすかな明かりの中で、杖をついて立ち上がった老人の姿を見ると、来ている着物や持っている杖は、明らかに上質なものであった。こういう所を住処にする人ではないと感じ、エルは質問した。
「ご老体、どうしてこんな路地裏を?そろそろ表通りにも明かりがともる頃です、足元が危ないですよ?」
「うむ…気にせんでくれ。儂は…暗いほうが落ち着くのじゃよ。人ごみはどうも好かんでのぉ…。」
しわがれていながらもどこか深みを感じさせる声や、ゆったりとした仕草からは、東洋にいると言われる仙人を思い浮かべさせられた。
「…まぁしかし、ローエンハルトのお城へ行こうと思えば、そうも言っておれんのかのぅ。」
「爺さん、お城に用があるのかい?何ならお詫びに、馬を出すぜ?」
「おお、そりゃ助かるわい。…正直もう、腰がのぉ…。」そこで老人は腰をさすり、溜息をつく。「城、というか…そこにいる、魔術師に用があるんじゃよ。最近、魔物と人間の揉め事を解決しとると言う…エルンストとか言う…」
「おや、それなら丁度良かったです。」エルはそれを聞いて笑みを浮かべる。「私がエルンスト・マクスウェルです。…して、ご老体、どういったご用向きでしょうか?」
老人に向かって一礼すると、体の前に出したエルンストの手を、老人が取った。掴む、というにはあまりにも素っ気のない動きだったので、反応できずになすがままになる。老人は無言で、エルンストの手をじっと見つめている。さすがに戸惑って、
「…あの、何か?」
「おお、すまんの、不躾じゃったのぅ。」老人はエルの手を離し、気さくな笑顔で謝罪した。「いや何、儂ぐらい生きとると、手なり目なりを見れば人となりが何となく分かるものなのじゃよ。」
「それはそれは。…それで、なら私はどういう人間だと思われますか?」
半信半疑ではありながらも、丁寧な態度は崩さないエルンスト。老人は、少し考えこんでから、
「…まぁ、初対面の老いぼれに寸評されるのも気分の良いものでは無かろうて。今は、仕事を頼むに足る人間だと分かれば良い。…それに際し会ってもらう女性に手を出すのは、今回ばかりは止めておいたほうがいいと忠告はするが、の。」
隣で御者が忍び笑いするのが聞こえてくる。やれやれ、私はただ、美しい女性にはその美しさに相応しい対応をしているだけだというのに。
「…話がそれたかの、すまんすまん。…さて、何から話そうか…。」
「ところで、ご老体。もし素性を明かせぬ身分なのであれば、こちらも何も伺いませんが…。」
「む、儂か?…そうか、言っておらんかったのぅ。…しかし、驚くでないぞ?」
老人は居住まいを正し、エルンストをじっと見据えて、告げた。
「儂は…ヴァンパイア、吸血鬼なのじゃよ。」
吸血鬼。その名を聞いて、エルンストは背中の杖に手を伸ばしかける。カテゴリとしては旧魔族に属しながらも地上、人間界に暮らし、新魔族にも屈さず、かといって人間に大々的に敵対するわけでもない。その気ままな立ち位置と、それを許されるだけの圧倒的な戦闘能力を備えたこの種族は、地上、魔界を問わず、恐怖や畏敬、時として崇拝の対象ですらある。
しかし、その代償というべきか、吸血鬼は非常に多くの弱点を抱えた種族でもある。御しきれないわけではない。何より、目の前の老いたヴァンパイアからは、敵意を感じない。ならば、さして怖れ、身構える必要はないと判断したエルンストは、
「…名を、そうじゃな…クリムゾン、と言って分かるかの、エルンスト殿?」
その名を聞いて、初めて国王以外に対して跪いた。顔から血の気が引いているのが自分でわかる。
「…どうしたんでさ、マクスウェルの旦那?」
「そうじゃよ、エルンスト殿。『四紅』の名前に畏怖するのは…まぁ嬉しいが、所詮あれも名前が一人歩きしてるだけじゃて。顔を上げとくれ、話が出来ん」
「…しこう?何だいそりゃ?」
エルンストは許しを得てようやく立ち上がり、首を傾げている御者に説明を始めた。
「…人間界に存在するヴァンパイアの頂点に当たる4人の事で…魔王に匹敵する力を持っているとすら言われています。…そして、クリムゾン翁といえば、その中の最長老に当たるお方です。」
さらに言えば、現在ヴァンパイアが魔族を離れ、人間界に住んでいるのは、この四紅の一人、カーディナルという男の二千年前のある行動が原因になっている。二千年前、地上界全てを滅ぼして神に挑もうとした強大な魔王と、神の加護を受けた、人間、エルフ、その他様々な種族の混成軍たる勇者達との戦争があった。その時に、魔界の英雄であったカーディナルが勇者に寝返ったのである。
「…いや、そりゃ、その話は聞いたことあるぜ?勇者と魔王の戦い、勇者の最大の好敵手が改心して…その、カーディナル…有名な…お伽話、じゃなかったのかよ?」
御者がようやく事の重大さを理解したようで、冷や汗をかき出す。しどろもどろの言葉を聞いて、老人…クリムゾンが、心底愉快そうに大笑する。
「ファッファッファ…やれ、懐かしい事よ!確かに二千年前の、カーディナルの若造ときたら、痛快じゃったわ!」
ヴァンパイアの寿命は、人間の約100倍と言われている。ならばこのクリムゾン翁は少なく見積もっても八千歳を超えているのだろう。老いたりといえど、『四紅』のヴァンパイアがその力を奮おうものならば、ローエンハルトは最悪、地図から消える。必要以上の媚や恐れは見せず、エルンストは毅然としてクリムゾン翁に向き直った。
「…『四紅』…地上最強とすら言われるあなた方が、私ごときに何の御用ですか?…私の専門は、人間と新魔族のあいだの交渉事なのですが…。」
「おお、新魔族の件じゃとも。…というか、女のヴァンパイアはさすがに新魔王の魔力に侵食されてしもうたのでな、正確には新魔族になったヴァンパイアの話じゃ。」
そこで老いたヴァンパイアは、一つ咳払いをした。さて、いかなる難題が飛び出すかと、身構えているエルンストに、こんな依頼が投げかけられた。
「『四紅』の中で一番若い、ヴァンパイアの少女の…そうじゃな、話し相手になっとくれんかの?」
その翌日、エルンストは、一月程前のホルスタウロスの時と同じく、森の中を歩いていた。しかし、その森は、あの時のそれとはあまりにも様相が異なっていた。
まず、あの時の森は一面に緑が生い茂り、空が見えないくらいに木の葉が頭上を覆い、何よりも命が満ちていた。生き物の動く音、鳴き声。
しかし、今歩く森は、枯れ木ばかりが延々と立ち並び、地面は灰色にぬかるみ、それでいて…何かの気配を、一切感じとる事が出来ない。そして、木の葉が無いので視界が開けており…その理由と思しき古城は、かなり遠くからでもはっきりと見えていた。
ヴァンパイアとは、孤高な種族である。人を襲う旧魔族にせよ、新魔族の女たちにせよ、その強大さを恐れて周囲を去る。いわんや人間がヴァンパイアに好んで近づくような事は有り得ない。必然、彼らの暮らす周囲は、獣すらいない荒野となる傾向が強い。
「しかし…いやはや、これほどとは…。」
エルンストは、灰色にぬかるむ大地を踏みしめ、乾いた枯れ木に手をついて、周囲を見渡した。垂れこめた暗雲も手伝い、荒涼、という言葉がこうも似合う土地はまだ見たことがない。
森林を維持するには、大なり小なり動物の営みが欠かせない。死骸や排泄物を微生物が分解する事で草木を育てる養分が生じ、食物連鎖はその環を閉じる。この森は、生きとし生けるものがあの古城から逃げ出した結果なのだろう。もっと言えば、あの古城の主たる『四紅』の吸血鬼から。
足元の土は、辛うじて砂漠の砂よりは肥えていると思えるような有様だ。砂漠とは違い、まだ気まぐれに生き物が迷い込む事はあるのかもしれない。
そんな事を考えながら歩くうちに、古城は目の前に迫っていた。丁度正面に、正門らしき巨大な扉が見えてくる。
正直に言えば、エルンストという人間の本能は、逃げ出すことを強く勧めていた。不吉な気配が、心臓を鷲掴みにして歩みを重くする。だが足を止めない以上、進む理由もそれなりにはある。
一つには、『四紅』と呼ばれるヴァンパイアの頂点、その人格や生活が興味深かった。一般的なヴァンパイアの生活環境は、彼ら自身が時折気まぐれに著す本により一般に知られているが、より強大な力を持った個体だとどうなのか?好奇心旺盛なのはこの年若い宮廷魔術師の長所でもあり、短所でもあった。そして、もう一つ。
「…ヴァンパイアの女性とは、元々美しいモノだと聞いていますから…ね。」
ただでさえ美しいヴァンパイアの女性。そして、女性の魔物は例外なく新魔王の魔力によって、サキュバス的な性質を受けている。いったいいかなる美少女に出会えるのか、楽しみで仕方がない。
…結局、エルンスト・マクスウェルの、ネゴシエイターとしてのモチベーションは、大抵の場合において、美しい謎と美しい女性、その二つに尽きるのであった。
正門に手をかけて押すと、ギギギと、巨大な怪物が歯ぎしりするような音を立てて、門が開く。中には、点在するロウソクに照らされた吹き抜け空間が広がっていた。正面には、赤い絨毯に彩られた階段がある。宮殿ならばどこもこういう作りになっている、と言わんばかりのオーソドックスな構造に、必要以上に赤の意匠を凝らしたデザイン。やはり赤の紗を掛けられた柱の影から、音もなく何者かが、エルンストの目の前に滑りだしてきた。
「これはこれは…エルンスト・マクスウェル様でいらっしゃいますね?」
頭をきっかり45度に下げ、一礼したのは、黒い礼服に身を包んだ年老いた紳士だった。彼も宮廷で見慣れたタイプの人間だ。穏やかで、礼儀正しく、そしてあまり存在感を前に出さない。その老紳士はこちらの答えを待たず、
「クリムゾン翁からお話は伺っております。遠いところから良くお越し下さいました。…私は、この屋敷でお嬢様にお仕えしております、ハレルと申します。お見知りおきを。」
「これはどうも。エルンスト・マクスウェルです。…それで、『四紅』の…」
「はい、今…いらっしゃいました。」
にこやかに笑いながら、ハレルが答える。気づけば、靴音がする。カツ、カツ、と、確固たるリズムで、鋭い音を刻んでいる。乱反射して音の出処が分かりにくかったが、ハレルが頭を下げて迎える方をみやると、正面の大きな階段の上。
「…クリムゾンのお爺様も、全くもの好きだわ。ねぇ、ハレル?これは、血袋一つが送られてきた、というわけではないのでしょう?」
そっけない声。靴音は止まらない。やがて、その姿は階段の一番上に現れ、そこで止まった。
外見年齢は、16歳ほどの乙女だろうか。ゴシック調のドレスは慎ましく可愛らしいはずが、赤と黒の意匠が何か不吉なものを与え、それをかき消すほどの美しさを醸しだす。かすかに覗く手足は人形のように細く、肌は透き通るほどに白い。凄艶、という言葉が似合うのに、どこかあどけなさすら残す顔立ちを、純金よりも煌めくと思えるほどの金髪が彩る。そして、気だるげな真紅の瞳は、まるで物でも見るようにエルンストに向けられている。
「…『四紅』ヴァーミリオン様、ですね?…お初にお目にかかります。私は…」
赤い手袋に覆われた手がゆっくりとこちらに向けられる。言葉を遮りながら、そのあまりにも美しい吸血鬼の少女、ヴァーミリオンは、あまりにも無感情にこちらを見ていた。
「…血袋に名前は必要無いわ。貴方が今生きているのは、お爺様のお達しがあるから。それだけよ。」
脅すような台詞を叩きつけながらも、殺気や敵意の類は一切感じられない。関心がないのだろう。一瞬、そのまま引き下がろうかとも考えた、が。
「…私は、エルンスト・マクスウェルと申します。」
「…そう。」命令を無視され、機嫌を損ねるかとも思ったが、彼女は特に心を動かした様子もなく、「覚えておくわ。…ハレル、夕食の準備は?」
「食堂に、整っております、お嬢様。」
ハレルが答えると、ヴァーミリオンはこちらに背を向けて歩き出した。姿が見えなくなった後で、
「…エルンスト様の分もご用意してありますが、如何なさいますか?」
当然のように出されたハレルのその提案に、エルンストはいささか戸惑いながらも、すぐに笑顔で答えた。
「宜しければ、ご同伴させて下さい。」
「かしこまりました。…お嬢様も、その方が寂しく無いかと存じますれば。」
そう言われたが、エルンストには…あの少女が、寂しさを感じるようなタイプだとも思えなかった。
「…話し相手、ね。…お爺様はいったい何を考えているのかしら。理解に苦しむわ。」
エルンストの向かい、長テーブルの一番奥で、表情を一切変えずにヴァーミリオンは食事を続ける。彼女のすぐ隣には老紳士、ハレルが控えていた。百人は同時に収容できそうな食堂に、今いるのはその三人だけである。
「そうですね…私に話が回ってきた、ということは、何かしら問題でも抱えていらっしゃるのでは、と思っていたのですが…。」
香草のソテー…味は意外と普通程度だった…を飲み込み、エルが答える。ヴァーミリオンはそれを聞いて、
「私は問題など抱えないし…仮にそうなったとして、それは貴方のような血袋が解決出来る物であるはずがないわ。」
そう言ってまた食事に戻る。どうも徹底的に見下されてはいるようだが、会話は通っている。無理にでも名乗っておいたのは、立場を明確にする上では良かったようだ。
気づけばハレルが隣に立っており、空いた皿を片付けて、濁ったスープを出してきた。まるで気配を感じさせない動き。これも吸血鬼の能力なのだろうか?
カチャリ、と音がして、前に向き直ると、ヴァーミリオンはナイフとフォークを置き、こちらを相変わらず無関心な眼で見つめながら、口を開いた。
「…まあいいわ。クリムゾンのお爺様がした事なら…無碍に追い返すのも、失礼かしらね。…好きなだけ滞在するといいわ。部屋はどうせ、いくらでも余っているのだから。」
「…ここの住人は、貴方と…ハレル殿、だけですか?」
「左様に御座います。」
これまたいつの間にかヴァーミリオンのそばに戻っていたハレルに軽く目をやると、彼は一礼して答えた。隣のヴァンパイア少女が、少し顔を歪める。
「…血袋がそんなにたくさん私の城にあっても、面倒なだけよ。」
初めて彼女が見せた、感情らしい感情。しかし、それは一言で片付け、解釈するにはあまりに複雑なものだと感じられた。
と、ヴァーミリオンは、隣に控えるハレルに目配せした。彼は心得た様子で、椅子に座る主に、跪いて頭を垂れた。…いや、遠くて良くは見えないが、頭は、下げたのではなく、横に逸らしたのでは…?
それを見分ける間もなく、どこか優雅な仕草で、ヴァーミリオンは、晒されたその首筋に、噛み付いて牙を突き立てた。
唖然とするエルンストの目の前で、吸血行為が行われる。ゴクリ、ゴクリと、喉を鳴らす音だけが…命を飲み干す音が、いやに大きく響き渡る。生物としての格の違いを見せつけるその光景は、見とれずにはいられないほど背徳的な、捕食であった。
少女は最後に、血を舐めとってから老執事の首から離れた。永遠にも感じられる時間だったが、実際には10秒も経っていない。ハレルの首を貫いた牙の傷跡は既に癒えており、もう血は流れていない。そのままヴァーミリオンは指先で軽く口元を拭った。その仕草が、まるで口紅を塗り広げるようで、そう思うと、彼女の唇がひどく紅いのに気づかないわけにはいかない。血の赤か、元々の色なのか…その唇が、ゆっくりと動く。
「…ずいぶん、羨ましそうな眼で見るのね。」
背筋が凍りつくほど、甘く艶めかしい声。唇に集中していた視線を彼女の顔に散らすと、ほのかに頬が紅潮していて、瞳は嗜虐に潤んでいた。
「…いえ、同族の血の味に興味はありませんよ。」
正気が飛びそうな色香を振りきり、手元のスープに口をつけた。口の中や喉が、いつの間にかひどく乾いていた。その間にも、彼女の視線がこちらに向けられているのを感じる。
「…そう。…だったら、そういう事に、しておいてあげる。」
見透かしたような笑みでそれだけ言うと、その吸血鬼はさっきまでと同じように無表情になり、料理に手を伸ばした。何事もなかったかのように、優雅に鶏肉を口に運んでいる。
これ以上は何も無い、と判断し、エルンストはわざと手元の紅茶を一息に飲み干し、カップをやや目立つ位置に置いた。案の定、ハレルがこちらに歩いてきて、カップに紅茶を注いでくれた。
見ると、傷はすでにふさがっており、またハレル自身の血色もそんなに変わっているようには見えない。何より、彼自身、今の吸血行為を当然のものとして受け入れているのだろう、まるで動じた様子がない。
と、後ろ…というか、玄関の方から何か聞こえてきた。ヴァーミリオンやハレルも気づいたようで、動きを止める。エルは目を閉じ、その音に耳を傾けた。門が開くような音、それとほぼ同時に聞こえだした、何人かの声。ただの声ではなく、歌のように聞こえる。しばらく注意深く聴き、その旋律に、思い当たる。
「…これは…聖歌、ですね。」
何種類かある、教会の主神を讃える歌のうちの一つが、門を破って侵入した(恐らく開錠の魔術…教会の人間に言わせれば奇跡の業、だが)数名によって歌われている。他ならぬ、この吸血鬼の館において。
考えるまでもなく、教会の聖騎士団だろう。彼らは神に仕える軍として、魔物や異教徒を討伐し、また教会の警備なども行っている。
「…念のために言っておきますが、私は無関係ですよ。」タイミングの悪さに舌打ちしたくなりながら、エルンストはヴァーミリオンに告げる。「何なら証拠に、彼らに対して、撤退するように勧告しても…。」
そこで、エルははたと気づいた。ヴァーミリオンはまるで無関心そうに紅茶を飲んでおり…ハレルの姿がない。食堂を見回すが、いつの間にやらその姿はどこかへ消えていた。
「…別に、貴方が手引きをしていたとしても、どうでもいいわ。」紅茶を飲み終え、吸血鬼の少女はゆっくりと立ち上がる。「血袋がどれだけ束になっても、何も出来はしないのだから。」
そのまま彼女は、長いテーブルの長辺に沿うようにして、エルンストの方へ…エルの背後に扉があるので…そちらへ向かって歩き出した。
「…ですが…失礼ながら、吸血鬼は弱点を多く抱える種族でもあるのでは?」
十字架を見れば激しい痛みを感じ、日光に当たれば能力はガタ落ちする。女の、魔物化したヴァンパイアに対してなら真水も効果的なはずだ。
「本当に愚かね、貴方。」しかし、ヴァーミリオンはその進言を鼻で笑った。「だからもう、ハレルが露払いに向かったじゃない。」
老執事の姿が見えなかったのは、既に迎撃に出ていたからのようだ。…いや、しかし。エルンストは違和感を覚えて、隣を今通り過ぎたヴァーミリオンに問いかける。
「…ですが、ハレル氏だって、吸血鬼の弱点は抱えているのだから、話は同じでしょう?」
そこで彼女は振り返り、目を丸くした。そして、本当にかすかに、複雑そうな苦笑を浮かべた。
「…ハレルは、人間よ。私が、何度、血を吸っても…ずっと、ね。」
聖歌が響き渡る。それだけで、この薄汚れて暗い古城にも、いと高き主神の威光と恩寵が行き渡るように感じ、聖歌隊の一員、ジョナサンは、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
悪しき吸血鬼の居城に踏み込んだ聖騎士は、戦闘員だけで10名。士気を高め、簡易的ではあるが神の加護を与える聖歌隊が、ジョナサンを含めて4名。そして…中央にあり、大きな十字架を掲げる者が2名。
ジョナサンの知る限り、吸血鬼狩りにおいては一般的な布陣である。掲げられた十字架は、かつて聖女がお労しくも磔刑に処せられた十字架のレプリカであり、中央教会によって聖なる加護を与えられた一級品だ。普通の十字架では、戦闘行動に出た相手を留めるほどの力は無い。しかし、これを掲げていれば、それだけで吸血鬼は身動き一つ取れなくなる。加えて、まだ実証されてはいないが、噂では有効とされている真水も、一応一ビン持ってきた。
無抵抗になった吸血鬼を、この十字架に磔にすれば任務完了だ。いかに相手が強大だろうと、まるで問題はない。
簡単な仕事だ。しかし、当然である。神に逆らう愚か者に、偉大なる主神に代わって鉄槌を下す。その行いが困難であるように神が取り計らうような事は無い。
(…しかし、油断は禁物、か。)
そう考えた矢先、聖騎士団の小隊長が、全員に聞こえるように、十字架を囲んで陣を組むよう指令を出す。鎧兜に身を固めた聖騎士達がうなずき、十字架を掲げた聖騎士が立ち止まる。
次の瞬間、風切り音がして、直後、十字架が砕け飛んだ。
「…!?な、何事だ!?」
周囲を警戒するが、敵影は見当たらない。十字架の破片はバラバラと地面に落ち…その中に、明らかに異質なものが混ざっていた。ジョナサンはそれを拾いあげる。
「…これは…槍、か?…いや…。」
彼が手に持っているのは、矢だった。しかし…その大きさ、太さたるや、ショートスピアくらいはある。弓につがえて放てるものではない。となれば、弩…それも、かなり大型のものから放たれたのでは無いか?
しかし、どこから?聖騎士団は全方位を警戒している。いくつか立ち並ぶ柱の陰の、どれかか?確証は無いが、矢の向きを考えれば、ある程度候補は絞り込める…。
だが、それを探る時間はもう残されていなかった。
「…それで?もう手の内はお終いなのかしら?だとしたら…『四紅』の名を、知らなかったのかもしれないわね。」
気づけば、正面の階段、その一番上に、吸血鬼が立っていた。こちらを、まるで無関心な眼で見下ろしている。いや…何だ、あれは。その姿を認識した途端、気温が数度下がったように感じた。
足がすくむ。動物的な本能が、生物としての格の違いを訴えている。『四紅』だって?馬鹿な。子どもでもその名前は知っている。だが、ここにそれがいるなんて、聞いていない。
神よ、お救い下さい。ジョナサンはそう呟いたつもりだった。自分の口からは、震える、言葉にならない声が漏れただけだった。
エルンストが駆けつけた時には、既に教会の聖騎士が頼む十字架は、ハレルの狙撃により木っ端微塵に砕け散っており、ヴァーミリオンに見下ろされている聖騎士団は恐慌状態一歩手前だった。
ヴァーミリオンが、特に殺気を放ったりして威圧しているわけではない。むしろその対応は、エルに対するものと特に変わるところがなく、無関心そうに、気だるげに相手を見ているだけだ。
だというのに、訓練されているであろう聖騎士ですら腰が引けていて、非戦闘員などもはや腰を抜かしそうになっている。要するに、ただただ、『四紅』たるヴァンパイアの、溢れ出る力それのみが、彼らを恐怖させているのである。
勝負あった。そう判断し、エルンストはヴァーミリオンに声をかける。
「さて、無駄に殺すことも無いでしょう。このまま見逃してやれば、彼らは素直に退くでしょうし…『四紅』の名が知れた以上、二度と攻めてはこないと思いますが?」
だが、彼女は、まるで奇異な物でも見るような目をエルンストに向けた。
「…何を言っているのか、よく分からないのだけど。」
「いえ、ですから…いかに貴方がヴァンパイアだからといって、無益な殺生をする事は無いでしょう、と…。」
「私も、無駄に殺すのは好きじゃないわ、確かに。…でも…。」ますます不思議そうに首を傾げるヴァーミリオン。「だって、あれは…人間でしょう?」
「だから、人間…です…から…。」
人間ですから、殺してはいけない。言いかけて、エルンストは口を噤んだ。彼女が、吸血鬼・ヴァーミリオンが、敵に対してすら無関心な目を向ける理由が…何となく、分かった気がしたからだ。
彼女は、人間のことを『血袋』と一緒くたにして呼ぶ。つまりは、そういう事だ。彼女にとっての人間は…人間にとって、果物とか野菜とか、その程度のものでしかない、という事なのだ。
苺を噛み潰すのに、良心の呵責を感じる人間はいない。生卵を割るのに、殺気を放つ人間もいない。
根本的に、価値観が違うのだ。全てのヴァンパイアがそうであるかは分からない。しかし、少なくとも、このヴァーミリオンにとって…人間とは、何らかの感情を抱く対象ですら無いのである。
さすがに、交渉の成立する相手ではない。エルンストは諦めて溜息をつく。せめて降伏を勧告しようと、聖騎士たちの方に振り向こうとして。
「…う、わあああああああああっ!」
見れば、叫びながら、一人の聖騎士が突っ込んでくる。剣を振りかぶり、ヴァーミリオンめがけて。もはや洗練された動きはなく、恐怖に駆られての突撃…言ってしまえば、ヤケクソである。恐れることはない。ヴァーミリオンならば腕の一振りで迎撃できるし、エルンストでも素早く詠唱すれば間に合う。
そして、その聖騎士を仕留めたのはハレルだった。先程十字架を狙撃した位置と同じ、吹き抜けの二階の柱の影から、正確無比な弩の一撃が突撃してきた聖騎士の頭を貫く。
(…いや、違う?)
何故、一人なのか。どれだけ相手の戦力を過小評価したところで、二人いるところに一人突っ込ませる方はない。ましてや、相手の目的は…。
「ハレル、危ないッ!」
声は、ヴァーミリオンのものだった。見れば、ハレルの位置…恐らく、さっきの一射で位置を割り出されたのだろう、二階の柱に向けて三名の騎士が飛びかかっていた。ハレルの持っている弩はかなりの大型だ。近接武器を持った相手とやりあうにはあまりにも取り回しが悪い。
吸血鬼の少女が、優雅さをかなぐり捨てた動きで腕を振るう。爪から迸る魔力が紅い光を伴い、斬線が宙を翔ける。それだって一瞬光の線が走ったようにしか見えない速度で、その線状にいた騎士二人が、バターを切るように鎧ごと切断される。残りの一人が運良くその一撃を逃れ、ハレルのいるところのすぐ近くに着地した。
それを見るやいなや、エルンストは念のためあらかじめ仕込んでおいた遅延魔術を発動させる。非常に短い一節の詠唱で、起動のみを命じられた魔術は『フリーズ』。聖騎士の体が瞬く間に凍りつく。そのままぐらつき、吹き抜けの手すりを乗り越えて落下する。床に当たれば、ガラスのコップを落としたように砕け散るだろう。
「て…撤退、撤退ッ!」
恐らく、ハレルを人質にでも取るつもりだったのだろう。目論見が外れたようで、聖騎士団の隊長とおぼしき男が、自分も逃げながら退却の指令を出す。しかし、エルンストの隣で風が舞い上がり、ヴァーミリオンが跳躍し、叫んだ。
「貴様らはッ!」
空中から、先程と同じ、紅い爪が二回、三回と打ち下ろされる。次々に聖騎士達は装備もろとも真っ二つになり、勢い余って地面にも爪痕が残る。彼女が着地するのとほぼ同時に、辛うじて爪の一撃を逃れた聖歌隊の一員が門から逃げ出していった。
ヴァーミリオンは、一瞬追いかけるか迷ったようだったが、すぐにもう一度跳躍し、ハレルの目の前に降り立った。エルもそちらを見ると、彼は無事らしかった。吸血鬼の少女もそれを確認したのか、安心したように息をついている。
「…私は大丈夫でございます。お嬢様こそ、お怪我はございませんか?」
「それこそまさかだわ、私を誰だと思ってるの、ハレル。」
さっきまでの、激情に駆られた姿はどこへやら、ヴァーミリオンは無表情に応じていた。エルもそちらへ歩み寄る。ハレルが今床に置いた弩は、本当に大きい。…あまり詳しくないエルンストでも知っている、年代物の弩だ。威力、精度、射程距離、整備のしやすさ…全てにおいて現行の物に匹敵する名機だが、最近は機動性を重視した結果ほとんど使われていない。
エルンストが近寄ると、ヴァーミリオンは、かすかな笑みを浮かべながら、
「私に偉そうな事を言った割に、ちゃっかり一人仕留めてるじゃない。」
「まぁ私も軍人ですからね、平和主義者では無い、という話です。」必要に駆られて人殺しをしたことは何度だってある。好んではいないが、さりとて抵抗も無い。「第一、交渉の場を台無しにしたのは彼らですから。」
ヴァーミリオンは、ほとんど返事も聞かずにエルの隣を歩き抜けた。
「そうね。…ハレル、私はもう寝るわ。…後片付けをしておきなさい。」
「畏まりました、お嬢様。お休みなさいませ。」
ハレルは一礼し、頭を上げるとエルに向き直った。
「…ありがとうございます、エルンスト様。助かりました。」
「いえ、ハレルさんが無事で何よりですよ。…後片付け、手伝いましょうか?私なら、水でまとめて洗い流せますが。」
「それは助かります。では、絨毯などを退けますので、少し待っていて頂けますか?」
エルは頷き、とりあえずハレルと一緒に中央の階段まで歩く。ハレルは階下に降りて、慣れた手つきで片付けを始めた。中には、結構悲惨な状態のものもあるのだが、エルンストは軍人としてそういうものを見慣れているし、ハレルも特に物怖じしている様子はない。
「…ハレルさん、あなたは…」その様子を見やりながら、エルンストはポツリと呟いた。「…人間、だそうですね。」
ハレルは何の反応も示さず、絨毯を折りたたんでいる。聞こえなかったのかな、と考えていると、
「…エルンスト様、この後お時間はございますか?」
屋敷全体の調度に合わせたような赤と黒のデザインは、質素なハレルの部屋にもしっかり行き届いていた。椅子に座り、テーブルに置かれた魔術灯の明かりを頼りに片付いた部屋を見回していると、ハレルは棚から何かを出して、テーブルの上に置いた。
「…それは、彼女とよくなさるのですか?」
エルはそのチェス盤と駒を指して言った(実際のチェスとは違います)。ハレルはやんわりと頷いて、エルンストの対面に来るように椅子を出し、自身も腰掛けた。エルンストもこの伝統あるゲームは得意だ。良く妹のカリンをボコボコにしては悔しがらせている。
慣れた手際で駒を並べ、先攻を譲ってもらって早速端のソルジャーを動かす。ハレルも応じて、粛々と手は進んでいく。ハレルの攻め手は隙がなく、これまでにチェスで対局した相手の中でも指折りの強敵であると思えた。実際の殺し合いをしたあと、戦争の模倣をする、という状況に皮肉を感じずにはいられなかったが、生理的にそれを受け付けないほどではない。
「ですが、失礼ながらお嬢様は…あまりお得意では無い様子で。」
「すると、やはり、なんというか…わざと負けてあげたり?」
「いえいえ、そうするとお嬢様はいつも怒ってしまって…。」
そう言ってニコニコと笑う。正直、ハレルをヴァンパイアだと思っていたこともあったが、ここに来て初めて、エルンストはハレルが血の通った人間だと感じた。
「一度など、『次は実力で勝ってみせる、絶対に手を抜かないように』と言いながら、10回ほど続けて指した事も…。おっと、アーチャーをそこに?それは変わった手ですね。」
「ローエンハルトでは今流行っている手です…。しかし、ヴァーミリオン様も、可愛いところがおありですね。」似たような経験がエルンストとカリンの間にもある。「そういう時は、悟られないような負け方を探しながら…」
「そうですね、それもずいぶん得意になりました。…まぁ、私がここに来たのは20歳の時ですから、もうお嬢様とは何度勝負したか知れません。」
ハレルは微笑みながら、遠い何かを思う目で、チェス盤を眺める。その間にも、きわどい攻めの応酬は続く。そのさなか、ハレルは訥々と語り始めた。
「…今でも、はっきりと思い出せます。私は今80歳ですから…60年前、ですか。…私は、当時、冒険者でした。」
彼が語ったのは、おおよそこういう話だ。
ハレル・ハルフェアは、どこにでもいる一介の冒険者だった。重石弓の名手であり、忍び歩きと狙撃を得意としていたが、それだって達人の域では無かった。
依頼を受け、気心の知れた仲間と共に討伐に向かった、人を喰らう魔物は、事前情報とは明らかに数が違っていた。これもよくある事だ。
そして、仲間の一人がミスを犯したことにより殺され、パーティーは瓦解した。ハレルも、何匹もの魔物に追われながら、命からがら逃げ延びた。痛ましい記憶だが、珍しいことかと聞かれれば、そうではない。
古城を見つけ、逃げこんでみれば、そこにいたのは、この世の物とも思えないほど、美しい少女だった。そしてこの出会いを含め、ここから先のハレルの人生は、運命の女神に仕組まれたとしか思えないほどの奇遇だらけだった、そういう事だ。
「…恐らく、彼女は…お嬢様は、召使を得て、眷属とするために、私を手元に置いたのでしょう。」
淡々と語りながら、ハレルはアーマーナイトを前進させる。エルンストがその対応に頭を巡らせる間に、さらに言葉が続いた。
「…どうやら、稀にいるそうです。何度血を吸われようと、ヴァンパイアにはならない人間が。…魔力的な、抗体的な…その辺は良く分かりませんが。」
理屈では、分かる話だ。先天的に特定の魔術に対する抵抗力を持つ者はちらほらいる。ウィザードににらみを利かせる形で駒を動かしながら、エルンストは問いかけた。
「…ということは、60年前からずっと…」
「ええ、今の関係が続いております。お嬢様の身の回りのお世話をして、血を吸っていただく。…お嬢様は、他人…当然同族の吸血鬼も…ですが、お嫌いのようで。…同じ『四紅』の方や、その縁の方くらいしかこの屋敷に滞在なさることはありません。」
さらに、ハレルはウォーリアを急襲させる。致命打と成り得る一手だ。エルンストは被害を最小限に留める一手を思案しながら、考える。
ヴァーミリオンの下僕としての生活に、何のメリットがあるか。当然何も無い。ならば、ハレルという男が60年もその生活を続け、疑問一つ持たず彼女に仕えるか、という問いに対する答えは極めて簡単だ。
しかし。エルンストは、ソルジャーを一つ捨てる形で攻撃を受け流しながら、ためらいがちに口を開いた。
「…ですが、彼女はヴァンパイアで。…あなたは…。」
よりにもよって、ヴァンパイアになれない、人間。
ヴァンパイアという種族は、ヴァーミリオンの『血袋』という言葉に代表されるように、プライドが高く、人間を下等なものと見下す。まさか、恋愛の対象になどなるわけがない。ヴァーミリオンほどともなれば、こう言ってもいい。ハムに恋をする人間がいるか、と。
いや、むしろ問題はそこではないのかも知れない。自分の考えを打ち消すと、その間にハレルの手が駒に伸びていた。
「…お嬢様は…あの頃と変わらず…。」穏やかな中に、溢れ出しそうな悲しさを秘めた、形容しがたい表情で、彼は呟く。「…ほんとうに、きれいです。」
グリフィンナイトがエルンストの布陣をたたき割った。ハレルの、皺だらけになった手が、かすかに震えながら戻っていく。
時間の流れが、百倍も違うのだ。かつて吸血鬼の少女に恋をした青年は、報いられぬ想いを抱え、日々老いていく自分と、ずっとずっと美しいままの少女を見比べ続ける。
本当に、強く、ヴァーミリオンという少女に魅せられたのだろう。だからこそ、その苦しみは、想像もつかないほどのものだと感じられる。
「…失礼ながら、人魚の血は試されましたか?…確かに、このローエンハルトではほとんど手に入らない品ですが…。」
「…ヴァンパイアとは、血を飲む種族です。人魚の血を飲んだ人間の血液は、ヴァンパイアの飲めないものへと変質する…クリムゾン翁から、そう告げられました。」
久しぶりに出た名前に、エルンストは心のなかで納得した。あの老人は、きっとこのハレルの事を解決して欲しかったのだろう。
「…興味深いお話が、聞けました。」
やるべきことがわかった。何とかしてみせる。そんな言葉は出なかった。ただ代わりに、パラディンの駒を一つつまみあげて、置いた。ハレルが怪訝な顔をして、盤面を見渡す。そして目を見開いて、苦笑した。
「…参りました。これはどうあがいても…私の負けですな。」
「まぁ、まだ20手は先になるかと思いますが…そう分かるところがさすが、という話ですよ。」
エルンストは微笑んで立ち上がる。
「ところで、もうお部屋のご用意は済んでおります。…この邸では、日が登っている間に眠って、日が沈めば起きだすのがルールでございます。…すでに昼更かしをしすぎてしまったようで、もうずいぶん日が高くございます。」
「…まぁ、分かってはいましたけどね。女性が同衾でなければ、昼に寝る習慣は無いんですよね。」
「…それは、お嬢様を…。」
「八つ裂きか干物かの二択はご勘弁願いたいですね。」
言わなかったが、射殺されるケースもあるかもしれない。
どれだけ走っただろう。泥まみれになりながら、何度も転びながら…ヴァーミリオン邸を襲った聖騎士団の、最後の生き残り…聖歌隊のジョナサンは、気づけば見知らぬ土地で倒れ伏していた。あの化物が追ってこないのは分かっていた。多分、逃げたかったのは、あのヴァンパイアからではなく、神のもとに集った兄弟たちが、みんな死んでしまったあの場所からなのだろう。
ここは、どこだ?虚ろな目で、周りを見回す。人里ではない。緑の生い茂る、密林と呼んで差し支えない場所だ。しかし、何か…というよりは、誰かの気配がする。人が住んでいる。それも、たくさん。
枝葉を踏みしめる音に、首だけで振り向くと、そこには褐色の肌を獣の皮で覆った、美しくも荒々しく、野性的な女性が、ジョナサンを見下ろしていた。
さらに、複数足音がする。似たような出で立ちの女が、ジョナサンを取り囲む。話に聞いたことがある。古来より点在する、異教の女戦士の集落では、いち早く新魔族による侵略が行われ、そのほとんどが魔物となった、と。そして、彼女らを、魔物となる以前からの呼称のまま、アマゾネス、と呼び習わすことを。
彼女らが言葉を交わすのが、耳を通してぼやけた意識に入り込んでくる。「男か?久しぶりだ」「教会の人間じゃないの、あれ」「神の教え、とやらでも広めにきやがったんじゃねぇの?」「あら、それにしては泥々よねぇ」
疲れて、朦朧として、何も考えられずにいると、ひときわ美しく、荒々しいアマゾネスがこちらに歩いてきた。無造作に、ジョナサンが持っていたビンを取り上げた。中身を見て、蓋を開け、匂いを嗅いで、一口飲む。そして、それが真水であると分かると、その女は鼻を鳴らした。
「ああ、大方この男…あのクソ忌々しい吸血鬼をヤリにでもいったんだろう。それでチビリそうになっちまって、ケツ捲って逃げてきたんじゃねぇか?」
聖都で育ったジョナサンが聞いたこともないような汚い言葉。そして、どっ、と嘲笑が沸き起こる。かろうじて状態を理解しだしたジョナサンに、目の前のアマゾネスが話しかけた。
「まー、残念だったな、アンタ。アタシらも、あの森とバカでかい城が手に入りゃな、と思うし、お高く止まりやがったあのクソ女は大っ嫌いだが…『四紅』ヴァーミリオンなんて化物、触らぬ神に何とやら、って奴さ。」
『四紅』ヴァーミリオン。その名前を聞いた途端、ジョナサンの心に、暗い炎が点った。
一緒に聖歌隊に入った、幼なじみ。家で取れたブドウをくれた先輩の聖騎士。悩みを聞いてくれた、小隊長。死んでいった彼らの、思い出を薪にするように、炎は燃え広がる。
気がつくとジョナサンは、そのアマゾネスの肩に、手をかけていた。爪を立てられて、怒りに顔を歪めた彼女は…ジョナサンと目を合わせた瞬間、身の程知らずな男を怒鳴りつけようとしていた事も忘れて、その、復讐に爛々と輝く瞳に見入っていた。
「…あなた達も、あの吸血鬼を、殺したいですか?」
かつて朗々と聖歌を歌ったその声は、疲労と悲しみと、何より憎悪に、ひどく嗄れていた。
「…なんだ、テメェ。何を…」
「殺したい、です、か?」
「…アタシらだって、あのクソ吸血鬼には、何人も仲間を殺られてる。…だがな、出来るわきゃ…」
「…あなた達が、私の言うことを聞いてくれたら…」
ジョナサンは、自分の知っている情報が驚くべき速さで組みあがって行くのを感じていた。可能だ。あの悪魔に、罰を与え、償いをさせることは、出来る。
そのアマゾネスも、また彼女の仲間たちも、完全に気圧されていた。彼女らにこの作戦を言い含めれば、きっと実行に移してくれるだろう。仮に自分がその後打首にされたとしても、ヴァーミリオンを地獄に落とせるならば、思い残すことなど無い。思い残すことなど、奴が全て奪った。
そこからは、言葉にならなかった。笑いが、止まらない。自らの復讐が成り立つであろう可能性を目の前にして、ジョナサンはやはりこう思うのだった。
やはり、神はいたのだ。
10/09/13 15:46更新 / T=フランロンガ
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